猫を起こさないように
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映画「ホビット2」感想

 ホビットの冒険における最重要の伏線である「暗闇の謎かけ」を前作で消化し、本作ではいよいよピーター・ジャクソンが他ならぬ「自分の」ロード・オブ・ザ・リングスにつながる前日譚として、好き勝手に語り出した感がある。「キャラの立ってない髭面ばかりじゃ、画面が持たねえな」とばかりに原作では未登場のレゴラスを登場させ、さらには原作には存在しないタウリエルなる森エルフをねじこんできたばかりか、生物学的に交配のできない設定(だよね?)のドワーフと胸焼けのするロマンスを展開させる始末である。

 ここまで水増しして三部作に仕立てようとするのは、本作をスター・ウォーズよろしく、同じ構成で異なる結末を持った、相似形を成すプレ・トリロジーに位置づけたいからなのは、もはや誰の目にも明白であろう。ロード・オブ・ザ・リングスのときに感じた原作への深い敬意はどこへやら、自分以外はもはや誰も指輪物語の映像化へ手を出せないことを自覚しての大狼藉、諸君の言葉で言うならば原作レイプ、それも衆人環視のまっただ中で見られていることに興奮を促進された大強姦である。面白く無いかと問われれば、面白い。しかしそれは、画面作りやクリーチャーの造形やアクションのアイデアや、ピーター・ジャクソンの持つ資質に依拠した部分が面白いのであって、もはやトールキンの原作とは関係ない次元の面白さだと言えよう。

 そして、前トリロジーと無理やり物語構成を似せにかかっている弊害の最たるものとして、アラゴルンのポジションにあるトーリンの描写の劣化が挙げられるだろう。児童文学の原作では一種のユーモアとして機能していた彼のアホさ、身勝手さ、カリスマ性の無さが、むしろ欠点として観客に強調されてしまっているのは、トールキン・ファンとして非常に残念である。

 あと、オーランド・ブルーム、相変わらずこの無表情のエル公は弓矢を近接格闘武器みたいに使うな、と思った。それと、サウロンのシルエットがまんまゼットンなのはギレルモ・デル・トロのスケッチが残ってるのかな、と思った。それと、スマウグはあんな口の形をしているのに、ティー・エイチの発音がうまいな、と思った。

映画「まどか☆マギカ新編」感想

 アイム・スティル・リヴィング・イン・ザ・ナインティンズ! 小鳥猊下であるッ! 貴様らがあんまりEOEを超えたとか破を超えたとか騒ぐから、「エヴァを馬鹿にするなッ! エヴァをけなしていいのは、この世でボクだけなんだッ!」と絶叫しながら自家用ジェットで奈良の辺境を脱出し、まどかマギカ新編を見てきた。

 幼少期にトラウマを植え付けられた誰かが、トラウマを持たない誰かとのふれあいによって魂の癒やしを得る。テレビ版から引き続いて、苛烈な虐待を受けた子供や猟奇殺人者が描いた絵画を連想させる背景美術が素晴らしく(中世? 同じ意味だろうが!)、それを素晴らしいと感じる理由が作品テーマとの融合にあったのだと気づいた。

 最近の私の気分を伝えれば、この脳髄にはまったトラウマテックなフィルターを外して眺めるならば、世界に通底する基調はおそらく善だろうと考えているし、何より行動の事実として今や人類の存続の側に加担してしまっている。確かに自分は歪んでいて間違っているが、この世の別のところには健やかで正しいものがあると信じられること、あるいはそれへ実際に触れることが、誰かにとっての救済なのだと思う。

 話はそれるが、遅ればせながらキーチVSを最終巻まで読了した。高天原勃津矢と同じく、世界に対して特別な存在であるためには、人類の存続に挑戦する悪を行使することが、現代では唯一の方法だ。作中にたびたび描写されたように、善行に対してネットの白けた発言は「教祖様」と揶揄できるが、明確な悪の一線を踏み越えた者に対しては、一斉に誰もがからかいを止めてしまう。悪の行使は、世界に偏在する目に見えない善を一瞬だけ可視化させ、人の心へ集合無意識的な善を否応に惹起するからだ。世界中を味方につけることはできないが、世界中を敵にすることは誰にでもできるのである。

