猫を起こさないように
シン・エヴァンゲリオン劇場版
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アニメ「ゴジラSP(最終話)」感想

アニメ「ゴジラSP(6話まで)」感想

 ゴジラSP、最終話まで見終わった。感想としては、「ワンクール13話のアニメで最終話だけがつまらない。でもいいじゃないですか、12話までは毎回楽しませてくれたんだから、最後くらいつまらなくたって」。あれだけ両手がもげるくらいの大絶賛を毎週くりかえしていた理系クラスタの方々がモニョってるというか、トーンダウンしてる理由がわかりました。家人にすすめず、ひとりで視聴して正解だったと胸をなでおろしております。「監督の仕事に必要なのは、OKかNGを出すだけ」「アングルさえ決まれば映画になる」で大失敗したシンエヴァになぞらえて本作を評するならば、「科学と数学の専門用語と古典からの引用を並べておけばSFになる」「ゴジラ作品に必要なのは、歴代シリーズとジェットジャガーへの愛だけ」となりましょうか。観客席で皆が固唾をのんで見守る中、ラスト10分、原理不明のまま巨大化したジェットジャガーがゴジラの顔面にプロレスばりのトーキックを食らわせた瞬間、ゴジラクラスタは席から立ちあがっての大喝采、理系クラスタは背もたれに深く身を沈みこませての大落胆、はたで見てる非ゴジラファンの文系としては、この上ない愉悦のショウタイムでした。特撮モノとしてはキレイにオチたけど、サイファイとしては飛翔しませんでしたね。ネビュラ賞は難しいかもしれません(日本SF大賞ならヨユー)。そして、ずっとラインだけのやりとりだった男女が、物語の最後の最後で顔を合わせるんですけど、駆け寄るでも肉声を交わすでもなく、距離を置いて黙ったままニヤッと口の端を歪めるの、最高に理系って感じがしました。他人の不幸は蜜の味ではないですが、よりもいで咽頭に詰まったままだった溜飲が大いに下がったことは認めざるをえません。あと、シンエヴァ公開直前と直後の私の反応も、こんなふうに楽しまれていたんだろうなーと思いました。

 ゴジラSP、1話と13話を見返したけど、すげーわ。物語の全長を100%とすると、96%くらいまでハードSFを擬態し続けて、最後の最後で「サイファイだと思った? キャハハ、ざーんねん、トクサツでしたー! ジェットジャガーだいすきー!」とか叫びながら、白衣の腺病質のみぞおちに鉄板入りの革靴でナガブチキックねじこんでくる感じ。この展開が正のカタルシスになるか負のカタルシスになるかは、完全に視聴する側の属性に依るという作りになってて、どこまで意図的かはわからないけど、すげーわ。

漫画「ブルーピリオド」感想(10巻まで)

 ありそうでなかった、美大受験漫画。しかも、大阪芸術大学や武蔵野美術大学みたいなシリツとちゃいまっせ、泣く子も黙るコクリツ様の東京藝術大学や! タイトルだけ見て、なぜか音楽漫画とカン違い(たぶん、ブルージャイアントのせい)してて、最近まで手に取っていませんでした。既存画家の贋作ディーラーを取り上げたりとか、作品ではなく芸大での学生生活を描いたりとか、最終回でハチミツを塗ったパンでクローバーを挟んだものを食わせたり(ネオンジェネシスばりの強引な伏線回収で、何より不味そう。犬の小便かかってそう)とかに「逃げて」ないんです。ガチで正面から、美大受験の作品制作にフォーカスしてるんです。なぜこのテーマがこれまで実現しなかったかと言えば、音楽漫画なら読者の経験におんぶだっこで、「この漫画、ページから音楽が聞こえる!」とかなんとか適当なことを言ってもらえますが、他ならぬ絵で実作品を描いて説得力ーー「たしかにこれは、東京藝大に現役合格する油絵だ!」ーーを持たせなくてはならず、いっさいのごまかしがきかないからでしょう。これまでの同系統の作品が、絵そのものは見せなかったり台詞だけで処理したりして、かわし手を使って読者の評価を避けてきた要素へ、正面から画力で組みに行っているのには「ブラヴォ!」の一言です。

 そして、描かれている物語がまた素晴らしい。「複数の人生の全長版が別々の場所に存在していて、それらのどこを切り取って並べれば書き手の伝えたいメッセージがいちばん伝わるか」という手法で作られており、美術に魅入られた人々が抱える本物の葛藤や人生の航跡にグイグイと引き込まれます。あと、女性の書き手に多いと思いますが、作者がキャラクターたちへ「適度に」優しいのも、物語にポジティブな印象を与えています。本作の主人公も闇堕ちみたいな方向へ進む分岐がいくつもあるんですけど、さりげなく作者が介助していって、彼にとって正しい人生のレールへと戻してくれる。この「愛」の量が作品の質を決めると思っていて(この語尾、大キライ)、これが増えすぎて「溺愛」になると、死ぬべきキャラが死ぬべき瞬間に死ねず、物語の停滞を招いてしまう。後期のグイン・サーガとベルセルクがまさにそうでしたね。イシドロがコルカスみたいになったり、シールケがキャスカみたいになったりするかもという読み手の緊張感は絶無でした(もしかすると、ブルーピリオドは現代劇で生き死にの問題にならないので、このくびきから逃れているのかもしれません)。

 シンエヴァ(またなの!)のストーリーテリングは本作の真逆で、「描きたい場面」と「言わせたい台詞」のために、キャラの自我をミートチョップでバラバラにしてから縫い合わせてて、死体を操演線であやつる死霊魔術みたいなものでした。ケンスケから釣竿を渡そうと声をかけられて、シンジがちょっと間をおいてから「そんなのできないよ」みたいな台詞を言う場面がありましたけど、ぜんぜん芝居がつながってるように聞こえなくて、初見のときになんだか異様な感じを覚えたんですよね。自我のミートチョップの例えから、声優の台詞を別撮りにするのは、素材として切り貼りの容易な音声データを作るためなんだといま気づきました。声優どうしでかけあいとかさせると、台詞と台詞に関係性が生じて芝居を分離できないから、コラージュの死霊術師にとって使い勝手が悪くなっちゃう。監督にとって最後のアニメ制作が、まさにネクロマンシーの秘術となってしまったことは、いつまでもいつまでも残念です。

 話をブルーピリオドに戻します。いま大学生編の文化祭のところを読んでますけど、学生生活の描写はあくまで箸休めで、ガチの作品作りとその苦悩にまた戻ってきてほしい。群像劇で長編化せず、主人公の苦悩へだけフォーカスしたまま、多くとも20巻くらいで終わってほしい。教授会が定刻通りに始まったことはなく(音楽学部は定刻10分前には全員そろうらしい)、卒業生の半数以上が就職せず行方不明になるという、一般人が畏敬の念を抱き、妄想をたくましくする東京藝大の魔性を見せてほしい。また勝手なことを放言しましたが、「これが終わるまでは生きる」リストへ、ひさしぶりに新たな作品が加わったことは事実です。でも、才能ある友人の悩みには、「もう大学生なんだから、家を出て下宿しろよ。それで解決する問題だろ」って、オジサン少し思っちゃうな。

雑文「あるライターへの公開処……書簡」

 なんかアニメ雑誌のライターみたいなアカウントにエア言及されてるっぽいツイートを見つけてしまう。「青年の自虐芸で売っていたテキストサイトの管理人がもういい年齢だろうのに昔と同じノリで活動してて痛々しい。人生ってなんだろうって思う」みたいな内容で、あれ、もしかしてコイツ、オレのこと言ってない? どう読み返しても周囲を見回しても、該当者が自分ひとりしかいない気がするなー。その一連のツイート、「その点、みじめになる前に自分から消えた本田透(なつかしい!)はえらかった」みたいに締めくくってあって、なんかすごいモヤモヤするっていうか、端的に言ってムカついた。まあ、せっかくの機会だし、まだ見ぬ別人物の可能性もゼロではないので、こっちもエアっぽくダラダラ所感を述べることとしましょう。

 「90%以上の時間、別の自我を演じて社会生活している」って話を以前しましたけど、ふだんの私は眉目秀麗品行方正明朗会計であり、世間様の求めに100%かなう、どこに出しても恥ずかしくない「昭和中期のコスプレ」のようなカタブツなのです。小鳥猊下から出てくる言葉の群れは、出す場所は無いが出さずにはいられない衝動とでも言いましょうか、古い例えで申し訳ないのですが、現役の判事が書いていたとウワサの「家畜人ヤプー」と同じ性質のものなのです。つまり、私のツイッターに記述されているのは、加工される前の「ナマの衝動」であり、現実には一滴も漏らされない廃液と言えるでしょう。少し話はそれますが、理系のバリキャリっぽい女性が10年以上にわたって「しっこ」とか「うんこ」みたいな発言しかしないーーときどき高度な数学の話をサラッとツイートしてドキッとさせられるーーアカウントがあるんですけど、その人物が現実で抱えているであろう責任の大きさや実社会での功績などを想像すると、ちょっと胃が痛くなる感じがあります。まあ、長い話を短く言えば、「ネットで固いこと言うヤツほど、現実がユルめでちゃんとできてないんじゃねえの?」ってことです。ツイートの中身がアホみたいなアカウントほど、中の人はリアル沼正三で、高い内圧を抜く目的でツイッターやってる感じがするんですよね。

 まあ、私はそこまでの域ではありませんけれど、小鳥猊下としてツイートするときにいつもイメージしてるのは、オタクの沼正三が書く「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」(あるいは「貧乏サヴァラン」)でしょうか。これ、晩年の森茉莉によるエッセイ集で、ときどき読み返すんですけど、いつもメチャクチャに絶望してるかメチャクチャに怒ってて、全編にわたってハチャメチャに面白い。「爬虫類みたいなタモリがテレビの画面に出てくるとゾーッとしてチャンネルを変えちゃう」みたいなことが平気で書いてあって、初めて読んだとき「ここまで正直に感じたことを書いていいんだ!」と目からウロコが落ちたのを覚えています。いまちょっとパラパラと読み返してて気づきましたけど、ほうぼうに話が飛ぶところとか、文体も内容も完全に影響下ですね。前にも言ったような気がするけど、ギャグ漫画家でデビューした人(唐突に話が飛んだ!)って、かなり高い確率で後期作品がド真面目のシリアスになる傾向があって、両親が体現する「常識」なるものへの反発から始まったはずの創作活動が、ままその重力圏を突破できず引き返してしまうのは、世間に顔向けできる内容で他ならぬ「両親に認められたい」という欲求が芽生えるからだと思うんですよね。

