猫を起こさないように
魔法少女まどかマギカ
魔法少女まどかマギカ

アニメ「バーンブレイバーン」感想

 今期の話題作だったバーンブレイバーンを最終話までまとめて見る。序盤は毎週のようにエッキスのトレンド入りをしてすごい盛りあがりだったのが、終盤にさしかかるとタイムラインで作品名を知るだけの人間にはほとんど何も聞こえてこなくなり、いったい何が起こっているのか首をかしげていたのですが、全話を見終えたいま、その理由がわかりました。勇者シリーズの顧客ではない第三者が、今回の状況を客観的に分析しますならば、魔法少女という古びた物語類型を逆手にとった驚愕のミステリー要素とループ展開で大ヒットとなった「まどかマギカ」と同じ化学反応が本作でも起こるのではないかと期待していたのに、伏線のことごとくを捨てて過去の同シリーズにおけるお約束と自己模倣にからめとられて終わってしまったからでしょう。ひさしぶりの勇者シリーズに期待値が高まりすぎてしまった結果の、ファンが受けた失望には足りない肩すかし感が失速の原因ではないかと推測するのですが、昭和のやりすぎ同性愛描写(当事者が不快でないかハラハラするレベル)とかミスター味っ子(漫画ではなくアニメのほう)のパロディとか、作り手が満々に楽しんでるのはひしひしと伝わってくるんですよね。それなのに、ループものらしきメインストーリー部分の掘り下げが不十分なので、脇道のサブ要素を延々と見せられてる感じでフラストレーションがたまるのです。「みんなループものなんてゲップするほど見てきてるんだから、わざわざ絵で表現しなくたってセリフで伝わるでしょ。そんなことよりホラ、ギンギンに構図をツめたボクのカッコいい戦闘シーンを見てよ!」みたいな幻聴が聞こえるようで、結果として新規層というよりはディープな好事家に向けた作りになってしまっている気がします。

 これまたズバリ言ってしまえば、リコリス・リコイルのときにも指摘したように、この規模のストーリーと設定を語りつくすには全体の話数が圧倒的に足りておらず、過去の回想回や敵側の内幕回などを考慮すれば、少なくとも26話くらいはやってほしい。最終回で虚構度を高めて大団円にするのも、そこまでの息苦しいような積み上げがあるからの解放的なヌケ(ラブラブ天驚拳!)なので、ビルドアップの薄い本作ではドッちらけ感しかありませんでした(だいたいさあ、通常兵器が無効みたいな設定なのにみんなでノコノコ前線にやってくるジャッジって、「最終回で全員の顔を見せないといけないから」以外の理由ってあんの? ドラゴンボールで言うなら悟空とフリーザの戦いにウーロンとプーアルが大挙して現れたみたいなもんじゃない?)。しかしながら、本作の監督がストーリーテラーとして優秀なのかどうかは、勇者シリーズ未見の身にはまったくの未知数であり、「描きたい構図を物語に優先させる、根っからの純粋アニメーター」である可能性も否定できないため、「1年をかけて良い子のみんなと応援する全52話のバーンブレイバーン」は、シロウトの妄想にとどめておくのが賢明かもしれません(スミス死亡転生回ーーネタバレやないかーい!ーーにおいて、コクピットでの葛藤を延々とやるのにイライラして、画面の前で「はよつっこめや! ワンクールのくせに、いちいちテンポ悪いねん!」と口ばしった人非人なので……)。

ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOのぐだぐだ新邪馬台国を読み終わったけど、いやー、メチャクチャ面白いなー。あまりに面白かったので、ひさしぶりに大きめの課金をして、千利休を引いてしまいました。「各キャラクターにゆずれない自我と意志があり、ストーリーはその思惑の絡みあいで展開する」という創作の基本ーーシンエヴァとは大違いですね!ーーができており、緊張感のある台詞の応酬も端的なテキストでビシッと決まっている。ほんの短い、姿さえ見せない秀吉の描写にはゾクッとさせられたし、「観客視点からしかわからない敵の罠」という叙述によるカルデアの危機は、もしかすると第1部からここまでを通じて初めてじゃないでしょうか。物語の閉じ方にしても、ファンガスがFGOを通じて伝えようとしているメッセージを、深く理解した上でつむがれているのが伝わってくる。情感の部分もベシャベシャと水びたしになる前に、ダラダラとした余韻を廃してスパッと終わるのも、すごくいい。

