猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「聖夜の贈り物(FGOの未来に寄せて)」

 わえ(一人称)! 先割れの蛇舌でする聖夜のフェラーティオウ、小鳥猊下であるッ!

 昔はこの時期、わざと更新せんとリア充感だしとってんけど、今年はクリスマスも中止になったみたいやし、ちょっとならええやろ。書きやすいから関西弁でいくで。あのな、ファンガスの最新インタビュー読んでん。チンポコ?(チェンクロ)だかゆうスマホRPGを作ったヤツとのべしゃりになっとって、キホン相手を立ててて(ミスタイプやないで。「て」3つで正解や)、おべっかとまではゆわんけど、ずっとじょうずばっかゆうて進んでくねん。ファンガスがメディアに顔だしするときやけど、気に入った作品のおたく語りやとか、好きな作家のレスペクトなんかが話の中心になっとって、なんやホンマはどんな人物なんかとらえどころがないんやけど、対談のうしろのほうで鬼滅の話題をふられたとたんスイッチ入って、ギラギラと眼光するどくおもしろさの分析するみたいなモードんなって、ここまで立ててた対談相手の話をさえぎるわ否定するわ、クリエイターとしての生の怖さゆうか、すごみみたいのが出てて、うわ、こらエエもん見たわって感じやった。

 対談のまえのほうではスマホRPGとかMMORPGとか、数年に渡って運営せなあかんゲームの難しさも語られとって、オンラインのRPGは、プレイヤーが飽きて離れたり、サービスを続けられなくなったり、かならず後味わるう終わるゆう指摘には、その通りやとヒザを打つところがあったで。オフラインのRPGやと、少ないリソースで四苦八苦しながらキャラを育てる過程が楽しゅうて、その楽しさのピークとラスボスたおすんが重なったところで、ゲームを終えることができるやんか。でもな、オンラインのRPGは運営が長期化すればするほど宿命的に、レベル99になってからの時間がプレイタイム全体の100%に限りなく近づいていくねんな。レベル99の世界で何を楽しませるかに、作り手はみんな四苦八苦しとる。見てると、解決法はだいたい3つに集約される感じやな。1つ目「既存のキャラ・アイテムを一定のペースで陳腐化する」、ガチャの新キャラが旧キャラよりも確実に強く設定されるのがこれやね。2つ目「レベル上限を一定のペースで解放し続ける」、レベル200とか300とか、どこまでもキャラが成長する青天井方式やね。でも敵もつよなるから、差し引きでレベルアップの意味はほぼ消えてんねんけどな。プログラム上の限界はレベル65535なん? 知らんけど。3つ目「レベル上限はすえおきで装備やアイテムで少しずつステータスを上乗せする」、エフジーオーはこれに該当するんかな。絆上限解放とかコマンドカード強化とか、つよなった気はぜんぜんせえへんけど。

 わえ(カワイイ!)、6年にわたってメッチャ課金しとうから、もう弊カルデア(笑)の戦力はぜんぜん飽和してんねん。せやな、レベル99になって3年ぐらい経つ感じやから、そろそろなんか目先を変えた新しい遊び方が欲しいところやな。そこで提案やねんけど、持ちキャラが全滅するまで侵攻できるタクティクスオウガの「死の迷宮」みたいなヤツはどないやろ。ファンガスも好きなはずやで。持ちキャラが多いほど単純に有利になるし、戦力飽和のマスターにも課金する別の意味が出てくる。課金せんならせんで、少ないキャラでどこまでもぐれるかアタマつこたチャレンジもできるしな。あとは、報酬をどうするかが問題やね。ゲーム内でほしいもんもうないねんけど、「聖杯」「獣の足跡」は当確として、なんでかかたくなに導入しようとせえへん「任意のキャラの宝具レベルを1上げるアイテム」はどうやろ。ガチャの売り上げも下がってきてるみたいやし、頃合いとちゃう? 期待しとうで!

 でもな、ファンガスはん、「ボクが新キャラを引くためにいくら使ったと思いますか!」とかぬかすんは、もうけすぎの煙幕にしたかて白々しすぎるんとちゃいまっか? 例え10万円つこたとして、キミのこづかい50億円の0.00002%やないか! ほぼオナイやのに月額2万千円でバンザイの子もいるんやで! わえ(キュート!)はこの二十年間でテキストのかせぎは0円、いや、売れない同人誌のぶんマイナス50万円やねんで(正確にはnoteで500円もらったから、49万9千500円)! トボけるのもええかげんにしいや!

