猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

映画「教皇選挙」感想

 見よう見ようと思っていたのに、劇場へ足を運ぶまでの熱量はなかった教皇選挙を、アマプラでようやく見る。ほんとうにこれ、最近は使いたくないんですけど、他に用語がないのでしょうがなく口にしておくと、全編にわたって「ローマ・カソリック的ポリコレ」に満ちあふれた作品でした。たとえるなら、「ああ播磨灘」で主人公がおばあさんを抱きかかえて、女人禁制の土俵へあがるんだけど、絶妙に彼女の足を土へつけさせないパフォーマンスによって、伝統への配慮を同時におこなっている感じと表現すれば、伝わる人には伝わるかもしれません。気になった場面を順にあげてゆきますと、アフリカ教区の黒人司祭が下馬評1位で1回目の投票において最多得票となるのに、人種ではなくスキャンダルを理由にその支持を失わせることで、「黒人を教皇とする」暗黙のタブーに対して、きめこまやかな配慮を行っています。また、この黒人司祭の醜聞の内容はといえば、30歳のときに19歳の女性とのセクシャル・インターコースによって私生児をもうけたにすぎず、お相手を10歳や12歳の少女に設定しないことによって、「カソリック司祭による児童への性略取」という真のスキャンダルへの追求は、巧妙に回避されます。また、アジア人の存在は厳重に秘匿され、クリント・イーストウッド監督が「グラン・トリノ」で見せたような差別意識は、作品の表層へ姿すら見せないまま、無言のうちに抑圧されます(「西洋社会に衝撃を与えるが、かろうじて許容できる」人種はラテン系ヒスパニックまでであることは、最終的に教皇選挙の勝者となるアフガニスタン教区の司祭を見れば、おわかりいただけるでしょう)。

 さらに、「ロビー活動なし」「決選投票なし」で参加者の3分の2の票を得るなんて達成できるわけもないのに、階段の踊り場に集まった3人のひとりに「我々は、まるでアメリカ人みたいじゃないか!」と言わせて、「ご覧になっているのは映画的な演出にすぎず、じっさいのコンクラーベはもっと公明正大で、作為はありませんよ」と観客に目くばせーーこっち見んな!ーーしてくるのです。そして、イエス・キリストが男性をしか使徒に選ばなかった事実に由来する、「女性は枢機卿になれない」伝統への挑戦には、なんと候補者が両性具有であったという反則級のウルトラCが使われます。しかも、「体内に子宮があるのに、30代まで気づかなかった」として、排泄と性交を男性として行うことができる程度にしかアンドロギュノっていないとの言い訳まで、周到に用意されております。かてて加えて、戴冠式(着座式?)の場面を映さずに、路地をかけてゆく若い尼僧たちの姿で物語の幕を降ろすことによって、「あれからどうなったって? もちろん、ノーコンテストの再選挙となったに決まってるじゃないか!」という逃げ道まで、神経質にしのばせてくるのです。ついでに、難癖レベルの不満(いつもの)までぶちまけてしまいますと、「システィーナ礼拝堂のフレスコ画が完全に無傷な、上部の窓ガラスが内向きに割れる程度の自爆テロで、主人公が気絶するほどふきとばされる」って、もうこれ、完全なプロレスじゃないですか! ジョーカー2の裁判所シーンぐらい盛大に爆破して、コナゴナになった最後の審判を見せて、アジア人たちの溜飲を下げてくださいよ! それに、最終投票の直前、鳥の羽音とともに礼拝堂へ光が差し、列席者全員がなんとなく空を見あげる演出も、「政治や信条の話じゃありませんよ、これは宗教と信仰の話ですからね」という、キリスト教徒へのビクビクした目くばせーーこっち見んな!ーーとしか思えません。

