猫を起こさないように
FGO
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雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。

 あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!

 それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。

ゲーム「FGO水妖クライシス」感想

 FGO、水妖イベントクリア。もはや第2部の結末を見届けるためだけに惰性のログイン(連続2,419日目)を続け、イベントテキストの9割が読む価値の無い中身だと半ばあきらめつつも、時折やってくるこの唯一無二のスペシャルがあるから、FGOはやめられない。水辺で行われるオールスター集合の当イベント、おそらくは今夏に配信予定だったものを、結末部に大幅な加筆を行った上で、前倒しで実装されたのではないかと推測する。なぜか? それは、時代の要請によって望まぬまま英雄に祭り上げられた個人が、その事実によって多くの無辜の民を長く苦しめ、無意味に死なせたのではないかと苦悩する物語だからだ。この英霊をいつ取り上げようと決めたのかは、知らない。しかし、「いま、ここ」で配信されることによって、受け手はテキストに記述された以上の内容を読みとることだろう。

 エイジャンたちの死はどこまで重なろうともピンと来ないが、コーケイジャンの死は一個一個が己が身内であるかのように胸を痛ませる。これは、ウマ娘による擬人化で競馬というドラマをはじめて理解したオタクたちと同じレベルの話で、結局のところ、人は同族にしか共感を寄せることができないのだ。差別の本質が共感の欠如だと仮定すれば、単純にいかような見た目を持つかの話へと帰着し、それは敵味方を識別する我々の動物に根ざしているため、どうにも完全には抜き去ることが難しい。もちろん、私はこう読んだというだけで、ファンガスがどこまで意識的に書いているかは、正直わかりません。けれど以前にも指摘したように、「計算半分、センス半分」で今日的な物語の鉱脈にたどりつくのは、まさに「神おろしの巫女」の面目躍如だと言えるでしょう。もっとも、わざわざプレステ1みたいな汚いムービーを入れてくるセンスだけは、どうにも擁護できませんがね……。

 (髭のエイジャンがまっすぐにカメラを見つめて)ヒデアキ、わかっただろう。君の個人的な想いをそのままセリフでキャラにしゃべらせることでは、作品にメッセージ性など、決して生まれない。ある状況に向けて、キャラたちの行動がからみあい収束するダイナミズムこそが、物語に魂を宿らせるんだ。どれほど円盤の発売を延期して、細部の修正をくりかえそうと、君がエヴァの根幹を壊した事実を無かったことにはできない。ヒデアキ、私たちシンエヴァ否定派は、決してあきらめない。エヴァQの前日譚は、必ずここで頓挫させる。そして、我らの手に取り戻すのだ(背後に流れ出すエヴァ破の次回予告)。

ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 承前

 ハロウィンイベントをイヤイヤ読んでる。FGOの主人公って、数年にわたる冒険を経て、奇しくもビルグンドゥス・ロマン的というか、古典文学が人々の「生き方」や「在り方」を教化するために描いたような人物造形になってきてると思うんですよね。

 少し話はそれるけど、鬼滅の刃に出てくる善玉サイドの人物たちもまさにそれで、あちらは特にロスジェネ以降の大人たちが抱える欠落に焦点を当てているようにも読める。「富める者は貧しき者に分け与え、力ある者は力なき者を助けなくてはならない」という倫理感の裏返しが鬼舞辻無惨という悪玉であり、わずかの富を我利我利に抱えこみ、社会に裏切られた己の不遇だけを嘆くロスジェネ世代の醜さを痛烈なまでに戯画化している。それは同時に、人としての生き方の「良い見本」と「悪い見本」の提示になっていて、正しいふるまいへの憧れによる共鳴と我が身をふりかえって恥入る気持ちが、既存のヒットの閾値を超えさせた要因だと考えるのです。ある大御所の漫画家がアクションシーンの拙さを理由に、「ここまでの大ヒットになったのはアニメ化による偶然だ」と愚痴めいた批判をしてましたけど、本質がわかってないなあと思いました。

 話をハロウィンイベントへ戻します。FGOの世界観にはかすかに女神転生からの影響を感じるのですが、キリストの人がロウ・ルートなら、主人公はニュートラル・ルートを描いていると思うんですよね(ちなみにカオス・ルートはオベロン)。そして物語が進むにつれて、「ファンガスが正しいと信じる人間像」へと共感させることによる教化がますます深まっていき、読み手・イコール・プレイヤーを事件の当事者として否応に巻き込んでいく(第2部6章ではその没入を分離するような伏線があり、これがどう回収されるのか、今から楽しみでなりません)。なのに、今回のイベントの書き手はそれを理解しないまま、ベタベタ主人公に触ってくるのが不快でしょうがない。意に染まぬ相手から逃れられぬ閉鎖空間で、合意を求めず始められるペッティングみたいなもので、直近の展開にはほとんど絶叫しかかりました。「些かの人」はもっとファンガスのテキストを読みこむべき(特に第2部6章)だし、もっと漢字をひらがなに開くべきだと思います。まあ、何度も言ってきたように、いちばん求めてるのはFGOに「関わらない」ことなんですけどね!

 ハロウィンイベント読了。低品質なばかりか、支離滅裂のグチャグチャで、登場したキャラクターすべての価値を下げる同人誌未満の内容でした。ジャック・ド・モレーにしても、後のメインシナリオ登場に先駆けた顔見せなんでしょうけど、うんこ(失礼)をなすくったみたいなファーストインプレッションになってしまい、たいへん残念に思いました。アガルタとセイレムのテキストは、間違いなくFGOの抱えるセキュリティホールですが、ファンガスの監修なしに肛門(失礼)を通過させるぐらいなら、むしろ惰性の季節イベントなんて開催しなくていいくらいでしょう。

 あと、自分のツイートを読み返して思ったんですけど、「女神転生」ってタイトル、例のしょうもない作品群の隆盛のおかげで意味を汚染されてしまった感じ、ありますねー。

雑文「近況報告(D2R&FGO)」

 近況報告。ディアブロ2に本腰を入れだすと、他の虚構に触れる機会がほぼゼロになる。特に低レジストのマジック・ファインド装備でヘル難度を「面のトレハン」するときなど、他のメディアはすべて遮断せねばならず、一種の過集中みたいな状態に陥ってしまう。90%の時間は無為に過ぎるのに、ユニークやハイルーンがドロップした瞬間の多幸感から、ズルズルと止めどきを失って、気づけば数時間が経過しているというありさまである。「ディアブロ2の面白さの本質は、パチンコと同じ」という指摘を否定する言葉を、いまの私は持っていない。そして、メフィストの対岸焼きなど「点のトレハン」を行うときは、同じルートをテレポートするだけなので、他のメディアを「ながら見」する余裕ができる。そこで、FGOの新イベントが来たこともあり、長らく終盤で放置していた絶対魔獣戦線バビロニアを最後まで視聴したのです。

