猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ゲーム「サイコブレイク」感想

 サイコブレイクのPS4版やってる。ムービーとプレイのシームレスな融合を狙ってるのはわかるんだけど、ラスト・オブ・アスがより高いレベルで達成してしまっているので、つい最近リマスター版をプレイしたばかりの目で見ると、演出的にもモーション的にもグラフィック的にもかなり厳しい。インセプションを彷彿とさせる冒頭の都市崩壊とか、パイを彷彿とさせる白黒の精神病院での演出とか、ストーリーとシステム双方で全体的に既視感が強すぎる。

 いったん悪い印象を抱いてしまうと、映画的演出の一貫だろう画面上下の黒帯とか、主人公の背中を追い続けるカメラとか、ただただ視認性を悪くさせているだけで何の効果にもつながっていないように見えてくる。カメラが背後の位置から動かせないのは足回りの動きが地形の起伏とリンクしてないせいだろうなとか、ワイヤーとかトラバサミのトラップって世界観的にいったいだれが設置してんのとか、下手くそな性的愛撫に抱くような、うまく騙してくれないことへのイライラばかりが募っていく。

 ゴアモードも制作側が望んだ演出意図の再現とかではなく、どうせ強く吸えば気持ちいいんでしょみたいな、場末の娼婦的投げやりさをしか今のところ感じない。

 今後、この感想がくつがえされることを祈りたい。

雑文「本邦のSF界隈、あるいは日本語ラップについて」

 本邦のSF界隈がその構成員の高慢と偏狭によって版図を失い続けてきたという指摘を、またぞろ自らの手で立証していると聞きおよんだ。

 以前いろいろしゃべったので同じ言葉は重ねるまいが、SFの本質って異文化コミュニケーションだと思うんだよね。知性の質そのものが異なっているだれかといかに意思疎通し、可能ならば共存の道を見つけようという試みがSFだって信じてるわけ。他者と意志を通わせることの困難さって、もっともミニマムな範囲でいうと幼少期に肉親とどうコミュニケートしていたか、その質がどんなものだったかが個人にとって大きいと思う。だから、どんな場でもだれとでも軽々とコミュニケーションしてのける人たちっているけど、うらやましいと思うと同時に、彼らはSFには到着しないだろうなって考えるわけ。個人としてコミュニケーションの不具を抱えているだれかにとって、SFっていう手段はすごい有効なセラピーっていうか、解決策っていうか、魂の癒やしだと信じ続けてきたわけ。

 今回の騒動だけど、わずかの想像力があれば改善可能だったシステムの不備を泣き言で看過し、かつ自分たちとは異なる文化土壌から来た存在をまずもって拒絶していて、どっちもすごいSFの本質とかけ離れたやり方じゃない? 思ったのは、ああ、やっぱりなー、日本のSF界隈から出たSFって本当の意味でのSFじゃないんだなー、ってこと。結局ジャパニーズラップと同じで、舶来の方法論を歪に模倣しながら、最後にはよそ者をだれも受けいれない土着のムラを形成するに至ったんだよね。ジャパニーズラップも、ジャパニーズサイファイも、国や人種を越えた偉大な虚構分野としてのジャンルに、何ひとつ影響を与えていない、何ひとつ還元していない時点で、もっと深刻なアイデンティティ・クライシスに陥ってしかるべきじゃないの? 結局のところムラを形成して、そこだけで有効な権威のボールをパス回しして、一定の満足を得ちゃったんだよね? ヒューゴー賞とネビュラ賞に国籍条項ってあったっけ?

 本邦の文化が持つ美徳と正反対の部分を極限にまで濃縮したものが、ジャパニーズ・サイファイ・ビレッジだという事実を再確認できたことだけは、良かったです。小鳥猊下でした。

雑文「先代の巫女について」

 ”The place you were speaking to the world is heading towards new world order, I want to know what is wrong the old world order?”