 ここまで読んでおわかりいただけたでしょう、本作は現代のローマ・カソリックがかかえる問題にふみこもうとしてふみこみきれず、制作者がふみとどまった地点をそれぞれ線でつなぐと問題の輪郭がボンヤリとうかびあがり、「意図せぬ痛烈な批判」になってしまっているという、じつにヘンな映画なのです。最後に、個人的な体験をお伝えすれば、持ち前の億劫病から、「28年後…」と視聴の順番が逆になってしまったせいで、キリスト教の腐敗に絶望したレイフ・ファインズが、いつ自室でヨードチンキを顔に塗りだし、礼拝堂に居ならぶ枢機卿をみな殺しにしはじめるのか、終始ドキドキが止まりませんでした。

ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想(クリア後)

 ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想(開始35時間)

 メタファー:リファンタジオ、このウンザリするような超大作を95時間(!)かけて、ようやくクリア。「物語摂取」だけを考えた場合、映像やマンガなどに比べると、やはりゲームの時間あたりの効率は最悪です。このディスアドバンテージについて、物語そのもののクオリティや、ゲームならではの体験部分によって納得感ーー言い換えれば、映画40本に伍するエンタメという錯覚ーーをあたえるのが名作の条件であり、この意味で本作は、そのどちらにも失敗しています。最近のトレンドにあがっていたバクマンをひきあいに、週間少年ジャンプのアンケートシステムについて、「ワナビーの情念を火にくべて、当たるまで回し続ける物語ガチャ」と揶揄することもできましょうが、いわゆるAAA級ゲームを数百人が関わるプロジェクトとして立ちあげたあとの、制作撤回どころの話ではない、執行役員やメディアの前はもちろん、仲間であるはずの会社スタッフ相手ですら、ネガティブなことは微塵も言えないというスタークリエイターの地獄は、この対極に位置しているような気がします。メタファーの制作期間は7年の長きにおよび、制作チームのメンバー以外にも、さまざまな役割で本作が世に出ることへ貢献した人々がおり、彼ら/彼女らの中には子育ての時期がそのまま重なった方々も、きっと少なくなかったことでしょう。

 すでに成人してから、永遠をなかばまで生きている我々は、「キミ、ひとつのゲームつくんのに時間かけすぎや! いいかげん、オッチャンらの寿命のほうが先にきてまうで!」ぐらいの感じでヘラヘラ笑っていられますが、本来7年とは、新生児が小学生に、小学生が中学生に、中学生が成人をむかえるほどの、一個の無垢な魂が知恵と人格を身につけて、世界へと解き放たれるのに充分な、意味性の密度に満ち満ちた時間でもあります。基礎工事さえままならない、グズグズの沼沢地みたいな世界観とシナリオの上へ、多くの人生から年単位を供出させて、自立するかも不明な巨大伽藍の建造を強いる行為には、なんらかの罪名すらつくような気さえしてきました。鬼滅の刃が5年で連載を終えて、継続的なアニメ化による超ヒットが全国を沸かせているさなか、稚拙な政治観と浅い人間理解による陳腐きわまるストーリーを、ただただ制作費回収のために鳴り物入りで世に問わねばならないのは、良識ある人の親たちにとって、ほとんど恥辱と言えるのではないでしょうか(またもや週間少年ジャンプでたとえておくと、「10週で打ち切りになるはずの作品が巻末で7年の連載をゆるされ、単行本のリリースは随時ではなく、なぜか1巻から最終巻までを同時発売した」といったぐあいのイビツさです)。7年という時間は、たとえ大人であっても別人のように成熟ーーこの単語が人間に期待しすぎなら、変容ーーするのに充分な長さであり、個人的にも7年前に書いたテキストなんて、ちょっと怖くて読みかえせません。

