猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

追憶の夕べ

 「(ベランダで海に沈む夕陽を眺めている。目尻を指でぬぐいながら振り返り)いや、失敬。みっともないところをお見せしてしまったようだ。今日はね、いつものような大騒ぎの感じではなく、一度静かに君と話してみたいと思っていたんだ。センチと笑ってくれてもいい。そういう気分なんだ。
 「アメリカと呼ばれる国がある。世界の中でも最も新しい国のひとつだ。映画産業や、宇宙開発や、まァいろいろあるが、かれのするすべての行動に共通する要素は、先へと進むことを自らの存在に課しているという点だ。誰に求められたわけでもないのに、かれが誰よりも先に前へと進まなければならないのは、野盗の切り取りのごとき後ろ暗い発生の理由を、その根源にごまかしようもなく抱えているからだよ。過去へ誇ることのできる存在の基盤を持つことができないかれの過剰なまでの進取は、殺戮と駆逐という名前の原液を溶液へと薄める続けることでついには無くしてしまおうとするためにそそぎ込まれた薄めの水そのものであり、知られたくない出生の秘密を覆い隠そうとする決死のもがきの現れに他ならない。かれの発する言葉がすべて論理であり、かつ奇妙なほど小昏い部分を持たないのは、かれの持つわずかの歴史のほとんどが、その正反対の性質のもの――つまり、不条理と昏い闇に彩られてきているからと言えるだろう。その意味からすると、宇宙開発は、誰かの手にあるものをもぎとるしかなかったかれが、誰の手のものでもない場所へ到達することによって、存在の基盤を清浄な次元へと移行させようとする必死の努力であると見ることができるし、、映画産業は、クレープの薄皮のように、誰の手にも触れられない虚構という次元を現実へと広げることでの、遠回しな集合無意識への介入であるとも言えるかもしれない。でも、それだけじゃあない。裏切りと策謀の果てに玉座へと上った孤独な王が毎夜見る、これまでの自身の行動の鏡写しとしての悪夢に、かれはさらに経済という名前の単一のパラダイムで世界のすべてを併呑しようとする。様々の血が混ざり合っているという、自らの存在の定義の曖昧さへの釈明として、かれが好んで声高に主張する”個性”という言葉はここにおいて反転し、かれが本当に求めていることは、多様さによる個性どころではまったくないことがわかる。かれが望むのは、自分と同じ価値観による世界の没個性化なんだ。かれの恨みは自分に歴史が無いことにあった。血とか、家とか、ただ続いてきたというだけで強烈に存在し、この上もない確かさで主張し、自らを脅かすものども、何の理屈も無く結びあい、維持する能力も持たないままゆるゆると愚かに継続する非論理。自分には無いその確かさ、ゆるぎない唯一性を、かれは気の狂うほど欲した。例えどれだけ時間が流れようとも、元々敷設されていた旧来のレールの上を走る限り、新参が新参でなくなることはありえないからね。かれがそれを達成するために求めたのは、かれの提供する新しいパラダイムの上でのすべてのやり直しだった。スタジアムに遅れてきたマラソン選手が、先を行く他の選手を呼び止めて、マラソンなんかつまんない、そんなのはやめてやっぱり走り高跳びで勝負しましょうってな具合だよ。でも、いったいどこのお人好しが自分のリードを放棄してまで、相手の得意分野に競技変更しようと思うだろう。匕首を相手の喉元につきつけてのやり直し請求はほとんど成功しかけているように見えた。だが、羽虫と羽虫が違うように、牛馬のそれぞれ持つ個性のように、たったひとつの価値観が世界をおしなべてしまうことは、少し東洋的に過ぎるかもしれないが、更なる巨大な摂理の流れに矛盾すると言える。そこへ、摂理の揺り返し、あるいはまったく別のパラダイムからの巻き返しが起こったとして、何の不思議があるだろう。業の精算を過去ではなく未来に求めたこと、自分は本当は生まれてくるべきではなかったのではないかと煩悶する子どもが、自らの存在を内へと許容することではなく、外へと主張することによって居場所を作り出そうとしたこと、それらの歪みが臨界点へと達した結果、かれのすべてを盲にする特異点が生まれ、 巨視からの揺り返しが起こった。簡単に言いかえれば、かれは自身のトラウマからの逆襲を受けたんだ。血塗れの半身を押さえながら立ち上がり、しかしかれはなお外へと主張しようとしている。許容することは、自分が正しくなかったことさえも同時に認めなくてはならないからね。そして、それを認めてしまえば、かれはこの世界に存在できなくなってしまう。
 「オヤ。なんだか岸田透みたくなってしまった。そうだね、こんななんでもお見通しの神様みたいな言い方じゃなくて、個人的な感想を言わせてもらおうかな。今回の事件を知ったとき、ぼくは本当に、心の底から興奮した。だって、そうじゃないか。ぼくが生まれたとき、すべては終わってしまっていて、世界は情事が終わった後の娼婦みたいに、ぼくを拒みもしないかわりに、ぼくを受け入れもしなくなっていた。ネクタイを締めて、あるいは制服を着て、毎日会社や学校へ行き、たまの休みには家族や友人とそれなりに楽しくないこともない時間を過ごす、そんな世界の揺るがなさは、例えぼくが百万年生きたところで、一千万年生きたところで、決して変わることはないと、ぼくは何の根拠も無しに信じていた。そうだということを知っていたんだ。ぼくは、死んだ祖父が熱っぽい目をして戦争を語るときに必ず感じた、あの言いようのない劣等感を久しぶりに思い出した。ぼくは、それに対しての快哉を叫んだのかもしれない。一番最初にぼくに浮かんだ気持ちは、同情でもなく、悲しみでもなく、まして憤りですらなく、そう、快哉だったんだ。世界という名前のゆるやかなあきらめに生じた亀裂を見た者の、変容への期待に満ちた快哉。言ってくれなくてもいい。ぼくは、異常者だ。どれだけ強く殴れば人が死ぬか、どれだけ深く刺せば人が死ぬか、最も秘すべき性の知識でさえも湯水以下の価値の情報として氾濫する中で、本来なら生物がすべて持っているのだろう、その命への実感がぼくには決定的に欠落している。ぼくの知っている血は、瞳に照り返すゲームのモニターの赤でしかない。ありとあらゆる知識をあびるように与えられ、肉を養うすべての栄養をふんだんに与えられ、そうして、ぼくは命の実感とは最も遠いところにいる。もう一度言うよ、ぼくが最初に感じた気持ちは、そのあと生まれたすべての良識的な社会からの感情を越えて、まぎれもない快哉だった。世界が再生するための死のイベントへ向けた、心からの喝采だったんだ。自分以外のもののする痛みを知らず、羽虫の浮いた水たまりに這いつくばり、陶酔した表情で泥水といっしょに快楽をすする、ぼくは、異常者だ。
  「相手に与えたものは、必ずそれ以上の大きさで返ってくる。暴力をするものには、より苛烈な暴力が。ただ、愛だけがこの法則の例外なんだ。いくら与えようとも、それは――(海へとせり出したバルコニーの籐椅子に腰掛ける一人の男。背後からその頭蓋に銃口が押しあてられる。次第に上昇してゆくカメラ。男の姿が完全に映像から消えた瞬間、銃声が鳴り響く。カメラのレンズへ、わずかに血の飛沫が付着する。照り返す夕陽に、無限の美しさをたたえた南国の海)

イマジン

 何もない日々。穏やかな日々。(閉め切った薄暗い室内のじめじめした布団の盛り上りが画面に映る)。大手サイトのリンク集に名前を連ねることもなく、ネットワナビーの経営する弱小サイトの掲示板で非難や中傷の的になることもない。ネット社会での私は完全にいないものと同じになっていた(布団の盛り上がり、画面に映る。さきほどと比べ、窓から差し込む陽光に室内の様子が明るくなっている)。まるで、個人日記サイトなどというネット上のカテゴリを知ることもなく、ただガツガツと心を飢えさせていた十代のあの頃に戻ったかのようだった(布団の盛り上がり、画面に映る。窓から差し込む陽光、弱まってきている。盛り上がり、微動だにしない。間。室内は再び暗闇に包まれる。布団の盛り上がりがわずかに揺れる)。食卓で愚息の余分な薄皮を弄びながら、。おたくとは一番遠い人のように、まるでおたくを人ごとのようにして談笑する自分を見つけたとき、私は愕然とした(湯気を立てる食事を前に、ズボンを半ばずりおろしてチンポの皮を引きつのばしつしている男が、対面に座った女性に強く叱責されている写真が挿入される)。私がいるいないに関わらず、ネット社会の時間は変わらずに流れてゆく。だが、それを知って、気が楽になった。『サクラさん』は、朝の用便の最中に着想してから1時間で書き上げた。(軽快な音楽とは裏腹な、薄暗い部屋の中で分厚い眼鏡に背中を90度に丸め、 モニターから10センチの距離に顔面を接近させた鬱陶しい図柄の写真が、何枚もスライドのように画面に挿入される。最後の写真は、”笑いの演技の練習中”としか形容できない男の顔面の様子がアップで写される)
 (映画館の座席に腰掛けた男の姿が映し出される。股ぐらにポップコーンの大きな器を抱え込んで、ぼろぼろと盛大にこぼしつつむさぼっている) 「ア、アニメはいいね。アニメはとてもいい。だってそれは本当のことじゃないからね。本当のことじゃないってことは、覚悟をしなくていいってことだよね。だからとてもいい(スクリーンの映像の光が男の顔面に照り返し、一種異様な雰囲気を作り出している)」
 ――あなたはアニメの中で、何が一番好きですか?
 「小さな女の子だね。生まれ変わって、まず何になりたいかって聞かれたら、小さな女の子だって答えるよね。だって、そうすれば、ずっと誰からも後ろ指さされることなく小さな女の子といっしょにいられるわけだよね。いや、ちがうんだ、もちろんアニメの方の小さな女の子だよ。だって、現実の小さな女の子は、まァ悪くはないけど、泣くし、臭いし、わがままだし、じきに小さな女の子じゃなくなってしまって、ただのイヤな女が残されるだけでしょ。それはとても残酷だし、ぼくにとっても、女の子にとっても辛いことだよね。ね。(男の隣に座っていた女性、もうたまりかねたといった様子で席を立ち上がり、その場を立ち去る。湿度が高まった女性器を指で擦るときの擬音に、甲高い声で”アイアムゲイカ”という歌詞の連呼が加わる曲が流れ始める)」
 (ひどいせむしの男と女性が、第三者が見たならばお互いが知り合いであるとはとうてい思えないような距離をおいて歩いている) ”ぼくはホームページを更新するとき、自分と同年代の人々を思いながら、彼らに語りかけるように更新するんだ。『やあ、小鳥猊下だ。最近調子はどうだい。元気でやってるかい。80年代、90年代はガンダムとかエヴァンゲリオンとか、大作化するRPGとか、ジャンプの衰退と復権とか、ひたすらおたくで、さんざんだったな。21世紀はお互いいい時代にしようぜ』”
  
