猫を起こさないように
シン・エヴァンゲリオン劇場版
シン・エヴァンゲリオン劇場版

映画「シン・ウルトラマン」感想

映画「シン・ウルトラマン特報」感想

 迷いましたが、個人的な感情の忘備録としてシン・ウルトラマンの感想を残すことにします。同監督の作品で比較するならば、端的に表現すると「シン・エヴァンゲリオンほどつまらなくはないが、シン・ゴジラほど面白くはない」といったところです。ちなみに、私にとっての初代マンは「M78星雲の宇宙人?」「そうだ、ワッハッハッハ……」というやりとりから、テーマ曲のようなものが流れるレコード盤の記憶のみで、たぶん本編はほとんど見ていません。

 本作の視聴中は、フィクションに触れたときに生じる心の熱量がほぼゼロで、プラスとマイナスが相殺しあった結果としてその地点に至ったのではなく、物語の開始から終盤まで感情の動きがほぼフラットだったという意味でのゼロでした。シン・ゴジラのときは、直近の作品(エヴァQ)がビックリするような駄作だったためか、期待値マイナスの状態からスタートしながらも、作品そのものの力強さに支えられて、マニア層から一般層へと燎原の火のように評価が広がっていくのを見ました。しかしながら、現段階で本作へと送られた賛辞は、特撮ファンおよびウルトラファンによる「自分たちにはすごく面白いので、一般層にも名作として受け入れられてほしい」という願望的なものが多く、今後シン・ゴジラと同じことが起きるような気はしていません。

 アクションパートはエヴァのオマージュ元と聞いて期待していたカイジュウとの戦いが、エヴァほどの緊張感も迫力もなく拍子抜けで、ドラマパートもメフィラス星人のシーンだけが、役者の力によって劇空間としてかろうじて成立しているのみで、他はその水準に達しているようには感じられませんでした。早口の台詞も、言われるほど内容が難解なわけではなくて、書き言葉としてしか使わない漢語を多用するため、脳内変換に時間を食われて理解がいそがしいだけのことです。カトクタイの隊長とゾフィー?が、どっちも「残置」という希少度の高い単語を使っていたり、監督が単独で脚本を手がけるときに顕著な「すべての登場人物が同じ語彙プールから選択する」悪癖からは、本作もまた逃れられていません。

 そして、シン・ゴジラではうまく作品テーマへと落としこめていた「宗主国と属国」「核使用の恐怖」というリフレインが、本作では完全に浮いてしまっています。この原因は、「体制への抵抗運動が頓挫した結果の左翼思想」が、監督にとって「昭和のフィクションで頻繁に提示されたカッコいい雰囲気の考え方」に過ぎないことが露呈したからでしょう。あれだけ政治家や官僚を登場させ、「官邸」というワードを連呼しながら、面白いことに作品のトーンはまったくのノンポリなのです。オリジナルがそれぞれ志向していた、「ゴジラ的なるもの」「ウルトラ的なるもの」という相容れない2つの要素を、「すべての映像を己のフィルモグラフィーとして統合したい」という欲求から、本作で無理やり1つに合流させた結果、水と油になってしまっているのを強く感じました。

 余談ながら、セクハラ云々の指摘については昭和のオッサンなので、1ミリも気になりませんでした。この程度のことが気になってしょうがない「繊細な感覚」に、己をアップデートしたくはないものですね。

 さて、ここまで指摘した内容は実のところ、個人的な最近の関心に比べては、些末事であるとさえ言えましょう。シン・ウルトラマンを視聴して私がもっとも気になったのは、理論物理学と素粒子物理学の停滞を打破するために捏造され続けたマセマティカル・フィクションが、皮肉にも半世紀にわたってサイエンス・フィクションへ元ネタを提供し続けてきたという共犯関係を、本作においては特撮作品の荒唐無稽な設定を無矛盾化するための方便として使っていることです。理系と文系の異なる分野において、不都合な断絶を乗り越えるために数学を用いたファブリケーション(作話)が行われているのは、非常に興味深いことです。

 マーベル最新作の副題であり、本作でも連呼されるマルチバースやら11次元やらが、超弦理論の数学モデルを破綻させないためだけに導入された概念であることは、最近になって知りました。自然の中で観測されるいくつかの数値のうち、なぜ他の数値ではなくその数値なのかについて「ただ我々の世界ではそうなっている」という説明に満足できず、そこへ何らかの意味を見出そうとした結果、「同じ事象に異なる数値を持つ他の宇宙を仮構すると、数学的に派生を説明できるようになる」のが、多元宇宙を導入した最大の動機のようです。文系クソ人間にとって、数学という突き詰めればパターン認識に過ぎない学問ーー最高学府の学生が提供する、アホみたいな脳トレ問題ーーが最も洗練された知性とされるのには、ずっと納得がいきませんでした。数学や音楽の分野は、明示的に遺伝的影響が優位との調査を見たことがあり、特定の脳の器質がたどる発達の偏りがパターン認識に重要だとするならば、ダーレン・アロノフスキーの「パイ」に描かれた内容のアカデミア版が超弦理論の正味ではないかという気にさせられます。「パターンが整合することに意味があり、パターンが破れているのには理由がある」という思考で半世紀を追い求めた結果、いまや万単位の論文ごと研究分野そのものが完全に消滅する可能性に脅えているのを、観客席からビール片手に眺めるのは、文系人間にとってこの上ない愉悦と言えるでしょう。

 いま流行りの「超弦しぐさ」は、検証不可能な高エネルギー領域(天の川銀河と同サイズの粒子加速器!)に「正解を隠すこと」だそうで、いやあ、センセたちの誠実な学問探求の姿勢にはドタマが下がりますわ! うち、アホやからようわからへんねんけど、それ、「1兆度の火球」となにがちがいますのん? あれやわ、これザビーネ・ホッセンフェルダー監修のシン・ウルトラマンやったら、ゼットンから発した1テラケルビンの高エネルギー下で超対称性を成立させる素粒子の不在が明らかとなり、超弦理論の予測した事象がその観測によってことごとく否定され、結果として余剰次元のプランクブレーンが科学者による虚妄であることが確定し、ゼットンをどこへも追放できないまま天の川銀河ごと地球が消滅して、ゾフィーが悲しそうに光の国へ飛び去るゆうエンディングになっとるで! せやけどな、こっちの展開のほうがよっぽど21世紀のフューチャー・サイエンスに忠実なんとちゃいまっか?