 唐突に話はそれますが、最近の原神はナタ編の後半からずっと低調で、最新のバージョンにおいて、これまでなら時限マップにとどまったはずの夏期リゾート地を、正規マップとしてナタ本体へと合体させてしまいました(炎の印の数から判断して、確定事項)。くわえて、初期からの人気キャラであるベネットを「じつは、ナタ人である」としたのは、スターウォーズ8級なアトヅケのドッチラケで、いったん悪印象をいだくと幽霊になった両親との心あたたまる交流も、中共のプロパガンダとしか思えなくなってきます(次章のナド・クライを「ゴッサム・シティのような、原神という物語の中心地にする」との発言から、すでに開発リソースをそちらへ全振りしているのかもしれません)。「もうデイリー消化からは外して、ときどきログインするぐらいでいいかな……」とコントローラーを置きかけたところで、しかし、イネファの魔神任務に心を射ぬかれて、泣いてしまったのでした。たとえ悪性をもって生まれた者ーー両親との関係性や犯罪被害による、幼少期のトラウマと読みかえてもいいでしょうーーであっても、正しい人間関係と日々の生活を記憶や経験として積み重ねていけば、やがてみずからの悪性を乗り越えて、ついにはそれを消滅させることができるといった内容で、「別の人間を何人か育てても、いっさい変わることはなかったと思いこんでいたおのれの内面が、じつは善良なものに上書かれているのではないか?」というささやかな希望へ、救われた気持ちになったからかもしれません。このように、自己弁護ではなく、他者へ届こうとつむがれた物語は、書き手の見知らぬ場所で、大輪の花を咲かせることがあるのです。

 さわやかな感動から、話をけったくそ悪いメタファーへとイヤイヤもどしますと、「もしかして、このストーリー、全然ダメなのでは?」という、制作責任者として、周囲のだれに吐露することもできない、苦しい胸のうちを糊塗するかのように、物語終盤からラスボス撃破後のウイニング・ランa.k.a.長すぎる後日談にかけて、どんどん蛇足な補足の言いわけが、等比級的に増えていきます。あれだけ民主主義の価値を強調しておきながら、選挙なしで旅の仲間全員に国の要職をあてがうという、ゲバラとカストロも真ッ青の革命”オトモダチ”政権には、町のNPCから批判的なことを言わせ、暴力による政権奪取からわずか1年で、エンディングのためのエンディングを演出すべく、閣僚全員が統治の席をカラにして外遊へと出かけるさいには、「瞬間転移装置があるから大丈夫」と細かいフォローを入れます。山月記で虎が一晩だけ正気にかえるような、軍歌を耳にした恍惚の老人が一瞬だけ直立して敬礼するような、一種異様の「厳粛な滑稽さ」が本作の結部には満ちあふれているのです。「7年後の自分には、7年前の自分の頭がおかしかったとわかるが、数百人の人生をまきぞえにここまで作らせた以上、いまさら正気にかえるわけにはいかない」というガンギマッた悲壮感が、ひしひしと伝わって泣けますが、流れる涙のわけは悲しみというより、同情に由来するものだとお伝えしておきます。そして、まちがった世界設定をなんとか整合するため、どんどん言葉が増えていくのに対して、ゲーム部分はコピペダンジョンと使いまわしのエネミーで、どんどん先細りしてゆくのです(結局、最初に攻略したダンジョンが、いちばん豪華でギミックに富んでおり、制作途中での制作費縮減を疑いました)。

 さらに、ゲームバランスも調整不足を通りこして完全に崩壊していて、二度ともどれないくせに平坦な2マップだけの最終ダンジョンへと監禁されたあとは、ここまであれだけイジメのように制限をかけてきたMP回復が、なんと無料の無制限で解放されるのです! ストーリーをカレンダーどおりに進めたぐらいでは、とうていまかなうことのできない膨大なジョブ経験値をかせぐため、最終セーブポイントの半径数十メートルをぐるぐると何時間も周回する息ぐるしい作業には、ほとんど閉所恐怖症的なものを誘発させられ、アニメのながら見ーー瑠璃の宝石、おもしろいですーーがなければ、それこそ心がバターになってしまうところでした(わかりにくいたとえ)。満を持して登場するはずだった東京各地をモチーフにしたダンジョンは、7年にわたる制作費の蕩尽に業を煮やした執行役員の大ナタによって、渋谷?の1枚絵のみで処理され、ルシファーそのまんまの見た目をしたラスボス戦へと突入した時点で、”ニンゲン”なる表記は特に物語的な意味を持たない、メガテンの”アクマ”に対する逆張り連想ゲームにすぎなかったことが確定します。このラストバトル、強力なジンテーゼ持ち2枚とアルティメットガード役1枚をならべ、回避すると敵のターンをすべて潰せるブッ壊れーーおそらく、テストプレイが充分ではないせいーーアクセサリを装備したハイザメ先生を準備し、毎ターン同じコマンドを入力し続けるだけの”簡単なお仕事”なのですが、HPはほぼ無傷のままMPが先に枯渇し、MPを完全回復するアイテムを所持しているかの”持ち物チェック”が、最大の難所になるという腰くだけぶりでした。