 「(小太りの男が、ほとんど両足を動かさないまま、左右に跳びはねるように近寄ってくる。フェンスに飛びついて)なあ、小鳥猊下、あんた小鳥猊下だろ。信じられねえ! 今日ここで会えるなんて! なあ、握手してくれよ! おれ、あんたの大ファンなんだ。(せむしの男、尊大にフェンス越しに手をさしのべ、握手をする)信じられねえ! 信じられねえよ! なあ、聞いていいか? nWoはいつ更新を再開するんだ?」
 「明日だ(せむしの男、フェンスから歩み去る)」
 「(跳びはねて近寄ってくる小太りの仲間たちに向かって)なあ、小鳥猊下だ。小鳥猊下と握手しちまった! おれ、信じられねえ! 信じられねえよ!」
 (黒い服に身を包んだ女性が背中を向けて座っている)
 「いま思えば、いくつか事件の暗示はありました。発売日にジャンプを買って来なかったり、以前はあれだけむさぼるように執着していたし、批判の言葉もものすごかったのに、最近では1時間ほどでゲームをプレイすることをやめてしまったり。何のコメントも無くです。ああ、でも、これらはすべて後付けの理屈なのかもしれません。本当のところ、かれの内側で何が起こっていたのかは、どんなに近しい人間にもわからない。かれにしかわからない、かれだけの世界なのですから」
 (プリントアウトしたものらしい紙束を胸に抱えて、数人の女性が泣きじゃくっている)
 「私たちにとってnWoは特別なの。私たちは小鳥猊下とともに成長してきたわ。猊下は私たちがなんとなく感じていた生きにくさに指をさして、”それはおたくだ”ってはっきりと言ってくれたの。私たちは初めて自分たちのおたくに胸を張ることができた。学校にいても、会社にいても、どこにいてもnWoがそこにあるってわかったから。おたくじゃない猊下のnWoなんて考えられないわ(紙束に顔を埋めて号泣する)」
 早朝の駅前ロータリー。低く流れるキーを外した不安な音楽。とある量販店の前で、某有名大作RPGの路上販売の声が響く。遠くからふらふらと歩いてくる男。男、香港の路地裏の屋台に裸にむかれて吊された鶏の死骸を連想させる様子でネクタイに緊縛されている。高まる不安な音楽。路上販売のあげる威勢のいい声。ふらふらと白昼夢の中の人のように、そこへ歩み来る男。突然の突風に揺れる某有名大作RPGのロゴを染め抜いた旗。路上販売のまさに前にさしかかる男。音楽はもはや耳をおおわんばかりの音量と不安定さで流れている。一瞬写真のネガのように反転し、停止する風景。男、路上販売に一瞥もくれずに通り過ぎる。叩きつけるピアノの音。男、人混みの中を駅のエスカレーターへと呑み込まれてゆく。駅前に行き交う老若男女、男の姿が見えなくなると一斉に地面に倒れふし、大声で泣きわめきながら、”オールユーニードイズオタク”という歌詞を、互いに肩を組んで即席のウェーブを作りながら歌い始める。
 ぼくは自分の中のおたくがわかりすぎるぐらいにわかってしまっていた。例えば”12名の血のつながらない妹による乱痴気騒ぎ”といった断片的なキーワードから、自分がどのくらいの笑いとエロと批判と自虐とを含んだ更新をすることができるか、やる前からもうすでにわかってしまっていたんだ。生来の内罰性と無気力が、互い自身の歪んだ相似からくる際限の無い自己嫌悪の螺旋を作り出す平穏な日常という名前の地獄。ぼくとぼくの中のおたくはいつも、とても苛立っていた、お互いのすべてが見えてしまっていた。創造の魔法は終わったんだ。
 (明らかに日本人では無いが、国籍の特定できない顔立ちの男が、正面を向いて座っている。心地よいと感じる抑揚をわずかに外した日本語で、男、話し始める)
 「それは最初はほんの気まぐれな思いつきだったのかもしれません。きっとお互いの中にあった閉塞感に何か、風を入れることができたらと思ったのでしょう。実際かれらの様子はとても陽気で、何もかもうまくいっているように見えました。でも、そのとき、そこにいた誰ひとりとして、それがnWo最後の更新になるなんて、想像すらしていなかったのです」
 ビルの屋上に置かれた雨ざらしのスピーカーから、突如”ドントレットミーゲイカ”という歌詞で始まる曲が、薄曇りの夏の夕空に向けて大音量で流れだす。スピーカーより遠ざかっていく視点。最初、耳を覆わんばかりのすさまじい音量で、スピーカーの音割れからか、何か人外の獣の吠え声のような、悲鳴のような切迫感を伴っておんおんと周囲に鳴り渡っていた曲も、カメラの視点がわずかに遠ざかるだけできれぎれとなり、すぐに何も聞こえなくなる。

サクラさん

 「あ、宅急便。暑い中えらいご苦労さんです。ハンコおまへんねやけど、サインでよろしいですか」
 「あなたが注文購入したのが某有名RPGの最新作でなくて幸いでした。もしそうなら、なんとひとりよがりな、もはや比喩表現による婉曲的な揶揄の意味ですらない”一本道”RPGを愛好する輩と、泣きじゃくって許しを乞うまで、玄関先であなたをキツくキツく殴りつけてしまっていたかもしれませんからね」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「兄さん、真顔でえろう怖いこと言いますなあ。そんなガタイとサングラスで言われたら冗談に聞こえへんわ。サインでよろしいですな? あ、なんやなんや。ハンコ無い言うとるやないか。いま嫁さん外に出とって」
 「ステキな玩具だ……わたしに遊ばせなさい」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「それ、嫁さんが買ったプレステ2やから絶対触ったらアカンで。わしも勝手には、ってちゃうがな。勝手に人ン家あがりこむなや。ハンコ嫁さんが銀行持ってっとんのや。聞こえとんのか。せめて靴脱げや。おい、そこはトイレやぞ。トイレにハンコなんかあるかいな」
 「人体というものはね、何かを排泄するときはすべからく気持ちのいいものです。小便、大便、精液、反吐、汗。オナニー好きのわたしはね、ことに精液を人の20倍膣外に排泄してきた」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「なに悠然と人ン家のトイレ使ってんねん。ええ加減にせんと、あ、こら。ゴミ箱にハンコ隠したりするかいな。おい、なにを嗅いどるねん」
 「相変わらず安物の同人アンソロジーばかりでマスをかいているようですね」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「ほっとけや。嫁さん腹ボテなんじゃ」
 「ティッシュに残されたスパームの濃度と匂い、量から判断すると、おかずに使用した同人誌の含む性嗜好は、ペド60近親相姦30放尿10のブレンド…見えた! 良き同人誌です」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「すごいな。そんなとこまでわかるんか。ってちゃうがな。なに感心しとるねん、わし」
 「君たちは非童貞であるという現実に目がくらみ、童貞のわたしよりもチンポが見えていない。マスをかくという行為に真剣ではない。マスをかく行為がなっちゃいない。膣で得られる感触に安心してしまい、真の精神的屈従を脳が捕らえない」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「なんや兄ちゃん、童貞なんか。まさかそれがいまこんなことしとる理由とちゃうやろな。よ、嫁はんも娘も出払っとっておれへんぞ」
 「だが、哀しみがない――日本橋の同人ショップで見つけたというこの本にではなく、読み手の君にだ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「話そらすなよ。おい、待て、それどっから見つけてきてん。あ、このガキやな。返せや、おい。貴重品やねんぞ。こら、極太マッキー取りだしてどうする気や」
 「職業漫画家でなくても絵は描けます。チンポの角度とティッシュのスレ音が世俗的な倫理観へのアンチとしての背徳の分量を、家人の露骨な嫌悪の表情がその背徳を社会的な許容の範囲に止めさせる判断基準となる――できた!」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「できた、やあらへんがな。返せ、返さんかい。あ~あ、ばかでかいおめこマーク描きやがって。何しに来てん、おまえら。何がしたいねん。ええ加減にせんと警察呼ぶぞ。おまえら二人とも家宅侵入罪やぞ」
 「誰が決めたのかね。他人の家に土足で侵入しちゃいけないと、いったい誰が決めたかを尋いているのだよ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「警察や。警察が決めとんのや。はりたおすど」
 「ワァ~オ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「バカにしくさって。わしは本気やからな。ほれ、もうダイヤルするで。出ていくんやったらいまのうちやど。あ。あいた、痛いがな。ちょお、これシャレならんって。強盗やがな。ここまでやったら強盗、あいた、痛い痛い。やめてくれ」
 「ママの味わった苦しみ、あなたも知りなさい。息子がおたくで、もうじき30にもなろうかというのに定職にもつかずふらふらしているという現実から受ける社会的痛み、あなたも知るのです」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「わけがわからん。勘弁してくれ。痛い痛いよう。そ、そこの引き出しや。カネはそこの引き出しの中にある煎餅の空き缶に入っとる。全部持ってけ」
 「与えちゃいけないッッ! いいですか、わたしに現金を与えられるのはまっとうな社会的生産性を持つ労働だけ。あなたは資本家じゃないでしょ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「もうどないして欲しいねん。わけがわからんわ。いた、痛い。死ぬがな、死んでまうて。げほげほ。ごほ。死ぬかと思た。おい待て、なんやかんや言うといて、カネ持っていくんかいな」
 「宅急便の配達夫などという、他人に与えられた人足まがいの仕事に甘んじることなく、奪うことで猶予期間の持つ鬱屈からの脱出を完璧にした。幸福だ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「うわあ、最近流行りのモラトリアム犯罪やがな。どうりで理屈がわからんと、おい、なんやその手つき。今度はなに優しく触っとんねん」
 「君の手が温かい…」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「だ、男色やがな! あ、おい、なにカメラ回してんのや。それネタにゆする気か。貸せ、このガキ。あ。耳元で息ふきかけるのやめえ。あ、こら、マジか。ズボンを、ぎゃあ、ぎゃああ」
 「サクラさん、素敵ですわ」 

渚にて(2)

 「世界にとって本質的に無意味であるという絶望的な確信から逃れるために、人間は資本主義を創り出した。それはカネという明快な価値基準にのっとり、勝者と敗者を分かち、勝者イコール有意味・敗者イコール無意味の図式を、神のいない荒野に打ち捨てられ、存在の価値を求めて発狂する人間の心の部分にぴったりと当てはめるシステムである。このシステムの中で勝者が勝利において意味性を得るためには、必ず敗者が存在しなければならない。一昔前の日本においてそれは明らかな生活破綻者を指し、社会において勝者の意味性を強調するコントラスト足り得たが、現代社会においては余剰の富がすみずみまで漏れ広がり、敗者の破綻が彼らの社会生活の終焉に直結しないことが勝利者たちにとって不満を抱かせる要因となっている。明確な、システムに迎合しないものの断罪の様子を市中に見つけ出すことのできなくなった資本主義社会の勝利者たちの求めた新たな敗北の有様、新たな有り得べき必然、それが我々おたくであると言えよう。そしておたくは、資本主義社会においてしか生まれ得ない存在である。なぜならおたくとは、世界という際限のない無意味性の広がりから、同族内に比較対象を設定することでかろうじての意味性を切り取る絶望のシステムの内に、あらかじめ組み込まれた予定調和的劣等因子であるからであり……」
 ちがう、と叫びたかった。
 かれの目は私を通りぬけて、私ではないどこか遠くを見ていた。言葉をさしはさむ隙も与えず、その意味もわからないまま、絵本に書かれた文字を目で追って読み上げる小さな子どものように、かれの言葉は私の上を滑っていった。テレビモニターの中の人のように、かれは私に関係が無く、そして私はかれに関係が無かった。それがかれの望む交わりだったのか。
 ちがう、と私は叫びたかった。だが、心が拒否するとき、言葉に何の意味があるというのだろう。
 それまで誰にも気づかれないまま、ひっそりと部屋の隅に座っていた小太りの男が立ち上がった。薄くなった頭頂部に、突き出た腹を抱えて、その男は奇妙に存在感を漂わせない歩き方で部屋から出ていった。最初、私はこの男のことを寺の関係者なのだろうと勝手にひとり決めしてしまっていた。だが、閉じられる障子の隙間からのぞいた背中に、私は突然思い当たった。
 私はあの男を知っている。
 誰かが何の気持ちもない論理を打ち壊してくれるのではないかと、どこかで期待していた。自分がいつも自分のもののようではなくて、自分の発する言葉の意味も重さもわからなくて、誰かの泣き顔や、ひどく傷ついた表情を見るときにだけ、ぼくは自分の言葉の持つ力と、自分の中にある漠然としたものの形を知ることができた。
 ほんとうは、ぼくには誰かを傷つける価値なんてなかったのに。
 遠くから泣き声混じりの悲鳴が聞こえ、気がつくとぼくはあの病院のベッドの上にいる。うす濁りした白い膜にすべてが閉じこめられたようなその場所で、ぼくはただベッドにひとり横たわっている。指ひとつ動かすことさえできない深い虚脱の中で、ぼくを作った人たちのののしりあいが、かすかにぼくの鼓膜を揺らした。
 かれらの中にぼくはいない。ぼくの中にかれらはいない。
 傷つかないための無感動の上へ、受け入れられるためにする偽りの感情を永遠へと向かって積み上げ続ける煉獄。わけ知り顔な多くの理屈。ぼくを受け入れないための論理。表情を浮かべることを忘れた頬に、知らず流れ落ちる涙の温度を、ぼくは感じていた。
 そうだ。あのときはじめて、ぼくは孤独の意味を知ったのだ。
 気がつくと、目の前には小太りの中年男が座っていた。男はただ座って、こちらを見ていた。急速に現実へ焦点が戻ってくる。私はあわててわずかに顔を伏せた。自分はいま、どんなに無防備な表情をしていたろうか。
 「毎晩のビールがうまい」
 大きすぎず、小さすぎず、まったく主張のない声音で、男はそう言った。私は不安になった。私が知っている世界の言葉とはとても違って響いたからだ。人が、こんなに相手を脅かさずにしゃべれるものなのか。
 「ずっと特別でありたかった。誰も文句を言えないような何かでありたかった」
 それは不思議な、空気のようなしゃべり方だった。いったい自分が話しているのか、相手が話しているのか、ついにはわからなくなってしまうような、そんなしゃべり方だった。
 「妻の顔を見て、子どもたちの顔を見て、それから、自分の突き出た腹を見て、おれは少しも自分が特別じゃないってようやくわかった。うれしいんだ」
 目尻に深いしわを刻みながら、笑うと目の無くなる、人なつっこい笑い方で男は笑った。笑い声が途絶えると、部屋には沈黙が降りた。しかしそれは、あの狂躁的な、次の言葉を無理にも促す不安な沈黙ではなかった。それまで相手の言葉に身構えて硬直していた全身の筋肉から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じた。誰かと向かうとき、私はこんなにも緊張していたのか。私は眠りこむ寸前のような、あの安堵を覚える。
 「おれはどんどんみにくく、つまらなく、そしてやさしくなってゆく」
 男は私の目を正面から見た。それは、まるで私の一番奥を見ているようだった。いままで、誰も私をそんなふうに見たことはなかった。
 「戻ってこいよ。ここは、思ってたほど、怖い場所じゃないみたいだ」
 やがて、薄くなった頭頂部に手をやりながら、男は最初からそこにいなかったかのようにひっそりと、部屋を出ていった。
 突然、苦痛が全身を包んだ。心から死ぬつもりだったのに、あの男は、悪魔か何かのように忍びより、ささやきかけ、静謐な末期の悟りに迷いを生じさせたのだ。私は卓上に置いてあった赤い小箱を取り上げ、なかの小瓶をあけて、白い錠剤を手のひらの上にのせた。また、胸に痛みが起こった。それは遠くなつかしい、子どもの頃ような哀切な痛みだった。胸を押さえてうずくまると、ちょうど視線の先に大きな姿見があった。あばた面にじっとりと脂汗を浮かべた、ぼさぼさの髪の太った男が、痛ましい澄んだ目でこちらを見返していた。私が眉をしかめると、姿見の太った男は泣きそうな顔になった。「今度こそ、みにくいおまえを退治してやれると思ったのに」
 無意識のうちに強く握りしめてしまっていた手のひらを開く。ぼんやりと発光しているかのように見える白い錠剤。これを嚥下しさえすれば、数分のうちに安らかに死へと至ることができるだろう。私はかぶりを振ると、生じた迷いに時間を与えるため、錠剤を卓上へと置いた。私は椅子に背をもたせかけ、その錠剤をじっと見つめる。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 心に浮かんだその言葉は、ずっと長い長いあいだ押し込められてきた、初源の問いであるような気がした。生まれて初めて、自分の手を自分の手のように感じながら私はゆっくりと卓上へ手をのばし、純白の錠剤をひろいあげる。
 そして――

