セイビング・ミスター・バンクス
「私たちはみんな、子どもの心を持っている」。創作の本質とは、与えられた呪いをいかにして普遍的な何かへと昇華できるかにある。男性向けフィクションにマザコンものが多いのに対して、女性向けフィクションにはファザコンものが少ない理由がわかった。人生の早い段階で父親を亡くし、理想化された父親像を否定する時期を経なかった少女だけが、ファザコンものの語り手となりえるのだ。存命の父親が理想化されたまま成人を迎えるケースもあろうが、そうした人々は創作を行う内的必然性を持たないと思われる。そして雑に言えば、どちらにも当てはまらない女性のうち、母親との関係が良好ではない者たちがボーイズラブに向うのだろう。話がだいぶそれたが、本作ではメアリー・ポピンズが父親との葛藤にのみ依拠した作品であるように語られてしまっているので、いい映画であることに間違いないが、同作品への思い入れが強ければ強いほど反発は大きくなるのではないかと思った。強い思い入れを持たないはずの私だったが、軽い気持ちで視聴を始めたところ突然の重たいボディーブローをくらうこととなった。娘の視点から描かれる夢見がちな一人の社会不適合者の肖像は、アル中の諸君をいたたまれなくさせること、うけあいである。
ブラッドボーン
実はこの二ヶ月というもの、ひどい気鬱に悩まされていた。サブカル道を歩む者は、三十路でマッチョ願望にとり憑かれ、四十路で抑鬱状態に陥るという。どのくらいひどい状態だったかと言えば、雨戸を閉めて電気を消した部屋で、新作の映画やゲームを傍らに積み上げたまま手も触れず、かろうじて視認できるほど輝度を低減したモニターで延々とディアブロ2をプレイしていたぐらいだ。しかも、音が耳に障るという理由でスピーカーは外してあった。バーバリアン用にグリーフとフォーティテュードを完成させたところで、さすがにこのままキャラ数分のエニグマを作成するのはまずいと感じはじめた。革張りの社長椅子から腰を上げ、長らく2月だったカレンダーを3月にめくると、明日がブラッドボーンの発売日であることに気づいた。よろよろとゲーム専用シアターに向かい、プロジェクターの埃をはらって、アンプに通電する。0時を待ってダウンロードを行い、120インチのスクリーンにタイトルが映し出されたとたん、現実が消失した。疲労と空腹が再びこの身に意識を取り戻してはじめて、私は自分が血濡れの病み人として別世界を徘徊していたことを知ったのである。ファミコンを体験したことに後の人生を大きく規定された私が、成人して以来ずっと求めていたゲームは、正にこれだと思った。極限まで突き詰めた映像と音楽と操作性が織りなすこの没入感を貴様らにわかりやすく説明するなら、決して萎えない理想のペニスが挿入され続けるアヘ顔ダブルピースの24時間であり、美少女にがんばれがんばれと励まされずとも間断ない最高の射精が続く状態である。実はドラクエヒーローズもプレイしたのだが、あれっ、鬱じゃなかったの、ゲーム性はひとまず置くとして、大音量での再生をわずかも想定しない最悪のモノラル的音質に耐えられず、早々にクリアを断念した。よりアッパーな再生環境に耐えるという、プレステ4でリリースすることの意味を制作側が少しも理解しておらず、すぎやま先生とオケの面々に土下座して謝れよ、てめえらはいつまでもジャリ相手の携帯ゲーム作ってろよ、パズドラ死ねよ、と素直に感じることができた。あとシレンジャーなので、家人の携帯ゲーム機を無理やり奪って世界樹の迷宮も嫌々プレイしたが、おまえ、ぜんぜん鬱じゃないじゃん、品薄が高評価を一時的に形成することがあるというネット特有の現象を体験したことだけが収穫だった。引き算が本質のゲーム性に足し算し続けるという、無駄な努力の天然色見本とも言うべき的外れのつまらなさで、これまた早々にクリアを断念した。