猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

ゲーム「ヘブバン・Angel Beats!コラボ」感想

 ヘブバンの最新イベントを読む……というより、視聴する。コラボ先のアニメは知りませんでしたが、以前に指摘した「不老不死美少女フィギュアのマインドスプラッタ」は、このライターの性癖であることが確定しました。本編のほうは重要な設定を吐きつくして、今後の展開にはまったく期待できない袋小路のドン詰まりに来ていますが、やはりイベントにおけるギャグパートだけはハチャメチャにおもしろい。作者が関西出身ということもあり、くりだされるギャグとのシンクロ率は120%を優に越えて毎回を大笑いさせられてしまうのですが、この人物の書くシリアスパートがもうとことん肌にあわない。そのあわなさっぷりはシンクロ率ゼロを突き抜けてマイナスに突入するレベルで、今回のシリアスパートが長めの上、2部構成だったのには本当にまいりました。途中からもう画面を正視できなくて、ブラウザをゲームウィンドウーー容量の問題でPC版に移行済みーーにかぶせて「はよ終われ」と念じながらのネットサーフィン(古ッ!)を強いられる始末です。「高校生の想像する人生」や「大学生の思い描く家族」みたいな、社会人経験がまったくない人物の妄想に近いタワ言を一方的に聞かされていると、かつての泣きゲー人気の正味はじっさいこんなものだったのかという気分にさせられます。しかしながら、FGO第7章後半の感想で冗談みたいに書いた「2次元文化の成熟が生む新たなスピリチュアル」は、すでにヘブバンにおいて実現していることがわかりました。美少女動物園で語られる死生観によって成立したこの「美少女新興宗教」は、サイエンスフィクションへ中老年期の人生を仮託する「私小説ロボットアニメ」と同じ、人類の歴史に新しい展望を与える本邦でのみ可能な一大オタクタキュラー(なんじゃ、そりゃ)だと言えるでしょう。

 あと、今回のイベントを読んでつくづく考えさせられたのは、人生も半ばを過ぎるとだれしも「これ以降、もう決して手に入ることはないもの」が見えてきて、それらへの感情は「嫉妬」「執着」「無化」「諦念」のように様々な形で噴出するのだということです。そして、ヘブバンにおいて最も強く表出されている反応は、手に入らなかった対象の究極的な「美化」です。その「美化」の純度はあまりに高すぎて、例えば板垣恵介の作品において「母である以前に女である」が「女である以上に母である」へ反転する瞬間と同じように、ただの子どもに過ぎない少女を無垢無謬の天使の位置へまで称揚してしまっている。さらに言えば、FGOのシナリオ(onlyファンガス)が得意とする「醜いと断じられた存在から生じる美」や「砕かれた悪徳の残骸から惹起する善」の玄妙さと比べると、ヘブバンはあまりに無邪気に世界すべての真善美を「美少女の『個人的な体験』」へと還流させすぎており、「大人の責任」、もっと言えば「男性に課せられた義務」が微塵も、どこにも存在しないのです。しかしながら、この「小児的な無邪気さ」がギャグパートにおける「うんこちんちん」と同質の、狂笑を誘うセンスと骨がらみで表裏になっているのも事実で、これはじつに悩ましい点だと言えましょう。なんとなれば、私にとっての「いちばん好き」と「いちばんキライ」が一作品の中で同居するハメになってしまっているのですから!

 余談ながら、もしFGOとヘブバンに共通する志向性があると仮定するなら、それは「良い人間でありたい」という願いなのかもしれません。もう充分に古い引用になってしまいますが、無印銃夢に損壊した死体の写真、特に子どもの写真を撮りたくて戦場カメラマンになった男が少女を助けるため、銃を持った兵士の気を軽口で引いて近づいて、ついには射殺されてしまうという下りがあります。最近では、我々を駆動するのはこんな、「善への希求」のような強度を持たない、ほとんど突発的な「善への衝動」なのではないかと感じることがあります……オップス、ただのディスレスペクト・テキストなのに、あやうくいい話ふうなテイストでまとめそうになりました! ヘブバン、シラフのときはオヤジギャグでドッカンドッカン笑いをとる軽薄なイケオジなのに、アルコールが入ると激重トーンで反論も離席もゆるさない雰囲気を出しながら、「熱烈な恋愛の果て、愛するオンナと添い遂げるのが最良の人生」という単線の説教をオッぱじめるの、なんとかしてくれないかなー。それってさあ、ぜんぜんキャラクターの話じゃなくない?