 ようやく話が冒頭に戻りますが、このライターもはぐれ者のはみだし者として、ローンウルフの自己定義から始まった稼業を「真面目にコツコツ、世間に頭を下げて、イヤなことも厭わず」続けて生き残っていくうち、マジョリティ側に自意識を融合させていったのだろうと想像するのです。私に言わせれば、そんな場所にたどりつくくらいなら最初から公務員か銀行員でもやってろって話ですが、「いい加減で、がんばらず、まっとうでない」ように見えるヤツに対してどこか非難めいた視点を持ってて、長年にわたって自分がさらされ続けてきた両親からのそれと半ば同化しているように見えます。たぶん、本人も自覚してないと思うんですけど、「いつまでフラフラと浮き草家業をやっとるつもりだ! とっとと身を固めて親を安心させようと思わんのか、バカモン!」みたいな昭和のステテコ雷オヤジの叱責を内在化させてて、反発したけれど否定はできないでいる、その絶対の律法へ従わないふるまいへ、当該のツイート群は個人的な不快感を表明しているように感じられました。「オレはこんなにも我慢(シンエヴァへの悪口とか?)して真面目にやってるのに、コイツはいつまでもいつまでも匿名で好き勝手な放言ばっかりしやがって! もっと正しく人生をやれ! 人生ってのはな、もっと真剣なもんなんだよ!(そうかあ?)」という無意識のやっかみと声にならない説教が、面識もない相手をロウ・ライフ(アット・リースト・ロウワー・ザン・ミー)へとカテゴライズしようとする心の動きになったのではないでしょうか。知らんけど。

 私なんかは、我慢せずに言いたいこと言えばいいのにとか思ってしまうわけですが、ここまで書いてきてピンときたんですけど、もしかするとこのライターは何かの拍子に「:呪」を読んでしまい、語られている内容が気に食わない、あるいはうらやましいーー立場上、作品に文句をつけるわけにはいかないーーから、どうしようもなく人格攻撃的なエアリプへと転じたのではないでしょうか(そうとでも考えなければ、からまれる理由がない)。だとすれば、これほど悲しいことはありません。つくづく、シンエヴァというのは罪な作品ですね。ファンの間に分断をしか生まず、人間関係をギスギスさせ、おおっぴらに意見を交換することさえ、ついには公式に封じられてしまったのですから! シン・ゴジラが監督の正のポテンシャルを最大限に発揮した傑作とするなら、シンエヴァは監督の負のポテンシャルを最大限に発揮した駄作で、この2作品はまさに究極の陰陽をなしてますね。結論として導かれたのは、「ぜんぶ、シンエヴァのせい」。おあとがよろしいようで。

雑文「ベルセルク未完に寄せて」

 訃報にふれた第一声は、「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」でした(関西弁だったけど)。私にとってのベルセルクは、スペースシャトル(様の宇宙船)だったかなー。ノロノロつたない導入部からグングン作画力と演出力が加速し、「蝕」と重なったそのピークの爆発力で重力をふりきって成層圏まで一気に垂直上昇、「ロストチルドレン」で機体が平行に戻ったあとは衛星軌道に乗って、遠くでゆっくりと時間をかけて同じところをグルグル回っている、そんなイメージです。

 ドクター・マシリトが作者との対談で、「僕が担当なら蝕のシーンはぜったいに描かせない。若いうちにあれを描いてしまったら、作家として終わる」みたいなことを語ってて、本当に慧眼だったなーと改めて思わされました。ドラクエで例えると、レベル50ぐらいまでの到達とラスボスの打倒をバランスのいいテンポと長さで語るのが、良い少年漫画の基本系だと思うんですよね。昔の作品ならダイの大冒険あたり、最近の作品なら鬼滅の刃がそれに当たるでしょう。ベルセルクって、過去編というかなり早い段階で「蝕」を出してしまい、つまり一足飛びにレベル99へ到達してしまい、運営5年目のアプリゲーぐらいの煮詰まり方から現代編を語らなければならなくなってしまった。これに対する作者の回答は、「物語の失速を、画面の密度を際限なく高めていくことで相殺する」であり、運営10年目のMMORPGみたいに「レベル上限をさわれないので、装備数値の小幅な更新で成長を演出する」のと同じ袋小路に入りこんだ感がありました。少年漫画の歴史は長くないーー老舗のジャンプさえ50年ほどーーがゆえに、これまで顕在化してこなかった「連載の長期化と作者の寿命」という問題が、主に高齢化する読者側の不安として近年は浮上してきており、今回はそれが現実のものとなってしまいました。

 いち時代を築く作品というのは、作者がそれを受け止めるだけの充分な研鑽と才能の器を持っていることを大前提としながら、やはり「選ばれて与えられ、語ることを許される」特別な物語だと思うのです。それを語ることは古代のシャーマンがする神おろしのトランスであり、生命を燃やして歌い踊ることで日常を越えた何かの存在を、我々凡夫にもわかるよう伝えてくれるのです。そして同時に、神の依り代となった者は神が身内を満たしているうちに、与えられた物語を語り終える義務があるとも思うのです。長すぎる物語の語り手が、この義務を果たしたケースを私は寡聞にして聞いたことがありません。道半ばに生命を燃やし尽くして倒れるか、もう身内の神は失せているのに、神が共にあるふりをして踊っているかのどちらかしかない。古い世代の例えで言うなら、ベルセルクはまずデビルマンとしていったん短く苛烈に終わるべきだったのに、どの時点からかバイオレンスジャックへと語り方が移行してしまった(脇道であるギガントマキアの世界も、連載が続けばおそらく枝葉として統合されていったと思います)。

 少し話がそれますけど、こないだチェンソーマンをぜんぶ読んだんです。まー、これがものすごい速度の漫画でした。本当ならだれもついていけないような速さなのに、読者側の漫画リテラシーというか、フィクション受容能力が昔に比べて格段に上がっているので、作品側が読み手の読解へじかに融合してくるような形で行間を補完させて、わずか11巻という短さであの規模の話を強引に語り切る終わり方をしていて、少年漫画の文化的成熟を前提にした全く新しい作品が出てきたなと思いました。これだけ短いのに、チェンソーマンがハンバーガー屋に客で来るギャグみたいな小噺も混ぜてあって、従来の文脈から登場したのではない、異質の凄みを感じました。「速すぎて短すぎるのにちょうどいい長さ」って、ほんと良い少年漫画の定義を真正面からブッ壊すようなイレギュラーだと思います。

 え、紆余曲折あったけど、ちゃんと物語を終わらせたシンエヴァはえらいですね、だって? バカ、シンエヴァなんかをベルセルクといっしょにするなよ! たしかに狂戦士の甲冑はあからさまにエヴァ初号機のイメージをパクッてたけど、あれはテレビ版19話までの影響で、新劇はぜんぜん関係ないだろ! 完結まで25年もあったけど実働は5年ぐらいのものだろうし、神おろしの巫女が見事に舞台を務めて去ったあとの神社で、境内を掃いていただけの下男のオッサンが脱ぎ捨てられた巫女服をひろって身に着けて、キショク悪いアンコウ踊りをクネクネ踊っていただけだろ! だれかのレビューを読んでからしか作品の評価ができない貧相な感性を振り回すの、もういい加減にしろよ!

 まあでも、初老をこえたら前触れなく死ぬことはふつうにありますね。最近、私が(nWoなりに)頻繁にツイートをしているのは、現世からカネをかすめとるために90%以上の時間、自我を消滅させて生きているため、私の内側にある何が外で起きても変わらない本質をどこかへ残しておきたいという欲求がさせているのでしょう。そしてその欲求は、「ある日、突然に死ぬ」ということが思春期の甘い妄想ではなく、中年の生々しい現実として実感されてきたからです。頭の中にしかない、「こういう文章で感情を表現しておきたい」というモヤモヤしたものが吐き出されないまま死んだら、地縛霊にでもなりそうな気さえします。

 いまの夢は半世紀ほど経って、テキストサイトムラの住人たちがことごとく死に絶えてから、最後のひとりとして小鳥猊下の権威を高めるためだけに、あることないこと語りまくってやることです。アンタたち、せいぜい長生きしなさいよ! アタシより先に死んだりなんかしたら、アンタたちの悪口をふきまくってやるんだから!(アスカ? いいえ、ダイワスカーレットです。なぜかアスカは、私の中からいなくなってしまったので……)

質問:「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」ここ、どんな関西弁だったんですか?
回答:「アホか、なに死んどんねん!」です。関西弁、あったかいナリ……。

 雑文「マシリト&ウラケン対談」感想

ゲーム「2021年の艦これ」雑文集

アニメ「艦これ1話」感想
ゲーム「艦これ2014夏イベント」感想
ゲーム「艦これ2019夏イベント」感想
ゲーム「艦これ2019秋イベント」感想
雑文「或るおたくの症例(艦これ2020年秋イベント実録)」

 艦これ、アルコールを入れつつ日課の演習消化へ取りかかろうとして、警戒陣の追加に新たなイベントが始まったことを知る。一瞬で酔いは醒め、肌がヒリついた。いま「世界で最もプレイしたくないゲームは何か」と尋ねられれば、答えは間違いなく「艦これ」だろう。そんなにイヤなら、やめればいいのにって? ハハッ、ラブリーなアドバイスをありがとう。「FF11は人生」になぞらえるなら、「艦これは刑期」なのさ。

 潰しても潰しても、ゴキブリみたいに次から次へと出現するゲージにゲンナリする。あのさあ、中規模イベントの「中規模」って、どういう意味で使ってんの? 何度も何度も出撃させられて、キンキン声の砲撃戦を見せられるイライラったらないんだけど、どうせ内部的には接敵の瞬間に戦闘結果が出てるんでしょ? 艦これイベントへの苛立ちの大部分って、チンチロで例えるなら「シゴロが出るまでサイコロを振り続けろ」みたいな回数の試行を求められるのに、過程の90%が見ているだけで介入できないところに起因してると思う。「3倍速」「オート進軍」「戦闘スキップ」の機能が実装されれば、イベント海域のストレスは(私にとって)大幅に軽減することでしょう。

 よしッ、第3海域のボスゲージ破壊ッ! いやー、乙かれ(笑)さまでした! これであと三ヶ月は艦これに触らなくていいと思うと、清々しい気持ちで目頭が熱くなってきますね! 他のすべては最悪ですが、この解放感だけはいつも最高です! もちろん、攻略の過程で新規ドロップ艦が手に入るなんて望外の幸運にはめぐまれていませんが、潜水艦と駆逐艦は戦力的にもう飽和状態で必要ないし、理由はわかんないんですけど「マキナミ」って艦名がすごい不快感を呼び起こすので、私のイベント攻略はこれにて終了です!

 ……え、まだ後段作戦あるの? もう2海域ほど追加されるって? あのさあ、もういちど聞くけど、「中規模」ってどういう意味で使ってんの? 1海域あたり3〜4ゲージあるのを5海域って、イベント毎にどんどん規模が肥大していってんだけど、とりあえず「大規模」の定義を教えといてくれる? 今後のつきあい方を考えさせてもらいますので!