 閑話休題。ドラスティックな世界観の反転が、まどかマギカの持ち味だと思う。テレビ版のあの結末から、新編のこの結末へと至ることは、むしろ物語自身が求める必然であった。それゆえに、新編はテーマとして退行せざるを得ず、私には語られるべきではない、非常に蛇足的な内容だと感じられてしまった。そして、ネット上の感想に散見される続編への期待に驚く。もし更なる続編が構想されるならば、ここまでのような叙述トリック的作劇、短所を隠し長所を強調する化粧に長けた女性の手口では、どうしても追いつかない場所へ突入するだろう。

 今回の物語の最終盤、これはEOEでさえ感じたことだが、表現しようとしている中身に絵と言葉が追いつかない感じがあった。この先にはデビルマン的な善と悪のハルマゲドンしか残されておらず、その描写に説得力を持たせることは、あのエヴァでさえ未だ達成の不可能な、正に神か悪魔の領域なのだ。諸賢は軽々と続編への期待をぶちあげぬがよろしかろう。

 ああ、聖典たるEOEにまで言及してしまった! ごめんなさい、教祖さま! もう、こんな不敬は致しませんから!

映画「鈴木先生」感想

 「グレーゾーン」「アウトサイダー」「システム」をテーマとして、原作の2つのエピソードを融合させた脚本の良さが際立っている。二人のアウトサイダーがたどった異なる結末を対比することで、「もしかすると、世界は良い方向へ変わっていけるのかもしれない」という希望を、絵空事ではなく信じる気持ちにさせてくれる。

 ご存知のように小生は、世代のバトンによる変革というメッセージに極めて弱い。原作を偏愛する身にとってテレビ版は承服しがたいものだったが、この映画版へは手放しの称賛をさせていただきたい。

 しかしながら、小川蘇美役の演技は映画の良さを一等減じており、このキャスティングだけはテレビ版に引き続きなお承服しがたい。

映画「シンドラーのリスト」感想

 『一人の人間を救うものは世界を救う』

 (氏名の接尾語が-deluxeであろう巨漢が画面奥からカメラ方向に走ってきて)もおーっ! アンタたち、最近サボってんじゃないの? なにをって、アタシをほめることに決まってんじゃないの! インターネットって、欧米文化でしょ! 言葉が神さまとの契約とか言っちゃう世界の連中がつくってんのよ! そんなに愛してなくても、毎日アイ・ラブ・ユーっていうのが基本なのよ! ここは言葉にされなかったら存在してないのと同じ、契約の世界なのよ!

 そうそう、アタシこないだね、ひさしぶりにアレ見たのよ、アレって言ったらすぐわかりなさいよ、シンドラーのリストに決まってんじゃない! アタシもう何回見たかわかんないくらいこれ見てんだけど、まー、このスピルバーグってユダ公、毎ッ回毎ッ回みごとに感動させるわ! よい大人の、なんて言ってるけどアンタ、このリーアム・ニーソンがまさにアタシの考えるよい大人ってヤツよ! すこしはアンタたちも見習いなさいよ! 迫害者ってのはね、はじめは味方みたいな顔してやってくんのよ! アンタたちをじっさいに助けてくれるのは、見た目は迫害者みたいなヤツなのよ! 迫害する側がメチャメチャ力を持ってんのよ、迫害者のフリするしか助ける方法なんてないじゃないの!

 なのにアンタたちはアタシの14年にわたるおたくディスを見て、すっかりアタシを迫害者だとかんちがいしてさあ! いい加減、町ですれちがいざまにキモイって小声で言う連中と、14年間ずっとアンタたちの側から離れずにディスり続けてきたアタシとの違いを理解しなさいよ! オンナにここまで言わせるなんて、サイテーよ! いつかアタシはアンタたちから「二次元を救うものは三次元を救う」ってドイツ語で書かれた萌え画像を受けとるのよ! 「私は今までなにをやってきたんだ。この廃盤アニメDVD-BOXを手放せば、あと二、三人はおたくが救えたかもしれない。この売れ残りの黄ばんだ同人誌を手売りすれば、あと一人はおたくが救えたかもしれない。私には、もっとできたのに!」とか言いながら号泣する日を夢みてんのよ!