雑文「PEOPLE‘S GENSHIN IMPACT(近況報告2023.2.21)」

2022年12月29日

 今年を振り返れば、原神から受けた衝撃は個人的な大事件であった。もちろん諸君の予想するとおり、窓がネジで閉まりきらず、隙間風のびょうびょう鳴るデジタル四畳半の向かいには、雷電将軍がプレステ5のつながれたブラウン管テレビをながめながら、つまらなさそうにコタツ蜜柑に興じておられる。しかも、草薙の稲光を携えた防御60%無視のご本尊であり、レベルは本体・武器ともに90へと到達し、なんとなれば聖遺物の厳選も軽く終わっているぐらいである。

2023年2月21日

 原神、冒険ランク56に到達。苦節2ヶ月をかけて育成した天賦オール10のパーフェクト雷電将軍がおっぱいの谷間から刀ーーおそらく、ウテナへのオマージューーを抜き出しながら、「稲光・イズ・永遠」とハスキーボイスで発声すると、世界ランク8のあらゆる敵が一瞬で蒸発するようになった。このゲーム、FGOなどの旧世代アプリに比べるとガチャがとてもよく考えられていて、天井が低い代わりとして育成をかなり重めに設定してあり、ガチャへ付随するポイントで育成に必要な各種リソースを交換できるようになっている。例えば、FGOのガチャはピックアップの星5以外すべてゴミが排出され、まさに「万札シュレッダー」としか形容のできない人類悪的ギャンブルであるのに対して、原神のそれは「ゲーム内のモノと時間を適正価格で購入させていただいている」ような印象さえ受ける。それこそ、「キャラは持ってるけど、育成のためのモラと素材が足りないからガチャで補充しよう」なんて引き方もできなくはなく、天井がアホみたく高いクセに育成は秒で終わるーーゆえにキャラへ愛着のわきにくいーーどこぞのFGOには新アプリを導入する際、ぜひこのバランスを見習ってほしいものだ。

 さて、「おっぱい、ぷるんぷるーん」以外のゲーム内近況報告ですが、重すぎる育成リソースをやりくりするため、モラと経験値本めあてに各地の探索度を上げたり、手つかずだったデートイベントを順に消化しているところです。初期に導入された軽い読み物と油断していたら、凝光の「私は幼少期に良い教育を受けられなかったから、貧しい子どもたちと関わることが彼らにとって教育になればと考えている。時が過ぎて私の肉体が消えたあとも、この名が良い統治を表す概念として彼らに引き継がれていけばと願う」という告白にふいをうたれ、号泣してしまいました。人間の世界と関わるのがイヤでイヤでオタクになったはずなのに、気がつけば人類の継続を願う言葉に共鳴している自分を不思議な気持ちでながめています。親を憎まない若いオタクたちがこうなのか、大陸の文化に底流する思想がこうなのかは判然としませんが、P’S REPUBLIC OF CHINAのことは嫌いになっても、GENSHIN IMPACTのことは嫌いにならないでください! 貴様ッ、中華アプリへの課金は銃やミサイルに姿を変えてオマエをいずれ殺しにくるぞ! 構わないッ、凝光様や雷電将軍への愛がオレの死だというなら、むしろ望むところだッ!

質問:実際、大陸文化とのかろうじて共感できる部分ってMOEしかないんじゃないかとか本気で思いますね
回答:まあ、チビで出ッ歯でメガネで首からカメラをさげた農協の我々も、同じ手法で世界を懐柔してきたわけですから、このカウンター文化侵略に異議を申し立てる権利などないわけで。さあ、ごいっしょに、「萌え、萌え、きゅん」!

映画「ブルージャイアント」感想

 小鳥猊下のキャラに合わないものは極力、言及を避けてきた十数年だったのですが、最近はその制約と誓約もだいぶ希薄になってきたーー現実ではルールを守っても、特に能力がカサ上げされないことが判明したためーーので、もうしゃべっちゃいますけど、漫画ブルージャイアントの大ファンなんですよねー(ジャズってスカしてて、nWoっぽくなくない?)。無印から始まって、シュプリーム、エクスプローラーと単行本はずっと発売日に買ってます。この作者の描くキャラクターたちは、昔の文芸時評ふうに言えば「ちゃんと人間が書けて」おり、読んでて腹が立ってこない(かなり重要)ので、とても好きなのです。ただ、人に薦めるにあたって注意しておくべき点があって、この漫画家の信条と申しましょうか、創作姿勢みたいなものを言葉にすれば、「偶然いま、この人物にカメラが向いているけれど、世界に主人公なんてものは存在しないし、だれにでもどんな不条理でも起こりうる。それが生きることの残酷さってものだ」とでもなるでしょうか。山岳救助隊のスーパー・ボランティアを描いた前作も、この考えに従って最後には主人公を二重遭難でキッチリ殺して終わらせている。

