猫を起こさないように
FGO
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ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOのぐだぐだ新邪馬台国を読み終わったけど、いやー、メチャクチャ面白いなー。あまりに面白かったので、ひさしぶりに大きめの課金をして、千利休を引いてしまいました。「各キャラクターにゆずれない自我と意志があり、ストーリーはその思惑の絡みあいで展開する」という創作の基本ーーシンエヴァとは大違いですね!ーーができており、緊張感のある台詞の応酬も端的なテキストでビシッと決まっている。ほんの短い、姿さえ見せない秀吉の描写にはゾクッとさせられたし、「観客視点からしかわからない敵の罠」という叙述によるカルデアの危機は、もしかすると第1部からここまでを通じて初めてじゃないでしょうか。物語の閉じ方にしても、ファンガスがFGOを通じて伝えようとしているメッセージを、深く理解した上でつむがれているのが伝わってくる。情感の部分もベシャベシャと水びたしになる前に、ダラダラとした余韻を廃してスパッと終わるのも、すごくいい。

 上質な読後感というのは、本を閉じた瞬間から読み手の心へとおのずから生じるもので、それをベラベラ言葉で誘導しようとするのは、書き手に自信のない証拠でしょう。あのね、登場人物のパーソナリティを把握できていないのと、「ファンガスと比較されてどう思われるか?」という恥をかきたくないばかりの自意識が、探り探りのライティングにつながっていて、ゴテゴテと無駄に華美な厚塗りテキストを際限なく増量させてるんですよ。もちろん、トラオムのことを言ってるんですけど、本当に心の底から大ッ嫌いなので、今後のガチャでヤンモリ(爬虫類)がすり抜けてこようものなら、すぐさまマナプリに変えると心に決めているぐらいです。いろいろと新邪馬台国の美点を上げましたが、やっぱりこれ、本業の漫画家としてのスキル特性によるところは大きいと思いますねー。第2部の商品価値を大幅に毀損した6.5章の、巨大数による茶化しではなく、正味で3億倍は優れた仕上がりになっています。有名なネットミームである「この利休に抹茶ラテを」にしても、6.5章の連中ならテキストの表面だけなぞって一瞬で面白さを蒸発させるところを、ギャグ漫画家らしくちゃんと話のオチに持ってきて、「わからなくても面白いが、わかればもっと面白い」につなげている。

 FGOにおけるファンガスって、スタジオジブリにおける宮崎駿みたいなもので、あの時代のエロゲー・オールドスクールの生き残りの中で、当時はどっこいどっこいだったのかもしれませんが、いまやひとりだけ圧倒的に地力がちがう存在になっている。世間一般における知名度で言うなら、まどマギの作者の方が高いでしょうけれど、創作を糧とする者たちは死んでも口にしない(できない)中で、ファンガスの一等地抜く存在をだれも暗黙のうちに了解しているように思います。え、面識もないくせに、なぜわかるんですか、だと? バカモノ! 批評の本質とは、当事者性から距離を保った想像力が現実を抽象化する道筋であり、もし当事者が見たままを書いたら、それはただのドキュメンタリーか内部告発になるだろうが! もっとも近年では、エス・エヌ・エスがすべての事象への「いっちょかみ」を可能にしており、あらゆる個人において当事者性からの距離が失われ、その事実をもって批評的な言説の成立を困難にしていると指摘できるだろう。なに、テキストによる批評の有効性を取り戻すにはどうしたらいいですかって? だれとも交わらず、なにとも接点を持たず、ただひとりの内側で言葉を発酵させること以外に方法はない。

 だいぶそれた話を元に戻すと、ぐだぐだの作者がFGOの中でこれだけ自由に動けて書けるのは、臣下たちが王の威光から離れて思考できないーージブリの雇われ監督たちと同じーーのとは異なった、「宮廷の道化師」ポジションにあるからかもしれません。第2部の残りはさすがにファンガスだけが書くーーほんともう、頼みますよ!ーーでしょうが、新アプリに移行しての第3部では、ぐだぐだの作者へ本編の一章を任せてみてはいかがでしょうか。さすがに6.5章のライターたちよりは、どれだけ悪い方向に転がっても、はるかにマシな仕事をすると思うんですよ。ビッグ・パトロンのひとりとして、心からお願いし申し上げます。

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

ゲーム「2021年のFGO」雑文集
ゲーム「FGO第2部6.5章」感想
雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 どこかで深く信頼していたものから、シンエヴァのごとく裏切られた傷心を癒すためにFGOを起動すると、なぜか聖晶石が1000個(時価総額6万円)ほどボックスに配布されていて、今度は自分の気がくるったのかと疑いました。7周年ピックアップを見て、「まーた、この顔かよ」なんて微苦笑しながらも、身内優遇で性能がいいことだけは間違いないので、300個分ぐらいガチャを回したら、運よく2枚を引けました。んで、種火をつっこんで再臨させてから、ようやく「これ、月姫のキャラじゃん!」と気がついた次第です。うーん、オルガマリーをアルクェイドで倒すみたいな展開は、昔ながらの型月?ファンにとっては嬉しいのかもしれませんが、エヴァンゲリオンマトリックスの最終作みたいに、作中の困難やテーマを「キャラで解決する」エンディングになってしまうのではないかと恐れています。時代時代の「人間」や「世界」といった抽象を語りきるのが文学の役割であって、FGOは現在までのところ、ファンガスの筆でのみという条件はありながら、その域に達していると思うのです。何度も言及していますが、キャラと文学を両立させて終わることのできたジュブナイルは近年においてランス10のみであり、これらの妄言もFGOがそれへと続くことを心から願うがゆえの老婆心だとお受け止めください。

