「世界にとって本質的に無意味であるという絶望的な確信から逃れるために、人間は資本主義を創り出した。それはカネという明快な価値基準にのっとり、勝者と敗者を分かち、勝者イコール有意味・敗者イコール無意味の図式を、神のいない荒野に打ち捨てられ、存在の価値を求めて発狂する人間の心の部分にぴったりと当てはめるシステムである。このシステムの中で勝者が勝利において意味性を得るためには、必ず敗者が存在しなければならない。一昔前の日本においてそれは明らかな生活破綻者を指し、社会において勝者の意味性を強調するコントラスト足り得たが、現代社会においては余剰の富がすみずみまで漏れ広がり、敗者の破綻が彼らの社会生活の終焉に直結しないことが勝利者たちにとって不満を抱かせる要因となっている。明確な、システムに迎合しないものの断罪の様子を市中に見つけ出すことのできなくなった資本主義社会の勝利者たちの求めた新たな敗北の有様、新たな有り得べき必然、それが我々おたくであると言えよう。そしておたくは、資本主義社会においてしか生まれ得ない存在である。なぜならおたくとは、世界という際限のない無意味性の広がりから、同族内に比較対象を設定することでかろうじての意味性を切り取る絶望のシステムの内に、あらかじめ組み込まれた予定調和的劣等因子であるからであり……」
ちがう、と叫びたかった。
かれの目は私を通りぬけて、私ではないどこか遠くを見ていた。言葉をさしはさむ隙も与えず、その意味もわからないまま、絵本に書かれた文字を目で追って読み上げる小さな子どものように、かれの言葉は私の上を滑っていった。テレビモニターの中の人のように、かれは私に関係が無く、そして私はかれに関係が無かった。それがかれの望む交わりだったのか。
ちがう、と私は叫びたかった。だが、心が拒否するとき、言葉に何の意味があるというのだろう。
それまで誰にも気づかれないまま、ひっそりと部屋の隅に座っていた小太りの男が立ち上がった。薄くなった頭頂部に、突き出た腹を抱えて、その男は奇妙に存在感を漂わせない歩き方で部屋から出ていった。最初、私はこの男のことを寺の関係者なのだろうと勝手にひとり決めしてしまっていた。だが、閉じられる障子の隙間からのぞいた背中に、私は突然思い当たった。
私はあの男を知っている。
誰かが何の気持ちもない論理を打ち壊してくれるのではないかと、どこかで期待していた。自分がいつも自分のもののようではなくて、自分の発する言葉の意味も重さもわからなくて、誰かの泣き顔や、ひどく傷ついた表情を見るときにだけ、ぼくは自分の言葉の持つ力と、自分の中にある漠然としたものの形を知ることができた。
ほんとうは、ぼくには誰かを傷つける価値なんてなかったのに。
遠くから泣き声混じりの悲鳴が聞こえ、気がつくとぼくはあの病院のベッドの上にいる。うす濁りした白い膜にすべてが閉じこめられたようなその場所で、ぼくはただベッドにひとり横たわっている。指ひとつ動かすことさえできない深い虚脱の中で、ぼくを作った人たちのののしりあいが、かすかにぼくの鼓膜を揺らした。
かれらの中にぼくはいない。ぼくの中にかれらはいない。
傷つかないための無感動の上へ、受け入れられるためにする偽りの感情を永遠へと向かって積み上げ続ける煉獄。わけ知り顔な多くの理屈。ぼくを受け入れないための論理。表情を浮かべることを忘れた頬に、知らず流れ落ちる涙の温度を、ぼくは感じていた。
そうだ。あのときはじめて、ぼくは孤独の意味を知ったのだ。
気がつくと、目の前には小太りの中年男が座っていた。男はただ座って、こちらを見ていた。急速に現実へ焦点が戻ってくる。私はあわててわずかに顔を伏せた。自分はいま、どんなに無防備な表情をしていたろうか。
「毎晩のビールがうまい」
大きすぎず、小さすぎず、まったく主張のない声音で、男はそう言った。私は不安になった。私が知っている世界の言葉とはとても違って響いたからだ。人が、こんなに相手を脅かさずにしゃべれるものなのか。
「ずっと特別でありたかった。誰も文句を言えないような何かでありたかった」
それは不思議な、空気のようなしゃべり方だった。いったい自分が話しているのか、相手が話しているのか、ついにはわからなくなってしまうような、そんなしゃべり方だった。
「妻の顔を見て、子どもたちの顔を見て、それから、自分の突き出た腹を見て、おれは少しも自分が特別じゃないってようやくわかった。うれしいんだ」
目尻に深いしわを刻みながら、笑うと目の無くなる、人なつっこい笑い方で男は笑った。笑い声が途絶えると、部屋には沈黙が降りた。しかしそれは、あの狂躁的な、次の言葉を無理にも促す不安な沈黙ではなかった。それまで相手の言葉に身構えて硬直していた全身の筋肉から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じた。誰かと向かうとき、私はこんなにも緊張していたのか。私は眠りこむ寸前のような、あの安堵を覚える。
「おれはどんどんみにくく、つまらなく、そしてやさしくなってゆく」
男は私の目を正面から見た。それは、まるで私の一番奥を見ているようだった。いままで、誰も私をそんなふうに見たことはなかった。
「戻ってこいよ。ここは、思ってたほど、怖い場所じゃないみたいだ」
やがて、薄くなった頭頂部に手をやりながら、男は最初からそこにいなかったかのようにひっそりと、部屋を出ていった。
突然、苦痛が全身を包んだ。心から死ぬつもりだったのに、あの男は、悪魔か何かのように忍びより、ささやきかけ、静謐な末期の悟りに迷いを生じさせたのだ。私は卓上に置いてあった赤い小箱を取り上げ、なかの小瓶をあけて、白い錠剤を手のひらの上にのせた。また、胸に痛みが起こった。それは遠くなつかしい、子どもの頃ような哀切な痛みだった。胸を押さえてうずくまると、ちょうど視線の先に大きな姿見があった。あばた面にじっとりと脂汗を浮かべた、ぼさぼさの髪の太った男が、痛ましい澄んだ目でこちらを見返していた。私が眉をしかめると、姿見の太った男は泣きそうな顔になった。「今度こそ、みにくいおまえを退治してやれると思ったのに」
無意識のうちに強く握りしめてしまっていた手のひらを開く。ぼんやりと発光しているかのように見える白い錠剤。これを嚥下しさえすれば、数分のうちに安らかに死へと至ることができるだろう。私はかぶりを振ると、生じた迷いに時間を与えるため、錠剤を卓上へと置いた。私は椅子に背をもたせかけ、その錠剤をじっと見つめる。
私は、本当はどうありたいのだろう。
心に浮かんだその言葉は、ずっと長い長いあいだ押し込められてきた、初源の問いであるような気がした。生まれて初めて、自分の手を自分の手のように感じながら私はゆっくりと卓上へ手をのばし、純白の錠剤をひろいあげる。
そして――
「あ、宅急便。暑い中えらいご苦労さんです。ハンコおまへんねやけど、サインでよろしいですか」
「あなたが注文購入したのが某有名RPGの最新作でなくて幸いでした。もしそうなら、なんとひとりよがりな、もはや比喩表現による婉曲的な揶揄の意味ですらない”一本道”RPGを愛好する輩と、泣きじゃくって許しを乞うまで、玄関先であなたをキツくキツく殴りつけてしまっていたかもしれませんからね」
「サクラさん、素敵ですわ」
「兄さん、真顔でえろう怖いこと言いますなあ。そんなガタイとサングラスで言われたら冗談に聞こえへんわ。サインでよろしいですな? あ、なんやなんや。ハンコ無い言うとるやないか。いま嫁さん外に出とって」
「ステキな玩具だ……わたしに遊ばせなさい」
「サクラさん、素敵ですわ」
「それ、嫁さんが買ったプレステ2やから絶対触ったらアカンで。わしも勝手には、ってちゃうがな。勝手に人ン家あがりこむなや。ハンコ嫁さんが銀行持ってっとんのや。聞こえとんのか。せめて靴脱げや。おい、そこはトイレやぞ。トイレにハンコなんかあるかいな」
「人体というものはね、何かを排泄するときはすべからく気持ちのいいものです。小便、大便、精液、反吐、汗。オナニー好きのわたしはね、ことに精液を人の20倍膣外に排泄してきた」
「サクラさん、素敵ですわ」
「なに悠然と人ン家のトイレ使ってんねん。ええ加減にせんと、あ、こら。ゴミ箱にハンコ隠したりするかいな。おい、なにを嗅いどるねん」
「相変わらず安物の同人アンソロジーばかりでマスをかいているようですね」
「サクラさん、素敵ですわ」
「ほっとけや。嫁さん腹ボテなんじゃ」
「ティッシュに残されたスパームの濃度と匂い、量から判断すると、おかずに使用した同人誌の含む性嗜好は、ペド60近親相姦30放尿10のブレンド…見えた! 良き同人誌です」
「サクラさん、素敵ですわ」
「すごいな。そんなとこまでわかるんか。ってちゃうがな。なに感心しとるねん、わし」
「君たちは非童貞であるという現実に目がくらみ、童貞のわたしよりもチンポが見えていない。マスをかくという行為に真剣ではない。マスをかく行為がなっちゃいない。膣で得られる感触に安心してしまい、真の精神的屈従を脳が捕らえない」
「サクラさん、素敵ですわ」
「なんや兄ちゃん、童貞なんか。まさかそれがいまこんなことしとる理由とちゃうやろな。よ、嫁はんも娘も出払っとっておれへんぞ」
「だが、哀しみがない――日本橋の同人ショップで見つけたというこの本にではなく、読み手の君にだ」
「サクラさん、素敵ですわ」
「話そらすなよ。おい、待て、それどっから見つけてきてん。あ、このガキやな。返せや、おい。貴重品やねんぞ。こら、極太マッキー取りだしてどうする気や」
「職業漫画家でなくても絵は描けます。チンポの角度とティッシュのスレ音が世俗的な倫理観へのアンチとしての背徳の分量を、家人の露骨な嫌悪の表情がその背徳を社会的な許容の範囲に止めさせる判断基準となる――できた!」
「サクラさん、素敵ですわ」
「できた、やあらへんがな。返せ、返さんかい。あ~あ、ばかでかいおめこマーク描きやがって。何しに来てん、おまえら。何がしたいねん。ええ加減にせんと警察呼ぶぞ。おまえら二人とも家宅侵入罪やぞ」
「誰が決めたのかね。他人の家に土足で侵入しちゃいけないと、いったい誰が決めたかを尋いているのだよ」
「サクラさん、素敵ですわ」
「警察や。警察が決めとんのや。はりたおすど」
「ワァ~オ」
「サクラさん、素敵ですわ」
