猫を起こさないように
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映画「運び屋」感想

 ニガー、ニグロ、ホワイトワールド、前回出演のグラン・トリノから変わらぬ差別用語連発のキャラづけで、他の俳優だったら問題だけど、クリント・イーストウッドに言わせるならしゃーねーなー、という周辺の雰囲気をひしひしと感じる。そしてこの映画は、トラヌプ支持層のプア・ホワイト・オールドたちが抱える、現代アメリカへの不満を慰撫するためだけに作られた物語である……とばかりは、今回は言えなかった。

 話は変わるが、この年末年始に多くのフォロワーを抱えるひとりの若いおたくに興味を持ち、こっそりとフォローした。片親に絶縁された天涯孤独の身で、自らの半生をあるときは自虐的に、あるときは狂騒的にネットへと記述する様に、かつての自分を重ねる部分もあったのかもしれない。己が精神の抱える一種の陥穽に気づいてはいるが、おたくであることを止めてしまえば、だれも捨てられたがゆえの尽きせぬ承認欲求を満たしてはくれず、何よりその芸へのおひねりがなければ食っていくことはできない。

 結局のところ、彼が苦悩する彼にとって唯一の問題も、私たち現代の棄民・ロスジェネ世代が抱える問題も、そしてアメリカの貧乏白人が抱える問題も、潤沢なカネを与えられさえすれば、すべてきれいさっぱりと解消してしまうのだ。苦悩にも、それへの救済にさえ、何の精神性も必要としないーーこの究極的な尊厳の欠落こそが、資本主義という名づけの収奪システムが体現する真の悪徳なのだ。

 「先生、銭のないところに平和はないズラ!! 銭のないところに愛もないズラ!! 銭のないところに教育も宗教もないズラ!! 銭のないところに健康もないズラ!! 幸せの青い鳥は、銭が運んでくるズラよ!!」

映画「スターウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け」感想

 悪意のある置き石に横転、大脱線した貨物列車の機関部分を修理し、再び線路に乗せ、荷物を積みなおし、なんとか目的地にはたどりついたという感じ。一本の映画としては構成的に難があるが、正しくスターウォーズ作品となっている。本作を前半と後半に分割し、それぞれに足りない分の尺を足して2つの作品にすればもっと完成度は上がったはずだが、キャスリーン・ケネディCEOの情夫であるライアン・ジョンソンの狼藉のせいでそれは許されなかった。

 5年前にも指摘したように、ただその強大な力ゆえにレイはダース・ベイダーと化し、イスラムに傾倒する英米の若者を思わせるカイロ・レンがライトサイドへと転向する、この2点を描写することは7に張られた伏線から判断すれば、規定路線だったはずだ。それを、エイブラムスが丁寧に上げたアタックしやすいそのトスを、ライアン・ジョンソンが突然のオーバーヘッドキックで観客席に蹴りこみーー「オイ、何やってんだ! バレーボールだぞ!」「でも、今のオーバーヘッドキック、すごかっただろ?」ーー、皆を騒然とさせたのが8である。そして、たんこぶをつけた観客から忌々しげにコートへと投げ返されたボールを、エイブラムスが再びレシーブし、自らトスし、自らアタックしたのが本作なのだ。ベンチに下がったライアンがふてくされながら、「でも、おれのオーバーヘッドキックのほうがすごかったじゃん」と小声で吐き捨て、コーチに後頭部をはたかれるところまでが目に浮かぶようである(幻視です)。

 基本的には、過去の名場面を下敷きとしたシーン(運命の戦いを思わせる波濤のデュエルなど)の連続で、シリーズを追いかけてきたファンなら、否応にグッとさせられることは間違いない。そして本作の最後において、「スカイウォーカー」は團十郎や菊五郎と同じく、歌舞伎のように襲名されていく何かとなった。フォースの使役はブラッドラインによらないという8のラディカルさを、少々薄めて再提示した形だ。映画史上に名を残す、空前の駄作である8さえも完全には否定しないあたり、さすが「100点を取れない代わりに決して80点を下回らない男」、エイブラムスの面目躍如と言えよう。同僚のライアンを否定せず、旧来のファンに寄り添いながら、上司のキャシーの機嫌を取ることも忘れないーー本作における彼の苦労を想像すると、キリキリと胃が痛くなってくる。

 だが冷静に見れば、3つもの作品を費やしておきながら、9のラストは再び6のエンディングの地点に戻っただけで、スターウォーズ・サーガそのものは1ミリも前に進んでいないのであった。8さえ無ければ、作品テーマを半歩は前進させることができただろうと思うと、無念でならない。そろそろキャシーはルーカスに頭を下げて、ディズニー資本のままで構わないから、彼の初期プロットによる3部作を撮り直させてもらうべきだと真剣に思う。

 そして、本作による再度の路線変更により、前作でフォースの片鱗を見せた馬屋の少年は、永久に奴隷として飼い殺されることとなった。ライアン・ジョンソンのクソ野郎め、最後の最後までイヤな気分にさせてくれるぜ!