逃避王(2)

 天井の高い部屋の中央に置かれたテーブルを挟んで二人の男がカードゲームをプレイしている。
 「(寝不足なのか隈取りなのかわからない両目を見開きながら)セメタリーに埋葬された三体のモンスターの魂を生贄にささげ、オレは新たにこのモンスターを召喚するぜ、猶予!(逃避王の本名”膣口猶予”の下の方の名前)」
 「(どんな整髪料が固めたものか、重力という物理を全く無視した髪型で)な、なに! バギナ(対戦相手の名前。尻上がりのアクセントで)がオレの攻撃を受けるままにしていたのは、このコンボをねらってのことだったのか!」
 「ダーク・ペドフィリア召喚!(数年来太陽に当たっていない引きこもりの未来人としか形容できない人型のクリーチャーが場に出現する)」
 「クッ…だが、まだオレの社会性の方がずっと上…このまま押し切ってやるぜ! 現在場にいるモンスターを生贄に捧げ、”赤ランドセルの小学生”を召喚だ!」
 「ケッ、そんな足りない脳味噌と足りない乳だけが特徴のキャラデザじゃオレのペド趣味はゆるがねーよ」
 「それはどうかな。おまえが罠カードではないかと警戒していたこのリバース・カード……その正体は、魔法カード”良識的コメント”だ!」
 「なんだと!?」
 「世間の最大公約数的良識にさらされ、窮地へと追いつめられた”赤ランドセルの小学生”のキャラデザはますます先鋭化する…!!(場の赤ランドセル小学生の頭身が下がり、胸がより薄くなり、もはや髪の毛のある赤ん坊としかいいようのない生き物へと変化を遂げる)」
 「バカめ、それを予想しないオレだとでも思ったのか! ”赤ランドセルの小学生”のキャラデザ先鋭化に応じて、”成立する幼女趣味規制法案”をキャストだ! ”成立する幼女趣味規制法案”は場にいるすべての幼女キャラをこのターン以降無力化し、幼女キャラ以外の攻撃力を倍増させる…ククク、猶予、墓穴を掘ったな」
 「(不敵な笑みで)ミスをおかしたのはおまえの方だ、バギナ。”赤ランドセルの小学生”を召喚する前にオレが生贄に捧げたモンスターのことをおまえは忘れていた……”幼女趣味規制法案”が影響を及ぼすのは、『場に存在するすべての幼女キャラ』だったな」
 「ま、まさか!(あわてて猶予のセメタリーからカードを拾い上げる)」
 「そう、オレが生贄に捧げたのは”設定上の矛盾”。世間からのごうごうたる非難を設定上の矛盾によって回避した”赤ランドセルの小学生”は、”18歳の小学生”へと化身した! いまや幼女趣味規制法案をかいくぐりつつ、ペド趣味者にはまごうことなき幼女キャラとして認識される……攻撃だ、バギナ!」
 「うおお…!!(赤ランドセルの小学生に腰抱きに抱きつかれた無表情の未来人が、全身から白濁した液体をとめどなく噴出しながら無表情のまま消滅する)」
 「”18歳の小学生”、”ダーク・ペドフィリア”を埋葬!」
 「ククク…ミスをおかしたのはおまえの方だ、猶予! おまえこそ忘れていたな、ペド趣味者は例え世間から弾圧され、どれほど社会より消滅したかに見えても、彼らは地下に潜伏し、その欲情と過激さを増して蘇るということを!(場に残された白濁した液体から陽炎が立ちのぼり、”18歳の小学生”の周囲を取り囲む)」
 「しまった、これがバギナの真のねらいだったのか! だが、バギナの社会性も残りわずかだ。”18歳の小学生”でバギナの本体に直接攻撃をしかければそれで勝負は決まる……このまま反撃の機会を与えず、最も卑劣な性犯罪者としての引導を渡してやるぜ! ”18歳の小学生”、攻撃だ!」
 「その攻撃に応じて、”18歳の小学生”につきまとっていたダーク・ペドフィリアの魂が、おたく的趣味の範疇に止まらない真の犯罪性を発露する!(ランドセルの小学生の短すぎるスカートの内側からエノキタケ状のものが猶予の顔面に向けて突出する)」
 「(両手で顔をおおいながら)ぐわ…! く…”18歳の小学生”の膣内から何者かがオレに攻撃してきた!」
 「ククク、いま”18歳の小学生”の膣内にはダーク・ペドフィリアの魂が憑依しているのさ。行き過ぎた抑圧に居場所を失ったペド魂は、いまや幼女とみればところかまわずストーキングするぜ!」
 「内向的な最悪の部類のおたくの魂が、この世でもっとも弱い人類に対して初めての威力を発現しているというのか!」
 「さらに社会的に未だ発信を持たない幼女へする日々のちょっとしたイタズラは、他の側面におけるおたくの魂の社会性をむしろ増大させるのさ(小太りの青年がさわやかな笑顔で近所の主婦に挨拶をしながらゴミ置き場にゴミを捨てている光景が場に映し出される)!」
 「(驚愕の表情で)おたくが、社会性を増大だと…!? 犯罪に荷担することが、おたくの社会性を逆に増大させるというのか!」
 「その通りだ、猶予。社会の形を皮膚感覚で規定できないことがおたくの内向性の正体だ! 犯罪という反社会的行為は逆説的におたくに自分を取り巻く周囲の環境、すなわち社会を知覚させるのさ!」
 「バカな…!」
 「そして猶予、”18歳の小学生”が攻撃をしたとき、オレの場にある罠カードが発動したぜ! 罠・永続性嗜好、”パイ盤(パイパン)”!」
 「パイ盤…!?」
 「パイ盤とは、古来より幼女の無毛の土手を意味してきた……埋葬されたダーク・ペドフィリアの魂がおまえにメッセージを伝えたいとさ! (青白いおたくの指が、縦長の窪みを境に左右二つに分かれた肉の上を執拗に愛撫し、ついにはL字形のミミズ腫れを生じさせる)」
 「割れ目にLの文字が浮かび上がった!?」
 「そう、これはL・O・L・I・T・AのLの文字……この6文字が場にそろったとき、貴様のペニスははちきれんばかりに膨張して、このパイ盤を無惨に貫く! そして貴様は完全に抹殺される……社会的にな!」
 「なんだって!? オレは、その気は無いとは図々しい言いぐさながらも、このままでは幼女暴行を6ターン後には法的に立証されてしまうということか! くそ、させるものか! 手札から”胸の薄い26歳OL(童顔と言われがち)”を召喚! ”18歳の小学生”とともに攻撃だ!」
 「おっと、幼女の膣は狭いぜ! パイ盤が場にある限り、一度に1体のモンスターしか攻撃に参加することはできない!」
 「なんだと、幼女の膣はそんなにも狭いのか…!?」
 「そして”18歳の小学生”に憑依したペド魂の反撃があることを忘れるなよ! 普段の人間関係が希薄なおたくは、一度少しでも親しくなったら、その執着はスッポン以上だぜ(電信柱の陰から集団登校途中のランドセル少女を執拗に眺めるスーツ姿の小太りおたくの映像が場に映し出される)! 猶予、ペド魂の反撃によりおまえのペニスはまた膨張する!」
 「(膨らんだペニスに前屈みの姿勢をとりながら)ま、まさか…!! お、オレはペド趣味者だというのか!」
 「認めてしまえ、猶予! どれほどあがこうとも自分が現代的ガラス細工の自我の持ち主、おたくに過ぎないことを! 社会集団より断絶された個という寂しさを、幼女の柔肉から、そして続く法の裁きから癒し、この世界のどこにも存在していなかった亡霊としての自己を、1個の社会生物として新たに再生させるんだ!」
 「(がっくりと膝をついて)わかったよ……とりあえず幼女の膣に文字通りチン入することで一時的な快楽と背徳に身をゆだねることにするよ。そうして、その後に訪れるだろう冷たい手錠と幼女の両親からの悪鬼を見る視線にさらされることで、どんなに引きこもりの孤立を気取ったところで自分はやっぱり現実の社会にしか存在していなかったことを痛感して、成人式の見かけ無頼な若者たちのように国家や法という厳格さを目の前に、それまで鼻高々に唱えていた革命論もどこへやら、たちまち縮みあがって飼い主からの不条理な暴力に脅えた子犬の如く尻尾を丸めて腹を見せ、おろおろ泣きながら赦しを哀願し、国家というシステムに一生涯隷属することを本当に心の底から誓うことにするよ…」
 「(優しいが、一抹の寂しさを含んだ微笑みで)連綿と続いてきた人の倫理の一形態が持つ不条理ではなくて、その妥当性をこそむしろ積極的に汲み取ることこそが、すべての国民にとっての幸せなのさ」

渚にて(1)