「バカにしくさって。わしは本気やからな。ほれ、もうダイヤルするで。出ていくんやったらいまのうちやど。あ。あいた、痛いがな。ちょお、これシャレならんって。強盗やがな。ここまでやったら強盗、あいた、痛い痛い。やめてくれ」
「ママの味わった苦しみ、あなたも知りなさい。息子がおたくで、もうじき30にもなろうかというのに定職にもつかずふらふらしているという現実から受ける社会的痛み、あなたも知るのです」
「サクラさん、素敵ですわ」
「わけがわからん。勘弁してくれ。痛い痛いよう。そ、そこの引き出しや。カネはそこの引き出しの中にある煎餅の空き缶に入っとる。全部持ってけ」
「与えちゃいけないッッ! いいですか、わたしに現金を与えられるのはまっとうな社会的生産性を持つ労働だけ。あなたは資本家じゃないでしょ」
「サクラさん、素敵ですわ」
「もうどないして欲しいねん。わけがわからんわ。いた、痛い。死ぬがな、死んでまうて。げほげほ。ごほ。死ぬかと思た。おい待て、なんやかんや言うといて、カネ持っていくんかいな」
「宅急便の配達夫などという、他人に与えられた人足まがいの仕事に甘んじることなく、奪うことで猶予期間の持つ鬱屈からの脱出を完璧にした。幸福だ」
「サクラさん、素敵ですわ」
「うわあ、最近流行りのモラトリアム犯罪やがな。どうりで理屈がわからんと、おい、なんやその手つき。今度はなに優しく触っとんねん」
「君の手が温かい…」
「サクラさん、素敵ですわ」
「だ、男色やがな! あ、おい、なにカメラ回してんのや。それネタにゆする気か。貸せ、このガキ。あ。耳元で息ふきかけるのやめえ。あ、こら、マジか。ズボンを、ぎゃあ、ぎゃああ」
「サクラさん、素敵ですわ」
何もない日々。穏やかな日々。(閉め切った薄暗い室内のじめじめした布団の盛り上りが画面に映る)。大手サイトのリンク集に名前を連ねることもなく、ネットワナビーの経営する弱小サイトの掲示板で非難や中傷の的になることもない。ネット社会での私は完全にいないものと同じになっていた(布団の盛り上がり、画面に映る。さきほどと比べ、窓から差し込む陽光に室内の様子が明るくなっている)。まるで、個人日記サイトなどというネット上のカテゴリを知ることもなく、ただガツガツと心を飢えさせていた十代のあの頃に戻ったかのようだった(布団の盛り上がり、画面に映る。窓から差し込む陽光、弱まってきている。盛り上がり、微動だにしない。間。室内は再び暗闇に包まれる。布団の盛り上がりがわずかに揺れる)。食卓で愚息の余分な薄皮を弄びながら、。おたくとは一番遠い人のように、まるでおたくを人ごとのようにして談笑する自分を見つけたとき、私は愕然とした(湯気を立てる食事を前に、ズボンを半ばずりおろしてチンポの皮を引きつのばしつしている男が、対面に座った女性に強く叱責されている写真が挿入される)。私がいるいないに関わらず、ネット社会の時間は変わらずに流れてゆく。だが、それを知って、気が楽になった。『サクラさん』は、朝の用便の最中に着想してから1時間で書き上げた。(軽快な音楽とは裏腹な、薄暗い部屋の中で分厚い眼鏡に背中を90度に丸め、 モニターから10センチの距離に顔面を接近させた鬱陶しい図柄の写真が、何枚もスライドのように画面に挿入される。最後の写真は、”笑いの演技の練習中”としか形容できない男の顔面の様子がアップで写される)
(映画館の座席に腰掛けた男の姿が映し出される。股ぐらにポップコーンの大きな器を抱え込んで、ぼろぼろと盛大にこぼしつつむさぼっている) 「ア、アニメはいいね。アニメはとてもいい。だってそれは本当のことじゃないからね。本当のことじゃないってことは、覚悟をしなくていいってことだよね。だからとてもいい(スクリーンの映像の光が男の顔面に照り返し、一種異様な雰囲気を作り出している)」
――あなたはアニメの中で、何が一番好きですか?
「小さな女の子だね。生まれ変わって、まず何になりたいかって聞かれたら、小さな女の子だって答えるよね。だって、そうすれば、ずっと誰からも後ろ指さされることなく小さな女の子といっしょにいられるわけだよね。いや、ちがうんだ、もちろんアニメの方の小さな女の子だよ。だって、現実の小さな女の子は、まァ悪くはないけど、泣くし、臭いし、わがままだし、じきに小さな女の子じゃなくなってしまって、ただのイヤな女が残されるだけでしょ。それはとても残酷だし、ぼくにとっても、女の子にとっても辛いことだよね。ね。(男の隣に座っていた女性、もうたまりかねたといった様子で席を立ち上がり、その場を立ち去る。湿度が高まった女性器を指で擦るときの擬音に、甲高い声で”アイアムゲイカ”という歌詞の連呼が加わる曲が流れ始める)」
(ひどいせむしの男と女性が、第三者が見たならばお互いが知り合いであるとはとうてい思えないような距離をおいて歩いている) ”ぼくはホームページを更新するとき、自分と同年代の人々を思いながら、彼らに語りかけるように更新するんだ。『やあ、小鳥猊下だ。最近調子はどうだい。元気でやってるかい。80年代、90年代はガンダムとかエヴァンゲリオンとか、大作化するRPGとか、ジャンプの衰退と復権とか、ひたすらおたくで、さんざんだったな。21世紀はお互いいい時代にしようぜ』”
「(小太りの男が、ほとんど両足を動かさないまま、左右に跳びはねるように近寄ってくる。フェンスに飛びついて)なあ、小鳥猊下、あんた小鳥猊下だろ。信じられねえ! 今日ここで会えるなんて! なあ、握手してくれよ! おれ、あんたの大ファンなんだ。(せむしの男、尊大にフェンス越しに手をさしのべ、握手をする)信じられねえ! 信じられねえよ! なあ、聞いていいか? nWoはいつ更新を再開するんだ?」
「明日だ(せむしの男、フェンスから歩み去る)」
「(跳びはねて近寄ってくる小太りの仲間たちに向かって)なあ、小鳥猊下だ。小鳥猊下と握手しちまった! おれ、信じられねえ! 信じられねえよ!」
(黒い服に身を包んだ女性が背中を向けて座っている)
「いま思えば、いくつか事件の暗示はありました。発売日にジャンプを買って来なかったり、以前はあれだけむさぼるように執着していたし、批判の言葉もものすごかったのに、最近では1時間ほどでゲームをプレイすることをやめてしまったり。何のコメントも無くです。ああ、でも、これらはすべて後付けの理屈なのかもしれません。本当のところ、かれの内側で何が起こっていたのかは、どんなに近しい人間にもわからない。かれにしかわからない、かれだけの世界なのですから」
(プリントアウトしたものらしい紙束を胸に抱えて、数人の女性が泣きじゃくっている)
「私たちにとってnWoは特別なの。私たちは小鳥猊下とともに成長してきたわ。猊下は私たちがなんとなく感じていた生きにくさに指をさして、”それはおたくだ”ってはっきりと言ってくれたの。私たちは初めて自分たちのおたくに胸を張ることができた。学校にいても、会社にいても、どこにいてもnWoがそこにあるってわかったから。おたくじゃない猊下のnWoなんて考えられないわ(紙束に顔を埋めて号泣する)」
早朝の駅前ロータリー。低く流れるキーを外した不安な音楽。とある量販店の前で、某有名大作RPGの路上販売の声が響く。遠くからふらふらと歩いてくる男。男、香港の路地裏の屋台に裸にむかれて吊された鶏の死骸を連想させる様子でネクタイに緊縛されている。高まる不安な音楽。路上販売のあげる威勢のいい声。ふらふらと白昼夢の中の人のように、そこへ歩み来る男。突然の突風に揺れる某有名大作RPGのロゴを染め抜いた旗。路上販売のまさに前にさしかかる男。音楽はもはや耳をおおわんばかりの音量と不安定さで流れている。一瞬写真のネガのように反転し、停止する風景。男、路上販売に一瞥もくれずに通り過ぎる。叩きつけるピアノの音。男、人混みの中を駅のエスカレーターへと呑み込まれてゆく。駅前に行き交う老若男女、男の姿が見えなくなると一斉に地面に倒れふし、大声で泣きわめきながら、”オールユーニードイズオタク”という歌詞を、互いに肩を組んで即席のウェーブを作りながら歌い始める。
ぼくは自分の中のおたくがわかりすぎるぐらいにわかってしまっていた。例えば”12名の血のつながらない妹による乱痴気騒ぎ”といった断片的なキーワードから、自分がどのくらいの笑いとエロと批判と自虐とを含んだ更新をすることができるか、やる前からもうすでにわかってしまっていたんだ。生来の内罰性と無気力が、互い自身の歪んだ相似からくる際限の無い自己嫌悪の螺旋を作り出す平穏な日常という名前の地獄。ぼくとぼくの中のおたくはいつも、とても苛立っていた、お互いのすべてが見えてしまっていた。創造の魔法は終わったんだ。
(明らかに日本人では無いが、国籍の特定できない顔立ちの男が、正面を向いて座っている。心地よいと感じる抑揚をわずかに外した日本語で、男、話し始める)
「それは最初はほんの気まぐれな思いつきだったのかもしれません。きっとお互いの中にあった閉塞感に何か、風を入れることができたらと思ったのでしょう。実際かれらの様子はとても陽気で、何もかもうまくいっているように見えました。でも、そのとき、そこにいた誰ひとりとして、それがnWo最後の更新になるなんて、想像すらしていなかったのです」
ビルの屋上に置かれた雨ざらしのスピーカーから、突如”ドントレットミーゲイカ”という歌詞で始まる曲が、薄曇りの夏の夕空に向けて大音量で流れだす。スピーカーより遠ざかっていく視点。最初、耳を覆わんばかりのすさまじい音量で、スピーカーの音割れからか、何か人外の獣の吠え声のような、悲鳴のような切迫感を伴っておんおんと周囲に鳴り渡っていた曲も、カメラの視点がわずかに遠ざかるだけできれぎれとなり、すぐに何も聞こえなくなる。
「(ベランダで海に沈む夕陽を眺めている。目尻を指でぬぐいながら振り返り)いや、失敬。みっともないところをお見せしてしまったようだ。今日はね、いつものような大騒ぎの感じではなく、一度静かに君と話してみたいと思っていたんだ。センチと笑ってくれてもいい。そういう気分なんだ。
