猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

十万ヒット御礼小鳥猊下基調講演

 「……いつまでそんな片隅でやくたいもない繰り言を続けるつもりですか。誰も、誰ひとりあなたのことなんて見ちゃいないし、あなたのことを少しでも重要だと思う人間なんていないんですよ。もしいるとしたらそれはあなたと同じレベルのつまらぬボウフラのごとき生き物が、他人の位置を常に追い求めることでしか自己の立つべき場所を見いだせない生き物が、優越を満たすためだけに気のないふうに出歯亀の陋劣さでわずかにのぞき見ているにすぎないんですよ。天才を持たないあなたたちの語る世界への絶望は、完全に個人的な妄言の範疇に収まってしまっており、いかなる普遍性をも持ち得ず、ただただどこまでも不快なんですよ。あれえっ。どうなってんだい。静まり返っちゃったよ。おい、今日の演説の草稿書いたの誰よ。榎木谷くん。聞かない名前だなぁ。そんなのうちにいたっけか。え、何、ネットで拾ったの。ぼくが。はいはい。あのナントカいうサイトの運営者ね。思い出したよ。へえ、君がそうなんだ。もっとおたくっぽい外見かと思ってたよ。あのね、殺して。うん、そう、殺すの。何度も言わせないでよ。ショットガンで原形をとどめない肉片になるくらいずたずたに、文字通り完膚無きまでに殺してよ。まったく、おおよそ一万ヒット程度のサイト運営者の浅知恵が考え出しそうな内容だよね、これ。本当のことを何のひねりもなくそのまま言ってどうすんのよ。その程度までの視力ならね、誰でも持ってんの。自分だけがわかったツラでことさらに強調してみせて馬ッ鹿みたい。自分の矮小な能力と偏狭な世界観いっぱいいっぱいのシロウト人間分析で悦に入ってんじゃないよ。君らみたいのはぼくなんかと違って人としての根本の器がまず決定的に小さいから、自分の知ってること全部吐き出さなくちゃ相手の興味をひき続けることをやってけないから、見せちゃ自分が危ないとこまで自分を見せなきゃいけないはめになって、結果として身を守る裏返しですべてに対して攻撃的にならざるを得なくなるのよ。こんなのに一瞬でも期待をかけた自分が馬鹿だったね。ムカつくよ。いいよ、いいよ。おれ今からアドリブでやるから。あ、殺すまえにそいつにも聞かせてやってよ。ここから先は無いと諦めていた無明の闇の果てへ自分の進むべき未来への方向性を見いだした瞬間に死ななければならない絶望と無念は、それはもう格別だろうからね。けけけっ。
 「……この世は残酷な場所です。神の視点においては人間もアメーバも区別が無い。ぼくたちはただ増え、そして空手で死ぬ。人の心は移ろう。 あなたは裏切られ、明日にはかれの中でまったく意味を失ってしまうでしょう。確かに永続するものは何ひとつとしてない。天上の愛もいつかは赤銅色に錆びつき、路傍にうち捨てられ、風化して朽ちることもままならず、その残骸を屈辱のうちにさらし続けるだろう。永遠に続くものがあるとすれば、それは朽ちた愛情の惨めさだ。愛される救済の瞬間はまたたきのうちに消え去り、やがて自己投影の幻想に気づいた象徴の両親たちは鼻をつまんで自らの失敗作から身を遠ざける。誰もあなたを本当に求めはしない。真実のあなたが認められるはずはない。だからあなたは誰にとっても都合のよいあなたをいつまでも演じ続ける。そうしてついには真実の自分と偽りの自分の落差に倦み疲れ、ひとり勝手な憎悪に身を焼いて、絶望も意味をなくす空虚さの中で完全に心を硬直させてしまう。無数の他人からの投影に道化師のように応え続けるあなたは、ついにはどれがあなただったのかすらわからなくなって、呆然と立ちつくしてしまう。この世は残酷な場所だ、でも。ぼくは安易な希望を語ることをしない。ぼくは希望を信じていない。それは人間が抱く自分以外の対象への身勝手さに他ならないからだ。けれど、この世が残酷な場所だと認識し、絶望に満ちていると確信し、その最悪の悲嘆の中でなおあらわれるかすかな”でも”という声に含まれた希望のひびきをぼくは信じる。すべてが様変わりし、あなたを見返らないそのときでさえ、ぼくはあなたの側にいる。心変わりした恋人がかつての両親のようにあなたを見捨てるそのときでさえ、ぼくはあなたを見捨てない。ぼくは決して変わらない。あなたがおそれるような、あなたを必要としないぼくにはならない。ぼくはいつでもあなたの醜悪さのすべてを受け止め、丸がかえする。あなたがわずかの時間でも傷ついた羽根を休め、また再び残酷な世界へと舞い戻って行くことができるように。ぼくはあなたの持つ虚しい現実の情報の蓄積ではなく、あなたの魂を愛している。ぼくには誰でもない、真実のあなたが必要なんだ。ただ時間を埋めるためだけのすべての意味の無い言葉の群れのうちで、ぼくがあなたに告げるこの言葉だけは本当だと信じて欲しい。”I need you.”(しわぶき一つないしんとした静寂が会場を満たす。やがて聞こえるかすかな嗚咽)
 「ってな具合さ。人間は壊れやすいよ。だから心のいちばん敏感なひだに触れるように、そっとやさしくやるんだ。やつらが心底そのように理解されたがっているカタチに理解してやるんだ。人間は誰も飢えた野良犬と同じなんだよ。やさしくのどの裏を掻いてやりさえすれば、簡単にだらしなくよだれまみれの舌を突きだしながらひっくり返って腹を見せてくる、下品で簡単な赤犬なのさ。コートでかたく身をよろっているように見えても、ちょいとやさしく暖めてやればストリップよろしくたちまちコートも何も脱ぎ捨ててすべてを投げ出してくる。ごたいそうな心の傷へポルノビデオよろしく官能的に舌を這わせてもらいたがってるんだよ。その手管を知っている人間なら誰でもいいんだ。ぼくじゃなくてもいいんだ。金を持っていさえすれば誰にでも股を開く商売女と同じさ。なんて博愛的な平等精神にあふれた、この上なくつまらない連中なんだろうねえ! 死んじゃえ。みんな死んじゃえ。みんな残らず死んじゃえ。
 「……うう、寒い。え。あ、そう。死んだの。破片はちゃんと全部かきあつめて肉ダンゴにして別荘のニシキゴイにやってよね。あれやるとさ、鱗の色彩の照りがずいぶん違ってくるんだよね。自然から出てきたものはちゃんと自然へと還元してやらないとね。これこそ大往生ってもんですよ。かれもあの世で喜んでるだろうね。涙流して地団太踏みながらね。けけけっ。それにしても、ハイヤーまだ来ないの。え。他のサイトの講演に全部出払ってる。気にくわないなぁ。え、百万ヒットの。ふぅん。ぼくを殺して。うん、そう、ぼくを殺すの。おい、目をそらすなよ。待てよ、どこ行こうってんだよ。離せ、チクショウ、触んな。おれの命令が聞けねえのかよ。殺せよ、早くおれを殺せよ。誰でもいい、誰かおれを殺してくれェェェェェ!

パアマン(3)