 映画「最後のジェダイとスカイウォーカーの夜明けについて」

映画「フォレスト・ガンプ」感想

 20年ぶりにフォレスト・ガンプを見た。公開当時は雰囲気で感動していたけれど、改めて見ると軽度の知的障害を持った主人公が、身持ちの悪い女性の人生を尻ぬぐいさせられる話だったことがわかり愕然とする。

 これは身持ちの悪い主人公が軽度の知的障害を持った(としか思えない描写の)女性に人生の尻ぬぐいをしてもらう泣きゲーと同じ構図であり、エロゲー業界で一時代を築いたあの物語類型は、もしかしてフォレスト・ガンプの影響下にあったんじゃないかと思い至り愕然とする。

映画「シンエヴァ冒頭10分公開前夜」

 ヘイ、ユー! 話題のエヴァ・アプリはもうインストールしたかい? 最初にヴィレ(笑)かネルフ(キリッ)かの所属を選ばされ、いったん決めると二度と変更することができない、ゴキゲンのクール仕様なんだ! イングレスじゃあるまいし、情報アプリでなぜ陣営を選ぶのか!

 (ガッツポーズで上を向いて)これは、回答結果によって続編の展開が決まるのに違いない! やった、ポッと出のヴィレに数で負けるわけもなく、ネルフの圧勝で破の続きが決定だ!

 (突然うなだれて下を向いて)よく見ると、ヴィレのロゴがネルフより少し上に配置してあるな……おまけにネルフのロゴはQで使われた文字化けアイコンになってる……これはQの続きであることがもはや確定的に明らか……

 (ガッツポーズで上を向いて)いやいや、あのエヴァのこと! 他のアニメと差別化するための物量作戦でどちらの続編も作ってあり、劇場数を倍増して2つの結末を同時公開くらいはやるに違いない! 旧ファンよし、新ファンよし、作り手よし、まさに三方一両得、ウィン・ウィン・ウィンじゃないか!

 (突然うなだれて下を向いて)でも、カントクは悩んだけどヴィレを選んだって書いてある……これはやはり、Qの続編だというメッセージに違いない……

 (ガッツポーズで上を向いて)いや待て、作曲家のツイート画像には2冊の脚本が写っている! これは間違いなく2種類の続編が作られていることを裏づける証拠じゃないか!

 (突然うなだれて下を向いて)でも、参加声優のツイートにはBパートまでしかアフレコが終わってないってあるな……公開までの期間を考えれば、やはり作られているのは1つだけ……Qの続編である可能性が濃厚……

 (ベロを長く突き出した入道雲パーマ、異様に長細い両腕をぐるぐる回転させながら)キモッ!! キーモキモキモキモキモキモキモ、キモォッ!!

映画「かぐや姫の物語」感想

 ジブリに、いや、高畑監督にしか作り得ない、ハイパー・日本昔ばなし。そのこだわりは、特定の嗜好品において、ある時点から質の向上と値段の上昇が急激に連動しなくなっていくあの高みにまで達している。一般人には1万円のワインと1000万円のワインの味の違いがわからないように、500万と50億の制作費が生むクオリティの差を感じられるアニメ・ソムリエだけにしか、この作品の真価をはかることはできない。

 個人的には、百年を待たない新しい芸術であるアニメが、ついにこれだけの嗜好品を生み出した事実に、深い感慨を覚えた。ストーリー的には徹頭徹尾、かぐや姫であり、女の子を育てるって本当にたいへんだな、と思った。あと、つがいを得て子を成すことが地上の輪廻に乗ることであり、それのかなわなかった者たちの魂の回収される場所が月なのかな、と思った。

 ちぃちぃ……さみしぃょ……

 自分が名づけをした生命が、この世界から永久に失われるということ。結局、私は、何もわかっていなかった。

映画「ホビット3」感想

 いくど時計を見返しても、びっくりするほど針の進まない二時間半。そのうち一時間は、一言の台詞さえない。俺様の心がわずかにエレクチオンしたのは冒頭のスマウグ討伐シークエンスだけで、ファンタジー的想像力と美術が前三部作にてほとんど使い果たされていたことを確認した後は、3DアクションゲームのQTEを延々と見せられ続けてるような気分になった。