 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手さぐりつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう……
  かくて世の終わり来たりぬ
   かくて世の終わり来たりぬ
   かくて世の終わり来たりぬ
  地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに  (T・S・エリオット)
 新潟県珍垢寺――
 ある程度の規模を有する水族館にしか無いだろう、マナティかゾウアザラシを収めて輸送するようなサイズの巨大棺桶と、葬儀屋はさぞや写真加工に苦労しただろう、精一杯の望遠になお入りきらぬ巨顔の遺影を前に、私はまだ信じられぬ思いだった。白黒の垂れ幕や数々の花輪、線香にけぶる部屋の大気――周囲を埋める葬式にありがちの様々の表装は、人の死の厳粛さを虚構として演出する役割をこそ果たせど、その死の持つ意味を説明するものでは、全くなかった。私は棺桶にすえつけらえた梯子を登ると、たっぷり5メートルほどもその上を膝行して、うがたれた窓より中をのぞき込んだ。
 ――ああ。
 思わず漏れる嘆息。あれから2年が経つが、その顔はもう見間違えようがなかった。それはまさしく、上田保椿の――
 CHINPOの暑苦しい巨顔だった。
 私は釈然としない、どこか落ち着かない気持ちで何本目かの煙草を苛立たしくもみ消した。この部屋に通されてから、もう4時間にはなるだろうか。私は真新しい畳の上へ横になると天井を見上げながら、自分がなぜこんなところで待たされるはめになったのかを、ぼんやりと思い返した。
 焼香に棺桶をよじ登ろうとした親族の何人かが足をすべらせ真っ逆様に墜落し、重軽傷を負ったことをのぞけば、全く他のどれともかわりばえのしない、そしてその退屈な劇的で無さが残されたものにとっての救いでもある葬式が終わり、私は無言でその場を離れた。私のような半端な元おたくが挨拶に現れたとて、親族は困惑するだけだろう。長いおたく人生で得た様々の経験則から、私はそれを痛いほど知っていた。
 長い苔むした石段を下り、呼んでおいたタクシーの扉に手をかけたとき、私は突然背後から呼び止められた。明らかに常人とは異なったあのオーラを持ったケミカルウォッシュのジーンズと黄ばんだTシャツの男が、こちらを直視しているようでいながら、そのくせ微妙に視線をずらしたまま、素養の無いものならヒアリングの不可能なほどの喉の奥にこもった早口で、私に告げた。――これより故人上田保椿を忍んでの通夜式を執り行う手筈となっております、お忙しい中ではございましょうが、故人の遺志を尊重して、あなた様にはどうぞお残り願いたく存じます――。私はやはり、昔の戻ってきたような感覚に後ろ髪引かれるところがあったのだろう、男の申し出になんとなくうなづいてしまっていた。
 私は体を起こして頭を振ると、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。しかし、通夜とは普通葬式の前にするものなのではないのだろうか。CHINPOの死に顔を見たときからぬぐえないかすかな違和感。人の死などというものは残された者たちにとってそういうものなのかもしれないが、この葬儀のすべてがどこか茶番めいていて、それでいながらその理由をはっきりと言葉にすることはできなくて、その状況がますます私を苛立たせた。
 私がちょうど十五本目の煙草に火をつけようとしたところ、快い擦過音とともに背後の障子が引き開けられ、私を石段で呼び止めた男が糸の数本切れたパペットのような動きで入って来、喪主が通夜の会場へ案内致します、と意志疎通を放棄しているとしか思えない早口で告げた。
 喪主、CHINPOの両親だろうか。確か大学教授をやっていると聞いたことがある。遠くから聞こえる耳障りな呼吸音と、畳を通して伝わるかすかな振動。障子と梁を漫画状の型に打ち抜きながら、何かの確たる意志を持っているかのようにふるえる肉を腹の両脇に大量に輸送しながら部屋へ入ってきたその人は、果たして――
 「CHINPO! やっぱり、CHINPOじゃないか!」
 その、ほ乳類ではクジラ以外が持ち得ないような巨躯を陸上で保持したおたくな有様は、CHINPO以外の何者かであるはずがなかった。私は、やはり照れくさかったのだろう、再会の喜びを怒りにまぎらせて詰め寄った。
 「これはいったい、どういう悪い冗談なんだ。説明してくれるんだろうな」
 「フフ、まぁ、それは道々話すとしよう」
 CHINPOはあの頃のような、他者への優越を感じるためだけにどんなにつまらない事象であっても、それが自分だけの知っているものである限り、もったいぶって教えようとしないあのやり方をかすかに漂わせた。だが、2年という歳月はやはりCHINPOの上にも流れたのだろうか、持たざる者のする深刻な自己存在肯定のための切り取り合戦の様子を呈することは、ついになかった。CHINPOは廊下の床板を漫画状の型に打ち抜きながら、こちらを振り返ろうともせずに歩き出した。左足を前に出しながら大きく、見ているこちらがはらはらするほど左に傾ぎ、今度は右足を前に出しながら大きく右へと傾ぐ。軽トラ程度なら前方から近づいてきていても後ろに歩く者は全く気がつかないだろうその膨大な背中に、私はめまいのするような既視感を覚えた。同時に、こんな最悪のおたくであるはずの、全世界の嫌悪の対象であるはずのCHINPOの後ろ姿に、涙が出そうな慕わしさを感じている自分に気がついた。では、私も、やはり年をとったということなのだろうか。
 と、CHINPOは廊下の隅に落ちている”小学生の顔にプレイメイトのボディ”をしたアニメキャラのポスターの横を、まるでそこに何もないかのように素通りした。私はいぶかんで、その背中に声をかける。
 「CHINPO…?」
 CHINPOはいま気づいたというふうにアニメポスターに視線をやると、奇跡のようなバランスで体を右へ大きく傾がせて床に落ちているそれを拾いあげ、ケミカルウォッシュのジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
 「どういう按配かな…?」
 庭の築山へ目線をやりながら、CHINPOは静かに言った。
 「記号の集合を有機的な連なりとして認識し、欲情するおたく的約束の部分が頭から三分の一ほどトンじまって、見えてねえ」
 CHINPOの意味するところは全くわからなかったにもかかわらず、その奇妙に静かな――まるで死者のような――達観した言い様に、私の心臓は早鐘の如く打ち始めた。
 「CHINPO、話してくれるって言ったよな。今日のこれはいったいどういうことなんだ。まさか、からかってるんじゃないだろうな」
 「どうもこうもねえさ。おまえが見てきたとおり、今日は俺の葬式なんだ…!」
 CHINPOは太りすぎた皇帝ペンギンのように滑稽に、肉に埋もれた肩を無理矢理すくめてみせた。
 「それはつまり、生前葬みたいな…?」
 「似ているが少し違うな、あと数時間後、俺は本当に死ぬ手筈になっている」
 「死ぬ手筈ってのは、いったいどういう…?」
 私はじりじりと歩み寄る不安に押し潰されそうになっていた。
 「まあまあそこから先はこれから行く部屋の連中に聞いてくれ。聞く方は初めてでも、俺は今日何回も同じことを話していて、いささか食傷気味なんだ。頼むよ…」
 「し、しかし」
 CHINPOが言いつのろうとする私を手で制す。廊下の突き当たりにある部屋の障子が、先ほどのおたく男により静かに開かれる。
 「さあ、着いた。懐かしい顔がお待ちかねだぞ」
 「みんな…!」
 そこには果たして、あの思い返すだにじめじめといじましい、日の射さぬ四畳半に放置された悪臭放つ牛乳雑巾、持たざる者たちの持たざるゆえによる黄金の蜜月を共に過ごした、忘れたい過去ナンバーワンの同人仲間たちがいた。本来ならそれぞれが何らかの形での社会性を手に入れたいま、二度と会いたくない、積極的に連絡を持とうなどとは毛ほども思わないだろうあの面々が一同に会するこの異常な空間を前にして、さすがに私も事の重大さを理解しはじめた。
 「CHINPOがさ、なんかおかしなこと言うんだよ――昔っからだけど、CHINPOが」
 問いかけに、ネクタイの締め方を致命的に間違えている、着慣れぬ喪服にぎこちなく逆緊縛されているといったふうの有島が、重々しく口を開いた。ああ、有島! なんという懐かしさ、そしてなんという嫌悪感だろう!
 「残念だが、その言葉の通りだ。これを見てくれ」
 有島は病院名の書かれた茶封筒から一枚の写真を取りだした。菌糸類としか言いようのないものが周囲を埋めた薄暗い部屋で、どうやってそんな小さな部屋に入ったのかと疑うような巨躯の男がこちらに背中を向けて写っている。男は下半身丸出しで、どうやらオナニーをしている最中らしい。青白く発光するテレビ画面には、名の知れた巨乳AV女優の出演するごく普通のアダルトビデオが映っていた。
 「これが、いったい……?」
 一瞬、私はなぜ有島がそんな写真を見せるのかわからなかったが、恐ろしい呪いの託宣のように、徐々にその意味するところが私の胸に染みわたり始めた。
 「ま、まさか、そんな…もしかして」
 この世で一番あり得ないことを聞いた人のように、私は自分が馬鹿のように首を振っているのを感じていた。
 「そのまさかだよ。この写真の男、これが、CHINPOのいまの姿なのさ…!」
 「バカなっ、信じられるか、そんなこと!」
 「事実よ。受け止めなさい」
 太田が脇から、かつての十八番の声まねで、目を合わさないまま言った。ああ、太田よ。言った自分を、あとで呪い殺したくなるだろうに。
 「しかも、進行の早い早発性だ。通常2、3年でアニメ絵に勃起できなくなり、ついにはおたく廃人かおたく死を迎えることになる。CHINPOはその事実を知り、決した。本当に更正してしまう前に、エロゲーに欲情できなくなる前に、己が人生を自ら閉じようと…!」
 「バカなっ! どうして…どうしてっ…! あの、最悪の2次元コンプレックスが、なぜそんなことに…!?」
 やはり、2年に渡るサナトリウム生活ではあの事故の傷を治癒できず、それはCHINPOの脳髄を見えないところで侵していったというのだろうか。私が言いかけるのを、有島はわかっているといったふうにうなづいた。
 「それは誰にもわからないし、そのことを考える時間はもう残されていない。こうしている間にもCHINPOはどんどん…そうだな、どういうべきか、良くなってきているんだ。受け止めよう。これ以上言葉を積み重ねることは無意味じゃないか。言葉を重ねることの無意味さに、言葉の無力さに一番気づいている俺たちじゃないか。人と人との熱心な話し合いや、心うち解けたやりとりが何かを生み出すなんて、そんな偽善がイヤでイヤでおたくを始めた俺たちじゃないか。そして、それが俺たちの唯一の美点だったはずだ。これから、それぞれがCHINPOとともに最後の面会を済ませる。俺たちはおたくだ。これまでだって、社会に冷遇されるものとして、曳かれ者同士の肩を寄せ合う集まりではあったが、本当の意味でお互いがお互いを必要だと思ったことなんて一度もなかったはずだ。話し合いなんてガラじゃねえ、それぞれが自分の思うようにCHINPOと15分か20分の最後の時を過ごしてくれ。無言で見送るもよし、引き留めるもよし。――俺たちはここでまた集まったが、明日にはきっと別の場所へと、2度と触れあわない別の世界へと逆戻りだ。寂しいなんて言わない、それがおたくだった罪で受ける相応の罰だ。それに、人間なんてもともとひとりぼっちだし、寂しいもんじゃないか……ともあれ、俺たちは俺たちの同類を見送る義務だけは果たそう。俺たちがずっと自分自身のものとして想像し続けてきた、おたくという人種のぞっとするような末路のひとつがいまここに、目の前にあるのだから…!」
 早い風が雲を押し流してゆく。誰に促されるでもなく太田が立ち上がった。後ろ手に障子を閉めるその後ろ姿を、そちらに視線をやらないまま、皆が無言で見送った。
 そう、有島は正しい。これは戦いなのだ。俺たち、更正してしまった元おたくたちが、過去の自分ではなくて本当に現在の自分の有様を肯定できるかどうか、CHINPOにつくりごとの世界よりも現実の世界の方が素晴らしいと説得することができるか、という――
 「(芋虫と表現するも芋虫に失礼な、たこ糸で縛ったボンレスハムのような指でマウスのボタンを圧迫しながら)やはり最初は太田、いや、ハンドルネーム”まみりんLOVE”と呼んだ方がいいかな」
 「フフ、懐かしい名前だ。(様々のアニメポスターが元の壁面の見えないほど貼られる中、唯一ある巨乳アイドルの水着グラビアがその調和を致命的に崩している部屋を見回しながら)ふ~ん。なるほど、なるほど。そうか…ここか。ここで死ぬんか?」
 「(モニターに映し出された18歳の小学生という矛盾を体現する美少女キャラの痴態に垂らした涎を服の袖でぬぐいながら)ククク…」
 「(床から足を上げる度に粘りけのある糸状のものが数本ついてくるのをズボンのすそでぬぐい取りながら)いいとこじゃねえか。死を迎える部屋としては最高さ。(床に散乱する歴代の家庭用ゲーム機を足で払いのけてスペースを作りながら)こざっぱりしてて…」
 「(巨乳アイドルの水着グラビアに大きな嫌悪と、かすかな欲情の入り交じった複雑な視線を向けて)そうかもしれねえ。言われるまで、考えてもみなかったな」
 「(机の上に並べられた無数の美少女フィギュアのひとつを手に取り)ひとつ、もらうぜ。(床にできたスペースに座り込み、美少女フィギュアをもてあそびながら、唐突に)特別なことじゃねえ。おたくは、決して特別なことじゃない。そう、思ってんだろ?」
 「(美少女フィギュアのスカートの中を机の下からのぞきこもうとしながら)まあ、おおむねそんなとこさ」
 「おたくは特別じゃない。皆…おたくを忌み嫌いすぎる。おたくであることは時に、救いですらある…! 本当に、羨ましい。一切の社会性を持たない、様々のグッズやおたく的人間関係だけを後生大事にためこんできた、夏にはコミケ、冬にはコミケの骨がらみの職業おたくには、決してたどりつけない境地…! だから本当にめでたく、羨ましい。(美少女フィギュアから顔を上げて、真正面から直視して)しかし、それでも、CHINPO、怖かねえか? おたくであることは? どんな気分だ? おたくのまま死ぬってのは」
 「(あきれたふうに、完全に隆起の埋没してしまった肩をすくめようと痙攣しながら)おいおい」
 「だって心配じゃねえのかよ! 美少女ゲーのキャラに操を捧げたまま、素人童貞として死んじまうんだぞっ…! もうすぐ…」
 「(フーフーと平静でも常人の数倍する風圧の鼻息を吹き散らしながら)……おたくは、おたくになる前はなんだったんだろうな」
 「(いぶかしげに)前?」
 「(半眼で)動物として生まれ、動物としての本能を通じて世界を感じていた俺たちは、名付け、定義することで、新しく生まれた知恵という機構の中での、世界に存在する万物の配置を決定しなおさなければればならなかった」
 「CHINPO…?」
 「ちょうど小さな紙にスケッチを描くようなもので、どんなにうまく描こうとも、描かれる対象と描かれたものとは、どこか致命的に違ってしまっている。知恵によって、世界は本来よりも矮小な形で切り取られ、その切り取られた世界の残骸が、人間の持つ”意識”だ。このプロセスがつまり俺たちの”虚構”と呼ぶもので、この意味においてすべての人類はおたくであると言える。――おたくというのは、自らがさげすまれ、おとしめられることで、自己存在の鬼子的発生理由に気がつきたくない一般人たちを、社会という綿々と続くより巨大な虚構に同化させてやるための、そうだな、いわばスプリングボードなんだ。人が、個人であるということの次のステージ”社会”へ進むための、すべての汚れ役を引き受けているんだよ、俺たちおたくは」
 「CHINPO…!」
 「世界を世界のまま、現実を現実のまま受け入れるのを拒否したことが知恵の始まりの本質なのだとしたら、現実すべての脱構築・再構成を促すおたくの持つ虚構力・虚構没入力は、知恵のはるか延長線上にある”超知恵”とでも形容するべき知恵の正当なる後継者であり――そして、すべての人間の自然がおたくに嫌悪をしか感じないのだとしたら、それは人の選んだ知恵という選択肢そのものが”間違って”いたことの証明に他ならない。だから、最初のおたくがリン・ミンメイの無重力シャワーに目尻と鈴口から随喜の涙を流したのが罪だと、皆が石もて俺たちを追うのだとしたら、俺は甘んじてそれを受けようと思うのさ。(照れたように笑って)ハハハ、まぁ、それがおたくだわな」
 「(下唇を噛み、涙をこらえながら)……そんな話をもっとしてくれ…もっと……! この間再発して…結婚してから2年間はなんともなかったんだが、おたく生活からはすっかり足を洗って、子どももできて…もうすっかり完治したと思ってたんだ。それが、そう思っていたのが、この間…ついに転移した。今度はペニスに……わしは、末期の童女趣味でっ…!! CHINPO、怖いんだ、これで妻子とするまっとうな社会生活もすべて終わりかと思うと…もうすぐ、幼女ポルノを備蓄した咎で社会から石もて放逐されるかと思うと…!!」
 「(穏やかに目を細めて)まみりんLOVE」
 「(涙で目をうるませ、おこりのように震えながら)わしは…」
 「(限りなく優しく)大丈夫…おっかなくなんかねえんだよ。俺が死ぬ前に、先に行われたような幼女誘拐・監禁を犯してやるっ…! だから、まみりんLOVE、おまえはおまえの童女趣味を受け入れてやれ。出来る限り温かく、本来なら恥じ入るべきその性癖による露悪的なキャラクター作りで集客をしていたおまえのHPを、大人との軋轢に疲れ果てた哀れなおまえの自我を迎え入れてやれ。俺の感触じゃ、童女趣味者たちは、そう悪いヤツじゃない。出来るさ、おまえにも出来る。俺が見てきた限りじゃ、最悪の童女趣味者は、かなりの年月裁かれないまま、幼女が幼女でなくなるほど長い間、幼女とともに暮らしていけるんだ。おっかなくなんかねえんだよ…!」
 「(もはや隠しようもなくボロボロと号泣しながら)CHINPO…、CHINPOッ……!」
 もはや、月は出ていなかった。夜は、静かに流れていくように思われた。うら若い乙女の狭すぎる膣へ無理矢理するように、私たちの心を内側より圧迫し、胸苦しい痛みを引き起こすのは、ただ一つの言葉だった。
 ――チンポ。