 だから、もっとアタシを愛しなさいよ! 夢、見させなさいよ!

映画「ホビット」感想

 ユアハイネス、小鳥猊下であるッ! 同じ猊下つながりから、ベネディクト16世のツッタイー参戦を心から歓迎したいッ! ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド!

 さて、投票ついでにホビット見てきた。児童文学としてのコミカルな部分を切り捨て、スターウォーズでいうところのエピソード1を作った印象。スプラッタ好きの一オタクを世界的な大監督へと押し上げた前トリロジーでの原作に対する深いリスペクトは、指輪物語と聞けば誰もがロード・オブ・ザ・リングスを思い浮かべるようになった今作ですっかり鳴りを潜めており、純粋なトールキンファンにとって二次創作の如き様相を呈している。

 そして、前作と比して旅の目的がスケールダウンし、旅の仲間も同じほど魅力的とは言えなくなった。また、前作はダイジェスト感さえある三時間だったが、本作は同じ三時間でもアクション増量の引きのばし感が漂っており、二部作を三部作に変更するだけの内容がこの先にはたしてあるのか、不安は残った。

 しかしながら、これらは超絶的な快作である前トリロジーが存在するからこそ気にかかる些末事だ。ベタな決まり芝居をカッチリと仕上げる監督の手腕はさすがであり、特にビルボがゴラムを殺さない選択をする場面には目頭が熱くなった。ふつうの人の小さな善意が、結果として世界を救済する。日々の絶望的な凡庸さを持ちこたえ、我々が善良に生きていくことを肯定する、力強いメッセージだ。当然、トールキンの織り込んだそれが秀逸なのだが、映像的には前トリロジーがあるからこその名場面であり、ピーター・ジャクソンに帰すべき手柄と言えよう。古くから受け入れられてきた物語の王道を崩さず、普遍的な感動の持つ避けがたい凡庸さから逃げず、それでいながら己の原点である悪趣味全開のグロを必然としてさらりと観客に提示する。その手腕には、メジャーの大監督としての風格すら漂う。

 一方で、同じオタクの出自を持つ和製ピーター・ジャクソンはと言えば、ようやくメジャーのハコを与えられたにも関わらず、未だにブレイン・デッドのリメイクを続けている。そう、ロード・オブ・ザ・リングス1&2の続編を期待して映画館に入ったら、ハリウッド版ブレイン・デッドを上映していたときの気持ちを想像して欲しい! てめえ、ゲンキスクナイネ? だれのせいと思っとんじゃコノヤロー! ブチ殺すぞコノヤロー!

 『言葉で整理しないと自分が受け止めたことにならないという強迫観念を持ってる人たちがいっぱいいます。その人たちは観客じゃないんです。その多くは物書きですから、仕事で文章を書いて稼いでいるんでしょうから、どうでもいいんです』

映画「キル・ビル2」「キャシャーン」感想

 物語の方法論は大分して、2つしかない。「普遍的な題材を普遍的に描く」か「個人的な題材を普遍的に描く」かのどちらかである。

 キルビル2について。日本版のみの副題、”the love story”。どんな作品でも恋愛ものとして宣伝すれば客は入るという配給会社の作品への冒涜的なやり口に、賢明な諸氏はもうずっと辟易し続けてきていると思うが、ことこの作品に関しては全く違和感がない。KILL IS LOVE。KILL BILLは、LOVE BILLなのだ。愛は個別的であるがゆえに、つまりどの愛もどの愛と似ていないがゆえに、殺してまでそうしなければならぬ、最も極端にある「異常な愛」を描くことで、逆説的に「普遍的な愛」を描くことにこの作品は成功している。

 汗をかき、泥にまみれて、愛する者を殺し、トイレの床に転がり鼻水を流しながら”thank you”という主人公に、私は映画と人間性の正道を見る。あの”thank you”が心に少しもひっかかりを与えなかったなら、自分の感性が「汗くさくないこと」が主眼の”スタイリッシュ”な作品群に踏み荒らされておかしくなってきていることを真剣に疑った方がいい。早々に軌道修正しないと二度と戻ってこれなくなる。