 上質な読後感というのは、本を閉じた瞬間から読み手の心へとおのずから生じるもので、それをベラベラ言葉で誘導しようとするのは、書き手に自信のない証拠でしょう。あのね、登場人物のパーソナリティを把握できていないのと、「ファンガスと比較されてどう思われるか?」という恥をかきたくないばかりの自意識が、探り探りのライティングにつながっていて、ゴテゴテと無駄に華美な厚塗りテキストを際限なく増量させてるんですよ。もちろん、トラオムのことを言ってるんですけど、本当に心の底から大ッ嫌いなので、今後のガチャでヤンモリ(爬虫類)がすり抜けてこようものなら、すぐさまマナプリに変えると心に決めているぐらいです。いろいろと新邪馬台国の美点を上げましたが、やっぱりこれ、本業の漫画家としてのスキル特性によるところは大きいと思いますねー。第2部の商品価値を大幅に毀損した6.5章の、巨大数による茶化しではなく、正味で3億倍は優れた仕上がりになっています。有名なネットミームである「この利休に抹茶ラテを」にしても、6.5章の連中ならテキストの表面だけなぞって一瞬で面白さを蒸発させるところを、ギャグ漫画家らしくちゃんと話のオチに持ってきて、「わからなくても面白いが、わかればもっと面白い」につなげている。

 FGOにおけるファンガスって、スタジオジブリにおける宮崎駿みたいなもので、あの時代のエロゲー・オールドスクールの生き残りの中で、当時はどっこいどっこいだったのかもしれませんが、いまやひとりだけ圧倒的に地力がちがう存在になっている。世間一般における知名度で言うなら、まどマギの作者の方が高いでしょうけれど、創作を糧とする者たちは死んでも口にしない(できない)中で、ファンガスの一等地抜く存在をだれも暗黙のうちに了解しているように思います。え、面識もないくせに、なぜわかるんですか、だと? バカモノ! 批評の本質とは、当事者性から距離を保った想像力が現実を抽象化する道筋であり、もし当事者が見たままを書いたら、それはただのドキュメンタリーか内部告発になるだろうが! もっとも近年では、エス・エヌ・エスがすべての事象への「いっちょかみ」を可能にしており、あらゆる個人において当事者性からの距離が失われ、その事実をもって批評的な言説の成立を困難にしていると指摘できるだろう。なに、テキストによる批評の有効性を取り戻すにはどうしたらいいですかって? だれとも交わらず、なにとも接点を持たず、ただひとりの内側で言葉を発酵させること以外に方法はない。

 だいぶそれた話を元に戻すと、ぐだぐだの作者がFGOの中でこれだけ自由に動けて書けるのは、臣下たちが王の威光から離れて思考できないーージブリの雇われ監督たちと同じーーのとは異なった、「宮廷の道化師」ポジションにあるからかもしれません。第2部の残りはさすがにファンガスだけが書くーーほんともう、頼みますよ!ーーでしょうが、新アプリに移行しての第3部では、ぐだぐだの作者へ本編の一章を任せてみてはいかがでしょうか。さすがに6.5章のライターたちよりは、どれだけ悪い方向に転がっても、はるかにマシな仕事をすると思うんですよ。ビッグ・パトロンのひとりとして、心からお願いし申し上げます。

雑文「人気作品に学ぶ『ループ』と『転生』の正体について」

 FGOの新イベントをチマチマ進めてる。たまった無償石で回して出なかった新キャラが呼符1枚で引けたり、10キャラ以上の新衣装がドバッとタダで配られたり、やっぱりFGOは気前がいいなあ、と思った。これがウマ娘なら、新衣装は別キャラ扱いで6万円天井のガチャに入りますからね。ウマ娘、キャラやストーリーやゲーム性の良さは認めますけど、みんなもっと集金システムのエゲツなさを指摘するべきだと思いますよ。んで話をFGOに戻すけど、今回のシナリオはファンガスの筆ですね、間違いない。これだけの数のキャラを登場させながら、キッチリそれぞれの外してはいけない特徴を芯でとらえてミートして、打率10割ですべてクリーンヒットにしていく手腕はさすがだと思いました。他のライターの方々は、ファンガスの提示した各キャラの魅力をしっかり読み込んで、少しでもこの技術に追いつけるよう学んでほしいところです。個人的には、今回の題材であるアイドルについて、特にグロス販売ーー偏差値の落差を平均でならして、下限との差で上限を浮かび上がらせる手法ーーになってからのアイドル・グループをどう楽しむべきなのかよくわかりません。なぜ、こんなにも執着して応援したがる人々がいるのかを理解できていないので、だれか競馬に例えて教えてもらえないでしょうか。

