猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

パアマン(3)

 「ワイは自分のことが好きや。こんな醜く肥え太ったワイが自分のことを好きやなんてナルシストみたいなことゆうて、おかしい思ってますやろ。でもな、ワイはそれでもやっぱり自分のことを愛していると言うわ。なぜって、誰ひとりワイのことを見てくれへんかったからや。アル中のおとんも、宗教にハマって家を出てったおかんも、自分たちのことに精一杯でワイを愛する余裕なんてあらへんかった。だからワイはワイのことをワイ自身で愛してやるしかなかったんや。そんなワイや、パアマンに選ばれたときのうれしさは忘れられへんな。あれは世界が革命した確かな瞬間やった。ハーレクインロマンスのヒロインたちのようにワイは見いだされて、誰からも省みられない醜いアヒルの子やのうて、誰からも愛され求められる輝かしい白鳥に化身することができたんやからな。リーダー、ワイは死んでもパアマンをやめることはしまへんで。それだけは覚えといてや…」
 「みつをさんッ、危ない!」
 パア子の叫び声に私は撥と我に返る。見れば、私の眼前に巨大なエイプが大きくあぎとを開ゐてゐた。其処に覗く不揃ひな歯は殆どの獣達がさうであるやうに、雑菌の固まりなのであらう。遺伝子操作を施された此のエイプ達の事だ、噛まれるだけで致命傷に為りかねなゐ。
 私は粘着く唾液にまみれた其の上顎に手を掛けると、一気に引き裂ゐた。粉々に為つた頭蓋が飛沫を上げて大気中へと拡散する。私は逆さ洗面器のバイザアに付ひた返り血を指で拭ふ。両肩の間に舌と歯の残骸を乗せただけの悪魔的な戯画めゐたエイプの死体が、仲間の数匹を巻き込み乍ら雲間へと消へてゆく。
 私は背中合はせに居るパア子へ肩越しに頷きかけると、更なる上昇を開始した。一体どの位昇つたのだらう。雲は遙か眼下に在り、大気が希薄になつて来たせひか、星々が恐ろしく近くに見へる。問題は逆さ洗面器に装備された非常環境に適応する為の生命維持装置がゐつ迄働ひて呉れるかだ。之が停止すれば私達は忽ちに窒息死してしまふだらう。
 しかし。と私は考へる。其のやうな安楽な死は決して望めなひのではなゐか。何故なら私達の生命反応は逆さ洗面器を通じて全て奴らにモニタアされてゐる筈であり、奴らが私達の生存を知り乍ら私達からたゞちにパアマンの能力を取り上げてしまわなひのは、奴らには私達二人を簡単に殺すつもりは全く無ひとゐふ事を意味してゐる。恐らく此のエイプ達によつてなぶらせるつもりなのだらう。
 私達は追ひすがるエイプ達を殺し乍ら上昇する。四方から同時に襲われてはひとたまりも無ゐ。エイプ達の攻撃の方向を限定する其の苦肉の策が、今私達二人の首をじわゝと絞めつゝある。
 生命維持装置をフル回転させてなお身を切るやうな冷気の中、私は背中にあるパア子の温もりに救ひを感じてゐた。其れはパア子も同じだつたらう。パア子の、私の手を握りしめる力が強くなる。私は更に強く其の手を握り返す。破局はもう間近だ。死の運行は緩慢だが着実であり、生の鮮やかな上昇が持つやうな疲れを知らなゐ。私はそんな言葉を思ひ出してゐた。今の私達の置かれてゐる状況は此の言葉にぴつたりを当てはまる。
 メゝント・モリ。死を思へ。私はずつと、誰もゐなくなつた夕方の砂場で一人遊ぶ子供だつた昔から、ずつと死の事を考へ続けて来た。だが、今私達の眼下に存在する無数の赤い獰猛な対の光は、何と其の甘やかな夢想と異なつてゐる事だらう。私は死を眼下に、生の温もりを背後に、初めて心から生きたひと思つた。
 「きゃああっ」
 突然のパア子の悲鳴がそんな私の物思ひを永遠に切り裂ゐた。音もなく追ゐすがつて来た一匹のエイプの巨大な爪が、パア子の逆さ洗面器を真二ツに叩き割つたのだ。
 逆さ洗面器の下にあつた初めて見る其の素顔は。嗚呼。
 パア子は大きく目を見開くと、小さな音を立てゝ息を吸ゐ込んだ。其の吸気が吐き出される事はついに無かつた。代わりに吹き出した大量の血が、周囲に霧のやうに飛び散つた。
 パア子は自失する私から手をもぎ離すと、浮揚外套を優雅な仕草で肩から外し、宙へと放り投げた。スロオモオシヨンのやうにゆつくりと落下してゆくパア子にエイプの群が殺到する。最後に見えたパア子の青白ゐ手も、ついにはエイプの群の中へと埋没してゐつた。
 何とゐふ、何とゐふ、何と。パア子。パア子。パア子。
 強ゐ衝撃を感じて我に返ると、先程のエイプが私の右肩に深々と爪を突き立てゝゐた。パア子を殺したエイプだ。生暖かな私の血が、私の身体を滴り落ちるのを感じる。
 ギイゝ。エイプが嘲るやうに笑つた気がした。
 私の視界が真つ赤に染まる。瞬間其のエイプが殆ど個体としての原形を留めぬほど激烈に、破裂するやうに四散する。私は手の中にある引きずり出したエイプの茶色ゐ心臓を握り潰した。
 「このざんこくなせかいに / あなたをひとりのこしていくことが / それだけがしんぱい」
 私の良く知つてゐるアイドルの歌がどこか遠くで聞こえたやうな気がした。其れはパア子の歌。
 「あいされたいから / あいするの」
 朧な月明かりの中、黒ゐ帯が羽虫のやうな音を立てゝ上昇して来るのが見えた。
 人間の感情を。人間の尊厳を。人間の瞋恚を。
 奴らに教えて遣る。
 私はエイプ達を傲然と見下ろすと、身を翻し其処へと突入した。
 魂消る咆吼が聞こえた。其れはエイプ達の上げたものなのかも知れなかつたし、或ひは私自身のものなのかも知れなかつた。
 あらゆる方向から無数のエイプが憎悪其のもののやうに私に向けて殺到する。最初の十数匹の集団が、同時に粉々に破裂した。
 一匹でも多く殺して遣る。
 ぴるゝ、ぴるゝ。突如胸のバツジが高らかに、最も間抜けなタイミングを見計らつたやうに、鳴つた。
 「やあ、聞こえるかい、リーダー。『鳥の男』こと、小鳥さんだ。君にまず初めましてを言っておこう。どうだい、圧倒的な力で他人を蹂躙するのは快感だろう? 君がいま戦っている猿どもは君自身が奇しくも看過したような死の象徴であり、私自身のトラウマの象徴であり、またコミュニケートの不可能な残酷な他人の象徴でもあり、こんな大仰な表現がお好みで無いならば満員電車でスポーツ新聞のポルノ記事越しにリポD臭い息を吐きかけてくるオッサンの象徴であるとも言えるだろうよ。いいかい、君はそれらに抗うことなんてできないのさ。君はそれらのすべてを諾々と、屠殺場へと引かれていく子牛のように静かにあきらめて受け入れるしかないんだ。そこにする君のアクションのすべてはもうなんというか、単なる自己満足的なポーズに過ぎない。ただ矮小な君自身をだけ納得させるための無駄なカロリーの消費であって、君を除くすべての場所、すなわち世界には何の痛痒も与えないんだ。現実を打ち破る理想なんてどこにも存在しないのさ。それでも君は」
 私は胸のバツジを握り潰した。
 世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか?  (トーマス・マン、『魔の山』)