「アメリカと呼ばれる国がある。世界の中でも最も新しい国のひとつだ。映画産業や、宇宙開発や、まァいろいろあるが、かれのするすべての行動に共通する要素は、先へと進むことを自らの存在に課しているという点だ。誰に求められたわけでもないのに、かれが誰よりも先に前へと進まなければならないのは、野盗の切り取りのごとき後ろ暗い発生の理由を、その根源にごまかしようもなく抱えているからだよ。過去へ誇ることのできる存在の基盤を持つことができないかれの過剰なまでの進取は、殺戮と駆逐という名前の原液を溶液へと薄める続けることでついには無くしてしまおうとするためにそそぎ込まれた薄めの水そのものであり、知られたくない出生の秘密を覆い隠そうとする決死のもがきの現れに他ならない。かれの発する言葉がすべて論理であり、かつ奇妙なほど小昏い部分を持たないのは、かれの持つわずかの歴史のほとんどが、その正反対の性質のもの――つまり、不条理と昏い闇に彩られてきているからと言えるだろう。その意味からすると、宇宙開発は、誰かの手にあるものをもぎとるしかなかったかれが、誰の手のものでもない場所へ到達することによって、存在の基盤を清浄な次元へと移行させようとする必死の努力であると見ることができるし、、映画産業は、クレープの薄皮のように、誰の手にも触れられない虚構という次元を現実へと広げることでの、遠回しな集合無意識への介入であるとも言えるかもしれない。でも、それだけじゃあない。裏切りと策謀の果てに玉座へと上った孤独な王が毎夜見る、これまでの自身の行動の鏡写しとしての悪夢に、かれはさらに経済という名前の単一のパラダイムで世界のすべてを併呑しようとする。様々の血が混ざり合っているという、自らの存在の定義の曖昧さへの釈明として、かれが好んで声高に主張する”個性”という言葉はここにおいて反転し、かれが本当に求めていることは、多様さによる個性どころではまったくないことがわかる。かれが望むのは、自分と同じ価値観による世界の没個性化なんだ。かれの恨みは自分に歴史が無いことにあった。血とか、家とか、ただ続いてきたというだけで強烈に存在し、この上もない確かさで主張し、自らを脅かすものども、何の理屈も無く結びあい、維持する能力も持たないままゆるゆると愚かに継続する非論理。自分には無いその確かさ、ゆるぎない唯一性を、かれは気の狂うほど欲した。例えどれだけ時間が流れようとも、元々敷設されていた旧来のレールの上を走る限り、新参が新参でなくなることはありえないからね。かれがそれを達成するために求めたのは、かれの提供する新しいパラダイムの上でのすべてのやり直しだった。スタジアムに遅れてきたマラソン選手が、先を行く他の選手を呼び止めて、マラソンなんかつまんない、そんなのはやめてやっぱり走り高跳びで勝負しましょうってな具合だよ。でも、いったいどこのお人好しが自分のリードを放棄してまで、相手の得意分野に競技変更しようと思うだろう。匕首を相手の喉元につきつけてのやり直し請求はほとんど成功しかけているように見えた。だが、羽虫と羽虫が違うように、牛馬のそれぞれ持つ個性のように、たったひとつの価値観が世界をおしなべてしまうことは、少し東洋的に過ぎるかもしれないが、更なる巨大な摂理の流れに矛盾すると言える。そこへ、摂理の揺り返し、あるいはまったく別のパラダイムからの巻き返しが起こったとして、何の不思議があるだろう。業の精算を過去ではなく未来に求めたこと、自分は本当は生まれてくるべきではなかったのではないかと煩悶する子どもが、自らの存在を内へと許容することではなく、外へと主張することによって居場所を作り出そうとしたこと、それらの歪みが臨界点へと達した結果、かれのすべてを盲にする特異点が生まれ、 巨視からの揺り返しが起こった。簡単に言いかえれば、かれは自身のトラウマからの逆襲を受けたんだ。血塗れの半身を押さえながら立ち上がり、しかしかれはなお外へと主張しようとしている。許容することは、自分が正しくなかったことさえも同時に認めなくてはならないからね。そして、それを認めてしまえば、かれはこの世界に存在できなくなってしまう。
「オヤ。なんだか岸田透みたくなってしまった。そうだね、こんななんでもお見通しの神様みたいな言い方じゃなくて、個人的な感想を言わせてもらおうかな。今回の事件を知ったとき、ぼくは本当に、心の底から興奮した。だって、そうじゃないか。ぼくが生まれたとき、すべては終わってしまっていて、世界は情事が終わった後の娼婦みたいに、ぼくを拒みもしないかわりに、ぼくを受け入れもしなくなっていた。ネクタイを締めて、あるいは制服を着て、毎日会社や学校へ行き、たまの休みには家族や友人とそれなりに楽しくないこともない時間を過ごす、そんな世界の揺るがなさは、例えぼくが百万年生きたところで、一千万年生きたところで、決して変わることはないと、ぼくは何の根拠も無しに信じていた。そうだということを知っていたんだ。ぼくは、死んだ祖父が熱っぽい目をして戦争を語るときに必ず感じた、あの言いようのない劣等感を久しぶりに思い出した。ぼくは、それに対しての快哉を叫んだのかもしれない。一番最初にぼくに浮かんだ気持ちは、同情でもなく、悲しみでもなく、まして憤りですらなく、そう、快哉だったんだ。世界という名前のゆるやかなあきらめに生じた亀裂を見た者の、変容への期待に満ちた快哉。言ってくれなくてもいい。ぼくは、異常者だ。どれだけ強く殴れば人が死ぬか、どれだけ深く刺せば人が死ぬか、最も秘すべき性の知識でさえも湯水以下の価値の情報として氾濫する中で、本来なら生物がすべて持っているのだろう、その命への実感がぼくには決定的に欠落している。ぼくの知っている血は、瞳に照り返すゲームのモニターの赤でしかない。ありとあらゆる知識をあびるように与えられ、肉を養うすべての栄養をふんだんに与えられ、そうして、ぼくは命の実感とは最も遠いところにいる。もう一度言うよ、ぼくが最初に感じた気持ちは、そのあと生まれたすべての良識的な社会からの感情を越えて、まぎれもない快哉だった。世界が再生するための死のイベントへ向けた、心からの喝采だったんだ。自分以外のもののする痛みを知らず、羽虫の浮いた水たまりに這いつくばり、陶酔した表情で泥水といっしょに快楽をすする、ぼくは、異常者だ。
「相手に与えたものは、必ずそれ以上の大きさで返ってくる。暴力をするものには、より苛烈な暴力が。ただ、愛だけがこの法則の例外なんだ。いくら与えようとも、それは――(海へとせり出したバルコニーの籐椅子に腰掛ける一人の男。背後からその頭蓋に銃口が押しあてられる。次第に上昇してゆくカメラ。男の姿が完全に映像から消えた瞬間、銃声が鳴り響く。カメラのレンズへ、わずかに血の飛沫が付着する。照り返す夕陽に、無限の美しさをたたえた南国の海)
「(右手にペンを走らせ、左手の服の袖でよだれをぬぐいながら)ククク…おしゃれだ、こいつァ、たまらなくおしゃれだよ」
「(大気を震わせる重低音で)ゴルルコビッチ、ゴルルコビッチ」
「(ハッと顔を上げ)この重厚かつ珍奇な移動音は、まさか…(おびえるように振り返る)こ、こ、(暗闇から染み出すように、中肉中背の特徴に薄い男が現れる)枯痔馬酷男監督ッ!」
「(造作は普通のはずなのに内面からにじみでる何かがその印象を一種異様なものにしている顔面と、異様にくぐもった聞き取りの困難な発話で)どうだ、リトルグレイ・インプラント編の執筆は順調に進んでいるか、賢和(口元だけを泣き笑いに歪める微笑みで、男の肩へ鷹揚に手を置く)」
「(嬉々として机の上に置いてあった原稿を差し出しながら)もちろんですよ、監督ッ! 今日も今日とて主人公とその恋人のとびきりおしゃれな会話シーンを完成させたところです!」
「(原稿を取り上げる)どれどれ…(音読する)『それから君の部屋に行って朝までキングコングを見た。2人で、何度も何度も』」
「(腰を浮かせて)どうですか、枯痔馬監督。最高におしゃれでしょう? (屈託の無い笑顔で)会心の出来です」
「バカヤロウッ!(振り向きざま、裏拳を男の顔面へめり込ませる)」
「ぐはぁッ!(糸の切れたマリオネットのようにフッとび、コンクリートの壁に叩きつけられる。泣き出しそうな表情で首だけ持ち上げて)こ、枯痔馬監督?」
「(もはや隠しようもなく露出した頭皮からもうもうと蒸気を立てながら)おれこないだ言ったよな、安直な比喩に頼るなって。おまえ何度言やわかんだ、賢和? つい先日自分史を書き始めた50代デパート店員みてえな、コタツにこぼれた醤油臭え文章書いてんじゃねえ! 世界の枯痔馬の名前に泥を塗るつもりか、コラ(”世界”という語を殊更に強調して発話しつつ、倒れた男の脇腹に靴のつま先をねじ込む)」
「(せき込みながら、血と欠けた歯を床に吐き出して)そ、そんなつもりは、本当に、私ぐらいは枯痔馬監督のような深い洞察や文章感覚は到底持ちあわせておりませんので…よ、よろしければ、私めに道を指し示しては下さいませんでしょうか(うるんだ瞳で、床へ身体を投げ出すようにひれ伏す)」
「(肥大した自意識を刺激される心地よさを見せまいとする、装った見下す無表情で)フン、才能に乏しい後発どもを指導するのも、まったく骨が折れることだぜ。(原稿を手の甲で叩きながら)キングコングを媒介とし、殊更にそれへの焦点を高めることで、おまえは2人の激しい情事を読み手へと婉曲的に示そうとした。そうだな?」
「(がくがくと首を縦に振って)はい、その通りです、ご推察の通りでございます。ですが、猿めの浅知恵でした」
「わかってりゃ、得々とおれに手柄顔で近寄るんじゃねえよ。失敗した比喩が放つ悪臭にも気がつけない、この最低の明き目盲めが。(床に唾を吐いて)…まァ、いい。こんな(口の端を歪める)状況設定自体、世界の枯痔馬酷男にはありえない話なんだが、あえて、もし、おまえが提出しようとしたこの状況をおれがリライトとすると、こうなる。よく聞いとけよ、一行10万の大シナリオ書きの言葉だ、一字たりとも聞きもらすんじゃねえぞ」
「(大慌てで)か、紙。え、鉛筆」
「(咳払いして、しかしくぐもった声で)『夜の底の街路樹たちは愛液を含んだ陰毛のように、夜霧のうちにしっとりと濡れていた。空に浮かぶ摩天楼の群れは、まるで林立する黒人の禍々しいチンポの如く傲然と屹立しており、発情猿の、下から見上げる群衆へと向けて挑戦的にパックリと開いた血のように真っ赤な巨大オメコを、それらのビルヂングは端から順に荒々しく突き上げていっているようにも、当時のおれの目には映ったものだった。もっとも、君のあえぎ声といえば間違いなくキングコング並だったが(苦笑)』(左頬をひきつるように上げて)どうだ?」