 「ワイは自分のことが好きや。こんな醜く肥え太ったワイが自分のことを好きやなんてナルシストみたいなことゆうて、おかしい思ってますやろ。でもな、ワイはそれでもやっぱり自分のことを愛していると言うわ。なぜって、誰ひとりワイのことを見てくれへんかったからや。アル中のおとんも、宗教にハマって家を出てったおかんも、自分たちのことに精一杯でワイを愛する余裕なんてあらへんかった。だからワイはワイのことをワイ自身で愛してやるしかなかったんや。そんなワイや、パアマンに選ばれたときのうれしさは忘れられへんな。あれは世界が革命した確かな瞬間やった。ハーレクインロマンスのヒロインたちのようにワイは見いだされて、誰からも省みられない醜いアヒルの子やのうて、誰からも愛され求められる輝かしい白鳥に化身することができたんやからな。リーダー、ワイは死んでもパアマンをやめることはしまへんで。それだけは覚えといてや…」
 「みつをさんッ、危ない!」
 パア子の叫び声に私は撥と我に返る。見れば、私の眼前に巨大なエイプが大きくあぎとを開ゐてゐた。其処に覗く不揃ひな歯は殆どの獣達がさうであるやうに、雑菌の固まりなのであらう。遺伝子操作を施された此のエイプ達の事だ、噛まれるだけで致命傷に為りかねなゐ。
 私は粘着く唾液にまみれた其の上顎に手を掛けると、一気に引き裂ゐた。粉々に為つた頭蓋が飛沫を上げて大気中へと拡散する。私は逆さ洗面器のバイザアに付ひた返り血を指で拭ふ。両肩の間に舌と歯の残骸を乗せただけの悪魔的な戯画めゐたエイプの死体が、仲間の数匹を巻き込み乍ら雲間へと消へてゆく。
 私は背中合はせに居るパア子へ肩越しに頷きかけると、更なる上昇を開始した。一体どの位昇つたのだらう。雲は遙か眼下に在り、大気が希薄になつて来たせひか、星々が恐ろしく近くに見へる。問題は逆さ洗面器に装備された非常環境に適応する為の生命維持装置がゐつ迄働ひて呉れるかだ。之が停止すれば私達は忽ちに窒息死してしまふだらう。
 しかし。と私は考へる。其のやうな安楽な死は決して望めなひのではなゐか。何故なら私達の生命反応は逆さ洗面器を通じて全て奴らにモニタアされてゐる筈であり、奴らが私達の生存を知り乍ら私達からたゞちにパアマンの能力を取り上げてしまわなひのは、奴らには私達二人を簡単に殺すつもりは全く無ひとゐふ事を意味してゐる。恐らく此のエイプ達によつてなぶらせるつもりなのだらう。
 私達は追ひすがるエイプ達を殺し乍ら上昇する。四方から同時に襲われてはひとたまりも無ゐ。エイプ達の攻撃の方向を限定する其の苦肉の策が、今私達二人の首をじわゝと絞めつゝある。
 生命維持装置をフル回転させてなお身を切るやうな冷気の中、私は背中にあるパア子の温もりに救ひを感じてゐた。其れはパア子も同じだつたらう。パア子の、私の手を握りしめる力が強くなる。私は更に強く其の手を握り返す。破局はもう間近だ。死の運行は緩慢だが着実であり、生の鮮やかな上昇が持つやうな疲れを知らなゐ。私はそんな言葉を思ひ出してゐた。今の私達の置かれてゐる状況は此の言葉にぴつたりを当てはまる。
 メゝント・モリ。死を思へ。私はずつと、誰もゐなくなつた夕方の砂場で一人遊ぶ子供だつた昔から、ずつと死の事を考へ続けて来た。だが、今私達の眼下に存在する無数の赤い獰猛な対の光は、何と其の甘やかな夢想と異なつてゐる事だらう。私は死を眼下に、生の温もりを背後に、初めて心から生きたひと思つた。
 「きゃああっ」
 突然のパア子の悲鳴がそんな私の物思ひを永遠に切り裂ゐた。音もなく追ゐすがつて来た一匹のエイプの巨大な爪が、パア子の逆さ洗面器を真二ツに叩き割つたのだ。
 逆さ洗面器の下にあつた初めて見る其の素顔は。嗚呼。
 パア子は大きく目を見開くと、小さな音を立てゝ息を吸ゐ込んだ。其の吸気が吐き出される事はついに無かつた。代わりに吹き出した大量の血が、周囲に霧のやうに飛び散つた。
 パア子は自失する私から手をもぎ離すと、浮揚外套を優雅な仕草で肩から外し、宙へと放り投げた。スロオモオシヨンのやうにゆつくりと落下してゆくパア子にエイプの群が殺到する。最後に見えたパア子の青白ゐ手も、ついにはエイプの群の中へと埋没してゐつた。
 何とゐふ、何とゐふ、何と。パア子。パア子。パア子。
 強ゐ衝撃を感じて我に返ると、先程のエイプが私の右肩に深々と爪を突き立てゝゐた。パア子を殺したエイプだ。生暖かな私の血が、私の身体を滴り落ちるのを感じる。
 ギイゝ。エイプが嘲るやうに笑つた気がした。
 私の視界が真つ赤に染まる。瞬間其のエイプが殆ど個体としての原形を留めぬほど激烈に、破裂するやうに四散する。私は手の中にある引きずり出したエイプの茶色ゐ心臓を握り潰した。
 「このざんこくなせかいに / あなたをひとりのこしていくことが / それだけがしんぱい」
 私の良く知つてゐるアイドルの歌がどこか遠くで聞こえたやうな気がした。其れはパア子の歌。
 「あいされたいから / あいするの」
 朧な月明かりの中、黒ゐ帯が羽虫のやうな音を立てゝ上昇して来るのが見えた。
 人間の感情を。人間の尊厳を。人間の瞋恚を。
 奴らに教えて遣る。
 私はエイプ達を傲然と見下ろすと、身を翻し其処へと突入した。
 魂消る咆吼が聞こえた。其れはエイプ達の上げたものなのかも知れなかつたし、或ひは私自身のものなのかも知れなかつた。
 あらゆる方向から無数のエイプが憎悪其のもののやうに私に向けて殺到する。最初の十数匹の集団が、同時に粉々に破裂した。
 一匹でも多く殺して遣る。
 ぴるゝ、ぴるゝ。突如胸のバツジが高らかに、最も間抜けなタイミングを見計らつたやうに、鳴つた。
 「やあ、聞こえるかい、リーダー。『鳥の男』こと、小鳥さんだ。君にまず初めましてを言っておこう。どうだい、圧倒的な力で他人を蹂躙するのは快感だろう? 君がいま戦っている猿どもは君自身が奇しくも看過したような死の象徴であり、私自身のトラウマの象徴であり、またコミュニケートの不可能な残酷な他人の象徴でもあり、こんな大仰な表現がお好みで無いならば満員電車でスポーツ新聞のポルノ記事越しにリポD臭い息を吐きかけてくるオッサンの象徴であるとも言えるだろうよ。いいかい、君はそれらに抗うことなんてできないのさ。君はそれらのすべてを諾々と、屠殺場へと引かれていく子牛のように静かにあきらめて受け入れるしかないんだ。そこにする君のアクションのすべてはもうなんというか、単なる自己満足的なポーズに過ぎない。ただ矮小な君自身をだけ納得させるための無駄なカロリーの消費であって、君を除くすべての場所、すなわち世界には何の痛痒も与えないんだ。現実を打ち破る理想なんてどこにも存在しないのさ。それでも君は」
 私は胸のバツジを握り潰した。
 世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか?  (トーマス・マン、『魔の山』)

デ・ジ・ギャランドゥちゃん(1)

 デ・ジ・ギャランドゥちゃんは23歳辰年生まれ、巨大企業のエゴに日夜翻弄される関西在住のしがないサラリーマン。インターネットでうっかり自己実現してしまうようなそこつ者。でもね、愛の本当の意味はまだ知らないの。
 「どうして私のみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛は、そこに軟着陸したハエの脚をからめとり二度と再び離陸させないほど絶望的に密集しているのでしょう。永遠のロリータキャラクターを売りにしている私は毎月数十回の剃毛を試みますが、そのたびにますますこの体毛群は繁茂し、複雑に密集していくような気がします。そろそろ永久脱毛を考えてみるべきなのでしょうか」
 「ねえ、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
 「誰かと思えば猫科の小動物を思わせるその可愛らしい名前とは裏腹の青黒い血管が縦横に走ったその表皮が婦女子を本能的な恐怖から致命的に遠ざける私の実存内の下位人格、最も下劣な部分の忠実な投影であるところの、タマではないですか」
 「名字はキンです。ところで、辞令を持ってきましたよ。本日付けで日本橋支店への異動が決まりました。一両日中にすべての身辺処理を完了し、現地での業務につくようにとのことです」
 「ええっ。こまったにゃぁ。猫語尾です。日本橋と言えば関西おたく族のメッカではないですか。そんな業界の思惑が無尽に交錯する激戦区に私のような愛らしいクリーチャーが突如出現するなんて、毎朝の出勤だけで数十回はいいように視姦されそうです」
 「まぁまぁ、そう言わないで。第一あなたはそういったおたく族向けのホームページを運営し、かれらの心の機微はまるであなたがかれら自身ででもあるかのように理解しているはずではないですか。上層部もきっとあなたのそういう資質を高く評価したのだと思いますよ」
 「待ってください。しかしそれは大きな誤解というものです。なぜなら私は自分の中の、世間に言わせると”おたく的な”としか形容できない心の動きの部分を言語によって正当化するためにあのホームページを制作したのです。それが偶然ネット上を夜な夜な徘徊する現実に居場所のないおたく諸君に一方通行的なほとんど誤解とすれすれの共感を得ただけであって、私の本来意図したものとはまったく違うと言わねばなりません。あれはまったく個人的なお遊びに過ぎないんです」
 「本質は問題ではないのですよ。深いところにある本質がどうであれ、表層に現象として浮かびあがってきたものがこの世の真実となるのです。デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたはまだそういった現世のカラクリを良くは理解していないようだ。たとえあなたがどんな最悪の妄想を抱いた潜在的犯罪者であろうと、あなたが現実において大きく成功しないまでも日々正しく労働し、組織にとってニュートラルからプラスの位置に居、抱く妄想を顕在化させようと思わぬ限り、あなたはいつまでも新たな企業的負荷を与えられ続けるのですよ」
 「わかりました、わかりました。波打った部位によって幅の違う毛を表面に無作為にトッピングした脈打つ青筋をそれ以上わたしに近づけないで下さい。目に入るだけで妊娠しそうです」
 「すいません、興奮するとつい無意識的に様々の部位が隆起してしまうのです」
 「要するに、自身の異常さに自覚的な人間が社会人であり、自身の異常さに無自覚な人間がおたく族ということなのでしょうか」
 「うぅん、微妙にぼくの意味するところとは異なっているような気もしますが、ある点においてはそれは真であると言えるかも知れません」
 「わかりました。しかし加えてかれらおたく族はわたしのような可愛らしい婦女子から、その黙示録的な容貌が主な原因なのでしょうが、決定的に隔離されています。そこに根を持つ鬱積した異性への劣情をアニメやコンピュータゲームを代表とする平面に記述された婦女子の記号へと転移しているわけなのですが、空気穴の空いたプラスチック製のボックスをかぶせた極上の料理の眼前へ両手を縛られて座らされるようなそのもどかしさの中で、青竹が積雪の重圧をついにはねかえして元へと復元するように、まっとうな人間へと立ち返るかえるために自分の持つ欲望を犯罪的な方法で一気に放出してしまおうと試みたりしないのでしょうか。だとすれば、わたしはとても恐ろしくておたく族の中を歩くことなどできないです」
 「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたの間違いはおたく族の大きなお友だちのことを青竹というメタファーで捉えたところにあると思います。おたく族とは、人間の持つ生来の復元力を徹底的に封印ないし破砕されてしまった人間の群れのことを指すのです。あなたはそこで逆に安心できる。それは保障していい」
 「けれど、なぜおたく族は人間の持つ素晴らしい魂の復元力を喪失してしまっているのでしょうか。かれらの容貌のあまりの醜さがかれらを絶望させるのでしょうか。そうして、自らの絶望に気がつかないようにいっそう絶望を深めてしまうのでしょうか」
 「その考えは案外本質をついているのかも知れません。今までぼくたちがおたく族のことを語るとき、たとえば個人の生育史であるだとか、あまりに精神的な面にばかり目を向けすぎてしまっていた。しかし近年アトピーなどを代表とする心身症の問題が議論を提出したように、ぼくたちの心と体は簡単に分離して考えてしまえるものではないのかも知れない。おたく族になる要因として社会的に忌避される醜い容貌を条件として考えてみるのも面白い発想の転換ではないかと思う。もっとも、卵が先か鶏が先か、どちらかに偏向して断定してしまうのは慎重に避けなければならないけれど」
 「わかりました。わたし、日本橋支店に行きます」
 「わかってくれたようだね、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
 「ええ。日本橋支店ではみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛を完璧に処理し、おたく族を狂喜させるような夏向けのへそ出しルックで出勤することにします。それが、この世にありながらこの世のどこにもいない、生まれてくることのできなかった亡霊たちへの唯一の供養だと思うから」
 「うん、それはとてもいい考えだと思うよ。親御さんもきっと今回のことを喜ばれる。おたく族の住処はある意味妙齢の娘さんにとってどこよりも安全な場所だからね」

パアマン(2)