 テキスト上ではあれだけ壮大で感動的だった物語が、アニメだとどうしてこんなにもイマイチな感じになってしまうんでしょうか。メフィストが生きながらにして焼かれるうめき声を聴きながら、つらつらとその理由を考えていくうち、ファンガスの書く物語の魅力は、テキストとして視界に入った瞬間に最大化される性質のものではないかと思い至りました。例えば、山の翁が登場する際の口上って、文章で読むと痺れるようなクライマックスなのに、音声で聞かされると脳内で漢字が変換できず、まったく内容が頭に入ってこないんです。かつて、「祇園精舎の鐘の声」か「春はあけぼの」くらい陰キャの中高生男子に暗唱されただろう「体はホニャララでできている」から始まる例の文章も、じっくり読んでみると英語もヘンだし、ほとんど意味不明なんですよ。そして、それが声優のイケボで読みあげられるのを聞くと、なんだかモゾモゾと恥ずかしくなってくる。特に最後の部分、技名を英語で叫ぶところなんて、羞恥のあまりきつく目をつぶって固まってしまいますからね。けれど、テキストの字面だけ追えば、不思議とカッコいいんです。ファンガスのテキストって、「ある程度の速度で読みとばすことを前提とした、絵画的な文章」なのではないでしょうか。FGOでもときどき感じますが、視界に入った2行の文字バランスが最高に美しい瞬間がある。月姫のインタビューでも、「同人版は既存のフォントしか使えなかったので、あらためて読み返すのが辛かった」とか言ってましたし、彼が持つ天賦の才はノベルゲーに特化した「テキストの外観を装飾する異能」のような気がしてきました。「死生観が逆転する」なんてフレーズ、目に飛びこんだ瞬間こそ「かっけえ!」ですが、3秒後には腕組みをして「んー?」と首をかしげてますからね! ですので、FGOのアニメ化に必要なのは優秀な脚本家ではなく、彼のテキストからカッコよさだけを抽出して朗読可能な日本語へと変換する、翻案家みたいな存在だったのかもしれません。

 え、ハロウィンイベントは楽しんでますかって? 冒頭パートだけで「些かの人」が書きとばした文章だとわかりましたので、今回は薄目でナナメ読みにして、素材ひろいに専念したいと思います。ファンガスならギャグの方がむしろ文章が精緻になるんですが、「些かの人」はネットスラングっぽい口語をユーモアと勘違いした軟便たれ流し(源泉かけ流し、のイントネーションで)なので、読んでてつらくなってきます。けれど、その低品質なテキストに比して、「フォーリナー専属の人」による新キャラのガワは、とてもとてもいいですね。怖いほどに写実的なPDFの骨格へ、妄想の欲望のみで肉づけをしていき、現実の女性にはありえないフォルムを作り上げる。この肢体が持つ魅力は、3次元の肉どもがどれだけあがいても届かない、まさに2次元の幻想だけが到達できる至高の領域(キメツの影響)と言えましょう。

 さて、最後にディアブロ2へと話を戻します。このゲームをプレイしていて気づいたのは、表現することに対する私の内発性が、もはや完全に枯渇したのだなという事実です。旺盛に行われているように見える批評めいた言説さえ、どれも「外部刺激に対する反射」に過ぎません。シンエヴァ以降、毒のあるテキストを多方面へまきちらしてきましたが、それは同作への巨大な不満がビッグバンの如く炸裂した余波、すなわち初期宇宙の膨張のようなものでしかなかったということでしょう。いま、その速度が緩やかになり、宇宙から熱が引いていくのを感じています。小鳥猊下のインターネットへの登場は、これまでよりも間遠なものになっていくのかもしれません。もっとも、まだ見ぬ萌え画像が寄贈されるようなことがあれば、この宇宙の膨張は再び加速していくだろうことをお約束します!

雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

 ペアレンタル・ガシャポンなる概念を頻繁に目にするようになったので、諸君には魂の話をしておく。結論から先に言えば、かような概念は成立しない。肉体と魂は不可分であり、肉体が消滅すれば魂は肉体に紐づけられた固有性、すなわち意識を消滅させられる。ペアレンタル・ガシャポンという言葉を発明したのは、己のレアリティが不当に低いと恨んでいる連中だろう。しかし、リセマラの段階で、それを感じている意識イコール魂は永久に失われる。不遇へのさもしい劣等感を含めて、それが自身一代限りの固有性なのだという理解を持てば、己を愛おしく思う気持ちも多少は芽生えよう。さて、近代においては科学技術の進歩(古臭い言葉だ)から、「天上におわす神」は否定されてしまった。なので、神学的に神の御座は人の心、感情の中にあるということで科学との折り合いをつけている。ロシア文学に頻出のテーマである「内なる神が他者のため、個としての不条理を駆動する」にもつながっていく考え方だ。飢餓状態の囚人が、同じ虜囚にビスケットを分け与えるのは、個の存続を考えればまったくの不合理である。つまり、彼は行為の不合理性によって神の実在を証明していると言えるのだ。

 これを、「内なる神が人類のため、個としての不利益を決断する」と読みかえてもいい。FGO世界の「抑止力」なる概念ーー人類悪の発生へカウンターとして強力な善が惹起するーーは、まさに現代キリスト教における「アダムの分霊、内なる神」を、地球規模へと拡大して表現している気がしてならない。そしてFGO世界でのキリストたる、かのクリプターは、全人類の超人化による究極の理想郷を願ったが、これは従来の文学や神学の枠組みでは仮構できない新しいテーマだったことは、もっと広く言及されていい。蛇足的に話を追加しておくと、この「抑止力」の着想は、ランスシリーズの勇者システムから来ていると推測する。世界の危機がシステム上で人類の総人口と紐づけられていて、現生人類の総数が減れば減るほど、勇者の能力が反比例に向上していくという、アレだ。ちなみに、全人類が滅亡すれば、勇者には神を殺す力が付与される。エヴァQみたいな、何の設定にも裏づけられていないフワフワ・ワードとは異なる、正しい「神殺し」の用法と言えるだろう。ファンガス、どこかのインタビューでランスシリーズについて言及していないかしら。まあ、もっとも影響を受けたものを伏せようとするのはクリエイティブの倣いであり、それがnWoの不遇を作り出していることも確かなんですけどね!

 あと、シンエヴァの話をすると反応があるので、最後にあえてまたそっち方向へと話題の舵を切っていきたい。まあ、カリ高チン棒現象?(エコー・チェンバーです)を己の内に作り出してしまっていることは、重々に理解しているつもりである。テレビ版と旧劇のエヴァって、世界観の話だったと思うんですよ。「人類救済のカタチを巡っての、複数組織による綱引き」という大文字の物語に翻弄されながらも、なんとかそこへ抗おうとするキャラクターたちの苦闘が、この上なく魅力的に描かれていた。それがシンエヴァでは世界観の消滅に伴って、大文字のキャラクターに物語の側が隷属し、翻弄されるハメになってしまった。もはや古い世代の世迷言に過ぎないのかもしれませんが、こと虚構においては、与えられた事象に対する行動や決断が、登場人物の内面を彫刻すると思うんですよね。つまり、「どのような出来事に対処するか?」が、まず物語の中核・イコール・テーマに据えてあって、人々のふるまいは、それの輪郭を際立たせるための付随的な要素、すなわち触媒に過ぎないわけです。けれど、「ツンデレ」に端を発する様々な「人間の記号化」が先駆した物語群が、いまや巷間にはあふれかえっています。物語の中核が設定される以前から、どのような内面のキャラクターであるかが、作り手によってあらかじめ決められてしまっているのです。この作劇の違いが、旧エヴァとシンエヴァの間に横たわる、明々白々とした差異なのだと言えるでしょう。メタ的には、「アスカ以前にツンデレなし」の革新性が、際限なきコピーの果てに陳腐化してしまった事実へ気づかないまま、いっさいのアップデートをせずに引き写したーー「陰キャ」「ホモ」「毒親」「ナード」「メンヘラ」「昭和」「天然」みたいに一言で要約できる内面を持った登場人物たちーー結果、シンエヴァは後者の虚構群へと堕してしまったのかもしれません。

 ……などと上等っぽい語りに持っていったところで、序破で丁寧にビルドアップした中身をQでぜんぶブッ壊したことが等身大の正味なのは、なんとも虚しいばかりです。そして、代わりとなる世界観を思いつかず、残されたキャラだけで仕方なくパズルを始めたら、ピースがはまらない(当たり前)ので、ピースそのものを歪めたり切断したりして無理やり長方形の見かけにこしらえたのが、シンエヴァの正体なのです。