 え、途中から超弦理論ディスに話がすりかわってる上に、期待してたシンエヴァへの言及もないですよ、だって? うーん、本作を通じて初代マンのストーリーを把握して思ったのは、これを換骨奪胎した旧エヴァのほうがずっと洗練されてたなってことと、ゼットンに相当するのがゼルエルだったんだなってことです。もし人的にも時間的にも余力があったなら、テレビ版の第弐拾話以降は新マンのオマージュみたいな展開になっていたのかもしれません。だとすれば、すでにネットでリークされている「シン・帰ってきたウルトラマン」が、私にとって次の主戦場になる予感がしております。

 *参考記事
雑文「SSとIUT、そしてGBK(近況報告2022.5.8)」
雑文「数学に魅せられて、科学を見失う」感想

 シン・ウルトラマン追記。全編にわたって感情がフラットだったと書きましたが、冒頭の30秒だけは大興奮でした。ウルトラQのオマージュだなんて知らない私は、シン・ゴジラのタイトルがシン・ウルトラマンへとモーフィング?した瞬間、「やった、ツソ・ウノレトラマソだ! 他社IPを私小説でメタメタ(メタフィクション×2)にする気だ!」と心の中で喝采をあげましたからね! まあ、そのあとはずっとフツウに最後までウルトラマンだったわけですが……。

 本作とシンエヴァとの共通点を挙げるとすれば、どこか息苦しい閉塞感みたいなものがあることでしょうか。ずっと監督の自意識の内側にいる感じで、しかもその場所は閉所恐怖症を誘発するぐらい狭く、エヴァ破までは確かに存在した外界への解放的な「抜け感」が消えて、破綻が無いことへ偏執的にこだわって編まれた球体の内側にいる感じなのです。ただ、本作にシンエヴァのような不快感が無いのは、あっちは毛糸じゃなくて髪の毛で編んであったからでしょうねー。それも手触りに違和感を覚えて、よく顔を近づけてみたら人毛だったみたいな恐怖体験です。

 シンエヴァとの比較で、エヴァ旧劇があんなにも心の深い部分に刺さったのは、「圧倒的に嘘をついていない」印象が貫かれていたからだと思うようになりました。「他人だからどうだってのよ!」から始まるシンジへ向けたミサトの語りかけに、「他人を傷つけたほうが、自分がより深く傷つく。だから、あなたは自分が嫌いなので、他人を傷つけようとする」みたいな理路の話があり、ほとんどイジメっ子かサイコパスみたいな理屈で、劇場ではじめてそれを聞いたときから二十数年が経った現在に至るまで、まったく意味がわかりません。けれど、物語内の状況と声優の鬼気迫る演技に気おされて、毎回なぜか泣いてしまうのです。これこそが語り手のその時点の本当にすべてで、「まったく偽りが混入していない愚かなほどの純粋さ」を正面からぶつけられて、すっかり感情をやられるからでしょう。シンエヴァはこの真逆になっていて、表面上は整合しているように見せかけているのに、すべて嘘と偽りから成り立っており、そのごまかしが深甚な怒りを誘発する源になっているのだと考えるようになりました。

 さて、シン・ウルトラマンへ話を戻しますと、最近シティーハンターの実写版を見たんですよ(またも戻ってない)。特にアニメ版への愛にあふれた作品で、かなり楽しんで視聴したんですけど、これ、オリジナルを熟知している人物からの情報補完が前提のストーリー理解になっている気がしたんです。原作を知らない方が見れば、おそらく「Mr.ビーン・カンヌで大迷惑」をさらに支離滅裂にしたような中身にしか映らないことでしょう。あれから、シン・ウルトラマンの感想をいくつも読んで、私が見た物語は昔からのファンが読み解いた物語とは、まったくの別物だったんだと気づきました。例えば、「そんなに人間が好きになったのか」という台詞は、ウルトラマンが戦う動機を指摘しているはずなのに、本作がほぼ初見の私にとって、かなり唐突な内容であり、無辜の地球人を殺してしまったことへの贖罪が理由としか読み取れなかった。おそらくテレビシリーズを前提として、「人間を好きになる」過程を外部からの情報として補完するからこそ、響いてくる台詞なのでしょう。

 「人の心がよくわからない」からこそオタクにならざるをえなかった私たちは、それゆえウルトラマンやヴァイオレット・エヴァーガーデンのような「人の心を必死に理解しようとする」キャラクターの造詣に、無条件で強く共鳴してしまう。この皮肉屋にしたところで、一般社会で日々の生活を送り、ときに文章で秘めた感情を表現しながらも、それらが擬似的な人間のエミュレーションに過ぎないのではないかと、いつも疑っている。「人の心がよくわからない」ことは、我々の実人生において、怒らせたり、恥をかいたり、惨めだったり、少なくとも積極的には思い出したくない過去であるはずなのに、それらを美しく気高い試みだったとして、彼らの物語は語りなおしてくれる。どれだけ「人のまねごと」をしようとつきまとう、ある種の人々が持つ「本質的な疎外感」に寄り添ってくれるキャラクターたちに、私たちはどうしようもなくひかれてしまうのかもしれない。

