猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ゲーム「FGO第1.5部第3章」感想

 やったッ! ようやく来た、ホンモノ来たッ! 市井の小鳥猊下であるッ!

 エフ・ジー・オーの素晴らしさは、マネタイズできなかったがゆえに緩やかな枯死を受け入れざるを得なかったテキストサイト群に対して、ある種のアンサーたりえているところだと信じておる! ツッタイーに駄文と春画を垂れ流す有象無象の裏に同じ数だけ潜む、気難しい沈黙のテキスト目利きを唸らせ、正しい意味でのパトロンとしてカネを払わせたのだ! 無名の鑑賞者が持つテキストへの審美眼を信じており、それに対して真摯だったからこそ、昨年末から本年の当初にかけて、エフ・ジー・オーはソーシャル・ゲームのスターダムを駆け上ることができたのだ!

 しかし、この十ヶ月というもの、アガルタに代表されるスタンディング・クラップを監修無しに提供し続けるなど、一度はエフ・ジー・オーを信じた目利きたちを侮辱し、愚弄し続けてきた! アーリー・アダプターは同時にアーリー・リーバーでもある! 最もコアな層が最初に見限り、彼らが醸成していた熱気に寄せられていただけの、本質の見えぬスカム・バグどもが、いつの間にか消えていた熱にようよう気がついて最後に離れる、その過程がソー・コールド、ブームの正体なのだ! 正直なところ、復刻、復刻、クソアガルタ、クソ水着二部、そして復刻の流れ(言い忘れたが、原作を知らないセラフは素晴らしかった)の中で、日々エイ・ピーを惰性的に消費することへ嫌気がさし、もう二部を待たなくてもいいかなと思いはじめていたところだった!

 やったッ! ようやく来た、ホンモノ来たッ! オイ、剣豪七番勝負すげーおもしれーよ! 物語的に役割を終え、二次創作的にも消費され尽くした盾女が出てこないのもすげー好感度高い! 何よりかつてのギャルゲー、テキストゲーを丹念に読む手触りを想起させるのが素晴らしい! まだ最後までクリアしていないので、俺様の実存と御言葉を求めてやまぬ貴様らを置き去りにしてプレイに戻るが、最後に予言しておく!

 次作、カイロ・レンは母を殺せないことでライト・サイドへ立ち返り、レイはその強大なフォースゆえにダース・ベイダーと化すであろう! 万人を鏖殺(FGOの影響だ!)し、何人の反撃も受けつけぬ暴力を得たとして、貴様はそれを行使しないほど強い倫理や信仰を持つことができるのか? エピソード1~6がアナキンの物語であったように、レイは新しいサーガの主人公となるために、出自の知れぬままダークサイドへ堕ちるしかない。

 市井の小鳥猊下であった。センキュー、センキュー!

ゲーム「FGO第1.5部第2章」感想

 6章、7章、終章、新宿と来て、この内容で大丈夫と判断したクオリティ・コントロールの甘さにびっくり。たぶん2章、4章を書いたのと同じ人だと思うんですけど、すいません、もはやドラゴンボールのチャオズ的存在に成り果ててますので、この辺で置いていくべきではないでしょうか。

 血の通わない、実感に乏しい語彙を並べるだけの、腐臭放つ壊死したテキスト群。ハンターハンターの最新刊を読んだ直後なので、余計に鼻についたのかもしれませんけれど。もし関係者の目に届くならば、どうかお伝え下さい。この内容を許容することは、FGOの終わりの始まりであると。

 終章で姿を消す重要人物へするニガーの言及に、ガワだけ同じ後輩キャラもどきがする「てめーは俺をおこらせた」発言、FGOを愛する真摯なファンがその瞬間ライターへ感じた気持ちをこの上なく的確に代弁しており、アガルタの女のメタ・アンチ・クライマックス。

ゲーム「FGO第1部第6章」感想

 じつはさー、ちょくちょくフェイト・ゴーやってんだよね。ケイタイの、課金するやつ。え、以前ちいさい画面でするゲームは死ね、滅びろ、みたいなこと言ってませんでしたか、だって? バカヤロウ! それはロスにサラウンド完備のシアターを併設した大邸宅を持つところの小鳥猊下将軍様のことであって、その分霊たる俺様には何の関係もないことはない!