「(筆記する手を止めて、おそるおそる)あの、”(苦笑)”はどうかと思うんですけれど」
「バカヤロウッ!(男の頬にこぶしが根本までめり込む。”く”の字に折れ曲がる顔面。ガラスの粉々に砕けるような音とともに部屋の壁へと叩きつけられる男) 自身が虚構であることを自覚した明確なそこへの線引き、物語の最高潮にも読み手を没入しすぎない冷静へと立ち返らせる客観的な視点、それがおれの、世界の枯痔馬様の、枯痔馬節のうなりなんじゃねえか! テメエの悪臭放つ排便シナリオを大音響とともに棚上げして、よくもおれの極上のウィットに薄汚ねえ自己防衛と批判のゲロを浴びせることができたもんだな、アア?(男の襟をつかむんで引きずり起こす)…おまえ、どんなエロがこの世で一番エロかわかってんのか?(男の頬を平手で痛打する。その言葉を言うときだけ激しくどもりながら)イ、イ、イ、インポの男が持つエロに決まってんだろうが! (感情の昂ぶりから左頬に現れたチックを隠そうともせず)エロなんてのはしょせん、誰も見たことのない抽象、ほとんど神話とも呼べる幻想に過ぎん。女と交接すりゃ、幻想は現実と重なり、ついには入れ替わっちまう。だが、エロという名前の幻想を少しも放出せずに、最も純粋な幻想のままに放置しておけば、そうさ、ホースの穴の詰まった(どもりながら)イ、イ、イ、インポ男の中でそれはグズグズに腐り、ドロドロに醗酵し、ついには脳髄の芯の芯まで酔わせる極上のエロへと醸造されるんだよ! おたく野郎どもは現実との交接を相互関係によって生きる命としての極限まで薄めているという一点において、どれだけチンポをオッ立ようと(どもりながら)イ、イ、イ、インポとほとんど同義であるということができんだ。食べるに殺さず、交わるに犯さず、歴史上のどんな聖職者よりも清い、最低の売女の息子どもめが! 目もくらむようなやつらのエロへの妄想の中で、こんな三文新聞小説みてえなくすぐりに、どのおたくが本気でオッ立てると思ってんだよ! (襟を持ったまま激しく揺さぶりながら)毎晩の安いオナニーでエロを殺してんじゃねえ! おまえ、それを売って生きようってんだろうが! 情欲は鈴口じゃねえ、カラス口からほとばしらせんだよ、俺たちは! (ズボンの隙間から男のパンツの中へ手を突っ込む)どうだ、賢和、おまえもおれと同じ(どもりながら)イ、イ、イ、インポにしてやろうか? おまえに才能がありゃ大作家、才能が無けりゃキチガイ病棟!(つかんだ手に力を込める)」
「いひィィィ(涙と鼻水を垂れ流しながら、おこりのように震えると失禁する)」
「(近づけた顔からのぞきこんで)なぁに本気にしてんだよ。おまえのチンポを直々に握りつぶしてやるほど、おれがおまえの才能を信じてると本気で思ったんじゃねえだろうな? (男を床へと突き飛ばすと、取りだしたハンカチで手をぬぐう)とはいえ、このまま賢和にすべてを任せることで、我らが主人公”ソリッド・スネエク”の完成し、ある意味では肥大化を始めている英雄像を崩すわけにもいかん。…ときに賢和、今回のサブタイトルである『ピンチ・オブ・ポヴァティ』には、二重の意味が込められているんだが、わかるか?」
「(ひどく脅えた様子で)わ、私ごときの痩せた感性で、枯痔馬大監督の深淵かつ高邁な思想がいったいわかるはずがありましょうか」
「(自尊心をくすぐられた様子をあからさまに小鼻に表しながら)フン、追従者めが。このサブタイトル、表面の意味をそのまま汲み取ると”金が無くて大変”の意味になる。だが、ピンチ(PINCH)をアナグラムしてみろ。どうだ、チンポ(CHINPO)となるだろう? つまり、ここには本来の意味を越えた”貧相な男根”の意味がサブリミナルに与えられてるんだよ!(口元を歪めて、得意げに両手を広げる)」
「(紙に筆記してためすがめつしながら)あの、監督。でも、”O”が足りませ…」
「バカヤロウッ!(男の半開きの口元に、革靴の尖ったつま先を蹴り入れる。口腔から血を吹きながら後頭部方向に倒れる男)そんな枝葉末節にこだわってるヒマがあったら、テメエのシナリオの不備の方を考えやがれ! (床をのたうちまわる男を尻目に)しかし、納期も目前に迫ったいま、賢和の才能の突発的な開花に期待してすべてにリテイクを出すことはあまりに危険すぎる――(目を閉じて)考えろ、その世界を席巻した素晴らしい頭脳で考えるんだ、酷男――(カッと目を見開き)見えたッ! 賢和、リトルグレイ・インプラント編の主人公をソリッド・スネエクではない別の人物に設定しなおせ。これなら、シナリオのマイナーチェンジで事は足りるだろう。その新しい主人公の名は、名前は、(突如両手を前傾姿勢から後ろ向きに伸ばし、異様な光をはらんだ目で宙空を凝視しながら)最も敏感な類の警備兵が異変に気づく……大気中に混じるかすかな腐臭……生きながらただれてゆく肉の放つ腐臭……まるでモーセする奇跡のように、兵士の海は2つに割れる……その衆人環視の中、”潜入”を果たすその男の名は……(後ろ向きに伸ばした両手を激しく羽ばたかせる仕草で)癩ッ、伝ッ!(窓の外を稲光が走る。部屋に落ちる恐ろしい沈黙)」
「(自失から回復して)あ、あの」
「(手で制し)待て。連絡が入ったようだ。(懐中から携帯電話を取り出す仕草をするが、その手には何も握られていない)もしもし、私だ。何かあったのか。(相手の返答を待つような沈黙)何ッ! 北米で先行発売だと!? それは上層部が決めたことなのか…(慌てて)いや、カナダはまずい! あそこには、セリーヌ・ディオンがいるだろうが! (相手の返答を待つような沈黙)とにかく、おれが行くまでなんとかお偉方の決断を先延ばしにしておいてくれ。(沈黙。苛立ったように)わかってる、漫談でもなんでもかまわん! (親指で空を押す仕草をする。男の方へ向き直り)聞いての通り、緊急の用件が入った。おまえはシナリオの執筆を続けろ、賢和。いいか、(立てたひとさし指を左右に振って)安直な比喩はタブーだ。では、また来る(きびすを返し、歩み去ろうとする)」
「待って下さい! (ためらうように)あの、以前から、前作の頃から聞きたかったんですが……ソリッド・スネエクという主人公の命名には、いったいどんな意味が含まれているんでしょうか。あの、よろしければ、参考にお聞かせ願えませんか」
「(口の端を歪めて)いいだろう。スネエクは西洋文化におけるチンポの陰符。ソリッドのソリは”反りくり返ったチンポ”の”反り”、ソリッドのドは”怒張したチンポ”の”怒”、だよ。(自分より背の高い女性へと手を回し、肩越しにその胸をもみしだくパントマイムを行いつつ、立ち去る。重低音で)ゴルルコビッチ、ゴルルコビッチ」
「(後ろ姿を見送りながら、人差し指で鼻の頭をこすって)へへッ、やっぱり枯痔馬監督は別格だ。いつ見てもすげえや!」
砂嵐舞う荒野。頭上に双葉を装着したダイビングスーツの男が3人、腰まで地面に埋もれている。スーツの色はそれぞれ赤、青、黄。スーツの下には、劇画調の彫りと陰影を持つ顔面とまったく不釣り合いな、みすぼらしく痩せこけた身体。
「(青、強風の中、ライターに点火しようと幾度もカチカチと鳴らしながら)くそ、アカンわ。全然つきよらへん」
「(赤、肘をついて横目に)おまえ、たいがいにしとかんと、しまいに肺から血ィ吹いて死んでまうど。ホレ、おれのジッポー使うか」
「(青、ひったくって)ボケ、最初からよこせや……フーッ、しかしなんやな、俺たち、いつまでこんなとこ植わっとらなアカンのやろな」
「(黄、うつむいたままつぶやくように)……我々巨視的存在は、その実存性の基底部分に滅びを内包していなければならない」
「(赤、青を肘で小突いて)おい、おい。また黄色が始めよるで」
「(青、フィルターを噛みつぶすようにして煙草をふかしながら)ほっとけ。おれが煙草を吸うみたいなもんや」
「(黄、独り言を繰り返すように)よろしい。では、実存とは何だろうか。それは、情報の系だ。時間の流れに従って、系には情報が増大してゆく。やがて情報の総量は飽和という名前の臨界点に達し、系は崩壊する。すなわち、実存の終焉だ。衰退や減少ではなく、増大によって実存は死を迎える。このプロセスは、私にとって示唆的な意味を持たないこともない」
「(赤、あくびして)おい、青色。やっぱワシにも煙草くれや。(青、無言で煙草の箱を投げる)」
「(黄、独り言を繰り返すように)わかりやすくしよう。巨大な、一本の樹木を想像して欲しい。この樹木は不思議なことに根っこを持たない。これの幹と枝が、私の表現するところの”系”に相当すると考えて欲しい。結実する果実は”情報”だ。根っこを持たないとしたのは、時に樹木は人間的な視点から永続と同義に映ってしまうからだ。それでは、私のする解釈に齟齬を来してしまう。だから、諸君は、数学的な仮定のごとき思考の依り代としての樹木と考えてくれればいい。この樹木は、生物に限らない、すべての実存に対して包括的に当てはまる動きをするが、この際に限っては説明と理解をシンプルにするために、人間のみを表すと想定しよう。時間の始まり、つまり実存の誕生において、かれの持つ樹木には何の果実も無い。この時点で、系の持つ情報はゼロだ。そして、時間は流れ始める。かれが生きることを始めたからだ。かれの時間が流れるにつれ、様々の果実が枝へと結実してゆく。ここで注意して欲しい。最初に言ったように、この樹木には根っこというものがない。だから、情報の総量が増えるに従って、自発的なバランス取りが必然になるんだ。わかりにくいかい? 例えるなら、完全に均衡を保っているやじろべえの片方に、重しを付け加えるようなものさ。もしその重しが重すぎるのなら、やじろべえは倒れてしまうだろう。情報の質量とは、系にとっての意味性の重大さと同義だ。(皮肉っぽく)もし、右の枝に『両親の不貞』やら『性的虐待』やらの巨大な果実が実ったなら、左の枝に『心理学』やら『宗教』やらの同じ大きさの果実を実らせてやらないと、樹木そのものが倒壊してしまうからね! これこそ、バランス取りというものさ!」
「(青、輪っか状に煙草の煙を吹き上げる)フーッ……樹木やて。わざと皮肉ってるんなら、それこそ大したもんやけどな」