to be continued

東京オフ始末書

 『いつだって、おたくの末路は悲惨だ』
 「(やたらと煙草をふかしながら、防衛的に足を組んで)だって、小説ったって、ジュヴナイルですよ? いいとこ、田中芳樹が限界じゃないですか。例えば40歳になって、そんな頭打ちが待ちかまえている人生なんて、まっぴらですよ。私だったら、そんな未来しか無いとわかったら、オマンコに顔を突っ込んで窒息死しますね。これホント、”膣”息死よね!(椅子ごとひっくりかえって馬鹿笑いする)」
 『誰も、最も濃いおたくであり続けることはできない。いつかはより濃いおたくに敗北し、企業の食い物にされる受動的なサラリーマンおたくになり果てていく』
 「(分厚いレポート用紙を閉じて眉根を押しもみつつ)やれやれ、ようやく全登場キャラの隠し・正規を問わないすべてのイベントテキストと、誕生日から性的嗜好に至るまでのプロフィールをこの灰色の脳細胞で把握することに成功したよ。どれ、久しぶりにネットでものぞいてみるか…(突然のけぞって)新作発売後半年を待たずして続編の発売だって!? (メーカーHPの商品説明を読み上げて)『総出演キャラ100名超、陰唇の裏にあるホクロまで作り込み、よりリアルな個性化に挑戦!』 ク・ク・ク・ギャヒーッ!!(藤子A不二夫的な絶叫とともにてんかん発作に似た動作で両手両足を胴に引きつけながら泡を吹きつつ後頭部方向へブッ倒れる)」
 『それでも彼らが爆発し続けるのは、やはり、おたく、だからなのか』
 「つい先日、商業的な婦女子(この表現が持つ隔靴掻痒の婉曲性を楽しめるほどには、読者諸氏の精神と性器は成熟していますよね?)と金銭を媒介にして懇意にする機会を持ったわけなんだけど…いやぁ、なんていうか、オマンコって臭いね(爆)。あのさ、8ビット時代は現実に満たされない性欲の代償行為としてエロゲーやってるのかって、どこか後ろめたかったんだけど、今回わかったわ。やっぱりオレ、現実の女、嫌いだわ(爆笑)。これからどんなにエロゲーがリアルになっていっても、オマンコの臭いだけは再現しないで欲しいね(核爆)」
 ◇登場人物紹介
 小鳥さん……ネットでは大いばり、現実では鬱病・引きこもり・包茎の三重苦についつい俯きがちの典型的なネット弁慶。ネットワーク存症に、最近はアルコール依存症が加わり、自我領域を現実と虚構の双方からむしばまれつつある過去の巨人。
 ノッポ………他者との距離を肌感覚によって把握するという、社会生物として当たり前に備えているべき固有の能力を、ネットワークにより蝕まれ、減退させられ、ついには粉々に破砕されているため、常に誰に対しても不必要なまでに慇懃な態度でしか接することできない哀れで矮小な犠牲者。身長だけが特徴の学生。
 ユニクロ……現代文化に代表される、個を主張しないことで逆説的に個性を際だたせる類のこざかしいやり方で生きる、文字通り頭の先から足の爪の先まで一寸たりとも”現代の若者”という規格から外れない、誰もが存在するだけで持つ相手の自我への脅迫をフェミニンな弱々しい微笑みで必死にうち消そうとする、最も連続殺人や幼女誘拐などをやってのけそうな青年。
 サムソン……名前は忘れたが、何とかいうオンラインゲームに耽溺し、誰もが生来等分に与えられている若さと才能を日々摩耗させ続けるヒヨコ頭のパラサイトシングル。同時に、気のおかしくなるような黄緑色の服とパンパンのおねえさんが着るようなコートに身を包んで大いばりのネット臭ふんぷんたる僕らのファッションリーダー。
 あとひとり誰かいたような気がするが、忘れた。気のせいかもしれない。
 実際のところ、このオフ会はあらゆる意味で私に何の益をも与えなかったのだけれど、持ち前の強迫神経症的な律儀さから、ほとんど忘備録としての意味合いでこれを記すことに決めた。20万ヒットになんなんとするサイトにあるまじき内輪ぶりだと憤慨される向きもあろうが、現実で充足されないがゆえにネット社会にほうほうの体で逃げ込んで互いに傷をなめあっているだけのいじましい、他力本願的に救われたい、他力本願的に癒されたい人間たちの集まりを、こともあろうにうらやましく眺めている方々がおられるようなので、私はその盲をとくためにもこれを書かねばならないと思いたった。本当に、思い返すだに寒気が背筋を走るような、いじましい、ひどくいじましい集まりだった! だからあなたたちはネット上にある狭い狭いコミュニティの仲良しグループぶりにほぞをかんで、勤務中に社のパソコンから、未だ彼らの持つネット上での既得権を持っていないように思える自分のHPを、上司の目を盗みながらこそこそ更新したりしなくてよいのだ。私はただ克明に真実のみをしるそうと思う。ネットワナビーの諸氏は、これをあますところなく読み、吐き気をもよおすその醜悪な現実に失望して頂きたい。その失望こそが、私のねらいだと言っていい。
 その日、私は渋谷のモアイ像の前にひとり立っていた。東京に不慣れな私は、持ち前の俯きがちな内気さから誰に尋ねることもできず探しあてた案内板の表記が”モヤイ像”だったことに不安を感じつつも、待つこと以外何ができるわけでもなく、冬の早い日暮れに身を切る冷気の中、ただ立ちつくしていた。「小鳥さんのオフ会なのだから」と持ち前の気弱さに反論できないまま決定したところの目印である”nWo”とマジックで書きなぐった紙片を胸元に掲げ、周囲を取り巻くそういった素養の無いものたちの目からはずいぶんと奇態に映っているだろう自分自身の大馬鹿三太郎ぶりに深刻な吐き気をもよおしながら、うかれたネットハイでこのような無謀な企画を放言してしまったことをもう絶望的に後悔し始めた頃、頭ひとつ高い身長で人波をかきわけつつ、ノッポが現れた。「ヤァヤァドーモドーモ」という発話とともに、日本人の慇懃さを外国人の視点から客観的に戯画化したような国辱的振る舞いで近づいてくるその姿に、私はもう手にした紙片を放り出し、少女のように泣きじゃくりながら大阪へ逃げ帰ってしまいたいような気分におそわれた。ネット者特有の気づかなさで、ノッポはのけぞるくらいまでの距離に近づいて来、右手を差し出してきた。どうやら握手を求めているらしい。午後5時半を回った渋谷の、脅迫的なまでの人々のひしめきの中で、眼前にいる典型的ネット男と手と手を握り合うなどという恥辱プレイを強要されなければならないどんな罪を私が犯したというのか。視線恐怖症の私はわずかに目を反らしながら、これ以上の躊躇は無いといった素振りで嫌々片手を差し出したが、ノッポはネット者特有の鈍感な現実感覚で思い切りそれを握り返してきた。その手は外気の低さにも関わらず、なぜかわずかに湿っており、私は離した手をノッポに気づかれないようズボンの尻で拭いつつ、いつも持ち歩いているウェットティッシュを持ってこなかったことを激しく後悔した。こいつはあとで呪殺だ。
 「アッ、モシかして小鳥猊下ですヨネー」と左の表記のまま発話しつつ、約束の午後6時をわずかに前にして、ユニクロが現れた。普通のまっとうな社会人が時間を指定して待ち合わせをする場合、最低その15分前にやってくるのが暗黙のルールだろう。全く悪びれた様子の無いこの外見的特徴に乏しい青年に懇々とそれを諭してやろうかと口を開きかけるが、自分の失っているものに気づいた様子の無いうすら笑いを浮かべているので、もう圧倒的に他人に干渉するあの気力を失い、そのまま放置することにした。どうせ、これを限りの出会いだ。「イヤァ、小鳥なのにデカいっすネー」謝罪も無いままに発話したその言葉のうすらトンカチぶりに、私は頬を引きつらせながら、自制心を失わぬよう拳の内側で手のひらに爪を立てた。こいつはあとで呪殺だ。
 ”三人寄れば文殊の知恵”と古人は言ったが、ネット者をいくら積み重ねても何かの建設性が生まれようはずがない。三人が集まったことにより、ふんぷんたるネット臭が周囲に漂い始める。互いに知り合いだろう距離に立ちながら、全く会話を交わさない私たちに、周囲の人間すべてが不審の視線を向けているような気がしてならない。会社帰りのアバズレOLどもの癇に障る笑い声がすべて自分たちに向けられた嘲りに聞こえてくる。約束の時間をたっぷり3分は経過しているというのに、まだ参加者の全員が集まっていないとはいったいどういう了見なのか。自分の生み出してしまったこの惨めな状況に、もうなんだか絶望的に消え入りたいような気分になってきた。私の煩悶に気づいたふうもなく、ただぼんやりと気詰まりな沈黙を潰す努力も無いまま両脇に立ち尽くすデクノボーどもに対して、吐き気と目眩を伴った怒りを覚える。こいつらはあとで呪殺だ。
 もう致命的に手足が冷たくなり、頭の中で帰りの新幹線の時刻表を繰り始めたころ、あやしい身なりの女がふらふらと夢遊病者の足取りで近づいてきた。明らかにかわいそうな人か、立ちんぼの人かのどちらかだ。左右の有象無象に視線を向けるも、この終始痴呆めいた表情を顔面に張り付けたチェリーボーイどもに、何かこういう状況への対処ができるとは到底期待できない。私がそういう目的の集まりではないことを万勇を鼓して引けた腰とともに伝えようと息を吸い込んだところへ、その女はもごもごと自己紹介をした。聞くと、驚いたことに誰もが名前を知っている少し大きなサイトの運営者で、今日のオフ会の参加者だと言う。私は大幅の遅刻に少しも悪びれないその女の目に、ネット上でのパワーバランスを現実に持ち込もうとする無神経な優越を読みとった。他人への想像力の欠如と自我肥大、私は自己防衛を兼ねてそう決めつけることにした。加えてこっそりサムソンと恥ずかしいあだ名をつけて、以後主に心の中で呼びかけてやることに決める。サムソンは私たちの顔を右から左をへ眺め、そして左から右へ眺めると聞こえよがしにひとつ大きなため息をついた。合コンで女子参加者が男子参加者にやるような不躾な具合で、だ。こんな長大な遅刻をしておいて、オマエはいったいどこの何様か。私はサムソンの髪をひっつかまえて、モアイ像のざらついた表面に血の出るくらい、泣き叫んで許しを請うまで打ち付けてやろうかと思ったが、そうしなかったのは単にサムソンの頭髪がまるでサムソンのようにスポーツ刈りだったからだけだ。そんな激しい水面下のやり取りに気づいたふうもなく、ノッポが相変わらず癇に障る慇懃さで「じゃー、そろそろー」と移動を促すが、私のはらわたは深甚な瞋恚でたぎっていた。こいつはあとで呪殺だ。
 あとひとり誰かいたような気がするが、忘れた。もしいたとしても、忘れるくらいだからきっと大したことのないヤツに違いない。
 サムソンを加え、もうどうにも隠しようのないほど漂うふんぷんたるネット臭の中、私は出来るだけ目立たぬように身を縮めながら有象無象の後をついていくが、ほどなく今日のオフの受け入れ側主幹であるところのノッポが、どこの店にも予約を入れていないことが判明した。私は内なる激昂を押さえつつ、寒さと空腹に尖りきった神経にできる限りの穏やかさで、事前に時間と人数をあなたに伝えておいたのは何のためなのですかとノッポに婉曲的に尋ねたが、裸の大将を思わせる精薄的な微笑みを微笑んだだけで何も弁明もしようとせずに、自分の重大な失態に対する追求をそのまま流そうとする。苛立ちにゲロを吐きそうになりつつも、関東の人間はきっと関西の人間とは違うOSで動いているのだろうとコンピュータ少年らしい取りなしを自分で自分にしたが、拳の中で手のひらに食い込む爪の先はもう手の甲の骨に届かんばかりだった。最終的に場所を見つけることができたからよかったようなものの、私は曲がりなりにも歓待される側のゲストであろうに、なぜこんな屈辱的な扱いを繰り返し受けなければならないのかと、もう絶望的に死にたい気分になっていた。こいつはあとで呪殺だ。