 で、どうしてフェイト・ゴーはじめたかってえと、かつてnWoにトップ画像を寄贈したことのある、十数年前に一度オフ会であっただけのソウルメイト、カルメン伊藤女史がすごい楽しそうにツッターイ・ウォンカムラオで語っているのを偶然見たからなのであった。ネットで影響力を持つインフルエンサーに弱いエクス・アルファブロガーの俺様は、たちまち流行りに飛びついたというわけさ! サンキュー・フォー・アスナ・イトー!

 そのフェイト・ゴーってアプリ、スーファミ時代のRPGの戦闘だけに特化したみたいな作りで、懐かしい感じもあってダラダラ続けてたワケ。でさ、このゲーム章立てになってて、ふた月にいっぺんくらい新しいストーリーが配信されんの。導入部こそ引きこまれたものの、まあずっと安定してつまらなくないこともないわけ。んで、こないだ第6章だったかが追加されて、ちんちんさわった手で画面に恥垢の指紋つけながらプレイしはじめたのよ。そしたらさ、一時間後くらいかな、アルコール不織布で画面をぬぐって、居住まいを正しながら石鹸で洗った指先でプレイするゴスロリ少女がそこにいたわけよ。

 第6章を担当したっていうエッグプラント・ファンガスだけど、人類に共通する高い普遍性を語ることができる稀有の人材なのよ。その普遍性が一部の世界文学しか持ち得ない域に達しているにも関わらず、エロゲーやらスマホアプリやらに惜しみなく廃棄していく様子は、かつてテキストサイトなる廃文院に至高の世界文学を廃棄し続けた小鳥猊下を重ねあわせちゃうね。例えるならエッグプラント・ファンガスは、昆虫食専門のフードファイターみたいなもので、彼が食べるとき、ゴキブリさえも視聴者の目には極上の飴細工と映ずるぐらいなの。んでさ、技工だけじゃなくって、恐ろしい量の昆虫を食べることだってできちゃう。なのにさ、ジャンルそのもののニッチ/ゲテモノぶりが、彼を老若男女が視聴するメジャーのスターダムから否応に遠ざけてるんだよね。同じ界隈にいたエンプティ・アビス・ブラックは、無垢な存在のサクリファイス、汚濁が清浄に変換する一瞬のカタルシスという一芸のみで、メジャーの舞台から声がかかるようになったじゃん。なんで多芸のエッグプラント・ファンガスがマイナーの小屋に留められているのか、ボクには不思議でならないよ!

 え、ユア・ネイム・ピリオドで現在メジャーのスターダムを駆け上がっているシンカイ=サンは何に例えることができるかだって?

 それをボクに聞くのかよ! すでに評価が確立している高級店しか扱わず、おまけにひどいクチャラーなのに、食べ物を口に入れた瞬間に無難で適切なコメントを吐き出すことができるから重宝されているグルメ・レポーターという位置づけに決まってるだろ! あんなのと比較させるなよ! ボクだけが理解できる、エッグプラント・ファンガスの高潔が汚れるだろ!

 もうッ、また罵倒芸になっちゃったじゃないの! アタシに聞くのが悪いんだからね!

漫画「ピコピコ少年1巻」感想、あるいはファミコンの記憶

 タラムイーン、アズ・ノウン・アズ貴様ら陸貝どもの粘液トラック、あるいは排泄痕を日々薄目で眺める情強の俺様は、いま話題のピコピコ少年とやらをキンドルでサクッとダウンロードし、ビジネスにつきものである移動中の無聊を慰めるべく閲覧してみた。

 唐突に話はそれるが、電子書籍にキンドルと名づける欧米人のセンスはすさまじい。これすなわち「焚書」の意であり、貴様ら有肺類にもわかりいいよう例えるなら、エロゲーを円盤メディアからフリーにする大統一ハードにカストレート、これすなわち「去勢」と名前をつけるような感じだ。すさまじい。

 作者とは、おそらく同世代に近いと思う。土地とゲームの固有名詞こそ違えど、驚くほど似たような少年時代を過ごしてきた。言ってみれば、ここ半世紀ほどで最もクソみたいな時代をだ。ちょうど地方の大家族で居場所を失った次女・次男坊以下が、故郷から放逐される形で都市へと出て、核家族化していった最初の世代の子どもだからだ。父親は週6日午前様で働いて日祝は得意先とゴルフ、母親は会社のヒエラルキーを日常にそのまま移した社宅での人間関係に神経をすり減らし、子どもへの教育を考えたところで、商業高卒の若妻に将来への明確なビジョンなどは求めるべくも無い。そんな弱みをゆすられての押し売り上等、クーリングオフの存在しない時代の訪問販売に馬鹿高い百科事典などを買わされて、ただただ泣き寝入りの末、子どもへ怒鳴り散らすみたいな、クソみたいな日々。