「(赤、二本目の煙草を取り出す)お、すまんな、青色。これでしまいや(ねじった煙草の箱を遠くへ投げる)」
「(黄、独り言を繰り返すように)さて、くだくだしく見てきたように、時間軸に沿って増大する情報のバランシングが、実存にとってのほとんどすべてであると言ってもいい自己保存の過程なんだが、ここにもう少しの複雑さを付け加えることにしよう。それは、”情報の切り離し”だ。すべての枝々に実らせることのできる果実の総数には限界があるからね。左様、系は情報を手に入れるだけでなく、手に入れた情報を切り離すこともできる。系が『情報を手に入れる』というとき、それは外側にある情報をそのまま直に取り入れることを意味しているのではないんだ。外側からの刺激を受けて、内側から同質の情報を系内に作り出すことが、系が『情報を手に入れる』ことなんだ。思い出して欲しい。この樹木には根っこというものが無いと言った。それは、系にあらかじめ封じ込められた、何と呼ぶべきか、仮にエネルギーとしよう、エネルギーの総量が誕生の瞬間に決定してしまっているということと同義なんだ。そして、バランシングのためには、系の許容量を超えて増え続ける果実を、ある段階で切り離さなければならない。系内のエネルギーの総量は、そのとき、自然減少することになる。先に話したような均衡を失した倒壊は実存にとっての突然死と言えるが、エネルギーの消滅もやはり実存にとっての死であるということができる。うまくバランス取りをし続けようとも、それは決定された死を先送りするだけのことに過ぎない。つまり、実存は滅びを内包していると定義づけることができる。そう、実存は実存する限りにおいて滅ばねばならぬ……おお、この必滅の定めよ!」
「(青、もはやフィルターだけになった煙草を噛みしめながら)あー……砂嵐止まねえかな」
「(赤、唇に煙草を張り付けたまま)どうやろな。もう三日も続いとるしな」
「(黄、独り言を繰り返すように)しかし、人間が死ぬということを、私たちはこのような思考実験を外したとて、まざまざと知っている。それを疑うことはできないだろう。だが、人間という名前の系は滅びるとして、人間の作り出したものはどうだろうか? 例えば、そびえ立つ無数のビルディング。それは、滅びを超越している。いや、違う、それは滅びを超越しているように見えるだけだ。(徐々に口調に熱を帯びて)私のした樹木を介する滅びの大統一理論は、その正しさゆえにすべてへと適合され得るはずである。眼前の状況を整理しよう。ひとつ、すべての実存は滅びを内包していなければならぬ。ふたつ、人間による被造物だけは滅びを免れることができる。この2つの間に存在する矛盾は、3つ目の条項によって大統一理論に背理せぬよう解消されなければならない。すなわち、みっつ、人間による被造物は、人間そのものによって滅びを迎えさせられる! (陶然と)それを証拠に、見よ、あの不朽不滅を約束された巨大な二つの摩天楼は、灰燼のうちに滅びたではないか! 人間による被造物は、だとすれば人間という系のうちなのだ。人間たちの迎えたあの破局への綻びは、正に必然だった。そう、あの最初の綻びは、確かに予見できたはずなのだ。荒野に打ち捨てられたビニル袋を見るとき、私はそこに滅びを予感した。それは、嗚呼、そういうことだったのか。(肩で息をして)私の感慨は、いい。それはおくとしよう。いまは、あの巨大な二つのビルディングとの滅びの合わせ鏡の対、人間へと大統一理論を縮小するとしよう」
「(青、フィルターを噛みながら、気のないふうに)サイズで見たら確かに縮小しとるけどな」
{(赤、青の言葉を受けるように)実存としてやったら逆に拡大してるとも考えられるわな」
「(青、フィルターを噛みながら)結局は言葉だけのことや。終わったあとに何言うたかて、それは、むなしいやろ」
「(黄、我にかえると、驚いたように目を見張り)まさか、君たちからそんなふうに突っ込まれるとは思わなかったな」
「(青、口の端を歪め)なんでや。関西弁やからか」
「(赤、口の端を歪め)関西弁やからやろ。見くびったらアカンで。言葉だけのやつは、すぐ現実をみくびりよるからな」
「(青、煙草のフィルターを噛みちぎると、地面に吐き捨てる)哲学が無力なんは、例えば物理学なんかと比べたら、世界を想定するときに実証があり得へんという点においてや。哲学が正当かどうかは、それをするものの良心にだけ、唯一委ねられとる。良心! なんというどうしようもない頼りなさやろうな! 黄色よ、おまえは人間について話しとったな。人間という実存の特異性はどこにあったんやろう。それは、きっと、『食べられない』ことにあったんやろうと思う。この場合、捕食されない、ちゅう意味やな。世界ゆう名前の系の中で、そこにあるエネルギーの総量はあらかじめ決まっとって、エネルギーの総量は保存されなアカンはずで、その前提の中で、すべての実存は『食べられる』ことによって、自身の持つエネルギーを別の実存へと受け渡す、あるいは世界へと還元するプロセスを持っとった。けど、人間にはそのプロセスが完全に欠落していたんやな。エネルギー保存の法則を唯一破壊する人間という実存は、世界が本来持っていたものとは、何かまったく別の次元のものではあるやろうけど、新たなエネルギーを世界という系に作り出すという、生物の本義とは異なったプロセスで、自身の存在が世界のエネルギー総和を乱してしまうことへの矛盾を解消しようとした。自分たちの依る世界という系を壊さないためにや。けど、それは生物の本義を外れた、実存の消滅を伴わないエネルギーの歪んだ受け渡しやった。なるほど、エネルギーの総和はそれで守られたかも知らんが、ここで人間は必然、実存の消滅という行為を代行する別の代償を必要とし始める。それは、ずっと長い間、土俗宗教のイニシエーションやムラのマツリによる”疑似死”によって補完されてきていたんや。けど、その基盤となる地域社会はやがてゆるやかな崩壊を遂げ、人間たちは再び実存の消滅の代償行為を探さなければならなくなる」
「(黄、ふるえて)それは、戦争かい?」
「(赤、首を振って)拡大して、人類史的な視点から考えるんやったら、確かに戦争が代償したと読みとれへんこともないが、それは飽くまで個々の人間がそれぞれにただ在ることから引き起こされた相互作用的現象であって、『食べられる』ことを喪失した一個の生物としての人間が、実存の消滅という行為自体の消滅に対してどのようにふるまうかを説明せえへん。不完全な知恵という名前の解釈装置を放棄し、究極的な全へと和する快楽、知恵が実存の消滅へと対面したときに感じる恐怖――これは人間がものを造ることに由来する恐怖だとも言えるやろ――をうち消す快楽、つまり、死イコール恐怖やなくて、死イコール快楽の生物性へと回帰させる人間たちの代償行為、それは……」
「(黄、苦悶に顔を歪め)……ゲームかッ!」
「(青、無表情で淡々と)その通りや。ゲームは殺す。ゲームは死ぬ。そして、ゲームは快楽を与える。実存の消滅を喪失し、相互のつながりを喪失し、人間は、最後にゲームという名前の疑似死へとたどり着いたんや」
「(黄、切迫した表情で)それじゃ、それで、人間は完全になったんじゃないのか? だったら、なぜ」
「(赤、絶望的な青白い無表情で)簡単や。人間の失った二つを失えば、それはもはや生物とは呼べへんからな」
「(青、絶望的な青白い無表情で)そして、覚えとけ。これさえも、ただの言葉や」
降りる沈黙。やがて、砂嵐の遠くからきれぎれに兵隊ラッパの音が鳴り響く。
「(赤、煙草を人差し指ではじいて捨てる)おい、そろそろ出番のようやで。(地面に両手をつくと、埋まった下半身を引きずりだす)」
「そのようやな(青、地面に両手をつくと、埋まった下半身を引きずりだす)」
「(黄、下半身を地面に埋めたまま、自身を両手で抱くようにして)怖いんだ……ぼくは食べられるのが怖いんだよ、本当に」
青、赤、行きかけるが、その言葉に振り返って黄を見る。口を開きかける青と赤。
突如として、3人の上を巨大な影がおおう。
振り仰ぐ青と赤。そこには、果たして――
「(赤、奥に何を隠すこともない完全な無表情で)確かに、怖くないといえば嘘になる」
「(青、奥に何を隠すこともない完全な無表情で)だが、それが、生物や」
激しさを増した砂嵐が、すべての騒動をかき消してゆく。
『でも私たち愛してくれとは言わないよ』
「(まぶたの下で瞳を痙攣させて)いや~んばか~ん、そこはおイドなの」
「あっ。小鳥猊下が張りついた白痴の微笑みとともに薄目を開けて自身の無意識を探索なさっているぞ」
「(着物のすそをまくり上げて)猊下、私のおイドも使って!」
「(まぶたの下で瞳を痙攣させて)いや~んばか~ん、そこはおイドなの」
体育館。整然と並べられたパイプ椅子。その一番後ろに少女が一人座っている。他には誰もいない。演壇には、ひどく痩せ衰えた男。演壇の隣には、袴姿の男と着物姿の女が立っているが、その様子はひどく人形じみて生気を持たない。演壇の痩せた男、細かく痙攣する手で水差しを取り上げ、盛大に零しながらコップへとそそぐ。コップの中身を飲み干すと、男の手の痙攣が止まる。男、咳払いして痰をきる。少女、立ち上がって拍手をする。男、かすれた、そしてろれつの回らない声でしゃべり始める。