十万ヒット御礼小鳥猊下基調講演

 「……いつまでそんな片隅でやくたいもない繰り言を続けるつもりですか。誰も、誰ひとりあなたのことなんて見ちゃいないし、あなたのことを少しでも重要だと思う人間なんていないんですよ。もしいるとしたらそれはあなたと同じレベルのつまらぬボウフラのごとき生き物が、他人の位置を常に追い求めることでしか自己の立つべき場所を見いだせない生き物が、優越を満たすためだけに気のないふうに出歯亀の陋劣さでわずかにのぞき見ているにすぎないんですよ。天才を持たないあなたたちの語る世界への絶望は、完全に個人的な妄言の範疇に収まってしまっており、いかなる普遍性をも持ち得ず、ただただどこまでも不快なんですよ。あれえっ。どうなってんだい。静まり返っちゃったよ。おい、今日の演説の草稿書いたの誰よ。榎木谷くん。聞かない名前だなぁ。そんなのうちにいたっけか。え、何、ネットで拾ったの。ぼくが。はいはい。あのナントカいうサイトの運営者ね。思い出したよ。へえ、君がそうなんだ。もっとおたくっぽい外見かと思ってたよ。あのね、殺して。うん、そう、殺すの。何度も言わせないでよ。ショットガンで原形をとどめない肉片になるくらいずたずたに、文字通り完膚無きまでに殺してよ。まったく、おおよそ一万ヒット程度のサイト運営者の浅知恵が考え出しそうな内容だよね、これ。本当のことを何のひねりもなくそのまま言ってどうすんのよ。その程度までの視力ならね、誰でも持ってんの。自分だけがわかったツラでことさらに強調してみせて馬ッ鹿みたい。自分の矮小な能力と偏狭な世界観いっぱいいっぱいのシロウト人間分析で悦に入ってんじゃないよ。君らみたいのはぼくなんかと違って人としての根本の器がまず決定的に小さいから、自分の知ってること全部吐き出さなくちゃ相手の興味をひき続けることをやってけないから、見せちゃ自分が危ないとこまで自分を見せなきゃいけないはめになって、結果として身を守る裏返しですべてに対して攻撃的にならざるを得なくなるのよ。こんなのに一瞬でも期待をかけた自分が馬鹿だったね。ムカつくよ。いいよ、いいよ。おれ今からアドリブでやるから。あ、殺すまえにそいつにも聞かせてやってよ。ここから先は無いと諦めていた無明の闇の果てへ自分の進むべき未来への方向性を見いだした瞬間に死ななければならない絶望と無念は、それはもう格別だろうからね。けけけっ。
 「……この世は残酷な場所です。神の視点においては人間もアメーバも区別が無い。ぼくたちはただ増え、そして空手で死ぬ。人の心は移ろう。 あなたは裏切られ、明日にはかれの中でまったく意味を失ってしまうでしょう。確かに永続するものは何ひとつとしてない。天上の愛もいつかは赤銅色に錆びつき、路傍にうち捨てられ、風化して朽ちることもままならず、その残骸を屈辱のうちにさらし続けるだろう。永遠に続くものがあるとすれば、それは朽ちた愛情の惨めさだ。愛される救済の瞬間はまたたきのうちに消え去り、やがて自己投影の幻想に気づいた象徴の両親たちは鼻をつまんで自らの失敗作から身を遠ざける。誰もあなたを本当に求めはしない。真実のあなたが認められるはずはない。だからあなたは誰にとっても都合のよいあなたをいつまでも演じ続ける。そうしてついには真実の自分と偽りの自分の落差に倦み疲れ、ひとり勝手な憎悪に身を焼いて、絶望も意味をなくす空虚さの中で完全に心を硬直させてしまう。無数の他人からの投影に道化師のように応え続けるあなたは、ついにはどれがあなただったのかすらわからなくなって、呆然と立ちつくしてしまう。この世は残酷な場所だ、でも。ぼくは安易な希望を語ることをしない。ぼくは希望を信じていない。それは人間が抱く自分以外の対象への身勝手さに他ならないからだ。けれど、この世が残酷な場所だと認識し、絶望に満ちていると確信し、その最悪の悲嘆の中でなおあらわれるかすかな”でも”という声に含まれた希望のひびきをぼくは信じる。すべてが様変わりし、あなたを見返らないそのときでさえ、ぼくはあなたの側にいる。心変わりした恋人がかつての両親のようにあなたを見捨てるそのときでさえ、ぼくはあなたを見捨てない。ぼくは決して変わらない。あなたがおそれるような、あなたを必要としないぼくにはならない。ぼくはいつでもあなたの醜悪さのすべてを受け止め、丸がかえする。あなたがわずかの時間でも傷ついた羽根を休め、また再び残酷な世界へと舞い戻って行くことができるように。ぼくはあなたの持つ虚しい現実の情報の蓄積ではなく、あなたの魂を愛している。ぼくには誰でもない、真実のあなたが必要なんだ。ただ時間を埋めるためだけのすべての意味の無い言葉の群れのうちで、ぼくがあなたに告げるこの言葉だけは本当だと信じて欲しい。”I need you.”(しわぶき一つないしんとした静寂が会場を満たす。やがて聞こえるかすかな嗚咽)
 「ってな具合さ。人間は壊れやすいよ。だから心のいちばん敏感なひだに触れるように、そっとやさしくやるんだ。やつらが心底そのように理解されたがっているカタチに理解してやるんだ。人間は誰も飢えた野良犬と同じなんだよ。やさしくのどの裏を掻いてやりさえすれば、簡単にだらしなくよだれまみれの舌を突きだしながらひっくり返って腹を見せてくる、下品で簡単な赤犬なのさ。コートでかたく身をよろっているように見えても、ちょいとやさしく暖めてやればストリップよろしくたちまちコートも何も脱ぎ捨ててすべてを投げ出してくる。ごたいそうな心の傷へポルノビデオよろしく官能的に舌を這わせてもらいたがってるんだよ。その手管を知っている人間なら誰でもいいんだ。ぼくじゃなくてもいいんだ。金を持っていさえすれば誰にでも股を開く商売女と同じさ。なんて博愛的な平等精神にあふれた、この上なくつまらない連中なんだろうねえ! 死んじゃえ。みんな死んじゃえ。みんな残らず死んじゃえ。
 「……うう、寒い。え。あ、そう。死んだの。破片はちゃんと全部かきあつめて肉ダンゴにして別荘のニシキゴイにやってよね。あれやるとさ、鱗の色彩の照りがずいぶん違ってくるんだよね。自然から出てきたものはちゃんと自然へと還元してやらないとね。これこそ大往生ってもんですよ。かれもあの世で喜んでるだろうね。涙流して地団太踏みながらね。けけけっ。それにしても、ハイヤーまだ来ないの。え。他のサイトの講演に全部出払ってる。気にくわないなぁ。え、百万ヒットの。ふぅん。ぼくを殺して。うん、そう、ぼくを殺すの。おい、目をそらすなよ。待てよ、どこ行こうってんだよ。離せ、チクショウ、触んな。おれの命令が聞けねえのかよ。殺せよ、早くおれを殺せよ。誰でもいい、誰かおれを殺してくれェェェェェ!

冬の別離

 「(冬の大気に渇いた唇の荒れとその下にある悪い歯並びを一本一本確認できるほどのリアルな描写で、演壇に木製の槌を気狂いの暴力性でガンガン打ちつけながら)カフェインを多量に含んだ琥珀色の液体を穀類から抽出する作業に”煎れる”と漢字を当てる自意識の持ち主は死刑!」
 「あっ。小鳥猊下が誰もいない傍聴席に向かって口角泡飛ばしているぞ」
 「なんて肥大した自我領域と自尊心の持ち主なのかしら。私の愛想もそろそろ尽き果てたわ」
 「(同心円状に渦を巻いた黒目で)女性器の内壁に男性器を密着させる作業に”挿入る”と漢字を当てる自意識の持ち主は死刑!」
 白い壁に四方を覆われた、光源の特定できない不安定な小部屋の隅に、あばらの浮くほど痩せた一人の男が膝を抱えて座りこんでいる。その顔に生気はなく、目はうつろで焦点を持たない。両手足の先は紫に変色しており、指先にいたっては茶色く腐りはじめている。
 男の上に人影が差す。
 「猊下…」
 「(わずかに眼球を動かす。ほとんど聞き取れないようなかすれた声で)……やぁ。真奈美、ちゃんじゃないか(頬の筋肉をわずかに痙攣させる)」
 「いったいどうしてしまったっていうの、猊下。(しゃがみこんで男の手を取る。蛆の浮いたそれに頬ずりしながら)ああ、なんてことでしょう! あの誰をもよせつけない、あなたの神々しいまでの邪悪な傲慢さはいったいどこへいってしまったの(むせび泣く)」
 「(唇を歪めて)そんなものは、最初からどこにもありはしなかったんだ」
 「(激しく首を左右に振って)嘘、嘘! じゃあ、わたしの見ていたものはなんだったっていうの。わたしの、何を捨ててもいいと思うまでに愛したあれはなんだっていうの」
 「(目だけで見上げて)幻想さ。君の中の、君にしか見えない、ね」
 「(悲鳴のように)言わないで! (弱く)…そんな残酷なこと、いまさら言わないで。わたしはもう引き返せないの。あなたがどう変わろうとわたしはあなたと心中するしか残されていないのよ」
 「(皮肉に笑って)そうやって君はいつもぼくを追いつめていくんだよな。もうそういうのはまっぴらなんだ。真奈美ちゃん、君がまだ少しでも、君自身の自己愛の裏返しのようではなく、本当にぼくのことを想い、愛してくれるところを持っているのなら、どうぞこのままぼくを放っておいてほしい。ぼくがいま一番求めているのは、誰からもかえりみられることのない解放される死のような放埒さだけなんだよ…(目を閉じる)」
 「(ぞっとする怨念とともに、強く)させないわ。そうやってわたしのすべてを奪っておきながら、わたしの世界を何の幻想も無い苦痛の場所へ無惨にも改変しておきながら、自分だけわたしをおいてまた一人の世界へ閉じていこうというの!(男の腕をつかむ)」
 「(わずらわしそうに振り払って)うるさいな」
 「お願い、もどってきて。(懇願するように両手をもみしぼり)ねえ、猊下、わたしはあなたじゃなくちゃダメなの」
 「(悲しそうに)それが嘘だっていうんだよ。もう遅い。どうやら追いつかれたみたいだ(周囲の大気がゆっくりと動き出す)」
 「きゃあッ! な、なに、これ…寒い。寒いよ、猊下。助けて、たすけ(両手で肩を抱いてガチガチと歯を鳴らしながら床へ倒れ込む)」
 「(憐れみをこめて)ここは現実と虚構の狭間の部屋なんだ。完全につくられた実存である君が長くいられる場所じゃないんだよ、真奈美ちゃん(様々の悪意に満ちた嘲りが自我を圧迫する奔流のように、無意識を陵辱する強姦魔のように、原色に渦巻きはじめる)」
 「(涙を浮かべ、震える唇から押し出すように)さむい、さむいよぅ……ねえ、わたし、死ぬの?」
 「(少女の頬に手を当てて)ごめんよ。でもこれは、――胸をつかれたように一瞬沈黙し――君の罪じゃない」
 「(首をわずかに持ち上げて)ねえ、猊下、わたし、生きたかったわ。春も、夏も、秋も、冬も、猊下といっしょにいようって。猊下がおじいさんになって、わたしがおばあさんになって、それまで猊下といっしょにいようって。猊下がわたしを見なくても、猊下がわたしを必要としなくても、それでも猊下といっしょにいようって……(力を無くして床に首を落とす)そう、決めてたのに」
 「(苦痛に眉を寄せて)ごめんよ」
 「猊下、死ぬまえにひとつだけわたしのお願いを聞いてほしいの。(涙にうるむ小動物の目でみつめて)わたしのこと、好きだと言って」
 男、少女の目を見返す。だが、口を引き結んだまま一言も発さない。間。
 「(理解を含んだ寂しそうな微笑みを浮かべ)さいごまで、まなみは、げいかを、こまらせてばかり…(少女の目に白く濁った膜がかかる。焼けた鉄板に水滴を落としたような音とともに少女の身体はかき消え、白い泡だけがその場に残される)」
 「(床に残された白い泡のかたまりを見つめたまま立ちつくす。そして振り返り)君たちが殺したんだ。これで満足だろう?」
 やがて男はすべてに興味を無くした瞳で再び元の位置へと座り込み、自分だけの王国にささやきかけるようにそっとつぶやく。
 「君が尻軽な売女なら、まだぼくは救われたのに。それって、愛じゃないか」

ホーリー遊児(1)