 キルビル2は、個人的な題材(B級なるものへの愛)を普遍性にまで高めた傑作である。

 キャシャーンについて。戦争と平和という普遍的なテーマを置こうとして、それが全く個人的動機に過ぎないことを全編に渡って露呈している。つまりこの映画のテーマとは、PV出身の監督が初めて映画を撮るに当たっての”作られた”テーマ性であり、初めての映画に気負うあまり、現代の世界が置かれている状況を取りいれよう安直に考え(それがカッコイイ態度だ、と思ったのかもしれない)、自身の素質を省みない全く皮相的に止まるテーマの繰り込みを行った結果である。

 人造人間誕生の設定が原作の「自身から進んで」から「父親に無理矢理」へ変更されてしまっているところから、この推測がある程度の的を射ていることが理解されよう。この変更点は同時に「キャシャーンがやらねば誰がやる」というあの決め台詞に込められた熱と意味性を完全に削ぎ落としてしまっており(街角にある”世界人類が平和でありますように”といった世迷い言ではなく、争いが本質的に不可避であることを自覚し、そこへの自分の態度を明確にしており、素晴らしい台詞だ)、「原作をよくわかっている」などという賞賛は全く当てはまるどころではないことが、表層的な装飾群に惑わされない少しでも真摯さを持つ視聴者なら、瞬時に理解できるだろう。おそらく無自覚的にではあろうが、監督は個人的な動機で原作をさえ、弄んだのである。

 作品の持つテーマとは、自身が世界と対面するときに何に固執しているかという点であり、ここが重要なのだが、”恣意的に選択できるものではない”。「戦争と平和」という巨大なテーマ(人類の持つ究極の命題の1つだ!)を扱うに、この監督の初期衝動は「初めての映画で頑張らなくっちゃ! イラク戦争で世界は大変だし、よぅし、戦争を批判しちゃえ!」程度の可愛らしくも絶望的に浅薄なものであり、あまりに脳天気すぎる。「飢えた子どもの前で文学は1枚のパンよりも有効なのか」という古い問いかけを持ち出すまでもなく、この映画は戦火に焼かれる子どもの前で明らかに有効ではない。そして、この映画は(真摯な)原作ファンの前でも明らかに有効ではない。それゆえに、この映画は完全に失敗している。

 更に言うなら、普段ほとんど邦画を見ない人間がこの映画の大量テレビCMとテーマソングにひかれて入館し、今後二度と邦画は見ないことを決心しながら出ていくというのは、充分にありそうな話だ。日本映画凋落の戦犯の1人とならないことを切に願う。

 キャシャーンは、普遍的題材を個人的欲望の充実に落とした駄作である。

 この世に物語が成立する条件は、つまるところ2種類しかない。「真実のように見える嘘」を描くか、「嘘のように見える真実」を描くか。キルビル2は後者であり、キャシャーンはどちらでもない、「真実のように見せたいまがい物」である。つまり、キャシャーンは物語の段階にすら達していない、”フィルムに熱転写された何か”に過ぎない。

映画「スーパーマン・リターンズ」感想(初回)

 変則的な夏期休暇に縦縞のステテコ一丁で乳首から生えた、率直に形容して“陰毛”しか当てはまる語彙を人類は持たない毛を引きつねじりつして過ごす、平和の負の部分をビジュアル的に余すところなく体現したあの気だるい午後、赤と青のまだらタイツ男が帰還する例の活劇を見に出かけた。非常に繊細で隅々まで配慮されたシナリオに、タイツ男の抱える深い葛藤を改めて痛感させられる結果となった。

 断定せぬ曖昧な姿勢と、状況の限定による本質の回避が活劇全体の基調となり、見る者は否応なくタイツ男の苦悩をそのまま彼が体現する某国家の苦悩へと読み替える見方を強要されてゆく。某国家であることは確かながら、具体的にどこなのかを特定させない違和感に満ちた街並みに、この活劇があの二つのビルの倒壊する前なのか後なのかさえ、はっきりと言うことができない。懐かしい敵役の「ローマ帝国は道、大英帝国は船、アメリカは核爆弾……」という長口上は、三段階目の論理飛躍にひやりとした瞬間、最後の台詞の尺を短縮することでやんわりと収束する。致命的な部分に踏み込めないのだ。