 え、本末転倒なことをまたネタでわざと言ってるんでしょうって? いやいや、ある概念をだれかに理解させるのに、そのだれかにとって親しい別の概念へと置き換えて説明するのって、すごく大事ですよ。きのうの午後、FF11やりながら(ここに至る話はまた後日)タイムライン眺めてたら、競馬の話が延々と流れてくるわけ。んで、テレビつけたら競馬やってて、順ぐりに出走する馬の紹介してんの。そしたら、ポニーかラバかみたいな明らかに他より小さい個体がいるのよ。ウマ娘に黒づくめでチンチクリンのキャラがいてすごい人気なんだけど、その小さな馬を見た瞬間に理由が理解できたの。筋骨隆々の恵体を有するサラブレッドを、種族さえ違って見えるこんな小兵が押さえて勝利するなら、それは確かに痛快なドラマだろうなって思えたの。

 何の話だっけ。そうそう、FGOのイベントにからめたアイドルの話から脱線したんだった。今回のイベント、テキストのすばらしさは両手離しで褒めながら、終盤のストーリー展開には「またループかよ」と少し失笑が漏れてしまったのは確かです。失笑しながらもお話は面白くなっていくので、つくづくこの時間ループというのはズルいギミックだなと、改めて考えさせられました。最近ではどこを見回しても、「時間ループもの」か「異世界転生もの」ばかりですが、この2つは「人生のやり直し」を希求しているという点で、基本的に同じカテゴリでくくっていいと思います。そして、これが流行る理由はズバリ、オタクの高齢化でしょう。二十代前半くらいまでは単線の人生をわき目もふらず驀進(バク、シンッ!)するのみですが、それ以降は生業や棲み処や配偶者や扶養者の有無と種類が否応な選択(しないことも含め)として分岐を為していき、引き返せない失われた可能性としての過去を、我々の背後へ膨大に作り出していく。選ばなかった選択肢への未練とか、人生をやり直すことへの欲望というのは、基本的に初老ーーいやいや、40歳くらいを指すのよ?ーーを迎えてから老年へとめがけて最大化していくもので、青少年にとって本来は無縁のものに違いありません。しかしながら、オタクのマスが初老を越えて市場がそのニーズに応えた結果、ループものと転生ものがあふれかえり、本来的にはまだその欲望を持たないはずの青少年に、あえて言いますが、いまやジャンルとして悪影響を与えるような広がり方をしています。終わったあと、通り過ぎたあと、そこに分岐や選択肢があったのだと遅れて気づくからこそ、我々は人生を前に進めることができるのであって、最初から分岐や選択肢の前に立っていることを意識させられては、永久にそこで立ち往生するしかありません。

 ループものの源流としては、J.P.ホーガン御大が挙げられるのかもしれませんが、本邦においては何よりエロゲー業界がその発祥でしょう。「デザイア」で提示された革新的アイデアを「YU-NO」が洗練したシステムと融合して可視化させ、その肉厚の油揚げを「まどマギ」がかっさらって魔法少女と悪魔合体した結果、爆発的に人口へと膾炙したのです。ファンには申し訳ないですが、エヴァ原理主義者の私としては、「まどマギ」がここまで時間ループの概念を一般化させなければ、シンエヴァはもっと臆面もなくベッタベタのループものとして終われたんじゃないかと、少し恨みに思っております。いつまでシンエヴァについて愚痴ってるんだって感じですけど、「これは虚構だ」って開き直るぐらいなら、初代プレステみたいな汚いCGや撮影所を見せるんじゃなくて、「逆境ナイン」(やっぱり友人は大切)や「グレンラガン」のように、9回裏100点差から逆転勝利するみたいな、銀河をフリスビーとして武器に使うみたいな、突き抜けたウソによるフィクションを描くべきだったと思うんです。どちらも、「オイオイ、そんなのありえねーだろ!」と両手を打ち鳴らしての大爆笑から、最後は大号泣の大団円ですからね。過去作の自己模倣でいうなら、マクロスよろしくブンダーが船尾方向から直立してギガ・初号機へと変形、天の川銀河をフィールドに巨大アヤナミと恒星をサッカーボールにして蹴りあうみたいな突き抜け方をしていたら、監督の抱えるエヴァを作るしんどさを含めて、受け入れる気持ちになれたと思います。恥をかきたくない自分クンがカッコつけて、パンツを脱ぐどころか奥さんにつけられた貞操帯を見せびらかすみたいな、リスクをとって決勝点をねらうのではなくガチガチに守りを固めて、失点を回避しながらドローをねらうサッカーみたいなことをエヴァでするから、ここまで非難(君だけ)されるんですよ。