 「わかってまんのかいな! あんさんひとりの勝手な行動のせいでうちら全員が迷惑するんやで!」
 激昂したパアやんがテエブルを拳で一撃する。私の前に置ゐてあつたグラスが跳ね上がり、重心を失つてくるゝと回転した。
 店内の視線の気配が一斉に此方へと集中する。私はかうゐふとき、本当にどうしてゐゝのかわからなくなつてしまふ。相手の感情の鋭さが私の現実と大きくずれて、重ならなひのだ。パアやんはグラスの氷をぼりゞと噛み砕き乍ら続ける。噛むとゐふ動作で攻撃性を発散してゐるのだらう、と私は自分が全く当事者で無ゐやうに呆と考へた。
 「自覚が無いんやな。リーダーとしての自覚が無いんや。あんさんには昔からそないなところがあったわ。ぜぇんぶ他人事なんや。ええか、わしらがやってるんはアホな女子学生のバイトがやるような誰にでもできる片手間の仕事やおまへんのやで。一人おりません、はいそうですかゆうて別の人間を連れてくるわけにはいきゃしまへんのやで」
 私は右手の親指で左手の親指の爪をきつく押さへた。此の世に代替の利かなひ人間など存在しなゐ。私達とて其の例外では無ゐ。
 「それにな、あんさん忘れとるかもしらんから言うけど、わしらは常に”鳥の男”に見張られとるんやで。力をおのれの利益のために使ったり、仕事で不誠実やったりしたらたちまち畜生に変えられてしまうんやで。”鳥の男”への忠誠心と仕事への使命感をだけ植えつけられた畜生奴隷にや! あんさんが今回やったことは、そのどっちにも当てはまるんや。ワイはな、あんなエテ公みたいになりとうない」
 パアやんが目を向けた先には黄色い逆さ洗面器を被つた恐ろしく巨大なエイプがゐた。何処から取つて来たのかバナゝの房を胸に抱へて、店内をテエブルからテエブルへと跳び回つてゐる。エイプにハンバアグを日の丸の旗ごと踏み潰された子供が、火の点ゐたやうに泣き出した。
 「ワイはあんなエテ公みたいになりとない」
 パアやんが繰り返す。私の隣でずつと黙つて俯ひてゐたパア子が、だつたら止めてしまへばゐゝのに、とひつそりつぶやゐた。
 後れ毛が一筋、パア子の頬に垂れかゝつてゐる。其の疲れ切つた横顔は殆ど老婆のやうに見へた。
 「ええですか、パア子はん。ワイはパアマンであることのうまみをこの十年でいやゆうほど知ってしもたんや。もうパアマンではない普通の生活へはもどらしまへん。パアマンであることは麻薬や。強烈な副作用を持った麻薬や。パアマンでなかったらワイはどこにでもおるただの下品な中年親父にすぎへんのや。パアマンでなかったらいまごろだぁれもワイのことなんか相手にもしてくれへんかったやろうな」
 パアやんは私とパア子から視線を外すと、取り出した煙草に火を点けた。
 「もっとも万一わいがやめたい思たところで、”鳥の男”がやめさせてくれへんやろ。わしらの運命はみぃんな”鳥の男”にかかっとるゆうこっちゃ」
 嗚呼、可哀想なパアやんよ。結局おまへは何も、何一つ知らなひのだ。真実から最も遠ゐ場所で、無邪気に其の力を信奉し、無邪気に苦悩してゐる。
 パア子が私の袖を引ゐた。覗き込んだパア子の瞳が映す強ゐ意志に、私は何も言えなくなつた。パア子よ、おまへの愛と優しさは世界を滅ぼすだらう。
 「よく聞いて、パアやん……”鳥の男”などという人間は存在しないの」
 「ハ、真剣な顔して何を言うのかと思えば、”鳥の男”が存在せえへんやて…? アホな!」
 「”鳥の男”というのはあるプロジェクトの極秘名称。2号もその哀れな犠牲者にすぎないわ」
 パア子は店内を駆け回るエイプをちらと見た。
 「人間の遺伝子を根本から書き換えることで全く別の生物へと置換してしまうことの可能な特殊レトロウィルスが存在するの」
 さう、例へば猿にでも。ゐつの間にかエイプが動きを止め、肩越しに其の不気味な赤をした目で凝と私達の方を見てゐる。
 「正確には人類でない者の手によってこの地球へと密かに持ち込まれたの。地球人類への外宇宙からの侵略、それが”鳥の男”の正体。Biologically Racial Demolition for Mankind 『生体操作による人類種抹殺計画』――略して『BI-R-D-MAN』、鳥の男――パアマンとはみんなが考え、私たちが傲慢にもそう信じてきたような正義の使者ではないの。人類を滅ぼす致命的なウィルスの運び屋に過ぎなかったのよ」
 パア子が悲しみに其の長ゐ睫毛を伏せる。私はもう人目を憚らず、彼女の肩を抱き寄せた。
 「アホか…おまえらいきなり何言うてんねん…そんな絵空事信じろゆうんかいな、そんなアホな…ぎゃっ!」
 震へる手で灰皿を引き寄せやうとしてゐたパアやんが突如悲鳴を上げた。振り返ると店の四方の窓にびつしりと巨大なエイプが張り付いている。店内を見渡せばゐつの間にか全ての客がエイプへと変貌し、其の無機質な光を宿す赤ゐ目を逆さ洗面器の下から此方へと向けてゐた。
 「始まったわ」
 パア子が呟く。私は腋下に厭な汗がじつとりと滲むのを感じた。逆さ洗面器は其の装着者に絶対の力を与へる訳では無く、単純に基礎運動能力を数百倍してくれるだけの代物である。私達と同じ逆さ洗面器を被る、遺伝子操作を施された此のエイプ達の元の力は並の人間に数倍するだらう。
 詰まり、一対一では決して勝てなゐと云ふ事だ。
 「パ、パアタッチや。早う手ぇ貸すんや!」
 事態を悟つたパアやんが私に手を差し伸べる。私は其の手を取ろうとする。だが、一匹のエイプが敏捷に跳び掛かりパアやんを組み伏せるのが先だつた。其の獰猛な爪で無惨にも引き裂かれたパアやんの皮膚からは先づ黄色ゐ脂肪が飛び出し、次にどす黒ゐ血が其処へスポンジのやうに染みてゐつた。パアやんが初めて私に伸ばした手は遂に届かない侭、みるゝエイプの群の中へと埋没してゐつた。私はエイプの体毛を濡らしてゐくパアやんの血を他人事のやうに眺めてゐた。パア子は放心する私の手を掴むと入り口のドアを固めてゐるエイプを撲殺し、外へと飛び出した。
 しかし其処には。嗚呼。
 見渡す限りの建物とゐふ建物、地平とゐふ地平を醜怪なエイプの群が埋めてゐた。もう何処にも逃げ場は無ゐのだ。パア子が私の手を強く握り返して来た。二人で一殺。然し其れで数匹ばかりのエイプを殺したとして、今更一体何の意味が在るとゐふのだらう。
 ギイゝ。
 電線にぶら下がつてゐたエイプの一匹がガラスの表面を引つ掻くやうな厭な声で鳴ゐた。其れを合図に、都会を埋めたエイプ達が一斉に浮揚する。次の瞬間空は一面覆ゐ尽くされ、真昼だとゐふのに周囲は漆黒の闇に包まれた。
 此の世の終わりである。

ガッデムさん(1)

 「なんや、なんやねん、おまえ。何見とんねん。見んなや。こっち見んなや」
 「あの、人違いやったらほんますいませんやけど、もしかしてガッデムさんとちゃいますか」
 「あ…ああ? なんで、なんで知ってんねん。わしは確かにガッデムやけど」
 「ほら、ぼくですわ。おぼえてまへんやろか。あの頃とは髪型とか変えてもうたからなぁ。おぼえてまへんやろか」
 「ああ、思い出したで。なんや、自分やったんかいな。それやったらいつまでもじっと見てんと、はよそう言えや。変なとこ見られてもうたがな」
 「あっ、そんなん、ガッデムさん、ぼくが火ィつけますわ」
 「すまんの」
 「ゴールデンバットでっか。ええ香りや。なつかしいですなぁ。なんやいっぺんに昔に戻ったみたいですわ」
 「感傷を言いな。もう戻れへんのや」
 「わかってますわ。わかってます」
 「ところで自分、いま何してんねん。まだロボット乗ってんのか」
 「いや、もうやめてひさしいですわ。いまは、なんや言うのはずかしいねんけど、技術屋やってまんのや」
 「ほぉ。そりゃ、親父さんと同じやな」
 「そうですねん。あんだけ親父のこと嫌うてたはずやのに、因果なことですわ」
 「誰にもわからんもんや。で、どんなんつくってんのや」
 「はぁ、アクセラレーターちゅうてわかりますやろか。簡単に言うたら、ロボットの性能をあげる装置みたいなもんですわ」
 「へぇ、すごいやんけ」
 「でも最近は変な客が多てこまりますわ。こないだもなんかうちの製品が壊れとるゆうて電話してきやったんですわ。あんま腹立ったんでどなりつけてやったら、『いいんですか、この電話録音してますよ』言うてけつかるねん」
 「えらいことや。どうしてん」
 「しょせんよくあるキチガイの電話や。企業ゴロのまねごとや。二度とこないな電話してこんようにさんざん脅したあと、叩き切ったりましたわ」
 「最近はなんかえらいみんな過敏になっとるから注意しいや、自分」
 「ぼく、あんなんゆるせませんねん。立場もわきまえんと鬼の首とったみたいに電話してきて、そんなんいろいろ造っとるほうがえらいに決まってますやないか。享楽乞食の、利便乞食の物乞いや」
 「自分、あんま乞食乞食言いなや」
 「あっ、すんません。つい感情的になってもうて。そうや。これ今度ぼくがつくった試作品ですねん。試作品ゆうても、今度の会議で製品化されることがほとんど決まっとるんですけどな。ガッデムさん、つこてみませんか。今の五倍ははよなりまっせ」
 「そんなん買う金があったらわしワンカップ買うわ」
 「何言うてますのん。ぼくがガッデムさんから金とるわけないやないですか。水くさいなぁ。ぼく、ガッデムさんにはほんまいろいろお世話になりましたから。モニターっちゅうことでどうかもらってくれまへんやろか。ぼくの顔を立てる思て」
 「いらんわ。わしもう引退して長いねん。ただのポンコツや。連邦の白いの言うて恐れられとったあの頃とは話がちゃうわ」
 「そんな悲しいこと言わんとって下さいよ。ぼくにとってガッデムさんは青春そのものなんや。おぼえてますか、ふたりで対抗組織の宇宙本部に出入りに行ったときのこと。あのときのガッデムさんはほんま輝いとった」
 「ああ、そんなこともあったかいな。ちょお待てよ。よぉ考えたら自分、あのときわしのこと置いてったやんけ。わし、首もげてヒィヒィゆうとったのに」
 「あれは、あの、あとでちゃんとむかえに来ましたやんか。古いことですわ。ほんま昔のことですわ」
 「調子のええやっちゃ。いまやから言うけどな、自分とコンビ解消したんは自分のそんなとこが気にくわんかったからやで」
 「すんません、あのときはほんま気持ちが高ぶっとって、ガッデムさんのことを置いてくなんてどうかしとったんですわ。でも、これだけは言わせて下さい、あれからいろんなんとコンビ組みましたけど、やっぱりガッデムさんが最高でしたわ。ほんまにそう思てますんや」
 「わかった、わかった。泣きなや自分。中年男が泣いても目に汚いだけやわ」
 「すんません、ほんますんません。あ、こりゃハンカチ。えろうすんません。ところでガッデムさんはいま何してますのや」
 「いろいろや。今の時代ただ喰うていこ思てもたいへんやわ。求人情報誌見てもハローワーク行ってもわしみたいなんが応募でけるのはひとつもあらへん」
 「そら、ガッデムさんはロボットですさかいな」
 「まぁ、そうやねんけどな。ところで自分、羽毛ふとん欲しないか」
 「羽毛ふとんですか」
 「そりゃもう天国みたいな極上の寝心地やで。ゆうてみれば、ガッデムグッドな品物やね。ほんまやったら五十はすんねんけど、昔のよしみやし四十五でええわ。そこの角のリヤカーに乗してあんねんけど、取ってこぉか」
 「いや、遠慮しときますわ。じつは先月五人目が生まれましてな、うちピィピィですねん」
 「なんや自分、結婚しとったんかいな。初耳やわ」
 「ガッデムさんと別れてからのことですさかいに」
 「あ、わかったで。あのいれあげとったインド人の娘やろ。わしあれだけやめとけゆうたのに」
 「ちゃいますわ。あの娘はガッデムさんが先に喰うてもうて、ボテ腹かかえて鉄道自殺しましたやん」
 「そうやったかいな。そないなことあったかいな」
 「調子のええ物忘れですわ。いまやから言うけど、ぼくガッデムさんのそんなとこが昔から鼻についとったんや」
 「さよか。そやったらお互いさまやな」
 「そうですわ。ぼくたちのコンビは解消するべくして解消したんですわ」
 「もう戻れへんのかいな」
 「もう戻れませんわ」
 「誰の上にも時は流れるのやな。わし、もう行くわ。これから寒うなるし、自分身体に気ィつけや」
 「ぼくはせまいけど家あるし、ガッデムさんこそもう年なんやから」
 「あほぬかせ。わしはロボットやぞ。おまえくらいに心配されたらおしまいやわ。それに羽毛ふとんもたくさんあるしな」
 「ぼくたち、また会えますやろか」
 「そんなんわからんわ。会うようになっとったら会うやろ。ほな、これで本当にお別れや。達者でな」
 「ガッデムさんこそ」
 「ぱぁんぱぁん」
 「ああっ。ガッデムさん、ガッデムさぁん」
 「あつ、いた、痛いわ。何がどうなってんねん。あいた、痛いわ。ちょお洒落ならんで、これ。痛い、痛い」
 「いまの拳銃持った男は誰ですねんや。なんぞ恨み買った覚えはありまへんのか」
 「知らん、知らん。痛、痛い、ごっつう痛いわ」
 「ほら、動いたらあきませんよ。えらいこっちゃ、タマが腹を貫通してるわ。なんかで止血せな、止血。血ィ? 血ィやて? ガッデムさん、あんたまさかほんまはロボットと」
 「待て、それ以上口にしたらあかん。ええか、どんなに親しい関係で、どんなに明らかに思えることでも、もうお互いに感づいとるやろなゆうようなことでも、いったんそれを口に出してしもたらもうその関係は終わりやゆう言葉はあるんや。だから、それ以上口にしたらあかん」
 「わかったわ、ガッデムさん、わかったからもうしゃべらんといてや。救急車呼ぶからここで動いたらあかんで。じっとしとるんやんで」
 「あほ、言われんでも動かれへんわ」