これら二つのクソゲーを紹介したことで何が言いたいかといえば、ブラッドボーンは映像と音楽とゲーム性の極めて高いレベルでの融合に成功しており、既存の映画ジャンルを超える新たな映像芸術の位置にまでゲームという存在を止揚した、ひとつの到達点であるということだ。とはいえ、100インチ以上のスクリーンと7.1チャンネル以上のサラウンド環境で復元された本作を体験できない者は、この革新が見えないまま、幼年期の始まりに気づかないまま、過去作との愚かな比較を繰り返すばかりだろう。ゲームをチープな暇つぶしへと追いやってしまったのは、我々が街角の売春婦にするようにその対価を値切り続けてきたことが原因だ。パトロンであったはずの我々が安く買わんがために、美女の価値をことさらに世間へ貶め続けてきた。この新たな映像芸術に対して、現在の10倍、いや100倍を支払うことに私は一瞬のためらいもない。さあ、全国津々浦々のファミコン世代よ、クリミナルかセレブリティかの二択世代よ、じつは高学歴の金満家たちよ、いまこそ我々にゲームを取り戻そう。これだけ豊かな体験を人生に与えうるゲームにより高い敬意を、より多くの金を払おうではないか。
インターステラ―
理論物理学の重鎮を科学考証に迎えた本作の実相は、SFというよりむしろコミュニケーションを主題に据えたファンタジーである。我々の意思疎通は、頼みにならない郵便屋が届ける、番地まで宛名の書かれていない手紙のようなものだ。いつ届くかわからないし、届いても開封されたかどうかわからない。その曖昧さは、親から子へ渡されるときの言葉の性質にもっともよく表れる。差出人はいつか開封されることを願って投函し、手紙が読まれたかどうかは受取人だけが知っている。そしてこの性質はまた、「いまここにいないもの」という意味での死者と対話を可能にしており、テロ後の、震災後の世界における我々のコミュニケーションの本質を喝破しているのだ。とは言いながら、インセプションやダークナイト・ライジングを自信満々で世に送り出してしまうノーラン監督だから、娘萌えが昂じた結果、偶然そういうメッセージ性を孕んでしまった可能性も否定はできない。そのすれ違いがあったとしてさえ、疑いのない傑作である。
ベイマックス
あ、あれっ。貴様らがマジンガーZだのグレンラガンだのに言及して褒めそやすから、すごいワクワクして視聴を開始したのに、なにこのガッカリ感。ちょうど大トロを食いにいったのに、アボカド巻きが出てきたみたい。きれいに伏線を回収するシナリオとか、物語中ただひとり喪失を経験したヒーローが復讐を放棄するメッセージとか、すべてが然るべき場所へとピッタリ収まる気持ち良さは、確かにある。でも、これはアートじゃなくてプロダクトなんだという感じにすごくさせられた。こういうのを見ると、エヴァQの側につきたい自分を発見して複雑な気分になる。エヴァQにベイマックスの工業製品感を与え、ベイマックスにエヴァQの歪みと情念を与えれば、両者ともちょうどいい塩梅になるのになあと思った。ともあれ、これだけ絶賛のみが聞こえてくるというのは、デザインとかアクションだけでフィクションを視聴をできる層が本邦にとくべつ多いのだろうな。たぶん、ロコモーションにいれあげる特定層と同じで、情感の部分が乏しいか欠落しているのかもしれない。
ゼノブレイドクロス