 タイツ男は迫り来る大小の厄災を次から次へ食い止めるのみで、例えその元凶が手の届く範囲にいようとも、先制攻撃を行うことを禁じられている。悪漢たちがどんなに殴り蹴ろうとも、決してタイツ男は自ら拳をふりあげることはしない。あまりにも明快な暗示。かつての声高なポリシー、”American way”は”Put it in a right direction.”と控えめに換言され、劇中の少年との関係はすべてほのめかしに終始し、一語すら“その事実”が明示されることはない。契約の国の言葉はいかにささいな内容であれ、我々が思う以上に誓約し束縛するからか。いや、まだ弱い。結婚を前提とせぬ男女の婚姻に対する宗教的嫌悪に配慮しているのだ。なんというデリケートさだろう!

 そして、「紛争やテロが各地で頻発するこの時代に、たった一個のスーパーパワーの存在が意味を持つことができるのか?」という必然の問いには、物語上の技巧を駆使して限定付きの回答がかろうじて与えられる。タイツ男が体現するものに想像を及ばせれば、回答は「意味がある」以外にあり得ないのは自明である。その“正答”を肯定するために「誰一人として死なせない」、「ただし、彼の能力にできる範囲で」という大前提の下に、すべての災害は意図的にプログラムされる。押し寄せる高波、地の奥底から響く鳴動、しかしそれは観客の心拍数を高めるための小道具に過ぎない。我々はすでに現実に数多くの破滅を見てきてしまっている。我々が見てきたようには、大地は裂けもしなければ盛り上がりもせず、ビルは倒壊にほど遠い地点で窓ガラスを控えめに割るのみである。タイツ男は落下する看板を受けとめ、ただ一箇所から迫り来る炎を吹き消す。それだけで決定的な破局は尻すぼみに収束する。回答が与えられる。タイツ男は世界に必要だと。無論、良心的な観客からの喝采は得られない。

 しかし、今作における最大の回避はそこではない。「現在この世界で、いったい誰と戦うのか?」という当然の帰結に対するものである。タイツ男は体現し、象徴している。だからこそ彼は、円月刀の刺突を大胸筋でねじ曲げて、大量のプルトニウムを地下貯蔵するモスクを岩盤ごと宇宙空間に放り投げてしまうことは、暗黙の要請から許されないのだ。彼の敵が“旧作から引き継がれたSF的設定”となったのも、シナリオを吟味し尽くした上の結果ではなく、徹底的に選択肢を奪われた末の残骸であるに過ぎない。自らが体現するものの中身から、戦う相手を指名することの許されぬ永遠のチャンピオンは虚構の中でのみ安心してピンチを味わい、その全能のパワーを行使することができる。もし万が一、次回作が制作されるとするなら、私の興味の焦点は一つしかない。

 「いったい、この世界で誰を“敵”と名指しするのか?」

 余談だが、某監督の息子が制作した某戦記も見た。婉曲表現を許して欲しいが、私はピュアウォーター某のナニもアレしたいほどの原理主義者なので、自分語りだけにとどまることのできる外殻のみを書く。この活劇の中で発生する感情はすべて言葉によってトリガーされている。心の一番深い部分の動きが、行為や体験によってでなく、言葉によって引き起こされている。私もそうだ。そこに共感した。より正確に言えば、同じ病の患者が持つ憐れみ、負の連帯を感じたのだ。「重要な場面が人物の台詞だけで展開する」、「言葉じゃなくて主人公の行動で説得力を持たせて欲しい」。たぶん、それは私たちの中には無い。

映画「ドライヴ」感想

 ネットでの高評価だけを鵜呑みにして、何の予備知識もなく視聴したら前半と後半の落差にのけぞった。北野武の初期作品とか、長渕剛の昔のドラマとか、レザボアドッグスとか、そういうのと同じ匂いがする。つまり、強烈な怒りによって世に出た者に共通した、突発的かつ執拗なまでに残忍な暴力描写だ。