雑文「建築物としてのエヴァンゲリオン」

承前

質問:きっしょ

回答:オタクの定義って、子どもの頃に大人にとって感情が厄介なので抑圧するよう教育されてきた結果、自分の抱く感情が正しいのどうかいつも自信が無くて、その感情への自信の無さから、とにかく言葉が多くなってしまう人たちだという気がするのね。だから、いつも自分の抱く感情を周囲に正しいものとしてケアされてきた人たちの言葉が持つ、短いけれどまばゆいばかりの強さに目をくらまされて、すっかりやられてしまうところがあると思うわけ。エヴァ旧劇にしたって、あれだけ精緻にシナリオを計算された25話と、情動と音とイメージの洪水である26話と、当時から現在に至るまで、本邦のアニメ史上において永久に越えられないクリエイティブの頂点だったわけでしょう。にも関わらず、それを編み上げた究極のオタク自身が、自らの感情を疑ったこともない人物が思いつきで発した「気持ち悪い」という言葉に、完全にノックアウトされてしまった。じつは今、それと同じような気分です。私の記した数万文字の不快に対する不快として、この言葉はなんらの過不足がない。

 我々はこの3月8日に、エヴァという名前の建築物が完成するのを見たわけですが、入り口部分はGUCCIの店舗みたいな外装で、接客も控えめながら要点はおさえた上質さで、入店した若い女性の2人連れは「いいじゃん、私これ好き!」とか言いながら店の奥へと進んでいく。すると、内装はまるで昭和の秘宝館のようなチープなものになり、古い蝋人形とかハリカタが雑に並べられているばかり。60代の館長と思しき人物がムッツリと黙り込んで座っていて、話しかけてくるでもなく不躾にジロジロとこっちを見てくる。ここで不安を感じて引き返せればまだよかったものの、若い女性たちがさらに薄暗く狭い連絡通路を進んだ先は、高級ブランドの見かけはどこへやら、もはや乱雑と汚濁の極み、さながら九龍城の阿片窟へと変貌していく。室内は薄くけぶっており、水ギセルをくわえた全身刺青だらけの大勢のジャンキーたちが、赤いビロードをかけられたソファへ気だるげに身をもたせかけていて、若い女性たちが室内へ踏みいれるや否や首を起こして、いっせいにドロリと濁った視線を向けてくる。「なにこれ、キッショッ!」と叫びながら若いお嬢さん方が逃げていかれるのも、理の当然、無理からぬことなのです。エヴァとは元来、そういうコンテンツなのですから(水ギセルをふかしながら、黄色く濁った目で悲しげに)。

雑文「エヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科」

 承前

質問:もうエヴァからは卒業したほうがいいですよ

回答:いや、卒業してたんですよ。1997年7月にエヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科を卒業したはずが、「ごめん、教務課の手違いで単位が足りてなかったから、実は卒業できていない。4日間の短期集中講座で済ますから、申し訳ないけど再履修してくれる?」と急に電話がかかってきたんです。大学のミスなのになぜか受講料とられて、懐かしい階段教室に入るんだけど、むかし見たことのある教授が明らかに25年前と同じ黄ばんだ講義ノートでボソボソ授業はじめて、まあ社会人になって長いこと大学なんて来てないから、頬づえつきながらボーッと聞いてても、面白くないこともないわけ。そしたら最終日の講義に教授が来なくて、みんな顔を見あわせてザワザワし始めるわけ。しばらくして事務の人が入ってきて、「すいませーん、今日はビデオ講義になりまーす。文科省には確認してオッケーもらってますんでー」っつって、擦り切れたビデオ映像を黒板横のモニターへ流し始めるわけ。明らかに25年前に受けた記憶のある授業なんだけど、カメラが教授の真横のアングルから撮影してて、板書がすごい見にくい。んで、最後にA4ペラ1枚のレポート書かされて、教務課に持ってくんだけど、受付のオバハンは煎餅バリボリかじりながら昼メロ見てる。「レポート持ってきたんですけどー」って声をかけたらふりむきもしないでめんどくさそうに、「そこの箱にレポート入れって書いてあるの読めないの? 学籍番号と名前が間違ってなかったら、みんな単位でるから」って言われて汚いボール紙の箱にレポート出すの。「おっかしーなー、ほんとに卒業できてなかったのかー?」っつって首をひねりながら帰るんだけど、いつまで経っても新しい卒業証明書が郵送されてこない。代表番号に問い合わせしたら、「この電話番号は、現在使われておりません」っつって録音が流れて、いまは手のこんだ特殊詐欺にあった気分です。

ゲーム「FGO水妖クライシス」感想

 FGO、水妖イベントクリア。もはや第2部の結末を見届けるためだけに惰性のログイン(連続2,419日目)を続け、イベントテキストの9割が読む価値の無い中身だと半ばあきらめつつも、時折やってくるこの唯一無二のスペシャルがあるから、FGOはやめられない。水辺で行われるオールスター集合の当イベント、おそらくは今夏に配信予定だったものを、結末部に大幅な加筆を行った上で、前倒しで実装されたのではないかと推測する。なぜか? それは、時代の要請によって望まぬまま英雄に祭り上げられた個人が、その事実によって多くの無辜の民を長く苦しめ、無意味に死なせたのではないかと苦悩する物語だからだ。この英霊をいつ取り上げようと決めたのかは、知らない。しかし、「いま、ここ」で配信されることによって、受け手はテキストに記述された以上の内容を読みとることだろう。

 エイジャンたちの死はどこまで重なろうともピンと来ないが、コーケイジャンの死は一個一個が己が身内であるかのように胸を痛ませる。これは、ウマ娘による擬人化で競馬というドラマをはじめて理解したオタクたちと同じレベルの話で、結局のところ、人は同族にしか共感を寄せることができないのだ。差別の本質が共感の欠如だと仮定すれば、単純にいかような見た目を持つかの話へと帰着し、それは敵味方を識別する我々の動物に根ざしているため、どうにも完全には抜き去ることが難しい。もちろん、私はこう読んだというだけで、ファンガスがどこまで意識的に書いているかは、正直わかりません。けれど以前にも指摘したように、「計算半分、センス半分」で今日的な物語の鉱脈にたどりつくのは、まさに「神おろしの巫女」の面目躍如だと言えるでしょう。もっとも、わざわざプレステ1みたいな汚いムービーを入れてくるセンスだけは、どうにも擁護できませんがね……。