 ただ聞き手に何の感興も起こさせないことをだけ目的に作られたバックミュージックのためのバックミュージックが軽々しく流れる中、応接間を想定したのだろう、奇妙に生活感の欠如したセットの中央に男女が差し向かいに座っている。女性、カメラに対して深々とおじぎをする。
 「(正気を疑う顔面のサイズの倍ほどもの高さに結い上げた頭髪で)みなさん、こんにちは。”nWoの部屋”の時間がやってまいりました。ホステスをつとめさせて頂きます、破裏拳逆巻です。本日はゲストとしてゲーム作家のホーリー遊児さんをお招きしております」
 「(二十年前のトレンドを思わせる薄い茶系統のグラデーションがついた、明らかに度の入っていない伊達メガネで見た目泰然と)どうも。ご紹介にあずかりまして。ホーリー遊児です」
 「ホーリーさん、今日はお忙しい中、わざわざありがとうございます」
 「(苦笑しながら)いま”トラ喰え7”の最終の追い込みにかかってまして、本当に忙しいんですよ」
 「ここでご存じのない方のために、少しホーリーさんの経歴を紹介させていただきましょう。ホーリーさんは老人介護問題を題材に扱った有名RPGシリーズ”トランキライザー、喰え・喰え!”のシナリオをメインで担当されており、普段まったくゲームをすることのないような大人たちをも感動させるその巧みな語り口は、”ゲーム界のトラさんシリーズ”と高い評価を得ています。”トラ喰え”欲しさに殺人強盗を働いた中学生の事件はみなさん記憶に新しいところではないでしょうか。”トラ喰え無ければゲーム無し”という言葉があるそうなんですが、”トラ喰え1”の発売当時、まだほとんど正式な企業としてすら見られていなかったゲーム制作会社の地位を向上させ、認知度の低かったゲーム市場の裾野を飛躍的に拡大したというホーリーさんの業績は、もはや伝説と化していると言っても過言ではないでしょう」
 「(見せかけの謙遜で片手を振りながら)そんな大げさなものじゃないですけどね。”トラ喰え”の第一弾が発売されたのが、そうね、まだ昭和の頃だったんじゃないかしら。ファミコンが全盛の時代だね」
 「(手元の資料に目を通して)昭和61年5月27日となっていますね」
 「へえ、そんなになるのか。(膝の上で手を組んで目をつぶり)あれから十余年、思えば遠くに来たものだね。当時はずいぶんと週刊誌やらマスコミに叩かれたものだったけれど」
 「あまりにセンセーショナルな内容でしたから。(手元の台本を見ながら棒読みで)当時私はまだ小学生だったんですが、友人に借りてなにげなくはじめた”トラ喰え1”にわけもわからないまま強い衝撃を受けたのを覚えています」
 「いまでこそ億単位の制作費で動いている”トラ喰え”だけど、当時はまだ何の知名度も無かったからね、あちこちの銀行に頭下げて金を借りにまわったものさ。社長以下――といっても当時まだ小さな会社だったから、名ばかりのことだったけれどね――みんなして駆けずりまわってさ」
 「(わざとらしく驚いて)そんなことがあったんですか。いまでは到底考えられませんね」
 「(下手な節まわしで)そんな時代もあったねと。×○銀行の受付嬢に小銭を顔へ投げつけられたことや、□△銀行の支店長に罵倒されたこととかね、昨日のことのように鮮やかに思い出すことができるよ。(女性の裏声で)『いつまでもいられちゃ仕事の邪魔なんだよ。これでもくれてやるからとっとと出ていきやがれ、この物乞いどもが!』、(したたるような悪意を込めた声音で真似て)『学生のサークル遊びの延長みてえなクソやくざ商売にどこの誰が金出すと思ってんだ、アァ? 来るとこ間違ってんだよ。ゲームだと? 金が欲しけりゃ腎臓でも売りやがれ、この社会の最底辺のダニめらが』…(握りしめた拳を震わせて)あの頃の屈辱を忘れたことは無いね。そう、一瞬たりともね」
 「(困った顔でスタッフに助けを求める視線をやりながら)ええっと、それは何と言いますか、その、たいへん哀れな、その」
 「まァ、いまやあの連中もこぞってぼくのところに日参してくるがね。ぼくに幾ばくかの金を融資するためならケツ毛に付着した大便の欠片をも競って舐めとりたいといった様子でね。実際に今日は△×銀行の頭取にぼくの靴を舐めさせてきてやったよ。どうだい、顔が写るほどにピカピカだろう?(ガラス製のテーブルの上へ音高く右足を投げ出してみせる)」
 「(スタッフの指示で強引に話題を変えて)あの、長いシリーズですけど、私は”トラ喰え1”が一番面白くて好きなんですが、あの」
 「へえ、そうなの。天下の破裏拳逆巻さんにお褒めを頂けるとは光栄ですね(ちっともそう思ってないぞということを誇示するような殊更な鷹揚さでテーブルの上のジュースのグラスを取り上げてみせる)。これはシナリオ書きとしての興味から聞くんだけど、どんなところが一番印象に残ってますか?」
 「ああ、ええっと、それはその…(スタッフの差し出すボードの助け船を横目で確認して)それはやっぱりエンディングでしょう。確か、こんな感じでした。『仁科教授の脂肪質の生白い腹部にぱっくりと縦裂きに開いた裂傷から…』」
 「(ドサ回りの演歌歌手の執着で強引に後を引き取って)『…大量の血液が吹き出すのを和男は呆然と眺めた。女性器は縦に開いているのか横に開いているのかに毎夜煩悶する思春期の男子学生の迷いを具象化したようなその傷口は、圧倒的な男性性で無理矢理破瓜を迎えさせられた処女のそれのようでもあり、和男はそのあまりの非現実的な淫猥さに軽い眩暈を覚えた。今自分の眼前で一人の人間が死なんとしている。和男はどうすることもできない自分を痛いほどに、強姦の如く無理矢理に自覚させられた。無力感が、救ってやれるという傲慢な思い上がりを塗りつぶしていくのを絶望的な気持ちで眺めるしか、和男にはできなかった。噴出し続ける血液は、和男の真新しい白衣を次第に真っ赤へと染め上げた。和男はこの世で最愛の女の貞操が自分ではない男のペニスで奪われるのを想像する時のような、やるせない切なさを感じた。そうして、その切なさこそが、この世界にある絶望の正体だと知った』」
 「(鼻白んで)ええっと。あの、もしかしてご自分の書いたものをすべて覚えてらっしゃるんでしょうか」
 「(軽蔑した調子で、鼻で笑って)わからないだろうけど、これくらいは当たり前にできないとシナリオ書きはつとまらないんだよ」
 「(スタッフの差し出すボードに目をやって)あ~、(棒読みで)いま聞いてもすばらしいですね。十年経っても色あせないどころか、違う種類の感動を我々に与えてくれるなんて」
 「(一瞬だけ、ほんのわずかに小鼻を膨らませる)他の人はどうだか知らないけど、ぼくはシナリオを書くときクラシックを想定するんだ。ぼくのシナリオにはたとえ最初の印象は強くなくとも、年月に聞き減りしないそれらの音楽のような濃度を持たせるようにしたいといつも思っている。古くさいだとか時代錯誤だとか、的の外れた批判もたくさん耳にするが、それはぼくがシナリオに込めたこの崇高な精神を読みとることができていないんだね。白痴、そう白痴という言葉がぴったりくる愚かさだと思うよ。(ソファの背に片手を乗せ、尊大な態度で卓上のジュースを取り上げて)まァ、結局はぼくがはるかに時代を先取りしていたということなんだけどね。コペルニクスの例を挙げるまでもなく、すべからく先駆者というのは大局的な視点を持たない近視眼の大衆に、その先進性ゆえに忌避されるものだとわかってはいたのだけれどね。ようやく時代がぼくに追いついてきたという感じがするよ。十数年かけてのろのろとね。そうは思わないか、君(狂信的な、焦点のわずかに外れた目でのぞきこむ)」
 「(聞こえないふりで目をそらしつつ、いつも他の芸能人達に接しているときとは異なった明らかなやっつけ仕事のテンションの低さで)ホーリーさんはシナリオをお書きになるとき、どのようにして、その、インスピレーションを得られるのですか」
 「いい質問だね。いい質問だと思います。最近のゲームのシナリオを描いている若い連中にありがちなところなんだけど、アニメや漫画なんていう、それ自体がすでに二次的な文化であるものからほとんどそのまま受け取って、極端には固有名詞を変更したくらいのニュアンスでアウトプットして、これがシナリオでございとふんぞりかえっている。これはもう、お話にならないね。シナリオだけにね。そうは思わないかい、君(狂信的な、焦点のわずかに外れた目でのぞきこむ)」
 「(困惑した微笑で)ええっと、あの」
 「要するに言っちまえば、パクりだね。コピー文化のコピー、何度も使ったティーバッグにまた熱湯を注ぐみたいなものだ。まったく効果をあげないことに執着することのできる気狂いめいたその熱意だけは認めないこともないがね。これじゃ、ゲーム文化がいつまでも向上しないわけさ。別に老大家のやっかみや嫌味で言ってるんじゃないんだよ。ただ、(カメラを睨んで挑発的に)いつまでもぼくの一人勝ちじゃどうしようもないんじゃないの?」
 「(テーブルの下で小指のささくれを引っ張りながら)手厳しいお言葉です。それではその後輩達のためにホーリーさんのシナリオ作法を少々でも開帳願えませんでしょうか。これは本当に、(あくびを噛み殺しつつ)興味のあるところだと思います」