 メカに強くて運転がうまくて、普段は穏やかで欲がないが、他人のために怒ると滅法強い。この主人公像は、ある種の人々とってものすごく願望充足的に機能するんだろう。エンディングに流れる主題歌(?)の曲調と歌詞がストーリーの内容と異様にミスマッチだと感じた私は、監督の想定するヒーロー像に感情移入できておらず、おそらく理想的な視聴者ではない。中二病のアッパーバージョンみたいなこの内容を激賞する方々とは、ちょっと友だちにはなりにくいなー、と思った。

 あと、ドライ“ヴ”という邦題の付け方がこの映画の本質をよく表しているなー、と思った。

映画「スターウォーズ8 最後のジェダイ」感想

 よくスターウォーズってさ、「銀河を股にかけた親子喧嘩」って揶揄されるけど、ジェダイもシスもさ、どこまで行っても血筋の問題だってのが、作品にある種の深みを与えてたと思うんだよね。なぜって、ルーカス自身も明言してるように、スターウォーズは神話の文法に沿ってるからだよ。

 プリクエル、嫌いな人も多いみたいだけど、俺は大好きなの。ルーク・スカイウォーカーの物語が、ダース・ベイダーの物語に塗り替えられたという批判は正しくて、子は親になることで初めて、かつて暴君にしか見えなかった親の、裏側にあった悲哀を理解できるんだよね。指摘するとキリがないけど、右腕を切られたアナキンがルークの右腕を切り落としたり、親の知恵ではなく傷こそが子に継がれるというメタファーがすごく切実に迫ってくるの。

 ルーカスのインタビューにもあるけど、否定しようともがきつづけた父親・イコール・権威を、スターウォーズというファンダメンタルを築き上げたことによって自分が体現してしまっていたという悲しみを表現する「シスの復讐」は、彼のフィルモグラフィーを完結させる上で最後のマスター・ピースなわけ。カウンセリングの個室ではなく、文字通り全世界のスクリーン上で極めて私的なトラウマの表現をエンターテイメントに昇華できたという点で、ルーカスは人類史上唯一無二のクリエイターだと思うのよ。キリストでさえ、それはかなわなかったんだからさ。

 話を戻すけど、血筋まみれのヨーロッパから逃げ出した人々の作った「新世界」だからこそ、ブラッドラインの孕む何かに、おそらく後ろめたさから無意識の神秘性を与えてしまい、それがスターウォーズを超大なエスタブリッシュメントに押し上げる不可欠のエッセンスとして機能したと思うんだよね。カイロ・レンがレイに言う「おまえはこのストーリーに必要にない」という台詞は、スターウォーズが過去6作に渡って血統の物語であり続けたことを――前作のフォースの覚醒でさえそれは否定していない――観客へメタ的に読み取らせることを意識した制作側からのメッセージだ。

 一般人に過ぎない存在がスカイウォーカー家のフォースを凌駕したことは、スターウォーズ的世界観の明確な否定につながる。作品外からメタ的に読ませる小技の連続は、スターウォーズのような大作にふさわしいとは思えず、ファンの期待に逆張りするライアン・ジョンソンの小物ぶりばかりを際立たせる。そうなれば、亡くなったキャリー・フィッシャーが死亡フラグをことごとくへし折って、あまつさえフォースの使役にまで目覚めて2時間30分を生き延びたのすら、もはや現実を逆手にとったメタ的なギャグにしか見えなくなってしまう。

 作品舞台にしても両陣営の艦橋とカジノと島くらいで、スペオペ的な広がりは絶無であり、作品世界の狭さに息苦しさすら覚える。さらにエンディングでは馬屋の少年がジェダイの片鱗を見せ、8以降、フォースの使役は血筋に寄らないことを執拗に上書きしていく。これらは紛れもないディズニーの刻印であり、さんざん指摘されていると思うが、ヒューマノイド内の政治的正しさに腐心するあまりエイリアンたちへの目配りが絶無で、ほとんどそれはレイシズムの域にまで達している。チビの天童よしみや紫髪のライリー先生を描写することばかりに尺を割いて、アクバー提督をナレーションの一行で殺せば、ファンも署名活動に至ろうというもの。