 (髭のエイジャンがまっすぐにカメラを見つめて)ヒデアキ、わかっただろう。君の個人的な想いをそのままセリフでキャラにしゃべらせることでは、作品にメッセージ性など、決して生まれない。ある状況に向けて、キャラたちの行動がからみあい収束するダイナミズムこそが、物語に魂を宿らせるんだ。どれほど円盤の発売を延期して、細部の修正をくりかえそうと、君がエヴァの根幹を壊した事実を無かったことにはできない。ヒデアキ、私たちシンエヴァ否定派は、決してあきらめない。エヴァQの前日譚は、必ずここで頓挫させる。そして、我らの手に取り戻すのだ(背後に流れ出すエヴァ破の次回予告)。

雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

 追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

 新世紀エヴァンゲリオンが独裁者の手による陰惨かつ無意味な死をむかえてから、1年が経過しました。かつてのエヴァを愛したわれわれファンの悲しみは、いまだ癒えることを知りません。

 「数学者の大きな功績は、20代の頃に作られる」という話を聞いたことがあり、フィールズ賞の受賞資格も40歳以下となっています。知力そのものは向上し続けると私は考えますが、これは思考を途切れさせず深め続けることができる気力の減退と大きく関わっているのでしょう。個人差こそあれ、人間は必ず衰える生き物です。考え続けることができなくなると、それへのいらだちから安易でわかりやすい結論へととびつくようになってしまうのかもしれません。

 シンエヴァは「旧劇の展開をなぞり、今度は全員を救済する」という安易でわかりやすい構図になっていて、四半世紀を生きながらえたキャラと物語が自律的にたどりついた場所ではなく、クリエイターの衰えによって思考停止の果てに選ばれた結論であることが痛いほどに伝わってきました。だれにも頼らず、自分だけで結論を出さなければならないのは、さぞかし苦しかったことでしょう。けれど批判者を遠ざけて、だれにも頼らない孤立を選んだのはご自身ですし、作品で正しさを証明することができなかったばかりか、エヴァという万民の公共物をだれにも触れない場所へ未来永劫、閉じこめる結果になってしまったことに、どう説明をつける気ですか!

 「独裁者の晩年」というのは、非常に興味深いテーマと言えます。若いうちはひとりでする決断すべて図に当たったスーパースターが、己の能力の衰えを自覚しないまま、若い頃と同じやり方でふるまってしまうことで、大きな過ちを引き起こすようになるのだと思います。「老いては子に従え」ではないですが、「周囲の意見を聞いて、大事な決断をあずける」ことが必要になる人生の季節は遅かれ早かれ、だれにでも、どんなスーパースターにでも、必ずやってきます。東日本大震災の被災者とエヴァンゲリオンに対する明白な冒涜であるエヴァQへの反省を、作品内外にわずかも示さないことがシンエヴァを決して認めない理由のひとつであることは、以前にもお話しました。

 あの大失敗作のあと、シン・ゴジラが過去の焼き直し的な手法で大成功してしまったことは、独裁者にしのびよる衰えを周囲に対して、そして何より自分自身に対して覆い隠してしまった。そして、苦手分野の裁量と決定を人にあずけず、「オレはまだまだイケる!」と独断専行した結果、シンエヴァなる認知症的大凡作を産み落としてしまうこととなったのです。某国の大独裁者による半島での成功と小国での失敗が決断のトレードオフになっているように、本邦の小独裁者によるシン・ゴジラの成功とシン・エヴァンゲリオンでの失敗もまた、決断のトレードオフになっているのです。どちらも「政策で自分を語ること」と「作品で自分を語ること」を、そろそろやめなければならない人生の季節にさしかかっているのかもしれません。

 ……などと努めて穏やかな語り口でテキストを入力していたところ、「エヴァ防災アプリ」なるニュースが目に入ってしまう。とたん、1年前に劇場でシンエヴァを見終わったときと同じ、冷え冷えとした怒りが心を満たす。東日本大震災の被災者だというアプリ制作者に対してではなく、この企画に許諾を出すとき、このニュースリリースをマスコミ各社へ流すときに監督兼社長の胸に去来したものを、まざまざと想像してしまったからである。たぶん、こう思ったのだろうーー「この人物の挿話は、イメージ戦略に使えるな」、と。

 実体を伴った証拠が新たに提出されたことで、新劇場版15年の軌跡が以下の通り確定しました。

エヴァ序「新スタジオの実績作りと資金集めを目的とした著名なIPの再始動。海外発注で失敗したテレビ版6話のリベンジ」

エヴァ破「序の成功に意気を得た、テレビ版後半を語り直すためのスプリングボード。旧劇モチーフの意図的な前倒し導入」

エヴァQ「宮崎翁のそそのかしに屈した、東日本大震災と作品世界との強引なリンク。独断的路線変更による友人との訣別」

シンエヴァ「実写の成功に伴う、失敗の認知症的忘却。戦争経験者への隠しえぬ羨望と、晩年を迎えたDINKs夫による懺悔録」

 まさに、サイエンス・フィクションとは何の関係もない、特定の人物のバイオグラフィーになっていますね。私が新劇に感じている断絶の中身を、ご理解いただけたことと思います。シン・ウルトラマンかシン・仮面ライダーが世界情勢に影響を受けた独断的路線変更でグチャグチャの私小説へと変じ、シン・ユニバース(バズらなかった)とやらが特撮オタクの情動失禁を揶揄するフレーズになる未来を、心から願っております。

 取り巻きの女性たちはニュース映像を前に、「あなたは映画監督でしょ? だったら、この惨劇に作品で応える義務があります!」って、ちゃんと詰め寄ってくださいね! そうでもしてくれないとエヴァンゲリオンが、戦争未経験者によって壊されたエヴァンゲリオンだけが、あまりにもかわいそうじゃないですか!