 「そうね。ぼくはやはり文学作品にインスピレーションを与えられることが多い。よく尋ねられるんだが、三島? ハ、いじましい国産の文学になんざ毛ほどの興味も感じないね。人間が人間として存在するためには不可避であるこの世の不条理たちとの対決という意味において真に政治的な世界の巨匠たちの作品は、ぼくにすばらしいアイディアを閃かせてくれる。各方面からの指摘がすでにあるように、ぼくのシナリオは確かにそれらへのオマージュの形をとることが多いと言えるかもしれない。最も顕著な例が、”トラ喰え4”だ。この頃は”嘔吐”にイカれていてね、主人公の猿捕佐助(さるとるさすけ)の妹である和子の過去が密教の予言者の秘儀によって回想される、物語上極めて重要な場面なんだが、この部分だ……(陶酔しきった表情でオペラ歌手のように朗々と)『牛の胸部より丹念に絞り出した白濁液をふんだんに使ったたっぷりとした肉汁の中には背筋のぞっとするような恐いくらいの太く長い肉詰と、馬鈴薯をしなやかな葉で包んだものが暗示的にプカリプカリと浮かんでいる。和子はおそるおそるフォオクの先端を、肉食獣の檻に手を差し入れるときのようなおびえようで、肉詰の表皮へと触れさせる。危うい均衡で辛うじて肉汁の表面に荒々しい全身の半面を見せていたその恐ろしい太く長い肉詰は、一旦肉汁の海へと沈み込むと一瞬間後、色合いの異なった反対の側面を和子の方へと回転させた。その動きは、肉詰の持つずっしりとした質量がさせたせいだろう、肉汁のうちのいくらかを和子へと跳ね上げた。牛の胸部より丹念に絞り出した白濁液をふんだんに使った、しかし馬鈴薯のせいだろうかわずかに黄味がかった液体は、和子の平板な顔面をねっとりと伝い落ちた。最初はその突然の熱さに驚くしかできなかった和子だったが、額を伝い、鼻を伝い、頬を伝い、唇へ流れ落ちる液体をおそるおそる長い舌で舐めとってみた。美味しい。和子は味蕾の全てを破廉恥にも開放させるその官能に思わず我を忘れた。和子は襟元からナプキンを引き抜くと、丸々とした太く長い馬鈴薯を鷲掴みにし、歪により太くなっている側の先端から上唇と下唇を押し割るようにして喰らいついた。その勢いに和子の口の中で縛ってあった肉詰の先端がほどけ、熱い汁がビュビュとほとばしった。見る者が見たならばそれは”貪欲”とでも名付けたくなる一枚の絵画のような光景だったろう! 熱さに喉の奥を焼かれながら、和子はふと馬鈴薯を包んだレタスがつるりと剥けるのを眼の端に捉えた。次の瞬間、肉詰が肉詰という名前ではなく肉詰そのものを表す実存のように、馬鈴薯が馬鈴薯という名前ではなく馬鈴薯そのものを表す実存のように、レタスがレタスという名前ではなくレタスそのものを表す実存のように、人間の意識という夾雑物による認識阻害を超えた現実感で和子の脳髄に溢れた。恐ろしい墜落感覚と崩壊感覚が和子の精神を余すところ無く蹂躙した。それは狂いだった。和子は肉詰を上唇と下唇の間に右手を添えてくわえたまま、残った左手で隣のテエブル席に座っていた客の頬を力任せに殴りつけた。それは狂気という名前をした完全な、生まれて初めて和子の感じる文字通り完全な自由であった。あまりの衝撃に折れた骨が皮膚から突きだしてしまっている左手を気にも留めたふうもなく、和子は突然カウンタアの向こう側に並ぶ高価な洋酒の瓶めがけてテエブルの上から水泳の選手がやるような要領で飛び込んだ。凄まじいガラスの破砕音と共に和子は立ち上がった。口腔にある肉詰はもう既に冷めてしまっており、中に包まれていた熱い汁も全て散逸してしまっていた。和子は嫌悪感に頬を漲らせ、かつて肉詰だった残骸を音高く吐き捨てた。和子はそこでふと首筋に違和感を感じた。手をやると、割れたバアボンの瓶の破片が深々と突き刺さっている。和子は何の躊躇もなく忌々しげに、冬のセエタアについた毛玉にやる無頓着さでそれを引き抜いた。瞬間、和子の首筋から驚くほど大量の鮮血が吹き出した。血流の勢いによろめいて仰向けにひっくり返りながら、和子は自分の知っている限りの猥褻な言辞を呪詛の言葉に混ぜて吐き散らしたのだった…』(空中に高く手を差し伸べたポーズで滂沱と涙を流す)」
 「(スタッフの一人に小突かれて目を覚ます)あ、あふ。(わけもわからず拍手して)素晴らしいです。素晴らしい。あの、お時間も差し迫って参りましたので、視聴者のみなさんもやきもきしていると思います、最新作である”トラ喰え7”について少しお話をうかがいたいのですが」
 「(途端に不機嫌にソファに身を投げ出すように座って)ぼくはたいへん怒っている」
 「(とまどって)は?」
 「(苛立ちを押し隠すように目を細めて)君は、旧弊社を知っているか」
 「あ、はい。大手の出版社…ですよね?」
 「大手かどうかは知らないが、そうだ。そこが発行している漫画雑誌に、”少年ザブン”というのがある。知っているか」
 「はぁ、まぁ、名前だけは。駅のキヨスクなんかでよく見かけますね」
 「連載されているどの漫画のストーリーもテーマもすべて同じ、ぼくなんかのシナリオとは本当にくらべるべくもない、ほとんど環境破壊に貢献するしか役目がないような、ポンチ絵をしか描くことのできない脳言語野に先天的疾患を持った連中を喰わせるためだけに存在する、言ってみれば社会福祉が主目的の三流誌なんだが、唯一の見所としてぼくの”トラ喰え”の紹介記事をずっと掲載しているんだね。1から最新作の7に至るまでずっとだ。宣伝としてザブンがまったく役に立たなかったというとそれは嘘になるが、今やこれだけ有名になり、会社も昔とは比べものにならないくらい大きくなってしまっているし、旧弊社から完全に引き上げて手下の出版部にすべて任せてもよかったんだよ。なぜそれをしなかったのかというと、独身時代に住んでいた風呂トイレ共同のボロアパートを、つい引き払うのを忘れていたようなものなのさ。それがこんなことになるとはね! まったく不愉快極まるよ(震える指でポケットから煙草をつまみ出そうとする)」
 「(感情が無いことを隠すための微笑で)あの、いまひとつお話が見えないのですが」
 「まったく君たちマスコミという人種は! こんな重大事を見ずによくのうのうと居座っておれるものだ!(片手で目を覆い天を仰ぐ)」
 「(時計を気にしながら)あの、お時間の方が。手短にお願いできますでしょうか」
 「ふん。他に競合相手がいなかったせいで偶然成立してしまった巨大媒体にふんぞりかえる、原始メディア風情めが。おまえたちにはゲーム業界の持つ比類無いかがやかしい進取性をほんのわずか理解することすらできまい。(突然火のように激しくテーブルを拳で殴りつけて)旧弊社めが! 他人の創造性に寄生することでかろうじてお目こぼしの人生を授かっていることにも気がつけない、最低の性病持ちの息子どもめが!」
 「(わけもわからず平服して)申し訳ありません、申し訳ありません」
 「やつらのやったことはぼくという破格のクリエイターに対するこれ以上は考えられない冒涜と言っていいだろう。”トラ喰え”は1,3,5の奇数シリーズにおいては男性器を、2,4,6の偶数シリーズにおいては女性器をテーマとした物語を展開してきた。今回の7では当然これまでのシリーズ構成を踏襲したもの、つまり男性器を物語の主体においたものとなるだろうと誰もが予想する。ぼくは受け手が当たり前のものとして訪れるだろう男性器をだらしなく口を開けて待ちかまえている弛緩しきったこの現状に一クリエイターとして我慢がならず、ある重大な決断に踏み切ったわけなんだが……(激しくテーブルをひっくり返す)旧弊社めが!」
 「(失禁して床を這いずりながら)ひいいッ! ごめんなさい、ごめんなさい」
 「ぼくはひとつの重大なポリシーとして、発売前のゲームのシナリオは例えそれが絶大な宣伝効果を持つとしても、極力内容を明らかにしないという態度をつらぬいてきた。旧弊社のやったことは、そのぼくの意志に対する裏切りであるし、何より人間の尊厳と信頼を手ひどく踏みにじる行為だと考えている。これはもうあの社会の最底辺のスノッブ共が明らかにしてしまったので仕方なく言うが、ぼくは”トラ喰え7”において周囲のしたり顔な期待を裏切って、男性器と女性器を同時に表現する矛盾を超克するやり方で臨もうとしていた。わかるかい、なんと両性具有をテーマに据えることにしていたんだよ! まさにこれは”トラ喰え”自身が作り上げてしまった一つのパラダイムの、抜本的な変革じゃないか。その、疲弊を見せ始めたゲーム業界全体にする至高の革命を、革命前夜のくだらぬ密告によって台無しにされてしまった気分だよ……(天を衝く怒髪がセットの天井を突き破る)旧弊社めが! (急に冷静に肩をすくめて)もっとも、旧弊社のやったことは”トラ喰え7”の与えるだろうほんの最初の衝撃を軽減するくらいの効果しか及ぼせていないのであって、”トラ喰え7”の持つ革命性そのものは少しも傷を与えられていないんだけれどね」
 「(腰を抜かしたまま両手の力だけで元の椅子の上へはい上がろうとしながら)そ、それは災難でした。災難。飼い犬に手をかまれたというわけなのですね」
 「まさにその通りだよ。人に危害を与える狂犬は、保健所で毒殺されるだろう? (危険なギラギラする目で)言っておくが、旧弊社もね、もう長くはないよ」
 「(スタッフに促されて)そろそろ時間も無くなって参りました。最後に一言、視聴者のみなさんにお願いできますでしょうか」
 「そうね。では、最新作”トラ喰え7”からの一節を引用することで一言に代えようか(立ち上がり、左手を胸に右手を中空へと差し伸べる)…『厳しく緊縛された亀頭はもはや男性器としての尊厳と能動性を喪失させられていた。尿道に爪楊枝を根本まで突き立てられ、それの引き起こす刺激に耐えかねて断続的にビクン、ビクンと痙攣する様はむしろ女性的であると表現しても過言ではなかったろう…』」
 「(あわててさえぎって)今日のお客様はゲーム作家のホーリー遊児さんでした。それでは来週のこの時間までご機嫌よう(びっくりするような大音量で番組のテーマ曲が流れ出す)」
 「(うっとりと陶酔した表情で)『わずかに顔をのぞかせた爪楊枝の握りの部分は、女性の乳首の如き受動的哀切を見る者に与えた。それは美と性のアンドロギュノスという形容さえ決して過分であるとは…』」