 FGO、やはりファンガス千年王国の礎を築いた母たる存在だからだろう、7周年記念のマザー・ムーンキャンサー(中黒の位置に注意)の異様に優遇された性能が使うほどにわかってきた。さらに言えば、今後の第2部クライマックスに向けて、シナリオでの最恵鯖待遇(なんじゃそりゃ)も間違いないだろう。そんなわけで、宝具3&スキルMAXの状態から、ベター・コール・ソウルの2周目マラソンと並行してレベル120まで上げたーー参考として、AP半減+大成功率UPで青リンゴ130個くらいで到達ーーものの、今度は宝具の威力に不満が出てくる。このマザームー、おっとマザー・ムーンキャンサーは宝具レベルに比例して威力が上昇する仕様であり、気前よく1000個も石を配布しているように見せかけて、星5キャラを5枚引く期待値とだいたい同じ数が計算づくで、プレイヤーに手渡されているのである。さらに、マザームーン・キャンサーのガチャは夏イベ開催の直前でちょうど終わることになっていて、無料石でガチャの気持ちよさを思い出させると同時に課金への抵抗感を下げてから、3体の星5水着を投入するというユニファイなチャーチばりの奸計が、善意を見かけとした裏に張りめぐらされているのだ。就職アイスエイジ・エラを出自に持つ金髪美少女である実存は、貧困層の常として短絡的な消費に我慢がきかないため、「乗ろう、あなたのイービル・集金スキームに!」と高らかに叫びながら残った600個ほどの石をブン回して、マザームーンのガン細胞野郎を宝具5にしてやりました。

 あと、例のファミ通インタビューを読みましたけど、業界にまぎれこんだガチのファンから矢継ぎ早に投げかけられる第2部6章に関する質問へ、まさに快刀乱麻、すべて明快な即答を与えていくのは、さすがファンガスだと感心しました(まあ、取材後の校正で追記した可能性もありますが……)。そのやりとりを生温かい視線でながめながら、かつて栗本薫が「ファンタジー小説を書くなら、作品世界の隅々までを熟知してないとダメ。もし何か聞かれて即答できなくても、『次までに、現地の生物学者に聞いておきます』ぐらい言えなきゃ」みたいな話をしていたのを思い出した次第です。そして、「長くサービスを続けていくために、開発の方法を抜本的に見直した」という発言から、第2部終了をFGOのそれとしない(できない)気配がただよってきましたが、第3部は所持サーヴァントと育成状況のデータごと、「古臭く」ない新アプリへと引き継ぐことを大いに期待しております(2回目)。

質問:小鳥、シンエヴァ呪詛は面白かったのにfgoはエアプが漏れてんな
月姫リメイクなんてクソオタクは買ってないのでアルクェイドは古参が騒いで回してるから回しとこ!のクソ短絡的なゴミですよ バカじゃなかったら温存してるか徐福引いてる
回答:いいですね、じつにいい! 最近のネットって凪いだ水面に清らかな水質って感じで、古参の泥魚にとっては棲みにくさに窒息しそうな場所ですが、湖底の泥の下には昔ながらのエゲツないクリーチャーどもが、まだまだ元気に生き残っているのですね! こういうこじらせたファンが現存してるのって、さすが30年を長らえた同人IPだなーって気持ちにさせられました(まさか、「ブドウ酸っぱい」じゃないよね?)。エヴァのことなら人後に落ちる気はまったくしませんが、月姫についてはリメイク(オリジナルは未プレイ)のアルク・ルートだけ、かろうじてクリアして投げてしまった程度の、文字通りの「エアプ野郎」ですからね! ぶっちゃけ本丸のFGOにしたところで、萎えていく気持ちをおもしろテキストで自家発電して盛りあげて、第2部の終わりを見届けるために、離れていく心を無理矢理つなぎとめるだけになってきているのです。ともあれ、テキストに残されたほんのわずかな瑕疵から、サトリの化物のようにニュウビイのエアプを見抜いてウザがらみする古参とは、あらゆる創作物のファンがやがてたどりつく、異形の終末なのかもしれません(エヴァ呪を読み返しながら)。

 配布石1000個でアルクェイドを宝具5にしたことはご存じのことと思いますが、話題のレディ・アヴァロンもなぜかちょこちょこ配布される石の無償11連1回だけで手に入ってしまいました。最後にFGOへ課金したのがいつだったか忘れるほど課金してないので、そろそろ課金したかったのになーと残念に思っている自分がいて、それを不思議な気持ちでながめております。まあ、残り2体の星5水着の性能に期待しましょう。型月ガチ勢の皆様にエアプの感想を漏らしますと、レディ・アヴァロンは劣化マーリンといった手触りで、宝具を重ねる意味もあまりなく、マザームーンとはちがって追い課金の魅力に乏しいキャラですね。ただ、顔がいい。顔だけは、すごくいい。なので、NP100礼装をつけた浴衣道満とアルクェイドで周回する際、レースクイーンとしてカタワらに立たせております。2騎3ターンでバトルは終わるので、レベル10にしたスキル群に指を触れてさえやりません。タイムラインによく流れてくる「ひとりだけ腕立て伏せをさせてもらえない」漫画のように、レディ・アヴァロンを精神的に痛めつけるのはゾクゾクします。

 いやー、それにしてもアルクェイドをレベル120宝具5にしたのは大正解でした! こういう大きな決断を躊躇なく下せるのは、まがりなりにもマネジメントを経験し、自由にできるカネがある大人の特権ですね! ムーンキャンサーの「ほぼ全クラスに等倍」という特性は、言い換えれば「弱点がない」ということですからね! さらに再臨2はバニヤンばりの高速宝具なので、イベント周回もストレスフリーです! 「充分に強化したアルクェイドは、全体宝具バーサーカーと見分けがつかない」というアーサー・C・クラーク御大の名言を引用することで、ニュウビイからパイセンへの反論に代えておきましょう。(熊フェイスで)宝具1か2のみんな、いまどんな気持ち? ねえねえ、どんな気持ち? (女児フェイスで)宝具3とか4でビビッちゃうなんて、ざこ、ざぁーこ! 上手にお願いできれば、(視線をそらし、頬を赤らめ、鼻の下を指でこすりながら)フレンドになってやってもいいんだぜ……?

 ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOの新イベント、開始5行でだれが書いたかわかり、ゲンナリして読む気をなくさせるって、逆にすごくないですか? スタートアップの黎明期に創業メンバーとしてまぎれこんだミソっかすが、大企業へと躍進したあとの重厚な広報誌に嬉々としてポンチ絵の4コマ漫画を寄せている感じ。きっとハイテンションで早口の、アゲアゲアッパーな女性なんでしょうねー。「そういえば、小鳥猊下がほめていたな」とFGOをいまさら始めただれかが、今回のイベントから読みだしたとするなら、恥ずかしさのあまり首を吊るレベルです。それに、今回の新キャラにせよ、ジャック・ド・モレーにせよ、書き手の力量に対して豪華すぎるメンツ(ポプテピピックじゃないんだから!)で、あまりにもったいない使い方だと思います。本編での活躍予定がないなら、早くファンガス再生工場に回さないと、ヨゴレが落ちなくなっちゃいますよ!

『生きるということは、
 即ち濁るということ。』

これぞ、茸再生工場の面目躍如となるフレーズ。 けれどトラオムは、「濁り」どころか「腐れ」。

雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。

 あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!

 それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。

ゲーム「FGO水妖クライシス」感想

 FGO、水妖イベントクリア。もはや第2部の結末を見届けるためだけに惰性のログイン(連続2,419日目)を続け、イベントテキストの9割が読む価値の無い中身だと半ばあきらめつつも、時折やってくるこの唯一無二のスペシャルがあるから、FGOはやめられない。水辺で行われるオールスター集合の当イベント、おそらくは今夏に配信予定だったものを、結末部に大幅な加筆を行った上で、前倒しで実装されたのではないかと推測する。なぜか? それは、時代の要請によって望まぬまま英雄に祭り上げられた個人が、その事実によって多くの無辜の民を長く苦しめ、無意味に死なせたのではないかと苦悩する物語だからだ。この英霊をいつ取り上げようと決めたのかは、知らない。しかし、「いま、ここ」で配信されることによって、受け手はテキストに記述された以上の内容を読みとることだろう。

 エイジャンたちの死はどこまで重なろうともピンと来ないが、コーケイジャンの死は一個一個が己が身内であるかのように胸を痛ませる。これは、ウマ娘による擬人化で競馬というドラマをはじめて理解したオタクたちと同じレベルの話で、結局のところ、人は同族にしか共感を寄せることができないのだ。差別の本質が共感の欠如だと仮定すれば、単純にいかような見た目を持つかの話へと帰着し、それは敵味方を識別する我々の動物に根ざしているため、どうにも完全には抜き去ることが難しい。もちろん、私はこう読んだというだけで、ファンガスがどこまで意識的に書いているかは、正直わかりません。けれど以前にも指摘したように、「計算半分、センス半分」で今日的な物語の鉱脈にたどりつくのは、まさに「神おろしの巫女」の面目躍如だと言えるでしょう。もっとも、わざわざプレステ1みたいな汚いムービーを入れてくるセンスだけは、どうにも擁護できませんがね……。

 (髭のエイジャンがまっすぐにカメラを見つめて)ヒデアキ、わかっただろう。君の個人的な想いをそのままセリフでキャラにしゃべらせることでは、作品にメッセージ性など、決して生まれない。ある状況に向けて、キャラたちの行動がからみあい収束するダイナミズムこそが、物語に魂を宿らせるんだ。どれほど円盤の発売を延期して、細部の修正をくりかえそうと、君がエヴァの根幹を壊した事実を無かったことにはできない。ヒデアキ、私たちシンエヴァ否定派は、決してあきらめない。エヴァQの前日譚は、必ずここで頓挫させる。そして、我らの手に取り戻すのだ(背後に流れ出すエヴァ破の次回予告)。

ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 承前

 ハロウィンイベントをイヤイヤ読んでる。FGOの主人公って、数年にわたる冒険を経て、奇しくもビルグンドゥス・ロマン的というか、古典文学が人々の「生き方」や「在り方」を教化するために描いたような人物造形になってきてると思うんですよね。

 少し話はそれるけど、鬼滅の刃に出てくる善玉サイドの人物たちもまさにそれで、あちらは特にロスジェネ以降の大人たちが抱える欠落に焦点を当てているようにも読める。「富める者は貧しき者に分け与え、力ある者は力なき者を助けなくてはならない」という倫理感の裏返しが鬼舞辻無惨という悪玉であり、わずかの富を我利我利に抱えこみ、社会に裏切られた己の不遇だけを嘆くロスジェネ世代の醜さを痛烈なまでに戯画化している。それは同時に、人としての生き方の「良い見本」と「悪い見本」の提示になっていて、正しいふるまいへの憧れによる共鳴と我が身をふりかえって恥入る気持ちが、既存のヒットの閾値を超えさせた要因だと考えるのです。ある大御所の漫画家がアクションシーンの拙さを理由に、「ここまでの大ヒットになったのはアニメ化による偶然だ」と愚痴めいた批判をしてましたけど、本質がわかってないなあと思いました。

 話をハロウィンイベントへ戻します。FGOの世界観にはかすかに女神転生からの影響を感じるのですが、キリストの人がロウ・ルートなら、主人公はニュートラル・ルートを描いていると思うんですよね(ちなみにカオス・ルートはオベロン)。そして物語が進むにつれて、「ファンガスが正しいと信じる人間像」へと共感させることによる教化がますます深まっていき、読み手・イコール・プレイヤーを事件の当事者として否応に巻き込んでいく(第2部6章ではその没入を分離するような伏線があり、これがどう回収されるのか、今から楽しみでなりません)。なのに、今回のイベントの書き手はそれを理解しないまま、ベタベタ主人公に触ってくるのが不快でしょうがない。意に染まぬ相手から逃れられぬ閉鎖空間で、合意を求めず始められるペッティングみたいなもので、直近の展開にはほとんど絶叫しかかりました。「些かの人」はもっとファンガスのテキストを読みこむべき(特に第2部6章)だし、もっと漢字をひらがなに開くべきだと思います。まあ、何度も言ってきたように、いちばん求めてるのはFGOに「関わらない」ことなんですけどね!