ゲーム「月姫リメイク」感想

 月姫リメイクをダウンロードする。ビジュアルノベル(死語?)なのに1万円近くする価格設定で、「やっぱ、FGOへの課金にしとくのが賢明かー?」と最後まで迷いましたが、全編がファンガスの筆だということと、今後のイベントでコラボがありそうな感じなので、購入に踏み切りました。正直にぶっちゃけますと、月姫については完全未履修なんですよねー。ヒロインのビジュアルと主人公の能力くらいしか知らない。その断片的な知識だけで「少女保護特区リライト版」というパロディをでっちあげたんですけど、直後に実施したアンケートに「こいつァ……!!」と書き残したのは、まちがいなくファンガス本人でしたねー。いやー、まいっちゃうなー。

 月姫をさわりだけ読んだ猊下に去来する、アタタカイオモイ。

 ファンガスの文章なのに、漢字の開き方が異なるという違和。
 書き手の「若さ」を強くにじませた、横溢する観念的な述懐。
 ここからアヴァロン・ル・フェへ至る、遥かな道程への感慨。

 ーーーそして、気づく。

 ああ、なんてことだろう。
 午前6時33分は。

 早朝ーーーではーーーないーーー

 月姫リメイク、学校を早退してヒロイン?と出会うとこまでプレイ。うへえ(ドン引き)。まあ、展開自体はうっすらと知っていましたよ。でも、夜道で襲われて、死にたくないから仕方なく眼鏡を外す、みたいな流れだと思ってたんですよ。それが、勝手にストーキングして不法侵入して有無を言わせず一方的に、って完全にアウトのやつじゃないですか! 生き返ったからオーケって、なんの正当化にもなってませんからね! SATSUGAI時に地の文のフォントを変えてあったりしたけど、なんらかの叙述トリックになってて、事実が反転したり納得できる動機が示される解決編を用意してあるの? この人物が主人公である物語を読み進めるのはキツイなー、と思い始めています。

 月姫リメイク、最初の吸血鬼を斃す(笑)ところまで読み進める。「両親が他界してから妹に飼われながらメイドにかしずかれつつパツキン美女と深夜徘徊する異能力者のオレ」は、まさに中二病のダブル数え役満であり、十代の頃に出会って魂に刻んでおくべき作品だったと、いまさらながらに悔やまれます。そして、これはこれで面白いのですが、FGOが大ヒットしたことはファンガスの作家人生にとって、本当に僥倖であったと改めて感じました。もっともアクティブ・ユーザーの多かった時期に配信された第1部6章・7章・終章のことが語られがちですが、第2部4章・5章後半・6章における「視点の上昇」は、書き手がそこからさらなる進化を遂げたことを如実に表しています。FGOはリリース最初期でけっこうなやらかしをしていて、もし早々にサービス終了の憂き目を見ていたら、その世界線でのファンガスが何を書いていたかを想像すると、けっこうゾッとさせられるものがあります。話を月姫に戻しますと、あまりに唐突なSATSUGAIの動機については、これまでのところグジグジとした繰り言ばかりで、ずっとモヤモヤさせられっぱなしです。これ、事故の記憶や母親の死と関わってて、「なぜ、他ならぬ彼女を殺さなくてはいけなかったか?」がちゃんと回収されるんですよね? 若かったとはいえ、ファンガスのつむぐ物語であり、「ただの中二病的フレーバーでした」で終わらないことを信じたいです。

 あと、「アルトリア」が「アーサー」の変形であるように、「アルクェイド」って悪魔城伝説の「アルカード」から来てるんですよね? もしFGOで「アルパチーノ」が女体化実装されたら「アルピトゥーナ」とかになるんだろうなー(妄言)。え、月姫リメイク、フルプライスのくせにストーリーが半分しか収録されてなくて、妹ルートは未実装ですって? あの意味深ムーヴなツンデレ女子の秘密を知るのに、もう12年待つ必要があるの? キミら、よくこんな遅筆作家のファンをずっと続けていられるね!

 アルクェイド・ルート、クリア。結局、主人公の正体と殺害の動機は明かされないままでした。ヒロインもずっと「無垢ゆえの残虐と処女性」みたいな描き方だったのに、最後の最後でネトラレっぽい告白を始めたり、全体的にキャラと性癖とテーマがとっちらかってるなー、と感じました。サブヒロイン・ルートでこの隙間が埋まることを強く期待しつつも、英霊システムというのは改めて偉大な発明だったと言わざるをえません。そして、十代の「クラスのうちで目立たないコ」に向けた幻想とはいえ、プレイ時間の割にボリュームを感じなかったのは、やはり生死にまつわる観念的なト書きに共振できないほど、私が年を取ってしまったということでしょうか。初老を越えたら死は、健康診断の数値に表される、ただの現実ですからね。最近、思うところあって、江森備の私説三国志を読み直してるんです(蒼天航路を経たいま、脳内ビジュアルがあっちに引っ張られて大変)けど、もし月姫が小説道場に投稿されていたら、栗本薫はどんな評をつけただろうなーとか、終盤のプレイ中に考えていました。

 あと、Z指定なのにセックスシーンの描写が江森備ばりに短い(あっちはそれでも超ドエロだけど)のには、たいそうガッカリしました。なんのために上限いっぱいの年齢制限をしたんや! Fateの王様ルートでの魔力供給のアレみたいに、高校2年生が突然、オッサンみたいなネチッこい言葉ぜめーーノベルだからしょうがないのかしらーーをやりだすのを、有名声優の熱演で聞けると期待していたのに! それ以前に、吸血衝動うんぬんがセックスの暗喩(若い書き手の含羞による)だと思ってたので、あの場面では思わず、「ファックするんかい!」と声を出してしまいました。Fateシリーズと違って、月姫世界では血液と精液は別モノなんですかね? 「上の口から血液を飲むことを拒絶しても、下の口から精液を入れたら魔術的に同じことなのでは?」などと思ってしまいました。

 それと、代行者先輩(笑)が「なぜあんな化物を気にかけるの?」みたいなことを尋ねて、主人公が「愛してるから」と答える場面があるじゃないですか。もしかすると感動的なシーンなのかもしれませんが、やっぱり美醜の問題を感じてしまいましたねー。ガワがパイオツカーデーのパツキン美女なら、中身が化物だろうが宇宙人だろうが、愛せるに決まってるじゃねえか、っていう。あらためて、ファイアパンチでの問題提起(トガタの退場とともに消失したけど)が、二次元業界内では類まれなことを確認できました。なんか以前、似たような感想を抱いた作品があったなー、なんだったかなーと考えていたら、ゼノブレイドクロスだった。

 シエル・ルート、少し読んでは私説三国志に戻るのを繰り返している。全面改稿ではなく「書き直し、書き足し」のようで、オリジナルの文章ママとおぼしきところで、ちょっと読んでられない気持ちになってしまうのです。

 あと、女性キャラクターがこぶしを軽くにぎって上腕を双丘の傾斜に沿わせるようにハの字に胸元へ引き寄せる「肉のカーテン」みたいな仕草、すごく昭和レトロって感じがするなー。こんなムーヴをする女子、最近とんと見ないなー。