 最高度に美麗な見かけをよそおいながら、ゲームや物語の内実がここまでそれと乖離している超大作ーー美女を誘蛾灯にする、ベルセルクの触に登場したモンスターを想起ーーは、近年まれに見る「羊頭狗肉の商売」ではないでしょうか。中高年期の貴重な余命である95時間を、生きたままむさぼり食われた哀れなこの先人の手記が、新たな犠牲者を生まないための一助となることを切に願います(人間の乳房の形状をした怪物の器官をもみしだきながら)。最後に言っときますけど、優秀なスタッフたちを飼い殺したまま、メタファーの完全版なんかに着手したら、ぜったいにダメですからね! 土台が腐って家屋全体が傾いてるのに、いまさら高価な家具を搬入したり、内装に凝ったってしょうがないでしょ! 仮に次回があるとすれば、彼ら/彼女らが子どもーーまあ、7年もの制作期間中に成人して、すでに家を出たかもしれませんけれどーーに誇れて、せめて学校でイジメられないようなものを作らせてあげてくださいね!

雑文「STARRAIL Odyssey and METAPHORIC Student Activism」(近況報告2025.8.24)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.5を読了。内実はプラモなのを駄菓子として販売するため、小さなガムを申しわけに同封していた往年のビッグワンガムを思わせる、内実は大河小説なのを課金ゲームと強弁するため、木枠のチルトでビー玉を外に運ぶ”知育玩具”を申しわけにマップの片隅へと置く仕草には、思わず笑みがこぼれました。先のビー・エル騒動からもうかがえるように、大陸では漫画や小説に対する当局の検閲があまりに強すぎるために文化として育たず、それらの分野をこころざす若きエンタメの才能たちは、すべてアプリゲームに集結していくとの指摘をどこかで読み、ホヨバという会社への解像度があがった次第です。最近の原神は、なんら構造性のない平板な「家族愛の一本槍」をふりまわすばかりで、当初の浮かされたような高熱は、ほぼ平熱まで冷めてきていますが、ストーリーテリングだけに特化した崩壊スターレイルのバージョン更新は、「世界最高峰の最突端を、現在進行形で走っていると信じる者たち」の輝かしい才気と荒々しい自負が、挫折した創作者の魂を熱狂でふるわせるのです。登場するすべてのキャラクターたちは、「大きな物語」を駆動するための狂言まわしとしての役割をあたえられ、あえて悪意的に言えば、本邦のそれらとちがって、物語を剥奪されたときに単体で自立する強度は、まだ持ちえていません。これはおそらく、「当局の検閲を意識するため、性的なニュアンスをあからさまには付与できない」ことに起因していると分析しますが、同時にシンエヴァを極北とした「キャラクターが、世界の構造に優越する」物語群に堕することから、遠ざけてくれているとも言えるでしょう。