「まァ、俺が言うのはエヴァンゲリオンだ。8割、9割、エヴァンゲリオンだと思ってもらってかまわねえ。俺はじつは不感症で(甲高い笑い声を上げる)、いままであんまりすごいとか感じたことがねえから、もう8割、9割、俺が言うのはエヴァンゲリオンだと思ってもらってかまわねえ。あー、実存の可能性としては、2つあると思うんだな。ひとつの実存は、永遠の命と知恵を持っている。こりゃ、もう神様だな。もうひとつの実存は、知恵も永遠の命も持っちゃいねえが、死というプログラムによって種としての存在を永遠へと連鎖させる。これは植物も含んだ、生物全般のことだな。人間ってのは、(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)どっちにも当てはまってねえよな。知恵というのは、死と同居しにくいんだ。本能は死を理解するが、知恵は死を本当の意味では理解できないからな。それに、知恵ってのは、単発なんだよ。受け渡せない。ドストエフスキーが死んだら、また次のヤツは一から始めなきゃならねえ。人間ってのはその意味で、存在を続けること自体が奇跡的な、言ってみれば奇形に過ぎないんだな。なぜっておまえ、知恵は死と同居しにくいからな。だからさ、親子の情とかさ、そういうのは生物の側に属するものなわけだろ。その反対で、なんでもかまわねえが、例えばいまおまえたちがここで聞いてるダベりは、知恵だろ。神様の側に属するもんなの。だからさ、わかるかな、若いうちは、死ぬことが近くないから、知恵なわけよ。親が俺の感性を理解しないとか言って、飛び出すのよ、例えばさ。なぜかってえと、知恵だからさ。それがさ、ある程度年とってくると、生家に戻ってさ、お父さん、私が悪ゥございましたァってな演歌で泣き崩れて、父親は父親で一番いい羊を屠るわけよ、息子のためにさ。なんでって、お互い死が近くになってっからさ。もう二人とも生物なんだよ。(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)こんな具合にさ、一生のうちに神様と生物の間を行ったり来たりすんのが、どっちつかずの人間のバランス取りなわけよ。俺、バランス取りって言葉よく使うけどさあ、神様と生物の間のバランス取りってのは、かなりいい例えじゃん。んで、エヴァンゲリオン。宇宙に飛んでったエヴァンゲリオンさあ、あれは永遠の命と知恵と、神様じゃん。神様っつわれたって、本当にいるのかどうかなんてわかんねえから、人間が目に見える次元と形で、哲学やら神学やらの仮定を実在させたのがあのエヴァンゲリオンなわけよ。んで、地球に残ったのが生物と、そして二人の人間な。3つの実存を、正確に言や、2つとその中間ってことだが、人間のうだうだを全部ブッ壊すことで仕切りなおして、も一回最初のように切り分けたんだな。壮大な実験が始まるようにさ、どの実存が世界にとって一番ふさわしいんだろう、ってさ(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)。
「あとな、文章で人間がわかるんですかって、おまえさあ、わかるに決まってんじゃねえ。言葉が人のカタチを規定しねえってんなら、いったい何が規定するってんだよ、まったく。(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)そりゃ、自己防衛の薄ら笑いで、小学生の作文コンクールをひとりでやってるぐらいにはわかんねえだろうよ。おまえな、本当の言葉ってのは、すべての防衛とは遠いところにあんだよ。馬鹿なヤツは馬鹿な文章を書くし、軽薄なヤツは軽薄な文章を書く。そんなん決まってんじゃねえか。言葉には、すべての愚かしさと、すべての無知と、そして、(声を低めて)すべての気高さがあんだよ。言葉は、それを書いた当人が気づいていないような、無意識の澱の、その奥底の醜さまで、勝手におまえの言葉を読んだ相手にささやくんだ。(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)あのな、本当の言葉を書くためにはな、世界と人間を理解しなきゃダメなんだよ。少なくとも、世界と人間を理解しようと思わなきゃなんねえんだよ。それを、さかしげに人類史や世界や、そういった巨大な流れから切り離された個人の感情だけで言葉を語りやがって。俺たちゃ、お互いみんな違うように見える。けど、少し踏み込んだら、みんな同じなんだ。そして、もう一つその奥では、やっぱり全然違うんだよ、俺たちは。この人間理解の道程をもたどらず、最初に感じる世界への違和感にだけ拘泥した愚かしさで、誰か自分以外の人間に届いてしまうかもしれないここで、言葉を吐こうなんて少しでも思うんじゃねえ! (水差しを取り上げるが、中身が入っていないのに気がついて、床に叩きつける。粉々に砕ける水差し)本当の言葉ってのはなァ、個人の浅薄な意識を超えたところですべてを知っていて、そして外に出したが最後、すべて勝手にみんなに教えちまうんだ、こいつは差別主義者ですよ、こいつは性的倒錯者ですよ、おおっとダンナ、こいつは両親からひどく虐待されていたようですよ、うへへ過剰色欲者、たまんねえ! そしてな、その出歯亀に終わらねえ、言葉ってのは個人の意識をはるか超え、個人が世界へ死にものぐるいでつながろうとするときの、究極の手段なんだよ! (気狂いの目で口の端から泡を飛ばして)その丸裸の恐怖と栄耀を知らずに、少しでもここで言葉を吐こうと思うんじゃねえ! 文章で人間がわかるんですか、だと? おまえの魂胆はまるわかりなんだよ!(絶叫し、演壇をひっくり返す。演壇の倒壊する、もうもうたる粉塵の奥から姿を現し)いいか、よく聞け、俺は常に答えを出す。まァ、本当はどっちかなんて誰にもわかんないんだけどね、なんて腐れた防衛の言葉で、俺は答えを、真実を濁らせたりはしねえ。ここで独白に終わらねえ言葉を吐こうとおまえが少しでも思うのなら、おまえが何者であれ、例え間違っていようとも、何か答えを出さなきゃなんねえんだよ! (一瞬の静寂。ゆっくりと)俺は、答えを出す。その瞬間瞬間に俺が見い出し、確かにそうだと信じた答えを、世界という名前の莫大な問いかけへの答えを、おまえたちがどれだけ耳を覆おうとも、俺はひとりで叫び続けてやる! そして時々に形や位相を変え続ける世界へと、決死の丸裸でむしゃぶりつき、俺の言葉で噛みやぶり、引きずり出し、咀嚼して、耳をふさぐおまえたちの上に嘔吐し続けてやる! 俺が弱くなり、荒れ野に朽ち倒れるそのときまで、俺は究極の答えを、嫌がるおまえの口の中に無理矢理ゲロし続けてやるって言ってんだよ! この終始薄ら笑いの白痴めが!(喉の裂けた血煙を吹く)
「(拍手をしながら近づいてくる少女の姿に気がつき、脅えたように)どうだった、今日の講演は?」
「(小動物へ向けるような、この上ない優しい微笑みで)良かったわ。とても良かった」
「(突如激し、少女を突き飛ばす。整然とならぶパイプ椅子の列へ、倒れこむ少女)そんな、つたないセックスをした客をなぐさめる商売女のような調子で、俺に話しかけるんじゃねえ!(散乱したパイプ椅子の列から、少女の髪をつかんで引きずり出す。大きく振りかぶり、平手。そしてまた平手)」
「(赤く腫れたまぶたに、切れた口の端から血を流して、棒読みに台詞を読むように)自分の感情と行為の非を、心が理解してしまわないために、逃げるようにさらなる激情に身を任せる(髪をつかまれたまま、目だけを動かして男を見る)」
「(慌てて少女の髪を離し、脅えたように背を向ける)何が講演だ! こんな誰もいない場所で、何が講演だ! あいつら、俺を誰だと思ってんだ!」
「(両膝に手を当て、自分を支えるように立ち上がり)『猊下の虚構力が弱まってきている』、そう言った人がいたわ」
「(激しく振り返り)弱まってなんかいねえ! それを証拠に、見ろ! (男、演壇の横に立っている着物姿の女に向けて指を鳴らす。女、それに応じて着物のすそをまくりあげる。かすかな狂気を思わせる様子で目を剥いて)どうだ、これでも弱まってるって言えんのか!」
「(哀しそうに首を振る)あれには魂が入っていないからよ。自分でも、もうわかってるんでしょう? 魂を持ったものたちは、みんな行ってしまったわ。ドラ江さんも、D.J.FOODも、パアマンたちも、CHINPOも、みんなここから行ってしまった」
「(両耳をふさいで)違う! あいつらは、全員俺が殺したんだ」
「(淡々と)ここに誰もいないのは、あなたがいつからか殺せなくなってしまったことに、みんな気がつき始めたからよ。どうしてかは知らない、あなたは自分が生み出したものたちに対して、真摯にならざるを得なくなってしまった。いつの日からか。(哀しそうに)そう、いまのあなたにできるのは、せいぜいが魂の無いものたちに猥褻な行為を強要するぐらいのもの」
「(一瞬サッと顔を紅潮させるが、すぐに泣きそうな表情になって、その場にくずおれる)知ってたよ……魂があるものたちに対して、俺は俺の虚構力を及ぼせなくなっているのに、とっくに気がついていた。俺ができたのは、せいぜいかれらの様子を詳細にスケッチすることぐらいだけ」
「(憐れみの視線で)あの人が言った、あなたの虚構力が弱まってきているという言葉。でも、それは正確じゃなかったのね。少しでも魂を持ったものたちは、あなたの指の間からすり抜けて、ここからおりて行ってしまう」
「だからといって、いったい何を変えることができるっていうんだ……俺だって、たくさんの一人に過ぎないのに(両手に顔を埋める)」
「(近寄り、優しく肩を抱き寄せて。勇気を奮い起こすように)もう、やめましょう? あなたが自分の中に生まれた、魂への真摯さを裏切りたくないのなら、もう、やめましょう。ここで行われていることは、あまりにあなたのその気持ちを裏切っているわ」
「(すがるような表情で顔を上げて)江里香」
「(右頬にゆっくりと涙を伝わらせて)私をまだ、名前で呼んでくれるのね」
「(苦悩に顔を引き歪めて)それは、無理なんだ。何度そうしようと思ったのかわからない。でも、それは、無理なんだよ。本当に」
「(歌うように)じゃあ、私を殺しなさい」
「(予期していた絶望に悲鳴を上げて)江里香!」
「私を殺して、あなたの持っていた虚構力をわずかでも取り戻しなさい。そうすれば、あなたはここで多少長らえることができるでしょう。それができないのなら、(いまや滂沱と涙を流しながら、両手を広げ)私といっしょに、ここをおりて」
「(ほとんど音にならない悲鳴で)あ、あ、あ……ッ(両手の指を額に食い込ませる。裂けた皮膚から血が流れ出す)なぜ、どうして、いつのまに、こんなことに……!」
一人の痩せこけた男が、入り口の扉へ身体をぶつけるようにして出ていく。男が出ていった途端、演壇の横に立つ二人の男女が、糸の切れた人形のようにくずおれる。誰もいなくなった体育館の床に転がる少女の生首。長い髪の毛に隠されて、切断面は明らかでない。ほとんど生きているように見えるその顔は、まぶたを閉じて、すべてから解放された永遠の安らかさをたたえている。
1999年1月17日が、個人サイト『nWo』のスタートだった。
サイト運営をするということは、自己の概念とか美意識を表現することで、それを不特定多数の人々にしめして、理解され楽しんでもらわなければならない。