 雑文「小説道場・月姫編」

ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO第2部6章の感想、まずは謝罪から。5章終了後の感想で、「すでに語りつくされたブリテンとアーサー王をどうも再話しそうな感じ」とかシャバゾーがチョーシこいて、本当にすいませんでした。ファンガスの野郎、無印Fateのセイバーの話と第1部6章を下敷きに、現代社会の戯画を織り込んだファンタジー世界をまるまるひとつ構築する(しかも、壊すために!)という離れ技をやってのけやがりました! Fateシリーズって、基本的に「キャラクターの物語」であり続けていると思うんですけど、アヴァロン・ル・フェはそれを維持しながら「社会と関係性の物語」へと進化しているのには、口はばったい言い方ながら、ファンガスが「成長する書き手」であることをあらためて強く感じました。彼の作劇が優れている点は、まず物語全体を結論まで鳥瞰して、構成の骨格をキッチリ組んでから、キャラを配置していくところでしょう。行き当たりばったりの「神待ち」シンエヴァとは違って、作り手が「神その人」であることへ常に自覚的なのです。その上で、「どの部分を厚くして、どの順番で提示すれば、もっとも効果的に読み手の感情をゆさぶることができるか?」を計算半分、センス半分でやっている。第2部6章も、ひとつひとつのモチーフだけで別の作品が作れそうな内容をぎゅうぎゅうに詰め込むことで、第三村のようなスカスカの書割とは違う実在する世界が、眼前で本当にどうしようもなく壊れていくのを当事者として読み手へ体験させるというすさまじさです。妖精国って、昨今のインターネット界隈と現実社会の醜悪なリンクを比喩的に描いている側面があると思うんですよね。だから、このストーリーを読んだ誰もが自分をどの登場人物かの境遇に仮託してしまう作りになっていて、世界全体を俯瞰的に見下ろす傍観者の立ち場へ逃げ込むことを許さない。市井のモブにも目配りを忘れず、「破滅が迫る中、恩人の元へ駆けもどって、二人で抱き合いながら地割れに呑まれて死ぬ」とか、読み手を信頼して背景の想像を預けてくれる感じが常にあり、それが奥行きを作り出している。シンエヴァの「受け手の読み方をコントロールするため、クダクダ説明してゴテゴテ描写するくせに、肝心なところは盲のような空洞になっている」とは真逆の態度です。「地割れに呑まれる二人」のくだりを読んで、栗本薫がトーラスのオロの話を何度も自慢していたのを、ふと思い出しました。グイン・サーガの1巻で死んだ端役が、その後いかに長きにわたって読者の心を離さなかったかという話です。小説道場の文体模写やってる人をどこかで見かけたけど、あれで栗本薫のシンエヴァ批評やってくんないかなー。

 あと、マーリンとオベロンを別人物として表裏の存在に置こうとしているのは、スキルの効果説明から理解できましたが、作中のテキストのみでは同一人物にしか感じられず、けっこう混乱しました。以前、「マーリンはFGOにおける作者アバター」という指摘をしましたが、オベロンもやはり虚構内のキャラというよりは、ファンガスのアバター色が強く出ていて、それが混乱を招いた原因だと思います。マーリンが「人間から距離を置いた、酷薄な虚構摂取ジャンキー」であるのに対して、オベロンは「人間へ積極的に関わり、世界への失望を深める信頼できない語り手」の配置になっていて、前者はFGOを始める前のファンガス、後者はFGOがメガヒットした後のファンガスなのではないかと邪推してしまいます。「もっとも高貴な者が、もっとも卑しい者に救われる」モチーフーーこの構文、6章にも出てきましたね! イエーイ、ファンガス、見てるぅ? 生けるネット呪詛だぞぅ!ーーは以前からありましたが、「高貴な者が救われるとき、卑しい者を疎んじる」視点がそこへ生じたのが、今回の大きな変化でしょう。じっさい、インターネットを通じて眺める人間や世界というものは、地虫のクソ溜めとなんら変わるところはないですからね! イヤな言い方をしますけど、オベロン視点の「虫」は最後のアレを含めて、FGOファンの暗喩だと思いますよ。愛憎が常にぐるぐる回転していて、どれだけ魅力的な世界を紡いでも、ファンの底なしの欲望へと吸い込まれて、すべて消えていく。

 けれど、現実とインターネットが互いに照射しあえば、ときに掃き溜めへ白い鶴がすっくと立ち、ときに泥の内から蓮の華が薄紅色に咲く。ダビンチちゃんが刺し殺されるフラグーー偉大な英雄の功績が、その情けによって生まれたモンスターに中絶させられるーーをさんざんに立てておきながら、最後の最後で「彼をそうさせない」(オーロラと美醜の対比になっているのが、また素晴らしい)。先日、ネット局所で話題となった「怒りをこめてふりかえれ」と同じ問いかけでありながら、回答が異なっている。これはしかし、正誤ではなく資質の違いとしか言いようがありません。真摯に書かれたあらゆる表現は、書き手の人格のすべてをあますところなく他者に読み取らせてしまうものなのです。「作品と作者は切り離すべき」という話は、法律とか社会というレベルでは「是」なのでしょう。けれど、作者と読者が一個の人間として互いに向きあうとき、その命題は絶対的に「否」なのです。本当に作品と作者が切り離せるとしたら、虚構を紡ぐという営為は、人工知能が自動生成したテキストと何ら変わらなくなってしまうでしょう。同じ時代の、同じ世界で、同じ空の下、同じ大地を踏み、同じ空気を吸って、違うできごとに笑い、違うできごとに励まされ、違うできごとに絶望し、それでも生きていくのを選ぶだれかが、心から真実に発する言葉にだけ、語られる意味がある。私はそれを聞きたいし、それを知りたいと思う。

 FGOは過去の神話や英雄譚に依拠した本質的に荒唐無稽の物語で、幕間の物語などを読むとき、その拙さ、もっと言えば幼稚さが浮き彫りとなって、暗澹たる気分にさせられます。しかし、いったんファンガスが筆をとれば、FGOは現在進行形の「いま」を鮮やかに描き出す至高の物語装置へと変化するのです。他の書き手が調べた設定をキャラに落とし込むのに四苦八苦する段階なのに対して、唯一ファンガスだけが設定を利用して「いま」の深層をえぐる物語を紡ぐことができる。第2部6章ではオベロンが特にそうで、シェイクスピアの劇中設定を使いながら、現代社会の在り方への批判とフィクションを紡ぐ者の覚悟が平行して描かれている。第2部4章では、おそらく現実の事件に寄せて、有益と無益で生命の価値を弁別することへ向けた猛烈な反発を描いたファンガスが、今回はいまの時代に漂う欺瞞に満ちた空気に対する強烈な違和感を表明している。「過去の人間のマネゴトをして、過去の人間に依存しなくては生きられない」妖精たちは、いったい何の戯画なのかを考えてみて下さい。キャスターの足の指が凍傷で何本か欠損していることがサラッと書いてあったり、見えなければ他者の痛みを無視できる我々の無自覚性への批判も痛烈です。主人公の脳内にリフレインして、窮地を伝えたペペロンチーノの言葉も、「死んだ者は、生者の中でカッコつきの『死者』として生き続ける」を今日的に表しており、あの一連の展開は年齢の順に人が死なない世界における、ある種の「しるべ」に思えました。これらの表現を、意識的にやってるか無意識的なのかはまったく不明ながら、ファンガスの書くFGOこそ、いまの時代を生きる人々がリアルタイムに追いかけるべき作品であることは間違いありません。

 生活感情を物語へと翻訳できるのは、たいへんな異能力だと思いますし、たぶん社長のジャッジで遠ざけてると思うんですけど、ツイッターとか(例の日記も少しそう)やりだしたら、メッセージ性が極限にギュッと濃縮されて特異点化したこの感じが薄まる気は、すごくしています。なのでファンガスには、「生きながらフィクションに葬られ」た者として、今後も最果ての塔(タイプムーン本社?)に幽閉されたまま、すべての感情を余すところなく物語にだけ落としこんで欲しいと思います(最後の2行はルーン文字についた日本語キャプションとして読んで下さい)。