 あと突然の近況報告ですけど、半年ぶりくらいにマウスとキーボードを新調することになりました。(イヤそうに)もしかして、また艦これですか? (悲しそうに)そう、また艦これです。イー・フォーの第4(第4!)ゲージ破壊、昼間に敵旗艦を大破まで追い込んでの夜戦突入、さらに第二艦隊は無傷で、「これはもらった!」と息まいていたらカットインまでぜんぶカスダメ、装甲破壊ギミックも解除してんのに、残りHP2が削りきれずガシャン。はい、ここでいまは懐かしい、あのキーボード・クラッシャーの動画を思い浮かべて下さい。我にかえったら、なぜかマウスとキーボードが反応しなくなっていました。ヘヘ……ちくしょオォ……どうしてオレって奴あよオォ……ちくしょオォ……(魔物のパイオツに顔をうずめながら)。

 ゲージ、ギミック、ゲージ、ギミック、ギミック、ギミック、ゲージ、ギミック……ウオアアァァァーーッ! 小鳥猊下であるッ!

 艦これ春イベ(春なの?)、乙乙乙乙乙にてクリア。「神はサイコロをふらない」って言葉がありますけど、艦これのイベント海域って、サイコロをふりまくる神がへべれけでチンチロをションベンさせまくってるような印象です。今度こそ、本当にこの苦役から解放され……え、E5のドロップ艦って、宗谷なの? 巻波はなんか音の響きがイヤなので(理由はわからない)無視したけど、「南極のタロとジロ」を音読して号泣する大人へ「え、なにコイツ? なんで泣いてんの? 怖ッ!」と白けた視線を向けていた子どもとしては、宗谷を引かずばなるまい。リキ、行くぞ(老齢の犬が億劫そうにまぶたを上げる)!

 うん? 艦これのイベントやってないんですかって? 最近、私の死因は艦これ由来の脳出血か大動脈解離ではないかと半ば本気で恐れているため、できるだけ意識に上せないよう、言語化せぬようにプレイしており、菩提樹の下で魔羅にウザがらみされながら結跏趺坐を崩さぬ釈尊の修行みたいになっている。現在、E3-4のゲージ破壊に着手しており、体感で9割以上となる夜戦マスでの大破撤退に、悟りの完成は近い。乙難度にも関わらず、使用したバケツは1,000近く、消費した燃料は150,000を優に越えており、小規模とは名ばかりの、過去最低のイベントだと断言することに何のためらいもございません。

 艦これ夏イベ、友軍を待たずに乙乙丙にてクリア(友軍を待っていたら、どこかの血管が破れて死ぬと思ったので)。以前、モンハンワールドだったかの感想で「レベル50で激闘、レベル99で楽勝だったのが、いまやレベル99がゼロ地点でそこから高い技量を求められる」って書いたけど、今回のイベントもまさにそんな感じですね。「前回までの甲難易度クリア報酬やランカー装備を漏れなく所持し、艦娘はケッコンしてできるだけ高いレベルにして、装備改修とステータス改修を上限に近づけておく」が攻略の前提にされてるので、総体としての難易度が甲に引っ張られる形でずっと上がり続けてるんですよね。いよいよサービス終了に向けて、カジュアル・プレイヤーを振り落としにかかっているのではないかと疑うほどです。今回、はじめて丙に落としてクリアしましたけど、体感的にはそれでも前回の乙ぐらいの難易度はあったような気がします。FF14にも感じたことですが、「レベル99で最強装備」が攻略の前提であるゲームが増えてきたのは、まともなレベルデザインをできる人材がそのノウハウをどこにも残さず、業界から姿を消してしまったからなのでしょうか。昔のゲームは「下手でも時間をかければ報われる」ように作られていましたけど、最近のゲームは「時間をかけても報われるとは限らない」ものばかりで、人生の残り時間が気になる世代にとって、怖くて新しく始められないものばかりになってきています。「じゅぢちゅ廻戦は面白そうだけど、若い作家の長編はもう怖くてさわれない」という話を以前しましたが、「作者が死んで、もう続きが見れない」なら、まだ気持ちの整理をつけようがありますが、「自分が死んで、もう続きが見れない」なんてことになれば、怨霊として化けて出るしかありません。オタク趣味が市民権を得た結果、息ぬきの娯楽や気軽なエンタメに過ぎなかったものが、あまりに人生の時間や労力を多く要求する方向に進んでいる気がします。「鬼滅の刃」や「チェンソーマン」の素晴らしさは、この観点からも説明できると思いました。

カウンセリング「シンエヴァ・ファイナル呪詛」(2021/5/11~2022/8/22)

承前:カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~5.8)」

2021年5月11日

 noteで絶賛公開中のFF11雑記「ヴァナ・ディールの癒し」ですが、お気づきのことでしょう、あの名著「ターンエーの癒し」からタイトルをいただいています。適当にしゃべりますけど、エヴァ新劇は監督が新訳Zガンダムを見たことがきっかけでスタートした企画らしいので、もしかするとシンエヴァの展開はターンエーガンダムの影響下にあったんじゃないでしょうか。ハウス名作劇場を思わせるロボット物とは水油の牧歌的な前半と、ガンダムの旧作がまとめて「黒歴史」として語られる後半を思い出して、なんとなくそう感じました。

2021年5月12日

 ごめん、またシンエヴァの話になるけど、NHKの例のドキュメンタリーで気になっている監督の言葉があって、それは屋上でインタビュアーにポツリと漏らした「アニメを作るの苦手なんですよね」というものです。何を聞かれても「言わない」「教えない」人ですけど、それは自分の根本的な薄っぺらさを隠そうとする無意識の動きで、言葉として発されたものには劇中の人物の台詞を含めて、ギョッとするほど素直な加工されていないものが多いと感じています。「アニメを作るのが苦手」というのも、韜晦や照れ隠しではなく、その時点での正直な気分を吐露しているように聞こえました。おそらくシン・ゴジラの制作を通じて、これまでずっと抱えてきた棘のような違和感をはっきりと意識してしまったのでしょう。そして実写に寄せた「手法」だけを追求した結果、シンエヴァの肝心の「中身」がゲロを吐いた床を雑巾で掃除するのをキメキメのアングルで撮影するだけの要介護作品になったことは許せませんが、「アニメが苦手」なことを自覚した雰囲気だけは確実に伝わってきました。監督が現在とりくんでいる題材は「他所様の作品で」「ストーリーが決まっていて」「実写である」ことを考えれば、アニメ制作の何を苦手と言っているかが見えてきます。この中でも特に、実在の人間とモノに向けてカメラを回すことがもたらすワンダー、全く予期していなかった、しかし頭の中にあるものよりベターな素材が上がってくる興奮、過去のどこにもない、確実にオリジナルと呼べるものを進行形で作っている実感は、非常に蠱惑的だったのだろうと想像するのです(でも、シンエヴァのアフレコはほとんど別撮りだったみたいだし、人と人との芝居で生じる化学反応は嫌ってたのかな)。つまり、己の本質を「コピー人間」と自虐する人物の内側に芽生えた「オリジナルへの希求」がシン・ゴジラからシンエヴァ、そしてその後に来る作品たちに底流する見えざるテーマになっているのではないでしょうか。監督は、ハプニングの生じにくい自家撞着の極みであるアニメ制作で、完成品を見てもすべて過去のどの作品が出典なのか自分にはわかってしまうことを「閉塞感」と表現していたのかもしれません。逆に「オタクの王様」はすべての元ネタがわかることへ強い喜びを感じていて、これがクリエイターと批評家を分ける決定的な差なのだろうなと思いました。おそらく監督にとって実写とは「リソースを伴わない無限個(に思える)の試行」を許してくれる遊び場であり、アニメ制作の「つどリソースを消費する有限個の試行」に戻ったとき、ひどい窮屈さを感じたのではないでしょうか。それが第三村を含めた前半部の奇矯な手法を生み出してしまい、基本的に自分のカネ(パチンコ)を使っているのと、ジブリの鈴木翁のようなプロデューサーがいないため、だれも費用対効果を言えないまま、無尽蔵の浪費が放置(9ヶ月かけた制作物を「頑張りが足りない」の一言でご破産にする)された。そして、その試みはカネだけでなく時間をも空費してしまい、「神殺し(イコール実写の手法)がもたらした神様のいないDパート」、すなわち独裁者による制作マネジメントの大失敗を、あの偉大なるエヴァのメタフィクショナルな結論として、永久にフィルムへ熱転写するはめになってしまった。

 また何を勝手な憶測を繰り広げているのかと呆れておられるのでしょうが、大切な人を凄惨なやり方で殺された遺族が、「目には目を」の復讐ではない、法に則った手続きを踏もうとするならば、これは必ず通る被告の心理と動機を理解しようとする許しへのプロセスに他なりません。エヴァを壊された事実は消えませんが、どうにかそれを受け止めることができないか苦闘しているのです。いつまでも終わらない私のシンエヴァへ向けたテキストは、平穏な人生に突如として訪れた極大の不幸への受認へ向けた日々の軌跡なのだととらえ、いま少し暖かい目で見守っていただければ幸いです。

2021年5月13日

 それにしても、シンエヴァの前半もアホみたいな農村で時間を使うくらいなら、これくらい性的な願望充足モノとして、シンジと女性陣の四角関係だか五角関係だかを描くでよかったんじゃないですかね。後半は後半で、月にいる実体の無い神様をカヲル君に受肉(悪魔将軍!)させて、シンジが泣きながら初号機でブッ倒すとかでも、あんなクソミソのラストを見せられるよりは、ぜんぜんマシな気分で帰れたと思います。

 著名な漫画家が「中学生ぶりに『男の戦い』を見たら、記憶よりもすごかった」とツイートしてるのが流れてきてて、おそらくシンエヴァへの失望を遠回しに表明していると思うんですけど、美化されがちな、しかも作り手の記憶よりもすごいって、すごくないですか(貧困なる語彙力)。2度目の完結から25年をふりかえれば、エヴァって「男の戦い」がすべてでしたね。多くのファンが期待していたのは、シンジが初号機で人類を救う「男の戦い」を再び戦うことだったと思います。

質問:違ったら申し訳ないですが、自家撞着を一般的な意味(自己矛盾)とは別の用法で使ってませんか。

回答:フッ、そこに気づくとはさすがアオイね。たしかに、この文章では「自家撞着」を「自家中毒」の意味で使ってるわ。アタシが「王道」って言葉を使うとすぐに「御用だ誤用だ!」とスッとんでくるトッツァンがいるんだけど、それと同じでnWo語というか、栗本薫語なのよ。「自家中毒」より「自家撞着」のほうが言葉として摩耗してないし、何より響きがカッコいいじゃない? だから、「ハプニングの生じにくい」という形容で補助して、文脈でなんとなく「自家中毒」の意味で読ませるという高度なテクを使ったまでのことで、けっして誤用なんかじゃないのよ? なによ、その目は! ほんとなんだから! あら、アナタのサムネイル、どこか見覚えがあるわね? まさか、まえにアタシのことを老害よばわりしたりしてないわよね?