 この後味の悪い結末への非難ーーバッドエンドとわかっている長編を読みたくない層は一定数いるーーに懲りたのか、ブルージャイアントでは単行本の巻末に「有名ジャズプレイヤーとなった主人公を、過去の関係者が語る」挿話が毎回あり、「ダイ・ミヤモトは夢の途上でdieしませんよ、サクセス・ストーリーだから安心して読んでね」という目くばせをセーフティ・ネットとして用意している。なので、読者は今度こそ安心して読めると思うじゃないですか。いやいや、少しの内省で創作の信念が曲がるほど、売れているプロ作家の業は甘いものじゃありません。主人公を守られた安全圏へしぶしぶ退避させながら、本作において作者の牙は準主人公へと向かうことになります。無印ブルージャイアントの最終巻、大事なライブの前日にメンバーのピアニストが何の脈絡もなく大事故に巻きこまれ、右腕をグシャグシャに損傷させられてしまうのです! 工事現場の立ちんぼで誘導棒を振っている準主人公に、ページをめくったとたん見開きでダンプが突っ込んでくる絵は、あまりの唐突さに「コイツ、やりやがった!」と思わず爆笑してしまったほどでした。そして、どれだけ過去の巻を見直しても、この結末に至る伏線なんか微塵も出てきません。作者を問いつめたとして、「若くして大動脈解離で亡くなった有名人の死に、伏線があったか? これが世界の残酷な実相ってもんだ」としか返ってこないと想像できるあたりが徹底しています。

 無印ブルージャイアントの映画化と聞いてまっさきに思い浮かんだのが、ダイ・ミヤモトの海外雄飛のきっかけとなった、物語としては読者を絶頂からドン底に叩き落すーーじっさい、リアルタイムでは非難轟々だったーー作劇をどう再現するのか、またはしないのかという興味でした。んで、きょう見てきたんです。あまり大きくないハコだったのですが、若い原作ファンと年配のジャズファンが半々といった感じで埋まっていて、アニメ作品としては面白い客層でした。ラストの改変は、映画として収めるにはこれしかないというラインでしたが、あまりにフィクションの機能による称揚が強すぎて、石塚真一作品の本質からは少し浮いているような印象を持ちました。話題になっている演奏シーンの映像的なクオリティは、京アニの音楽モノなどで目の肥えたオタクには正直なところ、厳しいと言わざるをえません。上原ひろみのギャラが制作予算の大半を占めてしまったせいなのか、CGを含めたルックスは全体的に劇場版というより、テレビアニメのレベルです(録音は文句なしなので、円盤でのリテイクを期待)。

 「アニメ映画を見る」のではなく、「ジャズライブに参加する」意識で行った方が満足感は高まるーー前の席の老人は終盤、目をつむって横ゆれしていたーーと思いますが、夢を追う若者たちの青春を描く、最近ではめずらしくなってしまったストーリー展開は原作同様、やはり特筆すべき熱量に達しています。疲れた大人たちは、若いパッションが己の諦念を砕いてくれる瞬間をどこかで夢想しているし、子どもの純粋さが冷めた大人の打算に勝ってほしいと、いつも願っているのです。その意味で、ダイ・ミヤモトの狂気じみた情熱が本作を視聴する若い人々に感染し、この老いた世界の見かけに充満する「冷めたあきらめ」を吹きとばしてくれればと、半ば本気で期待しています。あと、「映画館で見るべき!」との感想を散見しましたが、「防音室とサラウンド再生環境の無い家庭は」を条件として追記しておきましょう。映像の一部は大画面に耐えるレベルじゃないし、ホラ、衰退期とはいえ全国民がウサギ小屋に住んでる貧民ってわけじゃないから……(無用の挑発、そして台無し)。

映画「ザ・メニュー」感想

 円盤でザ・メニューを見る。アニャ・テイラー・ジョイ目当てなので、内容なんざハナからどうだっていいっちゃいいんですが、とにかくヘンな映画でした。ミステリーかと思えばそうではなく、ホラーかと言えばそうでもなく、エル・ブジ的なるものへの批判かと問われればさらにそんなことはなく、正体のわからないまま、緊張感だけは100分を途切れることなく続いていきます。いっしょに見た人は「夢のような脈絡の無さ」と表現していましたが、それを志向したというよりは、役者のアドリブを許容するユルい物語フレームのせいで、結果としてそうなってしまった感じなのです。

 チョコ天冠とマシュマロ経帷子で、無抵抗のまま荼毘に付される気のくるったラストシーンを見終わってから、モヤモヤした気分を持てあまして監督の過去作を調べたら、サシャ・バロン・コーエン主演のアリ・Gがあるじゃないですか! そっかー、下ネタありの社会風刺ブラックユーモアとして見ればよかったのかー……って、そんなわけあるかーい! ともあれ、ザ・メニュー、商売女役のアニャたんがノースリーブ・ドレスでチラ見せするワキだけは、文句なしに最高でした(性的な消費)!

雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」

 原神の最新ストーリーを読む。ディシア編については演出の一部が破綻しており、定期的なバージョン更新の弊害を強く感じさせる仕上がりで、物語としてもビルドアップとその解決に雑な部分が見られました。いくらでも待てるーー探索しても探索しても、達成率100%にならないーーので、納期よりもブラッシュアップを優先してほしいと思います。その一方、魔神任務「カリベルト」は叙述トリックを交えた描写で原神世界の深奥に迫るばかりか、SF的なセンス・オブ・ワンダーにも満ちあふれていました。大胆に予想しておきますと、テイワットは2重地下世界の上部構造なんじゃないでしょうか。ナヒーダ編とあわせて考えると、もう1つ上に本当の世界があるーーいま冒険しているのは、ドラクエ3で言うところのアリアハンにすぎないーー3層構造になっているような気がします。

 このストーリーで語られているキャラの心情についても、ほとんど文学の域に到達していると言えるでしょう。我々がカタカナで無益さを揶揄するときのそれではなく、かつて帝国大学文学部が重々しく教授していたときの、大文字の「文学」です。nWoの更新において幾度もリフレインされてきた「醜い肉塊にすぎない私が愛されたいと願うとき、貴方は私を愛することができるのか?」という究極の問いに、「できる。それが我が子ならば」と親の立ち場から断言されてしまったことに、いまは少し愕然とさせられています。この問いは本来なら肉親に向けられるべきところを、肉親との関係性からそれがかなわず、他者へと向かうがゆえにいつも無効化されてしまう性質を持っており、例えば栗本薫を創始とする「やおい」作品群などは、なんとかしてこの無効化を乗り越えて他者へ届こうとする力学が、特定の人々にとって極めて切実な「文学」でした。ある種の悲鳴とも言えるその問いかけに対して、まっすぐ目をのぞきこみ、「まず、親との関係をちゃんと精算しろ。そうすれば、我が子がどんな存在であれ、おまえは抱きしめることができる」と、たかだかゲームぐらいに言われてしまったことへ、ある種の敗北感がこみあげてくるのです。

 さらに自分語りを続けるならば、かつて「虚構における美少女キャラの白痴性を消費することに、罪は無いのか?」と問いかけた小説を書いたことがありました。「見た目が愛らしく、性的な視線を許容してくれ、簡単にセックスできる」という男性の古い欲望を、2次元に投影する過程で希釈したのがエロゲーの美少女であり、泣きゲーにおいて「見た目が儚く、深く傷ついていて、簡単に依存してくる」へと変奏されたのち、現在の萌え絵へと遺伝子を継承されていく。おそらくは自己嫌悪から発した、このほとんど神学的な問いにさえ、原神はこちらの両肩へ手を置いて「罪は無い。一個の人間として描写されるならば」と断言した上でショウ・アンド・テルにまでおよんでくるのが、本当におそろしい。国家と世代の双方にまたがるゲームを通じたこの異文化体験のさなか、長く依怙地に保持してきたアイデンティティをキャンセルされる瞬間があり、油断しているとプレイ中にしばし茫然とさせられてしまいます。

 先日、タイムラインへ流れてきた大陸の「寝そべり族」に関する記事を読みました。興味深くはありましたが、場の衰退と個の加齢をオーバーラップさせて、本邦の精神性の正体である「寂滅」に訴えるのは、読者を獲得する戦略としては正しいのでしょうが、社会批評として早々に結論を出そうとするのはイージーに過ぎます。少なくともこれから20年を定点観測して、彼らが思想未満のそれを老いていく過程で成熟させ完遂できるのか、その行く末までを含めてこの記事は完成するような気がしました。原神になぞらえて言うなら、死をゼロとした衰えの時間軸に精神を「摩耗」させられない強靭さを、いったいどのくらいの数の魂が維持できるのでしょうか。個人的には、「最後の世代」を政治的に標榜する若者の内面などよりは、世界最大のアプリに携わる人々が抱く「もちろんゲーム制作に、社会を維持するための生産性なんてない。しかし、これこそが我々の存在理由であり、いまを生きる意味そのものだ」という熱量に進行形の時代を感じます。それに原神を愛好する若いファンたちは、熱を失うばかりの世代の諦念とは、離れた場所にいるように見えるのです。