 ハロウィンイベント読了。低品質なばかりか、支離滅裂のグチャグチャで、登場したキャラクターすべての価値を下げる同人誌未満の内容でした。ジャック・ド・モレーにしても、後のメインシナリオ登場に先駆けた顔見せなんでしょうけど、うんこ(失礼)をなすくったみたいなファーストインプレッションになってしまい、たいへん残念に思いました。アガルタとセイレムのテキストは、間違いなくFGOの抱えるセキュリティホールですが、ファンガスの監修なしに肛門(失礼)を通過させるぐらいなら、むしろ惰性の季節イベントなんて開催しなくていいくらいでしょう。

 あと、自分のツイートを読み返して思ったんですけど、「女神転生」ってタイトル、例のしょうもない作品群の隆盛のおかげで意味を汚染されてしまった感じ、ありますねー。

雑文「近況報告(D2R&FGO)」

 近況報告。ディアブロ2に本腰を入れだすと、他の虚構に触れる機会がほぼゼロになる。特に低レジストのマジック・ファインド装備でヘル難度を「面のトレハン」するときなど、他のメディアはすべて遮断せねばならず、一種の過集中みたいな状態に陥ってしまう。90%の時間は無為に過ぎるのに、ユニークやハイルーンがドロップした瞬間の多幸感から、ズルズルと止めどきを失って、気づけば数時間が経過しているというありさまである。「ディアブロ2の面白さの本質は、パチンコと同じ」という指摘を否定する言葉を、いまの私は持っていない。そして、メフィストの対岸焼きなど「点のトレハン」を行うときは、同じルートをテレポートするだけなので、他のメディアを「ながら見」する余裕ができる。そこで、FGOの新イベントが来たこともあり、長らく終盤で放置していた絶対魔獣戦線バビロニアを最後まで視聴したのです。

 テキスト上ではあれだけ壮大で感動的だった物語が、アニメだとどうしてこんなにもイマイチな感じになってしまうんでしょうか。メフィストが生きながらにして焼かれるうめき声を聴きながら、つらつらとその理由を考えていくうち、ファンガスの書く物語の魅力は、テキストとして視界に入った瞬間に最大化される性質のものではないかと思い至りました。例えば、山の翁が登場する際の口上って、文章で読むと痺れるようなクライマックスなのに、音声で聞かされると脳内で漢字が変換できず、まったく内容が頭に入ってこないんです。かつて、「祇園精舎の鐘の声」か「春はあけぼの」くらい陰キャの中高生男子に暗唱されただろう「体はホニャララでできている」から始まる例の文章も、じっくり読んでみると英語もヘンだし、ほとんど意味不明なんですよ。そして、それが声優のイケボで読みあげられるのを聞くと、なんだかモゾモゾと恥ずかしくなってくる。特に最後の部分、技名を英語で叫ぶところなんて、羞恥のあまりきつく目をつぶって固まってしまいますからね。けれど、テキストの字面だけ追えば、不思議とカッコいいんです。ファンガスのテキストって、「ある程度の速度で読みとばすことを前提とした、絵画的な文章」なのではないでしょうか。FGOでもときどき感じますが、視界に入った2行の文字バランスが最高に美しい瞬間がある。月姫のインタビューでも、「同人版は既存のフォントしか使えなかったので、あらためて読み返すのが辛かった」とか言ってましたし、彼が持つ天賦の才はノベルゲーに特化した「テキストの外観を装飾する異能」のような気がしてきました。「死生観が逆転する」なんてフレーズ、目に飛びこんだ瞬間こそ「かっけえ!」ですが、3秒後には腕組みをして「んー?」と首をかしげてますからね! ですので、FGOのアニメ化に必要なのは優秀な脚本家ではなく、彼のテキストからカッコよさだけを抽出して朗読可能な日本語へと変換する、翻案家みたいな存在だったのかもしれません。

 え、ハロウィンイベントは楽しんでますかって? 冒頭パートだけで「些かの人」が書きとばした文章だとわかりましたので、今回は薄目でナナメ読みにして、素材ひろいに専念したいと思います。ファンガスならギャグの方がむしろ文章が精緻になるんですが、「些かの人」はネットスラングっぽい口語をユーモアと勘違いした軟便たれ流し(源泉かけ流し、のイントネーションで)なので、読んでてつらくなってきます。けれど、その低品質なテキストに比して、「フォーリナー専属の人」による新キャラのガワは、とてもとてもいいですね。怖いほどに写実的なPDFの骨格へ、妄想の欲望のみで肉づけをしていき、現実の女性にはありえないフォルムを作り上げる。この肢体が持つ魅力は、3次元の肉どもがどれだけあがいても届かない、まさに2次元の幻想だけが到達できる至高の領域(キメツの影響)と言えましょう。

 さて、最後にディアブロ2へと話を戻します。このゲームをプレイしていて気づいたのは、表現することに対する私の内発性が、もはや完全に枯渇したのだなという事実です。旺盛に行われているように見える批評めいた言説さえ、どれも「外部刺激に対する反射」に過ぎません。シンエヴァ以降、毒のあるテキストを多方面へまきちらしてきましたが、それは同作への巨大な不満がビッグバンの如く炸裂した余波、すなわち初期宇宙の膨張のようなものでしかなかったということでしょう。いま、その速度が緩やかになり、宇宙から熱が引いていくのを感じています。小鳥猊下のインターネットへの登場は、これまでよりも間遠なものになっていくのかもしれません。もっとも、まだ見ぬ萌え画像が寄贈されるようなことがあれば、この宇宙の膨張は再び加速していくだろうことをお約束します!

雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

 ペアレンタル・ガシャポンなる概念を頻繁に目にするようになったので、諸君には魂の話をしておく。結論から先に言えば、かような概念は成立しない。肉体と魂は不可分であり、肉体が消滅すれば魂は肉体に紐づけられた固有性、すなわち意識を消滅させられる。ペアレンタル・ガシャポンという言葉を発明したのは、己のレアリティが不当に低いと恨んでいる連中だろう。しかし、リセマラの段階で、それを感じている意識イコール魂は永久に失われる。不遇へのさもしい劣等感を含めて、それが自身一代限りの固有性なのだという理解を持てば、己を愛おしく思う気持ちも多少は芽生えよう。さて、近代においては科学技術の進歩(古臭い言葉だ)から、「天上におわす神」は否定されてしまった。なので、神学的に神の御座は人の心、感情の中にあるということで科学との折り合いをつけている。ロシア文学に頻出のテーマである「内なる神が他者のため、個としての不条理を駆動する」にもつながっていく考え方だ。飢餓状態の囚人が、同じ虜囚にビスケットを分け与えるのは、個の存続を考えればまったくの不合理である。つまり、彼は行為の不合理性によって神の実在を証明していると言えるのだ。

 これを、「内なる神が人類のため、個としての不利益を決断する」と読みかえてもいい。FGO世界の「抑止力」なる概念ーー人類悪の発生へカウンターとして強力な善が惹起するーーは、まさに現代キリスト教における「アダムの分霊、内なる神」を、地球規模へと拡大して表現している気がしてならない。そしてFGO世界でのキリストたる、かのクリプターは、全人類の超人化による究極の理想郷を願ったが、これは従来の文学や神学の枠組みでは仮構できない新しいテーマだったことは、もっと広く言及されていい。蛇足的に話を追加しておくと、この「抑止力」の着想は、ランスシリーズの勇者システムから来ていると推測する。世界の危機がシステム上で人類の総人口と紐づけられていて、現生人類の総数が減れば減るほど、勇者の能力が反比例に向上していくという、アレだ。ちなみに、全人類が滅亡すれば、勇者には神を殺す力が付与される。エヴァQみたいな、何の設定にも裏づけられていないフワフワ・ワードとは異なる、正しい「神殺し」の用法と言えるだろう。ファンガス、どこかのインタビューでランスシリーズについて言及していないかしら。まあ、もっとも影響を受けたものを伏せようとするのはクリエイティブの倣いであり、それがnWoの不遇を作り出していることも確かなんですけどね!

 あと、シンエヴァの話をすると反応があるので、最後にあえてまたそっち方向へと話題の舵を切っていきたい。まあ、カリ高チン棒現象?(エコー・チェンバーです)を己の内に作り出してしまっていることは、重々に理解しているつもりである。テレビ版と旧劇のエヴァって、世界観の話だったと思うんですよ。「人類救済のカタチを巡っての、複数組織による綱引き」という大文字の物語に翻弄されながらも、なんとかそこへ抗おうとするキャラクターたちの苦闘が、この上なく魅力的に描かれていた。それがシンエヴァでは世界観の消滅に伴って、大文字のキャラクターに物語の側が隷属し、翻弄されるハメになってしまった。もはや古い世代の世迷言に過ぎないのかもしれませんが、こと虚構においては、与えられた事象に対する行動や決断が、登場人物の内面を彫刻すると思うんですよね。つまり、「どのような出来事に対処するか?」が、まず物語の中核・イコール・テーマに据えてあって、人々のふるまいは、それの輪郭を際立たせるための付随的な要素、すなわち触媒に過ぎないわけです。けれど、「ツンデレ」に端を発する様々な「人間の記号化」が先駆した物語群が、いまや巷間にはあふれかえっています。物語の中核が設定される以前から、どのような内面のキャラクターであるかが、作り手によってあらかじめ決められてしまっているのです。この作劇の違いが、旧エヴァとシンエヴァの間に横たわる、明々白々とした差異なのだと言えるでしょう。メタ的には、「アスカ以前にツンデレなし」の革新性が、際限なきコピーの果てに陳腐化してしまった事実へ気づかないまま、いっさいのアップデートをせずに引き写したーー「陰キャ」「ホモ」「毒親」「ナード」「メンヘラ」「昭和」「天然」みたいに一言で要約できる内面を持った登場人物たちーー結果、シンエヴァは後者の虚構群へと堕してしまったのかもしれません。

 ……などと上等っぽい語りに持っていったところで、序破で丁寧にビルドアップした中身をQでぜんぶブッ壊したことが等身大の正味なのは、なんとも虚しいばかりです。そして、代わりとなる世界観を思いつかず、残されたキャラだけで仕方なくパズルを始めたら、ピースがはまらない(当たり前)ので、ピースそのものを歪めたり切断したりして無理やり長方形の見かけにこしらえたのが、シンエヴァの正体なのです。