雑文「物語のスケールについて」

 ワンピース(衣類)やシネバ(呪詛)からの客の離れ方を見ているとそれは、懐かしさ半分と惰性半分でずっと追いかけてはいたものの、次第に商売と骨がらみになって純粋さを失ったクリエイティブに対して、じつは心のどこかで嫌気がさしていたことに、鬼滅を筆頭とした近年の、伏線をキチンと回収してバランスよく終わるコンパクトな物語群によって、気づかされた結果ではないかと思うのです。物語は長くなればなるほど、物語単体としての純粋さを失って、語り手の人格や人生と骨がらみになり、作者の変節が物語の変質につながる段階を必ず迎えるような気がします。

 例えばグイン・サーガも50巻ぐらいまでは純粋なファンタジーでしたが、最後のほうでは作者の自意識を代弁する何かに成り果ててしまったのですから(それまでいっさい登場しなかったアルド・ナリスの母親が突然あらわれ、病床の息子を数ページにわたって改行無しに罵り続けるなどの、物語の自走性ではない、作者の内発性によるストーリーテリング)。

 そして物語への興味ではなくて、作者への関心で読むようになってしまうと、ストーリーへの好悪よりも語り手への愛憎が意識の前面に出てきて、エンターテイメントの観客の本来である楽しみや喜びを味わえなくなってしまうのです(私にとってのエヴァがそれ)。

 ともあれ、この二十年かけられ続けてきた集団催眠ーーテレビの形状がボックスからプレートに変わっても、まだ画面には青い猫型ロボットや入道雲パーマが映ってるーーから我々は、ようやく目覚めようとしているのかもしれません。時代の変化というと大げさですが、長い長い夏が終わり、エンターテイメントの季節が成熟の秋へと移った年として、本邦の2020年は記憶されるのでしょうか。

雑文「或るおたくの症例(艦これ2020年秋イベント実録)」

 ネット越しとはいえ、二十年ほどもおつきあいいただいていると、私の人格的な陥穽とか異常は親族のように理解いただいていることと思う。おたくを罹患した自分において、大人になるということは、精神的な成長や人格的に陶冶されることとイコールではないと警戒し続けてきた。二十歳ぐらいで固着した本性は、どれだけ時間を重ねようとも決して変わることはない。人格の歪んだ部分、欠けた部分に自らの意志でもって義肢をあてがい、正常のような見かけでふるまうことができる、それが私にとっての大人になるということである。幾度も手痛い失敗を繰り返し、そのたびに擬態の能力を高めていく繰り返しだった。けれど、うまく擬態を装っていける時間が長く伸びれば伸びるほど、もしかして本当に私は成長して、人格が陶冶されて、充分に成熟したのではないかと錯覚する瞬間が訪れる。もういまの私はかつての異常な私のようではなく、長く私を苦しめてきた症状は完治したのではないかという、都合のいい錯覚。アル中病棟で読んだ「ぬか漬けのキュウリが生のキュウリに戻らないのと同じ」で、異常な嗜癖を病んだ者は、おたくを病んだ者は、二度とそうでなかった状態へは戻れない。その事実を定期的に、痛烈に突きつけてくるものがある。そう、艦これのイベントだ。これまでの甲難度と同じレベルの乙難度ゲージ破壊に数万の燃料と数百のバケツを空費させられ、いったん攻略を中断して資源確保に当たっていた。そして昨晩、友軍艦隊が来ているのに気づき、これでようやく鬱陶しいやり残しの仕事を清算してしまえると、再び最終ゲージの攻略に乗り出したのである。するとどうだ、友軍艦隊はカスのようなダメージしか与えず、尋常ならざる敵最終編成の撃破にはまったく届かない。かりそめの希望がひるがえって絶望に転じるとき、それは限りなく深くなる。息苦しい暗がりの洞窟を延々と進んだ先、出口の陽光へと踏み出そうとした瞬間に、襟元をつかまれてグイッと暗闇に引き戻されたときに感じるだろう絶望。前衛艦隊が無傷のままボスの夜戦に突入し、すべてのクリティカルが敵旗艦に吸い込まれるという妄想を抱いたまま、やめどきを失っていく。撤退を繰り返すたび、心の中に昏く重たい感情が累積していくのがわかる。そして幾度目の出撃だったろう、最初の空襲マスで一隻が大破した瞬間に、それは決壊した。キーボードを殴りつけ、マウスのコードを引きちぎり、コントローラーを机に叩きつける。怒りの自失から我にかえると、モニターは倒れ、右手には血が伝い落ちていた。もしこの感情が人へ向けば、間違いなく殺してしまうような性質のものだ。穏やかな表情で日々を過ごしている自分、もしかしたら敬意や信頼を寄せられさえする自分の内側に、こんな制御不能の異常な汚れたものが潜んでいる。そして時折、外へ噴出しては自分を絶望させる。

