猫を起こさないように
渚にて(2)
渚にて(2)

渚にて(2)

 「世界にとって本質的に無意味であるという絶望的な確信から逃れるために、人間は資本主義を創り出した。それはカネという明快な価値基準にのっとり、勝者と敗者を分かち、勝者イコール有意味・敗者イコール無意味の図式を、神のいない荒野に打ち捨てられ、存在の価値を求めて発狂する人間の心の部分にぴったりと当てはめるシステムである。このシステムの中で勝者が勝利において意味性を得るためには、必ず敗者が存在しなければならない。一昔前の日本においてそれは明らかな生活破綻者を指し、社会において勝者の意味性を強調するコントラスト足り得たが、現代社会においては余剰の富がすみずみまで漏れ広がり、敗者の破綻が彼らの社会生活の終焉に直結しないことが勝利者たちにとって不満を抱かせる要因となっている。明確な、システムに迎合しないものの断罪の様子を市中に見つけ出すことのできなくなった資本主義社会の勝利者たちの求めた新たな敗北の有様、新たな有り得べき必然、それが我々おたくであると言えよう。そしておたくは、資本主義社会においてしか生まれ得ない存在である。なぜならおたくとは、世界という際限のない無意味性の広がりから、同族内に比較対象を設定することでかろうじての意味性を切り取る絶望のシステムの内に、あらかじめ組み込まれた予定調和的劣等因子であるからであり……」
 ちがう、と叫びたかった。
 かれの目は私を通りぬけて、私ではないどこか遠くを見ていた。言葉をさしはさむ隙も与えず、その意味もわからないまま、絵本に書かれた文字を目で追って読み上げる小さな子どものように、かれの言葉は私の上を滑っていった。テレビモニターの中の人のように、かれは私に関係が無く、そして私はかれに関係が無かった。それがかれの望む交わりだったのか。
 ちがう、と私は叫びたかった。だが、心が拒否するとき、言葉に何の意味があるというのだろう。
 それまで誰にも気づかれないまま、ひっそりと部屋の隅に座っていた小太りの男が立ち上がった。薄くなった頭頂部に、突き出た腹を抱えて、その男は奇妙に存在感を漂わせない歩き方で部屋から出ていった。最初、私はこの男のことを寺の関係者なのだろうと勝手にひとり決めしてしまっていた。だが、閉じられる障子の隙間からのぞいた背中に、私は突然思い当たった。
 私はあの男を知っている。
 誰かが何の気持ちもない論理を打ち壊してくれるのではないかと、どこかで期待していた。自分がいつも自分のもののようではなくて、自分の発する言葉の意味も重さもわからなくて、誰かの泣き顔や、ひどく傷ついた表情を見るときにだけ、ぼくは自分の言葉の持つ力と、自分の中にある漠然としたものの形を知ることができた。
 ほんとうは、ぼくには誰かを傷つける価値なんてなかったのに。
 遠くから泣き声混じりの悲鳴が聞こえ、気がつくとぼくはあの病院のベッドの上にいる。うす濁りした白い膜にすべてが閉じこめられたようなその場所で、ぼくはただベッドにひとり横たわっている。指ひとつ動かすことさえできない深い虚脱の中で、ぼくを作った人たちのののしりあいが、かすかにぼくの鼓膜を揺らした。
 かれらの中にぼくはいない。ぼくの中にかれらはいない。
 傷つかないための無感動の上へ、受け入れられるためにする偽りの感情を永遠へと向かって積み上げ続ける煉獄。わけ知り顔な多くの理屈。ぼくを受け入れないための論理。表情を浮かべることを忘れた頬に、知らず流れ落ちる涙の温度を、ぼくは感じていた。
 そうだ。あのときはじめて、ぼくは孤独の意味を知ったのだ。
 気がつくと、目の前には小太りの中年男が座っていた。男はただ座って、こちらを見ていた。急速に現実へ焦点が戻ってくる。私はあわててわずかに顔を伏せた。自分はいま、どんなに無防備な表情をしていたろうか。
 「毎晩のビールがうまい」
 大きすぎず、小さすぎず、まったく主張のない声音で、男はそう言った。私は不安になった。私が知っている世界の言葉とはとても違って響いたからだ。人が、こんなに相手を脅かさずにしゃべれるものなのか。
 「ずっと特別でありたかった。誰も文句を言えないような何かでありたかった」
 それは不思議な、空気のようなしゃべり方だった。いったい自分が話しているのか、相手が話しているのか、ついにはわからなくなってしまうような、そんなしゃべり方だった。
 「妻の顔を見て、子どもたちの顔を見て、それから、自分の突き出た腹を見て、おれは少しも自分が特別じゃないってようやくわかった。うれしいんだ」
 目尻に深いしわを刻みながら、笑うと目の無くなる、人なつっこい笑い方で男は笑った。笑い声が途絶えると、部屋には沈黙が降りた。しかしそれは、あの狂躁的な、次の言葉を無理にも促す不安な沈黙ではなかった。それまで相手の言葉に身構えて硬直していた全身の筋肉から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じた。誰かと向かうとき、私はこんなにも緊張していたのか。私は眠りこむ寸前のような、あの安堵を覚える。
 「おれはどんどんみにくく、つまらなく、そしてやさしくなってゆく」
 男は私の目を正面から見た。それは、まるで私の一番奥を見ているようだった。いままで、誰も私をそんなふうに見たことはなかった。
 「戻ってこいよ。ここは、思ってたほど、怖い場所じゃないみたいだ」
 やがて、薄くなった頭頂部に手をやりながら、男は最初からそこにいなかったかのようにひっそりと、部屋を出ていった。
 突然、苦痛が全身を包んだ。心から死ぬつもりだったのに、あの男は、悪魔か何かのように忍びより、ささやきかけ、静謐な末期の悟りに迷いを生じさせたのだ。私は卓上に置いてあった赤い小箱を取り上げ、なかの小瓶をあけて、白い錠剤を手のひらの上にのせた。また、胸に痛みが起こった。それは遠くなつかしい、子どもの頃ような哀切な痛みだった。胸を押さえてうずくまると、ちょうど視線の先に大きな姿見があった。あばた面にじっとりと脂汗を浮かべた、ぼさぼさの髪の太った男が、痛ましい澄んだ目でこちらを見返していた。私が眉をしかめると、姿見の太った男は泣きそうな顔になった。「今度こそ、みにくいおまえを退治してやれると思ったのに」
 無意識のうちに強く握りしめてしまっていた手のひらを開く。ぼんやりと発光しているかのように見える白い錠剤。これを嚥下しさえすれば、数分のうちに安らかに死へと至ることができるだろう。私はかぶりを振ると、生じた迷いに時間を与えるため、錠剤を卓上へと置いた。私は椅子に背をもたせかけ、その錠剤をじっと見つめる。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 心に浮かんだその言葉は、ずっと長い長いあいだ押し込められてきた、初源の問いであるような気がした。生まれて初めて、自分の手を自分の手のように感じながら私はゆっくりと卓上へ手をのばし、純白の錠剤をひろいあげる。
 そして――