更新した、というところにとどまっているのであれば、素人である。
インターネットという未成熟の媒体でも、創作することに関与できたおかげで、ぼくは正常でいられたらしい。
創作をしてインターネットという広い場に発表できるということは、サイト運営というだけでなく”情”を吐き出すことができるのだ。マスターベーション的にひとりお部屋の中で精をだすことでもなければ、アクセス数を増やせたとひとりだけの満足にひたることでもない。
だれかが見てくれている、だれかがメールをくれるかもしれないという想像は、自閉症になることを予防してくれる。
自己が安定するのだ。
サイト運営をしてこなければ、ぼくは、どこかで禁治産者の烙印をおされていたか、精神的なものが原因の事件をおこしていただろう。昨今、ニュースにとりあげられている事件そのままにおこなっていただろう。
ゆるゆると3年が過ぎた。
新陳代謝の早いこの場所では、新参が古参になるのに、充分な時間だ。
年々、ぼくは身内に危機感をつのらせていた。
言葉というのは、最大公約数の共通認識を伝達にのせる手段だが、現実とは完全に重ならないという意味合いにおいて、それは虚構と呼ぶことができる。言葉の持つ虚構性については多くを語ってきたと思うので、ここではさらには触れない。
伝達、というポイントが重要である。なぜ言葉が存在するのか、という本質的な問いに少しでも思考を与えたことがあれば、言葉の本義を踏み外すことは無いはずだ。言葉の力点は個人の上ではなくて、個人と個人の間にある漠然としたつながりの上にあることが容易に理解できると思う。
言葉とは、伝達とイコールなのだ。
そこで、最大公約数的である言葉の持つ曖昧さは、時間と場所は異なるとしても、世界の包含する事物への共通体験によって補われる必要が出てくる。例えば、『樹木』という言葉を発するとき、『樹木』という言葉以上に説明を加えないのは、我々の全員がそれを現実に見、嗅ぎ、触れたことがある、という前提によっている。
これに対し、例えば『正義』であるとか、共通の前提を伝達の条件とできない、概念だけの言葉もあることは、少し考えればわかることだ。モニター上でなくマンコの襞を押し広げる現実体験を持たないものにとって『マンコ』という言葉は、『正義』という言葉と同じように概念でしかない。
言葉には、大ざっぱに分けてこの二つの種類がある。そして、概念を表す言葉群は、生活への出現頻度や絶対数において、対立する言葉群よりもはるかに少ない。
だが、二者間のバランスは今や崩れつつある。ネットを日常とする若い世代は、圧倒的にぼくなどよりも少ない前提をしか持っていないことに、ぼくは気づいた。つまり彼らは、『正義』と同じ響きで『樹木』や『マンコ』を発信している。この由々しき現代病に、ぼくは力及ばぬながら、『nWo』でわずかなりの抵抗を示してきたつもりだ。
そんな漠然とした危機感を抱きつつも、日々の雑然さに流されるしかできない中、一通のメールが届いた。
そこには、『テキストサイト大全』なる企画本に、テキストサイト系現役ネットカリスマとして寄稿してもらえないか、といった趣旨のことが一見慇懃な調子で書かれていた。
テキストサイト系!
それこそ、言葉に不可欠な前提と伝達の無いままに、インターネットという広い場に放言を繰り返す、現代病の病理の最たるものではないか! 『nWo』の文脈を読みとれぬ、なんという明き目盲の申し出であることか!
ぼくはひさしぶりにキレた。
「この、母親のマンコ臭の頭髪から抜けきらない、くっきり蒙古斑のボウフラ水め! ネットワーク上に自己を投射するために不可欠な、あの明確極まる枠組みの絶望的な相互孤絶を意識化することができないから、孤絶を孤絶のままで集合させたところに名付けをして、これぞコミュニティでございとふんぞっていられるんだ! おまえ、コミュニティというのを、近似値的な概念集団と勘違いしてるんじゃないのか? 互いの姿を形作る領域の境界が重なって、どちらをどちらと指摘することのできないグラデーション化した部分を持ち、その曖昧な部分においてはそこに重なるどの個も重要ではない。理知の明解さの照らさない、その黄昏の場所の持つ怪しさこそが、小さな社会集団と曲がりなりにも呼べるものの、本質なんじゃないか! この怪しさを見ないから、清潔で単純な概念へと一足飛びできるんだ。そもそも、ネットワークは致命的に肉を欠いているという物理的な事実だけからも、セックスを内包した生活集団足り得ない、すなわち社会足り得ないことが理解できるはずだろう。なに、すでに現代社会はマンションの一室一室として、ホームページ状に分割されている、だって? バカヤロウ! このパパとママの庇護下のオナニー野郎め! 両親と同じメシを喰って、自分の女とセックスできるか! セックスできないから、おまえはいつまでもパパとママの生殖器の下なんだ! セックスが家族と訣別させ、家族というドロドロの融合から、両親へ社会という距離感を与えるんじゃないか! そうやってすぐに肉を無視する先鋭化した観念に一足飛びするのは、ノットセックス(掌で机を一撃)、バットオナニー(掌で机を一撃)の自分をだけ納得させるための歪んだ世界観に過ぎないんだ! 人類種の本義を外れた、セックスレスを進歩的と鼻高々な、腐臭放つ悪魔崇拝者の姦夫姦婦め! 今は何者でもないが、いつか何者かであれるかもしれないなんてグズグズの、ぬぅるいぬぅるい澱んだ温泉水の譲歩に首までつかった、ブヨブヨ精神のシワシワ余り皮め! その、社会と時代を度外視した、自分に都合の良いものだけを採択するという意味合いでだけの暴走した個人主義が、(顔を真っ赤にしてどもりながら)テ、テ、テ、テキストサイト系などという名付けの、僭越極まる自己欺瞞を増殖させてるんだろう! だいたいあんなものは、対立する素封家の一人娘との、深夜のご神木の裏で村人に隠れてするセックスのようなもので、もっと言えばそのとき膣外射精した精液がご神木の表皮を伝い落ちるのを雲間の月明かりに見る虚脱のようなもので、むしろ誰にも知られないまま消えて欲しいと望む類に過ぎない。(咳払いして)おまえ、ここが何かのマイナーリーグとか思ってないか? つまり、今は日の目を見ないが修練次第でメジャーの一線級の大舞台を踏むことができると、どこか心の片隅でチラとでも思ってるんじゃないか? 醜いアヒルの子どもをさらに自意識で醜悪にした顔面で、救われることを前提としたハーレクインロマンスの悲劇の中で、優越に満ちた一時的な自虐を盛大に微笑んでるんじゃないか? ハ・ハ・ハ、(笑いに咳き込んで)いや、申し訳ない。まさかね…まさかそんな(突如激し、机をこぶしで強打する)薄ら白痴めが! もっと深刻で、決定的で、致命的な隔絶があるんだよ! (顔を真っ赤にしてどもりながら)テ、テ、テ、テキストサイト系ってのは、おまえ、マイナーリーグどころじゃない、パラリンピックなんだよ! 不倶と健常者が同じ舞台に立てると思ってるのか! どれだけ心がパラリってるか、社会性の最後の残滓を締め出し、どこまで心をパラリらせる様を見せることができるか、これはそういう類の争いなんだ! そこを意識しなければ、おれたち不随の歯茎の黄色の乱杭歯ぐらいでは、健常者たちのあの分厚いのどぶえを、少しでも噛みやぶれるわけないじゃないか!」
そう一息に叫ぶと、ぼくは飲みさしのビール瓶を、ノートパソコンが置いてある文机に叩きつけて割ってみせた。
『やめなさいよ。見せかけの大手サイトのポーズなど……』
しかし、そのメールは行間で、ぼくを非難した。
<潮流から外れているという自覚が無ければ、ビール瓶の割れた方を飼い猫に押しつけ、その頭部をクール宅急便でてめえの自宅に直送していた!>
そうきっちりと考えながら、
「そうだ……ポーズだよ。こうしなければ、この申し出をおさめることはできない」
そうやって承諾の返信をしてみせたのも、ポーズだった。
結局申し出を断ることができなかったのは、かくも『nWo』は読み手の”慣れ”のうちに、ついにはこういったオファーを許すほど毒気を喪失したものになっていたのか、という認識が強まっていたからである。
テキストサイト側だって、『nWo』的なサイトづくりが明らかに潮流を外れていることは知っていても、いくらアクセス数で劣っていても、ネット上の年功序列から声をかけざるを得ないというジレンマをしのがなければならないのだ。
なんで、長いことやってる割りに人気が出ないのか? その自問自答に、
「あいつらが邪魔してるんだ!」
そう言ったのは、小鳥猊下という名前のインターネット上の疑似人格だった。
あいつら、というのは、旧来のテキストサイト・ファンというよりも、おたくたちのこと。
「あんたは才能がないんだから、頑張りなさいよ」
2001年暮れに、そういった内容のメールをくれたファンがいたが、それは当たっていたのである。
才能――力があれば、取り扱っている中身がどうとか、おたくたちがいようがいまいが、人気はでるはずなのだ。
それが低迷するというのは、力がない証拠である。
ぼくがおたくだったら『nWo』は承認しない。そんなことはわかっている。
いいサイトであればヒットするという原則は、この世界にはないのだが、まったく新しいものにしていかなければ、今後の『nWo』の展望などは絶対にないという確信も、またゆるぎない。
が、それにしてもどうしてだ……という状況のなかで『nWo』の全盛期は終了した。
それでも、諸君、ぼくは、
日々大量生産される妄想美少女たちの架空とはいえ”人格”と呼べるものを蹂躙し消費するおたくは道徳的・倫理的・神学的に醜いよ、そういう自分の内外を問わぬおたくを侮蔑し嘲けりついには憎悪する視点というものを獲得してもらいたいと願ったから、『nWo』をこのようにしたのだとわかってほしい。
そういう心をもてば、心は外にむいて、おたくにならないですむから! と……。
点々と反吐をまき散らしながら、外へ出た。
ほとんど一歩ごとにつまづき転倒し、全身に擦り傷をつくりながら、のめるように石段を降りる。
薬の効果か、意識がだまし絵のように伸び縮みを繰り返し、ひとつに焦点を結ばない。これがついには致命的なことへつながるのかどうか、それすらもいまはわからなかった。
突如、これまでになかった強烈な嘔吐が胸を灼く。私はたまらず足をもつれさせ、もんどりうって、ほとんど棒立ちのまま前へと倒れ込む。