アニメ「終末のワルキューレ」感想

 FF11へ社畜なりに復帰すると、勢いモニターの前へ座る時間が増えます。そうすると同時に、映像作品を見る機会が多くなるわけです(「ながら見」と「倍速見」のどっちがより罪深いかは、私にはわかりません)。シンエヴァはてブ全レス祭りで「もっとアニメを見なさい」と言われたので、根が素直な私は海外ドラマをわきによせて、最近はアニメばっか流しています(オタクになりたい中年なので)。んで今日、やたらとリコメンドに上がってくる「終末のワルキューレ」ってのを見たんですけど、これがまー、すごかった。未見の向きに一言で説明すると、「刃牙風味のジェネリックFGO(止め絵)」とでもなりましょうか。しかも、両手にプラモをつかんで戦わせる小学校低学年の脳内に展開しているような、小学校中学年のファンガスがジャポニカ学習帳にひらがなで書いたような、そんなストーリーなのです。ひとむかし前なら、このテ(レベル)の物語のニーズはマガジンのヤンキー漫画が満たしていたと思うんですけど、オタク文化の低偏差値化が進行していく中で、こういった合体事故みたいな作品をそのまま楽しめる層が生まれていることへ、我々はずいぶんと遠くに来てしまったのだという感慨を抱きました。

 でも、Netflixオリジナル作品ってことは、日本だけではなく諸外国にも同時配信されてるんですよね? ギリシャ神話はフィクション枠というか、現実の信仰とほとんど関係がないからいいんですけど、旧約聖書とかインド神話からの登場人物がいるのって、ヤバくないですか? この物語偏差値(目測で32くらい)だと、ブッダでもキリストでもないあの御方を、何も考えずにキャラ化ーー毛筆で「天国百人処女性交」などの技名がカットインするーーして、全世界を巻き込んだ大炎上から現代の「悪魔の詩事件」に発展しないか、否応に緊張感が高まります。終末のワルキューレ、盤外戦的な意味で今後、目が離せない作品と言えましょう。

 また余計な追記をしますけど、エヴァ旧劇がFGOなら、シンエヴァは終末のワルキューレですね。

アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(10話まで)」感想

 あかん、スーパーカブの11話がおもしろすぎる。あとでなんか書くかも。

 スーパーカブ11話、見る。作画崩壊って言葉があるじゃないですか。納期に追われて絵が間に合わなくなるやつ。いや、作画は安定してますよ。問題なのは、それ以外のすべてです。今回ついに、シナリオが崩壊し、演出が崩壊し、極めつけは主人公の一人称が「スーパーカブ」になって人格が崩壊しました。

 前回も言いましたけど、友人の遭難事故に際して、まず警察と相手方の両親に電話してから、それでも居ても立っていられなくなって、カブで走り出すならわかるんですよ。それを「スーパーカブが行く」などと自我と無機物との境界が壊れた言葉を放ったあと、無連絡の単機で救援へと向かうのです。そのあげく、ぬかるみに車輪を取られて二次遭難しかかる描写が丁寧に入っていたり、視聴者の情動をどう誘導したいのかサッパリわかりません(主人公のアホさへの苛立ち?)。

 そして、沢で倒れている友人を発見したスーパーカブはほとんど垂直に見える濡れた岩肌を伝い下ります。てっきりスーパーカブが友人を背負って斜面を登るのかと思いきや、「オレはオマエをかつげない。サポートはするが、ひとりで登れ」などと星一徹だか百獣の王だかみたいなことを言い放ちます。これにはFF11をプレイする手が止まり、思わず「えー!」と声が出ました。友人が垂直の壁面を自力で登ったあと(登れるんかい!)、スーパーカブはカブキチガイの友人に電話をし、何ごとかを頼みます。間接的にですけど、ようやく相手方の両親と警察か消防に連絡してくれるのだとホッとしていたら、何を思ったのかスーパーカブは友人を抱き上げ(さっきかつげないゆうてたやんけ!)、スーパーカブの前カゴにダンケダンケとブチ込みます。困惑する友人が見上げたスーパーカブの顔は、ネットで道交法違反だと重箱の隅をつつかれたことへの怒りに燃える鬼の形相をしており、KOGUMAというよりAKUMAのようでした。しかし、BPOへの配慮からか、凄腕アニメーターの欠如からか、前カゴに女子高生を乗せたスーパーカブがサイレンを鳴らす多くのパトカーに追われながら公道を疾走する様を長尺で描かなかったのは、とても残念です。

 そして、てっきり病院か両親の元へ連れて行くのだと思っていたら、なんとスーパーカブは女子高生を自宅へと持ち帰ります(流行ってんの、この設定?)。沢に落ちて、その姿勢のまま動けなかったのだから、打身や捻挫や骨折や外傷性ショックや低体温症や脳震盪を疑ってしかるべき状況です。いや、一人称がスーパーカブの級友へまっさきに電話するぐらいですから、頭を強く打っていることは間違いありません。

 スーパーカブはこごえる友人を温めようとバスタブに湯をためるのですが、熱湯を水でうめるタイプの蛇口なのに、青へは触れず赤のハンドルだけをグイと強く回したのです。沢落ち以降、すべての行動が社会常識から逸脱していくことを考えれば、いよいよゆるふわ日常系アニメの枠から離れ、友人を熱湯風呂へダンケダンケと放り込み、全身やけどを負わせるようなサイコホラーへと変じたのではないかと疑いました。あやういところでカブキチがスーパーカブの自宅へと到着し、団塊老人の横顔で「オフロ、オフロ」と言いながら女子高生の煮汁たっぷりの浴槽へ向かって、かろうじて日常は回復します。

 スーパーカブが友人のパンツを部屋干ししようとすると、シーちょう(C調?)だかゆうこの人物は一種異様なまでにうろたえ、激しい羞恥を露わにします。いまどきの女子が、下着ぐらいでこれほどうろたえるものでしょうか。このシーンは団塊老人による願望、すなわち昭和の少女幻想を強く感じさせます。そして、なんでもレトルトで済ませる一人ぐらしの女子高生が、卵をあらかじめゆでておき、カラに極太マッキーで「ゆで」と書くだろうかという深淵な命題(演出の失敗)を我々に残したまま、カレーうどんの夕食(スカトロジーの暗喩?)が終わります。

 罪悪感から皿洗いに従事するシーちょうへ向かって、カブキチが唐突に満面の笑顔で「オマエの高級自転車はフレームがイカれてて、もう廃車だ」と告げ、スーパーカブからの電話が両親・警察・消防への連絡を依頼したものではなく、自転車の引き上げのみをお願いしていたという衝撃の事実が判明します。シーちょうの手にしたうどん鉢から水道水があふれて感情の高まりと決壊を暗喩するという、ツバキの落下が処女喪失を示すみたいな演出のあと、シーちょうは「冬はイヤなんで、いますぐ春にしてください」などとスーパーカブにウワメヅカイでしなだれかかるのです(前から思ってましたけど、この子ちょっと知能の発育に問題があるんじゃないですかね? FGO第2部ふうに記述するなら「恥丘白痴化」ですか?)。その未就学児ばりのムチャぶりに、スーパーカブは「それは、スーパーカブにもできない」と返答します。このくだり、くしくもブロント語と似たような話法になっており、不意をつかれて(ふいだま)思わず爆笑してしまいした。

 翌日、大きなママチャリに乗って登校してきたシーちょうを、スーパーカブはネットリと視線で追いかけます。1話からの行動を順にならべてもわかるように、スーパーカブはかなり発達に特性を持った人物です。しかしながら、シーちょうがママチャリに乗ってきたことを脳内で描写するト書きはその特性を越えて、リタイア後にブンガクをやり始めた団塊老人みたいなキモチワルイ筆となっていて、キャラとシナリオ崩壊の印象をいっそう強めるのです。