 次回作において、旧来のファンが作品へ向けた歪んだ妄念を、同じく顔の造作の歪んだアダム・ドライバーが肩代わりして、ディズニー的絶対ヒロインのデイジー・リドリーにやすやすと斬り殺されることで、これまでのファンが愛したスターウォーズは血筋ごと、この世から完全に抹殺されるのだろう。デイジー・リドリーは作品中で血脈の特権を否定しながら、皮肉にもディズニーという巨大資本から特権を与えられてしまった。デイジーはディズニーがカメラを向けることを選んだシンデレラだから、修行も必要ないし、右腕を切り落とされることもない。なぜなら、ヒロインとして選ばれたからである。ディズニーがそれをやりたいと言うなら、やるがいい。

 しかし、最後のジェダイであるところのレイが、メイス・ウィンドウをはじめとした綺羅星の如き過去のジェダイたちと比べて絶望的に魅力的ではないことは、やはり大きな問題ではあろう。怒り眉を吊り上げる演技しかできない、寝屋ではサイレンの如き嬌声を上るばかりの何の面白みもないファックをしそうな、抱きたくない女優ぶっちぎりのナンバーワン――おっと、男性タレントには許されるこのランキング、女性様方にはご法度でござったかな? メンゴメンゴ! 酔っぱらいの戯言でござる!――スタローン級の大根役者であるデイジー・リドリーは、前作では感じなかったが、血筋の問題から解き放たれた今となっては、あまりに清潔に脱臭され過ぎ、あまりにもディズニー的正統派ヒロインであり過ぎる。その不平等な世界観は、キャリー・フィッシャーとマーク・ハミルが10キロを越える減量を強いられたのに対して、前作から明らかに増量してふくよかになったデイジー・リドリーが、何のダイエットも求められないまま撮影されていることからも、容易にうかがえるだろう。

 実際、ハン・ソロが死に、ルークが死に、レイア姫がリアルで死に、作品を牽引できる旧キャラクターはもはやチューバッカくらいしか残っていないのに、このていたらくである。さらに、血筋という旧来のスターウォーズ的レジームを否定するメッセージを発しながら、感動的な場面やクライマックスはすべて旧作からの借り物であるというところも、本作の問題点であろう。スターウォーズ級の大作ならば、当然公開された後にネットでの反響はすべてチェックした上で次回作へ反映しているだろうし、レイがダース・シディアスやらダース・プレイガスの血筋というプロットも当初はあったはずである。シリーズものゆえの予定調和をことごとく無視するならば、もはや作品の舞台がSW世界である意味はなくなるし、何の血筋でもないヒロインに対しては、エヴァQの時の如く「ポッと出の新キャラごときが、減量失敗してるくせに、俺たちのルークさんへ意見してんじゃねえよ!」という罵倒しか残らない。

 そんな人非人の俺様もスタッフロールの”In our memory of loving princess”の下りには、さすがに涙腺を刺激された。しかし、結局それは旧作までの、ルーカスとキャリーの手柄に帰するもので、一瞬でも感動したことで逆にライアン・ジョンソンへの怒りはいや増す結果となった。映像の快楽を指摘する向きには、ジャンクフードの皮をかぶった高級料理が、高級料理の皮をかぶったジャンクフードに変じたと伝えて、ダラダラとした、この犬のような話を終える。戌年だけにな!

  最後のジェダイ、2回目を視聴してきた。ツッタイーに廃棄した酔っぱらいの放言を反省し、肯定的意見と否定的意見を等分にリサーチした上でのニュートラルな視聴を心がけ、成人の日にあやかって赤青メガネで飛び出すヤツみたいなのに大枚をはたいた。結果として、「笑ってはいけないカジノ惑星24時 with 天童よしみ」がまったく不要なシークエンスであることだけは確定的に明らかとなった。