パアマン(1)

 「でな、こないだの脱線事故ありましたやろ。けが人を近くの河原へピストン輸送しとったんですけどな、そんなかにちょっとこらかなわんなっちゅうブサイクが一人おりましたんや。そやけどそこはそれ、人命救助ですやん。ワイも我慢して座りこんどるのにちかづいて、ほなねえさんいくで言うてうしろから抱きかかえて持ちあげようとしたんですわ。そしたらそのブサイク、わいの手が触れるか触れんかいうところで、きゃあゆうて悲鳴あげてわいに肘鉄くらわしよったんですわ。わいもなんだかんだゆうて正義の味方であるまえにひとりの人間ですやん、カッとなってもうてな、『あほ、何ぬかしてけつかる。思い上がるんやないで。ワイにも好みがあるわ、誰がおまえみたいなずぼずぼまんこに欲情するかい。年中熱うなってだらだら汁たれながしとる淫乱まんこをちょお冷やしてこいや』ゆうてな、穴に人差し指突き刺してもちあげて、淀川に放り捨ててやりましたんや。案の定、突っ込んだ指の横からすきま風がびゅうびゅう吹いとりましたわ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
 野卑な笑ひ声と共に純白のテエブルクロスへと唾液まみれの食物の欠片が撒き散らされる。唯一の照明で或るそれゞのテエブルに置かれたワイングラスの蝋燭が揺らめく。店の片隅から流れて来るジヤズの生演奏とあゐまつて、店内にはシツクなムウドが醸造されてゐる。パアやんの、何処か尋常の均衡を逸脱した笑ひ声は、店内の雰囲気と完全に不協和音を為してゐた。
 私はげんなりとし、なんとなく食欲を失つてナイフとフォウクをそつと置ゐた。基より此の、鼻をすつぽりと覆つてしまふ逆さ洗面器をつけたまゝでは、殆ど食事を味わふこと等できなかつたのだが。私は組んだ掌に顎を乗せ、同じテエブルに座つてゐる面々を改めて眺めて見た。 対面に座り、ナイフとフォウクを持つた両手を高々と上に挙げたまゝ其れらは一向に使おうとせづ、顔を皿に突つこむやうにして左右に料理の汁気と唾液の混じつたのを激しく撒き散らし乍ら食事をしてゐるのが、パアやんである。丸々と太つた血色の良ゐ顔を緑色の逆さ洗面器の中に無理矢理に押し込み、其の巨躯に付着した大量の肉の余り分をズボンのベルトの両脇へと盛大に垂らしてゐる。養豚場の豚を新聞の風刺漫画風にカリカチユアライズすると正に之のやうになるかも知れぬ。
 「なんや、食べませんのかいな。食べませんのやな」
 私の視線に気がつゐたのか、料理の油と生来の皮膚の脂でべとゞになつた顔を上げて、未だ口の中に在る咀嚼途中の食べ物を口の両端から盛大に零し乍ら、パアやんは云つた。私は其の醜態を眼球が捉えぬやう其れとなく焦点を外しつゝ彼の顔に視線を遣り、うなづひた。
 「食い物は粗末にするなゆうのがわいの家の代々の家訓ですねん。ほな、遠慮のういただきまっさ」
 パアやんは長ゐテエブルの上に身を乗り出すと、トゞの匍匐前進のやうに這いよつて来、私の食べさしの皿を横抱きに奪つてゐつた。パアやんは自分の口腔に容量以上の物を纏めて押し込み、口を開ゐたまゝくちゃゝと咀嚼を開始する。
 私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの左へと視線を移した。其処には果たして蜜柑色の逆さ洗面器を装着した巨大なエイプがゐた。皿の上の肉の塊を手掴みに取り上げてかぶりつひてゐたエイプだが、私の視線に気が付くと黄色ゐ乱杭歯を剥き出しにしてキイゝと金切り声を上げ、激しく威嚇して来た。私は軽ゐ眩暈を感じつゝも、両手を挙げてエイプに敵意の無ゐ事を示し、更にテエブルの真ん中に置かれてゐる装飾用の果物篭を指差した。エイプは忽ち其れに興味を抱き、肉の塊を後方へと放り投げると、テエブルへ昇つて果物篭からバナゝを取り上げた。
 「ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ。チンポみたいでんな。ほら、そのバナナですわ、リーダーはん。チンポみたいやと思いまへんか」
 私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの右へと視線を移した。其処には。嗚呼、パア子よ。赤色の逆さ洗面器を装着した、華奢な少女が其処には居た。
 私はパアやんとエイプに気取られぬやうにパア子の方へと手を伸ばし、そつと其の白魚のやうな小指に小指で触れた。パア子はびくりと身体を震はせると、私の目を瞬間、まつすぐに見た。だが直ぐに、逆さ洗面器の黄色ゐ隈どりから突き出した憂ひに曇る長ゐ睫毛を、そつと伏せてしまふ。嗚呼、パア子よ。君は昨日我々の間に訪れてしまつたインテメエトなムウドを怖れるやうに、酷くよそゝしく振る舞ふのだな。私のする執拗なパアタッチにみるゝ薔薇色に染まつてゐつた其のきめ細かな純白の肌。
 私は態とナイフを床に落とすと、拾ゐに来るウエイタアを手で制してテエブルの下へと潜り込んだ。ナイフを拾う動作と共に、タキシイドの胸元から取り出した紙片をパア子のほつそりとした両脚の上へ置く。其処には私の、些か青臭くはあるが、今の彼女への情熱の凡てを込めたポエムがしたゝめられてゐる。私が再び席に腰を下ろすのと、パア子が紙片に気づくのは殆ど同時だつた。
 「あ。このエテ公め、何してけつかる! それはわいのソーセージや、かえさんかいな!」
 パアやんは大声を上げると、ガラスの水差しを持ち上げ、エイプの逆さ洗面器に覆われた脳頂へとしたゝかに打ち付けた。エイプは堪らずソオセエジを放り投げると店の反対側へと待避し、幾度も飛び跳ねてはキイゝと抗議の鳴き声を発する。
 「まったく油断も隙もあったもんやないで。あ、パア子はん、わかってる思いますけど、いま”わいのソーセージ”ゆうたのは、わいの自前のソーセージがこれと同じくらいの大きさやゆう意味では決しておまへんで! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
 パア子は其れに小さく「えゝ」とだけ答へると、紙片を握りしめた掌を開かぬまゝトイレへと席を立つた。私は其の後ろ姿を凝と見つめる。嗚呼、パア子よ、私の愛しひ白百合よ。
 其の時、私の彼女を見送る視線に特別な物が含まれてしまつたのか、何かを察したパアやんが此方へと大きく身を乗り出して来た。
 「あかん、あかん。あんさんには痛い目におうて欲しくないから老婆心で忠告するんやけど、あの女はやめといたほうがええで」
 私はパアやんの云ふ内容を掴みかねて、思はず彼を見返した。
 「わかりまへんか。あんさんはどっかうぶなところがあるよってに。どうか、怒らんと聞いてや。あの女、な、……やというもっぱらの噂やで。わかりますかいな。だれとでも寝るんやそうや」
 私の中で一瞬言語が崩壊し、其の意味を理解するのに数秒を要した。パアやんは女性に対する最大級の蔑称を口にしたのだつた。彼に其処だけ声を潜めるやうな、ゐさゝかの常識が備はつてゐたのは、僥倖で或ると云はねばならなゐだらう。
 私は胸元からナプキンを引き抜くと、怒りを隠そうとせづに勢ゐ良く立ち上がつた。
 「あ、怒りましたんかいな。怒りましたんやな。けど、ええ、わいは本当のことをゆうたんですからな。確かに忠告しましたからな!」
 私はもう其の言葉を聞ゐてゐなかつた。クロオクに預けた空中浮揚外套をウエイタアより受け取ると、私は出口の扉へ手を掛けた。
 「カバ夫とも、あのエテ公ともすでに寝たいう噂やで! 獣姦やがな! こらもう獣姦ですわ! まぁ、あの女が……ならわいはさしずめイージーライダーちゅうとこやけどね! どの女の腰にも簡単にまたがるんや! ゆうておくけどな、リーダー、今のは”いい自慰”とかかっとるんでっせ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
 店の外に出て見上げると、星はネオンに掻き消され、月は厚ゐ雲の向かうに隠れてゐた。嗚呼、パア子、私の白百合よ。
 突如、胸の目玉バツジが高らかに緊急の音を発した。私は其れを敢へて無視して手早くマナアモオオドに切り替へてしまふと、外套を羽織り空へと浮揚する。無性に月が見たくなつたからだ。

