猫を起こさないように
弱い者たちの夕暮れ
弱い者たちの夕暮れ

弱い者たちの夕暮れ

 五感のすべてが麻痺してくるような、白だけで構成された建物の内部。長い廊下の消失点の奥へと消えていく無数のドアにそれぞれ掲げられた無機質なネームプレート。そのうちのひとつに『666号室 田痔痢 殺屠死』とある。突如部屋の中から廊下へと響きわたる魂消る絶叫。666号室では一人の男が数人の看護士に押さえつけられ、リノリウムの床に額をすりつけている。
 「田痔痢さん、今月に入って何度目だと思ってるんです。いい加減にして下さいよ」
 「(浅黒い顔で明らかに病的に落ち窪んだ眼窩から見上げてあえぐように)放せ、放せよッ! おれを誰だと思ってんだ! 田痔痢だぞ! ボケモンの、おまえたちのガキも見てるあのボケモンの、田痔痢殺屠死様だぞ! 自分が何やってるかわかってんだろうな! いつまでおれをこんなところに閉じこめておく気だ!」
 「(医師たちの間から突然ひょいと姿を現す崩れたスーツ姿の中年男)そりゃ、おまえ、この契約書にサインするまでや。ボケモンと、ボケモンに発生するすべての権利は懐妊堂に委譲しますいうてな。そんなことはとおの昔にわかっとんのやろ、センセ」
 「(激烈な薬品と薬品の反応を思わせる荒々しさで)宮友ォッ! キサマぁッッ! ハメやがったな! おれの才能を妬んで、ハメやがったんだ! どのツラ下げて現れやがったぁッッッ!」
 「(尖った革靴のつま先で無表情のまま男の横顔をしたたかに蹴りつける)あほ、みっともない。いきがるんやないわ。(両脇に立つ付き人が差し出す煙草をやくざにくわえ、火をつけさせる)ええ加減自分の立場をわきまえや。ここはあの漫画界の大御所T…も入っとったことのある由緒正しいキチガイ病棟やで。どんだけおまえが暴れたところで逃げられへんし、たとえ万々が一逃げおおせたところで、どこのまっとうな社会に生きる人間がヤク中のラリったうわごとを真面目に受けとめて聞いてくれる言うねん。どこに逃げたって結局またここに戻されるのがオチや。まだわかってないみたいやからはっきり言うたるけど、おまえはいままったく孤立無援なんやで。ホンマそろそろ潮時なんとちゃいまっか、センセ。のォ?(顔を近づけて煙草の煙を吹きかける)」
 「(眉をしかめ、口から床に血と歯の欠片を吐き出しながら)お、おれのボケモンはおまえらみたいな汚い商売人にだけは絶対に渡さねえ…絶対に渡さねえぞ!」
 「(無言で病室内に据えられているテレビに近寄るとリモコンを取り上げる)まったくセンセのおっしゃるとおり、ボケモンいうのんは大した商売ですわ。けどな、私らほどこのゲームの真価をわかっとるもんはおりゃしませんのやで。(宮友と呼ばれた男、テレビの電源を入れる)」
 「…では、ご覧いただきましょう。(テレビ画面に写ったテレビ画面にはカッターナイフを片手に持った、別段何の外見的特徴を持たないアニメの少年が写っている。カッターナイフの刃をチキチキと音を立てて出し入れしながら、『ピカ獣(ピカヂュウ)、君に決めた!』。叫ぶやいなや、気のおかしくなりそうな黄色い表皮をしたひとかかえもある巨大なドブネズミののどにカッターナイフの刃を走らせる。瞬間吹き出す大量の緑色をした血液。黄色い齧歯類は切られたのどを奇形なほどに短い手で掻きむしろうとしながら、エイリアンそっくりの断末魔の鳴き声を上げつつ、右へ左へ大地をのたうちまわる。やがて黄色い齧歯類は完全に動かなくなる。思いきや、齧歯類、切られた傷口も生々しく突然二足歩行で立ち上がり、何事もなかったかのように主人公に緑色の粘液の大量に付着した身体をすりよせる)…ごらんいただいたのが、小学生を中心にいま爆発的なブームを巻き起こしている人気ゲーム”ぼっけえ悶!スタア(訳:とてもいやらしい女アイドル)”、略して”ボケモン”を原作とするアニメーション作品です。この非常に執拗で残虐な描写が子どもの精神に悪影響を与えるとして、PTAと各教育界に波紋を呼んでいます。このゲームの販売元である懐妊堂は先日行われた記者会見で、『ボケモンがテーマとしているのは”生と再生”である。それはゲーム中にも最初に明確に述べられていることである。主人公の少年にカッターナイフを使われることで、登場する多種多様のモンスターたちは主人公と出会うまでに生きていた生をいったん終わらせ、』――ここでは抗議団体が指摘する”死”という表現は一切使われていません――『そうしてこれまでの生を終わることで新たに主人公と歩む第二の生を”再生”できるのである。この概念は作品そのものの根幹に関わる部分であり、これを覆すことは作品世界そのものの崩壊を招きかねない。