 艦これは、きらいだ。ずっと忘れていたいのに、私が異常者であることを、幾度も幾度も思い出させるから。

雑文「わくわくゲーム日記」

 サイバーパンク2077、深い没入感で濃密な体験を約束してくれるんですけど、ゲームを起動するまでのハードルがとても高い。細切れの時間では楽しめないし、プレイ中は他のメディアを触れないし、何より世界観と人物相関がけっこう混みいっているので、シラフでないと理解できない。なので休日の昼間とかに「よし、サイパンやるか! やるぞ、オレはやる!」などと大声で自分を鼓舞してから始める感じになります。

 平日の晩はといえばアルコールを入れながら、ニュース番組とネトフリを同時に流しながら、艦これとフェイトゴーの周回を同時にやりながら、ツイッターを横目に見つつFF11の時間ポップNMの沸き待ちをやっててーー書いてて我ながらたいがいやなと思いましたーー可処分時間ではないですが、やることの多い現代人にはそれぞれへ薄く意識を偏在させた状態の一部となれるような遊戯や仕組みが好まれるんでしょうね。PSVRなんかも起動したら面白いのはわかってんですけど、完全に他を廃した没入を強制されるので、宅配のピンポンが鳴ったらどうしようとか、いかがわしい動画の最中に音も無く家人が背後に忍びよっていたらどうしようとか、下半身まるだしのまま終始バイザーを上げ下げして周囲を確認しなければならず、完全に集中することはなかなかに難しいわけです。

 そして気づいたら、あれだけイヤイヤだったはずのカラドボルグ作成も小石とランプと心臓の収集が終わって、いつのまにかリフトボウルダーをいちマンコ納品するだけの状態になっているわけです。あとはオーメンとうなぎを往復していれば完成できる、カネさえ積めばだれかと競争せずに解決できる段階になって、ホッとすると同時にひどくさみしい気持ちになっている自分に気づきました。アビセア・ウルガランでNMを釣り負け、他PCに「死ね! 今すぐ消えろ!」なんてリアルで絶叫して、スッとんできた家人にこっぴどく叱られる状況よりは、はるかに平穏な日常がもどってきたはずなのに! 結局、私たちはみな、一人では避けがたいさみしさを心の奥底に抱えており、「死ね!」とか「消えろ!」とか、乱杭歯をむきだしに叫びかかることのできる他者を求めているのでしょう。歪であっても関係を築きたい、憎悪であっても何もないよりはずっといい、もしかするとツイッターもそんな場所なのかもしれません。とりとめもない日記的独白(最低な)を、いい話ふうにして終わります。

ゲーム「サイバーパンク2077(あるいはドラクエ11S)」感想

 FF14のシナリオに心萎えてFF11に出戻ったものの、カラドボルグ制作過程で時間ポップNMを他PCと取り合うという古いMMORPGに特有の時間グラインダーに心折られて、もうオフラインのRPGがしたい、ふつうのRPGがしたいとなって(と、なって!)、そういえばドラクエ11の完全版がPCで出たんだったとスチームボーイ(駄作)から体験版をダウンロードしたのです。ほどよくストーリーも忘れてて、やっぱドラクエは面白いなー、なんて最初は無邪気にプレイしてたんですけど、そのうち違和感が出てきました。色調が妙に明るくのっぺりしていて、画面に密度感がなくて、グラフィックも全体的に毛羽だってるというか、ジャギジャギしてる。「おっかしーなー、いよいよ老眼がはじまったのかー?」なんつって目をこするんだけど、画面のクオリティは低いままです。気になってググッてみたら、いちどPS4版からスitchyだかゆう低機能のマイクロマシン向けにダウングレード移植されて、その劣化版をベースにしてPC版を作ったよって書いてある。つまり、原本のコピーのコピーを見るときに感じる質への違和感だったわけで、激昂した私は「スクエニはん、ゲームゆうのは目利きの玄人旦那衆へ向けた嗜好品だっせ。なにがドラクエアイランドや、まず本業のゲームを大切にせんかいな。こんなクソ商売しとったら、企業として先があれへんで!」と土壁に向かって一人ごちる(笑)と、すっかりプレイする気を無くしてしまいました。