媾合陛下

 こう-ごう【媾合】性交。交接。交合。(広辞苑第四版)
 「媾合陛下ご懐妊の報を受けてセッティングされた今日の記者会見、いったいどうなるんだろう」
 「あの媾合陛下のことだ、何事もなく会見が終わるとは思えないな」
 「みなさま、たいへん長らくお待たせしました。媾合陛下がお着きになりました」
 「申し訳ありません。行きつけの産婦人科で膣内と子宮口の触診を行っていたのですが、薄紫色に靄のかかった陰部の穴を医者が探り当ててじょうごを差し込むのにずいぶんと時間がかかりまして」
 「さすがは媾合陛下、やんごとなき理由ですな」
 「それでは順に質問をお受けしたいと思います。なにぶんこのようなお身体ですし、万一のことがないとも限りません。みなさまがいつも相手にされるような、母親のへその緒で自慰を覚えてよちよち歩きをする前におしゃぶりを下の口でくわえこんで処女膜を裂いたようなあばずれ女優たちへするのと同じようにはなさらず、各人が理性を持った一個の責任ある人格として品位あるご質問をどうか願います。なお、途中で媾合陛下のご気分がすぐれなくなったりした場合、質問の途中であっても会見を中断することがありますのでご了承下さい。では、逢坂スポーツさんから」
 「まずはご懐妊、おめでとうございます」
 「どうもありがとう」
 「さて、今回の媾合陛下の妊娠は自然妊娠であったと報道されましたが、自然妊娠とはいったいどういう意味でしょうか」
 「いかがいたしますか、媾合陛下」
 「お答えします。つまり体外受精などの人工的な手段を取らず、卵子が排出される週に男性器を女性器内部へ招聘し膣内深部に精子を放出させる作業を数ヶ月にわたって定期的に執り行った結果妊娠に至ったということです。蛇足ながら付け加えるなら、ゴム製の精子受けなどは一切使用しませんでした」
 「媾合陛下は現在の夫と29歳で結婚なさってから数年の間、周囲の無言の期待にもかかわらず、ずっと妊娠なさらないままでした。このことについては様々の口さがない噂や怪情報が飛び交いましたが、真相のほどはいかがなのでしょう」
 「いかがいたしますか、媾合陛下」
 「お答えします。数年の間私が妊娠しなかったのは、私の側というよりもむしろ夫の側に責任の所在があったということをこの会見の席で公にしておきたいと思います。最初に断っておきますが、それは主婦の方々の井戸端会議で邪推するような夫の精が薄かった、つまり彼が精薄だったということでは残念ながらありません。私には現在の夫と結婚する以前、様々の週刊誌に書き立てられたように、定期的に性交を行う程度に親密なつきあいのある男性がいました。その男性とは大学在学中からになりますから、そうですね、十年ほど交際が続いておりましたでしょうか」
 「では現在の夫の妻となるはるか以前に媾合陛下は清い乙女ではなくなっていたということですか」
 「いかがいたしますか、媾合陛下」
 「お答えします。私の子宮口と外界を隔てる文化的な意味を付加されることの頻繁な不可逆の薄膜を屹立した男性器でもって内部方向へ引き裂いたのは確かにその男性です。男性と女性の交錯するときに生まれる快楽を教えてくれたのもまたその男性です。私はこのような過去の経歴から性に対する少なからぬ経験を持っていたのですが、夫は私と出会うまで女性と経験をまったく持っていませんでした。訂正しましょう。少なくとも現実の女性とは交渉を持っていませんでした」
 「それはいったいどういう意味でしょう、媾合陛下」
 「いかがしますか、媾合陛下」
 「お答えします。話が前後するとみなさまの混乱を招くと思います。順を追って話しましょう。私の意味するところもその過程で自然と理解されるかと思います。現在の夫と結婚してからの数年は、絶望的な苦闘の年月だったと表現することができるでしょう。はじめ夫はことに際して男性器をまともに屹立させることすらできなかったのです。それは屈辱的な事実でした。私の戦いは、まずその事実を受け止めることからはじまったのです。他の誰でもない自らの夫が、妻たる私の肉体を見ても欲情できないという冷酷な事実を受け止めることから」
 「しかしこのたびご懐妊に至ったのは、最終的に成功に性交したということの証左ではないかと思うのですが、どうでしょう」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。その通りです。私はまず手や口で夫の男性器に刺激を与えることから始めました」
 「待って下さい。それは尺八と解釈してよろしいのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。そのように考えられてよろしいと思います。以前の男性との関係から女性器以外の部位を使って男性に男性性を達成させる技術を文字通り身をもって修得しておりましたので、屹立しない男性器にその技術を流用するのは当然の流れでした。しかし以前の男性を大いに悦ばせたこれらのやり方も、現在の夫の男性器にはほとんど効果を持たず、挿入が可能なほど硬化させるには及びませんでした」
 「その段階で夫が不能者であるとは考えなかったのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。当然その可能性は真っ先に考慮しました。ですが夫は私との性交に失敗すると決まって漫画かアニメーションでもって手淫を行っていました。妻たる私の目の前でそれはもう本当に気持ち良さそうに口の端からよだれを垂らして手淫を行っていました。妻にとってこれほどの屈辱があるでしょうか。嫉妬の対象が現実に存在すらしないのです。ただの現実の肉である私がどうしてそれに対抗できましょうか。夫が手淫によって放出したものを指の腹にすくいとって膣壁に塗りつけたりもしてみましたが、結局私の身体には何の変化も起こらないままでした」
 「要約すると、あなたの現在の夫は平面的な媒体に描かれた女性にしか興奮できない特異な体質の持ち主であるというわけですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。現実にも性の対象はあったようですが、それはごくごく限られていました。現実のものとは思えないほど整った造作をした少女の裸体などがその例外に当たります。女性の女性性を切り売りする女性の助成で成立する商業ビデオを使っているのを見たこともあります。モニターを通じて二次元に変換するという行程が必要だったのかも知れません。そんなわけで私は妻として、女性としての満足を与えられないまま最初の二年間を過ごしました。水でもどる干し椎茸のような夫の代物を口に含んで湿しては吐き出し、吐き出しては含む虚しい作業を毎夜繰り返しながらです」
 「媾合陛下、もうその辺で」
 「続けます。決定的な転機が訪れたのはそう、一年ほど前のある晩のことでした。いつものように性交に成功しないまま夫が手淫を始めるのを私は麻痺した心でぼんやりと眺めていました。瞬間、私の中に天啓のような閃きが訪れました。考えるよりも先に私は動いていました。成人向けの漫画に鼻を埋めるようにして手淫に没頭する夫の生殖器を夫自身の手から奪うように口に含んだのです。するとみるみるうちに夫の生殖器は膨れ上がり硬度を増してゆきました。もっとも、その大きさについては私とおつきあいのあった以前の男性のものと比べるとエノキと松茸くらいの差があったのですが、それは関係ありませんのでおくとしましょう。夫は私へは一瞥もくれず、ただただ成人向けのしかし成人が一人も描かれていない漫画だけを食い入るように見つめながら、私の口腔内で果てました。これが夫が私との交わりにおいてした初めての射精でした」
 「媾合陛下、もうその辺で」
 「続けます。口腔内での射精を膣内での射精に置き換えるのはあっけないほど簡単でした。言ってみれば夫は私の生殖器を使って自慰をしているようなものです。最近は目にかけるバイザー状のモニターで成人向けのアニメーションを見ながら私の生殖器を使って自慰するのがお気に入りのようです。こうして、私たちの間の夫婦の問題は穏便な解決をみたのです。もっとも夫が雨に濡れた子犬のようにわずかに痙攣しただけで毎回果ててしまうので、夫が眠った後に私は自分で自分を慰めなければならなくなってしまったのですけれど」
 「媾合陛下、もうその辺で」
 「続けます。聞けば夫の家系にはこんなふうに現実の人間に興味を持てない人物が実際たくさんいたそうです。牛馬としか交わりたがらずに座敷牢に閉じこめられた女の話だってあるくらいです。現に夫の妹は商業ベースでない冊子に二次元の男性の肛門性愛を主なテーマとした作品を描き続けています。現実と隔離されたところで珍獣のように生かされている彼らにはそれも無理もないかも知れません。その性質が現代に固有の病巣と結びついたというだけの話だと私は思っています」
 「ときに媾合陛下はどのような母親になりたいと思われますか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。現代は母性の喪失した時代であると言うことができるでしょう。私は赤ン坊が腹を下したその始末を毛先ほどの躊躇もなく口と舌でするような、人間が集団を維持するために作り上げた方便であるところの矮小な知恵による社会規範に浸食されない獣の母性を持ちたいと思っています。同時に、カマキリの雌が交尾の最中に雄を頭から喰ってしまうような、親猫が生まれたばかりの目も開かない子猫たちのうちの特別に生きていくに不向きな虚弱なものを歯牙に捕らえて喰ってしまうような、そういった野生と人間の感覚を超越した不合理さを私の中に共存させなければならないと考えています。これが私の母親としての在り方です」
 「ときに媾合陛下は妊娠何ヶ月であられるのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。六ヶ月になります。もう少し早くお知らせするつもりだったのですけれど、母子にとって大切な時期を不特定の大衆という雑音にわずらわされたくなかったのです」
 「その割には媾合陛下の腹部に膨らみを感じないな。どういうことだろう」
 「媾合陛下、その口の端から垂れ下がっている血の付着したヒモ状のものはいったい何なのですか」
 「いかがいたしましょう、媾合陛下」
 「お答えします。これは昼間食べたうどんです。ただのうどんの切れ端に過ぎません。それ以外の何物でも、げぇぇッぷ」
 「媾合陛下のおみ足つたいに流れて床に水たまりを作っているその液体はいったい何なのですか」
 「いかがしましょうか、媾合陛下」
 「ああ、気分がすぐれません。どうやらお昼を食べ過ぎたみたいです。ちょっと横になりたい気分がします」
 「みなさま、ご気分がよろしくないようなのではじめに断りましたように、媾合陛下がご退場なされます。今日の会見についての記事は掲載の前段階に一度こちらの委員会を通して頂きます。どうか各社ご理解のほどを願います」
 「ああ、気分がすぐれません。どうやら調子にのってお昼を食べ過ぎたみたいです。なぜって思いもかけず三つ子、げぇぇッぷ」