 当初の開始予定時間を一時間近くオーバーした渋谷は場末の居酒屋で、私は死にたくなるような気詰まりな沈黙に全身全霊で耐えていた。注文を受けに来た店員にした発話がその場に流れた唯一の意味のある音のやりとりだった。後ろの席から聞こえてくるサラリーマンの馬鹿騒ぎが無性に癇に障る。わざわざ東京くんだりまでやって来て、こんな精神的虐待を受けなければならないどんな罪を私が犯したというのだろうか。私のファンというくらいなら、唐突に私のサイトの引用をひとくさりしゃべってみたりしてはどうなのか。あらかた注文の内容がテーブルを埋めても、何か流れのある会話が始まる気配は微塵も無い。皿やグラスの触れあう音が妙に大きく響く。隣に座ったサムソンの側から流れてくるもうもうたる煙草の煙と、時折聞こえる軽い舌打ちが私を追いつめる。何度も対面に座ったノッポとユニクロに目線を送るが、二人は箸袋でする折り紙に夢中だ。間の持たなさに空けたビールのグラスがすでに大量にテーブルを占領しているが、こんなに酔えないアルコールは初めてだった。東京のビールは製造方法が違っているのだろうかと思わずラベルをわざとらしく確かめたりしたが、誰も私のする動作に突っ込んでこない。場の空気を暖める努力を最初から放棄している人たちの中で、私は関西人らしい沈黙恐怖症にほとんど肉体的な切迫を伴った身をよじる苦痛を味わっていた。これは歓待ではなく拷問だ。耐えきれず、私は万勇を鼓して引けた腰とともに卓上の皿に乗せられたウインナーを箸で転がしながら、誰とも目を合わさずに「チ、チンポ?」と脅えた子鹿のように発話してみた。横目でそれを見ていたサムソンが露骨に顔をしかめ、対面の二人は相変わらず箸袋でする折り紙に夢中だった。この小さな事件で、私の存在は完全に封殺された。私は私の感情がかろうじての均衡を崩して決壊する前に、熱い目頭を抱えてトイレに立つことを告げた。こいつらはあとで呪殺だ。
 トイレで何度も顔を洗い、赤い目をした鏡の自分に幾度も励ましを入れてから、痛む胃とともにトイレの扉を開けると、サムソンを中心としたたいへん楽しそうな歓談の様子が視界に飛び込んできた。私がビール臭い尿を放出するわずか数分の間にいったい何が起こったのか。思わず怒りにゲロを吐きそうになるが、柱の陰でしばし見守ることにする。席では、私の不在を誰も気にとめることもなく、時折笑い声すらあがっていた。血の出るほど下唇を噛みながら尻を突き出してうなっていると、店員のおねえさんに露骨にイヤな顔をされたので、しぶしぶ席に戻ることにした。しかし、私が席についた途端に、示し合わせたように場は元の冷たい空気を取り戻す。そのあまりに唐突な変化ぶりに、私は思わず首をまわして店内にある隠しカメラを探したりした。
 しばらくして、突然サムソンが誰も座っていない席に向けて”受信したキチガイ巫女”としか形容のできない様子で楽しげに、これまでとは想像もできない陽気さでラブクラフト談義を始める。初めは呆気に取られていた私だったが、そのあまりに愉快そうな会話に耳を傾けるうち、誰もいない虚空に対してふつふつと激しい嫉妬が湧いてきた。私は主張しすぎない、だが聞き取るのには充分の低い声で、「ネクロノミコン?」などと呟いてみるが、見事に黙殺される。対面に座った二人はビール瓶でするリコーダーに夢中になっており、私の呟きを拾おうともしない。こいつらはあとで呪殺だ。
 それから数分後、唐突に虚空との対話を中止したサムソンは、みるみる表情を消し、また不機嫌に煙草をふかしはじめた。対面に座った二人はウーロン茶についてきたストローの紙袋で伸び縮みするヘビを作るのに夢中だ。私は自分の持つ現実への干渉力の無さを改めてまざまざと感じさせられ、泡の抜けきったぬるいビールに口をつけながら、深く静かに絶望していった。東京、来るんじゃなかった。オフ会、調子にのるんじゃなかった。そしてこいつらは全員、末代に至るまで呪殺だ。
 勘定を済ませて店を出ると、誰もいなくなっていた。私は、もう誰の目もはばからずおんおんと男泣きに泣きながら新宿のホテルに逃げ帰った。部屋のベッドに横たわると悶々とした気持ちが高まって来、急に有料チャンネルの小津安二郎が見たくなったので、ビデオカードを自販機で購入しようとするが、財布には一万円札しか入っていなかった。両替を頼んだフロントの女が、どうせアダルトチャンネルを見るためなんでしょといったうすら笑いで一瞬私を見たような気がした。こいつはあとで呪殺だ。その晩、小津安二郎を鑑賞しながら、私は2回オナニーをした。
 そのまま寝込んでしまったらしく、翌朝目が覚めると陰毛が干からびた精液で張り付いていた。
 今回の東京行での全できごと終了。
 追記:実は上記以外にも二人参加を表明した者がいた。が、当日思いきり約束をブッちぎり、そして未だ謝罪どころか一通のメールすら届いていない。社会人としての常識をどうこう言う前に、人間としてどうだろうかと思う。こいつらは間違いなく呪殺だ。

背番号の無いエース

 少年野球団の子どもたちがトンボひとつ残して家路につき、人気の無くなった河川敷のグラウンドというものは、いつだってもの悲しい。だが、夕暮れの中、手折ったチューリップの茎をはみ、重なった花弁の重みでそれが真下へ垂れ下がるままに土手へ座り込んでいるそのシルエットは、間違いなく、ネロだった。
 11月の秋風が、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いをわたしの鼻腔へ運ぶ。ネロの背中に、夕日が射す。
 「ネロ」
 わたしはそれへ、そっと声をかけた。言葉の意味というよりも、不意に鼓膜を振るわせた音に反応したという感じで、ネロは振り返った。黒とも茶ともつかぬ色のちぢれた髪の毛、薄くなった頭頂、突き出た頬骨、割れた顎、長い睫毛の下には地中海の青をした瞳がわずかに潤んでいた。それはまぎれもなくネロだった。秋も深まり、もう夕方の風は冬の気配を運んでいるというのに、薄手のくたびれた開襟シャツを着たネロの胸の谷間には、黒とも茶ともつかぬ色の胸毛が、どこか昆虫を思わせる様子で、さわさわと妖しくうごめいていた。
 わたしはネロのそばの地面を手で軽く払うと、腰を下ろした。抱えた膝越しに眺めるネロの姿は、その容姿にもかかわらずはかなげで、ひどく寄る辺無く見えた。
 「ネロは、さみしくないの?」
 一日に起こった出来事をネロに話して聞かせるのが、ここ一ヶ月のわたしの常だったが、ネロの悲しげな様子にわたしは初めてネロのことを尋ねてみたくなった。
 たとえネロがわたしの言葉を理解していないにしても。
 ネロがゆっくりとわたしのほうへ顔を向けた。地中海の青をした瞳が、夕焼けの赤にも侵されない青をしたまま、わたしをまっすぐに見つめた。
 「ネロはさみしくないの? オランダ人であることが」
 ネロが口を開いた。驚いたことに、わたしがネロの声を聞く、これが最初だった。
 「どうして君がぼくのことをオランダ人だと考えるのか、ずっと不思議に思ってきたものだった。そして、君はぼくにたくさんの自己投影を繰り返してきたものだった。それはちょうど友だちのいない小さな女の子がぬいぐるみに話しかけるようなものだった。それは君が自分のことを愛するために、ぼくという異邦人を媒介として利用していたにすぎない性質のものだった」
 「まさか…ネロ、あなたまさか」
 わたしはわずかに身をのけぞらせた。
 「個人の意識と自我とを形成する言語において自分とは一切の共通項を持たないだろうという推測によってだけ、君はぼくという本来なら相容れるはずのない異邦人を、限定つきの王様の秘密を打ち明ける穴として、許容することができたというわけだった。けれどそれは、友情や愛情とはほど遠いものだった」
 「ネロ、おお、ネロ」
 意味だけを追い、言語を記号として発話する初歩の外国語学習者のように、しかしそれには到底あわぬ流暢さと確かさを伴った口調でネロは続けた。
 「君の独白――それはいつも独白だったものだった。意味の双方向性が生まれなかった以上、それは独白というべきものだった――は、とても興味深いものだった。いや、君だけではなかったものだった。この夕闇の土手を訪れるたくさんの人間がぼくの横に座り、しばらくの沈黙のあと、決まって重大な告白を始めたものだった。それから、突然笑い出したり、突然怒ったり、突然泣き出したり、突然何度も繰り返し”ありがとう”を言ったりしたものだった。その感情たちはしかし、ぼくとは本当に完全に無縁なものであったものだった。ぼくは君たちがぼくの異形を見てまずちょっとうろたえ、次に君たち自身で作り上げた世界の解釈を決まって押しつけてくるのに、いつもひどく傷ついたものだった」
 ネロは沈んでいく夕陽に正対し、何にも侵されない地中海の青をした目を細めながら、じっとそれを見つめていた。
 「けれど、こんなふうにぼくの意味を世界へ伝えはじめたぼくを、ちょうどいまの君のように、誰もがぎょっとして、初めて出会った他人を眺めるみたいに遠巻きに眺めたものだった」
 ネロは悲しげに目を伏せた。
 「以前、とても好きなポルトガル人の作家がいたものだった。そして、ぼくはかれに会う機会を偶然得たものだった。けれど、会ってからこちらというもの、かれの書いたすべての作品は、ぼくにとって全く意味を変えてしまったものだった。意味の多様性を失い、あの不思議な魔力を失い、ひどく色あせて感じられたものだった。言葉という広義の解釈を可能にする記号が、生きた存在の与える情報によって解釈を極端に狭められてしまったからだと、ぼくは思ったものだった」
 わたしは両手をもみしぼった。わたしの中に今この瞬間に使うべき言葉が何も見つからなかったからだ。
 「その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった。その失望はわかりやすく言えば、ネットでそこそこのカウンターをかせぐホームページ制作者がオフ会の告知を掲示板でしたところ、一通の参加希望メールも届かなかったみたいなものなのかもしれなかった」
 ネロはなぜか、その部分を少し強く二回繰り返した。
 「彫刻が生き生きと動いてはいけない、なぜならそこに封じ込められた無限の動きの可能性を奪ってしまうから、と言った美術評論家がいたものだった。ぼくはここに来てから幾度となく、この言葉を噛みしめる機会を持ったものだった」
 「ダッチ、ダッチ、そこにダッチ!」
 険しい叫び声に振り向くと、土手の向こうから数人の警官が腰から警棒を引き抜きつつやってくるのが見えた。
 「ネロ、あなたはいったい…」
 「キリストの死を侮辱したために不死を得て、永遠の罪業をさまよいつづけることになったオランダ人がいたものだった」
 ネロはのろのろと立ち上がった。
 「だが、どうして君たちがぼくのことをオランダ人だと信じることができるのか、ぼくはずっと不思議に思ってきたものだった」
 そう言うとネロは、これまでの様子からは想像もつかなかったような凶暴な機敏さで、夕陽に背を向けて駆けだしていった。ネロと、それを追いかけていく警官たちを見送りながら、わたしはただ呆然と立ちつくすしかなかった。
 どのくらいそうしていたろう、かれらの後ろ姿が遠くに見えなくなって、ふと気がつくと足下にネロの開襟シャツが落ちていた。走り出す拍子に脱げ落ちたのだろうか。それは汗にまみれ、あちこち破れかけて、手に取ると涙が出た。顔を近づけると、ネロの焼きすぎた秋刀魚のような腋の臭いが、かすかに鼻腔に香った。
 そうしてネロは、わたしの前からいなくなった。
 永遠に。