2021年5月15日

 例の声明に「すわ、成就か!」と色めきたつも、海外のドぎつい「ラースと、その彼女」(婉曲表現)たちが副監督のひとりにネチネチからんでいただけで、ガックリする(まあでも、はやめに読んどいたほうがいいよ)。海外のエヴァファンって、本当にキャラの話しかしませんね(Be careful, 
@evansjellylion! They are watching you!)。

 んで、炎上したインタビューに興味が出てきて、アマゾンでサクッと掲載誌を購入しようとしたら、早くも転売価格になってて倍ぐらいの値がついてんの。「ほんと、アマゾンは使いにくくなったなー」なんてひとりごち(笑)ながら、近所の本屋……は軒並み潰れたので、幹線道路沿いの大型書店へと愛車の軽トラを疾駆(sick)させるのであった。そしたらフツーに売ってて、「やはり転売ヤーは滅ぼすべき人類悪」などとひとりごち(笑)ながらレジに持ってこうとすんだけど、その、表紙の絵がすごくアレなんです。ボデーの曲線を際立たせるピッチリスーツを着た3人が、女の子座りでこっち見て微笑んでるっていう、フーゾクの呼びこみみたいなイラストなんです。おまけにレジが女性店員だったものだから、表紙を胸元へ隠すように店内をウロウロしながら、「ここはスポーツ誌と経済誌でサンドイッチして購入するべきか? いやいや、それ、転売価格で買ったほうが安くなるやつですやん!」などと自問自答による逡巡を繰り返すハメになったのです(思春期かよ!)。最後には、「えい!」と叫んでそのフーゾク誌を裏向けにレジへと叩きつけてやりましたが、マスクをしていなければ動揺を隠しきれた自信はありません。「ありがとうございましたー」の声を背に受けながら、マスクの下に上気した頬で、「実店舗での購入にはこのはずかしめがあるの、20年くらい忘れてたなー」と、なつかしくも情けない気持ちになりました。

 さて、長すぎる前置きでしたが、件の炎上インタビューに目を通したところ、アスカとケンスケの関係を老夫婦として演出をつけたという話でしかなく、「ラースと、その彼女」たちは本当にめんどくさいなーと思いました。しかしこれは、いっさいコミュニケーションしようとしない監督の意図を副監督が勝手に想像しただけの話で、海外ファンのひとり相撲と言えましょう。もっと深刻なのは、監督がMIYAMOOの演技につけたぶつかり稽古、ブンダー直下でケンスケにカメラを向けられる場面を「ラブシーン」のように演じてほしいという発言です。はい、言質いただきました、これで監督が例の裏ビデオを見ていたことが確定しました。アスカファン(LAS)のみなさん、安心してください。これは劇中のキャラクター同士に向けた演出意図ではありません。リアリティで別の男に想い人を奪われてしまった古傷に指をつっこむことで、エヌ・ティ・アール的ライブ感をフィルムへ熱転写しようとしたのでしょう。いやー、シンエヴァを私小説にしたことは絶対に許さないけど、己の人生に生じたあらゆる感情を克明にフィルムへと刻みこもうとする執念は、ホントすごいわ。

 他の関係者のインタビューを読んでも、「まぶたの線の位置」を1ミリだか1センチだか修正させたり、それが作品のクオリティを高めるはずだと信じる偏執狂(編集狂?)的な介入の足跡を、そこここに見ることができます。どのインタビュイーも必ず監督のことに言及してて、まさにエンペラーとでも形容しましょうか、現場での影響力の大きさをうかがわせました。エヴァだからできた贅沢な作り方ーー「他の作品だったら10本は作れるデザイン量ですよ」ーーみたいな表現も散見され、「100の制作物を出させてから1だけを採用し、その1に自分のハンコを押す」やり方が徹底的に貫かれていることがわかります。シン・ゴジラの全記録全集で盟友のひとりが「本当にすごいし真似できないとは思うけど、同時にああなったらおしまいだなとも思う」みたいな発言をしていたことを思い出しました。つまり、己の主観による判断が絶対であり、それは裏を返せば、対立する別の主観は間違っているということになります。「両雄ならび立たず」の言葉通り、同じ力量を持ちながら常に意見をねじふせられた結果、だれかとの「友情にヒビが入って」しまったことは、想像に難くありません。

 そして、かつてはシナリオについてもこの手法(他人の100から1を拝借)が取られていたのに、エヴァQ以降ーーまだ3作しかありませんがーーは「自分で100を作って、ぜんぶ使う(書き直しはある)」ようになってしまいました。突然の路線変更から、シナリオをすべてひとりで書かなくてはならなくなった結果、エヴァQが大失敗に終わったことは記憶に新しい(さほど新しくもない)ですが、そのリベンジをシン・ゴジラで果たしてしまったのは、エヴァにとっては大問題でした。この作品が多方面からの激賞を集めてしまったせいで、おじいさんは「ホッとして」しまい、自分に脚本の才能があると勘違いしてしまったのです(うーん、「大きなカブ」は副読本として最適ですね! ゴツゴツしたカブもするする飲みこめちゃう)。「個々人の感情に焦点を当てない、綿密な現実の取材に元づく群像劇」が見事に監督の特性にハマッたことがシン・ゴジラ成功の理由であり、「人間ドラマに興味がなく、素(ス)の語彙選択がおかしい」という欠点は手つかずで放置されました。なので、「依拠する現実が存在せず、各キャラの感情に焦点が必要である」物語をもういちど語らねばならなくなったとき、再び盛大に破綻してしまったのです。つまり、シン・ゴジラの成功が「エヴァQは失敗ではなかった」という依怙地なまでの思い込みを補強したことで、オプションとして存在していたはずのエヴァQ世界の放棄に踏み切ることができないまま、2時間を迷走したあげく、最後に完成だけを目途とした自己模倣へと逃げこんでいくことになるのです。それは「この結末しかない」という強い意志による決定ではなく、時間に追われてどうしようもなくなってEOEを引っ張り出したようにしか見えず、エヴァという稀代のSF作品にとって最悪の選択がなされてしまったと、公開以来ずっと思っています。初回を視聴したときの加工の無い感情は、「もうそれ、20年前にやったじゃん! 同じことやるためにわざわざリブートして、15年近くも時間かけたの!」でしたもの!

 あと、このフーゾク誌にはスタッフだけでなく声優のインタビューも多く収録されているのですが、もっとも話を聞きたいマリ、冬月、ゲンドウ、カヲルの分は掲載されていませんでした。でもなぜかキャラ紹介だけは用意してあって、トビラのしらこい(関西弁で「白々しい」の意)アオリ文もふくめて、「情報統制きいてんなー」という感想を持ちました。

2021年5月16日

 あ、ども。ピンク色のロボットから海岸近くの海に膝を抱えて飛び込んで、浅瀬なのにメッチャ潜行してから浮上して、長髪を獅子舞みたいスローモーションでバッと水切り(足の立つ深さじゃん!)する女の、ビールのCMみたいな光景がトラウマになってるところの、小鳥猊下です。

 シンエヴァ視聴後、私が深く後悔していて、心から謝りたいと思っているのは、テレビ版と旧劇に関わったかつてのスタッフたちに対する自分の態度です。これまで折に触れて、かつてのスタッフたちが「あの設定は私が作った」とか「あの台詞は私が書いた」とか発言してるのを見かけるたび、「ハア? エヴァの骨格を作ったのは監督だろ? 小指の先の肉付けみたいな話で、ブランドの威光にタダ乗りする後出しジャンケンしてんじゃねえよ!」などとモニターの前で、まさに狂信者としか形容できない反応をしていたことを告白します。しかしながら、シンエヴァを経て、「小指の先の肉付け」をしていたのは監督のほうだったことが、痛いほどにわかりました。

 昔、どこだったかは忘れましたけど、監督が「ラブ&ポップ」映画化の許諾をもらいに行ったときの様子を村上龍がインタビューで語っているのを読んだことがあって、「ふつう、作品使用の許可をもらいに来る人は、どれだけ思い入れがあるかを滔々と語るんだけど、そういうのがまったく無かった。ロケはこんなふうに考えていて、ハンディカムを使うので費用はこうでとか、淡々と撮影の話しかしない」みたいな内容だったと記憶しています(このインタビュー、旧劇の直後なので20年くらい前のものだと思うんですけど、どこかに収録されてませんかね?)。当時これを読んで、愚かな私は「すげえ、カッケえ!」などと感動してましたけど、シンエヴァを見終えた現在から振り返れば、この頃から監督の本質は1ミリも変わっていないことがわかります。村上龍はその態度に感心して、できあがった作品を気に入ったようでしたが、興味関心のある「手法」の実現こそが優先されるべき第一で、表現される「中身」は常に二の次なのです。「思い入れは?」「ない!」「伝えたいことは?」「ない!」人が、ひとりで脚本を書いたらアカンのとちゃいますか? なぜ、元ファンの若手スタッフたちや旧エヴァを作った功労者たちに、せめてストーリーだけでも任せなかったのか、それが悔やまれてなりません。

 ともあれ、私が好きだったエヴァンゲリオンは、今回スタッフロールに名前の無い、貴方たちが作り上げたものだったのです。これまでの軽視と非礼に対して、謝罪させていただきます。本当に、申し訳ありませんでした。そして、エヴァという素晴らしいSFを生んでくれたことに、あらためて感謝いたします。

2021年5月23日

 シンエヴァ、例の声明が出てからネットの動向を観察してる。わざと固有名詞を出した強い言葉で罵倒ツイートを連発して中2病的にイキッてみたり、公開時に人物攻撃や批判の記事を書いたきり忘れてたのに言論封殺されていないことを示すために単発のマイナス言及をしたり、ささやかな抵抗を示している方々もいるにはいるようです。けれど大勢は「こら、もうさわらんほうがええな。さわらぬカミにたたりなしや」という感じであり、最初からシンエヴァという作品自体が存在しなかったようにふるまっています(これがもっとも「賢い」やり方でしょう)。そして私はと言えば、当該のツリーに並んだ「信じられない」「ひどいです」「がんばって」「負けないで」「応援してます」等の言葉の群れを半ば呆然と眺めながら、胸中にわきあがるオーウェルのごときディストピア感ーー狂っているのは自分の頭ではないかーーにさいなまれつつ、現在の「清潔なインターネット」において例の声明が殺虫剤か殺鼠剤を噴霧するような劇的効果を発揮したことを、ジワジワと実感させられているところです。好きだった作品のひどい完結編ばかりでなく、意に染まぬ反応をするファンをやっかいなハエかネズミのように追いはらい、「だれも触れない」という意味でのケガレをまとわされた末の実存的消滅を眼前に見せられて、いまや私の心の一部は永久に停止したようになっています。この苦しみはもうだれとも共有されないのだ、いや、初めからこの気持ちはどこにも存在しなかったのだと感じるとき、脳の血流が弱まって視界を暗い闇が覆ったようになります。そして、心も死ぬことがあるのだなと無感動に受け止める自分を、別の自我が離人症のように斜め上から見下ろしているのです。たぶん、客観的に己の状態を分析すれば、「深く傷ついている」と言えるのかもしれません。こんなにもひどい仕打ちが人生に起こることがあるなんて、想像もしていませんでした。

 ……などと、深い孤立感から鬱っぽくなっていたところ、「はてブ!コメント全レス祭り」にはてなの長老みたいな人物から「最高でした!」 と投げ銭されてるのを発見しました。とたん、鬱気は吹きとんでテンションはアゲアゲになり、ジュリアナ東京のお立ち台でタワシを見せながら扇子を振るアーパー女子のマインドセットへと強制的に切り替わりました。オレはアーティファクト「純粋少女」を召喚、攻撃表示でターン終了するゼ! いやー、もう感謝の一言しかありません。フォロワー3ケタのアカウントなんて、公式のサービスからもガン無視ーー悪いなゲイ太、このスペースは600人用なんだーーされてるネット泡沫で、いくらキメキメのツイートを連発してるように見えようとも、座敷牢の壁に向かって正座してブツブツつぶやいている以上の実感なんて得られませんからね! もっと小鳥猊下をフォローして、愛を表明して、課金していいのよ! ウマ娘と違って見返りのある、生きたカネの使い途だからね! もちろん萌え画像の寄贈も、オジサン大歓迎しちゃうナ!