 ループものの話に戻ると、「まどマギ」の最初の劇場版を家人と見たんですけど、途中までは眠たそうに頬づえついてたのが、主人公を助けるために少女が同じ時間を繰り返しているとわかった瞬間、目を見開いて身を乗り出しましたからね。2012年当時、ループものが一般層にとっていかに新しかったかが、このエピソードから理解していただけると思います。もっとも、「叛逆」については半ばアニメ自慢のキャラ萌え作品と化していたので、家人は途中から舟をこぎだして、ついには寝てしまいました。以前、「叛逆」の後をまともに語ろうと思えば、エヴァ旧劇でも不可能だった、デビルマンで言うところの「善と悪のアルマゲドン」を、説得力のあるシナリオとビジュアルで提示しなければならないと指摘したことがありました。先日発表された「廻天」は、あのエヴァでも手を出すことのできなかったこの命題へと挑むつもりなのでしょうか。「物語を続ける」ため、小手先の作劇に逃げず、本邦では誰も成功していないこの命題へと、敗北を恐れないで真正面から堂々とぶつかっていくことを期待します。

 でも、わざわざそんなしんどいとこに行く理由も義理もないので、安易なキャラ萌え学園ものへと回帰しちゃう予感も、ちょっとあるなー。

映画「まどか☆マギカ新編」感想

 アイム・スティル・リヴィング・イン・ザ・ナインティンズ! 小鳥猊下であるッ! 貴様らがあんまりEOEを超えたとか破を超えたとか騒ぐから、「エヴァを馬鹿にするなッ! エヴァをけなしていいのは、この世でボクだけなんだッ!」と絶叫しながら自家用ジェットで奈良の辺境を脱出し、まどかマギカ新編を見てきた。

 幼少期にトラウマを植え付けられた誰かが、トラウマを持たない誰かとのふれあいによって魂の癒やしを得る。テレビ版から引き続いて、苛烈な虐待を受けた子供や猟奇殺人者が描いた絵画を連想させる背景美術が素晴らしく(中世? 同じ意味だろうが!)、それを素晴らしいと感じる理由が作品テーマとの融合にあったのだと気づいた。

 最近の私の気分を伝えれば、この脳髄にはまったトラウマテックなフィルターを外して眺めるならば、世界に通底する基調はおそらく善だろうと考えているし、何より行動の事実として今や人類の存続の側に加担してしまっている。確かに自分は歪んでいて間違っているが、この世の別のところには健やかで正しいものがあると信じられること、あるいはそれへ実際に触れることが、誰かにとっての救済なのだと思う。

 話はそれるが、遅ればせながらキーチVSを最終巻まで読了した。高天原勃津矢と同じく、世界に対して特別な存在であるためには、人類の存続に挑戦する悪を行使することが、現代では唯一の方法だ。作中にたびたび描写されたように、善行に対してネットの白けた発言は「教祖様」と揶揄できるが、明確な悪の一線を踏み越えた者に対しては、一斉に誰もがからかいを止めてしまう。悪の行使は、世界に偏在する目に見えない善を一瞬だけ可視化させ、人の心へ集合無意識的な善を否応に惹起するからだ。世界中を味方につけることはできないが、世界中を敵にすることは誰にでもできるのである。

 閑話休題。ドラスティックな世界観の反転が、まどかマギカの持ち味だと思う。テレビ版のあの結末から、新編のこの結末へと至ることは、むしろ物語自身が求める必然であった。それゆえに、新編はテーマとして退行せざるを得ず、私には語られるべきではない、非常に蛇足的な内容だと感じられてしまった。そして、ネット上の感想に散見される続編への期待に驚く。もし更なる続編が構想されるならば、ここまでのような叙述トリック的作劇、短所を隠し長所を強調する化粧に長けた女性の手口では、どうしても追いつかない場所へ突入するだろう。

 今回の物語の最終盤、これはEOEでさえ感じたことだが、表現しようとしている中身に絵と言葉が追いつかない感じがあった。この先にはデビルマン的な善と悪のハルマゲドンしか残されておらず、その描写に説得力を持たせることは、あのエヴァでさえ未だ達成の不可能な、正に神か悪魔の領域なのだ。諸賢は軽々と続編への期待をぶちあげぬがよろしかろう。

 ああ、聖典たるEOEにまで言及してしまった! ごめんなさい、教祖さま! もう、こんな不敬は致しませんから!