Last GIG “エバーラスティング”

 シャッターの閉じる音がビルの谷間へかすかに響く。”漫画喫茶YOMYOM”と書かれた電飾の明かりが消える。のび放題にのびたあご髭に優しい顔の輪郭をまぎらせ、大きなサングラスに繊細すぎる少年の瞳を隠したその人は、数メートル毎に振り返り、人柄をしのばせる丁寧なおじぎを何度も何度もくりかえしながら、ついにはけぶる朝靄の中に遠く見えなくなった。
 「終わったな」
 「ああ、本当に」
 早朝のオフィス街はおどろくほどに閑散としており、人の気配をまったく感じさせない。
 「――有島と太田は?」
 かれらが最後によこしたハガキにあった、初めて知るその名前に、ぼくは他人のようなよそよそしさを感じたものだった。
 「ふたりとも昨日発ったよ。有島は田舎に帰って農家を継ぐんだそうだ。いま有機野菜が大当たりしてて、人手足りないんだって言ってた」
 かれはいつものくせでポケットに手をつっこんだまま続ける。
 「太田は両親の口ききで地元の市役所に就職が決まったんだってさ。幼なじみと来春結婚するんだそうだよ。『ついにつかまっちまった。墓場行きだ。俺の人生はもう終わったも同然だ』って、すごく嬉しそうに話してた」
 「へえ、二人ともそんな、全然知らなかったな。全然知らなかった――」
 ぼくはなんとなくうつむいて黙りこむ。かれはおりた沈黙にうながされるように煙草を取り出すと、火をつけた。
 「そうだ、CHINPOだ。CHINPOはまだいるんだろ、こっちに」
 変わっていく現実に逆らうように、すがるように、ぼくは云った。
 けれど現実はいつもぼくを先回りして裏切る。
 「CHINPO…いや、上田はどこか東北のほうの山奥にある療養所に移送されちまった。あいつの家に電話して名乗ったらさ、『保椿さんにそのような友人はおりません』だとさ。おれはあいつの友人じゃなかったんだそうだ。ずっと、いっしょにいたのにな。――知ってたか、あいつの両親、そろって大学教授なんだぜ! ちょっと笑えるよな。笑えるじゃないか――」
 ビルの谷間を吹く風が小さな渦を巻いて、歩道の上にゴミを舞わせている。
 「『友だちは…友だちと呼べる人はみんないなくなってしまった…誰も』」
 「――シェイクスピアかい」
 「いや」
 向かいの歩道を何におびえるのか、一匹の野良猫が猛然と駆け抜けていく。
 「エヴァさ」
 かれは皮肉に口元をゆがめた。
 「さてと」
 ほとんど口をつけないままに短くなった煙草を放り投げると、かれはもたれかかっていたガードレールから身を離した。
 「もう、行くわ」
 そう云って、かれはYOMYOMのマスターが去っていったのとは逆の方向にゆっくりと歩き出した。ぼくはたまらなくなってその背中に声をかける。
 「どうするんだい、これから。いったいどうするつもりなんだい」
 かれは立ち止まると、ポケットから手を出した。
 そしてかれは口を開いた。
 「おれはずっとおたくだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた。自分の正体さえわからないまま、世界の美しさだけは知りたくて、現実の似姿、うつろな鏡、虚構の中に溺れつづけた。それはひとえにおれが生まれながら喪失させられていたものを取り戻したかったからだ。だが、それでいながら当の現実を引き受けるだけの強さは、おれにはなかった」
 かれはこれまでの演技をやめて、驚くほど素直な表情で、威圧するようでも、おびえるようでもなく、ただ静かにとつとつと話す。
 「――おれが『世界、世界』と声高に、問題ありげに、さも重大そうに呼ばわるとき、それはけれど観念にすぎなかった。経済や政治や時代の病を負って苦悩する同朋たちのことでは全くなく、ただ自分だけを取り巻く違和感と不快感を意味していた。本当に、あきれるほど個人的なことだったんだよ! おれは、間違っていた」
 かれはいま、初めて誰かに伝えようとしていた。届こうとしていた。
 「おれは今日このまま部屋へ戻って、LDやビデオやCDや、ためこんだ様々のグッズをすべて破棄するつもりだ。それで何かが変わるなんて期待しちゃいないさ。結局また同じことを繰り返すだけのかもしれない。これはおれの中での、そう、儀式なんだ」
 ぼくは微笑んだ。この数瞬に、これまでの長い長い時間より多くかれを理解したからだ。
 そしてぼくは口を開いた。
 「君の言うとおり、ぼくたちにとっての世界とはまったく個人的で脆弱な感覚に過ぎないと思う。――他人の物語というフィルターを通じて垣間見た世界の感じは、分厚い布ごしに物を触るようなもどかしさだった。渇いた者が海水を与えられるように、ぼくはますます渇いた。ぼくはもうあがくことはやめて、ぼくにとってリアルでない世界に他人を通じて連絡を持とうとする努力はやめて、ただ自分のことだけを物語ろうと思う。物語るという個人的な営為が、世界に対して普遍性を持つ瞬間がきっとあるとぼくは思うんだ。個人的な意味が世界的な意味を超克する瞬間がきっとあるとぼくは信じる。だから、ぼくはもう傷ついた人のようにふるまうことをしない。ぼくは物語ることで明け渡してしまった自分を取り返す。『たとえ他人の言葉に取り込まれても』、ね」
 かれは大きく目を開いて、いまはじめて出会ったかのようにぼくを見た。
 「――ゲーテかい」
 「いや」
 ぼくは答える。
 「エヴァだよ」
 ぼくたちは声をあげて、心の底から笑った。
 やがてかれはしゃべりすぎたことを恥じるように顔をひきしめ、ポケットに両手をつっこむと、再び歩き出した。
 ぼくはその背中に別れを言おうとして、ふと気がつく。
 「待ってくれ! ぼくは、君の本当の名前をまだ知らない」
 「おれの名前かい」
 かれは最後に一度だけふりかえり、歌うように云った。
 「おれの名前は――」
 ビルのつくりだす峰から遅い都会の朝日がのぼる。誰もいなくなった店のシャッターに揺れる貼り紙。
 “長らくご愛顧いただきました当店ですが、誠に勝手ながら本日(7/25)をもちまして閉店いたします。今まで本当にありがとうございました。”
 Never seen a bluer sky.