ホーリー遊児(2)

 ただ聞き手に何の感興も起こさせないことをだけ目的に作られたバックミュージックのためのバックミュージックが軽々しく流れる中、応接間を想定したのだろう、奇妙に生活感の欠如したセットの中央に男女が差し向かいに座っている。女性、カメラに対して深々とおじぎをする。
 「みなさん、こんばんは。nWoの部屋の時間がやってまいりました。わたくし、今回より新たにホステスをつとめさせていただきます宵待薫子でございます。さて、本日はゲストに、いま400万本のミリオンヒットで話題沸騰中の”トラ喰え7”、そのシナリオ作家であられるホーリー遊児さんをお招きしました。(向き直り)ホーリーさん、今日はどうぞよろしくお願いします」
 「(慇懃に)いや、こちらこそよろしく。前回来たときは逆巻さんがホステスやってたんだよ。彼女、どうかしたの?」
 「(少し困った表情でスタッフに助けを求める視線を送る)ええと、逆巻さんもお忙しい方で、あの、スケジュールの方の都合がつかなくなってしまって」
 「(含み笑いを口元に浮かべながら)スケジュールの方、ね。業界の事情ってヤツかな。まァ、ぼくもそういうのがわからない人間じゃないから、詮索するつもりはありませんよ(卓上のジュースを取り上げる)」
 「(スタッフのする話題を変えろという手真似を見て)ええっと、前回いらしたときは”トラ喰え7”はまだ発売していなかったわけなんですが、ついに”トラ喰え7”発売を迎えて、その後心境の変化などはございますでしょうか」
 「ぼくは所詮、(声音に自負を含ませ)シナリオ屋に過ぎませんから、シナリオが脱稿した時点でぼくの中の”トラ喰え7”は終わってしまっていると言っていいでしょうね。ゲームをプレイしているみなさんにとってはまさに”トラ喰え7”は旬であり、現在のことなんだろうけど、ぼくとってはもうすでにはるか過去のことなんですよ(サングラスの位置を神経な様子で直す)」
 「なるほど。(膝上の台本に目をやりながら)では、もうすでにホーリーさんの目は次回作に向けられているということですか」
 「そういうことだね。ぼくのここには、(人差し指をかぎ爪形に曲げて、こめかみをコツコツと叩いてみせながら)次回作の構想が半ば以上すでに構築されているんですよ」
 「(新人の功名心に思わず身を乗り出して)それは、いったいどのようなものになるのでしょうか」
 「(ずるい笑みを口元に浮かべ)おっと、これ以上は勘弁して欲しいな。ぼくくらいのシナリオ作家になると口にするほんのわずかの情報さえ、株式などの経済の流れに影響を与えかねないからね。誰もが文字通りの千金の千倍をぼくの前に積んでも手に入れたいと思うそれを、(鼻で笑って)こんな場所でおいそれと公開するわけにはいかないよね。(うつむいた下から見上げるようにして)ま、もっとも、今のは一経済人としての立場からの発言であって、一シナリオ作家としての立場からならシナリオの一端ぐらいを語って聞かせることは可能なわけだが……」
 「(空港で芸能レポーターを振り切るときもかくや、というような勢いで甲高く)今回のゲストはあのホーリー遊児さんだということも手伝いまして、さまざまな意見や励まし、ご質問のお便りを当番組へたくさんいただいております。今日はそれらの声にお答えねがうという形で進めさせていただきたいと思いますが、よろしいでしょうか(おびえたようにホーリーを見る)」
 「(不服そうに)ま、好きにしたらいいんじゃないの。(そっぽを向き、小声で)テレビ屋風情めが」
 「(ホッとした様子で)ありがとうございます。では、今日はじめてホーリーさんの出演を知った方もいらっしゃいますでしょうし、今からメールと当番組の掲示板でもホーリーさんへのお声を受けつけ」
 「(さえぎって)ダメだ」
 「(スタッフの出す指示から目を離し、きょとんと見返して)は?」
 「(紳士的な見せかけの下にある野獣の本性で、ぎらぎらと)購入したハガキをポストへ投函しに行くといった程度の能動性もないままに発信が可能な媒体なんぞで送られてくる意見にロクなもんはねえ。(本当にその顔が見えているかのような強さで虚空をにらんで)やつらはその手軽さの分しか推敲しねえし、その手軽さの分しか考えねえ。ネット経由の意見は全部破棄するんだ。(有無を言わせぬ強さでスタッフをも同時ににらみつつ)いいな?」
 「(泣きそうになって)あ、あの、でも」
 「(全身をぶるぶるとふるわせながら)世界という手の届かぬ至高の悪女を、誰とでも寝る安宿の淫売におとしめた電子回線なんぞに用は無いってぼくは言ってるんですよ、宵待さん……(モニターを目の端に確認すると、急にテーブルをひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がり、振り上げた右足を卓上に音高く打ちつけて)メールアドレスのテロップ消せや、コラアッ! それともおまえから先に消されてえのか!」
 「(腰を抜かしてテーブルの下へずり落ちながら、必死に封筒のひとつをつかんで)わ、わかりました、あの、では、さっそく封書で来たこちらを読ませていただきたいと思います。(泣き笑いで)あの、いまテロップ出てたかと思いますけど、そのアドレスにはメール送っちゃダメ。絶対送っちゃダメですから! ほ、『ホーリーさん、はじめまして。みんなこんなふうに書き出すんでしょうけど、ぼくは”トラ喰え1”のころからの、ホーリー遊児の大大大ファンなのです! 今回の”トラ喰え”もまたすばらしいテキストの連続で、ずっとティッシュの箱を横に置いてプレイしています。でも、ちょっと困ってることがあります。ぼくは”トラ喰え1”のころからのファンなので全然気にならないんですが、この前”トラ喰え”を一度もプレイしたことがない友だちにすすめたら、グラフィックがショボいからやる気がおきないって言われたんです。確かに最近の実写と見紛うばかりの他社のゲームと比べるとそんなふうに思えるのかもしれませんが、ぼくは”トラ喰え”の持つ昔から変わらない、職人芸的な味のあるグラフィックがとても好きです。どうぞ、このことについてのホーリーさんのお考えをお聞かせ願えませんか』……(おびえるように、ハガキから目線を上げないまま)あ、あの」
 「(ソファに深く腰掛けたまま、両手を腹の上でゆるく組んで、半眼で)ふむ、その君はなかなかいい切り口を提出してくれたと思うね。なぜなら、それはいま、”トラ喰え”のみならずすべてのゲームが直面している根元的な問題であるからだ。つまり、”リアルさを追求していけばいくほどゲームは我々の現実へと際限なく近づいていき、ついにはその存在理由を自ら殺さざるを得なくなってしまう”というジレンマだよ。他社の同規模の作品に比べ、”トラ喰え”の表現は記号的だと表されることが多い。例えば、ゲーム中のキャラクターが死ぬときに、”ぐふっ”という発話をした後、明滅を繰り返して消えるといった表現がそれに当たるんだけど、これは家庭用ゲーム黎明期の、マシンのスペックの低さによる苦肉の策だと思われているようだが、実際のところ全然そうではないんだ。すべて、ぼくの指示による意図的なものなんだよ。”機械の限界による表現の制約がゲームをゲームの形たらしめ、メディアとして成立させている”という、最近になって皆がようやく気がつきはじめてきた、その鬼子的な存在の発生理由に、ぼくは最も初めから気がついていたというだけのことなんだ。つまり、ゲームは、”魔物に受けた背中の爪あとから赤い血液と緑の毒液をとめどなくしたたらせながら、徐々に体温を失って冷たくなっていく兵士の末期”を視覚的に、リアルに彫刻してはいけない。ゲームがゲームであり続けるためにね。ある場所にタブーが存在するのには、それがどんなに我々の持つところの近代的自我からしてばかばかしく思えるような場合でも、必ず何かの意味がある。そして、ゲームにとってのタブーをぼくはただ侵さないようにしているだけなのさ(キザに人差し指でサングラスの位置を指でなおし、斜めからポーズを作ってカメラ目線で見上げる)」
 「(よくのみこめていない表情で、言葉だけで)なるほど、なるほど。(何かを恐れるように矢継ぎばやに)では、次のお便りです。『みなさん”トラ喰え”のことをほめますけど、私にはどこがいいのかわかりません。20時間ほどプレイしたんですけど、それ以上続けることは断念しました。だって、あまりにシナリオが女性蔑視的なんですもの。旧態依然とした家父長制の中で、ほとんど身売りに近いような形で結婚させられる女性の話とか、しばらくは我慢してたんですけど、もううんざりしてやめてしまった。特に、”たくさん子どもを生まなくっちゃ”という女性の台詞は無神経に過ぎます。みなさん、どこがいいんですか、本当にいいんですか、”トラ喰え”?』……(しまったという表情で全身をこわばらせながら、ハガキから顔を上げることができずに)い、いかがでしょうか」
 「(静かに)ビチグソだな」
 「(自分の耳を疑うように、見上げて)は?」
 「(一音一音区切るように)ビ・チ・グ・ソだって言ってんだよ。生まれつきの不出来な顔面を性格の歪みがさらに歪ませて、両親と親戚からの無言の重圧に打ちのめされて弱り切って、その反動ですべての女性性への発言へ攻撃的になった30女ってとこじゃねえのか。もしくは自分の女性性を否定するようないでたちと言動を好んでする肛門性愛万歳三唱のおたく女かだ。ファンタジーってのは、”男が男であり、女が女であった”世界のことを描く方策なんだよ。資本主義と西洋文化に塗り替えられた哀れな近代人としての自分の脳みそを、人類の歴史の流れの中で対象化することもできないほどの知能で、自分の持つ女性性の一部を否定されたから、あるいは無視されたからというだけの個人的な理由で、すべての男性性を逆に取り込もうと必死になってんのが、こいつの似非フェミニズムの正体なんだよ……(激高して)ビチグソめらがッ! おまえらはおまえらだけに隷属する、おまえらにだけ気持ちのいい一様な価値観の言葉が聞きたいだけなんだよ! ムービーの合間に戦闘が数十回だけあるような公称RPGか、チンポの想像できないような美形の男が耳に心地よい言葉だけでおまえにオナニーの種を提供する腐れ疑似恋愛ゲームでも永遠にやってろ! ”トラ喰え”はチンケな物語どころじゃねえ、世界そのものなんだよ! おまえを不快にさせるような人間のいる、おまえを不安定にさせるような他人の幸せのある、ひとつの完成した世界なんだよ! それを受け止めることもできねえようなパパの陰嚢の中の未成熟さで、歴史から断絶された偏狭な現代的意識だけで、おれの”トラ喰え”をプレイしてんじゃねえ! クソがッ!(大理石のテーブルをかかと落としでまっぷたつにする)」
 「(椅子の下で両手で頭を押さえて)ひいいッ。ごめんなさい、ごめんなさぁい」
 「チッ、(血の混じった唾を吐いて)謝るくらいなら最初からそんなハガキ読むんじゃねえよ。(スタッフが割れた大理石のテーブルを運び出し、代わりに木製の長テーブルを持ってくる)で、どうなんだよ、もう終わりか、(凄まじい目でにらんで)ああ?」
 「う、うふ。(泣き出しかけるが、自分を勇気づけるように背中を張って)つ、次のお便りです。と、『”トラ喰え”、もう売っちゃいました。6800円だったかな、売値。なんか全体的に、シナリオとか古くありません? フラグ立てるのにあっちこっちで話聞かなくちゃならないの面倒だし。最後まで感情移入できなかったな。クリアしなかったけど(笑)』……(読み終わった途端にハガキを放り出し、椅子の後ろに隠れる)すいません、すいませぇん」
 「(恐ろしい穏やかさで、膝の上に両手を組んだまま微動だにせず))”トラ喰え”が意図しているテーマは数あるが、そのうちで最も根元的なものは”父と子の対決”であると言っていいだろう。近年”父と子の対決”を当初のテーマとして打ち出しておきながら、物語が進むにつれて制作者の中にある問題が実は父親ではなく母親との関係であることを露呈していった映像作品があったが、あれは”トラ喰え”と非常に好い対照を為していると思う。息子が切断的別離を強行した後に父との和解を迎えるというのが、聖書の昔からの父子対決の構図なんだが、”トラ喰え”のメインストーリーはそれを忠実に踏襲していると言える。加えて、象徴的に言うなら、ゲームをクリアーするために歩まなければならない不可避なストーリーの流れを構成するテキストが、人を見ぬ先へと有無を言わせぬ強さで駆り立てるもの、すなわち父性を象徴し、逆にプレイヤーの意志において触れても触れなくてもかまわないが、どちらを選ぶにせよ常に変わらずそこへ在り続ける世界の住人たちの上へ与えられたテキストが、決してゆるがず受け止めるもの、すなわち母性を象徴しているんだよ。(震える声で)それを、(突然激しく立ち上がり、テーブルを手刀でまっぷたつにする)したり顔の、腐れおたく共がッ! 母性に取り込まれる程度の弱い自我しか持てねえ、父性と対決する段階にまで成長できてねえクソおたく共がッ! ”トラ喰え”はなァ、ちゃんと父子の対決を済ませた、まっとうな社会参画を済ませた、精神的にも肉体的にも真に成熟した大人のための、あるいはそうなるための強さをあらかじめ持った未来の子どもたちへする、人間賛歌のゲームなんだよ! どこの誰がおまえたちみたいな母性とヌルヌルの、日なた水のボウフラどもに当ててメッセージを送ると思えんだよ! 父との問題にたどりついてすらいない、未分化の卵子風情のおまえらぐらいに、おれのシナリオの持つ高い人間的成熟がわかるはずがあるかよ!他人が持つ価値観や世界理解が自分のそれより高いものであるかもしれないことを感じとるどころか想像すらもできない、ほとんど向こうを見通せる薄皮一枚の差が永遠の差と等価であることへの悟りに絶望したこともない、大自然のゆぅるいゆぅるい水気の排泄物共が!(後ろ手に応接用の巨大なソファをつかむと、セットの外、スタジオに向けて巴投げの要領で放り投げる。支柱をヘシ折られ、撮影台がクルーごとセットの中へ倒れこんでくる)」
 「(もうもうたる土煙の中から這いずるように身を起こして)そ、それではこちら、時間的にも最後のお便りになるかと思います。ど、『どうでもいいけど、あのムービーはヤバイんじゃねえの?』……もういや、いやあっ!(脱兎の如くスタジオの外へと向けて駆け出す。それに呼応するように、スタッフたちも機材を放り出し、次々と走り去っていく)」
 「(横倒しになったカメラからの、怪獣特撮でやる踏みつぶされた街のアングルで)クソがぁぁぁぁぁッ! 俺の至高の作品を、誰があんな”おもしろポリゴン四コマ”としか形容できないおチンポ映像で台無しにしろって言ったよ! (絶叫が喉を裂いたのだろう、血煙が混じった咆吼で)クソがッ、クソがッ、クソがぁぁぁぁぁッ!」
 「(つまづきつつ、まろびつつ、必死の逃走に乱れた衣服で)本日の、ゲストは、ホーリー、遊児さんでした。これで、nWoの部屋を(画面を斜めに走るノイズが次第にひどくなり、唐突に画面がかき消える)」