 現段階において、「シミュレーション世界であるオンパロス」「オンパロスを演算するオペレーション世界」「スターレイル世界」「我々の住まう現実世界」の”四重入れ子細工”によって物語はつむがれているのですが、才能の枯渇したストーリーテラーにありがちな、そして近年、本邦の虚構で散見しがちな、”第4の壁“を越える愚だけはおかさず、おそらくのゴールである「シミュレーション存在の受肉」を語りきってほしいものです。これは、急速に発展する人工知能が人間という肉を介さずには、世界へ干渉できない事実に向けた思考実験であり、もっと卑近に言えば、「清潔な都会のデスクワーク」と「粉塵が舞う地方のドカチン」の対比であり、後者の環境で活動するためには、「アイの歌声を聴かせて」の感想でもチョロっと書いたように、ネット環境へ依存しない「安価で自立した、人間そっくりのガワ」が必要となり、そんなものはまだ世界のどこにも存在しないのに、だれもあえて言及しようとさえしない難題でもあります(ドカタ仕事は、無限リポップするとでも思っている、高卒ヤンキーにまかせとけと考えているのかもしれません)。

 いつものように話はそれますが、メタファー:リファンタジオに関する評をネットサーフィン(笑)でさがすうち、故・三浦健太郎と開発スタッフが対談する、数年前の記事を発見してしまいました(ゲームにうといウラケンがメガテンをほめまくるのに、「いやいや、それは金子一馬さんをはじめとする先輩諸兄の手がらであって……」ぐらいの謙遜さえないのには、たいそうムカつきました)。それを読みすすめるうち、プレイ中にずっと感じていた「恥ずかしさ」と「いごこちの悪さ」の正体がなんだったのか、ようやくわかりました。事前に予想していたとおり、制作の統括者たちとはほぼ同世代であり、この年代は学生時代にインターネット抜きの平和教育と人権教育を、べったりと魂の基底部に塗りつけられた経験があります。ゲームを起動すると、毎回ながれるムービーの冒頭に、市民が犬の獣人をののしって足蹴にするシーンがあり、これが本当に心の底から不快で、うっかりスキップに失敗したときには、プレイせずにシャットダウンしてしまうこともあるぐらいでした。その理由を言語化すれば、大卒で富裕層出身の全共闘がチンポみたいにゲバ棒をふりまわし、高卒で貧困層出身の機動隊をなぐりつける図式を連想させ、「部落差別」や「穢多非人」を小学生に語る大人の目の底にあった正義に酩酊し、反論をいっさい予期しない支配の強圧が臭気のかげろうとなって、眼前にたちのぼるのを幻視したせいでしょう。魂のおもてにこびりついた、コールタールのような黒い汚れをすっかりぬぐいとったはずなのに、遠目にはきれいな白い表皮から、あの特有のにおいはいまだ消えていないのです。この意味でメタファーの、主にストーリーに対する負の感情は、同族嫌悪に近いものだったと理解できますし、全共闘の大卒者たちが人生の最終盤をむかえて地上より消滅しつつある現在でさえ、いまだに彼らのあたえた色眼鏡を通してしか世界を認識できない人々の実在に気づいて、愕然とさせられます。

 崩壊スターレイルがわずか2年ーー6週間毎の大型アップデートを続けて2年ですよ、念為ーーで、人間存在の深奥にせまる巨大なSF叙事詩をみごとに織りあげつつある一方で、メタファーは7年もの歳月ーーウラケンも完成を見ずに亡くなってしまったーーをかけて、昭和の同和教育読本「にんげん」をファンタジー世界に再現しているのです。自戒をこめてテキストに残しますが、大陸の若き英才が文字通り、命を賭して虚構を通じた体制批判を敢行しているのに対して、単純な時間経過によって、上の世代が組織からロールアウトし、もっとも大きな責任をあずけられる立ち番になってなお、こんなイデオロギー未満の甘えーー両親、国家、権力者などへの攻撃ーーを捨てられない心性は、まったく恥ずべきものです。どうか若い世代のみなさんは、古い世代がさらに古い世代より押しつけられた価値観を忠実に体現するメタファーではなく、大陸の新しい息吹が現在進行形の世界と対峙する崩壊スターレイルから、人生への処し方を学んでください。