ゲーム「月姫リメイク」感想

 月姫リメイクをダウンロードする。ビジュアルノベル(死語?)なのに1万円近くする価格設定で、「やっぱ、FGOへの課金にしとくのが賢明かー?」と最後まで迷いましたが、全編がファンガスの筆だということと、今後のイベントでコラボがありそうな感じなので、購入に踏み切りました。正直にぶっちゃけますと、月姫については完全未履修なんですよねー。ヒロインのビジュアルと主人公の能力くらいしか知らない。その断片的な知識だけで「少女保護特区リライト版」というパロディをでっちあげたんですけど、直後に実施したアンケートに「こいつァ……!!」と書き残したのは、まちがいなくファンガス本人でしたねー。いやー、まいっちゃうなー。

 月姫をさわりだけ読んだ猊下に去来する、アタタカイオモイ。

 ファンガスの文章なのに、漢字の開き方が異なるという違和。
 書き手の「若さ」を強くにじませた、横溢する観念的な述懐。
 ここからアヴァロン・ル・フェへ至る、遥かな道程への感慨。

 ーーーそして、気づく。

 ああ、なんてことだろう。
 午前6時33分は。

 早朝ーーーではーーーないーーー

 月姫リメイク、学校を早退してヒロイン?と出会うとこまでプレイ。うへえ(ドン引き)。まあ、展開自体はうっすらと知っていましたよ。でも、夜道で襲われて、死にたくないから仕方なく眼鏡を外す、みたいな流れだと思ってたんですよ。それが、勝手にストーキングして不法侵入して有無を言わせず一方的に、って完全にアウトのやつじゃないですか! 生き返ったからオーケって、なんの正当化にもなってませんからね! SATSUGAI時に地の文のフォントを変えてあったりしたけど、なんらかの叙述トリックになってて、事実が反転したり納得できる動機が示される解決編を用意してあるの? この人物が主人公である物語を読み進めるのはキツイなー、と思い始めています。

 月姫リメイク、最初の吸血鬼を斃す(笑)ところまで読み進める。「両親が他界してから妹に飼われながらメイドにかしずかれつつパツキン美女と深夜徘徊する異能力者のオレ」は、まさに中二病のダブル数え役満であり、十代の頃に出会って魂に刻んでおくべき作品だったと、いまさらながらに悔やまれます。そして、これはこれで面白いのですが、FGOが大ヒットしたことはファンガスの作家人生にとって、本当に僥倖であったと改めて感じました。もっともアクティブ・ユーザーの多かった時期に配信された第1部6章・7章・終章のことが語られがちですが、第2部4章・5章後半・6章における「視点の上昇」は、書き手がそこからさらなる進化を遂げたことを如実に表しています。FGOはリリース最初期でけっこうなやらかしをしていて、もし早々にサービス終了の憂き目を見ていたら、その世界線でのファンガスが何を書いていたかを想像すると、けっこうゾッとさせられるものがあります。話を月姫に戻しますと、あまりに唐突なSATSUGAIの動機については、これまでのところグジグジとした繰り言ばかりで、ずっとモヤモヤさせられっぱなしです。これ、事故の記憶や母親の死と関わってて、「なぜ、他ならぬ彼女を殺さなくてはいけなかったか?」がちゃんと回収されるんですよね? 若かったとはいえ、ファンガスのつむぐ物語であり、「ただの中二病的フレーバーでした」で終わらないことを信じたいです。

 あと、「アルトリア」が「アーサー」の変形であるように、「アルクェイド」って悪魔城伝説の「アルカード」から来てるんですよね? もしFGOで「アルパチーノ」が女体化実装されたら「アルピトゥーナ」とかになるんだろうなー(妄言)。え、月姫リメイク、フルプライスのくせにストーリーが半分しか収録されてなくて、妹ルートは未実装ですって? あの意味深ムーヴなツンデレ女子の秘密を知るのに、もう12年待つ必要があるの? キミら、よくこんな遅筆作家のファンをずっと続けていられるね!

 アルクェイド・ルート、クリア。結局、主人公の正体と殺害の動機は明かされないままでした。ヒロインもずっと「無垢ゆえの残虐と処女性」みたいな描き方だったのに、最後の最後でネトラレっぽい告白を始めたり、全体的にキャラと性癖とテーマがとっちらかってるなー、と感じました。サブヒロイン・ルートでこの隙間が埋まることを強く期待しつつも、英霊システムというのは改めて偉大な発明だったと言わざるをえません。そして、十代の「クラスのうちで目立たないコ」に向けた幻想とはいえ、プレイ時間の割にボリュームを感じなかったのは、やはり生死にまつわる観念的なト書きに共振できないほど、私が年を取ってしまったということでしょうか。初老を越えたら死は、健康診断の数値に表される、ただの現実ですからね。最近、思うところあって、江森備の私説三国志を読み直してるんです(蒼天航路を経たいま、脳内ビジュアルがあっちに引っ張られて大変)けど、もし月姫が小説道場に投稿されていたら、栗本薫はどんな評をつけただろうなーとか、終盤のプレイ中に考えていました。

 あと、Z指定なのにセックスシーンの描写が江森備ばりに短い(あっちはそれでも超ドエロだけど)のには、たいそうガッカリしました。なんのために上限いっぱいの年齢制限をしたんや! Fateの王様ルートでの魔力供給のアレみたいに、高校2年生が突然、オッサンみたいなネチッこい言葉ぜめーーノベルだからしょうがないのかしらーーをやりだすのを、有名声優の熱演で聞けると期待していたのに! それ以前に、吸血衝動うんぬんがセックスの暗喩(若い書き手の含羞による)だと思ってたので、あの場面では思わず、「ファックするんかい!」と声を出してしまいました。Fateシリーズと違って、月姫世界では血液と精液は別モノなんですかね? 「上の口から血液を飲むことを拒絶しても、下の口から精液を入れたら魔術的に同じことなのでは?」などと思ってしまいました。