幸い、もう石段は続いていなかった。全身を波打たせるようにして、吐いた。そのまま大の字に裏返ると、長い長い石段の先に、私の葬儀をとり行った寺の全容が見えた。かたわらの反吐の臭気が鼻をつく。
結局、何ひとつ自分で決めることができなかった。わずかこの身の始末すら。伸縮を繰り返す意識がその限界まで広がり、はじける。
あれは、何の言葉だったろう。籐椅子の中の午睡から目覚めた男が、側にひかえる召使いに言う。『私は傷ついてしまったんだよ、本当に。そしてもう二度と癒されることはない』。たとえ近親殺しであったとしてさえ、それが人の営為であるならば、人は共感に涙を流すことができるだろう。世界に悪は存在しない。つまり人の関係とは、客体化された現象に集約してゆくからだ。けれど、心の神性の中には、純粋な悪が存在し得る。その悪の純粋さは、人間の魂を本当の意味で破壊する。純粋な悪に一度魂を触れられてしまったら、二度ともう元のようには戻れない。かれは、それを知った。おのれの魂が不可逆に傷つけられ、もう二度と癒される日が来ないだろうことを、知った。恐ろしい。あれらの悪の様相は、人間の手に負える、人間の触れていいものではなかった。あれらの甘い砂糖菓子の口あたりは、純粋な悪だけが持つことのできる真の安堵に満ちていた。私は、あそこから逃げなくてはいけない。もう、ここにいてはいけない。
指先が砂を掻き、海面へと浮上するように、意識が覚醒する。身を起こそうとすると、再び強烈な嘔吐がやって来た。かたく目をつむり、全身を硬直させて、私を嘔吐が蹂躙するにまかせる。眼球が小刻みに回転して、意識が浮遊する。血が滲むまで、唇に歯を立てた。すんでのところで、自我の消失から我が身をもぎはなすことに成功する。膝をついて、立ち上がった。萎えた足はぶるぶると震えたが、それでも私の身体を無理にも先へと押しやろうとした。しかし、それは私の中にあるというのに、いったいどうやって逃げだそうというのだろう。ほとんど這うようにして私の身体が坂道を下ってゆくのを、私の意識ははるか高見から眺める。人ごとのように? 遠のき、眼下に矮小化してゆく私の身体。
私は、本当はどうありたいのだろう。
万華鏡のような自失。次の瞬間、私の意識は私の身体と合致していた。
三たび、強烈な嘔吐。視界の端から溶暗が始まる。私は今度こそ本当に打ちのめされ、意識から手を離してしまう。
ふいに強い衝撃を受けて、目を開く。白い金属のつらなりが視界に入る。護岸道路のガードレールを乗り越えて、私は転落したらしい。身体を起こそうと手をついて、そこが砂地であることを知る。大気には、重たい湿気が混じっている。私は立ち上がった。
陽光がすべてを漂白してゆく。足下を泡立った波がすくう。波間に億もの反射光が同時にきらめく。
嘔吐は、どこかに消えていた。
自分が薄く、涙ぐんでいるのに気がついた。左右に首をふる。このような世界への親和は、私にふさわしくないだろう。魂は、感情という因子に影響を受けて、いくらでもその形を変容させる粘土細工のようなものだ。平板な舞台装置による突発的センチメンタリズムと、世界への悟りを混同してはいけない。こんなふうな安易さで、世界を理解してしまってはいけない。私は、何からも、少しも救われてなどいない。
腰がひたるまで海中に歩を進める。高い波が近くではじけ、全身にできた擦り傷を洗った。わずかに遅れて、じわりと痛みが広がる。ほとんど美しいとさえ言える海が、眼前へパノラマ状に広がっている。波間に浮かぶ錆の浮いた空き缶が、私の身体へと流れついて、止まった。空き缶の周囲には、油膜が形成されていた。それは、まるで老婆のような染みだった。
背後で声が聞こえた。振り返ると、数人の若者の群れがこちらを指さして、けたたましい笑い声をあげているのが見えた。あるいは、私に向けられたものではなかったのかもしれない。きっかけは何でも良かったのだ。いまは、それだった。だから、不意に染み出した感情を私は止める気にならなかった。染み出た感情はいっぱいに広がると、次にしたたり落ち、ついにはすさまじい勢いで噴出した。私は波をかきわけ絶叫し、砂地に足をとられながら絶叫し、若者のひとりに飛びかかりながら、私にはあり得ないような絶叫を絶叫していた。
ぎざぎざした分厚い靴底が私の顔面をとらえた。首を支点に身体を前へと投げ出され、背中から墜落する。倒れたところへ、続けざまにみぞおちへ鈍い衝撃が走った。呼吸が止まる。感覚はなぜか、人間の意識と微妙に同期を外している。激しい痛みが来た。そして次の衝撃と、その次の衝撃が同時に来た。私は申し訳のように、のろのろと身体を丸める。繰り返し重ねられる無数の痛みが境界を無くし、やがてぼんやりとした大きなひとつに感じられるようになったとき、横倒しのカメラからのような視界が、何の劇的効果をねらったものか溶暗する。
まばたきほどの時間でしかなかったと、私は感じた。
目を開くと、陽光はすでに力を失っていた。意識が焦点を結ぶ直前の、あの数瞬の自失の後、髪を赤と黄のまだらに染めた若い男が、私をのぞきこんでいるのに気がつく。とっさに両手で顔をかばって、身体を硬直させる。いくら待っても何も起こらなかった。どうやら、先ほどの若者たちではないようだ。愛想のよい笑顔で手をさしのべてくる。沈黙をどう解釈したのか、男は肩をかして私を立ち上がらせると、どこかへ連れてゆこうとする。私は、わずかに身をよじってみせた。だが、声も出せないほどに口腔は腫れ上がり、全身は痛み以外の感覚を持った場所を見つけだすのが難しいほどだった。結局私はこうやって、いつも何ひとつ自分で決めることができないのだ。そのまま男の示す先についていったのは、受け入れるという怠惰さをすら意味していなかった。
一歩ごとに、足の裏で砂がきしむのが感じられる。世界は動いてゆく。保留は停止を意味しない。男の横顔に、なつかしい面々の面影が次々に重なる。かれらとは最も似ていないはずのこの男に、いったいどうしたことだろう。私は、あの頃を思い出す。そして、私がかれらとの日々に少しなりとも心地よさを感じることができたのは、かれらが決定できないほど弱かったからだと気づく。かれらはまるで、私の鏡写しのようだった。その弱さを憎むことで、私は自分を傷つけないまま、自分と対峙するふりをすることができた。永遠の保留の無解決の中で、穏やかに遊ぶことができた。
私は深く息を吐くと、大きく男に寄りかかった。足をひきずりながら、そのまましばらくいっしょに砂浜沿いを歩いた。一言も話さなかった。水平線に漂う陽光の残滓が、徐々に光を失っていくのが見えた。
手当をしてくれた若い女の皮膚の柔らかさが、自然と反芻される。別のひとりが、紙コップに入った生ぬるいビールを手渡してくれた。打ち上げられた流木の上に腰掛ける。数匹のフナムシが両足の隙間をすり抜けていった。私は気取られぬようズボンに片手を突っ込み、軽く勃起して座りの悪くなったペニスの位置を正す。
口の中がずたずたに裂けているので、ひとすすりほども飲むことはできなかったが、大勢の人間が集まった場所の空気は、どこかアルコールと同じような効果があるらしい。たき火の周囲を十数人の若い男女が踊り、歌い、笑いさざめいている。砂浜に置かれたラジカセから流れる音楽はひどく割れていて、炎の喧噪ごしには、いったい何の曲なのかも判然としない。私はほとんど放心して、その様子を眺める。大勢の人間の中にいるときに必ず感じるあの所在の無さを、私はなぜか感じていなかった。そして、何のきっかけを得たのだろう、かれらの誰ひとりとして、他の誰かと同じようではないことに、私はふと気がつく。その理解のあきれるような素朴さに、私は愕然とする。
背の高い者、背の低い者、痩せた者、太った者、あけすけな者、はにかんだ者、髪を染めている者、髪を染めていない者、俊敏な者、のろまな者、顔立ちの整った者、ひどく不器量な者、声の高い者、声の低い者、輪の中心にいる者、輪を遠巻きにする者、うまく歌う者、調子外れな者――それらのすべてが、そして対立する極端から極端を埋めるグラデーションが、ひとりの中にいくつもあって、かれらをかれらがいまあるようにしていた。感動とも違う、それは当たり前の何かが、はるかな遠回りの果てに初めて、私の胸の欠落に落ちた瞬間だった。
長髪の男が、身を投げ出すようにして私の横に座った。かなり酔っているらしい。私の肩に手をまわしながら、大きな声でまくしたててくる。脇の下のじっとりとした汗の感触が、衣類越しに伝わってきた。胃腸を悪くしているのだろうか、男の吐く息には、アルコール以外に腐ったような匂いが混じっていた。私は、不快を感じた。だがそれらは、私がこの男を拒絶したり、愛さなかったりする理由には、もはやならなかった。不思議ないとおしさに突かれて、ぎこちなく、同じ流儀で男の肩に手をまわそうとする。男の横顔に視線をやると、長髪の隙間からひどく奇妙な形をした耳が見えた。かれが長く髪を伸ばしているのは、不格好なこの耳を隠すためなのだろうと、私は理解した。そのことを口にすると、かれは一瞬びっくりしたような目で私を見た。それから、照れたように笑った。私は、笑い返した。
やがて男は踊りの輪の中へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら私は、ああ、こういうことなのか、と思った。それは、不思議な感覚だった。しかし、悟りのようではなかったから、ずっと続くだろうと信じることができた。
祭りは、いつか終わる。
ひとりまたひとりと、帰る場所のある者たちは帰り、そうして、夜の浜辺に私だけが残された。
泡立つ波が足下をさらってゆく。
ふと見上げると、どういう大気の影響か、月の周囲におぼろな白い光の輪が浮かんでいた。
目の前に広がる夜の海は、幻想的で、広大で、限りなく清らかだった。身をかがめて、海水を手のひらにすくってみる。そこにあるのは油じみた、卑小で、汚れた水に過ぎなかった。
手のひらを返すと、水はまた、夜の海の一部になった。
私は波間に立ちつくしながら、そっと口の中につぶやいてみる。
「しかし、それではあまりに生きることがつらくありませんか?」
驚いたことに、答えが返ってきた。あるいは、波音に聞いた幻聴だったか。
「なに、四六時中ってわけじゃないさ」