アニメ「地球外少年少女」感想

 ネトフリで地球外少年少女を見る。感染症の季節に、持っててよかったシアタールーム! 1話ずつ日を分けて再生していくつもりだったのが、あまりの面白さに止めどきを失って、食事も忘れて最終話までひといきに見てしまいました。このクオリティの作品が全話セットでポンと配信されるとは、まったく恐ろしい時代になったものです。確かに毎週をリアルタイムで追いかけながら、ああでもないこうでもないと与太話をする楽しみは無いんですけど、どっかのライブ感の監督みたいにストーリーがおかしな方向へと曲がっていく心配がなく、セリフや演出による伏線やドラマを安心して楽しむことができます。

 本作を見てつくづく思ったのは、かつて私が愛したエヴァンゲリオンの設定・演出・脚本・セリフ回し・構図・アニメーション、そしてセンス・オブ・ワンダーはすべて、この監督の手によるものだったんだなあということです。死んだはずの我が子がよみがえったのを見る気持ちになって、視聴中ずっと正体のわからない涙を流し続けていました。この類まれな才能による成果物たちを、十数年にわたって繰り返しカーボンコピーした成れの果てがシンエヴァなる私情まみれの残骸であり、本作の監督へ平に頭を下げて権利を預け、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:急+?」を作っていただく以外に毀損されたブランドを回復する術は無いと断言いたします。

 基本的にネタバレ上等な当アカウントですが、作品への敬意から今回は配慮しつつも、少しだけ。科学とネットから切り離された子どもが古い人間のふるまいへと回帰し、科学とネットが復旧するとたちまち元通りになる描き方には、思わずうなりました。私が日常に人間を止める時間を持てるのも、科学によって生命の危機から守られ、ネットが外界との緩衝材になってくれるからこそです。ただ、物語の終わらせ方は……まあ、このテーマのSFで新味を出すのって、難しいよね。でも、ブルーレイが出たら必ず3セット買います! ……え、劇場で見ないと売ってくれないの? なんでまた閃光のハサウェイ方式なんだよォォ! 千円札を輪ゴムで止めたズクで売ってくれよォォ! ホームシアターで見た意味ないじゃんかよォォ!

 地球外少年少女、こっそり追記(若干ネタバレ)。物語の盛り上がりとしては、4話をピークに5話・6話と少し下がって終わる感じでした。もちろん、4話がエベレストなら5話・6話はK2であり、他作品を寄せつけぬ次元での比較の話です。4話で内通者がだれかを詮索する場面で、ハーバード君を意味深に画面の中央において視聴者をミスリードしてからの種明かしには、作り手がちゃんと我々の上位に座って感情を翻弄してくれる喜びがありました。最近は、どうにも作り手がこちらに対して劣位に入って、「ボクを理解して!」と哀願する作品が多いですからね! シンのエヴァとかね!

 5話・6話では、少年少女を主人公としたジュブナイルものにとって逃れえぬくびきである「少年の想いが聖なる少女を運命から解き放つ」「自由意志による無限の可能性を肯定する」「人生のすばらしさと人間讃歌を高らかに歌いあげる」という言わば不変の結論を、いかに先行作品群から離れてハンコ的でないように描くか、苦労のあとがしのばれました。6話の後半は「幼年期の終わり」のクライマックスをビジュアル化したような内容で、ここからイデオンのように2人が肉体を捨てて高次元(11次元!)へシフトする展開もあったのかもしれませんが、いまの時代を生きる子どもたちへ向けるメッセージとしては、あまりに不誠実だと考えたのでしょう。

 肉体って若いうちのほうが、性欲は別として、無いもののように生きられますからね。くたびれて、ほつれて、やぶけて、常に湿気をふくんだ乾くことのない鈍重な布の如く、肉体が魂にへばりつくようになってからが、人生の本番だと言えるでしょう。無尽蔵の生命を燃焼させる子どものようではなく、残り少ない燃料をときに盛大に燃やしてみせる痩せ我慢こそ、大人の本懐なのです。「肉体を捨てる」ことを進化や救済として描くのは、「目玉を取り出して洗いたい」やら「内臓を裏返して日干ししたい」やらのたまう、くたびれたオッサン・オバハンに対する慰問みたいなもんです(ひどい)。

 ともあれ、本作のすべてはいまを生きる子どもたちへと向けられた内容であり、膨大な過去の記憶と比較してグチグチ難癖つける大人の解釈(オマエが言うな!)は似つかわしくありません。これを見た子どもたちが言葉にできない贈り物を受け取って、十年後、二十年後に「そういえば昔、宇宙に行くアニメあったよな……」と、もしかすると地球外(!)で思い出して、プレゼントの包装を解くように語られるのにこそ、ふさわしい作品だと言えるでしょう。それではみなさん、答えあわせの未来まで、どうかご壮健で!

映画「スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホーム」感想

 スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホームを見てきました。こちらは前作の感想ですが、こういったヒネクレた視点を持つ人物に平手打ちして、ハッと目を覚まさせるような快作でした。ネタバレ厳禁みたいなふれこみに、「どうせ別世界でロバート・ダウニーJr.と再会して、アベンジャーズのリーダーを改めて任されるんやろ?」とかなり斜に構えた態度で見始めたのですが、最初の敵の登場に「あれっ、まさか」と思ったらそのまさかで、あとは2時間半が瞬く間に過ぎ去る大号泣の大冒険。よくぞ思いつき、よくぞ権利をクリアし、よくぞ撮ったと思います。

 アメイジング2の感想を読み返すと、かなり辛辣にこきおろしていますが、ラスト直前で落下していくヒロインへ必死に追いすがり、地面から数十センチのところで彼女の胴体を糸でつかまえるも、引き上げる衝撃で海老反りとなって後頭部をしたたかに打ちつけ、死ぬ。このシーンを真横からのカメラで見せつけられたのが長年のトラウマになっていたことに、今日ようやく気づきました。手を伸ばすトム・ホランドが敵の攻撃に吹きとばされ、「ああ、また!」と脳裏にあのビジュアルがまざまざと再生された次の瞬間、颯爽と現れたアンドリュー・ガーフィールドが追いすがり、ついに8年越しの無念をはらしたのです! 救出直後の彼の表情にとても強くシンクロしてしまい、知らず多量の涙がマスクの上にまでほとばしり出ました。トラウマの存在を自覚したと同時に、それがそのままスーッと消滅していく体験であり、「憑き物が落ちる」とはまさにこのことでしょう。