 平和に関する国際的な賞を受けたあの少女について、少し思うところを話したい。同賞は大上段に主観的かつ蒙昧なまでに高踏的で、いつも強い臭みを感じてきた。少女はこの受賞を契機として、融和可能・共存可能なムスリムの代表として、また、キリスト教世界の対イスラミック・ステイトの象徴として、政治的に利用され続けることになるだろう。そして以後の彼女は、彼女という個人を越え、一部のムスリムからは打倒すべき西洋文明の生ける偶像として、常に生命をねらわれつづける立場に置かれるだろう。この受賞は彼女の人生を、もしかするととても短いものにしてしまう可能性さえあるということだ。他の部門の授与が過去の実績に立脚しているのに対して平和に関する賞は近年、あまりに現在の世界情勢とリンクしすぎている。彼女が成長して大人になった後に賞を与えることも、選択肢として十分にあったはずだ。しかし、ノーベル委員会はイスラム国の台頭という現実に押され、彼女がまだ子どもであるという事実に目をつぶった。国際社会へ明確なメッセージを「今」発したいという誘惑に、膝を屈したのである。”I also had dreams like a normal child has.”、私には夢が「あった」。彼女はもう、ふつうの子どものように自身の将来を思い描くことはできない。この受賞は子どもを戦士とし、子どもから将来を奪うというイスラム国の方法と、奇しくも相似形を為してしまっている。委員は誰ひとりとして、大人の世界の戦争へ子どもを加担させることの醜悪さに、気がつかなかったのだろうか。

 ”…if you were shot but Americans in a drone attack, would world have ever heard updates on your medical status?”

映画「フォレスト・ガンプ」感想

 20年ぶりにフォレスト・ガンプを見た。公開当時は雰囲気で感動していたけれど、改めて見ると軽度の知的障害を持った主人公が、身持ちの悪い女性の人生を尻ぬぐいさせられる話だったことがわかり愕然とする。

 これは身持ちの悪い主人公が軽度の知的障害を持った(としか思えない描写の)女性に人生の尻ぬぐいをしてもらう泣きゲーと同じ構図であり、エロゲー業界で一時代を築いたあの物語類型は、もしかしてフォレスト・ガンプの影響下にあったんじゃないかと思い至り愕然とする。

雑文「文学とラノベについて」

 質問:文学とラノベの定義って、どうお考えですか?

 回答:確か以前も同じような話をした思うが、いちど語られれば再び語りなおす必要の無い非更新性が文学であり、同じテーマや筋立てを異なる書き手が時代に応じて幾度も語りなおさねばならないという切迫性がラノベである。

 しかし、この質問はそもそも前提がおかしい。つぶ餡とこし餡の優劣ならば激論も交わせようが、餡子と生クリームの比較を問われても、好みを答えるしかできないのと同じだ。ラノベは歴とした日本の文化だが、本邦には私小説こそ腐るほどあれ、文学が存在したことは一度もない。文学とは、いつでも止められる精神病めいた繰り言を指すのではなく、どうしても逃げられない世界の不条理と四つ相撲を組む肉体そのもののことだ。つまり、ソルジェニーツィンは文学だが、太宰治は文学ではない。この意味では、ラノベの方が真の文学により近いと言える。

 個人的なことを言わせてもらえば、小鳥猊下を許容できなかったという時点で、どちらも不十分なジャンルであり、さしたる興味はない。ちなみに「非更新性」というのは俺様の造語だ。あらかじめ権利は放棄してあるので、好きに使ってよい。

ゲーム「艦これ2019秋イベント」感想

 艦これのイベントは、仕事にそっくりだ。

 前のイベントのダメージから完全には回復しないまま次のイベントが始まってしまうところなんか、仕事にそっくりだ。

 一隻の大破で連合艦隊を撤退させるとき、チーム力は最も弱い者のレベルになるというマネジメントを思い出させるところなんか、仕事にそっくりだ。

 敵の旗艦をあと一撃にまで追い詰めながら撃沈を逃したとき、部下のミスで大きな契約を逃したことを思い出させるところなんか、仕事にそっくりだ。

 イベントの終了時期と残り資源から逆算して難易度を下げるとき、納期と天秤で質へ目をつぶる決裁を思い出させるところなんか、仕事にそっくりだ。

 イベント海域をクリアしたときの「もうプレイしなくていい」という解放感は、オフィスで迎える納品後の朝の虚脱感を思わせて、仕事にそっくりだ。

 そして毎回、「もう辞めよう、もうこれで終わりにしよう」と思うのに辞められないところなんか、仕事にそっくりだ。

 艦これのイベントは、仕事にそっくりだ。

 (何らかの激情に駆られて握ったこぶしを激しく交互にキーボードへ叩きつけながら)ウオアアアアーーッッ!! 小鳥猊下a.k.a.キーボードクラッシャーであるッ!