アニメ「まどか☆マギカ」感想

 質問:欝展開の魔法少女ものが最終回をむかえました。猊下はあの結末をどのように見られたか教えてください

 回答:この質問はわけがわからないよ。よりによってアンチ・ギークスの大家たるぼくに、君たちにとって大切な作品への意見を求めるだなんて、よっぽど悪し様にののしられたいとしか思えないじゃないか。いや、君たちおたくは条理に盲目であれる存在だ。君たちおたくがどれだけの不条理を成し遂げたとしても、驚くには値しない。もしかすると、破滅こそが君の願いなのかもしれないね。その願い、かなえてあげるよ!

 15年前にエポックを作った福音ロボットアニメのことは君たちも覚えていると思う。劇場公開されたそのアニメの結末だけど、3つの異なる救済観をめぐっての対立だという見方ができるんだ。それぞれの勢力がどのように救われたがっているか、ということだね。この例にならって、まずは救済観という視点から読み解いていくよ。

 君たちの国の仏教には、小乗と大乗という考え方がある。小乗は個人の悟りを至上と考え、大乗は衆生の救済を至上と考えるんだ。お地蔵さまは知ってるね。あれが君たちに最も身近な大乗だよ。お地蔵さまは、仏になって浄土へ行くこともできたのに、君たちの苦しみすべてが無くなるまで現世に留まることを選んだ人なんだ。衆生のすべてが救われれば、己も衆生であるがゆえに自身も救われるという誓いになっていることがポイントさ。つまり大乗は、利他は利己へつながるという、この世の善の本質を解いているんだ。どれだけ輪廻を繰り返しても小乗ではかなわなかった救いを、大乗へのパラダイムシフトが可能にする。2つの救済観をめぐる象徴的な結末だったと言えるね。

 さて、次に考えないといけないのは、救済の有資格者がなぜ他の誰でもない、その人物だったのかという点だ。ここには、物語の主人公であったという以上の蓋然性が求められる。じゃないと、救済は絵空事に終わってしまうからね。仏陀が王族の地位を捨てて出家したのは有名な話だけど、救済の有資格者たるには、まず物質的に満たされることが要件だ。その生が一度も満ちたことが無ければ、低い欲得への渇望を断ち切ることは、君たち人間には不可能だからね。

 おや、もしかして君たちはいま、貧しい大工の息子のことを考えているのかい。やれやれ、本当にあげ足とりの好きな連中だね、君たちおたくは! 以前にも話をしたことがあるけど、ぼくはある仮説を持ってるんだ。あの大工の息子は人類史上で初めて、養育者との葛藤に人生を支配されなかった人物なんじゃないかっていうね。従属や利用ではない親子関係を得るのは現代でさえ簡単な仕事ではないけれど、当時の社会状況を考えれば、それは文字通りひとつの奇跡だ。貧しい大工の息子による人々の救済は、その精神が愛に満たされていたがゆえに可能となったんだ。

 さあ、君たちにもそろそろ論旨のゴールが見えてきたかな。無作為に抽出した市井の人でさえ、過去の王族に匹敵する物質的豊かさを享受するこの国で、養育者からの精神的な略取をまぬがれている誰か。そう、人類の歴史に照らせば、その人物は二重の意味で人々を救済する資格を持っているということさ。もっとも、豊かさについては舞台装置からの類推に過ぎないし、この作品には大人がひとりも登場しないから、実際の養育者との関係性については説明が省略されているけどね。

 さあ、ぼくからはこれでぜんぶだよ。でもこんなのは、人気作品に引き寄せての自分語りをより多くの人間に聞かせたいだけの、文系の寝言に過ぎないね。もうさんざん、どこかで似たようなことが語られてるんじゃないのかな。なるほど、君たちにとっては誰が言ったか、誰に言わせたかが重要なんだね。けどそれって、もうただの政治じゃないか。君たちと民主主義はじつに親和性が低いね。民主主義の本来は、個我の染まらなさの中でなんとか共通の結論を得るための方便なのに、君たちときたら徒党を組むことこそが目的になっている。

 君たち日本人は、本当にわけがわからないよ。