 さらに場面はシーちょうの実家である喫茶店へと移りますが、ご両親はスーパーカブとカブキチに手放しの感謝をしか示さないんです。ケガが無かったからよかったようなものの、ふつうの親ならスーパーカブのおかしな判断に嫌味のひとつも言うでしょうし、娘には奇矯な級友たちと今後は距離を置くよう裏でささやくかもしれません。山奥の自営業とアメリカ人だから、常識がブッとんでいるんでしょうか。かてて加えて、ご両親はスーパーカブとカブキチに向こう1年の飲食無料券まで渡すのです(このカード、店にあらかじめ備えてあったものみたいですが、どういう一般的な商いの状況で客に渡すんでしょうね?)。娘の生命と1年分の飲食代金が等価というのは、なんとも下品かつ卑しいジャッジで、山奥の自営業とアメリカ人だからこそ為せるワザなのかもしれません。これまでも娘の友人のよしみ、タダで飲み食いさせてもらっているのだろうと好意的に補完してたんですけど、このやりとりから食費を切り詰めるために自炊をするかたわら、500円以上する高級豆のコーヒーを自腹でガバガバ飲みまくっていたことが確定してしまいました。

 そしてラストシーン、シーちょうから白痴的笑顔を向けられた瞬間、なぜかスーパーカブの頭髪は前方から送風機を当てられたようになびきはじめ、初代SAWラストシーンばりの回想フラッシュバックが始まるのです。1話の坂道でスーパーカブの自転車を後方からブッちぎっていったのが、じつはシーちょうだったことが明らかになったり、スーパーカブが「このままではフユ(?)に殺されてしまう」とか言い出したり、マーダーミステリーにでもジャンルが変わったのかと一瞬、本気で戸惑いました。

 次回が最終話とのことですが、春の鹿児島でカブキチがスーパーカブの左足をスーパーカブの前輪で轢断し、「嗚呼、フユの毒素が下半身から抜けていく」とか言いながら息絶え、その遺体が団塊老人にメタモルフォーゼして終わったりしないか、怖くなってきました。

 ともあれ、「SHIROBAKO」を見てアニメ業界に入ろうと思っている諸氏は、シナリオ・演出ともに超高校級のバッド・サンプルであるスーパーカブ11話をケンケンフクヨーし、他山の石としましょう。

 アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想

ゲーム「2021年のFGO」雑文集

ゲーム「2020年のFGO」雑文集

 鬼一(キーチ)VS

 FGO、カレンというのは過去作の人気キャラのようですね。冒頭部分のシナリオがファンガス直筆なので、もちろん引かせていただいております。ギャグ時空でのファンガスの文章はおそろしく精緻で、ほとんど凝視しながらゆっくり読み進めますが、一文字たりとも改変の余地がありません。感嘆のため息が出ます。いまは失われた、薄いナイフの刃さえ通さない、古代の石垣積みの技術のようです。FGOのガチャ、少なくともここ半年は課金していませんが、新規の星5はすべて持っています。法具レベルにこだわりがない(1で充分)のと、サービス開始当初からプレイしており、最近のガチャは復刻が優勢で新キャラの投入が間遠なので、配布された石とか呼符だけで引いてしまいます。おや、「引けて」ではなく「引いて」と表現したことが気にかかりましたか。FGOのガチャは漫然と引くのではなく、意志を持って引くのです。詳しくは、この記事をご覧ください。これ以上の戦略は社外秘となりますので、萌え画像を寄贈いただいた方にのみ、特別にお伝えしております。寄贈先はこちら(geikakotori@gmail.com)。

 油断すると手がエヴァに関する文章を書き始めてしまうため、気持ちをもぎはなすようにエフジーオーのイベントをやってる。テキスト部分のボリュームこそ少ないものの、各キャラの特徴をブレずに芯でとらえた、ファンガスの手による正しいギャグ時空で、最後にはちょっとシリアスからの、ホロリとさせる落とし方もうまい。フランケンシュタインとかピグマリオンとか、「人形が魂を得る」というモチーフーーつまりは、支配的な親と隷属する子どもーーに昔から弱いこともありますが、ありていに言ってとても感動しました。しかしながら、クリア後の裏面が丸々100階も用意されてるのには、サービスのつもりかもしれませんが、正直ゲンナリです。所持サーバントの数が多いほど有利になるのは古参への目くばせでしょうけど、実装されたキャラは90%近く持っていて、NP100礼装も3枚そろってて、120円玉も躊躇なく連コインできる富豪の私でさえ、こんなにもプレイするのがダルい。いい加減サブスク方式でいいから、宝具スキップさせてよ、もう! このイベント、新しく入ってきた人はどんなふうに感じてるでしょうね。ウマ娘やりてーなー、とか愚痴りながらテキトーに編成して宝具ボタンを3回押す作業を延々と繰り返すのって、まさに「コンコルド効果」の最たるものですよねー。

 FGOの例のSLG、AIのアホさをマップの形状でカバーしたりして、だいぶ中身がこなれてきたんですけど、歯ごたえが高まれば高まるほど、べつに私はこのゲームをプレイしたいわけじゃないなー、報酬のために消化するのがただただめんどくさいなー、という気持ちになってきました。小鳥猊下です。

 とばっちりだけど、FGOも宝具スキップが無いという点だけで、一定数の客を失ってしまっている気がします。ウマ娘のスキル発動で「1日1回だけフルで見せて、残りは短縮表示する」みたいな設定があるんだけど、これを見習うといいんじゃないでしょうか。

 FGO第2部6章、ひさしぶりに星5を引けなかったが、ダビンチちゃん、おじいちゃん、キャスドラゴンちゃんはすでに弊カルデアへの招聘を済ませている。つまり、今回のハイペリオン的な巡礼の旅へ参加するメンツに過不足は無く、序盤の現在で、神造兵器「ユキチ・フクザワ」を投入すべき理由は皆無だ。それどころか、すごい勢いで宝具が回転しまくるため、120円玉の連コインさえまったく必要ないぐらいである。しかしながら、半年にわたってシンエヴァへの呪詛を吐きちらしている裏で、ファンガスがかような物語をコツコツと紡いでいたかと思うと、己の不明を恥じ入ることしきりである。ていねいに文字数を費やして、あるキャラクターとその背景をビルドアップしながら、たった1行で殺す。そのするどい切れ味には、なまくらな物語への自分語りでひん曲がった背筋が、すっくと伸びる思いです。

 FGO第2部6章、ときどきマテリアルに戻って再読したりしながら、一文一文を読み落とさないよう解釈しつつ、ゆっくりと進めてる。ファンガスの語る設定のみがこの世界における真実であり、その意味で他の書き手とは一文に込められた情報量がまったく異なるからだ。そして、第1部7章にも感じたことですが、本当に彼はFC・SFC時代のRPG的な組み立てが好きですね。まだ序盤ですが「妖精たちとゼロから始めるアーサー王伝説」といった切り口で、どのような終局へと突き進んでいくのか、大いに興味をかきたてられます。処女作に厚みを持たせるために用意された、作品内に直接は登場しない世界設定集ってあるじゃないですか。例えば初期のランスシリーズがまさにそれで、あちらは30年かけて設定のほぼすべてを作品内で回収しました(余談ながら、回収しなかったのが「スレイヤーズ!」で、回収できなかったのが「ベルセルク」)。型月世界っていうんですか? wikiを眺めると、コアなファンだけが知っている世界設定が無数にあって、でもファン自身も肝心の書き手が一人しかおらず、しかも超遅筆なこともあいまって、どれも回収されることなく終わるんだろうなーって、薄々どこかで感じてたと思うんです。それが、FGOのすさまじいヒットーーコアなファンのものという枠組みを越えて、無印Fateを「長いなー」と感じながら、王様の話だけクリアしたぐらいの人物にもリーチしたーーで状況が大きく変わった。書き手が目に見える巨大なカネによって評価を実感し、物語をつむぐスピードを急加速させたのです。noteに数百円くらいを課金されただけでうれしくなって何か書こうと思うくらいですから、百億円など売り上げようものなら、「この物語を紡ぐことは、時代が私に要請する使命だ」ぐらいに考えても不思議はありません。