弱い者たちの夕暮れ

 五感のすべてが麻痺してくるような、白だけで構成された建物の内部。長い廊下の消失点の奥へと消えていく無数のドアにそれぞれ掲げられた無機質なネームプレート。そのうちのひとつに『666号室 田痔痢 殺屠死』とある。突如部屋の中から廊下へと響きわたる魂消る絶叫。666号室では一人の男が数人の看護士に押さえつけられ、リノリウムの床に額をすりつけている。
 「田痔痢さん、今月に入って何度目だと思ってるんです。いい加減にして下さいよ」
 「(浅黒い顔で明らかに病的に落ち窪んだ眼窩から見上げてあえぐように)放せ、放せよッ! おれを誰だと思ってんだ! 田痔痢だぞ! ボケモンの、おまえたちのガキも見てるあのボケモンの、田痔痢殺屠死様だぞ! 自分が何やってるかわかってんだろうな! いつまでおれをこんなところに閉じこめておく気だ!」
 「(医師たちの間から突然ひょいと姿を現す崩れたスーツ姿の中年男)そりゃ、おまえ、この契約書にサインするまでや。ボケモンと、ボケモンに発生するすべての権利は懐妊堂に委譲しますいうてな。そんなことはとおの昔にわかっとんのやろ、センセ」
 「(激烈な薬品と薬品の反応を思わせる荒々しさで)宮友ォッ! キサマぁッッ! ハメやがったな! おれの才能を妬んで、ハメやがったんだ! どのツラ下げて現れやがったぁッッッ!」
 「(尖った革靴のつま先で無表情のまま男の横顔をしたたかに蹴りつける)あほ、みっともない。いきがるんやないわ。(両脇に立つ付き人が差し出す煙草をやくざにくわえ、火をつけさせる)ええ加減自分の立場をわきまえや。ここはあの漫画界の大御所T…も入っとったことのある由緒正しいキチガイ病棟やで。どんだけおまえが暴れたところで逃げられへんし、たとえ万々が一逃げおおせたところで、どこのまっとうな社会に生きる人間がヤク中のラリったうわごとを真面目に受けとめて聞いてくれる言うねん。どこに逃げたって結局またここに戻されるのがオチや。まだわかってないみたいやからはっきり言うたるけど、おまえはいままったく孤立無援なんやで。ホンマそろそろ潮時なんとちゃいまっか、センセ。のォ?(顔を近づけて煙草の煙を吹きかける)」
 「(眉をしかめ、口から床に血と歯の欠片を吐き出しながら)お、おれのボケモンはおまえらみたいな汚い商売人にだけは絶対に渡さねえ…絶対に渡さねえぞ!」
 「(無言で病室内に据えられているテレビに近寄るとリモコンを取り上げる)まったくセンセのおっしゃるとおり、ボケモンいうのんは大した商売ですわ。けどな、私らほどこのゲームの真価をわかっとるもんはおりゃしませんのやで。(宮友と呼ばれた男、テレビの電源を入れる)」
 「…では、ご覧いただきましょう。(テレビ画面に写ったテレビ画面にはカッターナイフを片手に持った、別段何の外見的特徴を持たないアニメの少年が写っている。カッターナイフの刃をチキチキと音を立てて出し入れしながら、『ピカ獣(ピカヂュウ)、君に決めた!』。叫ぶやいなや、気のおかしくなりそうな黄色い表皮をしたひとかかえもある巨大なドブネズミののどにカッターナイフの刃を走らせる。瞬間吹き出す大量の緑色をした血液。黄色い齧歯類は切られたのどを奇形なほどに短い手で掻きむしろうとしながら、エイリアンそっくりの断末魔の鳴き声を上げつつ、右へ左へ大地をのたうちまわる。やがて黄色い齧歯類は完全に動かなくなる。思いきや、齧歯類、切られた傷口も生々しく突然二足歩行で立ち上がり、何事もなかったかのように主人公に緑色の粘液の大量に付着した身体をすりよせる)…ごらんいただいたのが、小学生を中心にいま爆発的なブームを巻き起こしている人気ゲーム”ぼっけえ悶!スタア(訳:とてもいやらしい女アイドル)”、略して”ボケモン”を原作とするアニメーション作品です。この非常に執拗で残虐な描写が子どもの精神に悪影響を与えるとして、PTAと各教育界に波紋を呼んでいます。このゲームの販売元である懐妊堂は先日行われた記者会見で、『ボケモンがテーマとしているのは”生と再生”である。それはゲーム中にも最初に明確に述べられていることである。主人公の少年にカッターナイフを使われることで、登場する多種多様のモンスターたちは主人公と出会うまでに生きていた生をいったん終わらせ、』――ここでは抗議団体が指摘する”死”という表現は一切使われていません――『そうしてこれまでの生を終わることで新たに主人公と歩む第二の生を”再生”できるのである。この概念は作品そのものの根幹に関わる部分であり、これを覆すことは作品世界そのものの崩壊を招きかねない。それはまた、表現者が自由に表現をする権利への侵害でもあるだろう。我々懐妊堂はこの件に関してまったく譲歩の余地は無いと考えている』と述べており、あくまで強硬な姿勢を崩していません…(チャンネルが切り替わる。『ドブネズミみたいに美しくなりたい』で始まる曲をバックミュージックに、遺伝子レベルで問題を抱えていそうな婦女子がおそろしく内省的でないほとんど悲鳴のような声と風変わりに聞こえることをねらいすぎたためかえって単調なイントネーションで早口にまくしたてている)…え~、この愛らしいキャラクター、実はいま女子高生の間で大人気の”ピカ獣(ピカヂュウ)”のライバルとして作られたものなんだそうです! (レポーターの持つフリップが画面に大写しになる。そこには逆さまにした牛乳瓶に四枚の羽根をつけたような形状の灰色の物体を横抱きに抱えた、気のおかしくなりそうな黄色とひどくグロテスクで肉々しい赤が表皮をまだらにおおったドブネズミが描かれている)このキャラクター、名前は”ピカどん”と言いまして、ここ広島市では銘菓”原爆まんじゅう”以来のキラー商品となるのではないかと現地の人たちから早くも大きな期待が寄せられています…(テレビ消える)」
 「(宮友と呼ばれた男、スーツの懐から丸めた雑誌を取り出し)大したもんですわ。ほれ、これは今日発売された週刊誌や。見てみい(広げられたページには見開きで”清廉の都、京都に潜む汚濁!『どうして懐妊堂だけピカ税(非課税)なんでヂュウか?』”と書かれている)。もうこりゃちょっとゲームっちゅう範疇やあらへんわ。(男に背を向けて窓の外を眺め、声の調子をかえて)おまえの言いたいこともわかるけどな、サトシ、たとえおまえが創ったからゆうて、おまえが好き勝手してええようなレベルともうちゃうねや。わかるやろ。ボケモンの作者がこんな病院に入らなアカン人間やゆうのが世間様にバレてみい、ボケモンをよく思てないやつらに格好の糾弾の先鋒を与えることになるんやぞ。このままおまえのスキャンダルといっしょにボケモンをこの世から抹殺してしまいたいんか。はよ、おれに全部まかせてしまえや。悪いようにはせえへんて」
 「(先ほどまでとはうってかわって弱々しい様子でさめざめと泣きながら)なんでや…シゲやんはなんでも持ってるやないか。”毬藻兄弟”があるやないか。”ジェルだ!”があるやないか。これ以上ぼくから取り上げんとってえや。ぼくの、最初で最後の大切な宝物を取り上げんとってえや…」
 「(わずかに首を振って)ええか、サトシ。ゲームっちゅうのは他のメディア――例えば小説とかな――とは違うて、ある一人の才能に訪れた奇跡的な一瞬の瞬間最大風速的ひらめきが形になりにくいのや。クリエイターの創造性の前に企業への経済的保証が必要な世界やからな。それはゲームウォッチの昔やのうて、ゲームをつくるいうことが肥大化しすぎて、ひとつの作品を作り上げるのにあまりに多くの異なった才能と多くの機材、ひいてはそれらを作品が完成するまでのある程度の長期に渡って維持し続けるだけの莫大なカネが必要不可欠の前提になってしもたいうことなんや。ほれ、これがおまえが嫌てる商売人の理屈ゆうやつや。使たカネは最低でも使た分は回収されなアカンし、そうなってくると海のものとも山のものとも知れん企画には誰もカネを出したがらへんのは当たり前やな。そんな企画が当たることも可能性としてはまったく無いとは言わんが――今回のおまえのようにな。しかし5年もかけて一本のゲーム創る馬鹿がどこにおるねん。当たったからええようなものの、ゲームに同人はありえへんねんぞ。その一事だけでおまえはゲーム作家の資格を喪失してるわ――、宝くじの幸福を期待して多額のカネとマンパワーをただ浪費させてしまうに終わるかもしれない賭けを試みることは、経済効率を最優先する企業体にとってあまりにリスキーや。だから、すでに当たることを半ば約束された、何らかのヒット作品を世に送り出したことのある人間のアイデアにカネをつぎこむのが、一番冒険が少なくて効率がええとゆうことになる。その意味からして、空手の人間が自力でこの業界に切り込むのはほとんど不可能に近いし、逆にいったん成功してしもうたらその後は何か本当に致命的な失敗で放逐されるまで、経営者の考える経済効率をもっともソロバンの誤差なく達成してくれるコマとして使われ続けなければならんのや。逃げることもでけへん。立ち止まることもでけへん。いったん企業的信頼を勝ち得てしまった瞬間から、多くの人間の生活や人生をそのまま丸抱えに抱え込んで歩き続けなアカン、それがゲーム作家であるゆうことの業や。自分の創り出す作品に携わる人々の名付け親になって家族同様に、いや、それ以上の絆でかれらの生に対してずっと責任を負い続けていくいうことや。サトシ、なるほどおまえは一瞬のすばらしいひらめきで、どこが誰の地所かあらかじめすべて決まってしまった業界に切り込んで、自分の場所を得ることには確かに成功したかもしれん。でもな、それは終わりやのうて、永遠に続く次のステージのほんの始まりにすぎんかったっちゅうことや。おまえは企業からの期待と重責に堪えきれず、おまえのゲームを形にしてくれた人々への責任に耐えきれず、女に逃げ、酒に溺れ、しまいにはクスリにまで手ぇ出して、こんなどん底のどん底まで墜ちて墜ちて墜ちてきてもうた。しまいや、サトシ。おまえはとうていゲーム作家ではありえへん。おまえはおまえが手に入れる勝利の裏にあるものを知らないまま無邪気に夢を追いかけて、そうしてええ気分にしとったら、急に見たくない現実にぶつかってしもて、あわてて逃げ出したただの臆病者や。最初からゲーム作家になることの意味も知らず、覚悟もなく、おまえについてきてくれたみんなの信頼を手ひどく裏切ったんや。子どものように泣きじゃくることで裏切ったんや。どや、違うんか。なんか言うてみんかい」
 「(身も世もなく泣きじゃくりながら)そんなん、そんなつもりやなかったんや。ぼくはぼくの見たきれいなもんを子どもたちに、みんなに見せてあげたかっただけなんや。なんでみんなぼくのことを責めるんや。ぼくはこんなにがんばったやないか。なんでみんなもっと優しゅうしてくれへんねや…」
 「(哀れみを含んだ目で見下ろして)サトシ、おまえは地方の同人で童話でもやってたほうがなんぼか幸せやったろうな。おまえの不幸はゲームを選んでしまったことや。(目を厳しくして)だがそうなった以上、おれは容赦せえへん。知らんかったとは言わせへん。おれはおまえのようにならんために、おまえからボケモンを奪う。名付け親になりながらおまえが見捨てた人々の生活も、おまえが背負いかけてそのあまりの重さに怖くなって放り出したその人生たちもすべておれの背中に乗せてかれらを迷わせないために、おれはおまえからボケモンを奪う。おまえは他人におまえの持つ屋根裏の夢を共有させたいという子どものわがままのために何十人、何百人もの人生を狂わせておいて、なおボケモンは自分だけの持ち物やと主張するんか? ボケモンはまだおまえの上にあると言うんか?」
 「(真っ赤に泣きはらした目で見上げて)ぼく、ぼくは、ただシゲやんみたいになりたかったんや。シゲやんみたいな英雄になりたかった。だからゲームを選んだんや。でもアカンかったんやな。シゲやんみたいにはなられへんのやな。それやったらもう、ぼくはこの世界にいる意味はないねんな。シゲやん、ボケモンのこと、ぼくの大切な屋根裏の宝物のこと…(のどに言葉がつかえたように一瞬黙る)…よろしゅうたのみます。ぼくはもう、こんなん疲れた。疲れたわ…(力を失ってぐったりとなる)」
 「(後ろの付き人に小声で)今の録音したな? (向き直り)…わかった。あとはおれがみんなええようにしたる。だからサトシはゆっくり休めや。(もはや何も聞こえなくなったかのように目を閉じて動かない男にむかって何か声をかけようと口を開きかけるが、唇を引き結んできびすを返す。戸口に立っていた医師の肩に手を置き、その白衣のポケットに札束をすべりこませて)できるだけ、苦しまんようにしてやってください、先生(宮友、最後に一度病室内を振り返る。医師の一人が男の左腕に注射器をあてがおうとしている。顔をわずかに歪めるとそこから目をそらし、後ろ手にドアを閉める)」
 スモークシールドの車窓越しに外を眺める宮友。すでに暗い冬の大気には、うっすらと粉雪が舞いはじめている。
 「(十年も一度に老いてしまったかのような疲れた表情で独り言のように)…神様はどうして時々こんな残酷を人間の上になさるのやろうな。ボケモンという破格のゲームを受け入れるのに、サトシ、おまえの器はあんまり小さすぎたわ。おれはあと何年ここにいられるんかわからん。でもいまはまだこんなセンチに振り返るわけにはいかんのや。おれの振り捨ててきたものたちを、おれの殺してきたものたちをいまはまだ振り返るわけにはいかんのや。明日からおれはまたおれの戦場に戻る。サトシ、おまえはどうかゆっくりと休んでくれ…(流れる車のヘッドライトから顔を隠すようにサングラスをはめる)」
  「ひさしぶりに カントーへ
   きて ください!
   ずいぶん さまがわり したので
   おどろくと おもいますよ!
   ジョウトでは すがたを みせない
   ボケモンも たくさん います
          …… プロデューサー へ」