 最近では、先に退場する者たちが「世界はどんどん悪くなっていく」と口に出すことの無責任さを、強く意識します。特攻隊員の生き残りがテレビの生放送に呼ばれ、司会者がなんとか戦後の若者たちへの批判を引き出そうとするのに、「彼らは教育も受け、私たちよりずっと賢い。きっと、世界は良い方向に進んでいくと思う」と答えたというあの逸話を思い出すのです。余談ながら、いまはなきマイナー球団のホームラン打者についてのドキュメンタリーを偶然に見てしまったのですが、全編にわたって昭和のイヤな部分が濃縮された内容で、あの時代に感じていた「生きづらさ」を生々しく追体験させられました。二度とあそこへ戻りたくないと心の底から言えることは、多少の行きつ戻りつはありながら、人類が総体としては良くなっていくことの証左であるようにも感じます。上の世代を憎む者たちの作り出した文化から、憎しみだけを取りのぞいた遺伝子が、異境の若者たちを通じて世界中へと伝播し受け継がれていくーーこの未来はもちろん、我々にとって愉快ではありませんが、それほど悪い顛末ではないような気がしてなりません。

雑文「新世紀エヴァンゲリオン二周忌に寄せて」

 追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」
 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

 シンエヴァの新作映像を見る。みなさん、「あれだけボロクソ言っといて、まだディスク買ってんの?」とあきれているでしょうけれど、否定派の真摯かつ丁寧なダメ出しに反省した監督が地球外少年少女のアニメーターに全権委任して、エヴァ破の続きを3時間くらい新作しているのではないかという一縷の望みを捨てきれなかったからです。しかしながら、かつての自分がどこかで書いたように、いつだって「希望とは絶望への準備動作にすぎ」ません。内容的にはエヴァQの前日譚で、ピンクタラコが訓練で懸垂をしていたら、過去に懸垂で死にかけた場面を思い出すみたいな、しょうもないプロットでした。ほんの10分ぐらいの映像なのですが、「人間ドラマに興味がなく、見たい絵だけをつなげたい」という監督の悪癖がギュッと詰まった怪作に仕上がっております。

 エヴァ初号機が地面から生えてきたり、父母兄弟を亡くしたばかりなのにモノローグが家出少女のそれーー親になったことがないからじゃねーの? おっと、作家は体験したことがなくても、ビビッドに描けるんだったね!ーーだったり、赤い煤が髪に触れたらなぜか眉毛ごと(たぶんアンダーヘアも)キレイなピンクに染まったり、倫理観は女性から男性に向けた暴力を許容する80年代のアニメだったり、短い中にもツッコミどころは満載です。きわめつけに、弐号機の戦闘シーンでは何のアイデアもない右腕一本のCG押し相撲を延々と見せられる。「ほんの短い時間を、映像の力で引きこむ」ことさえもはやできない、おそらくエヴァに関する最後の映像を、かつて大聖堂だったモノの瓦礫として悲しくながめました。

 まあ、ここまでは予想の範疇であり、金満家の初老オタクにとって円盤のはした金など、葬式への香典ぐらいにすぎません。一瞬、「やっぱり、原神への課金にすればよかったな……」とは思いましたが、じつのところ問題はここからです。この円盤には「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」なる書籍?を宣伝する紙きれが同封されており、本作の意義についてカラー関係者が総括するみたいな目次が書かれています。公開から2年間、だれかが「逆襲のシャア・友の会」みたいなのを、シンエヴァでやってくれないかウズウズしてたのに何の反応もないので、自作自演におよんだというのが真相でしょう。しかしながら紙片を見た瞬間、2年をかけてようやく鎮火したはずの激情が再び身内にカッと燃えあがるのを感じました。読むまでもなく、これはヒトラーの「我が闘争」と同じ性質の書物であり、スターリンやチャウシェスクやポル・ポトやプーチンの内閣に所属する者たちが議場で順に演台へ上げられ、独裁者が眼前でにらみをきかせる中で、「自由に」彼の政策の「正しさ」への批判を促されるという内容なのです。

 現代の本邦において史上最強レベルの独裁気質をもった人物が、アニメや特撮という「昭和のオモチャ」だけにご執心であることを、我々はむしろ喜ぶべきなのかもしれません。有権者のみなさん、間違ってもこの人物を国会に送ったりしたらダメですからね! 超絶プロパガンダ映像で、気がつけばたいへんな場所へ連れていかれることになりますよ! ともあれ、エヴァンゲリオンという大半の人間にとっては娯楽のひとつにすぎない映像作品への「歴史修正」に抵抗を示したい奇特な方々は、私の「:呪」をはじめとした多くのネット批判記事について検閲に先んじてプリントアウトし、それでも焚書が不安というならば石碑として文言を刻みこみ、後世へと真実を伝えていってほしいと思います。

