猫を起こさないように
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漫画「ギガントマキア」感想、あるいはベルセルクについて

 みんな蝕のシーンにやられて、ここまでついてきた。あれは後にも先にも無い、絶望を描き切ったアンチクライマックスの極北だった。

 彼の復讐劇の果てに、蝕の対となる真のクライマックスが訪れるはずだと、だれもが期待した。そして、十年近くが経った。キャラは増えに増え、描きこみの緻密さに比例するように、掲載の頻度は間遠になっていった。みんなもうどこかで気づいていながら、間違いなくかつての愛から、この物語の最期をどうにか看取りたいと願ってきた。

 だれもが完結を待つそのファンタジーを中断してまで描きたかったとのふれこみに、よほどのことかと手にとった。プロレスと少女と飲尿、そして既視感を伴う人体模型デザインの巨人。過剰な固有名詞はあるが、物語の中心はからっぽだ。テーマを失い、設定だけがふくれあがる近年の例のファンタジーと、それは相似を為していた。

 そして、悲しみとともに知る。もう二度と、蝕はやってこないことを。

漫画「ピコピコ少年1巻」感想、あるいはファミコンの記憶

 タラムイーン、アズ・ノウン・アズ貴様ら陸貝どもの粘液トラック、あるいは排泄痕を日々薄目で眺める情強の俺様は、いま話題のピコピコ少年とやらをキンドルでサクッとダウンロードし、ビジネスにつきものである移動中の無聊を慰めるべく閲覧してみた。

 唐突に話はそれるが、電子書籍にキンドルと名づける欧米人のセンスはすさまじい。これすなわち「焚書」の意であり、貴様ら有肺類にもわかりいいよう例えるなら、エロゲーを円盤メディアからフリーにする大統一ハードにカストレート、これすなわち「去勢」と名前をつけるような感じだ。すさまじい。

 作者とは、おそらく同世代に近いと思う。土地とゲームの固有名詞こそ違えど、驚くほど似たような少年時代を過ごしてきた。言ってみれば、ここ半世紀ほどで最もクソみたいな時代をだ。ちょうど地方の大家族で居場所を失った次女・次男坊以下が、故郷から放逐される形で都市へと出て、核家族化していった最初の世代の子どもだからだ。父親は週6日午前様で働いて日祝は得意先とゴルフ、母親は会社のヒエラルキーを日常にそのまま移した社宅での人間関係に神経をすり減らし、子どもへの教育を考えたところで、商業高卒の若妻に将来への明確なビジョンなどは求めるべくも無い。そんな弱みをゆすられての押し売り上等、クーリングオフの存在しない時代の訪問販売に馬鹿高い百科事典などを買わされて、ただただ泣き寝入りの末、子どもへ怒鳴り散らすみたいな、クソみたいな日々。

 教育的な定観が無いものだから、ファミコンが流行れば近所で仲間はずれにされては大変とすぐさま買い与える。大人の感情、時々の気分に支配される毎日を過ごしてきた子どもが、人生で初めて入力に間をおかず答えを返す存在、一貫したその世界観に依存し、深く耽溺していくのは理の当然だった。得手ではない教育、好きではない我が子から逃避するために出かけるパートタイム・ジョブでの長い不在が、その傾向を加速させる。気がつけば、ファミコン漬けの子どもの一丁あがりだ。子どもを黙らせる良質のベビーシッター、その恩恵を得ていたにも関わらず、たちまち手のひらを返したように始まるゲームへの非難。何が良いか、何を大切にすべきか、何が正しいかを示すのではない、すでに存在する何か、起こってしまった何かを理屈抜きで否定することが、核家族の教育方針である。

 もちろん、彼らにも同情の余地はある。家名と血脈の存続という自明の命題を取り上げられているのだから。食って排泄して性交する以上の何かがなければ、人は生きていけない。男たちは残らず社畜と化すことで偽りの命題を得たが、女たちは我が子のゲーム狂いを否定することしか残されていなかった。教育観もなく、人生観もなく、世界観もない。なぜならそれらは一家一族に一つだけ継承されていく無形の何かだからだ。そこから切り離された個人はどう狂おうと、どう野垂れ死のうと、だれも省みることはない。ただ、犯罪だけがその例外だ。

 いろいろとしゃべったが、本作から「あの頃ゲームがなければ、死んでいたかもしれない」という一文さえ引用すれば、何の説明も必要ない。あの時代を過不足なく回顧する、素晴らしいフレーズだと思う。一筋の灯りも無い暗闇を手探りで生き延びた者たちの、偽らざる実感がここに込められている。