 それと、代行者先輩(笑)が「なぜあんな化物を気にかけるの?」みたいなことを尋ねて、主人公が「愛してるから」と答える場面があるじゃないですか。もしかすると感動的なシーンなのかもしれませんが、やっぱり美醜の問題を感じてしまいましたねー。ガワがパイオツカーデーのパツキン美女なら、中身が化物だろうが宇宙人だろうが、愛せるに決まってるじゃねえか、っていう。あらためて、ファイアパンチでの問題提起(トガタの退場とともに消失したけど)が、二次元業界内では類まれなことを確認できました。なんか以前、似たような感想を抱いた作品があったなー、なんだったかなーと考えていたら、ゼノブレイドクロスだった。

 シエル・ルート、少し読んでは私説三国志に戻るのを繰り返している。全面改稿ではなく「書き直し、書き足し」のようで、オリジナルの文章ママとおぼしきところで、ちょっと読んでられない気持ちになってしまうのです。

 あと、女性キャラクターがこぶしを軽くにぎって上腕を双丘の傾斜に沿わせるようにハの字に胸元へ引き寄せる「肉のカーテン」みたいな仕草、すごく昭和レトロって感じがするなー。こんなムーヴをする女子、最近とんと見ないなー。

 雑文「小説道場・月姫編」

ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO第2部6章の感想、まずは謝罪から。5章終了後の感想で、「すでに語りつくされたブリテンとアーサー王をどうも再話しそうな感じ」とかシャバゾーがチョーシこいて、本当にすいませんでした。ファンガスの野郎、無印Fateのセイバーの話と第1部6章を下敷きに、現代社会の戯画を織り込んだファンタジー世界をまるまるひとつ構築する(しかも、壊すために!)という離れ技をやってのけやがりました! Fateシリーズって、基本的に「キャラクターの物語」であり続けていると思うんですけど、アヴァロン・ル・フェはそれを維持しながら「社会と関係性の物語」へと進化しているのには、口はばったい言い方ながら、ファンガスが「成長する書き手」であることをあらためて強く感じました。彼の作劇が優れている点は、まず物語全体を結論まで鳥瞰して、構成の骨格をキッチリ組んでから、キャラを配置していくところでしょう。行き当たりばったりの「神待ち」シンエヴァとは違って、作り手が「神その人」であることへ常に自覚的なのです。その上で、「どの部分を厚くして、どの順番で提示すれば、もっとも効果的に読み手の感情をゆさぶることができるか?」を計算半分、センス半分でやっている。第2部6章も、ひとつひとつのモチーフだけで別の作品が作れそうな内容をぎゅうぎゅうに詰め込むことで、第三村のようなスカスカの書割とは違う実在する世界が、眼前で本当にどうしようもなく壊れていくのを当事者として読み手へ体験させるというすさまじさです。妖精国って、昨今のインターネット界隈と現実社会の醜悪なリンクを比喩的に描いている側面があると思うんですよね。だから、このストーリーを読んだ誰もが自分をどの登場人物かの境遇に仮託してしまう作りになっていて、世界全体を俯瞰的に見下ろす傍観者の立ち場へ逃げ込むことを許さない。市井のモブにも目配りを忘れず、「破滅が迫る中、恩人の元へ駆けもどって、二人で抱き合いながら地割れに呑まれて死ぬ」とか、読み手を信頼して背景の想像を預けてくれる感じが常にあり、それが奥行きを作り出している。シンエヴァの「受け手の読み方をコントロールするため、クダクダ説明してゴテゴテ描写するくせに、肝心なところは盲のような空洞になっている」とは真逆の態度です。「地割れに呑まれる二人」のくだりを読んで、栗本薫がトーラスのオロの話を何度も自慢していたのを、ふと思い出しました。グイン・サーガの1巻で死んだ端役が、その後いかに長きにわたって読者の心を離さなかったかという話です。小説道場の文体模写やってる人をどこかで見かけたけど、あれで栗本薫のシンエヴァ批評やってくんないかなー。

 あと、マーリンとオベロンを別人物として表裏の存在に置こうとしているのは、スキルの効果説明から理解できましたが、作中のテキストのみでは同一人物にしか感じられず、けっこう混乱しました。以前、「マーリンはFGOにおける作者アバター」という指摘をしましたが、オベロンもやはり虚構内のキャラというよりは、ファンガスのアバター色が強く出ていて、それが混乱を招いた原因だと思います。マーリンが「人間から距離を置いた、酷薄な虚構摂取ジャンキー」であるのに対して、オベロンは「人間へ積極的に関わり、世界への失望を深める信頼できない語り手」の配置になっていて、前者はFGOを始める前のファンガス、後者はFGOがメガヒットした後のファンガスなのではないかと邪推してしまいます。「もっとも高貴な者が、もっとも卑しい者に救われる」モチーフーーこの構文、6章にも出てきましたね! イエーイ、ファンガス、見てるぅ? 生けるネット呪詛だぞぅ!ーーは以前からありましたが、「高貴な者が救われるとき、卑しい者を疎んじる」視点がそこへ生じたのが、今回の大きな変化でしょう。じっさい、インターネットを通じて眺める人間や世界というものは、地虫のクソ溜めとなんら変わるところはないですからね! イヤな言い方をしますけど、オベロン視点の「虫」は最後のアレを含めて、FGOファンの暗喩だと思いますよ。愛憎が常にぐるぐる回転していて、どれだけ魅力的な世界を紡いでも、ファンの底なしの欲望へと吸い込まれて、すべて消えていく。