となりの高畑くん

 「(こわばった表情で)おい、ちょっとこれ見てみろよ」
 「(鉛筆を走らせる手を休めずに)なんだよ。あとにしてくれないか。いまちょうどノッてきたとこなんだ」
 「(声を荒げて)いいから!」
 「(びくりと肩をふるわせて)ちぇっ! 主線が歪んじまった! …なんだよ、いったい。(無言で差し出された紙束を受け取って)なんだっていうのさ、これが…(目を通す)お、おい、こりゃ」
 「さっき高畠さんの作業机で摩耶子ちゃんが発見したんだ」
 「(両手で口を押さえて泣きながら)もう見れません。見たくありません」
 「(青ざめて)確かにこいつはひどいな…どういうつもりなんだろう、監督」
 「(摩耶子の背中をさすってなぐさめながら)いずれにせよ確かめる必要があるな」
 「(人差し指と小指をつきだした両手を身体の両脇にくねくねと動かしながら戸口より登場する)みなさぁん、おはようございまぁす。(やたらにフリルのついたその衣装をひらめかせつつ小指を軽く噛みながら)今日もはりきって絵、書きましょうねぇん(ウインクする)」
 「(勢いこんでつめよる)監督ッ!」
 「(大仰に肩をすくめて)どうしたの、そんな怖い顔しちゃって…そう、わかってるわ。アタシが遅刻したのを怒ってるのね。昨日はランボオの詩を翻訳していたらつい興がのっちゃって遅くまで…ごめんなさいね?(小首をかしげて斜め下から見上げる)」
 「そんなスタローンがどうなろうとおれたちの知ったことじゃないです! 高畠さん、これはいった…うわっ」
 「ビキッビキビキッ」
 「(地の底から響くような低い声で)…スタローン、だと?」
 「ザワッザワザワッ」
 「(内側から盛り上がる大胸筋の力で洋服をはじけさせて)ふざッけるなぁッ!(気迫が渦巻く波動となりスタッフ全員を吹きとばす)」
 「うわあああっ」「きゃあああっ」
 「スタローンだと、てめえ、怒りの脱出か、怒りのアフガンか、ああ!? (目から光線がほとばしり机の上のセルが熱に溶解する)この低能の、文学音痴の、ビチグソどもがぁ~~ッ! ハリウッド映画に興奮して思わず徹夜か、ビデオキャプションで楽しく英語のお勉強か、ああ!? (倒れている一人の襟首をつかんで高々と持ち上げて)どうなんだ、そのニラレバを喰う口で言ってみろ、言ってみろよ、斉藤ォォッ!」
 「か、監督、た、高畠さん、苦しい」
 「(高畠の足にすがりついて)やめて下さい、監督、死んでしまいます! 作画チーフが死んでしまったらこの作品を期日どおりに仕上げることはできません、監督、高畠さん!」
 「(持ち上げたスタッフが青い顔で白目を剥いて泡を吹いているのをみて手を離す)けっ。そもそもおまえらがつまんねえこと言うからだ。脳みその入ってないやつが書いた絵にどうやったら思想が込められるってんだよ(ソファに身を投げ出す)。おい、なんか上に着るもん持ってこい」
 「は、はい、ただいま!(部屋から飛び出していく)」
 「(自分で自分の肩を揉みながら)あ~あ、疲れた。今日はなんだかもう仕事する気分じゃねえな」
 「(おずおずと)高畠監督」
 「(不機嫌に)ンだよ。俺ァ今日はもう仕事しねえぞ」
 「(真剣な表情で)このことだけは今日聞いておきたいのです…(紙束を差し出して)これはいったいどういうことでしょう?」
 「なんだよ(紙束を手にとる)…ああ、これか。シーンの追加分だよ」
 「(全身をぶるぶるとふるわせて)こ、今回の作品は、”となりの山田くん”はホームコメディなんですよ! いったいどこをひっくりかえしたらこんな、こんな、(泣きそうな声で)こんな異常な場面が出てくるっていうんですか!(机の上に広げられた紙にはスキンヘッドの暴走族に鉄パイプで頭蓋が変形するほど激しくなぐられ眼窩からカニのように両目と様々の体液を噴出している山田家の父の姿やスキンヘッドの大男にのしかかられ首をしめられて苦しさに泣きながら舌を突き出す全裸の山田家の娘の姿が尋常でないリアルさをもって精神病患者の執拗さで細部まで克明に描かれている)」
 「(悠然と煙草を取り出して火をつけると深々と吸い込む)…わかってんだよ、もうな。見に来る連中の層が。この原作だって時点で。世界の変容を知らずに旧態依然とした家族という幻想に我利我利亡者、みっともなくすがり続けるようなやつらだよ。自分の息子が二階の部屋でヤクきめて幼児ポルノビデオ見てオナッてんのを知らず一階のリビングでPTAの奥様方と午後の紅茶を楽しみながらクソほどの役にも立たねえ自己満足の教育談義に花さかせてるようなやつらだよ。やつらが欲しがってんのは自分がいまいる位置への保証だ。自身の現実を揺るがすことなく楽しめる表層的なエンターテイメントだ。(両手を広げて)いいともさ、おれの技術でめいっぱい楽しませてやるぜ、快楽の声をあげさせてやるぜ! だがな、おまえたちが最後に手に入れるのはおまえたちがもっとも見たくないと、見まいとして目をそむけ続けている現実だ! そうさご名答、だらしなく与えられる愛撫を受け入れて精神を完全に弛緩させきったところにいきなりこいつをブチこんでやるのさ(紙束を取り上げて手の甲で叩く)! ひひひ、恐慌に陥る観客どもの姿が目に浮かぶぜ! 小市民どもめ、誰がおまえらに迎合する作品なんかつくるかよ! やつらの近視的な小市民性からくる根拠のない安定と対象のない優越を縮み上がらせてやるぜ! ちょうど交尾の真っ最中の犬ッころに水をぶっかけるようにな!(ソファごとうしろにひっくりかえってげらげら大笑いする)」
 「(握りしめた拳をわななかせながら)ぼくは、そうは思いません」
 「あ?」
 「みんな、みんなそんなことはわかってるんだ。みんなわかっていながら、自分の無力を感じて、それでもなんとか自分の力で対処しようと毎日必死に生きてるんだ! へとへとに疲れてそれでも明日はなんとかなるだろうと必死に生きてるんですよ! なんでこんな最悪の戯画をわざわざかれらに見せつけなくちゃならないんですか! みんなの心を休らわせるのが、一瞬でもいい、過酷な現実を忘れさせてやるのが、ぼくたちの仕事なんじゃないですか! こんなのは違う! 違います!」
 「(目を細めて)若けぇ…若けぇな。(肩越しに後ろに)おまえたちも同じ意見かい?(後ろには幾人ものスタッフが取り囲んでいる。みな、無言でうなずく)やれやれ、万国の労働者よ立て、だ。(机の上の紙束を手にして)わかった、こいつは引き上げるとしよう(スタッフの間をすりぬけ部屋を出ようとする)。おっと、最後に……おれは、まだおまえたちにとって監督、だな?」
 「そんな…当たり前じゃないですか!」
 「(微笑んで)そうか。ならいい…ちょっとちらかっちまったが、かたづけといてくれ。(引き締まった顔で)明日から本格的に作業に入るから、そのつもりでな」
 「(全員顔を見合わせて涙ぐんで)はいッ、監督ッ!(高畠、その声を背に部屋から出ていく)」
 『(略)…とたんに細密になる背景。ぐっとあがる頭身。不安定なカメラアングル。そこはこれまでの”山田くん”の世界ではない。そこは我々の世界だ。誰も特別でない、人間が不条理に死ぬ世界だ。人の死が意味性を持たない世界だ。誰もが不条理に殺される、我々のよく知っている空間だ。家庭というファンタジーの中でさえ精一杯の虚勢でかろうじて成立していた父の権威は、その残酷な現実においてもはやまったく力を持たず無力を露わにしてしまっている。家庭を守る存在として家庭から送り出されたかれは、自分の力が現実世界においてまったく役立たずなことを知りながら、なおすべてを放逐して戻ることを自らの矜持によって許されず、蟷螂の鎌、よろよろ立ち向かわねばならないのだ。すでに腐りかけている自分が権威であるという家族からの認識を少しでも長持ちさせるために。我々と同じ頭身の人物が工事用のヘルメットをもうしわけにかぶり、少しでも現実との対決を先延ばしにしようと立ち止まったり後ろ手に両手を組んでみせたりし、その心の動きのあまりに惨めな矮小さが、何よりそれを我々があまりによく理解できてしまうことが、我々の上に目を覆いたくなるような、耳をふさぎたくなるような、現実以上に生々しいリアリティをつきつける。暴走族のヘッドライトが山田家の父という失墜した権威の真実を無惨にも照らし出したとき、確かに目に見えてある残酷に対してまったく無防備な山田家の母と祖母が無知極まる様子でフライパンと鍋をおたまで打ちならしながら街路の向こうから登場したとき、私はかれらが確実に惨殺されるのだと覚悟した。”山田くん”の中にあるそら恐ろしいまでの脳天気さ、現実対処への眉をしかめるような甘えは、つくられた虚構の空間であるからこそ通用し、我々にも安堵と優越の笑いを起こさせたのであるが、結局のところそれは現代の現実とあまりにも――山田家の母と祖母が緊迫した人が死ぬ状況の中におたま片手に現れたときの悲しいまでの滑稽さ、自分たちを世界の中心にすえ自分たちがそういう状況において殺されることはないと思い上がった、あるいは想像力を欠如させた様子にはやりきれない気分にさせられる――あまりにもかけはなれてしまったものである。もはや主役という位置から引きずり下ろされたかれらが平凡な一家庭の構成員という立場で現実の危険と直面しその緊迫感が絶頂にまで高まったとき、暴走族の握りしめる鉄パイプが父の権威を喪失したただのくたびれた中年男の頭蓋を砕くその直前、かれらの頭身は2頭身へと変化し、カメラアングルはこれまで通りの安定したものに戻される。かれらは再び誰も死なない安全な虚構の中へと戻ったのだ。観客は緊張を解き安堵のため息をつく。高畠勲は”山田くん”の家族を現実に放り込み、さんざんっぱらその認識の甘さと現代の世相とかけ離れてしまった滑稽さをからかったあとに、ひょいとかれらにかれらの虚構の中での特権性を返却することであり得べき破局を回避させる。これはなんという皮肉だろう! この挿話が”となりの山田くん”全体に及ぼしている効果は激甚であり、物語すべての解釈を反転させるものですらある。この挿話の機能により山田家の脳天気さで切り抜けたそれまでのすべての状況の語り直しが行われるのである。つまり、”山田くん”の世界に、我々の現実という選択肢が新たに発生するのだ――たとえばデパートではぐれたのの子が最悪の変質者につかまり惨殺死体として山奥で発見される、といったような。この挿話の存在により”となりの山田くん”はまったく別の物語になってしまっていると言っていいだろう。(略)…高畠勲は人々の凡庸な小市民性を満足させるために”となりの山田くん”を作ったのではないということだ。変わってしまった世界を見ようともしないまま、もはや現代において無意味どころか有害ですらある旧態依然とした皆の安住するところの現実認識に冷水をあびせかけるためにこそ”山田くん”を作ったのだ。しかも、その批判気がつかない人間は自分が見たもののこの上ない皮肉さに気がつかないまま劇場を出て、かれらの行動によりさらに現実そのものが批判されるといった複雑きわまる構造で。ある意味では悪人・高畠勲の面目躍如と言えるのかもしれない。(略)…最後のシーンで今晩の夕食について好き勝手に言い合いをする家族にむかって山田家の父が言う『うるさい! おれが決める』という台詞、これは前時代の不器用な父権の生き残りを意味するのではない。現代において喪失された父権の回復を意味するのではさらにない。家族を社会という現実から物理的にも精神的にも庇護するという役割をもはや果たせなくなった――それは現実が苛烈になりすぎ、もはや個人の手にあまるということでもある――ひとりの疲れた男が、もはや何の特権も持つことのできない集団へ対して発したまったくニュートラルな一個人の苛立ちの言葉である過ぎないのだ。(略)…夜の公園でブランコに腰掛け、自分が月光仮面であったらと夢想する…そこにはたどりついてしまった大人の切なさがある。かつてそうありたいと願っていた物語のヒーローのようではなく、家族を守ることすらかなわない、現実に倦み疲れた自分。その心の空漠さはいかほどのものだろう。でも、私は家族を持つひとりの父親として山田家の父親に言ってやりたいのだ。確かに私たちは無力で、家族を守ってやることもできないつまらぬ存在かもしれない。しかし、それでも私たちは生きているんだ。生きているんだよ、と』

(アニメムンディ誌八月号 『チンポ大帝のアニメ丸かじり!』より抜粋)