 えー、先ほどの内容はマット・デイモンがカウンセリングのカウチに横たわって早口でしゃべっていたと考えて下さい。

漫画「プラネテス4巻」感想

 世代の特徴と言うべきなのだろうか。某SF漫画を遅ればせに読んで、考えた。憎悪で膨らんだ世界観が愛で救済されるときの鼻白みと腰砕け、憎悪が漂白されれば残された解答はまるで宗教のようになり、宗教のようになれば語るべきは失われ、自壊あるいは拡散して物語自体が消滅してゆく。宇宙と対峙しながら、個人の内面へとその極大を押し込める。文化と歴史を前提としないからこそ、愛が憎悪を救済できるのだ。

 それに気づいたとき、小生思わず悶絶し、深く反省をした。完全に全き状態を到達地点に想定する、その錯誤は虚構の中にしかあり得ないと気づいたのだ。特定の人間関係の中で特定の課題へ繰り返し取り組むことは、個人の中のある部分を助長し、ある部分をより深く所与命題に適合するようたわめ、そして確実に必要ないがゆえに消滅してしまう人格の部分を持つということである。その失われる部分が悲しい口惜しいというのは、人間であることをどこかで拒否しているということだ。私が更新も無いままサイトを閉じようとせぬのも、変わりゆく自分への悲しみゆえなのかも知れない。

 しかしそれは一種の引きこもり的錯誤なのだ。繁忙期も過ぎつつあるし、そろそろ次をお見せしたい。いわば人外の獣がする同族殺しへの悲鳴である。

漫画「HUNTER×HUNTER 33」感想

 ハンターハンター連載再開の第一話を読む。こちらが用意したあらゆる予想をことごとく裏切り、かつそれが邪道ではないという凄さに感動を覚える。例えば、エヴァQが予想を斜め下方向に裏切る、視聴側の予想を外すことだけが目的の大邪道だったのに対して、本作の変わらぬ王道感は素晴らしい。レベルの低い創作は、アマチュアの心をざわめかせる。オリジナルと二次創作の違いが薄まり続ける中で、つまりはプロとアマチュアの差が縮まりづつける中で、ゆるぎない本物のプロが存在することに安堵する。ハンターハンターを読むとき、私は決して敵わない何かへ素直に頭を垂れることができる喜びに、いつも深い安らぎを覚えるのだ。

 それにしても不思議な漫画である。週刊少年ジャンプに連載されているにも関わらず、もはや少年漫画ではない。かといって、青年向けの漫画ではさらにない。例えるなら、四角いゴムボタンの初代ファミコンが独自進化を遂げ続けた結果、いつかプレステ4を凌駕してしまったみたいな面白さだ。確かな作家性にそれは担保されており、少しでも似ている作品を現在の市場に見つけ出すことはできない。とりあえず、暗黒大陸編(?)の終了までは生きていたいと素直に思った。

 ギャラクティカの記事を追ううち、エヴァQ制作陣が同作品の記念イベントに出席しているのを発見し、またぞろ次作に対してイヤな予感が高まっている。未登場の旧キャラが残存する人類を集めた統一政府の大統領になっていたり、ネルフのメンバーは機械化やクローン化ですでにサイロンと近いような存在になっていたり、ヴィレの新キャラに二重スパイが紛れこんでいたり、今作舞台の地球は実は偽物で宇宙のどこかにある本物を見つけるための探索行に旅立ったり、裏切り者の主人公が突然「アイアムアンインストゥルメントオブゴッド」とか言い出したり、最後は奇形の箱舟戦艦が太陽にとびこんで人類が救われたりしそうだ。公開当時の感想にも書いたが、Qをパラレルのバッドエンド側として処理し、次回はトゥルーエンド側の急プラス最終作を公開する以外、まっとうな収集をつけることはできないのではないか。

 ああ、冨樫先生なら! 冨樫先生ならこんな地べたを這うシロウトの妄言に一瞥さえ与えず、はるか上空を軽々と飛び越えていってくれるのに!

漫画「惨殺半島赤目村2」感想

 あ、あれっ? 聖典・ファミコン探偵倶楽部を引き合いにしてまで期待感を表明した同シリーズの開幕だったのが、わずか二巻の打ち切り的大駆け足で終わってしまったことへ、ある種の失望を覚えている。

 しかも、村を焼き払い、登場人物を皆殺しにし、あらゆるタブーに触れつくす終盤の大カタストロフは、キャラクターの意志ではなく作者の自我に色濃く支配された悪い方の予定調和だった。キャラクターや世界の設定だけは非常に細かく書き込んでおきながら、最後は人類滅亡で皆殺しみたいな乱雑さに、私にも君にも覚えがあるところの学生時代の黒歴史的な創作ノート感がすごくある。

 鈴木先生は教師視点から学校を描くというアイデアが、ともすればエログロ方向へ傾きがちな悪癖をなんとか最後まで抑えこんだ、奇跡のバランスに立脚したがゆえの快作だったんだなと、読了後に半ば呆然としながら思った。なので、ループタイの男を登場させるバイオレンスジャック的クロスオーバーは、どちらの作品にとってもよいやり方ではなかったな、と感じた。