猫を起こさないように
⊥(ターンティー)の癒し
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⊥(ターンティー)の癒し

 1999年1月17日が、個人サイト『nWo』のスタートだった。
 サイト運営をするということは、自己の概念とか美意識を表現することで、それを不特定多数の人々にしめして、理解され楽しんでもらわなければならない。
 更新した、というところにとどまっているのであれば、素人である。
 インターネットという未成熟の媒体でも、創作することに関与できたおかげで、ぼくは正常でいられたらしい。
 創作をしてインターネットという広い場に発表できるということは、サイト運営というだけでなく”情”を吐き出すことができるのだ。マスターベーション的にひとりお部屋の中で精をだすことでもなければ、アクセス数を増やせたとひとりだけの満足にひたることでもない。
 だれかが見てくれている、だれかがメールをくれるかもしれないという想像は、自閉症になることを予防してくれる。
 自己が安定するのだ。
 サイト運営をしてこなければ、ぼくは、どこかで禁治産者の烙印をおされていたか、精神的なものが原因の事件をおこしていただろう。昨今、ニュースにとりあげられている事件そのままにおこなっていただろう。
 ゆるゆると3年が過ぎた。
 新陳代謝の早いこの場所では、新参が古参になるのに、充分な時間だ。
 年々、ぼくは身内に危機感をつのらせていた。
 言葉というのは、最大公約数の共通認識を伝達にのせる手段だが、現実とは完全に重ならないという意味合いにおいて、それは虚構と呼ぶことができる。言葉の持つ虚構性については多くを語ってきたと思うので、ここではさらには触れない。
 伝達、というポイントが重要である。なぜ言葉が存在するのか、という本質的な問いに少しでも思考を与えたことがあれば、言葉の本義を踏み外すことは無いはずだ。言葉の力点は個人の上ではなくて、個人と個人の間にある漠然としたつながりの上にあることが容易に理解できると思う。
 言葉とは、伝達とイコールなのだ。
 そこで、最大公約数的である言葉の持つ曖昧さは、時間と場所は異なるとしても、世界の包含する事物への共通体験によって補われる必要が出てくる。例えば、『樹木』という言葉を発するとき、『樹木』という言葉以上に説明を加えないのは、我々の全員がそれを現実に見、嗅ぎ、触れたことがある、という前提によっている。
 これに対し、例えば『正義』であるとか、共通の前提を伝達の条件とできない、概念だけの言葉もあることは、少し考えればわかることだ。モニター上でなくマンコの襞を押し広げる現実体験を持たないものにとって『マンコ』という言葉は、『正義』という言葉と同じように概念でしかない。
 言葉には、大ざっぱに分けてこの二つの種類がある。そして、概念を表す言葉群は、生活への出現頻度や絶対数において、対立する言葉群よりもはるかに少ない。
 だが、二者間のバランスは今や崩れつつある。ネットを日常とする若い世代は、圧倒的にぼくなどよりも少ない前提をしか持っていないことに、ぼくは気づいた。つまり彼らは、『正義』と同じ響きで『樹木』や『マンコ』を発信している。この由々しき現代病に、ぼくは力及ばぬながら、『nWo』でわずかなりの抵抗を示してきたつもりだ。
 そんな漠然とした危機感を抱きつつも、日々の雑然さに流されるしかできない中、一通のメールが届いた。
 そこには、『テキストサイト大全』なる企画本に、テキストサイト系現役ネットカリスマとして寄稿してもらえないか、といった趣旨のことが一見慇懃な調子で書かれていた。
 テキストサイト系!
 それこそ、言葉に不可欠な前提と伝達の無いままに、インターネットという広い場に放言を繰り返す、現代病の病理の最たるものではないか! 『nWo』の文脈を読みとれぬ、なんという明き目盲の申し出であることか!