 社畜には、イベント開始と同時に攻略へ取りかかることは、ほとんど不可能である。時間も資源も圧倒的に足りず、試行錯誤の余地はあらかじめ奪われている。なので、先行者のクリア編成と装備を丸々コピーすることからイベントが始まる。慢性の鬱病で、音と光がとてもつらい。特にキンキンした若い女性の声が耳にさわる。モニターの明るさをできるだけ低減し、音声設定からBGMとVoiceをあらかじめ殺しておく。SEを切らないのは、戦闘終了とギミック解除の音を聞き逃さないためだ。なぜなら量子力学の観測問題ーー注視しながらプレイすると必ず道中大破し、ボスにはカットインせず撃破を逃す現象ーーを回避するため、攻略中は画面を他のウィンドウで覆って見えないようにするからだ。つまり私にとって、クリアまでの行程はセガサターンのリアルサウンドとほとんど変わらないのである。リアルイベントにもいっさい興味はないし、なぜプレイを続けているのか自分でもわからない。たぶん、アルコールと同じ類の耽溺なのではないかと思う。

 たったいま、甲甲乙乙乙乙でクリアしたお……もう年内はプレイしなくてすむお……ほんとうに、ほんとうにうれしいお……不幸のない状態を幸福と呼ぶんだお……(バスタオルに顔を埋める)

ゲーム「シェンムー3」感想

 発売されたことに1ヶ月近くも気づいていなかった。なんとなれば、私のアクセスするエス・エヌ・エスでは誰からの言及も無かったからである。「もーっ、みんななんで教えてくれないのよー! あたしが鈴木裕、大好きなの知ってんじゃんよー!」などと一人でモニターに向かってオドケながらダウンロードし、三時間ほどプレイして真顔になった。

 グラフィックがアレなのは、キックスターター発のインディーズゲームと考えれば、ご愛敬の範囲。アジアとクンフーのオープンワールドという点も、いまだ新鮮に映ります。何が問題かと言えば、プレイフィールがほぼそのまんま初代シェンムーなこと。

 モッサリとしたレスポンスに、スキップできない上に不気味なぐらい無感情で棒読みの会話、くるぶしほどの段差さえ越えられない移動制限だらけのフィールド。初見殺しのシビアすぎるQTEに、少し走っただけでfalloutのサバイバルモードなみに減りまくる腹イコール体力、さらにオマケどころではないプレイ必須で攻略性の薄いミニゲーム群。シラミつぶしの会話によるフラグ立てに、セーブの仕方さえ教えようとしない不親切なチュートリアル、かてて加えてブツ切りに入りまくるローディング。土間から座敷に上がるとき、靴を脱ぐムービーを見せるために二回ロードが入ったのには乾いた笑いが出た。

 この二十年、オープンワールドタイプのゲームがコツコツと積み上げてきたノウハウとかテクニックをガン無視して、二十年前の不便・不満・不都合をそのままに引き継いだのが本作なのだ。何年か前にファミコンのゲームが三十年ぶりに発売されるみたいなニュースを見たが、鈴木御大はそれと同じ制作姿勢で当たられたのだろうと思う。感性の摩耗とか、進取の喪失とか、そういった安易な批判をしてはいけません。正当進化ではない、かといって退化でもない、初代そのままのゲームをこの令和の御代に作ることを決め、実際そうされたのだ。初代ファンには恍惚の体験をもたらす仕上がりなのかもしれないが、一見さんにお勧めできる要素は絶無である。残念ながら、本当に、何ひとつ、ない。

 そして何より気になったのは、全8部作とブチ上げた初代・第二作から、二十年ぶりのシリーズ第三弾であるにも関わらず、ストーリーが1ミリも進まない点である。いよいよシェンムーシリーズも本作をもって、作者の死が物語の終わりとイコールになる例の作品群に繰り込まれたようだ。

 何度も引き合いに出して申し訳ないが、オールドクリエイターの諸氏はランス10の潔さを見習って欲しい。

忘備録「じんりん」(2010.12)

 おもろないときは、わざわざおもろないといわんでええ。だまっときなはれ。いうたびにてきをつくるし、なによりあんたのくちびるがへる。

 ただな、おもろかったら、そのおもろかったひゃくばいほどほめてやりなはれ。それはひとをそだてるし、いざゆうときみかたもできる。それがじんりん、ゆうもんでっせ。てれびはどぎついことばっかやりよるから、なんやみんな、いけずのわるばっかりかとおもうけど、よのなかしょうみのとこ、100のうち93くらいはじんりんなんやで。

 あんたのすきなかるぴす、ありますやろ。もとのえきがいけずのわるで、みずがじんりんや。あじほどに、もとのえきはおおないんや。よのなか、かるぴすとおなじやで。よーお、おぼえときや。つまりな、あんたのまわりがしんとしづかなんは、じんりんをはずさん“じぇんとるめん”ばっかりがあんたをみとるゆうことや。あんたのこりくつほどにむずかしいことはあらしまへんで、たんにあんたのげいがおもろないゆうことや。