 あと、村長以外にも実名アカウントぽい方から「:呪」に課金があったことにいまさら気づきました(集金まわりのユー・アイがわかりにくいのは、裏の意図を感じさせて最悪ですね)。添付されたメッセージの内容は「初見の時に同じ思いで見てました。ありがとうございます」というもので、気になってその人のアカウントを見に行ったら、「シン・エヴァンゲリオン、良かったよ」みたいなタイトルの短い記事が置いてあって、いろいろ察しました。あと、おキレイな同調圧力に満ちた本邦のインターネットはマジでクソだな、と思いました。

2021年6月6日

 FF11で3アカウント目の星唄を機嫌よく進めていたのに、ツイッターのトレンドに「シンジ」とあり、イヤな気分でクリックする。そしたら案の定、「6月6日は碇シンジの誕生日です。おめでとう!」みたいなツイートが並んでて、ゾッとしました。あのね、監督はキャラの誕生日を考えるのが面倒で、声優の誕生日をそのままアニメ誌に投げただけですよ。それがいつのまにか公式みたいな扱いになってしまったわけで、どのキャラがいつ生まれたかなんて、あのひと興味ないと思いますよ。もっとも、全キャラの命日が3月8日なことだけは公式に確定してしまいましたがね! 命日つながりで話をすると、第三村の墓参りのシーンを見て気づいたんですけど、あれぜんぶ土葬してますね。墓の形状もそうですし、文明の崩壊した世界で「遺体を骨になるまで焼く」なんて余剰に使える燃料はないでしょうから。え、あの世界では死んだらLCLになるんじゃないかって? そのへんの設定は(核心なのに)もうグチャグチャで、監督に聞いても答えは返ってこないと思いますよ。シンエヴァ、自称・現代アートの専門家が京都の千年家の大黒柱にノコギリ入れて外壁にペンキ塗ってベニヤ板で建て増しして、ついには家屋全体を傾けて住めなくしたようなもんですからね。そんなふうに、ドリフのコントで最後に倒壊するセットみたいにすべてのエヴァンゲリオンへさようならしたはずなのに、コラボ商品やキャラグッズ(しかも、破までの設定)の販売だけはますます盛んで、もう嫌悪感しかありません。公式ストアで「貴方にとってシンエヴァを漢字一文字で表すと?」みたいな企画やってますけど、アカウント持ってる人は「呪」って送っといて下さい。1位を取れたら痛快ですね! もっとも、公開後の広報の手口はほとんどノースコリアかビッグブラザーなので、確実に握りつぶされるでしょうけど! あと、ロボット2台と奥さんと昔の想い人が右上から出現するカットばかりの見にくい中盤の戦闘シーンですけど、落下の臨場感をリアルに表現させるために社費で若手スタッフをスカイダイビングへ行かせたそうですよ! Qでは数千万円かけてピアノの内部構造をCG化したり、死に金を使うことにかけては、まったく日本一ですね! 我々ロスジェネのドカチンがツメに火をともして貢いできたカネを、いったいなんだと思ってるんでしょうね! チクショウ、せっかくいい気分でしばらくはエヴァを忘れて過ごせていたのに、チクショウ!

2021年6月8日

 シンエヴァの広報、本当になりふり構わなくなってきましたね。旧劇のときはファンから何を聞かれても「もう終わった作品だから」とそっけなくつっぱねていたのが、今回は嫌がるファンの足下に「行かないで!」とすがりつく感じで、みっともないったらありゃしない。「きれいなジャイアン」なるネットミームがありますが、今回の顛末を例えるなら「きたないエヴァンゲリオン」ですね。たぶん、最後のアニメ作品で興収100億を達成したいという思いがムクムクと頭をもたげてきて、生来のパラノイド気質によりその執着から逃れられなくなってるんでしょう。作品への評価が割れてるものだから、数字で己の決断の正しさ立証しようと躍起になってて、まさに「ブザマね」の一言です。新たな特典の前日譚マンガにしても、本来ならふつうに携わるべきキャラデザの人はノータッチで、この人物との友情が壊れてしまったことを、改めて満天下に知らしめる結果となっています。あと、本編のカットを追加だか変更だかするとか言ってますけど、ミリ単位の画角の修正とかエフェクトの追加ばかりで、何が変わったかは絶対に気づけないでしょう。エヴァQの3.333をわざわざIMAXで見た私が言うんだから、間違いありません。そしてバージョン表記ですけど、「3.01+1.0」でも「3.01+1.01」でもなく「3.0+1.01」なの、きっとだれも理由を説明できないと思いますよ。Qの変節から、確実に存在した最初の定義は壊れてしまっているでしょうから! それにしても、同一の公開期間中なのに新バージョンを堂々と宣言してるけど、明らかに古いのを見た人が不利益を被る変更なわけじゃない? これ、なんか民法とか商取引法とかに抵触しないの? こんなボッタクリ商法が今後もまかり通ると困るから、法律に詳しいフォロワーはキチンと問題提起しといて!

2021年6月13日

 うん? シンエヴァの3.0+1.01は見ましたかって? まあ、その話はまた後日。短く言えば、1,800円で公式の薄い本を買った感じかな。

2021年6月14日

 エヴァQの初回を見た因縁の映画館で、シンエヴァ3.0+1.01を見る。狭いハコへ特典目当ての客がスシ詰めになっており、感染症への配慮は絶無でした。気づいた変更点は、第三村の描写がほんの少し厚くーー静止画の「仕事」追加とアスカの腰のグラインドなどーーなっていたのと、補完計画に入る直前がちょっとだけ丁寧ーートウジ、ケンスケのモノクロ・バストアップ挿入などーーになっていたくらいでしょうか。もっとも、第三村の住人をどうフォローしようが結局は消滅させられるし、補完計画にしても肥溜めに突き落とされるか、つま先から入って肩までつかるかの違いでしかありません。「1,500円相当の同人誌をタダで配ってるから、実質は無料上映」みたいな言い逃れのためについてきた薄い冊子にしても、海外のドぎついキャラ萌え勢(ラースと、その彼女)への目配せだけで、空白の14年間に何があったのかは少しも語られていませんでした。

 あと変更点ではないですが、ゲンドウの「子どもは私への罰だと考えていた」というセリフの直後に、明らかにこれまでとキャラデザの違う、少しふっくらした子どもシンジ(一瞬、だれかわからないくらい)が出てきて、初回の視聴から違和感はあったんですけど、ずっと言語化できずにスルーしていました。今回ふと思いあたってゾッと背筋が寒くなったのは、このふっくらシンジを安野モヨ子が描いている可能性に気づいたからです。だとすれば、「子ども(がいること)は私への罰だと考えていた」というセリフの意味が反転し、監督自身の独白として読み直されてしまいます。意図を告げずに絵だけ描かせたのだとしたら、まさに作品のために私生活のすべてを捧げる悪魔の所業で、奥さんへ向けたこれほど残酷な仕打ちはありません。

 また、「オタクの王様」が「マリ=安野モヨ子」であると指摘したことを、同社の広報が「間違った教科書」なる言葉で否定したと聞きました。すいません、もっとも大きい「風説の流布」の元凶を叩いたつもりでしょうけど、彼の話に関係なく、肯定派・否定派に関わらず、視聴した者の90%以上が独力でそのメッセージを受け取っているんですよ。見当違いもいいところです。あれだけシンエヴァを肯定的に語ってくれている人物を、たったひとつ意に染まぬ解釈があるだけで、自分で言うのでも命じるのでもなく、部下に忖度させて盤外で攻撃する。これこそが、業界内で不可触の「天皇」と化した監督の現在を余すところなく表しています。言うまでもないことですが、「だれかの感じること」に正しいも間違っているもありません。特定の個人にとって「都合の悪い」感情はあるかもしれませんが、それを否定しにかかるのは、全体主義国家の支配側の手口と何ら変わるところはありません。タイムラインに「倍速で映像作品を見る、オタクになりたい若者」みたいな記事が流れてきました。最近の若者たちは教条主義と言いますか、非常に素直に物事を吸収しますので、公式による特定の解釈の否定は、洗脳と同じレベルで危険だと感じます。そして、いまネットに広がっている「シンエヴァにまつわる不自由な言論空間」は、ファンではなく社長の方を見つめた不誠実な広報の結果であり、どこかで正式に糾弾されるべきだと思います。

2021年7月8日

 映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

2021年7月27日

 アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

2021年8月1日

 アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

2021年8月14日

 「31分後にカヲル死亡」「1時間21分後にアスカ補完」みたいな、クソどうでもい小ネタを仕込んできた監督ですが、シンエヴァの上映時間2時間37分が何かと問われれば、「日本のいちばん長い日」のそれと合わせたいだけでした。神経症で強引に表層だけ符号させるの、作品に何の価値も加えてませんからね!

質問:なるほどと思わせてくれる指摘も多々あるのに、結局エヴァにどうなってほしかったのか見えてこなかった。ガンダムになってほしかったの?違うでしょ?エヴァは私小説でいいんだよ
回答:いまさら「はてブ!」への追加コメント。いや、書いてること読めてます? まあ、脳内の結論へと向けて読解する態度から自由な人間なんて、この世にはいないのかもしれません。「人間を嫌いになる」という営為は底無しで、絶対零度の存在しないマイナス温度みたいなものですね。

質問:ガンダムと富野監督好きな立場からすると、あの独特すぎるセリフと観客を置きっ放しで進行するストーリーを富野監督以外の人がおそらく本人以上に本物っぽく創り上げてる事に喝采を送っている、というのもハサウェイの高評価の一因かと思います。原作小説が世に出て四半世紀以上、ガンオタの脳内にしかなかった物を納得のいく形で補完、補強するなんて!某作品と対照的なのか、それとも似ているのかはよく分かりませんがヒロインのエロさがガンダム史上最高なので100点です。
回答:なるほど、よくわかりました。禿頭の御大って言葉は辛辣ながら、基本的に他者への信頼があると思うんです。自分が生きる百年を越えた先に視点があって、次世代の幸福と人類の未来を、たぶん本気で考えてる。ご指摘の某作品の人物は、もはや己の作家人生をどうクローズするかにしか視点が無い。以前も書きましたが、2人の姿勢の違いが子どもの有る無しにしか帰着しないとすれば、現実に対するフィクションの明確な敗北だと思うのです。それにつけても萌え画像の欲しさよ。

質問:アマプラで劇場以来見たのですけど、「アスカ好きだった」の後マリ出してきて「姫、お達者で」って俗悪すぎやしませんかね?何これキモすぎる
回答:「オマエはシングルマザーとして、オーストラリアで生きてゆけ」という意味なんですかね。部分部分の不快を指摘することは無限にできますけど、「東日本大震災で新劇の前提が曲がった 」ところまで戻らないと根本的に解消されないと思いました。

2021年8月21日

 映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪

2021年9月21日

 雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

2021年11月25日

 ボンヤリとエゴサしていたら、アマゾンのシンエヴァ本レビューに『申し訳ないが小鳥猊下に感想を聞きたくなる「評論」』などと書かれているのを見つけ、のけぞる。あのさあ、そういうのいいから、本アカウントでフォローして、全発言をリツイートしてくれます?