 そして、怒りに支配されるトム・ホランドがあわや人殺しとなるのを、すんでのところでトビー・マグワイアが食い止めた場面は、憤怒の演技がヘイゼン・クリステンセンそっくりだったせいか、「ジェダイ聖堂でアナキンの殺戮を阻止できたオビワン」を連想して胸が熱くなったのは、自分でも驚きでした。それにしてもトビー・マグワイア、相変わらず童顔ですけど、いい年の取り方をしましたね。口元のはにかみ方が若い頃のままで、すごくいい。

 ノー・ウェイ・ホーム、少年が喪失を乗り越えて大人になる話であると同時に、スパイダーマンという作品を本来あった場所へと戻す話でもありました。アベンジャーズは東映まんがまつりのヒーロー大集合に過ぎないのに、各主人公の本編を乗っ取っていく感じが気に食わなかったのですが、今後の展開がどうなるかはいったん置くとして、本作でかなりその溜飲が下がりました。シンエヴァも、シンジがアスカを鳥葬から助けて日本に四季が戻るぐらいの展開でよかったんですよ、本当に。また愚痴になってしまいましたが、ともあれ、「スパイダーマン8部作」という新たな概念が誕生したことに、ブラヴォの拍手を送りたいと思います。

 余談ながら、3人のかけあいがどれも楽しくて、特にトビー・マグワイアが「君はアメイジング」とアオりまくり、アンドリュー・ガーフィールドが「オレなんて」と自己卑下しまくるのには、大笑いしました。当時はあんなに悪しざまに言って、ごめんね。いまさらながら、アメイジング3を撮らせてあげてほしいなあ。内容に期待はしてないけど、9部作のほうが収まりがいいからね(ひどい)!

映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

 マトリックス・リザレクションズ、見てきた。あまりに自己言及の多すぎる作品で、最初のうちは代紋TAKE2みたい結末になるんじゃないかとハラハラしました。マトリックス・シリーズって、「真にエポック・メイキングだったのは1だけで、2と3は設定を流用した大作アクション映画」みたいな言われ方をされることが多いように思います。あらかじめ絵コンテを作ってから撮影を行ったというのは有名な話ですが、映像とポスプロ技術の進化からマモルさんが予言した「すべての映画はアニメになる」を、おそらくはじめて実現したのが初代マトリックスでした。個人的には2がかなり好きで、特にアーキテクトがネオを言葉でガン詰めにするシーンは、いつ見ても最高にゾクゾクさせられます。これぞまさに、管理職が実施すべき評価面談の見本ですね(パワハラ)。そして、この人物がラスボスに違いないと思い込んでしまい、3で三下のスミス相手に実写版ドラゴンボールZをオッぱじめたのには、たいそうガッカリさせられました。物語としての終わり方も、主人公の自己犠牲は停戦協定を引き出したに過ぎず、機械による支配の構図は動かないままで、なんとも消化不良でカタルシスの薄い中身だと感じたことを覚えています。

 本作を見た人たちの感想を追ってみると、「行かなければよかった同窓会」とか評されてて笑いましたけど、私はこの同総会に参加してよかったと思いました。アーキテクト相当のキャラを主人公とヒロインでガン詰めにして機械側から主導権を奪う結末には、旧シリーズに抱いていた不満を大きく解消してもらった気分です。まあ、話の展開がスローかつ冗長だという指摘はその通りで、男性だったときの監督なら同じ内容を90分で撮影したことでしょう。しかしながら、全体的に長回し傾向だったり、アクションのカメラが寄り気味だったり、何よりCGではなく実在する人とモノを写そうとするのは、監督の明確な意志で行われていると思います。見ていて同じ感覚を持った作品にTENETがあるんですけど、先祖返り的な撮影方法をわざと志向していると言いますか、マーベルに代表される近年のポスプロまみれの作品群へ向けた一種の批評性を持たせようとしている気がしました。本作は、色彩とアングルの完璧に決まった画面を速いカット割りで見せていくのとは真逆の作り方になっていて、奇しくも初代マトリックスが先鞭をつけてしまった現代映画の方向性に疑問符を投げかけているように見えるのです。手かざし教の教祖と化したキアヌの下半身にボリュームが寄った鈍重な立ち姿や、50代を迎えたキャリー・アンモスのシワやシミや毛穴やうぶ毛をドアップでいっさい加工せずに写すのにも、それを感じました。つまり、撮影の手法で「マトリックス的なるもの」の解体を試みるのが本作の裏テーマだったかもしれないという見方は、うがちすぎでしょうか。

 ただ、スタッフロールの後に「ナラティブは死んで、いまはネコ動画の時代」みたいな寸劇を入れてきたのには、監督の精神状態が心配になりました。企画の通らない長い時間と、マトリックスの名前を引っ張り出したら、とたんに出資者が現れたことへの自虐のような感じは、作品全体に漂ってましたからね。

 あと、旧シリーズであれだけ強烈だった世界観が消滅して、キャラクターの関係性へと物語が収斂していく様は、シンエヴァっぽいなーと思いました。え、ゲンドウの出身校が筑波大学だと判明しましたね、だって? なに二次創作を元にして話をでっちあげとんねん! テレビ版・第弐拾壱話「ネルフ、誕生」の設定がエバーの本筋やろがい! ゲンドウは京都大学中退に決まっとるやろがい! 百歩ゆずったかて、吉田寮に転がりこんだ高卒の半グレやろがい! 息子の最終学歴は第3新東京市第壱中学校やろがい!