ブラッドボーンの直後だと、全般的にきつい。グラフィックの細部が粗くて気になるし、昭和のSFみたいな固有名詞のセンスと造形デザインには目眩を感じる。13歳という設定の女性キャラのモデリングがきつい。長年、二次元のみを見続けたおたくが、その精神の歪さを客観視できなくなっている感じがありありと伝わる容姿である。このキャラだけは一般人には絶対に見られたくないし、「おたく=ペドフィリア」の偏見を助長するので誰にも見せたくない。前世紀末のライトノベルを未だに地でいくキャラどうしのかけあいがきつい。視点の置きどころがない、構図のないカメラで撮影されたムービーでそれをやるため、なんというかひどくいたたまれなくなる。「斃す」とか「赦す」とか、常用漢字に親を殺された感もすごいきつい。でも、さすがにゲーム部分は面白いので、無理して我慢して作品世界へ没入しようとする。けれど、頻繁に挿入されるムービーにいちいち現実へと引き戻され、その決意をさんざんに砕かれる。いい年齢をして未だにゲームを止められない自分が恥ずかしくなり、さらにいい年齢をした大人がこれを作っているかと思うと暗澹たる気持ちにさせられる。「社長が訊く」で制作側の素顔をダブルミーニングで知ったゆえか、名状しがたい負の感情がとめどなく噴き上がり、本当に冗談ではなく死にたくなる。ぼくたちおたくは嫌われて当たり前だし、軽蔑されてもしょうがないんですも。なんだこれですも。
ドライビング・ミス・デイジー
「日の名残り」と同じ系統の、ある人物にフォーカスして時代を追うことで、語りすぎず、淡い社会風刺を匂わせる作品……のはずが、インセスターZことモーガン・フリーマンの胸焼け演技によって爽やかな読後感はぶち壊されている。さすがだぜ!
西遊
確かに、ロード・オブ・ザ・リングに匹敵するスケールの物語をアジアから探すとしたら、西遊記しかないだろう。相変わらずドラゴンボールやらエヴァンゲリオンやら、日本のおたく文化の精髄を換骨奪胎するのが歯噛みするほど上手く、近作の定番パターンではありながら、凡人が超人へと化身する瞬間の描き方も充分に感動的だ。以前も指摘したけど、おたく文化を一等地低いものと見なし続ける本邦のメインカルチャーとやらからの蔑視のせいで、我々はパシフィック・リムを作られ、ゴジラを作られ、今度は西遊を作られてしまった。同じ内容の繰り返しになるからより詳しく聞きたい向きはカンフーハッスル当たりの評を見返して欲しいが、もうそろそろカネを動かせるという一点だけに頼った根拠の無い優越感は捨てて、君たちは真摯に無から有を作り出す才能へ向き合うべきだと思う。ゼロには何億をかけても、ゼロのままなのだから。
グランド・ブダペスト・ホテル
センスと外殻だけがある、きれいな昆虫のような、メリーゴーラウンドのような作品。誰が言ってたか、「すべての映画はアニメになる」を地で行く、ポスプロまみれの怪作でもある。画面の色合いから構図までのすべてが監督の意図に支配されており、時間軸の違いをアスペクト比で表現したり、映画芸術の枠組みに対してもやりたい放題である。また、凡百の創作ならトラウマ感情のゆらぎがどうしても作品へにじみでてしまうものだ。しかし、この監督はそういう雑味を徹底して自作品から排除していて、それゆえのドライな手触りに憧れる。どんな人物がすごく興味あるけど、絶対に会いたくはない。
アニー
原作に思い入れがないどころか見たことさえないのに、一般女性の「日々に疲れた時のサプリ(某ネット通販感想より抜粋)」を一般おたくが視聴してしまって、なんかごめんなさい。きっと、一般女性がドギツイ抜きゲーをついうっかりプレイしてしまったら(どんな状況だ!)、こんな気持ちになるんだろうなと反省させられました。なので、内容にはいっさい触れません。私に言えるのは、ジェイミー・フォックスが全体的に手を抜いて流した演技をしているなということと、やっぱりキャメロン・ディアスは卑猥で下品な役柄がピッタリの最高のアバズレ女優だなということです。(しかし、最近のキルスティン・ダンストには油断が生じているのか? だとしたら、キャメロン・ディアスに追い抜かれるのは時間の問題だぞ)