 そんで、新聞紙でふさいだだけの割れ窓(エヴァQのときのDVで割れた)からスキマ風がびょうびょう吹きこむ四畳半で「これはいよいよ鉄パイプでモニターを粉砕して、PCを捨てよ、町に出ようってことかー?(しかし、町には殺人ウイルスが蔓延しているぞ、どうする?)」などと中指で鼻ほじってたら、ツッタイーの縦長ウィンドウに生息するサナダ虫どもが、「サイバーパンク2077が本年度最高のオープンワールドRPG」「ウィッチャー3を作ったところだから、万に一つの間違いもなし」なんてジメジメささやきあってる。「よーし、嘘だったらみんな殺しちゃうぞー!」なんて朗らかに叫びながらサクッと購入して、パッチだけで45ギガもあるのをアホみたいな時間かけてダウンロードしてプレイをはじめるんだけど、結果として殺人者にならなくてすんだことは僥倖でした。ブレードランナーをより日本びいきにした世界観のオープンワールドRPGで、開始5時間ばかりの段階ですが、かなりの没入感に終始ワクワクさせられっぱなしです。でも、コントローラを握ってキャラを動かした瞬間に「またいつものだ」という強いマンネリ感を覚えたことは否定できず、ほんの10分ほどですけど、その感覚を乗り越えるのには結構なパワーを要しました。オブリビオンとフォールアウト3でオープンワールドゲームの基礎部分はすでに完成してしまっており、その後の15年間(15年間!)は与えられた共通の幹に対して自由度の振り幅とビジュアルのガワをどうするかの試行錯誤が個々の作品の違いを作っている状況だと指摘できるでしょう。少し話はそれますが、左右のトリガーでアクセルとブレーキ、アナログレバーがハンドルという「いつもの」車の操作には少しも慣れません。どのゲームも挙動が異様にセンシティブで、ふつうに車線を守ってまっすぐ走ることすら難しく、そろそろ前例踏襲でない操作性に登場してほしいところです。ネチネチ難癖つけた感じになりました(いつもの)が、ひさしぶりにコンプリートしたいと思える大作ゲームだということは、間違いありません。

 あと、ちんちんの長さや真性か仮性まで選べるのには感動しました。私はキリスト教徒ではないので、割礼なしのビガー・チンポを選びましたが、今後ゲーム内でこの特殊パラメータ(性器の長さ)がなんらかの影響を与えることを期待しています。

 サイバーパンク2077、毀誉褒貶あるようですが、オープンワールドRPGなんてのは2年ぐらい経過してMODが出そろってからが本番なので、今のところ楽しんでプレイできています。世界観に合わせて、草薙素子とかスパイクとかネオ(キアヌ!)みたいなロールプレイを心がけて進行してきましたが、アラサカ社に潜入したあたりから戦闘が厳しくなりはじめ、リトライ地獄と化してきました。敵の体力がアホみたいに多すぎ、FPSが苦手でエイムが下手すぎ、頼みの綱のグレネードの威力が弱すぎ、ハッキングのシステムがわからなすぎ、銃撃もステルスもうまくいかず死にまくりなのです。おそらくサブシナリオやトレハンでキャラを強化しながら進めていく前提のバランスなのでしょうが、メインストーリーを進めたくてしょうがないイラチの私が最終的にたどりついたのは、被弾しながら無理くり近づき、強パンチからの左右ラッシュでボコボコに殴りたおすというステゴロ花山薫プレイでした(じっさい、強化外骨格でも仕込んであるのか、銃でのヘッドショットよりも強パンチの方が3倍くらいダメージが出る)。そしてデジタル娼館で刀を入手して以降はブレードのパークを取りまくり、近接戦闘の手段が殴打から斬撃に変わりました。ついさっきも、エヴリンを奪還するために発電所へ乗りこんできたのですが、同行するジュディが「隠れて、見つかっちゃう」とか小声でいさめてくる(いちいちかわいいんだからコイツ、もう!)のを尻目に、監視カメラも索敵もガン無視して抜き身を引っさげ猛進し、狭い室内でキチガイのように刃物を振りまわしまくり、八つ墓村(あるいは津山三十人殺し)プレイで鏖殺(みなごろし)にしてやりました。PC版は死体欠損ありなので、四肢や生首があちこちに転がって、画面越しにも濃厚な血の匂いが漂ってくるような凄惨きわまる現場だったことをお伝えしておきます(もはやロールプレイもクソもない)。思うんですけど、オープンワールドRPGの近接戦闘に足りないのは、蹴り技ですね。ここはキアヌをキャスティングしていることですし、思いきってこの世界観でバーチャファイターの格闘アクションを導入してーーってそれ、シェンムーやないかい!

 (刀を正眼に構えた小鳥猊下がモールの中央で銃を持った輩の集団に囲まれながら)早くも37564戦法が限界を迎えるとはッ……!! 「発砲には2アクション必要だ。刀なら1アクション、この距離なら確実に私の方が速い」とうそぶいていたあの頃がウソのよう……!!