 教育的な定観が無いものだから、ファミコンが流行れば近所で仲間はずれにされては大変とすぐさま買い与える。大人の感情、時々の気分に支配される毎日を過ごしてきた子どもが、人生で初めて入力に間をおかず答えを返す存在、一貫したその世界観に依存し、深く耽溺していくのは理の当然だった。得手ではない教育、好きではない我が子から逃避するために出かけるパートタイム・ジョブでの長い不在が、その傾向を加速させる。気がつけば、ファミコン漬けの子どもの一丁あがりだ。子どもを黙らせる良質のベビーシッター、その恩恵を得ていたにも関わらず、たちまち手のひらを返したように始まるゲームへの非難。何が良いか、何を大切にすべきか、何が正しいかを示すのではない、すでに存在する何か、起こってしまった何かを理屈抜きで否定することが、核家族の教育方針である。

 もちろん、彼らにも同情の余地はある。家名と血脈の存続という自明の命題を取り上げられているのだから。食って排泄して性交する以上の何かがなければ、人は生きていけない。男たちは残らず社畜と化すことで偽りの命題を得たが、女たちは我が子のゲーム狂いを否定することしか残されていなかった。教育観もなく、人生観もなく、世界観もない。なぜならそれらは一家一族に一つだけ継承されていく無形の何かだからだ。そこから切り離された個人はどう狂おうと、どう野垂れ死のうと、だれも省みることはない。ただ、犯罪だけがその例外だ。

 いろいろとしゃべったが、本作から「あの頃ゲームがなければ、死んでいたかもしれない」という一文さえ引用すれば、何の説明も必要ない。あの時代を過不足なく回顧する、素晴らしいフレーズだと思う。一筋の灯りも無い暗闇を手探りで生き延びた者たちの、偽らざる実感がここに込められている。

 えー、先ほどの内容はマット・デイモンがカウンセリングのカウチに横たわって早口でしゃべっていたと考えて下さい。

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」感想

 過去の日記を見返したのだが、前作については何も触れていないようだ。しかし、今回は言わずにはおれない。ネットの片隅で細々と書き継がれておる少女保護特区という更新は、旧作が与えた命題を極めて私的な形で解消したいという願望に端を発している。十余年を繰り返していれば、圧倒された体験は時間へ風化するし、同時に己の、主に精神面での力量が向上するため、完全にそれを無化する段階に達したと、直近の更新では感じることができた。読み手の感想はおくとして、個人的には確かにある種の克服にたどり着いたと思った。

 しかし、実のところ、またしても先回りされていたのだ。少女保護特区最新の更新で提示された、世界よりも手の届く一人の少女を、という構図である。誰にも求められないという点で究極に内的な作業を経て同じ場所にたどり着いていた、同時代性への嗅覚を内輪褒めする気には到底なれない。なぜなら、相手方のそれは結論ではなく、未だ途上に過ぎないからだ。そして、旧作で最後までもつれた個人の内面を精算する段階を早々と終えて、物語は世界の謎へと飛躍してゆきそうな気配である。追い越したと思えば、また先にいる、実体を伴う蜃気楼の如き、時代を象徴する化け物としか形容できない作品である。少女保護特区のエピローグを更新しようとしていた手が完全に止まったことは事実だ。無論、蟻が象へ向ける執着との指摘に反論する言葉はない。だが、少なくとも私にとって、少女保護特区は旧作と完全に等価だったことだけは記しておきたい。

 日記的な蛇足を少々。第17話から第19話までの流れがコンマ秒刻みで身体に染み付いているため、後半、旧作と同じ構図の絵が多用されるあたりで、生理的な違和感が没入を妨げる格好になった。そして、Quickeningは胎動初感の意であり、次回予告に知的な背負い投げを感じて驚いた。あと、次はアカペラバージョンになると予想した。