 あと、今回の新作映像にアスカの「子ども! よくがんばった!」っていうセリフがあるんですけど、これを聞いてあらためて、テレビ版の第八話からエヴァ破に至るすべてのアスカは殺されたんだな、と思いました。

 シンエヴァ新作映像の戦闘シーンについて、「初代ウルトラマンのある回における怪獣ファイトを再現したもの」との情報をいただきました。ご指摘、ありがとうございます。だからなんだってんだよ! 小鳥猊下さんだってオタクのクセに、何もわかってないクセに! オタクだからどうだってえのよ! それが面白さにつながってないことが大問題なんだよ! 「気づいた人がクスッと楽しいスパイスとしての小ネタ」だから許せるのであって、ご飯茶碗にコショウをテンコ盛りに出されて、それをおいしくいただけるのかって話をしてんだよ! もうクシャミがとまらねーよ! 目もかゆいし、オマエは花粉症かよ! しゃくしゃくしゃく、えぷそーん! エヴァ序のときは「ポジトロンライフルの照準の動きがウルトラセブンだかの戦闘機と同じそれ」みたく、上品に隠されたオマージュだったじゃねえかよ! それを、シン・ウルトラマンに関わったせいだろうよ、ギンギンにポッキアッパした部位をもう隠そうともせず、画面中央で大胆にポロリさせやがって! アタシゆるさないからね、一生アンタをゆるさないからね! FGO7章前半の感想にもチョロっと書いたけど、上目づかいの哀願から大強姦まで一足とびできる節操と距離感の欠落がオタクの下品さの正体なんだよ! キミのそういうところ、キライ、キライ、大ッキライだなあ! しかも、「何のアイデアもない」って指摘だけは当たってんじゃねーか、キモチワルイ! ご教示、ありがとうございました。

雑文「テキストサイト・サーガ実績解除報告」

 シンエヴァの円盤発売に伴って2年前の「:呪」が掘り起こされ、ジワジワと閲覧数が増えているようです。新規フォロワーもチラホラ見かけるので、あらためて自己紹介をしておきましょう。ここは1999年1月に開設したテキストサイト「猫を起こさないように」ーーのちに「よい大人のnWo」へ改名ーーの分社であり、その管理人は詭弁タラコの「2ちゃんねる」より古くからインターネットの深海に生息している小鳥猊下です(例えの通り、現実に引き上げられると口から内臓を吐き出して死ぬ)。自分の中にあるオタク気質を嫌悪するあまり、人生の岐路は常にオタクから遠ざかる選択をし続け、現世に口を糊する裏でオタクへの怨嗟を表明する小説を3本書き、それでも内なるオタクを殺しきれず、いまはエヴァへの愛憎と中華アプリへの礼賛を垂れ流すばかりとなった「なれはて」でもあります。

 しかしながら、長くインターネットを続けていると、ときには望外のすばらしいことも起こります。(突然のドラムロール)このたび、なんと小島アジコ先生に萌え絵を寄贈していただきました! 私の中でテキストサイト時代のインターネットーー個人的な定義は、1999年1月から2000年12月までのワールドワイドウェブ空間ーーと強く印象が結びついている絵師が何人かおり、氏はまさにオレのレジェンド伝説の一人だと言えるでしょう。また、この萌え絵はnWoのトップ画像であると同時に、ある意図をもって作られた現代芸術でもあります。次に鑑賞の手順を示しますので、これに従ってください。

 『56kbps程度までの遅い回線を準備し、夜の11時以降に当該の画像が上部から30秒ほどをかけてジワーッと表示されるのを、貧乏ゆすりでマウスをカチカチ鳴らしながら閲覧する』

 あなたが創造的行為に加わることで、はじめてこの作品は完成するのです(背景に走るイナヅマ、「デュシャーン!」の擬音)!