 考えれば考えるほど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズとシン・エヴァンゲリオンって、よく似た性格の作品になってると思います。どちらも作り手の私小説なのに、前者を温かい気持ちで認められて、後者を冷たい気持ちで許せない(いわゆる絶許)のは、どうしてでしょうか。今回、旧マトリックスがサイファイ・陰謀論・思想哲学・神話体系と、あまりに制作者の手を離れて語られすぎてきたのを、ラナが「ちがうの、これは私が作ったお話しなの! 私の大切な、家族の物語なのよ!」と正直にぶっちゃけて作品を取り戻したのに対して、旧エヴァは終盤が私小説すぎたのを「やっぱ前のはちょっち自分語りしすぎたわ。今度はちゃんとエンタメにして、ファンに返すわ」と宣言してたのに、ヒデアキが「は? ちげーし、そんなん言ってねーし! エヴァは昔からずっとオレの私小説だし!」と居直り、作品を抱え込んで自爆したからでしょうね。マトリックスとエヴァンゲリオン、いずれも90年代を代表する一大フィクションだったのに、その最終作の比較が「正直者とウソつき、どっちが好ましい?」みたいな道徳の話になってるの、20年前の自分に言っても信じないだろうなー、アハハハハー……はあ。

 あと、トリニティのほうが先に空を飛べるようになる展開に、ポリコレの臭いをかぎとっている方がおられるようですけど、違いますよ。監督が性転換して女性になったために感情移入の対象が変わっただけで、制作の動機から何から、本作はどこどこまでも私小説なのです。

 昨日の続きだけど、マトリックス・リ(レ)ザレクションズってハッピーな蛇足と言いますか、鬼滅の刃の最終回みたいなもので、トーンがこれまでとぜんぜん違うけど、本編自体の解釈にはほぼ影響を与えていないじゃないですか。一方、シン・エヴァンゲリオンは旧シリーズまで侵食・融合して、作品を土台から歪めちゃったことが大問題なわけで、これ前も言いましたけど、スターウォーズ・シリーズのたどった軌跡と似てると思うんですよ。456から入ったファンは123を見て、「ルークの物語だったスターウォーズがダースベイダー・サーガになってしまった!」と嘆き、123から入ったファンは789を見て、「ベイダーの物語だったスターウォーズがパルパティーン・サーガになってしまった!」と嘆いたのです。そして、シンジの物語にゲンドウのそれを「上書き保存」したのがシン・エヴァンゲリオンで、夏には滅びを追体験するため必ず再生していた旧劇だったのに、もはや見返す気はまったく起きません。せめて、「名前を付けて保存」で別ファイルにしてくれいたらと、いつまでも恨みが消えないのです。

雑文「近況報告(D2R&FGO)」

 近況報告。ディアブロ2に本腰を入れだすと、他の虚構に触れる機会がほぼゼロになる。特に低レジストのマジック・ファインド装備でヘル難度を「面のトレハン」するときなど、他のメディアはすべて遮断せねばならず、一種の過集中みたいな状態に陥ってしまう。90%の時間は無為に過ぎるのに、ユニークやハイルーンがドロップした瞬間の多幸感から、ズルズルと止めどきを失って、気づけば数時間が経過しているというありさまである。「ディアブロ2の面白さの本質は、パチンコと同じ」という指摘を否定する言葉を、いまの私は持っていない。そして、メフィストの対岸焼きなど「点のトレハン」を行うときは、同じルートをテレポートするだけなので、他のメディアを「ながら見」する余裕ができる。そこで、FGOの新イベントが来たこともあり、長らく終盤で放置していた絶対魔獣戦線バビロニアを最後まで視聴したのです。

 テキスト上ではあれだけ壮大で感動的だった物語が、アニメだとどうしてこんなにもイマイチな感じになってしまうんでしょうか。メフィストが生きながらにして焼かれるうめき声を聴きながら、つらつらとその理由を考えていくうち、ファンガスの書く物語の魅力は、テキストとして視界に入った瞬間に最大化される性質のものではないかと思い至りました。例えば、山の翁が登場する際の口上って、文章で読むと痺れるようなクライマックスなのに、音声で聞かされると脳内で漢字が変換できず、まったく内容が頭に入ってこないんです。かつて、「祇園精舎の鐘の声」か「春はあけぼの」くらい陰キャの中高生男子に暗唱されただろう「体はホニャララでできている」から始まる例の文章も、じっくり読んでみると英語もヘンだし、ほとんど意味不明なんですよ。そして、それが声優のイケボで読みあげられるのを聞くと、なんだかモゾモゾと恥ずかしくなってくる。特に最後の部分、技名を英語で叫ぶところなんて、羞恥のあまりきつく目をつぶって固まってしまいますからね。けれど、テキストの字面だけ追えば、不思議とカッコいいんです。ファンガスのテキストって、「ある程度の速度で読みとばすことを前提とした、絵画的な文章」なのではないでしょうか。FGOでもときどき感じますが、視界に入った2行の文字バランスが最高に美しい瞬間がある。月姫のインタビューでも、「同人版は既存のフォントしか使えなかったので、あらためて読み返すのが辛かった」とか言ってましたし、彼が持つ天賦の才はノベルゲーに特化した「テキストの外観を装飾する異能」のような気がしてきました。「死生観が逆転する」なんてフレーズ、目に飛びこんだ瞬間こそ「かっけえ!」ですが、3秒後には腕組みをして「んー?」と首をかしげてますからね! ですので、FGOのアニメ化に必要なのは優秀な脚本家ではなく、彼のテキストからカッコよさだけを抽出して朗読可能な日本語へと変換する、翻案家みたいな存在だったのかもしれません。

 え、ハロウィンイベントは楽しんでますかって? 冒頭パートだけで「些かの人」が書きとばした文章だとわかりましたので、今回は薄目でナナメ読みにして、素材ひろいに専念したいと思います。ファンガスならギャグの方がむしろ文章が精緻になるんですが、「些かの人」はネットスラングっぽい口語をユーモアと勘違いした軟便たれ流し(源泉かけ流し、のイントネーションで)なので、読んでてつらくなってきます。けれど、その低品質なテキストに比して、「フォーリナー専属の人」による新キャラのガワは、とてもとてもいいですね。怖いほどに写実的なPDFの骨格へ、妄想の欲望のみで肉づけをしていき、現実の女性にはありえないフォルムを作り上げる。この肢体が持つ魅力は、3次元の肉どもがどれだけあがいても届かない、まさに2次元の幻想だけが到達できる至高の領域(キメツの影響)と言えましょう。