 否定派の勝利条件である「全記録全集の発売阻止」を達成したばかりか、本丸である円盤リリースの遅延にさえ成功しており、これはもう敵方の無条件降伏を引き出したと言えよう。

2021年12月20日

 映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

2022年1月18日

 スパイダーマンNWHの感想を読み返してて思ったんですけど、「アナキンを助けるべくオビワンがスターウォーズ1から4をループする話」って、面白くなりそうだから読んでみたいなあ。もしかして私が知らないだけで、海外のファンジンや公式のスピンオフとかですでに存在するんでしょうか。

 シンエヴァでは同じ世界を繰り返していることがゲンドウの独白で示唆されながら、肯定派と否定派のどちらも従来の「ループもの」としてとらえていないのは、「エヴァの搭乗が2周目のシンジ」ではなく、「エヴァの制作が2周目のヒデアキ」になってるからでしょうね。

2022年1月30日

 エヴァ旧劇について、赤い砂浜の話は何度もしてきたように思うが、他にもうひとつ、いつ思い出しても涙がにじむシーンがある。人類補完計画が進行するさなか、「甘き死よ、来れ」のイントロから歌詞へと入る直前、シンジが「ココにいてもいいの?」と問いかけるのに対して、「(無言)」のテロップが表示される展開がそれで、ここには決して逃れえない人なる孤独の本質が、骨と肉から皮膚をはぐようにして凝縮されている。恋人がいようが結婚しようが子どもができようが決して変質しない何か、互いに焦がれた末の心中にしてさえ、別々の死を同時に死ぬだけのことであり、このくだりは我々のだれもが一個の死をひとりで死ぬしかないことに、何度も気づかせてくれる。ヒリヒリするような剥き身の真理へと到達しながら、配偶者ごときでそこへ背を向けたシンエヴァのなまくらな退行を、どこまでも認めることができない。

 またぞろ、エヴァ旧劇のこれをなぜ思い出したかといえば、だれかの能力を自らのそれと錯誤する馴染みの妄想が、再び粉々に砕けたゆえである。この「(無言)」を繰り返しくりかえし忘却し続けることができるという一点の冷厳な事実のみにおいて、小鳥猊下なるは才覚どころではない理由において、未だに生き汚くインターネットから消えずにおられるのだったと、数年ぶりに思い出した。そしてまたすぐに、忘れてしまうのだろう。

2022年2月5日

 アニメ「地球外少年少女」感想

2022年2月17日

 ゲーム「ヘブン・バーンズ・レッド」感想

2022年3月8日

 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

2022年4月3日

質問:質問というかエヴァ一周忌に寄せた自分語りで恐縮なのですが、公開後すぐに「エヴァ呪」を公開して頂いて本当にありがとうございました。ネット上では旧作からのファンを含めて絶賛がほとんどで、「こいつらはちゃんと旧作見たのか? それともこっちの頭がおかしいのか?」と自問自答する中で偶然にも猊下のnoteに辿り着き、私の力では言語化できずに消化できないでいたあれやこれやが全て指摘されていて、どれほど精神的に助かったか分かりません。今は「呪」を笑いながら読めるほどには回復しました。どうもありがとうございました。
回答:見落としてました。確かに、公開後の一週間くらいは監督の労をねぎらう肯定的な感想ばかりで、作品の内容に触れたものはほとんど無かったように思います。「最終回の雰囲気」に流される程度のファンが多いことへガックリすると同時に、かつては亜インテリや批評家の卵による大卒高偏差値のサロンだったエヴァが、パチンコ参入から大量に発生した中卒低偏差値の遊技場と化していることを実感したのです。新劇が旧劇の「知恵の獲得に由来する孤独の発生」からは遠い場所で、ヤンキーどもへ仲間と家族の大切さを説く作品になったのは、もしかすると緻密な市場調査の結果だったのかもしれませんね! もちろん、皮肉で言ってるんですけどね! あと、ベジタリアンであることを理由に監督のストイックさを語る方々がいるようですけど、食生活で人格がはかれるというなら、彼が大酒飲みのアルコール耽溺者であることもちゃんと付け加えてくださいね! 机上に置いてある器へ犬のように顔を近づけて、直に日本酒をすするような品性のね!

2022年8月22日

『あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。』

ジブンら、清川親分の大往生にからめてシンエヴァを持ち上げようとすんの、死者に対する冒瀆やで。

質問:恐れながら、今日訃報に接し最初に浮かんだのが猊下のその一文でありました。過去にイスカリオテのマリアとか研究室で呼び合う教授と学生たちの風景を考えるとゾッとしますが、そんなものが結局答えとして残されたわけですから。
回答:いやー、この呼び名はねー、不死のオーバーロードである3人のゴルゴダ星人(ユイ、マリ、冬月)の間で「フッ……君は我々にとって裏切り者だが、人類にとっては救いの聖母というわけだ。彼らの宗教になぞらえて言うなら、さしずめ『イスカリオテのマリア』といったところか。ユイ君のようには不死を捨てず、人間を見守らんとするか」みたいな会話(サブイボ)が交わされてたと思うんですよねー。でも、恥をかきたくない星人であるカントクが、ファッション鬱の習い性で陳腐になりそうな箇所の情報をすべて伏せたせいで、意味不明な残骸だけが残っちゃってるんじゃないかなー。

雑文「ヴァナ・ディールの癒し」

 約束通り、連休中にFF11をぼちぼち再開した話するね。シンエヴァへのディスりも途中で入れるから、それが目的の人もガマンして読んでね。FF11熱が高まっているときは、それこそ早朝に畑をいじってドメイン参加してから出勤、帰宅後はオーメン詰みやウナギ漁を就寝前に粛々とこなしたり、それこそ毎日必ずログインする勢いなのね。そこから徐々に気持ちが冷めてくると、3日にいっぺんオーメンを1回消化するだけみたいになっていって、最後には心の中の熱いものがすっかり消えて、パタッとログインしなくなっちゃうわけ。このサイクルを数ヶ月から2年弱くらいの周期間隔で繰り返してたんだけど、最近では気持ちが冷めてても週に1度は必ずログインして、昏い森でする1時間ほどの複アカ範囲狩りでシステムから200〜300万ギルくらいのカネを引き出すことは続けてたの。それもこれも、2022年までのサービス継続こそ明言されたものの、FF11はそろそろ看取りの段階に入ってて、いつ病院から呼び出されてもおかしくない終末期の患者の家族みたいな気持ちになってるからなのよ。おちおち長めの旅行も行けないっていうか、他のゲーム(イコール・愛人)に浮気してるうちにサービス終了(イコール・正妻の死)されたら、後悔してもしきれないじゃない? 前回のGWから1年くらいそんな週イチのお見舞いを続けてたら、気がつけば首からかけたガマグチにけっこうな額のギルがたまってるわけ。

 本格的に復帰しようと思った直接のきっかけは何かと問われれば、ずっと私の居場所だったあの真冬の赤い砂浜が、シンエヴァでパリピが乳の大きい女とアオカンする常夏のウェイ系海の家に変えられてしまったことでした。虚構なるこの魂(小鳥猊下)の居場所を永久に失って途方にくれてしまい、同じくらい長いあいだ私を受け入れ続けてくれた北ロンフォールの森に体育座り(/sit)して、包みこむようなストリングスの音を聞きながらメソメソ泣いて(/cry)いたんです。そしたら、エルフのモヤッたナイトが目の前をチョコボで駆けていって、その後ろ姿を見た瞬間、「そうだ、ガマグチの小金でイージスを作ろう」と思い立ったわけなのです。アルマス、イドリス、カラドボルグと作ってきて、レリックに手を出さなかったのは、レベル75時代の記憶から、あれらの武具は真に選ばれた廃人だけが持つことを許されたスペシャルな神器であり、私のような仕事や家庭とオススメを両立できるぐらいのライトプレイヤーが手を出すなんて畏れ多いし、おこがましいと頑なに考えていたからです。前世はヒゲのナイトで、最初のアーティファクト防具をそろえたぐらいでFF11とはいったん縁遠くなってしまいましたが、ネコに転生(同世界転生!)してから青魔導師や暗黒騎士と一夜かぎりの火遊びをいくら繰り広げようと、我が心のジョブはいつまでもナイトであり続けているのです。シンエヴァでズタズタに引き裂かれた心を癒すには、同じくらい長く人生を伴走してくれているヴァナ・ディールでイージスを作る他に方法がないーー部外者の貴方から見て、たぶん少しも理路を感じないでしょうが、この考えは私の胸にストンと落ちました。

 倉庫の底に眠っていた、いつ入手したのかも思い出せないレリックシールドをひっぱりだすと、小金でパンパンになったガマグチを握りしめて、競売へと向かいます。お金が足りるかしらなんて、ひさしぶりにドキドキしながら必要な素材の値段を調べて、ビックリというか拍子抜けしました。かつて数億ギルは下らなかったイージス作成の要であるランペール金貨が、いまや1500万ギルくらいで買えてしまうのです。いや、重要なのは値段の下落ではありません。当時の希少性を伝えるために、長めの補足をしておきましょう。ランペール金貨というのは、オルデール銅貨10000枚との交換で手に入るアイテムです。この銅貨は、裏世界デュナミス(カッコイイ!)でしかドロップしません。かつての裏世界は入場パーティ数に制限があり、マフィアのボスみたいな廃人たちがシンジケートを組み、週末毎にどのパーティがどの順番で入場するかの談合を行なっていました。このシンジケートに入っていないパーティがウッカリ順番抜かしなどしようものなら、2ちゃんねると連動した陰湿な「晒し上げ」で村八分にされて、そのサーバーにはいられなくなってしまうほどでした。デュナミスに入場するためのアイテムは100万ギルぐらいして、基本的にそれを最大18人の参加者で頭割りするため、1回あたり5万ギル強を用意する必要がありました。便利なUIなんて二十年来ずっと未実装ですから、1対1のトレードでチマチマ参加費の集金が行われます。パンピーの集合時間は厳守でしたが、マフィアのボスの知り合いなら1時間以上遅れてもおとがめなしだったり、法ではなく人が治める混沌に満ちた鉄火場でした。入場までに集金と戦術確認とボスの友人の到着待ちを含めて軽く2時間、入場後は3時間30分をトイレにも立てず拘束される、文字通りの廃人コンテンツだったのです。制作側は、まともな社会人が6時間も中座不可のゲームをプレイできると思ってたんでしょうか(いや、レベル75時代は思ってたフシがありますねー、ナイスネイチャでーす)! シンジケートによる報酬分配の仕組みーーホームページ(!)を使うーーなども紹介したいのですが、もうすでに話が長くなってるので割愛しましょう。