 年末恒例「慈愛のようす」、今年は高度36,000km、軌道ステーションに格納された魂の座「神輿(みこし)」よりお送りします。眼下のジャンク街では、様々の煩悶や葛藤がありましたが、すべては漂白された遠い過去となり、いまは満ち足りた穏やかな気分です。わずかの余命を伴って地球に帰ることもできのたですが、魂をデジタル化するという体験へのSF的な興味がわずかに勝りました。その瞬間まで主人公としてのロールプレイを心がけてきたのに、「最後の選択」では画面の前に座る現実のプレイヤーとしてふるまってしまったというわけです。魂を肉体から分離したあとは、銃夢の続編のような宇宙規模のお話が展開するのだろうとワクワクしていましたが、そのままスタッフロールに突入したのにはガッカリさせられました。ともあれ肉体を喪失し、青いホログラムとして机上に投射された状態ではありながら、今年も「慈愛のようす」を粛々と執り行ってまいります。皆さまからの問いかけすべてに丁寧にお答えしていきますので、遠慮なくお声かけ下さい。もちろん、萌え画像などの寄贈もお待ちしております。致死バイラスの蔓延により外出を禁じられるというSF的展開による皆さまの無聊(あるいは多忙)を、少しでもなぐさめられればと思います。

 ゲーム「サイバーパンク2077(2週目)」感想

雑文「個人と集団について」

 すごい……カラボスの小石を集めながら、旧・銀英伝を見ていると、人生からどんどん不安が消えていく……生命が消えるまで、もうずっとこうやって過ごしていたい……。

 銀英伝ぐらいだと、権力を戯画的に批判するのが、まだそんなに気にならないなー。悩みながらも弱小の組織を運営するリーダーとしてのヤン・ウェンリーが描かれているからでしょうか。これがドラゴン兄弟になると、個人から組織への言いたい放題になって、バランスが崩れちゃう。キミら、手前勝手な理屈を他人に押しつけながら暴力で蹂躙していくの、無惨様とほとんど変わらへんで。

 一部の作家や引きこもりは集団に属さない究極の個人なので、己を圧殺する装置としての組織を想定してしまいがちなのだと推測します。つまり、本気で殺されると思ってるから、相手が「壊れても、潰れても、死んでもいい」ような過剰防衛とも見える反撃ができるのかなと。「組織に一度も属したことがない」ことと、たぶん「親子関係が支配・被支配の関係だった」の2点が彼らの底流にあるのかもしれません。いったん管理する側の立ち場を経験すると、野党的・左翼的な言説のいっさいをリアルなものとして受け止められなくなるものです。私の映画やゲームへの感想なんかもそうなんでしょうけど、「責任を取らなくていいこと」「まったく無関係であること」が明白な立ち位置からしか不可能な放言というものはあって、対象から遠ければ遠いほど、その内容は苛烈さを増していくように思われます。「いいね」つけだしてから特に感じるんですけど、ツイッターってフォロワーの多寡に関わらず、無所属の個人から無関係の集団への発言が多いように思います。いったん双方の内情が見えると、単純に言葉へ落としこんでしまえない事柄が増えていき、視点のグラデーションはどこまでも細分化していきます。

 あと、視点のグラデーションと言えば、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想について捕捉しておきます。昔だったら「主人公きゃわわ、ちんちん入れたい」ぐらいの感情しか生まなかっただろう物語へ、「死んだ父親が亡霊となってこの世にとどまり、残された娘の苦しみをただ見守るしかないときの腕のもみしぼり方」みたいな玄妙極まる気分の視聴をしてて、世界を定点観測する位置を違えまいと意固地に決めてきた自分が、いつの間にか少しずつ流されてあの頃とはまったく異なった場所にいることへ気づかされるのです。

 でも、いまいちばん大きい気持ちは、一刻も早くすべての責任を放棄して、人生という舞台から降りて観客席に戻りたいというもの。もはや使命感は消え、ただ最前線の塹壕にいる兵士たちが故郷の家族を思い出して踏みとどまるように、同じ場所で踏みとどまっているだけ。

アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」感想

 タイムラインで激賞を見かけたので、カラボスの小石を収集するかたわらで、ヴァイオレット・エヴァーガーデン見る。これ、人名だったんですね。タイトルから想像していた内容と全然ちがったのは、驚きました(「藤の園の未亡人」みたいな話だと思ってた)。美しい喪失と再生の物語で、オッサンなんかは主人公の言動にいちいち泣いてしまうわけですが、これまた美醜の問題じゃねーのって気も頭の片隅から離れないわけです。美少女の悲しみだから美しく見えるのであって、キモオタの同じ悲しみは汚くてだれも取り合わないんじゃねえのって。きわどいラインで回避できてるとは思うんですけど、これだけ丁寧に語っても人為的に作られた悲劇をかぎとる人はいそうで、私などは頭の中で中曽根康弘の顔をした善良な市民が「オタクくんさあ、こういうレイプファンタジー大好きでしょ(笑)」などとあおってくるのを押し止めるのに必死でした。「あれあれー? 短銃一発と手榴弾できれいに両腕だけがもげたねえ? わかるよ、義手とかの欠損少女って、萌えるからね(笑)」うるせえ、オマエはロンヤス会談に戻ってろ!