ゲーム「都市伝説解体センター」感想

 一時期、タイムラインに頻々と流れてきていた都市伝説解体センターを、1ヶ月ほどーー4話あたりでダルくなって一時中断したので、実質1週間ーーかけてようやくクリア。人生におけるアドベンチャーゲームのベスト3を挙げるならば、順に「ファミコン探偵倶楽部2」「オホーツクに消ゆ」「新・鬼ヶ島」となる昭和キッズにとって、本作をスルーするという選択肢は、あらかじめうばわれていたのです。このゲーム、「京極夏彦と逆転裁判の影響下にある、ファミコン時代のADV」といった見かけなのですが、ケレン味のあるキャラクターのわりにシナリオと、なにより各話のオチが弱く、読みすすめるのに難渋しました。作中の人物より先に真相に気づいても、ストーリーを進めるには、いにしえの「コマンド総あたり」しかなく、タイパ重視の令和キッズは、たいそうイライラがつのったことでしょう。また、本作の物語フォーマットは、安楽椅子探偵が女子大生の助手を使って事件の調査を進める、ミス・マープル的なものなのですが、解決編はいずれも真犯人の同席する警察不在の場において、丸腰の女子がケイタイのスピーカーで真相を聞かせるというものになっていて、昨今の陰惨な通り魔事件などを見るにつけ、かなり無神経なリアリティラインだなとは感じました。もうひとりの女性助手が、男性からの物理的な反撃を鎮圧する場面もあるにはありますが、一種のありえないロマンと自覚しながら、戦闘美少女を愛でていた時代はとうに過ぎ去り、「女性は男性に、物理的暴力ではかなわない」という単純な事実を忘却させるフィクションが横行しすぎていることは、すでに現実へ悪影響をおよぼしているような気がしております。

 あまり肌にあわない物語を読了することができたのは、ひとえにあざみちゃんのアホかわいさと、1話完結のオムニバス形式をとりながら、各話のつなぎで明かされる大きな陰謀のほのめかしでした。そこで流れるジャパニーズ・ラップにはヘキエキさせられましたが、ドット絵の見かけそのものがトリックにつながっているのだろうと、一日の終わりに寝落ちしそうになりながらも、チマチマと読みすすめていったのです。ネタバレ全開でクリア後の感想を述べますと、ゲーム内のすべての要素がポートピア連続殺人事件でたとえるならば、「犯人はボスとヤス」という大オチを演出するための仕かけになっていて、ずっと40点ぐらいーーあざみーのかわいさ加点がなければ、赤点レベルーーだったのに、ラスト20分の印象だけで80点に化け、しばらくして余韻がぬけると60点ぐらいに落ちつく、「剣術勝負での飛び道具」みたいな作品でした。ドット絵による世界認識そのものがフェイクで、途中から高精細なCGに変じてボイスがつく方向の変化を予想していたので、この表現形式が「ボスとヤスが同一人物」であることの可能性を、読み手に露ほども気づかせないためのギミックだったのには少々、肩すかしの感じはありました(よほどの役者を見つけないと、実写化はむずかしいかもしれません)。

 あと、警察上層部の自宅にかけられた絵の価格が5万円なのを、やたらと「高い、高い」とさわぎたてるので、なにかの伏線かミスリードかと思っていたら、特にそんなことはなく、デフレ時代におけるインディーズ・ゲーム制作者の、個人的な金銭感覚を表出しているだけでした。そもそものところ、このゲームの価格が2,000円以下というのは相当におかしな値つけで、5,000円以上とってもぜんぜん納得できる内容だと思うんですよ(その場合、ここまでバズらなかったかもしれませんが……)。我々はもっと自信をもって傲慢になり、おのれの才能に対してもっとカネをよこせと、声高に世間へ主張していくべきじゃないですかねえ。以上、四半世紀におよび無料でインターネットにテキストを提供し続けている管理人からのボヤきでした。