 無事にデュナミスへ入ったら入ったで、PS2の処理能力では集団戦をまともに描画なんてできず、ラグラグのスローモーションの中、司令官の言うなりに3時間30分、尿意と便意に耐えつつ必死にいち兵卒を演じ続けます。そして終了後に、ドロップのしぶいオルデール銅貨をアライアンス(3パーティ18人)で山分けすることになるのですが、1回の攻略で銅貨2枚が手に入ると仮定しましょうか。毎日開催があり、それに毎回参加できたと仮定して、1年皆勤でも730枚にしかなりません。ランペール金貨が欲しければ、単純計算で15年はデュナミスに通わないといけない計算になります。現実的に考えれば、社会人は週末のみの参加となりましょうから、1ヶ月4週で8枚、1年48週で96枚、まあ盆暮れ正月は休みたいでしょうから、余裕をもって120年ほど見積もっておいていただければ、無事イージスが完成します。1枚で銅貨100枚相当の銀貨などもたまに(たまーに)ドロップするので、ロット運が極上に良ければ、じっさいはもう少し(20年くらい?)繰り上がるとは思います。

 いかがでしたか? かつてのFF11が持っていた途方も無さの片鱗はご理解いただけたでしょうか。「クラナんとか(クラーケンクラブ?)は人生」みたいな言葉がエロゲー界隈にありますが、それは100時間ほどのプレイで人生のイベントを走馬灯のように圧縮して体験できるくらいの意味でしょう。しかし、「FF11は人生」と言うとき、それは現実とまったく同じ縮尺の時間を、現実の生活をまるまる代償にして費やさないと強くなれないという意味なのです。FF14のための実験としてFF11にアイテムレベルを導入し、既存の武器防具すべてをゴミにした狼藉がどれだけひどく廃人プレイヤーを痛めつけるものだったか、ほんのわずかでもご想像いただけるでしょうか。その恨みの深さ、人為的なハイパーインフレによって人生の大半を捧げて集めてきたものがゴミになる瞬間を想像しただけで、マタンキがキュッと収縮する思いです。

 こういった感慨にふけりながらランペール金貨を落札し、他に必要なアイテムを順に集めていくと、まだ強化の余地は残しながらも、わずか半日ほどでイージスが手に入ってしまいました。18人が15年毎日、裏テルでいがみあいながらも、表面上はたがいに呼吸を合わせてプレイを続けないと手に入らなかった文字通りの神器が、いまや私のバッグにソッと収まっているのです。客観的にはどう見えているのかわかりませんが、もしシンエヴァ以外のことを語る気持ちが私によみがえったのだとしたら、それは他でもない、イージスを所有した事実により与えられた癒しのおかげです。

 少し脱線しますけど、レリック武具ってどれも人格を備えていて、前の持ち主がいるんですよね。のちに実装されたミシックやエンピには無い設定で、レリックの特別さをいっそう際立たせています。武具に人格がある作品といえばランス・シリーズを思い出すんですけど、どちらもアイデアの源流はマイケル・ムアコックのエルリック・サーガに違いありません。ファンタジーにおける最強の武器はどれか論争というのは、中二病罹患者にとって大好物かと思いますが、なに、やっぱりそれはエクスカリバーでしょうって? ラグナロクと2刀流で運用したい? シーッ! 興奮すんなよ、オタク! ご忠告さしあげますが、FF4に影響を受けたそんな恥ずかしい感性は、決して公言せずに大学ノートへしたためて、エロゲーを隠れミノに使った伝奇作品の元ネタにしたほうが賢明ですわよ? 思わぬ横ヤリに話がそれたが、最強の武器はストームブリンガー、これ一択、これしかない。エルリック・サーガ6巻の第4章6節はそれこそ全文暗記するほどーー「さらば、友よ! われは汝の千倍も邪悪であった!」ーー何度も読んで文体に影響を受けまくってるし、同巻表紙の天野喜孝氏によるエルリックの憂いに満ちた表情は、まるで彼の遺影のようにも見え、いまでも脳裏に焼きついています。はい、ファンタジーにおける最強武器はストームブリンガーということで、キュー・イー・ディー! 異論はありませんね? あたし、安心したわよおお!

 FF11に話を戻しますが、アルマス、イドリス、カラドボルグ、イージスと作ってきて、そのどれをもほとんどパーティで使用していない事実に気づいたときは、愕然とさせられました。この行動の特性ーー道場で武術を極めながら、いっさい試合には出ないーーは、私のテキストサイト運営にも色濃くあらわれており、最近ではもはや病名を伴う精神疾患なのではないかと疑いはじめています。

 しかしながら、FF11をプレイしていない人が勘違いをするといけないので念のため断っておくと、S級武具を複数所持しているのは、ぜんぜんすごいことなんかではないんです。私の強さはおそらく十年以上プレイしている人の2アカか3アカ目に登録された3番目か4番目の倉庫用キャラぐらいに過ぎません。霊界では測定できない強さの妖怪を便宜上、すべてS級とくくっているだけで、S級の強さはピンキリなのです(わかりにくい例えで、すいません)。FF11のプレイも二十年選手なので、シンエヴァと同じく無限に書ける感じは持ってますが、本当はパンピーだった自分ではなくて、シンジケートのボス側、つまり廃人サイドの人物によるこういう回想録が読みたいんですよ。でも、見回してもだれも書いてないなー。戦争体験みたいなもので、もうみんな死んじゃった(社会的に)か、トラウマで封印された忌まわしい記憶になっちゃってるのかなー。

 イージス強化かんりょーう(アフターグロウから目をそらしながら)。余ったカネでスヴレン装備一式、買ったった。しかも、「妬まれた」ほう。いまの自キャラを例えるなら、50万円の生地で仕立てたスーツを着せられたニートって感じ。しかも、就活はしない。それにしても、呪物はデフレで安くなったね。ぜんぶそろえて3000万ギルしないんだもんなー。え、なんでソロでしか活動しないのに、そんなバカな買い物をしたのかって? いいんだよ! オレにとってのイージスとスヴレンは、交通事故で両親を亡くした女子高生にとってのスーパーカブみたいなもんなんだよ! 守りの指輪をレンチで薬指へ締めつけてから、少し遠いカメラで自キャラを眺めて、自然と口元がニヤけるみたいな楽しみ方をしてんだよ! はー、スヴレン頭はネコミミみたいな形状で、ミスラとすっごくあうなー(ゆるんだタレ目で)。

ゲーム「FF11の思い出」その1
ゲーム「FF11の思い出」その2
ゲーム「FF11の思い出」その3
ゲーム「FF11の思い出」その4
ゲーム「FF11の思い出」その5
ゲーム「FF11の思い出」その6
ゲーム「FF11の思い出」その7
ゲーム「FF11の思い出」雑文集
雑文「私とカラドボルグ(FF11とはずがたり)」

アニメ「スーパーカブ(10話まで)」感想

 恩義のある絵師が紹介していたので、スーパーカブ1話を見る。語りすぎない丁寧で静かな演出に心いやされるのですが、鬱病患者にとっての精神的おかゆみたいだな、とも同時に思うわけです。現代のオタクたちは咀嚼力を失っていて、ここまで噛み砕かないと栄養として摂取できないのか、つまりは直面する現実に疲弊しきっているのかという印象を持ちました(シンエヴァは、患者へ意志確認をしない胃ろうでしたが……)。

 いま隆盛を極めている、この「初老男性が愛好するニッチな分野を女子高生の主人公が体験する」ジャンル(名称あるの?)ですけど、これ男子高生だったらやっぱりダメなんですかね? ダメだろうとは感じるんですけど、ダメな理由を言語化できません。そこで提案ですが、「初老女性の愛好するニッチな分野を男子高生の主人公が体験する」ジャンルってどうでしょうか。この世にすでに存在するのだとしたら、ぜひ作品名を教えてほしいです。さっきの命題を逆照射することで、解答にたどりつける気がするんですよね。

 あと、スーパーカブの主人公って加害側の交通遺児だと思うんですけど、「若おかみ」みたいにテーマとしての焦点化はせず、最後までこの設定とは距離をとって終わってほしいなと思っています。

 映画「若おかみは小学生!」感想

 スーパーカブ、続けて見てるけど、無味無臭の白がゆから、どんどん味付けが濃くなっていくなー。富士山をカブで「うおーッ!」とか言いながら登る話には、「いやいや、そうはならんやろ」と思わず失笑が漏れてしまったし、文化祭の手伝いをカブでする話での主人公のセリフは、完全に「団塊世代の独居老人がする、女子高生へのウエメセ説教」と化してました。梅干しトッピングとか中華味とかいらんから、1話の白がゆに戻してほしいなーと思いました。

 スーパーカブ、アマプラだから一週遅れぐらいで見てるけど、どんどんヘンなアニメになっていくなー。なんていうんだろう、料理ではなくバイクですべてを解決しようとする、狂気と説得力に欠けた「美味しんぼ」って感じ。パーツのためにあれだけ食費を切り詰めてるのに、一杯で五百円以上はするだろう高級豆のコーヒーをガンガン飲みだしたり、沢に落ちた女子高生が親でも警察でもなく友人に電話で助けを求めたり、スーパーカブという重力場で作品内のすべての事象が曲がっていく。原作もこんななの?

 アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

雑文「ファミコン世代と『ループ』『転生』の病理について」

 きょうは”May fourth”だから、”May the force be with you.”とかけてスターウォーズの日らしいですけど、タイムラインではまったく見かけませんね。まあ、「最後のジェダイ」だけで過去の7作品をまとめてブッ壊しちゃったから、しょうがないよね。我々はこれを他山の石とするべきだったのに、シンエヴァのクソ野郎めが……いや、もう言うまい。小鳥猊下です。

 きのう放流したツイート群の一部が、少々バズっているようですね。文脈が切り取られて理解されるのはツイッターの常ですが、いちおう意図を補足しておきましょう。

 ループものと転生ものは、過去に失われた選択に対して自分は「もっとうまくやれたはず」で、「どこかに正解が存在するはず」だという人生を物語に見立てた希求であり、さらに言えば、唯一の主体である自分の「正しい入力」を待っている世界への希求なのですね。私たち初老オタクの正体とは、つまるところ毒親からゲームへと避難したピコピコ少年たちの末路であり、正しい入力には正しい反応を返してくれる(そして、間違った入力には正しい罰を与えてくれる)はじめての存在に育て直された人たちが我々なのです。昨日と同じ入力をしたのに今日は同じ反応が返ってこない毒親って、最初にして究極の他者であり、長じては別に珍しくもなんともない、世間にありきたりに転がっている不条理と同じ存在だとわかるわけじゃないですか。だから、そういった人々の願望をあずかって描写される「時間ループもの」や「異世界転生もの」って、どれだけガワを違えても根幹にあるのは幼少期に与えられたその恨みなので、都合の悪い他者ーー毒親と同じく、己の都合で悪役のようには視界から排除できないーーの存在しない、正しい入力があれば正解が導かれる8ビット的深度の世界にしかならないのでしょう。

 シンエヴァでいちばん笑った感想ーーアスカでオナニーしないことをシンジの「成長」と呼ぶーーは紹介しましたけど、いちばん感心した見解はなにかといえば、「大人には、充分に長く放置し忘却することで、問題の意味と枠組みを無化するという解決法がある」(必殺、イナーシャル・キャンセラー!)というものです。まあ、シンエヴァは無知で無謀で無邪気な無作為の結果うまれた大凡作なので、こういった高尚な人生訓を受けるには値しないと思いますが、この言葉は作品批評から切り離しても至言ですね。自分を嫌っている人物やこじれた状況へ、ワザワザつっこんでいって解決しようとする試みには、自分があくまで世界の主人公であり、必ず正解が存在することを信じる幼さを感じます。どこぞの戦国武将ではないですが、「相手が死ぬのを待つ」という戦略はじつに効果的で、それは世界の主人公であることを降りた「大人」にしかできないやり方でしょう。ループもの、転生ものが初老オタクを慰撫する物語でありながら、どこか未成熟で幼い印象をまとうのは、この世界理解の拙さに根があるのではないでしょうか。

 あと、オタクって基本的にロマンチストだから、虚構内や金銭の伴う多情の恋愛遍歴を経ながら、そのすべてを無意味にする運命のひとりが世界のどこかに存在しているはずだと、心の片隅で信じているんですよね。しかしそれは、ハヤオ翁あたりの個人的な妄念を集団幻覚としてインプリントされて(すごい人だ!)しまっているだけのことだと思うんです。つまるところ、ボーイ・ミーツ・ガールのフィクション構造がそうなっているだけで、現実には自分の心の形へフィットするようオーダーメイドされた異性なんて、どこにも存在しないのです(ひどいこと言って、すいません)。フィクションが苦手とするのは、表面的には動きの見えない長い時間の描写で、まったく別の形だったふたつが「互いを殺さない」という命題のためだけに、いがみあいながらも絡みあってひとつへと融合していく、気の遠くなるような時間を使ったプロセスこそが、現実での関係性に近いと思うんですよね。でもそんなのって正直しんどいから、「ひとめぼれ」や「運命の出会い」みたいに、パッと燃焼する瞬間を処方箋として虚構に求めてしまう心性が、ループや転生を作り出しているのだと思います。さて、いかがでしたか? 最後にここまでをまとめると、「時間ループもの」と「異世界転生もの」は痛みを和らげるためにファミコン世代の初老へと処方される終末期ケアのモルヒネであり、「実現しなかった可能性未来としての過去」という痛みを持たない青少年にとっては、中毒を引き起こす麻薬でしかないということを、このツイート群で証明させていただきました。みなさまのご参考になれば幸いです。

 ……とかふざけて書いてたら、ロシアで「異世界転生もの」が法律で禁止されたというニュースが流れてきました。理由は「輪廻転生の思想を植えつけ、現世よりも良い来世があると若者に信じさせるから」だそうで、極東のテキストサイト運営者の懸念が、社会主義国家のお墨付きをもらっちゃったなー。

 「オイオイ、だれだよ、異世界転生ものが青少年に悪影響があるなんて得意げに語っちゃってるの! オレじゃあないぜ? プーチンさ!」

 ほんと日本人って未来に生きてるよなー、ってこれ、未来に生きちゃダメだっていう、独裁者からのまごころあふれるメッセージですよね。セイズ・ザ・デイ!

雑文「人気作品に学ぶ『ループ』と『転生』の正体について」

 FGOの新イベントをチマチマ進めてる。たまった無償石で回して出なかった新キャラが呼符1枚で引けたり、10キャラ以上の新衣装がドバッとタダで配られたり、やっぱりFGOは気前がいいなあ、と思った。これがウマ娘なら、新衣装は別キャラ扱いで6万円天井のガチャに入りますからね。ウマ娘、キャラやストーリーやゲーム性の良さは認めますけど、みんなもっと集金システムのエゲツなさを指摘するべきだと思いますよ。んで話をFGOに戻すけど、今回のシナリオはファンガスの筆ですね、間違いない。これだけの数のキャラを登場させながら、キッチリそれぞれの外してはいけない特徴を芯でとらえてミートして、打率10割ですべてクリーンヒットにしていく手腕はさすがだと思いました。他のライターの方々は、ファンガスの提示した各キャラの魅力をしっかり読み込んで、少しでもこの技術に追いつけるよう学んでほしいところです。個人的には、今回の題材であるアイドルについて、特にグロス販売ーー偏差値の落差を平均でならして、下限との差で上限を浮かび上がらせる手法ーーになってからのアイドル・グループをどう楽しむべきなのかよくわかりません。なぜ、こんなにも執着して応援したがる人々がいるのかを理解できていないので、だれか競馬に例えて教えてもらえないでしょうか。

 え、本末転倒なことをまたネタでわざと言ってるんでしょうって? いやいや、ある概念をだれかに理解させるのに、そのだれかにとって親しい別の概念へと置き換えて説明するのって、すごく大事ですよ。きのうの午後、FF11やりながら(ここに至る話はまた後日)タイムライン眺めてたら、競馬の話が延々と流れてくるわけ。んで、テレビつけたら競馬やってて、順ぐりに出走する馬の紹介してんの。そしたら、ポニーかラバかみたいな明らかに他より小さい個体がいるのよ。ウマ娘に黒づくめでチンチクリンのキャラがいてすごい人気なんだけど、その小さな馬を見た瞬間に理由が理解できたの。筋骨隆々の恵体を有するサラブレッドを、種族さえ違って見えるこんな小兵が押さえて勝利するなら、それは確かに痛快なドラマだろうなって思えたの。

 何の話だっけ。そうそう、FGOのイベントにからめたアイドルの話から脱線したんだった。今回のイベント、テキストのすばらしさは両手離しで褒めながら、終盤のストーリー展開には「またループかよ」と少し失笑が漏れてしまったのは確かです。失笑しながらもお話は面白くなっていくので、つくづくこの時間ループというのはズルいギミックだなと、改めて考えさせられました。最近ではどこを見回しても、「時間ループもの」か「異世界転生もの」ばかりですが、この2つは「人生のやり直し」を希求しているという点で、基本的に同じカテゴリでくくっていいと思います。そして、これが流行る理由はズバリ、オタクの高齢化でしょう。二十代前半くらいまでは単線の人生をわき目もふらず驀進(バク、シンッ!)するのみですが、それ以降は生業や棲み処や配偶者や扶養者の有無と種類が否応な選択(しないことも含め)として分岐を為していき、引き返せない失われた可能性としての過去を、我々の背後へ膨大に作り出していく。選ばなかった選択肢への未練とか、人生をやり直すことへの欲望というのは、基本的に初老ーーいやいや、40歳くらいを指すのよ?ーーを迎えてから老年へとめがけて最大化していくもので、青少年にとって本来は無縁のものに違いありません。しかしながら、オタクのマスが初老を越えて市場がそのニーズに応えた結果、ループものと転生ものがあふれかえり、本来的にはまだその欲望を持たないはずの青少年に、あえて言いますが、いまやジャンルとして悪影響を与えるような広がり方をしています。終わったあと、通り過ぎたあと、そこに分岐や選択肢があったのだと遅れて気づくからこそ、我々は人生を前に進めることができるのであって、最初から分岐や選択肢の前に立っていることを意識させられては、永久にそこで立ち往生するしかありません。

 ループものの源流としては、J.P.ホーガン御大が挙げられるのかもしれませんが、本邦においては何よりエロゲー業界がその発祥でしょう。「デザイア」で提示された革新的アイデアを「YU-NO」が洗練したシステムと融合して可視化させ、その肉厚の油揚げを「まどマギ」がかっさらって魔法少女と悪魔合体した結果、爆発的に人口へと膾炙したのです。ファンには申し訳ないですが、エヴァ原理主義者の私としては、「まどマギ」がここまで時間ループの概念を一般化させなければ、シンエヴァはもっと臆面もなくベッタベタのループものとして終われたんじゃないかと、少し恨みに思っております。いつまでシンエヴァについて愚痴ってるんだって感じですけど、「これは虚構だ」って開き直るぐらいなら、初代プレステみたいな汚いCGや撮影所を見せるんじゃなくて、「逆境ナイン」(やっぱり友人は大切)や「グレンラガン」のように、9回裏100点差から逆転勝利するみたいな、銀河をフリスビーとして武器に使うみたいな、突き抜けたウソによるフィクションを描くべきだったと思うんです。どちらも、「オイオイ、そんなのありえねーだろ!」と両手を打ち鳴らしての大爆笑から、最後は大号泣の大団円ですからね。過去作の自己模倣でいうなら、マクロスよろしくブンダーが船尾方向から直立してギガ・初号機へと変形、天の川銀河をフィールドに巨大アヤナミと恒星をサッカーボールにして蹴りあうみたいな突き抜け方をしていたら、監督の抱えるエヴァを作るしんどさを含めて、受け入れる気持ちになれたと思います。恥をかきたくない自分クンがカッコつけて、パンツを脱ぐどころか奥さんにつけられた貞操帯を見せびらかすみたいな、リスクをとって決勝点をねらうのではなくガチガチに守りを固めて、失点を回避しながらドローをねらうサッカーみたいなことをエヴァでするから、ここまで非難(君だけ)されるんですよ。

 ループものの話に戻ると、「まどマギ」の最初の劇場版を家人と見たんですけど、途中までは眠たそうに頬づえついてたのが、主人公を助けるために少女が同じ時間を繰り返しているとわかった瞬間、目を見開いて身を乗り出しましたからね。2012年当時、ループものが一般層にとっていかに新しかったかが、このエピソードから理解していただけると思います。もっとも、「叛逆」については半ばアニメ自慢のキャラ萌え作品と化していたので、家人は途中から舟をこぎだして、ついには寝てしまいました。以前、「叛逆」の後をまともに語ろうと思えば、エヴァ旧劇でも不可能だった、デビルマンで言うところの「善と悪のアルマゲドン」を、説得力のあるシナリオとビジュアルで提示しなければならないと指摘したことがありました。先日発表された「廻天」は、あのエヴァでも手を出すことのできなかったこの命題へと挑むつもりなのでしょうか。「物語を続ける」ため、小手先の作劇に逃げず、本邦では誰も成功していないこの命題へと、敗北を恐れないで真正面から堂々とぶつかっていくことを期待します。

 でも、わざわざそんなしんどいとこに行く理由も義理もないので、安易なキャラ萌え学園ものへと回帰しちゃう予感も、ちょっとあるなー。