 んで、テレビ版を見終わったんですけど、劇場版があるんですよね。主人公が喪失を乗り越えるテーマは全13話できれいに終わってると思うので、どういう続きなのか見たいような、見たくないような、複雑な気分です。鬼滅に追いやられて近場では軒並み上映が終わっているようなので、配信かソフト化を待つ状態ですが、内容の予想をしておきます。1つ目、テレビ版へ戦争シーンと少女のアクションを大幅に追加した「総集編」。2つ目、記憶喪失でかくまわれていた少佐と再会する「邂逅編」。3つ目、自動手記の仕事で各地の問題を解決する「裸の大将編」(「先生ー、ヴァイオレット先生ー」)。4つ目、主人公がいかに戦闘マシンとなったかの秘話が明かされる「過去編」。この4つのどれかだと思うんですけど、個人的に見たいのは「過去編」かなあ。だって、なぜ主人公があれだけ強いのかの説明が作中に一切ないんですもの。「戦闘美少女の系譜じゃん。他の男がレイプできないのに、自分には依存してくるって最の高でしょ(笑)」うるせえ、てめえは回線の遅いネットで政治でも語ってろ!

 2つ目のが個人的にはいちばんやってほしくないヤツですけど、制作会社が経験した状況を考えれば、これが選ばれていても黙するしかない感じはあります。どこかで書いたけど、虚構とは人々の祈りであり、人類最古の虚構は「死者の蘇り」なのだと思うからです(蛇足ながら、たぶん「あの世」が2番目に古い虚構で、3番目は「地獄」)。あと、ドールが高級娼婦を兼ねているような設定が序盤でほのめかされていた気がするんだけど、気のせいでしょうか。これが真だとするならば5つ目、主人公が一人前のドールになるため裏の仕事を覚える「花電車編」。「それ、もうさんざん2次創作でやられてるから、意味ないっしょ。あ、でも超絶クオリティのアニメと声優の演技で見たいってことね。わかるわかる(笑)」だからおまえ、うるせえよ! おたく糾弾者としてオレに内在化してんじゃねえ! 皇居の外周をバターになるまでジョグしてやがれ!

ゲーム「FGO第2部第5.5章」感想

 FGO2部第5.5章クリア。都合、8時間くらいかかった計算。ネタバレなしの感想? 「些か」「言の葉」への「想い」が強すぎますな。

 ゆかい。ハア? 小鳥猊下であるッ! ンンンン、以下はバリバリのネタバレですので、未クリア者はミュート推奨ですぞ!

 2部第5.5章、エフジーオーの本編としては「些か」食い足りないが、坂田金時を主人公とした少年漫画と考えれば、まあまあの仕上がり。しかしながら、書き手がファンガスでないときの避けられない瑕疵として、「世界の謎については表面をなぞるばかりで、真実へはどうにも肉薄できない」という点があり、アルターエゴ・リンボという大悪党を数年越しに倒す話なのに、イマイチ盛り上がりには欠けました。どんなに良い書き手であっても、ことエフジーオー世界においては最善の書き手であるファンガスが常に比較対象としてあるため、ハナっから勝てない試合をさせられるのはかわいそうだとは思います。なので指摘するのは酷なんですけど、今回の書き手はストーリーラインが細くなると無意識にか語彙を厚塗りするというクセがあり、それゆえ登場キャラクター全員が一個の自意識から延長された人格だとわかってしまうのです。完全に単独の作品ならば見過ごされるだろうことを、最善との比較から指摘されてしまうのは恐ろしいと思いました。個人的なことを言わせてもらえば、1部第4章のキャラクターたちがすごく嫌いなので、第七節くらいまでは読み進めるのがしんどかったです。バベッジとかパラケルススとか、どうひっくり返しても魅力的になりようがないキャラへテキストを割くぐらいなら、清少納言をもっとお話にからめて欲しかったなー、と思いました。もっとも、彼女はファンガスの持ちキャラなので、年末に向けて監修の時間が取れなかったことが、申し訳程度の出番(平安京なので出さないわけにはいかない)で終わってしまったことの理由ではないでしょうか。