 以前ヴィゴ・モーテンセンが、「旅の仲間ではちゃんとロケハンしてたのに、二作目からCGの比重がどんどん増えていった。監督は役者の演技を軽く見てると思う」みたいな批判をするのを見かけたが、まさにその言葉の通り、ピーター・ジャクソンの悪い側面が今作ではすべて出てしまっているように思う。要は、徹頭徹尾のポストプロダクション頼みが透けて見えるのだ。「役者どもは、しかめ面のアップだけ多めに撮影しとけ。あとは全部スタジオでなんとか見れるようにするから」みたいな現場の雰囲気、言えば人間の芝居には興味が無い感じ、つまり監督の本来の出自であるギーク臭がぷんぷん漂ってくる。特に象徴的なのが終盤、マーティン・フリーマンとイアン・マッケランが夕日を背にならんで腰かけるシーンであり、これは役者の演技や存在感をぜんぶポストプロダクションが塗りつぶしていて、本当にひどいとしか言いようがない仕上りだった。

 タムリエルとかいうオリキャラ(おそらくエメラルドドラゴンへのオマージュ)とドワーフとのロマンスとか、スーパーマリオと化したレゴラスの母への執着とか、監督の混ぜこんだオリジナル要素はことごとく原作のエルフが持つ高潔さを台無しにしている。前三部作は偉大なるトールキンへ膝をついて作られている感じがひしひしと伝わってきたものだ。しかし、このホビット新三部作は、ピーター・ジャクソン本人が原作者になりかわってふんぞり返る様子しか見えてこない。こんな水増しの完結編を見せられるくらいなら、当初の予定通りの二部作で充分であった。虐げられてきたギークがいったん権威と化せば、かようにふんぷんたる臭気を垂れ流すようになるという事実を、諸君は他山の石とせよ。

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」感想

 過去の日記を見返したのだが、前作については何も触れていないようだ。しかし、今回は言わずにはおれない。ネットの片隅で細々と書き継がれておる少女保護特区という更新は、旧作が与えた命題を極めて私的な形で解消したいという願望に端を発している。十余年を繰り返していれば、圧倒された体験は時間へ風化するし、同時に己の、主に精神面での力量が向上するため、完全にそれを無化する段階に達したと、直近の更新では感じることができた。読み手の感想はおくとして、個人的には確かにある種の克服にたどり着いたと思った。

 しかし、実のところ、またしても先回りされていたのだ。少女保護特区最新の更新で提示された、世界よりも手の届く一人の少女を、という構図である。誰にも求められないという点で究極に内的な作業を経て同じ場所にたどり着いていた、同時代性への嗅覚を内輪褒めする気には到底なれない。なぜなら、相手方のそれは結論ではなく、未だ途上に過ぎないからだ。そして、旧作で最後までもつれた個人の内面を精算する段階を早々と終えて、物語は世界の謎へと飛躍してゆきそうな気配である。追い越したと思えば、また先にいる、実体を伴う蜃気楼の如き、時代を象徴する化け物としか形容できない作品である。少女保護特区のエピローグを更新しようとしていた手が完全に止まったことは事実だ。無論、蟻が象へ向ける執着との指摘に反論する言葉はない。だが、少なくとも私にとって、少女保護特区は旧作と完全に等価だったことだけは記しておきたい。

 日記的な蛇足を少々。第17話から第19話までの流れがコンマ秒刻みで身体に染み付いているため、後半、旧作と同じ構図の絵が多用されるあたりで、生理的な違和感が没入を妨げる格好になった。そして、Quickeningは胎動初感の意であり、次回予告に知的な背負い投げを感じて驚いた。あと、次はアカペラバージョンになると予想した。

映画「チルドレン・オブ・メン」感想

 団塊の世代の子育ては大失敗。ゆえに女は父を求めて不倫をし、男は母を求めて二次元に耽溺する。女は父とファックしたいが、男は母とファックしたくないからだ。負け犬、おたく、認知症、カテゴライズが無限のグラデーションを喪失させ、カテゴライズが作り出した壁は無限に並列するカーストを形成し、階級間の移動を完全に不可能にする。エクセル状の伸縮するセルが我々の住処、少子化の悲惨極まるこの裏舞台、悲劇を連鎖を望まぬ無感情で申し上げる、社会評論家の諸君はうんこを食べなさい。コーンの入ったうんこを食べなさい。精子だけを要求される男たちがなぜ勃起できると信じられるのか。かてて加えて、配給会社は高所から白痴の群れへ骨付き肉を投げる傲慢さで、計算しつくされた原題へ外国語風人造言語を上書きする。人として、最低限の知性さえ疑われた我々は、銀幕やDVDのパッケージに刻印されたそれを前にして絶望するしかない。