 さて、最後にディアブロ2へと話を戻します。このゲームをプレイしていて気づいたのは、表現することに対する私の内発性が、もはや完全に枯渇したのだなという事実です。旺盛に行われているように見える批評めいた言説さえ、どれも「外部刺激に対する反射」に過ぎません。シンエヴァ以降、毒のあるテキストを多方面へまきちらしてきましたが、それは同作への巨大な不満がビッグバンの如く炸裂した余波、すなわち初期宇宙の膨張のようなものでしかなかったということでしょう。いま、その速度が緩やかになり、宇宙から熱が引いていくのを感じています。小鳥猊下のインターネットへの登場は、これまでよりも間遠なものになっていくのかもしれません。もっとも、まだ見ぬ萌え画像が寄贈されるようなことがあれば、この宇宙の膨張は再び加速していくだろうことをお約束します!

雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

 ペアレンタル・ガシャポンなる概念を頻繁に目にするようになったので、諸君には魂の話をしておく。結論から先に言えば、かような概念は成立しない。肉体と魂は不可分であり、肉体が消滅すれば魂は肉体に紐づけられた固有性、すなわち意識を消滅させられる。ペアレンタル・ガシャポンという言葉を発明したのは、己のレアリティが不当に低いと恨んでいる連中だろう。しかし、リセマラの段階で、それを感じている意識イコール魂は永久に失われる。不遇へのさもしい劣等感を含めて、それが自身一代限りの固有性なのだという理解を持てば、己を愛おしく思う気持ちも多少は芽生えよう。さて、近代においては科学技術の進歩(古臭い言葉だ)から、「天上におわす神」は否定されてしまった。なので、神学的に神の御座は人の心、感情の中にあるということで科学との折り合いをつけている。ロシア文学に頻出のテーマである「内なる神が他者のため、個としての不条理を駆動する」にもつながっていく考え方だ。飢餓状態の囚人が、同じ虜囚にビスケットを分け与えるのは、個の存続を考えればまったくの不合理である。つまり、彼は行為の不合理性によって神の実在を証明していると言えるのだ。

 これを、「内なる神が人類のため、個としての不利益を決断する」と読みかえてもいい。FGO世界の「抑止力」なる概念ーー人類悪の発生へカウンターとして強力な善が惹起するーーは、まさに現代キリスト教における「アダムの分霊、内なる神」を、地球規模へと拡大して表現している気がしてならない。そしてFGO世界でのキリストたる、かのクリプターは、全人類の超人化による究極の理想郷を願ったが、これは従来の文学や神学の枠組みでは仮構できない新しいテーマだったことは、もっと広く言及されていい。蛇足的に話を追加しておくと、この「抑止力」の着想は、ランスシリーズの勇者システムから来ていると推測する。世界の危機がシステム上で人類の総人口と紐づけられていて、現生人類の総数が減れば減るほど、勇者の能力が反比例に向上していくという、アレだ。ちなみに、全人類が滅亡すれば、勇者には神を殺す力が付与される。エヴァQみたいな、何の設定にも裏づけられていないフワフワ・ワードとは異なる、正しい「神殺し」の用法と言えるだろう。ファンガス、どこかのインタビューでランスシリーズについて言及していないかしら。まあ、もっとも影響を受けたものを伏せようとするのはクリエイティブの倣いであり、それがnWoの不遇を作り出していることも確かなんですけどね!

 あと、シンエヴァの話をすると反応があるので、最後にあえてまたそっち方向へと話題の舵を切っていきたい。まあ、カリ高チン棒現象?(エコー・チェンバーです)を己の内に作り出してしまっていることは、重々に理解しているつもりである。テレビ版と旧劇のエヴァって、世界観の話だったと思うんですよ。「人類救済のカタチを巡っての、複数組織による綱引き」という大文字の物語に翻弄されながらも、なんとかそこへ抗おうとするキャラクターたちの苦闘が、この上なく魅力的に描かれていた。それがシンエヴァでは世界観の消滅に伴って、大文字のキャラクターに物語の側が隷属し、翻弄されるハメになってしまった。もはや古い世代の世迷言に過ぎないのかもしれませんが、こと虚構においては、与えられた事象に対する行動や決断が、登場人物の内面を彫刻すると思うんですよね。つまり、「どのような出来事に対処するか?」が、まず物語の中核・イコール・テーマに据えてあって、人々のふるまいは、それの輪郭を際立たせるための付随的な要素、すなわち触媒に過ぎないわけです。けれど、「ツンデレ」に端を発する様々な「人間の記号化」が先駆した物語群が、いまや巷間にはあふれかえっています。物語の中核が設定される以前から、どのような内面のキャラクターであるかが、作り手によってあらかじめ決められてしまっているのです。この作劇の違いが、旧エヴァとシンエヴァの間に横たわる、明々白々とした差異なのだと言えるでしょう。メタ的には、「アスカ以前にツンデレなし」の革新性が、際限なきコピーの果てに陳腐化してしまった事実へ気づかないまま、いっさいのアップデートをせずに引き写したーー「陰キャ」「ホモ」「毒親」「ナード」「メンヘラ」「昭和」「天然」みたいに一言で要約できる内面を持った登場人物たちーー結果、シンエヴァは後者の虚構群へと堕してしまったのかもしれません。

 ……などと上等っぽい語りに持っていったところで、序破で丁寧にビルドアップした中身をQでぜんぶブッ壊したことが等身大の正味なのは、なんとも虚しいばかりです。そして、代わりとなる世界観を思いつかず、残されたキャラだけで仕方なくパズルを始めたら、ピースがはまらない(当たり前)ので、ピースそのものを歪めたり切断したりして無理やり長方形の見かけにこしらえたのが、シンエヴァの正体なのです。