風雲! 変態ペニスマン

 スモッグが雲を形成する都会の曇天にのぼる広告用アドバルーン。それの見下ろす休日の電気街を足早に行きかう人々。かれらのうちの長身猫背に周辺部に汚れのこびりついたブ厚い眼鏡の青年が振り返り、長年コミュニケーションをまともに行わなかった者の持つ特有の生理的嫌悪感を誘う聞き取りにくいくぐもった声で、
 「ははは、HP? ヒューレットパッカードの略ですか?」
 突然まきおこる一陣の風。と、ともに現れた一人の大男の回転胴回し蹴りが青年の頸部を的確にとらえる。その威力に引きちぎられた首は唇の上にもはや顔の造作の一部となってしまっている皮肉なひきつれを残したまま焼けたアスファルトと平行に飛んで近くに停車していたゴミ収集車の後部に濡れた音をたてて着地する。残された身体は切断面から突き出た管やら神経やら肉そのものからとめどなく血を噴出しながら二三歩首を探すようによろよろと歩き、ちょうど向かいから来ていた思い詰めた表情の小太りの女性に衝突してひっくり返る。女性、数秒ののちに事態を把握し怪鳥のごとき悲鳴をあげながら腰をぬかし小便をもらして路上へとあとずさる。そこに大型ダンプが走り込んでくる。金属と肉のぶつかるにぶい音。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」
 大男、振り返りもせずに走り去る。収集車のゴミを裁断する刃物が回転しはじめる。透明のゴミ袋の上に乗っていた眼鏡の青年の首は一寸刻み五分刻み、やぶれたゴミ袋から出る腐った汁とまみれて野菜炒め状のものへと形をかえていく。刃が眼鏡のフレームを噛んだのだろう高い音がまったく静かになってしまった休日の電気街に響きわたる。
 アパートの一室。壁一面にもはや地肌が見えないほどポスターが貼られており天井もその例外ではない。ベッドの上には大きな子どもほどもある枕が置かれており、枕カバーには素養のないものが見たらぎょっとなり後ずさるような身体的特徴を備えた幼児とも成人ともつかない女性の絵柄がプリントされていて、唇・胸元・足のつけ根のそれぞれに明らかに性質のよくないものとわかる染みがべっとりと広がっている。灯りのない部屋に唯一ぼんやりとまたたくモニター。それをのぞきこむ青年の顔は光源の具合かどこかのっぺりとして魚類じみて見える。ひっきりなしに続くクリック音。
 「ああッ! ジョセフィーヌちゃん(キャラクター名。生まれつき色素の少ない白子の美少女という設定。肉体的に虚弱であった生い立ちからか知性に優れ感情をめったに表に出さず世の中をはすにかまえて見ている。だが実は寂しがり屋で主人公にだけ心を開いた微笑みをみせる。男の精を定期的に経口摂取しなければ死に至る奇病の持ち主というエロゲー的御都合裏設定あり)が大ピンチだよ! …うへへ、ラヴ度(各女性キャラクターの持つパラメータの一つ。戦闘中に敵の攻撃からかばうなどのオプションで上昇し、MAX状態で愛の交歓シーンへと突入することが可能となる。余談だが、このゲームの宣伝コピーは『マックスでセックス!』だった)をあげるチャンスだぜ! よぉし、ヒットポイント回復の呪文ゼツリーンをジョセフィーヌへ…ん、なんだ…?」
 突然モニター中央にひずみが生じる。ジョセフィーヌのステータス画面に表示された顔グラフィックが次第に歪みはじめその歪みが頂点に達したときモニターの映像が暗転、まったく消滅する。次の瞬間、爆発音とともにモニターの画面が破裂し無数のガラス片をはじけさせる。壊れたモニターの中から一人の大男が身を乗り出して出現する。ことさらに顔を接近させていた青年の顔面はガラス片でずたずたに切り裂かれる。中でも特別大きく先のとがった破片が青年のとっさに閉じた瞼を貫通し網膜を破り水晶体にまで達する。両手で顔面を押さえながらごろごろと転げ回り二度とその恩恵にあずかることのない視覚に偏重して発展したおたく文化の粋である様々のアイテムをなぎ倒しながら獣のような悲鳴をあげる。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」」
 大男、ポスターの貼りめぐらされた薄い壁にディズニー的な人型の穴を開けて隣の部屋へと移動する。隣の部屋に一人留守番していた小さな男の子、突然の闖入者に驚きその進路上に硬直して動けないでいる。大男、気にとめたふうもなく進み小さな男の子の頭の上からゆっくりと足をふりおろす。数分後、室内には少量の血にまみれた肉塊から四本の手足が垂直に突出した奇怪なオブジェがただ残される。
 照りつける真夏の陽光。興奮極まり手にしたビールを高々と頭上に振り上げ観客席に足を打ちならす人々。怒号がうねりとなってスタジアムの中央に底流する。グランドには、精神の尋常さを疑わせる絶えることのない笑顔で、異様に等身の高い選手たちが立っている。試合中であるというのに頻繁に体力を消費する目的であるとしか思えない大声で『…バサくん!』『ミ…キくん!』などと呼ばわりあっている。その日本的ホモセクシャリティの表出を見ながらぎりぎりと歯がみをして短く刈り込んだ金髪頭の青年が仲間に向かって大声を張り上げる。
 「いいか! 名門ハンブルグ・ファランクスが日本などというサッカー後進国の一チームに敗北するわけにはいかないんだ! わかって…アアッ!?」
 突然まきおこる一陣の風。太陽を背景にあらわれた現れた人影がまたたくまにボールをうばうと信じられないような速度で日本のゴールへ突進する。『12人目だ! 反則だ!』『かまいはしないさ! 誰であろうとグランドに立つ者は俺たちのライバルだ!』『よく言った、…バサ!』『おおっと、審判もこの反則を流しています! 試合の流れを重視するためのまさに名ジャッジでと言えましょう!』などという勢いにまかせた不合理なやりとりが現実時間を無視した劇中時間で瞬間的になされる。『顔面ブロックだ!』ラグビーでもないのに下半身に上半身で当たるマゾヒスティックなブロックをいがぐり頭の少年が試みるも、かれは永遠にブロックするための顔面を喪失することになる。赤く染まる芝生。眼前にくりひろげられる非日常に熱狂をましてゆく観客。打ちならされる足の音はもはや地鳴りである。口角泡とばし連呼される言葉は、『殺せ! 殺せ!』。『ワシが相手タイ!』キャラクター書き分けのために与えられたもはやどこの方言なのかわからない言葉を発話しながら巨漢がたちふさがる。大男のボールを保持してないほうの足がゆっくりとあがり前向きに突き出される。巨漢の腹に漫画的な五本の指がすべて数えられる向こうまで見通せる足形がぽっかりと空く。しばしの空白の後、その穴に臓物と血液が殺到し勢いよく噴出をはじめる。はじめて根拠のない自信に満ちた笑顔を失い泣きじゃくりながら流れ出る自らの臓物をかきあつめて元へ戻そうとする巨漢の背中をさらにふみつけにし、ゴールへの行進を再開する大男。もはやボールをうばう気概もなく泣きながら観客席へと逃げ込もうとする主人公格のふたり。熱狂した観客はしかしそれをゆるさない。ビール瓶で殴打され、小便をかけられ、二人はグランドへと押し戻される。キーパーが気丈にもゴールのまえから離れずにいるのはただ腰を抜かしているだけだ。キーパーの前に生まれる黒い影。見上げるその先には果たして例の大男が立っている。鼻水とよだれを垂らした白痴的な恩情哀願の笑顔はもはやそれまでの笑顔とは性質を異にしている。大男の振り上げた足がキーパーの顔面をとらえ、振りぬく。眼球や上顎の骨などキーパーの顔面だった破片がゴールネットにこびりつく。主人公格の二人、泣きに泣きながら互いに互いを大男のほうへと押しやり少しでも長く自分が助かろうとする。大男、悠然と近づき暴れまわる二人の後頭部にてのひらをあてがうと観客席直下の壁面へと押しつける。短い、風船のはぜるような音。
 そして壁面に残された無意識のアート。大男、くりぬいた海水パンツから露出したいちもつを風にあわせてぶぅらぶら、少女漫画的な星の輝く瞳から涙をとめどなく流しながら無表情で、
 「HPちゅうたらおまえ、”へんたいペニスマン(Hentai Penisman)”のりゃくやないか! よぉおぼえとけ!」
 大男、観客席によじのぼると熱狂しとびかかってくる観客たちを片ッ端から撲殺しながら歩み去る。グランドに残されたハンブルグ・ファランクスの面々。死屍累々たるスタジアムにチームの中の一人が発作的に笑いはじめる。伝播する狂気の波動。夕闇に浮かび上がるいくつかのシルエットと耳を聾せんばかりにふくれあがっていく奇声。