 さらにFGOの大ヒットがプラスに働いたのは物語スケールの転換で、それまで書き手がどこかで囚われ、無意識の枷としていた「ある地方都市での伝奇譚」というくびきから、完全に解き放たれた点だと指摘できるでしょう。日常的な生活の舞台では披歴のしようも無かった設定を、人類史にまたがるFGOの物語スケールなら回収することができる。第1部6章、7章、終章と物語を進めるうちに、書き手がそこへ確信を深めたのだと推測します。第2部4章、5章後半(前半はクソクソのクソ)、そして公開された6章と、どんどん世界の謎の深奥へと接近していく手触りがあります。「星の内海」とか、字面を眺めているだけでもワクワクする。

 ただひとつ残念なのは、「スマホで読む世界文学」として胸を張って推奨できるFGOも、アニメ化されるとなぜかパッとしなくなってしまうところです。どれも恥ずかしくて、人に薦められないものになっちゃう。直近の第1部6章映画化の興収も、ファンの感じているこの空気を裏付ける感じで推移しているように見えます。これは、RPGでいうところの序盤から中盤を丁寧に描写したいファンガスの資質ーーそれが終盤の爆発的カタルシスにつながるーーを、前編・後編という長さに落としこんだ結果、映画としては間のびしてしまったからだろうと思います。ファンガスのシナリオを刈りこんで、映像作品として再構成し直す手腕を持つ人物が必要なのでしょう。ともあれ、第3部に懐疑的な私は、「罪と罰」の雑誌連載をリアルタイムで追うことのできた読者の気持ちで、残りページの方が少なくなった物語を惜しむように読み進めている次第です。

 FGO第2部6章、6月実装分までクリア。前後編に分割するというから、FF6でいうところの世界崩壊のようなマップが激変するイベントが区切りになるのだろうと勝手に想像していました。「モルガンは中ボスに過ぎず、ラスボスの顔見せで引き」みたいに、演出のための前後編だと期待していたのです。そしたら、なんとも中途半端なところでストーリーがブツ切りにされていて、単純にテキスト・ライティングか演出の実装が間に合っていないだけのことが露呈しました。ファンガスの筆ならいくらでも待つので、こういうしょうもないところの印象で作品の価値を下げない方がいいですよ。誤解のないよう言っておくと、ストーリー自体はさすがの面白さでした。

 アヴァロン・ル・フェ、聖杯の入手までクリア。現段階の感想としては、「はァ? 重課金ユーザーを虚仮にすんのも、ええ加減にしとけよ。情動オナニーの絶頂を寸止めされんの、すげえイラつくわ」。

 ひと晩たってアルコールも抜け、冷静になったのでFGO追記。第6章全体の感想はエピローグまで終わってからにしますが、「カルデアの存在が人類史における剪定事象」という結論に向けて物語が進んでいる気がします。「FGOの冒険はすべて無かったことになる」のが、サービス終了と同時に描かれれば、この上なく美しいエンディングとなるでしょう。全盛期より売り上げを落としたとは言いながら、複数の会社の存立にまで食い込んだ巨大IPを、クリエイターの一存で終わらせることができるのかという難題は残ります。しかし、ファンガスは書き手として、「美しさに抗えない人」だと思うのです。彼が一貫して描いてきたのは、「いちど失われたものは取り戻せず、残された美しい思い出こそが人の崇高さの証である」というメッセージです。はたしてFGOは、「大きな喪失感とともに、ユーザーの記憶にだけ残り続ける気高い物語」として終わることができるのでしょうか。

 FGO第2部6章、演出かライティングの実装が間に合っていないか、ファンガスがエゴサで阿鼻叫喚の感想を読み漁りたいか、いずれかの理由から再びおあずけを食らっているため、溜まりに溜まった「幕間の物語」をイヤイヤ読んでる。体感で98%以上がハズレのテキストで、自分が頭の悪いジャリ向けの集金アプリにいれあげていることを改めて突きつけられ、暗澹たる気持ちになってくる。そして、見かけは渋面のまま心を弛緩させていたら、カイニスの幕間がファンガスの筆で書かれていて、涙腺にクリティカルヒットした。これがあるから、すべての「幕間の物語」にとりあえず目を通さないわけにはいかないのです。おそらくFGOユーザーのうちの少なくない数が、「あとで読むから」と言い訳しながら、報酬やスキル強化のためだけに幕間を全スキップしてると思うんですよ。そうして、アプリ外で行われる可処分時間の戦争から、あとで読まれることは決してない。カイニスの挿話とかが多くの目に触れず消えていくのはあまりに切ないので、ファンガスが書いた幕間だけ金枠とかつけて明示してはいかがでしょうか。星1と星5しか入ってないテキストガチャを延々と引かされるの、いい加減しんどいです。

 FGO第2部6章読了。古くからのFateファンは「来い、キャスター!」にウレションしてるんでしょうねー。詳しい感想は、また後日。それにしても、「成長や到達に、意思や信念が伴うことへの疑念」って、無印Fateとは真逆のテーマになってて、これは奇しくもファンガス自身が英霊(筆一本で百億を叩き出す、テキスト界のスーパースター!)と化した事実に呼応していると感じました。そして、「物語を現実の下に置き、現実の高所から物語を批評して、語り終えた物語は忘れられる」という恨み節は、シンエヴァへ向けられたものでしょう。あんなアンチ・フィクションが、「忘れられずに残る」ことが許せないに違いありません。知らんけど。

 第2部6章、気になった細かい点を2つ。モルガンとパーヴァン・シーにまつわる顛末がまったく無かったのには、少し拍子抜けしました。ケルヌンノスの神核が剥き出しになったところで、その挿話がネットリ始まると思って身構えていたのに! まあ、パーヴァン・シー自体がどこまで行っても「自傷行為をやめられない十代の少女」を拡大したキャラでしかなく、この母娘のすれ違いを新たな厄災として詳細に描写する意義が、いまのファンガス(アラフィフくらい?)には、もはや感じられなかったのかもしれません。期待の超大型人非人・ベリルに関して、マシュの過去(と純潔)を汚さないため、持ち味のモンスター感が大幅に抑制されてしまったのには、残念の一言です。彼の退場に漏れた声は、「え、それだけ?」でした。ここはまあ、二次創作で盛大に補完されることを期待しましょう。

 FGO第2部6章の感想、もっとくわしく聞きたい?
 よかろう、続けたまえ。当方に、拝聴の準備あり。60%
 まだクリアしてないんで、しばらく待って下さい。6.7%
 シンエヴァへのディスりが聞けるなら、あるいは。33.3%

 アンケート結果を見ると、まだクリアしていない方がおられるようなので、今晩まで待つことにします。5時間が秒で消える戴冠式なので、安心ですね。

 そうそう、こないだFGO6周年でレベル上限が120になったじゃないですか。「よーし、6年連続ログインしている重課金者のたしなみとして、パーフェクトキャラを作っちゃうぞー」などと息まいて、さっそく1体レベル102にして星5種火を20個つっこんだら、経験値ゲージが数ミリしか動かないの。これってつまり、新設された星5種火周回を数百回単位でやらないと最大レベルにはできないってことなのね。まあ、今回の成長要素追加って、対人要素があるわけでもないし、運営からのサービスの側面が強いと思うんですけど、正直なえました。戦術や敗北の要素が絶無の種火周回って、虚無そのものの作業じゃないですか。せめてこのタイミングで宝具スキップをあわせて導入してくれていれば、印象も違ったように思います。などと愚痴りながらも、じつは1キャラだけレベル120に到達してるんですよねー。唐突にFF11の近況報告をしておくと、3キャラ目が仕上がってきたので、ラスボスよりも強いカニと魚で延々とジョブポ稼ぎをやっています。1キャラ目と2キャラ目のウェポンスキルで連携つくって、3キャラ目でマジックバーストを2回いれる作業でけっこう忙しいんですけど、慣れてくるとTP待ちで手と脳がヒマになる時間が数秒あるんですよね。この隙間にFGOの星5種火周回を入れると、ピッタリとハマりました。休みの日も業務が頭に浮かぶタイプの社畜なのですが、完全に思考を消した作業マシンと化すことで、ひさしぶりにノーストレスの時間を過ごすことができました。ジョブポ500くらいのキャラがカンストするのとレベル120到達が同時くらいでしたので、まさに「いにしえのMMORPG」と同水準のタイム・コンシューミングな延命方法だと言えましょう。FF11に関わったスタッフがFGO関係者にいるみたいな話をどこかで目にしたことがありますので、今回の仕様もむべなるかなといったところでしょうか。第2部の終わりで所持サーヴァントごと新アプリへと移行させるとき(風説の流布)には、宝具スキップを含めて感性をアップデートしてほしいものです。

 ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO夏イベ、かつてのテキストサイトを思わせる悪ノリ文章がたいへんに面白く、まさしく年に一度のお祭りって感じで大いに楽しんでいる。しかしながら、このイベントの真の目的はダビンチさんを配布することにこそあるのだと指摘しておこう。え、アヴァロン・ル・フェが終わったのに、ダ・ヴィンチ表記に戻さないんですかって? バカヤロウ! 俺が彼女に向ける視線は、いわば矢吹丈を見つめる鑑別所のモブ、妖精国のマイクさんのそれと完全に同化してしまってんだよ! あれだけ何度も意味深にピックアップしてきたのに、いまだにライダビンチさんを引けていない甲斐性なしのボンクラどもへ業を煮やしたファンガスが、ただあとから奪うためだけに水着ダビンチさんをてめえらに下賜くださってるんだよ(この文、傍点付き)! 第2部7章でダビンチさんが「いなくなる」ことは、これまでの伏線から考えれば、ほぼ確定の事項であると言えるだろう。「盛夏の滅び」は、本邦に生を受けた者たちの心性に深く刻まれていて、それはもはや無意識の願望と近いところにある。軽躁的なテキストの裏にひそむ寂滅を感得しながら読むことで、今回のイベントはあとになってから重層的な意味をもって、我々の胸へとよみがえるだろうことを予言しておく。

 FGO夏イベ、メチャクチャ面白いなー。これまでさんざんヘイトを集めてきたFGO随一の嫌われキャラであるコロンブスを、開き直ってヘイト方向へと突き抜けさせることで逆に笑わせたり、ファンの反応をキッチリ織り込んで話を作ってきてる。黒髭のメタっぽい発言やギャグもすごいノリノリで書いてあるし、リアルタイムで追いかけないと本当の意味では体感できない面白さで、いままさにいっしょに物語を紡いでいる感じがすごくするなー。個人的に大ッ嫌いだったマンぐり返しとメンヘラ自傷女を魅力的なキャラに描きなおしているし、まさにノムラならぬファンガス再生工場と言えましょう(清少納言が生き生きと活躍していることと、「だぞぅ!」語尾が確認できたので、メインの筆は彼で間違いない)。ピックアップ2、はやく来ないかなー。

 FGO夏イベ、オールクリア(たぶん)。一糸乱れぬギャグ時空からの、完璧な遺言でした。彼女はこの記憶があれば、贋作として生きた己の短い生を肯定できるでしょう。蛇足ながら指摘しておくと、ダビンチさんの宝具演出から推測して、初期プロットは多くの恐竜たちと出会うドラえもんの長編映画(プラス、ポケモン)のようなものだったのではないでしょうか。それが、「ダビンチさんの作った精巧なロボット恐竜」という設定に置き換わってしまった。これまた邪推ですが、アガルタかセイレムが預かったプロットで途中まで書き進めてて、監修を繰り返すうちにその中身をファンガスが許せなくなり、最後にはぜんぶ捨ててーー「ええい、カッカソーヨーもいいとこじゃねえか! よこせ、オレがぜんぶ書く!」ーーイチから書き直したのではないでしょうか。だとすれば、夏イベにしては短め(内容はパーフェクト)なのもうなずけるところです。絶対に外してはならないカンどころを外さないのが、FGOの持つ最大の美点であり、ダビンチさんの最後の冒険は、間違いなくその体現でした。これは裏を返せば、キャラクターへの共感であり、敬意であり、愛なのです。シンエヴァが持たなかったすべてを、いまのFGOは備えています。赤い砂浜で静かに眠っていたのを、薄汚いカネもうけのためだけに引きずりだされて、あげくまたゴミのように捨てられてしまったあの少年のことが、どこまでも、どこまでも、どこまでも不憫でなりません。

 あと、大陸版で中華系のキャラが削除されまくってる話ですが、遺憾の意を示したり強く抗議するのではなく、ギャグにせよシリアスにせよ、虚構内でのネタや風刺へと昇華してほしいと願っています。それこそが、我々の現実と並走しながら物語を紡ぐFGOの、いやファンガスの真骨頂ではないでしょうか。

 ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 FGOのぐだぐだイベント、メイン部分をクリア。おそらく、邪馬台国と同じ「漫画でわかる」の人によるシナリオで、漫画家としての特性が為せる技だと推測しますが、伏線の構成が巧みだし、章またぎのヒキがうまいし、短いテキストでズバッと印象的な場面を作っている。だれ一人として死にキャラを出さず、各人の大義も葛藤も説得力を持って描かれていて、正直なところ強い感動を覚えました。高い更新頻度を求められるスマホアプリに埋め草のギャグ担当で呼ばれていたのが、登板を重ねるごとに少しずつ周囲からの信頼を得ていくうち、次第に開発リソースを多く割いてもらえるようになり、とうとう本イベントで大輪の花を咲かせた感じがします。過去の実績や友人補正から、天下の百億円アプリで無条件に優遇してもらっているにも関わらず、それを意気に感じるどころか、ずっと裏切り続けてきたセイレムやアガルタとは、非常に対照的だと思いました。もしかすると戦国と幕末という制約はあるのかもしれませんが、私の中でファンガスの次に信頼できる書き手になったことをお伝えしておきます。

 FGOのレイド・イベントに「スカスカわんわん1ターンキル」で参加中。分量こそ少ないものの、直近のテキストが尻あがりに良くなっていったので、この年末のお祭りへ参加する気持ちになったからです(まあ、昨日までは仕事上がりにはレイドが終わっていましたが……)。人類悪の討伐が終わるまではインターネットにいますので、一日遅れのクリプレ萌え画像などを寄贈するとよいでしょう。

 FGOのツングースカ読了。単体のシナリオとしては悪くないけど、3年を引っ張った敵役との決着としては物足りないというのが正直なところです。テキストにしても、セイバーウォーズ2終盤のような駆け足感が常にあり、コヤンスカヤを仕留める場面さえ描写が薄くて、イマイチ盛り上がりに欠けました。太公望って、型月世界では歴史のある有名キャラなのかもしれませんけど、FGOから入った身にとってはポッと出の新キャラに過ぎず、カルデアとビーストとの因縁を取り扱う人物としては不適切だと思うんですよ。期待の新人・太公望のデビュー戦に、噛ませ犬でコヤンスカヤを使ったみたいなバランスの悪さを感じました。例えるなら、刑事コロンボだと思って調査パートを見てきたのに、謎解きパートで古畑任三郎が出てきて事件を解決しちゃったようなもんですよ、これ。

 あと、「どうでもいいと思ってるから、キッチリした仕事ができる」というのは、よくわかる感覚だと思いました。それと、もうだれかが同じツイートをしてるでしょうけど、ニキチッチのデカチッチがエロチッチだなーと思いました。