 今回の寄贈によって、私が20年以上をプレイしているクソゲーであるところの「テキストサイト・サーガ」実績解除が、数年ぶりにまたひとつ進みました。生ウガニクには5年前に会ったし、あとは生ノボルとオフ会して天野大気さんにトップ絵を依頼したら、実績コンプでプラチナトロフィーをゲットだなー(左の目尻に瑠璃色の涙が盛りあがり、やがて頬を伝い落ちる)。

雑文「SHOWHEYとCHOMSKY、そしてDAISAKU(近況報告2023.3.16)」

 野球選手の顔面について言及するツイートが炎上した事件を、いまさらに知りました。頭に浮かんだことは2つあって、1つ目は親世代の道徳や倫理に対して冷笑ないし反発して、2ちゃんねるぐらいからの肉を離れた発信ーーパソコン通信のときは、まだ個人との地続き感があったーーに耽溺してきた者たちが、ほかならぬその肉の衰えによって肉の実在にからめとられてしまい、かつてあれだけ否定した昭和の価値観に同調(シンエヴァ問題!)してしまう滑稽さと哀しみです。ハンドルネーム、匿名掲示板、もしかするとポストペット、ついにはバ美肉へと至るネットの変遷とは、現世の肉を離れるための「化身」の変遷でもあったように思うのです。このいずれにも共通しているのは「自分ではありたくない」という切実な希求であり、小鳥猊下なる存在もその欲望に端を発していると言えるでしょう。

 2つ目はSNSに氾濫する言葉の群れのことで、以前「キュレーター不在の博物館の床に放置される真贋不明の美術品」とも表現しましたが、それらは自分の人生、もっと言えば己の肉とは直接に触れることのない「死者の小説」としてのみ、許容されうる性質のものだということです。一般人に発見され炎上した今回のツイートは、昭和の左巻きコメンテーターが生放送の討論番組で顔をさらして発言するときにだけ有効だった類の言説であり、そのラインを読み誤った理由が「化身」の内側にある肉の加齢に過ぎないという点は、ちょっと情けないくらいに凡庸な顛末だと言えます。

 個人的に最近おもしろかったのは、チャットAIの飛躍的な進化に生成文法がキャンセルされる危機感を覚えたノーム・チョムスキー(94)ーー「生きとったんかい、ワレェ!」ーーが公の場に現れて、人工知能を道徳の観点からクソミソにディスった件です。くしくもこれ、野球選手の顔面の話と同じで、旧世代をおびやかす新世代の台頭へ向けた批判は結局、いつの時代もどんな知能からも、道徳へと収斂するんだなあと考えさせられました。世代交代と聞くと「新旧の直接対決によって古い側がやぶれ、双方が納得した上で権威の禅譲が行われる」みたいなイメージを、特に少年漫画に過去を汚染された我々は抱きがちですが、身もフタもない言い方をすれば、古い価値観を持つ世代の引退か物理的な死によって何の意志も伴わず、突然そういう状態になるだけのことなのです。

 「早く辞めるか、死ぬかしねえかな」と思っていた人々がある日いなくなると、長らく場を拘束していた枠組み、イコール古い価値観はウソのように消滅するのですが、外殻を失った内容物はすぐに液状化して外へと流れ出していこうとします。上にもうだれもいなくなった人々は、その事実を前にホッとする間もなく、「これはヤバい!」と自らを枠組み化して流出をせき止めることで、なんとか組織の形を維持する。そして、いったん枠組みとなった個人は個人として扱われなくなり、おそらく物理的な終焉を迎えるまで、ただただ下からの批判と非難を一身に受け続ける装置と化すのです。今回のチョムスキー御大の発言を見て、長らく言語世界の枠組みだった生成文法は、ついに新たな枠組みの内側にたたえられる内容物へと移行したのだとの感慨を、強く持ちました。

 あとは、FGOヘブバン原神ブルアカの倫理観と宗教観をダイサク・イケダ(95)ーー「生きとるんかい、ワレェ!」ーーが公の場でクソミソにディスれば、昭和オタクの世代交代は完了しますね! 唐突に終わります。

映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」感想

 アバターたる小鳥猊下のキャラに合わないものは、できるだけ俎上にのせない月日だったのですが、ブルージャイアントが好きなことを白状しちゃったので、ピーター・ウォイトのブログを毎週チェックしてることも告白しておきます。「弦理論は虚妄であり、物理学の未来に一利もなし」との立ち場で論陣を張る物理学者なのですが、陰謀論を信じる者の盲目さで彼の記事をうやうやしく拝読しておる次第です。その熱心さは、「萌え絵をディスるやつはブチ転がす」でブイブイゆわせている元ウルティマ・オンライン・プレイヤーへ諸君が向ける傾倒ぐらい、重篤な域に達していると言えましょう。なんとなれば、「昭和の宿題は言われた通りにぜんぶやったが、客観的に考えて己の人生が存在しなくても、世界に大した違いは生じない」という文系人間にありがちな絶望未満の薄い諦念みたいなものを、世界最高峰の理系頭脳たちが「ストリングスの袋小路に迷いこんだせいで、我々は標準模型に50年なに一つ追加できていない!」という特濃の絶望として保持していることを教えてくれたからです。賢い人々が「美しくあれ、楽観的であれ」と天上の花畑で真理と遊んだあげくの失落を、醜く悲観的で頭の悪い者たちが地上から指さして笑えるのは、なんという下卑た快感なんでしょう! 「マルチバースや11次元などというのは全くの数学的妄想であり、我々はこの不完全な狭い場所でなんとかやっていくしかない」ことが確定しつつあるいま、プロパガンダとして使われたフィクション群に快楽を拡張されてしまった一般大衆が、もうそれなしでは物語ひとつ満足につむぐことさえできない(マーベル!)のは、じつに皮肉な結末です。

