是枝監督の熱心なフォロワーであるため、カンヌ脚本賞の怪物を劇場で見る。事前情報をほぼ入れていない、作り手にとって理想的な観客であり、タイトルに受けた印象から起因するミスリードに、最後までふりまわされまくりました。「いったい、だれが怪物なのか?」という問いかけに始まり、モンスターペアレントの序盤から酒鬼薔薇事件を彷彿とさせる中盤を過ぎ、「じつは怪物は、どこにもいなかった」という終盤へと至って、脚本家の意図どおり巴投げによる完璧な一本負けを綺麗に食らった次第です。しかしながら、「生まれ変わりはない」ことをハラ落ちさせた上で、「行き止まりだと思っていた場所」へ向けて少年たちが歓声をあげながら駆けだすラストシーンはあまりにできすぎていて、どこか虚構然としているようには感じました。この作品の中で明確に作り手から断罪されているのは、「クラスのいじめっ子たち」「ゴシップ誌の記者とカメラマン」「主人公の友人のシングルファーザー」であり、特に父親は「同性愛者の息子を認められない、旧来的な偏見に満ちあふれたマスキュリニティ」として描かれており、「大人たちの言語化されない思惑を先んじて感じとる、現代における『炭鉱のカナリア』としての子どもたちが引き起こした一連の事件は、この社会があらゆる多様性へ真に包摂的であれば、生じなかった悲劇なのです! そう、『怪物』とは私たち一人ひとりが無意識のうちに抱いている偏見と同義の通念であり、狭小な人生観そのものなのです!」という、是枝作品の常である「かそけき演出にこめられた、ドぎつい社会派メッセージ」を受けとらざるを得ませんでした。
脚本賞の是非については、ジュン・ハマムラの解説にだいぶ混乱させられましたが、主人公の相手が少女であればヰタ・セクスアリスの感傷に過ぎなかっただろう本筋を、そこに少年を配置することで是枝作品の持つ社会批判へと完全に昇華させた点は、じつにみごとな手腕だと言えるでしょう。内容的には、脚本賞というよりむしろ構成賞とでも命名すべきものーー校長先生の最後の台詞とか、ちょっとあざとすぎて、やりすぎだと感じましたーーでしたが、子どもの未来を光の中へと解放しながら終わる結部は、大人たちの真相ーー「校長の事故経緯」「担任教師の顛末」「虐待父の真情」などーーを完全に観客の想像力に預けて物語の収まりから枠外へとブン投げたのには、「脚本賞なのに、そこを拾わんのかい!」といきどおる気持ちにはなりました。あと、主役の男の子の容姿が少年時代の柳楽優弥にクリソツーー表情の作り方まで!ーーで、あらためてペドロリ方面における是枝監督のブレなさを実感させられて、背筋がゾッと薄ら寒くなったのでした。もし、我が子を芸能界デビューさせたいと考える親御さんがいるなら、まずはじめに「誰も知らない」を視聴してください。お子さんの容姿が作中の子どものだれかに似ているとしたら、是枝組のオーディションには極めて高い確率でパスできると思われます。以上、一般人にはまったく必要のない、芸能界チート・テクニックをご紹介しました。
それと、エンドロールで初めて知りましたけれど、本作の楽曲は坂本龍一が提供していたのですね。個人的には、「体制は常に盤石かつ強靭で、一瞬の無視も悪徳の栄えへつながる」との妄念を強く抱き続けて、若い頃のおイタ(テロ行為)へ真摯に向きあうことをせず正当化の果て思想化し、いくつになっても身勝手な放言ばかりで、ついには社会へ何の責任も果たさず消えていきつつある部族の一員という印象を持っていましたので、是枝作品の放つメッセージーー中身とは言わないーーとの親和性は高かったのかなと思いました。トーン・デフの身なれば、彼の音楽を語る立ち場にはありませんが、「過剰な音の集積」から始まった作曲遍歴が、そのレイトワークにおいて音を削ぎ落としに削ぎ落とした「雨だれ」のようなピアノへと変じていたことに、外野としてある種の感慨は抱きました。この世代の態度へ向けた反発から冷笑系オタクになってしまった我々を、物事への批判を嫌う若い人たちはさぞかし嫌悪していることでしょうが、私がいままさに進行形で感じているように突然ある日、それは無形の圧力ごとウソのように消えてなくなります。だとすれば「怪物」とは、死によって時代とともに変遷する他者の内面のことなのかもしれません……ドヤッ!