ペニスの王子様

 「(煙草の煙で黄色くなった壁にかかる時計に目をやって)しかし遅いですね」
 「(コーヒーのしぼりかすが盛られた灰皿に半分も吸っていない煙草を神経そうにつきたてて)なァに、いつものことさ。自分に箔をつけるために必ず約束より二時間ばかり遅れてくるんだ、あの人。気長に待とうや(ソファにのけぞり天井をあおいだまま動かなくなる)」
 「(しばらく組んだ両手を見つめているが沈黙に耐えきれず)ねえ、松岡さん」
 「(気のないポーズで)なんだ」
 「ぼく、一度もお会いしたことないんですけど、許斐先生ってどんな人なんですか」
 「(目に宿る光の種類が明らかに変わる。だが表面上は気のないポーズを崩さず)まァ、簡単に言っちまえばどうしようもない俗物だな」
 「(怪訝そうに)俗物、ですか。お金の支払いにうるさいとか、そういう?」
 「おまえね、(上体を起こして)そもそも漫画なんか書こうってやつがそんなわかりやすい屈折の仕方してるはずないだろ。うまく行かない現実の差分を自分で作った物語で、それも漫画なんていう(唇の端をふるえるように歪ませながら)低劣な物語で埋め合わせようってんだ。この職場でまともな人間に遭遇できるなんて期待はハナっから捨てたほうがいいぜ…(身を乗り出す)で、許斐のことだがな、放送禁止用語だとか世間一般でタブー視されている言葉を公衆の面前でことさらな大声を張り上げて口に出してみせることで無頼きどり、自分は破格の革命者だとふんぞりかえれるようなおそろしいまでの単純な精神の持ち主の類だ。先日も許斐とふたりで満員電車に乗り合わせる機会があったんだが――接待の帰りでな、おれはタクシーを使おうって言ったんだぜ。今の時間は混んでますからってな。だがやつは経費節減だとかもっともらしいことを言って、そもそもあれが伏線だったんだな…へぼネーム書きめ!――文字通り寿司詰め状態の車内でやつはこう切り出してきやがった『なあ、松岡くん。先日おれは儒人症の女と寝る機会を持ったんだが、そいつのヴァギナはどうなってたと思う?』。おれはそのあまりの無神経さにぎょっとなってそんなことを言う意図がわからず許斐の顔を見返したんだが、やっこさん、にやにや笑ってやがるんだ。それがうちの五歳になる息子が”うんこ”とか”ちんぽ”とか言うときとまったく同じ笑顔なんだよ! おれはもうぞっとして一刻も早く許斐のそばから離れたかったが、無視するわけにもいかない、わずかに許斐の顔から視線をそらして極力くちびるを動かさないように適当に相づちを打っていたんだ、同類だと思われたくねえからな。そうしたら許斐のやつ、またニヤーッと笑ってさ、『なぁんだ、松岡くん、ビビッちゃったの? 案外××社の編集者もだらしがないんだねえ!』と大声で言いやがった! おれはよっぽどぶんなぐってやろうかと思ったし、事実ぶんなぐりかけたんだが、そうならなかったのは満員電車が災いしてか幸いしてか両手とも動かせない状態にあっただけのことだ。(徐々に息があらくなる)そのあとも許斐の野郎、”目盲滅法”やら”片手落ち”やら”おし黙る”やら”カントン型”やら”雲竜型”などの単語をやつの降車駅まで連発し続けた。自分の駅に降りて窓越しにおれを見送るやつの心底楽しむような表情といったら! そのあとおれが電車内にどんな心持ちでどんな顔をして残ったかわかるか!? 許斐の野郎め!(両手でテーブルの上を思いきり叩く。灰皿がはねあがり、ひっくり返る)」
 「(どう返答してよいかわからず視線を宙にさまよわせる)あっ、先輩、あれは(立ち上がり部屋の入り口を指さす。おそろしいせむしの小男が肉感的な西洋美女ふたりを両手に抱き、ほとんどぶらさがるようにしてやってくる)」
 「(床に唾を吐いて)許斐だよ。見間違いようもなく許斐だ」
 「あの女性たちは許斐先生の恋人なんでしょうか?」
 「タレント事務所に金払って雇ってんだよ。あの顔面見てものを言え」
 「(作られた鷹揚さで周囲を眺めながら、二人のそばでいまようやく気づいたという演技で)おや! そこにいるのは松岡くんじゃないか!」
 「(ぴょんと跳ねあがりソファの横に直立不動で)先日は先生との夢のようなひととき、本当に楽しゅうございました。そしてまた今日先生にわざわざお運びいただけるなんて、不肖松岡正、随喜の涙を禁じ得ません(スーツの袖に顔をうずめて泣くまねをする)」
 「(後ろを振り返り二人の西洋美女にひらひらと手を振って)あ、君たち帰っていいよ。ヴァギナ、バック、アヌス、エレクト、オーケー?(二人の西洋美女、顔を見合わせ肩をすくめて立ち去る)」
 「(手のひらで額を打ち)いやぁ、さすが許斐先生! 英語もご堪能でいらっしゃる!」
 「(気にしたふうもなくソファに横柄に身を投げ出して)あいかわらずうっとおしいね、君は。(片方の眉をつりあげて)で、この子だれなの。見ない顔だけど」
 「ばばば馬鹿っ。(青年の後頭部をひっつかまえるとテーブルの上にがんがん叩きつける)聞かれる前にちゃんと自己紹介しないか! (床に頭をすりつけ平伏して)申し訳ございません、すべては私の不徳の致すところ。こやつめは今度うちに入社しました新人でございます。許斐先生に是非お顔を覚えて頂こうと同席させた次第でして。ははっ」
 「あっ、そう。どうでもいいけど。(片手をあげて)許斐です、よろしく。それじゃ、さっそく次回連載の打ち合わせを始めようじゃないの」
 「はっ。それでは先生の御企画、拝見いたします(両手を前にうやうやしく突き出す)」
 「馬鹿か、おまえは(テーブルの上にあったガラス製の大きな灰皿を取り上げて松岡の額へとしたたかに打ち付ける)」
 「(額が割れ、血が噴き出す)ぎゃっ。(傷を押さえながら)せ、先生。何かお気にめさないことでも」
 「(とたんにやさぐれた口調で)何年編集やってんだよ。新人の持ち込みじゃねえんだから、おれくらいの大家がわざわざしこしこアイデアを紙にしたためて持ってくるとでも思ってんのかよ、ああ?」
 「(とめどなく流れる血に視界をふさがれながら)申し訳ありません、申し訳ありません。(揉み手で)先生のお言葉は常に私の上に天啓のように響きますです」
 「わかりゃいいんだ、わかりゃ。今からしゃべるぜ。おい、チンポ面のおまえ」
 「ぼ、ぼくのことでしょうか」
 「他に誰がいるってんだよ、ボケが。学校の授業じゃねえんだ、二回は言わねえからちゃんと書きとめとけよ」
 「(大慌てで机をひっくり返して)か、紙、え、鉛筆」
 「(その様を尻目に土足のままテーブルの上に両脚を投げだす)さぁて、どこから話すか。まず今回の主人公はだな、精力絶倫の中学生だ。物語は電車の中で下半身を剥き出しにチンポの握りかたについて熱く議論している高校生に取り巻かれた女子中学生の顔のアップのコマから始まる。『あっはっはっ!! お前ら自分のチンポの握りも知らねぇのかよ!』、飛び散る男性の飛沫に困惑気味に顔をしかめる女子中学生。さすがに鈍いおまえらでも気がつくと思うが、この女子中学生が今回のヒロインだ。おれはこの女子中学生を『きゃん』という擬音をハートマークつきで臆面もなく公衆の面前に発話できるようなメンタリティの持ち主に設定するつもりにしてる。中学生の性を知らないままにやる無意識的な媚び、こいつはたまらなくおッ立つぜえ!(コーヒーを運んできたアルバイトの女子に人差し指と中指の腹で挟み込んだ親指を出し入れするのをにやにや笑いながらことさらに誇示してみせる。小さく悲鳴をあげ真っ赤にした顔を盆で隠しながら小走りに逃げていく女子アルバイト)全国の男子学生とサラリーマンのチンポわしづかみにしてやんぜ!」
 「(ハンカチで額をぬぐいながら)先生、なにぶんうちは少年誌ですので、どうぞお手柔らかに。(許斐の顔が不機嫌に曇るのをみてあわてて)あいや、しかし! アイデアのすばらしさについては数年来まれにみるものではないかと! さすが許斐先生、わかってらっしゃる!」
 「(自尊心をくすぐられた顔で小鼻をふくらませて)当たり前じゃねえか。で、続きなんだが、その窮地にさっそうと一人の少年が助けに入るわけさ! 台詞は例えばこうだ、『ピーンポーン、勃起したチンポを上から掴むように両手で持つのが正しいチンポの持ちかたさ。よくいるんだよね、利き手でつかんで根本からチンポ湾曲させてるヤツ』。主人公の名前は疥癬スペルマ、ちょっとしたレトリックをおれはネーミングで楽しんでみた…まぁ、低劣な知性の持ち主の○○○○読者になどは気づかれようはずもないからまったく無意味な遊びに過ぎないんだが、おれのプロとしてのちょっとした美意識というやつだ。(ことさらに声を張り上げて)まぁ、海賊漫画なんかに興味を示すような低劣な知性の○○○○読者になどはおれの漫画がわかろうはずもないんだが! (徐々に声がうわずり、ふるえ、それが全身に伝播する)海賊だって!? 馬鹿にするんじゃねえ! 海賊物語なんてのはスティーブンソンの昔にとうに終わってんだよ! 白痴が、おれの真価を理解もできない白痴めらがッ!(すぐそばに置いてあったパイプ椅子を取り上げ編集の窓ガラスをすべて破砕しにかかる)」
 「(後ろから飛びついて羽交い締めにし)先生、落ち着いて下さい、落ち着いて下さい!」
 「(血の混じった唾を床に吐いて)それもこれも松岡、てめえが無能なのが悪いんだよ。まぁいい。これが当たりゃ、それでチャラにしてやる。(椅子を放り投げて)そういやまだタイトルを言ってなかったな。タイトルはずばり”ペニスの王子様”だ。おまえたちの手間をはぶいてやるために表紙のアオリまで考えてきてやったぜ。『生意気。クール。失礼な奴。でもめちゃくちゃセックスが強い! いじわる。皮肉屋。あまのじゃく。だけどもめちゃくちゃセックスが強い! 無愛想。性悪。とっつきにくい。それでもやっぱりめちゃくちゃセックスが強い! 大胆。不適。負けず嫌い!だから めちゃくちゃセックスが強い! めちゃくちゃセックスが強い!”ペニスの王子様”』。どうだい。まったく作家にここまでさせやがって、おまえたち本当に楽なメシ食ってやがるよな、ええ?」
 「はっ。(ハンカチで額をぬぐいながら)まったく汗顔のいたりでございます」
 「けっ。ほんとに反省してんのかよ。ま、いい。でよ、これが今作品のイメージ画だ。いいアシスタント使えよ(取り出したくちゃくちゃのスーパーのちらしの裏にミミズがのたくったという形容が寸分たがわず当てはまるような筆致で身長の倍ほどもある魔羅をかかえた人物の絵が描かれており、その鈴口から直にのびた吹き出しには『イクイクー』という文字が踊っている。そのかたわらには縮尺のまったく正しくない髪型でかろうじて女性だとわかる人物がおり、不自然な位置からのびる吹き出しにはかろうじて『あぁん、エッチだよぅ』と判別できる殴り書きがある)」
 「(メモを取っていた手を止めて)あの、質問よろしいでしょうか」
 「(不機嫌に)なんだよ」
 「(ちらしに表記された二人のキャラクターのさらに後ろに立つ男とも女とも赤ん坊とも老人ともつかぬ、『さすがだね、スペルマ』という吹き出しを持つ不気味なクリーチャーをおそるおそる指さして)こ、これ、なんなんでしょう」
 「(ちらしを取り上げしばし凝視する。が、やがて放りだし)知るかよ。言ってみりゃ、それはおれの無意識の抽出だ。そこに凡人にも理解できるよう意味づけをして世界と天才との橋渡しをするのがおまえら編集者の役目だろうが。ガキの使いじゃねえんだ、いちいちおれに解釈を求めるんじゃねえよ」
 「しかし! たとえそうだとしてもこんな至極平凡なシナリオの断片と、便所の落書きみたいな紙ッきれ一枚でいったい何を作れっていうんですか! (興奮して立ち上がり)ぼ、ぼくはあんたみたいな漫画文化を喰い物にする芸術家気取りの高卒キチガイの尻をふくために青春のすべて捧げて有名国立大学に入学したんじゃないんだ! 血のにじむような、魂を削るような就職活動の末に××社に入社したわけじゃないんだ!」
 「ンだと、この野郎ッ! (激昂して鼻血を吹き、そばにあったパイプ椅子をひっつかむと止める間もあらばこそ、青年の頭頂部にむけて振り下ろす)てめえみたいなプライドだけは人一倍の受験社会の申し子みてえなのが作家の持つ狂気の自分たちが経てきたものとは違うおそろしいまでの独自性に嫉妬するあまり、それをなんのかんのと理屈をつけて希釈してチンポ抜かれた去勢漫画を世に送り出すんだよ! 自分大事の最低のビチクソがっ!(最初の一撃でぐったりとなった青年の倒れた後頭部に何度も何度もパイプ椅子を振り下ろす)」
 「先生、先生ッ!(後ろからとびついて羽交い締めにする)」
 「止めんなよ、松岡、止めんな!」
 「先生、もう死んでます。死んでますから!」
 「(肩で荒い息をしながらパイプ椅子を放り投げる。間。突如青年の割れた後頭部より流れ出すどろりと白濁した脳漿を指さしてげらげら笑いながら)見ろよ! こいつ、頭の中まで精液がつまってやがるぜ! 自分の想像の中の世間にしか興奮できないオナニー野郎め! 真実、世界と交わったこともないくせに理屈だけは一人前の無精子症め!(青年の側頭部を蹴りつける)」
 「(青年の血が付着したちらしを拾い上げて冷静に)アシスタントは一両日中には用意させていただきます。先生はいまある構想と思想をさらにお深めになって下さい。死体の始末はいつも通りこちらでやりますのでご心配なく」
 「(毒気の消えた顔で)悪いな」
 「いえ、それが編集者の仕事ですから。先生は我々ぐらいの生死ことなど気にとめず、ただよいお仕事をなさってくれればよいのです(指を鳴らすと全身白い服に身を包んだ男が数人やってきて青年の死体をかつぎあげ、いずこへかと持ち去る)」
 「(その後ろ姿をぼんやりと見送ってから、おもむろに片手をひょいと挙げて)それじゃ、今日はもう帰るわ。あとよろしくな」
 「(最敬礼で)お気をつけてお帰り下さいませ」
 「(先の乱闘でくじいたのか、片方の足をひきひき編集部を出ていく)…むか~しむかし、隣のびっこひきのバアチャンがよォ…」