 ありゃあ、なんでやろ、きゅうにいんでまいたくなったわ。ああ、くるし、ああくるし。くう。

 おわり(制作・著作 NWO)

映画「シンエヴァ冒頭10分公開前夜」

 ヘイ、ユー! 話題のエヴァ・アプリはもうインストールしたかい? 最初にヴィレ(笑)かネルフ(キリッ)かの所属を選ばされ、いったん決めると二度と変更することができない、ゴキゲンのクール仕様なんだ! イングレスじゃあるまいし、情報アプリでなぜ陣営を選ぶのか!

 (ガッツポーズで上を向いて)これは、回答結果によって続編の展開が決まるのに違いない! やった、ポッと出のヴィレに数で負けるわけもなく、ネルフの圧勝で破の続きが決定だ!

 (突然うなだれて下を向いて)よく見ると、ヴィレのロゴがネルフより少し上に配置してあるな……おまけにネルフのロゴはQで使われた文字化けアイコンになってる……これはQの続きであることがもはや確定的に明らか……

 (ガッツポーズで上を向いて)いやいや、あのエヴァのこと! 他のアニメと差別化するための物量作戦でどちらの続編も作ってあり、劇場数を倍増して2つの結末を同時公開くらいはやるに違いない! 旧ファンよし、新ファンよし、作り手よし、まさに三方一両得、ウィン・ウィン・ウィンじゃないか!

 (突然うなだれて下を向いて)でも、カントクは悩んだけどヴィレを選んだって書いてある……これはやはり、Qの続編だというメッセージに違いない……

 (ガッツポーズで上を向いて)いや待て、作曲家のツイート画像には2冊の脚本が写っている! これは間違いなく2種類の続編が作られていることを裏づける証拠じゃないか!

 (突然うなだれて下を向いて)でも、参加声優のツイートにはBパートまでしかアフレコが終わってないってあるな……公開までの期間を考えれば、やはり作られているのは1つだけ……Qの続編である可能性が濃厚……

 (ベロを長く突き出した入道雲パーマ、異様に長細い両腕をぐるぐる回転させながら)キモッ!! キーモキモキモキモキモキモキモ、キモォッ!!

ゲーム「グリムドーン&FGOクエスト」感想

 令呪(れいわ)! 小鳥猊下であるッ!

 最近ではもっぱら、グリムドーンをプレイしている。ディアブロ2の良い部分をディアブロ3のシステムで再構築した感じで、プレイフィールがたいへんによろしい。正直なところ、ラダーとかシーズンとか、充分なプレイ時間が確保できない社畜にとって、先頭集団に追いつかねばと気ばかり急かされる辛い要素でしかない。それがないだけで、たいへんに心やすまる。世間的には周回遅れであろうと、自分のペースでポツポツ進めることができるのは、ありがたい。

 「気ばかり急かされる」つながりで言及しておくと、今回のエフジーオーのイベントと恒例のエイプリルフール限定アプリを順に体験し、私はなんともそら恐ろしい気分にさせられた。プログラマの技術力よりファンガスの思い描く設計が優越する暗転まみれの大奥に、数ヶ月にわたる制作の労を24時間でご破算にするFGOクエスト。そもそもエフジーオーにもっともカネを落とす年齢層が、年度初めの平日にドラクエ1と同規模のゲームをコンプリートできるはずがない。ファンガスはそれをわかっている。わかっていて、かくあるべしという己の想いを優先しているのだ。クリエイターとしてのこの傲慢さは例えるなら、庵野秀明が描いた緻密な軍艦の絵を、夜間だからの理由ですべて黒塗りに演出した高畑勲の領域にさえ到達している。

 予言しよう。現在進行中の第2部が終われば、どれほどの収益があろうとも、どれほど皆が哀願しようとも、エフジーオーが二度と起動できなくなる未来を。そう、まさにエイプリルフール限定のアプリのように。

 私は、ファンガスのそんな傲慢さを愛する。逆にそうならなければ、彼を軽蔑するだろう。だからこそ、いずれは無に帰すこの沼へ、カネを注ぎ続けるのである。

 え、今回はどのくらい注いだんですか、だって? 一千万プレイヤーかつクリスチャンの俺様にとっては、十分の一税にも満たぬビー・ケー・シーに過ぎぬわ!