 あと終盤で、「人類愛がないと人類悪になれない」とか言い出したのには「うわー、やっちまったなー、ファンガス怒るぞー」って思いました。この前後もそうですけど、今回の書き手は語彙が重たいわりに、ストーリーテリングが単純で直線的なんですよね(逆にファンガスは平易な語彙で重層的に物語る)。不安になったのか、最後の最後でカルデアの面々に「でもリンボの言うことだから、真実である可能性は薄いよね」とか言わせて予防線を張っていたのには笑いました。リンボってミステリアスでインパクトのある隠れた人気キャラだと思うんですけど、異星の神との関係もほとんど明らかにされず、なんだか雑に処理されちゃって残念だなーって感じです。それと終幕はいつもファンガスの監修がガッツリ入って、強烈なクリフハンガーで終わるのが常なのに、今回は「あっちのオレ、どうだった?」「ゴールデンでしたよ!」みたいなシャバい終わり方で、「ああ、年末のサプライズに向けてファンガスが忙しくて、修正の手が回ってないんだな」と思いました。

 ここのところ、来るイベント来るイベント、ぜんぶに文句つけてる気がしますけど、何度も言いますが私にとって、書き手がだれであるかが最も重要なのです。つまり、スターウォーズはジョージ・ルーカスに関わってほしいし、エヴァは庵野秀明に監督してほしいし、グイン・サーガは栗本薫が書いたとこまでしか認めないし、ペリー・ローダンは読む気にならないし、FGOはファンガスにすべてのテキストを書いてほしい、単純にそれだけのことで他意はありません。

雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

質問:小鳥猊下の鬼滅の刃総括談話はまだですか

回答:ほんとに出してほしいの? まったくインターネットは沈黙の美とはほど遠い場所ですね。しぶしぶ懐から美しい言葉をチラ見せするけど、乞うた以上は責任をもって拡散しなさいよ。キミたちはもっと私をチヤホヤしていいと思う。

 ツイッターでは作者と作品は切り離して鑑賞すべきって意見が多いように思うけど、私はジャンルとかじゃなくて作者を追いかけてしまうタイプの読み手なのね。”Behold the man”、まさに「その人」が表現しているものを時系列にロードローラー(ネットミームに読解を邪魔されないで!)でならしていくように味わいたいわけ。作者の人格は、「ダダ漏れ」から「かそけく匂う」までの振り幅はあるけど、”必ず”作品に現れるというのが、私の意見なの。鬼滅の刃もそういう読み方をしてしまっていて、男性作家だったら一生をそこにとらわれてしまうような巨大な重力場から軽々と飛び去ることができたのは、女性の書き手ならではだと思う。このかろやかさを目の当たりにすると、二十年も同じ作品を連載し続けるのは、それこそ無惨様の所業で「生き汚い」なと思わされてしまう。これを言うと反発ありそうだけど、女性が人の営為にコミットしようとするとき、男性とくらべてかなり厳しいタイムリミットが設定されているので、鬼滅という物語を語り終えた女性が、次に命の鎖の先端へ己の写し身である輪っかを付け加えたいと願うことは、個人的にすごく得心するというか、すとんと胸に落ちる感じがする。この後も鬼滅のアニメ化は続いていくだろうし、今回ほどの大ヒットにはならないと思うけど、映画版の制作も続いていくことと思います。あらゆる出版社がコンタクトを試みるだろうし、ゴシップ誌は作者の現在を探ろうとするだろうし、遠い親戚によるカネの無心は絶えないかもしれません。様々なノイズによる苦労は多いと思いますが、漫画から離れた作者の人生が静かで満ち足りたものになることを心から願います。たぶんこの人は、鬼滅の刃を描いたことを自分の子どもたちにはすすんで言わないような気がするんですよね。

 数年後、どこかの地方都市でひとりの主婦が、息子の同級生の名前が数年前に流行した漫画のキャラクターに似ている(そのものではなく、似ている)ことに気づき、もしかしてあの優しそうな奥さんもファンだったのかしら、なんて思う。そして実のところ、息子の同級生の母親が作者その人だったなんて考えると、とても楽しい気分になります。

 さらに十数年後、だれもが鬼滅の刃をはるか昔に流行った作品として忘れてしまった頃、ある月刊誌の読み切りに、よく似た絵柄の漫画がひっそりと掲載される。ペンネームはちがうが、ごく一部のファンが気づく。でも、だれもそのことをネットに書きこんだりはしない。読み終わったあと、ただ暖かな気持ちで、こう思うのだーーああ、子育てが終わったのかな。あなたの消息を知れてうれしい、あなたがこの空の下のどこかで生きていてくれてうれしいーーと。

雑文「twitter批判と創造性について」

 通りすがりに”Hi, there!”くらいの感じで「いいね」してやってんのに、だれも挨拶をかえさないどころか目さえ合わせない。まったくここは礼儀のなっていないインターネットですね。私がヤング・エグゼクティブをつとめている現実社会では考えられないことですよ。挨拶は相手に自分をモノ化させないことで犯罪をふせぐって教わらなかったんですか! これ以上は凄惨な事件になりますよ!