パパ ハズ ネバー トールドミー

『 題・お父さんの紙ぶくろ
                      A組 魔賭場痴性(まとばちせ)
    わたしのお父さんの仕事は、おたくをすることです。
    だからふつーのお父さんよりずっと家にいることが多いのです。
    でも出かけることもあります。それは「同人誌即売会」です。
    「同人誌即売会」は毎年たくさんあります。
    商業ベースの市場より「同人誌即売会」のほうが
    大きいんじゃないかと思えるくらいです。
    1人でるすばんをしている時
    わたしはお父さんが持って帰ってくる紙ぶくろの
    中身を想像してげんなりします。
    お父さんはいっぱい紙ぶくろを かかえて帰ってくるのに
    ろくなものが入っていません(間違いなく)。
    だから
    一つにまとめて大きくしてカンガルーのふくろみたいにすれば、
    わたしくらいははいることができるよと目を
    かがやかせてつめよるお父さんのことがわたしは
    ときどきとてもこわくなります。
    もし いつも紙ぶくろの中にいてお父さんの話してることを
    聞いていたら 気がおかしくなってしまうだろうなと思います。
    お父さんはみかけ通りのひどいおたくなんですよ。
    先生                                  』
 「(すべての引き出しが開けられ、下着や小物類の床に散乱した自室に飛び込んできて)あーっ。なに読んでるのよっ。ダメだよっっ」
 「(いかなる理由にか布地の厚くなっている下着の部分を鼻腔にあてがい、両足の出る穴から両目をのぞかせるやり方で娘のパンティをかむりながら)いいだろ。とかく早い段階に若い娘たちの処女性が喪われがちなこの日本社会においてそれを断固固持させるために父性の本来が持つ家族組織への検閲機構を執行しているだけに過ぎないんだよ。しかし如何なるの無意識下の精神の働きを象徴するものか、日々欲求不満な公立小学校女教員によって真っ赤なペンで大胆に描かれており、花弁と肉芯を若い男性の心へいたずらに想起させて早期に性犯罪へと誘う淫猥な風情のハナマルじゃないか」
 「(父の手から作文をとりかえそうとしながら)ダメなのぉっ。どこで見つけたの」
 「(むしゃぶりついてくる幼い娘のやわらかなふくらみを多く感じようと過剰に体を押しつけながら)おまえの持つ世の男たちを狂乱させる甘い部分を日々触れただけでも妊娠しそうな男たちの欲望に満ちた都会の大気より防護する布地の実際的な強度を鼻を突っ込むの言葉通りに、お父さんが自前の鼻で以て執拗の誹りを免れない入念さで幾度も幾度も実践的に試験していたところ、――この場合鼻はやはり皆様の期待通りチンポと解釈されねばなりますまいて――おまえの愛らしい両のふとももを日々通過させている想像するだに悩ましい二つ穴より通じて得た視界の隅に、目眩のするほど不埒な赤色をした鎮座ましますランドセル――ランドセルが古来なぜこれほどまでに数々の成人男子を魅了し、時にその莫大な時間の労働により築き上げた社会的地位を一瞬に放逐してまでの行動へと連れ去り続けてきたのかについては様々の研究があるが、それらのすべてを語るにはあまりに時間が足りない。よってそれらを般若心経の如く要約するならば、その箱形の形状は夢分析の語るように女性器を意味しており、その色合いは月の血と破瓜の血を同時に象徴しておるにもはや相違あるまいて――を捕らえたんだ。お父さんは辛抱たまらずそれにむしゃぶりつき、おまえ自身の女性器の具現とお父さんの生殖器の具現とが象徴的近親相姦ともはや誤解の無い強さでもって形容できる様子で接触を果たしたところの、『学級通信』にはさんであった」
 「(顔を真っ赤にして無意識の幼獣の媚びで身をくねらせつつ)これほんとのことじゃないのよ。作文用のフィクションですからね」
 「(ぎらぎらした目で下着をかむったまま明らかに商業用のものではあり得ない、著しい著作権の侵害を感じさせる類の性的ニュアンスにあふれた枕カバーに包まれた枕を小脇に大事そうにかかえて娘の部屋から退出しつつ)ほー、そうかね。やはりおたくの子はおたく、お父さんがすでに精通しているところの生理用ナプキンの使い方もわからぬ頭でもう虚構を語るのか。だが、おまえの虚構力は厳然たる日常へ新たな世界を現前させるほど強くはない――例えば大人の経済力やそれを傘に着た肉親の欲棒によって倫理の名の下に醸成されてきた家族構成員間の守られるべき聖域という虚構の破壊に物理的に対抗できるほどには。そしてお父さんは実の娘だからといって生まれた欲情を躊躇してしまえるような生半可な幼女趣味者ではない(突如突き上げる感情に耐えかねたように、ぎらぎらした目はそのままに振り返る)」
 「(一種異様な様子に気づいて後ずさりしながら)お父さぁーん(脱兎の如く駆け出す)」
 「(後ろから飛びついて腕を捕まえて)ちせ! どうしたんだい。どこに行くんだい、今ごろ。男の狩猟本能に強く訴え、いたずらにその欲望を促進させるためだけの、狩られるべく存在する幼獣の媚びを含んだ、助けを呼ぶには遠く及ばない甘い悲鳴を上げて。お父さんをこのようなまでに猛らせるなんて、おまえはおまえのキャラクターに通底するテーマとしてインセストを深く内包しているに違いあるまい(両手を広げて廊下の端へと追いつめていく)」
 「(逃げ出そうとしてならず、廊下の突き当たりの壁をむなしく爪でひっかきながら)せ、1960年代に青春を送った人は自分のファッションセンスを信じてはいけないって」
 「(奇妙な確信に満ちた断定で)ゆりこが言ったんだろ。1980年代に青春を送ったガンダム世代のお父さんはその限りではない。それを証拠に万年洗いさらさぬ同じジーンズという、比類無きファッションセンスだろう。相手に危害を与えることも、自分を守ることさえもできない幼い娘の人格を性的に蹂躙するのは、男親に与えられた無上の権利だと明記された民法の条項をお父さんは見た記憶がある(前傾姿勢でしきりと涎をぬぐいながら、じりじりと距離を狭める)」
 「(首を左右に激しくふりながら)で、でもちょっとヘンでも許してあげる。お父さんだから」
 「(娘を雲助のやる要領で肩に抱え上げながら)それはどーも。だが、お父さんは少しもヘンではない。なぜなら西洋文化の流入によって価値観の切断的明確化が行われ、曖昧さの完全に喪失した現代の日本社会においては性道徳もその例外ではないと言えるからだ。家族はかつてのようにはあることができずもはやバラバラに分断され、その構成員はそれぞれの役割をフィクションとして演じることでフィクションとしての疑似家族とも表現すべきヴァーチャルな集団を社会上に仮設するしか、もはや方法がない。それが構成員の誰にとっても心地よくないものであるにしても。そうして出来た形骸をかろうじて空中分解させないつながりとして保持できるのは、母と息子・父と娘といったような身の毛もよだつ近親相姦的接触がそこに存在するからだ」
 「(肩にかつがれたまま逃れようと手足をバタつかせながら)重くない? お父さん。重かったらそう言ってね、無理しなくていいからね。(顔を引き歪め、泣きじゃくりながら)私、平気だからね(父、娘を肩にかついだまま後ろ手に激しく部屋の扉を閉める。”ちせの部屋”と書かれた小さな木製の看板がむなしく揺れる)」
 ――時々
 私以外の男が娘の膣内に挿入しているんじゃないかと思う。そしてその不安はたぶん本当なのだ。父親に性的虐待を受けた娘が、実際自分の受けた行為は全然大したことなんかではなかったのだと自分に言い聞かせるために、最初のほとんど生きていけないような衝撃を隠蔽するために、成長してから幾人もの男に行きずりに身を任せることがある。それは濃い何かの溶液に水を足してどんどん薄めていくようなもので、最初の体験の彼女にとっての致死的な意味性を、かろうじて生きていける程度に希釈するために無意識裏に行われている。しかし、どれだけ薄めたところで、元の溶液が完全に無くなってしまうことは決してないのだ。
『(身をよじって必死に逃れようとしながら)重かったら無理しなくていいからね』