 チルドレンオブメン、上記の理由から消極的におすすめです。

映画「エリジウム」感想

 前作とは比べものにならないほどの予算や大物俳優を有しながら、ここまでダメな映画にできるってどないやねん。

 タイトルとなった宇宙ステーションは申し訳程度の短い描写しかなく、物語の大半が第9地区のセットをそのまま持ってきたのかと疑わせる、スラム街での小競り合いに終始する。アフリカで難民となったキャットフード好きのエイリアンとか、低予算を逆手にとった前作の設定は、おそらくブレードランナー以降で示された中でもかなりユニークなSF的世界観だったように思う。

 ひるがえって、本作は何も新しいアイデアを持っておらず、伏線の欠如した場面と場面をそれらしく貼り合わせるだけの、致命的に構成の下手な監督であることを露呈してしまった。ストーリーは行き当たりばったりの支離滅裂、伝えたいメッセージは何もなく、かろうじて撮りたい設定やギミックだけが先行してあり、それらさえも二作目にして老大家の如き自己模倣が始まっている。もうびっくりするほど、褒めるべきところが見当たらない。特にステーション内の通路に桜だか梅だかを配置した戦闘シーンには、これを新しいと思っているのだろう監督の自意識と圧倒的なセンスの無さが鼻について、即座に視聴を止めようかと思ったぐらいだ。

 あれっ、登場人物の感情の動きを含めて、映画を構成するあらゆる要素が設定に隷属させられてるのって、最近どっかで見たなー、どこだっけなーと思ってたら、エヴァQだった。

映画「アナと雪の女王」感想

 世紀末覇王ディズニーの歩む、比類なき王道。

 一点の曇りさえ無いその有様には、「ハア? 180キロの速球を投げられんのに、なんでチンケな変化球とやらを覚える必要があんだ? いらねえよ、小細工はよ!」などと、スキンヘッドに刺青の大男がパツパツのタンクトップで後ろから耳元に囁きかけるのが、聞こえてくるようですらある(幻聴です)。

 西洋のミュージカルは、日本の歌舞伎に相当すると考える。観客席の御見物の視線はカメラの機能を持たないから、演技側の過剰な強調によってカメラ的演出が行われる点が共通しているからだ。あらかじめカメラ的演出を持っている映画芸術にミュージカルを落とし込むことは、ストーリーテリングと歌唱パートの尺のアンバランスが理由で失敗するケースが多いように思う。この意味では、一般に評価の高いレ・ミゼラブルも失敗していたと感じている。成功したミュージカル映画は、例外なく通常の映画の枠を外れた長い尺で構成されていることに気づくと思う。先に挙げた2つの要素の避けがたいアンバランスを、できる限り薄めるためだ。本作では、驚くべきことに1時間40分強という短い尺でありながら、極限までテンポを高めた演出とキャラの表情、そして台詞でストーリーテリング部分を圧縮するという力業を用い、ミュージカル映画の持つその欠点を克服してのけた。正直、この類の物語のビルドアップ部分は日本昔話の例をあげるまでもなく定型化されており、今回のディズニーのやり方は新たなテンプレートとして定着する革新でさえあるかもしれない。

 一点の不安さえ無いその様子には、「ハア? 格闘技? 減量して弱くなってんだろ? なのに、どこがチャンピオンなんだ? わかんねえ、そりゃ小人の見世物小屋の間違いだろ!」などと、黒人の大男がトランクス一丁の馬乗りで耳元に囁きかけてくる重みを我が腰に感じるようでさえある(幻覚です)。

 しかしながら、ラプンツェルのときにも指摘した毒を新生ディズニーは依然としてはらんでおり、今回は兄弟姉妹間に存在する双方向でありながら、たぶんに一方的な葛藤がそれに該当する。スタッフロールの後、悪役にまで救済を用意するディズニーが、エルサにだけは身内の愛だけで我慢することを強いて、「国イコール家族」のために奉仕する残りの人生を喜びとして受け止めるよう洗脳する。無邪気にこの映画を礼賛するのはおそらく次男か次女であり、老老介護に疲弊した長男や家族が理由で婚期を逃した長女は、きっと砂を噛むような読後感で劇場を後にすることであろう。