 長い前フリでしたが、そういうわけでエブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(長いが、電通のヤリサー陽キャが考案した例の略称は死んでも使いたくない)を見てきました。予告編の段階では、「面白そうではあるけど、円盤か配信まで待つんだろうなー」と思っていたのが、みいちゃんはあちゃんのみなさまと同じく怒涛のアカデミー賞7部門受賞に尻を蹴りあげられる形で、劇場へと足を運ぶハメになったわけです。結論から先にお伝えしておきますと、予告編で脳内に繰り広げられたワクワクがもっとも面白いような映画でした(アカデミー予告編賞って、ないんですかね?)。近年のアカデミー賞ってノーベル平和賞のように政治色が濃くなってきてて、映画作品の純粋な評価としてはまったく信用できないんですけど、本作に関しては、「LGBTへの偏見」「アジア人蔑視」「女性の軽視」などの問題へワンパッケージでまとめてメッセージを送れるスナック感覚の手軽さが、最大の受賞理由だと指摘できるでしょう。この狭い穴めがけて投げた球を通すことのできたプロデューサーと脚本家の勝利だとも言えますが、どちらかと言えば品性に欠けるバカ映画の部類なので、過去の受賞作が持つ格式と見あっている気はしません。これ、銀河ヒッチハイク・ガイドが作品賞もらったみたいなもんですよ。

 批評家ふうに言うならば、「この映画はMulti”verse”を手段として用いながら、結果としてMulti”birth”を否定し、人生の一回性、すなわち”All is once.”を高らかに肯定しているのだ」とでもなるのでしょうが、こんな定型文はチャットAIにでも書かせてればいいーーますますテキストサイト管理人の相対的な優位性が高まってきましたね!ーーですし、アメリカの底辺を生きるアジア人の生活に、まずもって名誉白人である我々からの共感など生まれようはずがありません。全体の印象をざっくりまとめれば、良くも悪くも「中華版マトリックス」でしかなく、マルチバースを舞台としているのにストーリーは一直線で、1時間半くらいまでは「起伏に乏しいアジア顔じゃ、画面が持たねーな!」などと、轟音とともに己の実存を棚上げした不平不満をたれていました。しかしながら、ミシェル・ヨーの旦那役であるジャッキー・チェンの”kind to others”な生き方を肯定するあたりから、「あなたが置かれた場所を尊びなさい」「血は水よりも濃いことに気づきなさい」という大陸道徳の通底音が流れはじめると、もう涙が止まらなくなってしまうのです。昔、ある知人が「テレビの前で水戸黄門を見て、涙を流している父親が情けなくてしょうがない」とこぼしていたのを思い出しましたが、結局のところ我々はどんなに気難しかろうと、人生を通じてそういった「生きることの当り前さ」を否定し続けるだけの強さは維持できないのかもしれません。

 ついつい手クセで良い話ふうに持っていこうとするのを台無しにしておくと、我々オタクにしてみれば言われている中身は同じでも、生々しいアジアン・フェイスよりは美しい原神・モデリングから発されたほうがずっと心に響くわけで、娘役の俳優が顔を歪めて涙を流す演技を見たとたん、心が冷めてしまうような人非人にとって、昨今の世間が求めてくる倫理観ーー性別も人種も美醜も意識しちゃダメ!ーーはハードルが高すぎます。「ネイティブ英語にイエスと返すしかなかったアジア人が、非ネイティブ英語でノーと答えることができた」ぐらいのスモール・チェンジに、これだけカネをかけたビッグ・カタストロフが伴ってくるのは、じつに現代の映画らしいなという気にはさせられました。それにしても、ファン・シーロンさん、よかったですね! ポリス・ストーリーの頃からの相棒とともに、ついに「名誉」のつかない本物のアカデミー賞を受賞できたなんて、この事実の方がよっぽどドラマチック……え、この俳優ってジャッキー・チェンじゃないの? マジで? 妙に声が甲高いなー、甲状腺の病気かなーとか思ってたら……やっぱ、アジア人の平たい顔はちっとも見分けがつかねーな!(ツカツカと壇上にあがってきたタキシード姿のアジア人に平手打ちされる)