 しかし、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーの俳優人生に焦点を当てたメタ的な視聴法によって2回目の視聴を意義深く、感動的に終えることができたので、諸賢にそれを開陳しようと思う。与えられた低予算をさらに特撮へ割いたサイエンス・フィクションに、ギャラの安さだけが理由で呼ばれた新人俳優の二人が、予期せぬ形でシンデレラボーイ/ガールとして祭り上げられ、その後は肥大化してゆくスターウォーズのタイトルに人生を呪縛され、その重力から逃れようとずっともがき続けてきた。本シリーズを足がかりとしてスターダムを駆け上がったハリソン・フォードとは裏腹に、二人は好むと好まざるとに関わらず、そのアイデンティティをスターウォーズに規定され続けてきたのである。

 しかし最後のジェダイにおいて、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーは初めて、スターウォーズのタイトルに正面から拮抗し、ついには凌駕してのけた。二人の人生と俳優としての力が、40年の永きを経て、このビッグタイトルにまさったのである。前作から少しも話の進まない冗漫な、絵ヅラ優先の典型的イディオット・プロットであるところの本作は、マーク・ハミルと、奇しくも本作が遺作となってしまったキャリー・フィッシャーへ、最大にして最後の舞台を与えたという一点においてのみ、他のすべての欠点を度外視して肯定され得る。

 我ながら底意地の悪い興味ではあるが、果たしてカイロ・レンとレイの俳優がスターウォーズという巨大な重力に対して、今後どのように人生を規定されていくかという点を個人的に見守っていきたい。現段階の観測として、アダム・ドライバーはハリソン・フォードと同じく、軽々とスターウォーズを踏み台にしていけるだろう。しかし、デイジー・リドリーはどうだろうか。本人の発言からもすでにある種の不安が垣間見えるし、意地の悪いインタビュアーが40年後に本作のキャリー・フィッシャーと同じようなオファーを受けたらどうするかという質問をしていたが、そんな質問を許してしまうこと自体が周囲の見方を如実に表している。

 まあ、辺境の惑星へ捨てられていた割にお肌もツヤツヤしており、唇の血色もよく、身体の肉付きも健康的、ワキや鼠径部に至るまでのムダ毛処理も完璧だろうと思わせる眉毛の手入れなど、このファッキン・ディズニー・プリンセスには、同情の余地なんてないのである。最低のビロウ・トークをもって、最後のジェダイ2回目視聴後の感想を終える。 

 最後のジェダイ追記。本作を視聴して新シリーズへの熱がだいぶ冷めた理由としては、前作で提示された伏線と思しきものをすべて無視した上で、今回の作劇が成された点にあります。ふつう三部作なんだから、最後までプロットが組んであって、若干の軌道修正はあるにせよ、想定された結末に向けて物語を編んでいくんだろうと思うじゃないですか、ふつう。でも今回のやり方は、例の週間少年漫画誌と同じで、良く言えば読者人気とアンケートを見ながらのライブ方式、悪く言えば先を決めない行き当たりばったりで、伏線から今後の展開を想像する楽しみが受け手から全く奪われてしまっています。推理小説の解決編で、作中に全く登場しなかった人物が犯人だったと考えてみてください。能動的な物語の受け止めを禁ずるような、極めてコントローリングなディズニーの姿勢を感じざるを得ません。こうなってしまえば、次回作で今回の内容をまったく踏まえなかったとしても(レイがルークの娘だったとか!)何の不思議もありません。

 だからもう私は、ディズニーがお仕着せる受け身の観客にただ徹して、スターウォーズについては前もって何も考えないようにしたいと思います。いま気がつきましたけど、ハンターハンターの面白さって伏線をきっちり張った上で、読者のあらゆる予想の埒外からそれを回収するところにありますね。キャスリーン・ケネディ・パイセンにも、この誠実な創作姿勢をぜひ見習って欲しいですね!

 あとオマエ、ライリー先生って誰ですか、だと? バカヤロウ!  nWoオールタイムベストに必ず入るところの(忘れてた)良質ジュヴナイル、「遠い空の向こうに」へ登場する、ホジキン病に倒れたMissライリーのことに決まっておろうが! ジュラシックなんとかゆうパチモンに言及する、したり顔のニワカ映画ファンどもめ! オクトーバー・スカイは1999年の作品だが、おい、ローラ・ダーンてめえ、この頃から演技の進歩がまったくねえじゃねーか! このパープル・ブラッディ・ビッチが、てめえの役割をアクバー提督さんにゆずりやがれ!