それはまた、表現者が自由に表現をする権利への侵害でもあるだろう。我々懐妊堂はこの件に関してまったく譲歩の余地は無いと考えている』と述べており、あくまで強硬な姿勢を崩していません…(チャンネルが切り替わる。『ドブネズミみたいに美しくなりたい』で始まる曲をバックミュージックに、遺伝子レベルで問題を抱えていそうな婦女子がおそろしく内省的でないほとんど悲鳴のような声と風変わりに聞こえることをねらいすぎたためかえって単調なイントネーションで早口にまくしたてている)…え~、この愛らしいキャラクター、実はいま女子高生の間で大人気の”ピカ獣(ピカヂュウ)”のライバルとして作られたものなんだそうです! (レポーターの持つフリップが画面に大写しになる。そこには逆さまにした牛乳瓶に四枚の羽根をつけたような形状の灰色の物体を横抱きに抱えた、気のおかしくなりそうな黄色とひどくグロテスクで肉々しい赤が表皮をまだらにおおったドブネズミが描かれている)このキャラクター、名前は”ピカどん”と言いまして、ここ広島市では銘菓”原爆まんじゅう”以来のキラー商品となるのではないかと現地の人たちから早くも大きな期待が寄せられています…(テレビ消える)」
 「(宮友と呼ばれた男、スーツの懐から丸めた雑誌を取り出し)大したもんですわ。ほれ、これは今日発売された週刊誌や。見てみい(広げられたページには見開きで”清廉の都、京都に潜む汚濁!『どうして懐妊堂だけピカ税(非課税)なんでヂュウか?』”と書かれている)。もうこりゃちょっとゲームっちゅう範疇やあらへんわ。(男に背を向けて窓の外を眺め、声の調子をかえて)おまえの言いたいこともわかるけどな、サトシ、たとえおまえが創ったからゆうて、おまえが好き勝手してええようなレベルともうちゃうねや。わかるやろ。ボケモンの作者がこんな病院に入らなアカン人間やゆうのが世間様にバレてみい、ボケモンをよく思てないやつらに格好の糾弾の先鋒を与えることになるんやぞ。このままおまえのスキャンダルといっしょにボケモンをこの世から抹殺してしまいたいんか。はよ、おれに全部まかせてしまえや。悪いようにはせえへんて」
 「(先ほどまでとはうってかわって弱々しい様子でさめざめと泣きながら)なんでや…シゲやんはなんでも持ってるやないか。”毬藻兄弟”があるやないか。”ジェルだ!”があるやないか。これ以上ぼくから取り上げんとってえや。ぼくの、最初で最後の大切な宝物を取り上げんとってえや…」
 「(わずかに首を振って)ええか、サトシ。ゲームっちゅうのは他のメディア――例えば小説とかな――とは違うて、ある一人の才能に訪れた奇跡的な一瞬の瞬間最大風速的ひらめきが形になりにくいのや。クリエイターの創造性の前に企業への経済的保証が必要な世界やからな。それはゲームウォッチの昔やのうて、ゲームをつくるいうことが肥大化しすぎて、ひとつの作品を作り上げるのにあまりに多くの異なった才能と多くの機材、ひいてはそれらを作品が完成するまでのある程度の長期に渡って維持し続けるだけの莫大なカネが必要不可欠の前提になってしもたいうことなんや。ほれ、これがおまえが嫌てる商売人の理屈ゆうやつや。使たカネは最低でも使た分は回収されなアカンし、そうなってくると海のものとも山のものとも知れん企画には誰もカネを出したがらへんのは当たり前やな。そんな企画が当たることも可能性としてはまったく無いとは言わんが――今回のおまえのようにな。しかし5年もかけて一本のゲーム創る馬鹿がどこにおるねん。当たったからええようなものの、ゲームに同人はありえへんねんぞ。その一事だけでおまえはゲーム作家の資格を喪失してるわ――、宝くじの幸福を期待して多額のカネとマンパワーをただ浪費させてしまうに終わるかもしれない賭けを試みることは、経済効率を最優先する企業体にとってあまりにリスキーや。だから、すでに当たることを半ば約束された、何らかのヒット作品を世に送り出したことのある人間のアイデアにカネをつぎこむのが、一番冒険が少なくて効率がええとゆうことになる。その意味からして、空手の人間が自力でこの業界に切り込むのはほとんど不可能に近いし、逆にいったん成功してしもうたらその後は何か本当に致命的な失敗で放逐されるまで、経営者の考える経済効率をもっともソロバンの誤差なく達成してくれるコマとして使われ続けなければならんのや。逃げることもでけへん。立ち止まることもでけへん。いったん企業的信頼を勝ち得てしまった瞬間から、多くの人間の生活や人生をそのまま丸抱えに抱え込んで歩き続けなアカン、それがゲーム作家であるゆうことの業や。