風の歌を聴け

 その日、鼠はひどく荒れていた。どうやらじめじめと鬱陶しい気候のせいばかりというわけでは、ないようだった。
 「もう一年が過ぎようとしているのに、二百? 二百だと? 街の売女だって一年ありゃ、これくらいの人間とは寝るだろうぜ!」
 鼠は苛立ちを隠そうともせず、力まかせに部屋の薄い壁を殴りつけた。
 薄暗い室内へ切り取られたように四角く浮かび上がるモニターには、便所の落書きとしか形容できない稚拙さで描かれた女が、こちらにむけて大きく股を開いている。肌色とは名ばかりの、のっぺりとした無機的な色で塗られたその女は、喪失した四肢のバランスから、奇妙な陋劣さを醸し出していた。
 女の絵は下手であればあるほど猥褻だ、と言ったのは誰だったろう。
 女の股間のちょうど中心部にピンクのひし形が、GIFアニメで形を変えながら、明滅を繰り返している。じっと見ていると平衡感覚が奪われ、奇妙に現実感の無い吐き気が襲ってくるような気がする。
 ぼくは自分のペニスが軽く勃起しているのに気がつき、眉をしかめた。
 「どいつもこいつもわかってねえ!」
 鼠が叫んだ。
 ぼくはマウスに手をのばし、ピンクのひし形をクリックした。”毒日記”と銘打たれた別のウィンドウがポップアップする。そこには不必要なまでの巨大なフォントで、『選挙に行かないヤツは死刑にするべきですよね!!!!!』と書かれていた。
 「最高にクールでデッドリーなサイトだってのによ!」
 デッドサイト以上の何者でもないガラクタを前に、鼠の声はほとんど悲鳴のようだった。
 ぼくは座っていた椅子をゆっくりと回転させ、鼠のほうへ向き直った。
 「ここで居心地の良さを感じることのできるような連中は、現実の現実らしく無さに飽いて、緻密かつ劇的に演出されたつくりごとの、ほとんど殴り合いめいた人間関係をこそ求めているんだ。これじゃ、無理もないさ。」
 ぼくは後ろ手に、モニターの表面を軽く小突いた。
 「真実であるかどうかは問題じゃない。ただ現実よりも現実らしい過剰な演技が必要なのさ。防御を考えず繰り出したこぶしの風圧に、裂けた玉袋から転がり出たてらてらと光る真っ赤な片玉へ、パラリと塩をまぶすような、想像するだに魂の一部が心底削り取られてしまうような、そんな人間関係をこそ、みんな見たいと思っているんだよ。」
 鼠の顔は、いまやほとんど紙のように蒼白だった。
 「誰もおまえの、商業的バックボーンという価値の証明を持たない、不思議と既視感を誘う創作や、完全におまえ自身の中だけに閉じた日々の繰り言に、時間を割きたいとは思わないのさ。リアリティのある、その一方で全く現実感の無い他者との関係性を、完璧に演出できなければ、それはもう、なんというか――失敗。」
 鼠は両手で顔を覆うと、悲痛なうめき声を上げた。
 「そんなことは、わかってるんだ。」
 丸めた鼠の背中が、細かくふるえていた。
 「わかってたけど、わかりたくなかったのに。それを、あんたは全部言葉にしちまうんだ。おれが薄々気づきながら目をそむけてきたことを言葉にして、あんたはおれをどこにも逃げられないようにするんだ。」
 鼠は、歯を食いしばって嗚咽を殺していた。
 鼠は、おたくだった。社会との深刻な関係性の断絶を周囲から、そして何より自分自身から隠蔽するために、投票日には殊更な大声で選挙についての攻撃的な発言をネットにアップロードするような種類の、重篤なおたくだった。
 「でも、さみしいじゃないかよ。あんまりさみしいじゃないかよ…。」
 ぼくも、以前は間違いなく鼠のようなおたくだった。自身の欠落した人間性の部分を完全に盲点の中に押し込めて、自分が何も見えていないことも見えないまま、幸福な無知に安住する哀れな一人のおたくだった。
 ぼくは、椅子を回転させると、再びモニターへと向き直った。
 キーを叩く音に、鼠が顔を上げた。鼠の目にはいま、かれがこれまで想像もしたこともないような、莫大な数字のカウンターが写っているはずだ。
 「あんた、まさか」
 「深夜ラジオの人気漫才コンビに、ハガキを書く要領でやるんだ。軽くて、無知で、非常識に。アナーキーで、けれど政治には一切ふれない。それがコツさ」
 肩越しに振り返り、ぼくは鼠にウインクした。

ラブレター

 「夏のはじめには必ず深刻な様子で『今年はセミが鳴かない…』などと自分だけのものに過ぎない絶望と閉塞感とトラウマを図々しくも世界に押しつける発言でちょっと意識のある繊細さを御開示なさってしたり顔のみなさま、コンバンワ~」
 「あっ。小鳥猊下がネットに特有の誰かに語りかけているようでその実どこにも対象の無い過激で挑発的な発言を繰り返しているぞ」
 「かれの内なる両親を間接的に攻撃しているのよ。心の奥底からいつも響いてくるあの恐ろしい声を聞かないように、本当は何の興味も無い空虚な言辞で毎日の時間を埋めざるを得ないんだわ。もしかして、まだ自分の言葉に何かの意味があると思っているのかしら」
 「(黒目をトーンで貼った茫然自失を表現する漫画的な記号の目で)フリーセックス! フリーセックス! 全国六千万の売女のみなさま、コンバンワ~」
 思い出せない悲しい夢に目が覚めたら、身体が子どもみたいに熱くなっていた。
 傷つけられた知恵は報復する。ぼくは醜く治癒した傷跡の起こすひきつれに、それと気がつかないまま幾度もつまづき転ぶ、哀れな小虫だ。それはぼくの盲点を巧みに突いてくる。どんなに気をつけたって、ぼくはやっぱりそこで転ぶんだ。ふと気がつくと、洗ったばかりのハンカチを気にくわず、小一時間も折り畳みなおしていた。どんな熱狂の瞬間にさえ、人生の貴重な時間を空費していると感じる自分がいる。誰かが眼鏡の位置を中指でキザっぽく直しながら無表情で言う。強迫観念。その誰かとは、もちろんぼくのことでもある。最近わかったけど、対象に共感できないとき、人は分析を始めるんだ。無数の分析屋たちの韜晦に、ぼくの心は気がつかないうちに、とても疲れていった。情報が受け手を選ばなくなり、ぼくは残らずこの世界の何でも知っているような気分で、知っているからもう何も知りたくなくなった。無気力と倦怠感だけが日々深まっていった。性の知識だけは豊富にある不潔で淫乱な処女のように、もはやどんな秘事でさえ、ぼくに何の関心も新鮮さも与えなくなった。ただすべての事象は平坦に、ぼくの心を波立たせることすらなく、通り過ぎていく。とても近いはずの人の死でさえ、ぼくには何の感興も与えることができなかった。ぼくの心には、喪失感が喪失している。だから今まで、どんなことにでも耐えられたのだろう。でもそれは、充たされたことがなかったから、喪失がいったいどんなものであるのかわからなかっただけなんだ。知らない人間にとっての知識は奇跡だ。そして、いまやぼくは何でも知っている。だから、ぼくの上には決してキリストがしたような奇跡も、救済も訪れないだろう。聖書の神は知ることを禁じるけれど、それはぼくがする訳知り顔の分析のような、両親が子どもに対して絶対の権威を維持するための寓話では実はなくて、多く知ることにより喪失してしまう人間存在の尊厳を保持するためだったのではないかといまになって思った。もう、すべて遅すぎるにしても、そこに気がつけたのは、よかった。
 キリストの魂は、完全な愛だったんじゃないだろうか。かれは、数千年の人類の自我の歴史の中にあって最初の――そして、おそらく最後の――どこにも傷のない全き魂の持ち主だったんじゃないか。あのとき、ぼくは自分の中にとても純粋な、悲しみにも似た切なさが生まれているのを突然知った。それはまるで、愛のようだった。こんな気持ちがずっと続くことができるのなら、世界そのものだって救うことができるだろう。発露した愛はその自然のように、間違うことなく人間存在へと向かうだろう。そして、すべてをあますところなく癒すだろう。
 キリストが、たったひとりでしたように。
 窓を開ければ、ほら、世界はこんなにも美しい。