 んで、自分のためにイヤイヤ「いいね」つけてるーー強気な言葉とは裏腹に、都度の消毒で少女の指先は赤くただれ、ところどころ裂けた皮膚の下に赤い肉がのぞいているーーと、否応にフォロワーの多いアカウントを観察することになるわけですよ。24時間中18時間くらい断続的に1ツイートへ収まるニュースや世間への感想を述べていて、わたしもフォロワーを増やすためにはそういった発言をしなければならないのかと思った次第。では、試みに社会的な1ツイートを。バズったら、いいおにく買おう。

 建立1300年の法隆寺の前に、創業10年未満の立ち食いステーキ屋の出店がいきなり許可され、あげく半年も経たず下品な看板を残してつぶれ、それがいつまでも放置されて景観を乱し続けるのが、奈良県の観光行政の本質。

 あれですよね、1000リツートを1越えるごとにツイッター社から1ドルもらえるんですよね? みんなそれで生計たててるんですよね? だから毎日あれだけ時事にからめたツイートをしてるんですよね? あたし、信じてるから!

 本邦の抱える問題とは、新しい事象に対して即座に新しい言葉が発明され、一瞬で社会の隅々まで行きわたり、それこそ老若男女、社長から乞食、教授から中卒まで、その言葉を使い、その言葉で思考するようになることである。浸透の過程に何の疑義もなく、発明された言葉が後からの批判で覆ることもない。少し話はズレるが、もはや国民的スポーツの座から陥落して久しい野球のニュースがスポーツコーナーで大きな割合を占める理由もこれに近い。使い古された定型(「Aの頑張りに応えるため、気持ちでBしたとC」構文)だけでニュース文が書けるので、その利便性が世の実情とは乖離して存在し続ける理由だ。最近のニュース文にはひどいものが多いので、この種のライティングこそAIで自動化すべき分野だろうと思う。閑話休題。そんな1984年的な「言語に思考させられている状況」への抵抗として、nWoでは固有名詞や類型的な言い回しを避ける表現を長く心がけてきた。それもこれも、いまは亡き栗本御大が「小説に新聞の見出しみたいな表現を使ってんじゃねーよ! 言葉は使われれば使われるほど摩耗して意味を減じていくんだよ! 小説ってのは新たに言葉を創造していく作業なんだよ!」みたいな内容を小説道場で吠えていたことへ、持ち前の素直さで従った結果である。冷静に考えれば、モーツァルトがぽつぽつ楽譜を埋めるばかりの新人作曲家へするアドバイスみたいなムチャぶりではある。おかげで二十年が経過した今、もう何も書くことがなくなってしまった。かつて、本当に独創的なテキストを書いていたサイト運営者がいたのだが、彼の消息を追ってみると、ただのゲーム実況者になっていた。あまりに独創的すぎたので、どこかの時点で言葉のオリジナリティが枯渇してしまったのだろうと推測する。だが、枯渇しても表現への欲求が消えるわけではない。「生きながら萌えゲーに葬られ」から一節を引用する。

 「何かを批判したり批評したりする態度だけをとり続けることを選択すれば、永遠の生命を生きることが出来ると思っていた。新聞というメディアが現実に依拠することで永遠を存続できるように、誰かの作り出した何かに依拠し続ければ、自分は存在を長らえることができるだろうと考えていた。」

 つまるところ、ゲームや映画への感想も、ニュースへの言及も、他者の言動への批判も、人間社会に寄生する血吸い虫の所業と変わるところはなく、そう考えるともう何もかもの意味を失って唇はこわばり、少しも口を開くことができなくなってしまう。私が本当に聞きたいのは、この諦念から話すことを止めただれかの声であり、圧倒的なオリジナルを放擲し、他者の創造物に乗せて話を続けることに決めただれかの本心なのだ。永遠も半ばを過ぎて、何も語ることがない空っぽの心を抱えて生きている。みんなどうやってこの気持ちをしのいでいるのだろう。

 なにッ! エフジーオーの2部第5.5章が明日開幕と申すか! 題材からして1.5部第3章の書き手と推測する。(ヨダレを手の甲でぬぐいながら)こいつァ、楽しめそうだぜ……空っぽの心に他人の創作物からエネルギーを吸い上げて、自分語りを垂れ流す社会的無責任さをな……!!