自分の創り出す作品に携わる人々の名付け親になって家族同様に、いや、それ以上の絆でかれらの生に対してずっと責任を負い続けていくいうことや。サトシ、なるほどおまえは一瞬のすばらしいひらめきで、どこが誰の地所かあらかじめすべて決まってしまった業界に切り込んで、自分の場所を得ることには確かに成功したかもしれん。でもな、それは終わりやのうて、永遠に続く次のステージのほんの始まりにすぎんかったっちゅうことや。おまえは企業からの期待と重責に堪えきれず、おまえのゲームを形にしてくれた人々への責任に耐えきれず、女に逃げ、酒に溺れ、しまいにはクスリにまで手ぇ出して、こんなどん底のどん底まで墜ちて墜ちて墜ちてきてもうた。しまいや、サトシ。おまえはとうていゲーム作家ではありえへん。おまえはおまえが手に入れる勝利の裏にあるものを知らないまま無邪気に夢を追いかけて、そうしてええ気分にしとったら、急に見たくない現実にぶつかってしもて、あわてて逃げ出したただの臆病者や。最初からゲーム作家になることの意味も知らず、覚悟もなく、おまえについてきてくれたみんなの信頼を手ひどく裏切ったんや。子どものように泣きじゃくることで裏切ったんや。どや、違うんか。なんか言うてみんかい」
 「(身も世もなく泣きじゃくりながら)そんなん、そんなつもりやなかったんや。ぼくはぼくの見たきれいなもんを子どもたちに、みんなに見せてあげたかっただけなんや。なんでみんなぼくのことを責めるんや。ぼくはこんなにがんばったやないか。なんでみんなもっと優しゅうしてくれへんねや…」
 「(哀れみを含んだ目で見下ろして)サトシ、おまえは地方の同人で童話でもやってたほうがなんぼか幸せやったろうな。おまえの不幸はゲームを選んでしまったことや。(目を厳しくして)だがそうなった以上、おれは容赦せえへん。知らんかったとは言わせへん。おれはおまえのようにならんために、おまえからボケモンを奪う。名付け親になりながらおまえが見捨てた人々の生活も、おまえが背負いかけてそのあまりの重さに怖くなって放り出したその人生たちもすべておれの背中に乗せてかれらを迷わせないために、おれはおまえからボケモンを奪う。おまえは他人におまえの持つ屋根裏の夢を共有させたいという子どものわがままのために何十人、何百人もの人生を狂わせておいて、なおボケモンは自分だけの持ち物やと主張するんか? ボケモンはまだおまえの上にあると言うんか?」
 「(真っ赤に泣きはらした目で見上げて)ぼく、ぼくは、ただシゲやんみたいになりたかったんや。シゲやんみたいな英雄になりたかった。だからゲームを選んだんや。でもアカンかったんやな。シゲやんみたいにはなられへんのやな。それやったらもう、ぼくはこの世界にいる意味はないねんな。シゲやん、ボケモンのこと、ぼくの大切な屋根裏の宝物のこと…(のどに言葉がつかえたように一瞬黙る)…よろしゅうたのみます。ぼくはもう、こんなん疲れた。疲れたわ…(力を失ってぐったりとなる)」
 「(後ろの付き人に小声で)今の録音したな? (向き直り)…わかった。あとはおれがみんなええようにしたる。だからサトシはゆっくり休めや。(もはや何も聞こえなくなったかのように目を閉じて動かない男にむかって何か声をかけようと口を開きかけるが、唇を引き結んできびすを返す。戸口に立っていた医師の肩に手を置き、その白衣のポケットに札束をすべりこませて)できるだけ、苦しまんようにしてやってください、先生(宮友、最後に一度病室内を振り返る。医師の一人が男の左腕に注射器をあてがおうとしている。顔をわずかに歪めるとそこから目をそらし、後ろ手にドアを閉める)」
 スモークシールドの車窓越しに外を眺める宮友。すでに暗い冬の大気には、うっすらと粉雪が舞いはじめている。
 「(十年も一度に老いてしまったかのような疲れた表情で独り言のように)…神様はどうして時々こんな残酷を人間の上になさるのやろうな。ボケモンという破格のゲームを受け入れるのに、サトシ、おまえの器はあんまり小さすぎたわ。おれはあと何年ここにいられるんかわからん。でもいまはまだこんなセンチに振り返るわけにはいかんのや。おれの振り捨ててきたものたちを、おれの殺してきたものたちをいまはまだ振り返るわけにはいかんのや。明日からおれはまたおれの戦場に戻る。サトシ、おまえはどうかゆっくりと休んでくれ…(流れる車のヘッドライトから顔を隠すようにサングラスをはめる)」
  「ひさしぶりに カントーへ
   きて ください!
   ずいぶん さまがわり したので
   おどろくと おもいますよ!
   ジョウトでは すがたを みせない
   ボケモンも たくさん います
          …… プロデューサー へ」