映画「チルドレン・オブ・メン」感想

 団塊の世代の子育ては大失敗。ゆえに女は父を求めて不倫をし、男は母を求めて二次元に耽溺する。女は父とファックしたいが、男は母とファックしたくないからだ。負け犬、おたく、認知症、カテゴライズが無限のグラデーションを喪失させ、カテゴライズが作り出した壁は無限に並列するカーストを形成し、階級間の移動を完全に不可能にする。エクセル状の伸縮するセルが我々の住処、少子化の悲惨極まるこの裏舞台、悲劇を連鎖を望まぬ無感情で申し上げる、社会評論家の諸君はうんこを食べなさい。コーンの入ったうんこを食べなさい。精子だけを要求される男たちがなぜ勃起できると信じられるのか。かてて加えて、配給会社は高所から白痴の群れへ骨付き肉を投げる傲慢さで、計算しつくされた原題へ外国語風人造言語を上書きする。人として、最低限の知性さえ疑われた我々は、銀幕やDVDのパッケージに刻印されたそれを前にして絶望するしかない。

 チルドレンオブメン、上記の理由から消極的におすすめです。

漫画「プラネテス4巻」感想

 世代の特徴と言うべきなのだろうか。某SF漫画を遅ればせに読んで、考えた。憎悪で膨らんだ世界観が愛で救済されるときの鼻白みと腰砕け、憎悪が漂白されれば残された解答はまるで宗教のようになり、宗教のようになれば語るべきは失われ、自壊あるいは拡散して物語自体が消滅してゆく。宇宙と対峙しながら、個人の内面へとその極大を押し込める。文化と歴史を前提としないからこそ、愛が憎悪を救済できるのだ。

 それに気づいたとき、小生思わず悶絶し、深く反省をした。完全に全き状態を到達地点に想定する、その錯誤は虚構の中にしかあり得ないと気づいたのだ。特定の人間関係の中で特定の課題へ繰り返し取り組むことは、個人の中のある部分を助長し、ある部分をより深く所与命題に適合するようたわめ、そして確実に必要ないがゆえに消滅してしまう人格の部分を持つということである。その失われる部分が悲しい口惜しいというのは、人間であることをどこかで拒否しているということだ。私が更新も無いままサイトを閉じようとせぬのも、変わりゆく自分への悲しみゆえなのかも知れない。

 しかしそれは一種の引きこもり的錯誤なのだ。繁忙期も過ぎつつあるし、そろそろ次をお見せしたい。いわば人外の獣がする同族殺しへの悲鳴である。

ゲーム「俺の屍を越えてゆけ2」感想

 俺屍2プレイ中。前作もそうだったが、ウィザードリィ世代直撃、いったんゲームを開始すると数時間はフッとぶほどの時間泥棒ぶりなので、できるだけ電源を入れないよう努めている。細部にまで神経の通ったゲーム性の手触りが、抜群に心地いい。そして、ストーリーも含めてゲーム全体を周辺状況込みで俯瞰するとき、とたん本作は狂王の試練場というよりコズミック・フォージの様相を呈し始め、狂気クリエイター更新への意欲を久しぶりにかきたてられるぐらい、面白い。

 赤の他人の屍を幾度も越えてクリアに至ったところの、小鳥猊下であるッ! ゲームに作家性を求めてしまうみたいな話を前にしたことあると思うんだけど、アタシほら、テキストサイト界隈のレジェンドだから、テキストに作家性を求めちゃうのよね。

 例の続編だけどさ、特にイベントパートでさ、明らかに違う人がセリフ書いてんの。指定の文字数を埋めるだけが目的みたいな、精の薄いテキストが書かれてんの。アタシってほら、2ちゃんねるの前から存在してる、日本のインターネットの生ける伝説だからさ、文章の密度とか艶とかでだれが書いたかなんてすぐにはっきりわかんだね。自動生成ダンジョンがウリになのに、ラストに近づくにつれてぜんぶコピペの一本道になってって、なんか全体的に納期に追われてむりくり完成させたみたいな突貫工事感ただよってんの。

 今回、一見さん向けにストーリー重視みたくなってんだけど、場面場面に整合性が無くて、なんか精神に疾患のあるキャラが自作自演した、統合失調みたいなシナリオなのよね。感情を知らない宇宙人がロジックで地球人の行動を推測したら、ぜんぜん違ってました、みたいな。赤の他人も「うるさい、黙れ!」しか言わなくて、おいおい、オマエがちゃんと話を聞いてやるだけで今回の件はもっと早い段階で収束したんじゃねーのって。

