タイムラインで見かけた「旧エヴァ劇場版と同じ読後感」という妄言にブチギレて、推しの子16巻を電書版で読む。本作はアニメ1期の主題歌が世界的なヒットとなったことでハイパーブーストを得た人気漫画ですが、それを「作者が飽きたから」みたいな理由でこんなに雑な感じでたたんでいいのかと、まずは困惑しました(ヒット作を延々と薄めて引きのばす態度から遠いことだけは、ほめていいと思います)。結論から言えば、推しの子の最終巻は「登場人物の自我を尊重した上で、物語の自走性に従う」という観点からは、旧エヴァ劇場版の足下にもおよびません(シンエヴァにはヨユーで勝ってる)。本作の抱える問題点を指摘すると、宗教観という語彙では色がつきすぎるのならば、ストーリー全体を通じて「自分をいまここに生かしている、大きな枠組み」ーーそれが生物学的なものなのか、哲学的なものなのかは、あえて問わないーーへの意識が完全に欠落していることでしょう。ふつうの作品にはここまでを求めませんが、主題歌の超ヒットで特に若年層へ強くリーチすることとなった本作は、彼らのやわらかな精神への否応な影響を無視できないからです。「16歳のアイドルが妊娠・出産し、その双子として意識を転生させる」という大きな物語フレームは、結果として多くの読者の期待を裏切る昨今のトレンドの流用にとどまり、転生なる事象の「作品世界を駆動するシステム」としての正体は、ついに解明されませんでした。ストーリー全体をふりかえっても、芸能界やアイドルへの言及にしたところで、「ネット由来の単発で辛辣な語群」から引用したもののパッチワークになっていて、「汚濁の極みから、きれいなものが立ちあがる」ところまではたどりつけていません。
最終巻における「アイドルはやがて枯れる花であって、永遠に輝く宝石ではない」というフレーズは、キチンと延伸できていれば、はるか太古より若者たちがくりかえし続けてきた「みな死ぬのに、なぜ生きるのか?」という問いに向けた、年長の賢者からする令和の回答になりえたと思うんですよね。小学生女子の憧れるナンバーワンが星野アイになるような流行り方をしたのだから、「終わることがわかっていてさえ、人生は生きるに値するものである」ことを、生真面目な言い様ながら、一定の説得力をもって語る大人としての責務はあったのではないでしょうか。16巻の前半で終われたストーリーを「主人公の片われの死による退場」へと不自然にねじ曲げたのは、未成年の妊婦へ性的な興奮を覚えるのと同じ、作者の性癖の吐露にしか思えない描き方をしていて、瑕疵を越えて「推しの子」という名前の玉をまっぷたつに割るクラックになってしまっているのです。グランド・セオリーの終焉が言われてひさしく、シンエヴァをワースト・イグザンプルとする、キャラだけを語るフィクションが令和の主流なのかもしれませんが、FGOにせよ鬼滅の刃にせよ、ある閾値を越えた大ヒットへとつながる近年の作品に共通していたのは、「人類の継続へ捧げる自己犠牲は、尊く美しいものである」というメッセージです。こういう書き方をすると、本邦ではライト方向からなにやらキナくさい気配がただよってしまうのは非常に残念ですが、「おのれの何をもって、世界に貢献するか?」という視点へ自覚的にさせるぐらいまでは、あとから来る者たちを誘導してもかまわないでしょう。
まあ、「ひとりのアイドルを救うために、未来の医師が犠牲になる」という結末は、現代社会の実相に対して充分に批評的なのかもしれませんけどねー。まだ若いみんなは、豊かな社会基盤に吸血しておこぼれをあずかるだけの、アイドルやらユーチューバーやらクリエイターやらコンサルタントやらインベスターなんかは目指さず、社会基盤そのものを分厚くする側のキャリアを選ばなきゃダメだよー。「理系に進んでも、社長にはなれない」みたいな旧世代の文系的価値観に毒されて、無駄な遠回りを余儀なくされた小鳥猊下との約束だからねー。