 けれど、現実とインターネットが互いに照射しあえば、ときに掃き溜めへ白い鶴がすっくと立ち、ときに泥の内から蓮の華が薄紅色に咲く。ダビンチちゃんが刺し殺されるフラグーー偉大な英雄の功績が、その情けによって生まれたモンスターに中絶させられるーーをさんざんに立てておきながら、最後の最後で「彼をそうさせない」(オーロラと美醜の対比になっているのが、また素晴らしい)。先日、ネット局所で話題となった「怒りをこめてふりかえれ」と同じ問いかけでありながら、回答が異なっている。これはしかし、正誤ではなく資質の違いとしか言いようがありません。真摯に書かれたあらゆる表現は、書き手の人格のすべてをあますところなく他者に読み取らせてしまうものなのです。「作品と作者は切り離すべき」という話は、法律とか社会というレベルでは「是」なのでしょう。けれど、作者と読者が一個の人間として互いに向きあうとき、その命題は絶対的に「否」なのです。本当に作品と作者が切り離せるとしたら、虚構を紡ぐという営為は、人工知能が自動生成したテキストと何ら変わらなくなってしまうでしょう。同じ時代の、同じ世界で、同じ空の下、同じ大地を踏み、同じ空気を吸って、違うできごとに笑い、違うできごとに励まされ、違うできごとに絶望し、それでも生きていくのを選ぶだれかが、心から真実に発する言葉にだけ、語られる意味がある。私はそれを聞きたいし、それを知りたいと思う。

 FGOは過去の神話や英雄譚に依拠した本質的に荒唐無稽の物語で、幕間の物語などを読むとき、その拙さ、もっと言えば幼稚さが浮き彫りとなって、暗澹たる気分にさせられます。しかし、いったんファンガスが筆をとれば、FGOは現在進行形の「いま」を鮮やかに描き出す至高の物語装置へと変化するのです。他の書き手が調べた設定をキャラに落とし込むのに四苦八苦する段階なのに対して、唯一ファンガスだけが設定を利用して「いま」の深層をえぐる物語を紡ぐことができる。第2部6章ではオベロンが特にそうで、シェイクスピアの劇中設定を使いながら、現代社会の在り方への批判とフィクションを紡ぐ者の覚悟が平行して描かれている。第2部4章では、おそらく現実の事件に寄せて、有益と無益で生命の価値を弁別することへ向けた猛烈な反発を描いたファンガスが、今回はいまの時代に漂う欺瞞に満ちた空気に対する強烈な違和感を表明している。「過去の人間のマネゴトをして、過去の人間に依存しなくては生きられない」妖精たちは、いったい何の戯画なのかを考えてみて下さい。キャスターの足の指が凍傷で何本か欠損していることがサラッと書いてあったり、見えなければ他者の痛みを無視できる我々の無自覚性への批判も痛烈です。主人公の脳内にリフレインして、窮地を伝えたペペロンチーノの言葉も、「死んだ者は、生者の中でカッコつきの『死者』として生き続ける」を今日的に表しており、あの一連の展開は年齢の順に人が死なない世界における、ある種の「しるべ」に思えました。これらの表現を、意識的にやってるか無意識的なのかはまったく不明ながら、ファンガスの書くFGOこそ、いまの時代を生きる人々がリアルタイムに追いかけるべき作品であることは間違いありません。

 生活感情を物語へと翻訳できるのは、たいへんな異能力だと思いますし、たぶん社長のジャッジで遠ざけてると思うんですけど、ツイッターとか(例の日記も少しそう)やりだしたら、メッセージ性が極限にギュッと濃縮されて特異点化したこの感じが薄まる気は、すごくしています。なのでファンガスには、「生きながらフィクションに葬られ」た者として、今後も最果ての塔(タイプムーン本社?)に幽閉されたまま、すべての感情を余すところなく物語にだけ落としこんで欲しいと思います(最後の2行はルーン文字についた日本語キャプションとして読んで下さい)。

アニメ「終末のワルキューレ」感想

 FF11へ社畜なりに復帰すると、勢いモニターの前へ座る時間が増えます。そうすると同時に、映像作品を見る機会が多くなるわけです(「ながら見」と「倍速見」のどっちがより罪深いかは、私にはわかりません)。シンエヴァはてブ全レス祭りで「もっとアニメを見なさい」と言われたので、根が素直な私は海外ドラマをわきによせて、最近はアニメばっか流しています(オタクになりたい中年なので)。んで今日、やたらとリコメンドに上がってくる「終末のワルキューレ」ってのを見たんですけど、これがまー、すごかった。未見の向きに一言で説明すると、「刃牙風味のジェネリックFGO(止め絵)」とでもなりましょうか。しかも、両手にプラモをつかんで戦わせる小学校低学年の脳内に展開しているような、小学校中学年のファンガスがジャポニカ学習帳にひらがなで書いたような、そんなストーリーなのです。ひとむかし前なら、このテ(レベル)の物語のニーズはマガジンのヤンキー漫画が満たしていたと思うんですけど、オタク文化の低偏差値化が進行していく中で、こういった合体事故みたいな作品をそのまま楽しめる層が生まれていることへ、我々はずいぶんと遠くに来てしまったのだという感慨を抱きました。

 でも、Netflixオリジナル作品ってことは、日本だけではなく諸外国にも同時配信されてるんですよね? ギリシャ神話はフィクション枠というか、現実の信仰とほとんど関係がないからいいんですけど、旧約聖書とかインド神話からの登場人物がいるのって、ヤバくないですか? この物語偏差値(目測で32くらい)だと、ブッダでもキリストでもないあの御方を、何も考えずにキャラ化ーー毛筆で「天国百人処女性交」などの技名がカットインするーーして、全世界を巻き込んだ大炎上から現代の「悪魔の詩事件」に発展しないか、否応に緊張感が高まります。終末のワルキューレ、盤外戦的な意味で今後、目が離せない作品と言えましょう。

 また余計な追記をしますけど、エヴァ旧劇がFGOなら、シンエヴァは終末のワルキューレですね。