 あれっ、大人がちゃんと子どもと話をしてたら起こらなかった、本質的に不要のできごとが中心に置かれたストーリーって最近なんかあったなー、なんだったかなーと思ってたら、エヴァQだった。

 それと、エンディング後のおまけで一族全員が主題歌に合わせて左から右に行進していくみたいなのがあるんだけど、同じ顔で同じ衣服で同じ名前の部外者が何度も何度も現れるのがあんまりシュールで笑った。いや、むしろ笑えない。

 どんなベテランも自分の創作物への距離感を正しく保つのは難しいんだな、と思った。

漫画「HUNTER×HUNTER 33」感想

 ハンターハンター連載再開の第一話を読む。こちらが用意したあらゆる予想をことごとく裏切り、かつそれが邪道ではないという凄さに感動を覚える。例えば、エヴァQが予想を斜め下方向に裏切る、視聴側の予想を外すことだけが目的の大邪道だったのに対して、本作の変わらぬ王道感は素晴らしい。レベルの低い創作は、アマチュアの心をざわめかせる。オリジナルと二次創作の違いが薄まり続ける中で、つまりはプロとアマチュアの差が縮まりづつける中で、ゆるぎない本物のプロが存在することに安堵する。ハンターハンターを読むとき、私は決して敵わない何かへ素直に頭を垂れることができる喜びに、いつも深い安らぎを覚えるのだ。

 それにしても不思議な漫画である。週刊少年ジャンプに連載されているにも関わらず、もはや少年漫画ではない。かといって、青年向けの漫画ではさらにない。例えるなら、四角いゴムボタンの初代ファミコンが独自進化を遂げ続けた結果、いつかプレステ4を凌駕してしまったみたいな面白さだ。確かな作家性にそれは担保されており、少しでも似ている作品を現在の市場に見つけ出すことはできない。とりあえず、暗黒大陸編(?)の終了までは生きていたいと素直に思った。

 ギャラクティカの記事を追ううち、エヴァQ制作陣が同作品の記念イベントに出席しているのを発見し、またぞろ次作に対してイヤな予感が高まっている。未登場の旧キャラが残存する人類を集めた統一政府の大統領になっていたり、ネルフのメンバーは機械化やクローン化ですでにサイロンと近いような存在になっていたり、ヴィレの新キャラに二重スパイが紛れこんでいたり、今作舞台の地球は実は偽物で宇宙のどこかにある本物を見つけるための探索行に旅立ったり、裏切り者の主人公が突然「アイアムアンインストゥルメントオブゴッド」とか言い出したり、最後は奇形の箱舟戦艦が太陽にとびこんで人類が救われたりしそうだ。公開当時の感想にも書いたが、Qをパラレルのバッドエンド側として処理し、次回はトゥルーエンド側の急プラス最終作を公開する以外、まっとうな収集をつけることはできないのではないか。

 ああ、冨樫先生なら! 冨樫先生ならこんな地べたを這うシロウトの妄言に一瞥さえ与えず、はるか上空を軽々と飛び越えていってくれるのに!

漫画「惨殺半島赤目村2」感想

 あ、あれっ? 聖典・ファミコン探偵倶楽部を引き合いにしてまで期待感を表明した同シリーズの開幕だったのが、わずか二巻の打ち切り的大駆け足で終わってしまったことへ、ある種の失望を覚えている。

 しかも、村を焼き払い、登場人物を皆殺しにし、あらゆるタブーに触れつくす終盤の大カタストロフは、キャラクターの意志ではなく作者の自我に色濃く支配された悪い方の予定調和だった。キャラクターや世界の設定だけは非常に細かく書き込んでおきながら、最後は人類滅亡で皆殺しみたいな乱雑さに、私にも君にも覚えがあるところの学生時代の黒歴史的な創作ノート感がすごくある。

 鈴木先生は教師視点から学校を描くというアイデアが、ともすればエログロ方向へ傾きがちな悪癖をなんとか最後まで抑えこんだ、奇跡のバランスに立脚したがゆえの快作だったんだなと、読了後に半ば呆然としながら思った。なので、ループタイの男を登場させるバイオレンスジャック的クロスオーバーは、どちらの作品にとってもよいやり方ではなかったな、と感じた。