 ぼくはひさしぶりにキレた。
 「この、母親のマンコ臭の頭髪から抜けきらない、くっきり蒙古斑のボウフラ水め! ネットワーク上に自己を投射するために不可欠な、あの明確極まる枠組みの絶望的な相互孤絶を意識化することができないから、孤絶を孤絶のままで集合させたところに名付けをして、これぞコミュニティでございとふんぞっていられるんだ! おまえ、コミュニティというのを、近似値的な概念集団と勘違いしてるんじゃないのか? 互いの姿を形作る領域の境界が重なって、どちらをどちらと指摘することのできないグラデーション化した部分を持ち、その曖昧な部分においてはそこに重なるどの個も重要ではない。理知の明解さの照らさない、その黄昏の場所の持つ怪しさこそが、小さな社会集団と曲がりなりにも呼べるものの、本質なんじゃないか! この怪しさを見ないから、清潔で単純な概念へと一足飛びできるんだ。そもそも、ネットワークは致命的に肉を欠いているという物理的な事実だけからも、セックスを内包した生活集団足り得ない、すなわち社会足り得ないことが理解できるはずだろう。なに、すでに現代社会はマンションの一室一室として、ホームページ状に分割されている、だって? バカヤロウ! このパパとママの庇護下のオナニー野郎め! 両親と同じメシを喰って、自分の女とセックスできるか! セックスできないから、おまえはいつまでもパパとママの生殖器の下なんだ! セックスが家族と訣別させ、家族というドロドロの融合から、両親へ社会という距離感を与えるんじゃないか! そうやってすぐに肉を無視する先鋭化した観念に一足飛びするのは、ノットセックス(掌で机を一撃)、バットオナニー(掌で机を一撃)の自分をだけ納得させるための歪んだ世界観に過ぎないんだ! 人類種の本義を外れた、セックスレスを進歩的と鼻高々な、腐臭放つ悪魔崇拝者の姦夫姦婦め! 今は何者でもないが、いつか何者かであれるかもしれないなんてグズグズの、ぬぅるいぬぅるい澱んだ温泉水の譲歩に首までつかった、ブヨブヨ精神のシワシワ余り皮め! その、社会と時代を度外視した、自分に都合の良いものだけを採択するという意味合いでだけの暴走した個人主義が、(顔を真っ赤にしてどもりながら)テ、テ、テ、テキストサイト系などという名付けの、僭越極まる自己欺瞞を増殖させてるんだろう! だいたいあんなものは、対立する素封家の一人娘との、深夜のご神木の裏で村人に隠れてするセックスのようなもので、もっと言えばそのとき膣外射精した精液がご神木の表皮を伝い落ちるのを雲間の月明かりに見る虚脱のようなもので、むしろ誰にも知られないまま消えて欲しいと望む類に過ぎない。(咳払いして)おまえ、ここが何かのマイナーリーグとか思ってないか? つまり、今は日の目を見ないが修練次第でメジャーの一線級の大舞台を踏むことができると、どこか心の片隅でチラとでも思ってるんじゃないか? 醜いアヒルの子どもをさらに自意識で醜悪にした顔面で、救われることを前提としたハーレクインロマンスの悲劇の中で、優越に満ちた一時的な自虐を盛大に微笑んでるんじゃないか? ハ・ハ・ハ、(笑いに咳き込んで)いや、申し訳ない。まさかね…まさかそんな(突如激し、机をこぶしで強打する)薄ら白痴めが! もっと深刻で、決定的で、致命的な隔絶があるんだよ! (顔を真っ赤にしてどもりながら)テ、テ、テ、テキストサイト系ってのは、おまえ、マイナーリーグどころじゃない、パラリンピックなんだよ! 不倶と健常者が同じ舞台に立てると思ってるのか! どれだけ心がパラリってるか、社会性の最後の残滓を締め出し、どこまで心をパラリらせる様を見せることができるか、これはそういう類の争いなんだ! そこを意識しなければ、おれたち不随の歯茎の黄色の乱杭歯ぐらいでは、健常者たちのあの分厚いのどぶえを、少しでも噛みやぶれるわけないじゃないか!」
 そう一息に叫ぶと、ぼくは飲みさしのビール瓶を、ノートパソコンが置いてある文机に叩きつけて割ってみせた。
 『やめなさいよ。見せかけの大手サイトのポーズなど……』
 しかし、そのメールは行間で、ぼくを非難した。
 <潮流から外れているという自覚が無ければ、ビール瓶の割れた方を飼い猫に押しつけ、その頭部をクール宅急便でてめえの自宅に直送していた!>
 そうきっちりと考えながら、
 「そうだ……ポーズだよ。こうしなければ、この申し出をおさめることはできない」
 そうやって承諾の返信をしてみせたのも、ポーズだった。
 結局申し出を断ることができなかったのは、かくも『nWo』は読み手の”慣れ”のうちに、ついにはこういったオファーを許すほど毒気を喪失したものになっていたのか、という認識が強まっていたからである。
 テキストサイト側だって、『nWo』的なサイトづくりが明らかに潮流を外れていることは知っていても、いくらアクセス数で劣っていても、ネット上の年功序列から声をかけざるを得ないというジレンマをしのがなければならないのだ。
 なんで、長いことやってる割りに人気が出ないのか? その自問自答に、
 「あいつらが邪魔してるんだ!」
 そう言ったのは、小鳥猊下という名前のインターネット上の疑似人格だった。
 あいつら、というのは、旧来のテキストサイト・ファンというよりも、おたくたちのこと。
 「あんたは才能がないんだから、頑張りなさいよ」
 2001年暮れに、そういった内容のメールをくれたファンがいたが、それは当たっていたのである。
 才能――力があれば、取り扱っている中身がどうとか、おたくたちがいようがいまいが、人気はでるはずなのだ。
 それが低迷するというのは、力がない証拠である。
 ぼくがおたくだったら『nWo』は承認しない。そんなことはわかっている。
 いいサイトであればヒットするという原則は、この世界にはないのだが、まったく新しいものにしていかなければ、今後の『nWo』の展望などは絶対にないという確信も、またゆるぎない。
 が、それにしてもどうしてだ……という状況のなかで『nWo』の全盛期は終了した。
 それでも、諸君、ぼくは、
 日々大量生産される妄想美少女たちの架空とはいえ”人格”と呼べるものを蹂躙し消費するおたくは道徳的・倫理的・神学的に醜いよ、そういう自分の内外を問わぬおたくを侮蔑し嘲けりついには憎悪する視点というものを獲得してもらいたいと願ったから、『nWo』をこのようにしたのだとわかってほしい。
 そういう心をもてば、心は外にむいて、おたくにならないですむから! と……。