崩れゆく聖域

 「ぼくは自分も見えないほど傲慢だったから、きっと君になにかしてやれると思ってた」
 木々が重なりあい、互いにもたれあうかのように深く深く複雑に生い茂った暗い森。近くにある国道から時折車のライトが照らすが、番人のように密集してそびえる木々に遮られ、その奥はまったく様子がうかがいしれない。枝々の隙間から、かわいた血の色をした月明かりだけが微かにそこを照らすことができる。月明かりの下、小さな子どもなら頭まで埋まってしまいそうな木々の下生えに、もみあうふたつの人影が見える。そのうちのひとりはもうひとりの半分ほどの身長しかない。獣のような低い息づかい。突然の魂消る絶叫。速い風が雲を押し流し、斜めに差し込む月明かりが人影の上を照らす。ひとりの少女が下生えから足を引きずるようにして出てくる。身にまとう高価なものであったのだろう洋服は左胸の部分が無惨に引きちぎられ、その下にあるぎょっとするような生めいた薄い赤色の乳首の周辺には、5本の指をそれぞれ数えることができるほどくっきりと青く、手のひらの形のアザが浮いている。フリルのついたスカートは中ほどから裂かれ、少女の内股を伝って恐ろしいほどの量の血が流れつづけている。ほの赤い月明かりに照らされた横顔は、その年齢の子どもの精神では決して持ちえないような、一種凄惨な憎悪に引き歪んでいる。
 「(手の甲で頬についた血をぬぐい、荒い息の下から)ちくしょう、あんなクソ野郎、前は何人だって簡単に殺せたのに! ちくしょう、ちくしょう……誰ッ!(物音に、洋服の残骸をかき集めるようにして後ずさる)」
 「(木の後ろから、奇妙に人間めいた印象を欠いた幽鬼のごとき様子で男が現れる)江里、香」
 「(警戒した様子を解かず)お父さん。よかった」
 「(少女の無惨な姿に、恐ろしく低い声で)まさか、失敗したんじゃないだろうな」
 「(瞬間ひどくおびえたような表情を見せるが、何かをはねのけるように強く)失敗? ハ、私が失敗するわけないじゃないの! 殺したわ、もちろん殺したわよ。このナイフの先端が頸骨を砕くほどに何度も突き立ててやった。白土三平の漫画みたいに、水平に数メートルも血を吹き出して、下衆な悲鳴を上げながら死んだの、ママ、ママって。そりゃ本当に無様で、みじめな…(言いかけ、急に片手を口に当てると身体を折り曲げるようにして嗚咽する)」
 「(その様子を見下ろすようにしながら)そうか。確かに殺したんだな。ならいい。(感情も抑揚も全く感じられない声で)よくやったな、江里香」
 「(少女、男の声の調子に嗚咽を止める。漏らしてしまった弱みを恥じるように、気丈に胸をそらし)死体の処理はどうなってるの」
 「(事務的な口調で)今回は非常に簡単なケースだ。あの男はおたく的な引きこもりの典型だったからな。月に何度かはバイトに出ていたようだが、30を過ぎて定職にもつかず、両親はじめ親戚縁者からは軒並み勘当されている。ころ合いに社会から断絶され、今までの中でも最も処理しやすい死体のひとつだろうな」
 「(苛立たしげにもつれた髪を手櫛でひっぱりながら、形だけの相づちで)そう、それはよかった。(さりげない話題を切り出すように)ところで、猊下は?」
 「(男、初めてわずかに困惑したような表情を浮かべて)それは、わからない。ただ(口を開こうとして黙り込む)」
 「(眉を寄せて)ただ、何?」
 「(何かを推し量るように宙へ手のひらを指しのべて)猊下の虚構力が弱まってきていることは事実だ」
 「(いらいらした様子で)あなたが何を言ってるのかわからないわ」
 「おまえにもわかってるはずだ、江里香。いや、名前を持たないおれなどが言うまでもなく、おまえたちには何の障壁もなく感じることができるんだろう。それに、(侮蔑の表情を浮かべ)現におまえは取るに足りないあれくらいの獲物に逆襲され、犯され、ほとんど殺されそうになっているじゃないか」
 「(薄明かりにわかるほど、サッと顔を紅潮させて)私が油断しただけよ! (胸に片手を当て)猊下には何の関係も無いわ」
 「(聞こえないかのように)各地の実行部隊からの消息が次々と途絶えている。(ぽつりと)潮時かもしれんな」
 「(首を左右に振って)何、言ってるの。いったい何を言ってるのよ」
 「猊下の虚構力が現実を束縛できなくなりつつある。おれたちの形を規定できなくなりつつある。(唇の端を弱く歪めて)いまなら抜けられるさ」
 「(崩れていく何かを見たくないかのように目をきつくつむり、絶叫する)お父さんッ!」
 「おまえは傷つけられた子どもだった。おれは壊れてしまった家庭の償いをしたいだけの大人だった。夢を見ていたよ、ずっと。長い、長い夏の日だまりのような。おれはおれの家族を恢復することができるかもしれないと思った。だが、それは嘘だった。すべてつたない誰かの手による作りごとだった。洗脳から解けた人のように、ある朝おれは奇怪なギニョール人形を抱きしめて、廃墟でダンスを踊っている自分に気がついたのさ。(後ろめたさを隠すように陽気に両手を広げて)言っておくが、おれは猊下を恨んじゃいないぜ。(うつむいて)ただ、おれが気づいてなかったのは、それが他人の虚構だったってことだ。(間。唐突に顔をあげて)おれといっしょに逃げないか。そうして、誰のものでもない、ふたりだけの、新しい家族っていう虚構を始めないか。(すがるように)このままじゃ、そう遠くないうちにおまえは殺されちまうぞ」
 「(殉教者の静かさで首を振って)ありがとう。でも、もう決まってるの」
 「(力を無くして)そう、か。おまえは猊下に名前をもらった人間だから、そう言うだろうとはわかっていたよ。わかっていたんだけどな(語尾が弱々しく消え、男、顔を伏せる)」
 「(男の感傷を遮る酷薄な冷たさで)さようなら」
 「(男、口を開きかけるが、きびすを返して行こうとする。と、立ち止まって振り返り)なァ」
 「(感情のない微笑みで)なぁに」
 「(ためらうように)小鳥猊下って、いったい何なんだ?」
 「(最も美しい数学の解答をうたうように)ただのホームページ制作者よ」
 「(失う苦悩を声に含ませ、強く)だったら、なぜ!」
 「(ひどく大人びた表情で、憐れむように、小さな子にかみふくめるように)誰かを愛するとき、崇高であったり、美しかったり、尊かったり、かしこかったり、価値があったり、そんな必要は少しもないの。ただ、それが愛であればいいんだわ」
 「(男の顔が泣きそうに歪むが、すぐに無表情を取り戻し)さようなら、江里香」
 「さようなら、(一瞬の逡巡の後)…お父さん」
 男が森を抜け国道へと降りていくと、少女はただひとり暗い森の中へ残される。しばらくの間、何かに浸るように目をつむり立ちつくしていたが、やがて足をひきずりながら、重なりあい、深く深く複雑に生い茂った、すべてを拒絶するかのような暗い森の中へとひとり帰っていく。