猫を起こさないように
雑文「あるライターへの公開処……書簡」
雑文「あるライターへの公開処……書簡」

雑文「あるライターへの公開処……書簡」

 なんかアニメ雑誌のライターみたいなアカウントにエア言及されてるっぽいツイートを見つけてしまう。「青年の自虐芸で売っていたテキストサイトの管理人がもういい年齢だろうのに昔と同じノリで活動してて痛々しい。人生ってなんだろうって思う」みたいな内容で、あれ、もしかしてコイツ、オレのこと言ってない? どう読み返しても周囲を見回しても、該当者が自分ひとりしかいない気がするなー。その一連のツイート、「その点、みじめになる前に自分から消えた本田透(なつかしい!)はえらかった」みたいに締めくくってあって、なんかすごいモヤモヤするっていうか、端的に言ってムカついた。まあ、せっかくの機会だし、まだ見ぬ別人物の可能性もゼロではないので、こっちもエアっぽくダラダラ所感を述べることとしましょう。

 「90%以上の時間、別の自我を演じて社会生活している」って話を以前しましたけど、ふだんの私は眉目秀麗品行方正明朗会計であり、世間様の求めに100%かなう、どこに出しても恥ずかしくない「昭和中期のコスプレ」のようなカタブツなのです。小鳥猊下から出てくる言葉の群れは、出す場所は無いが出さずにはいられない衝動とでも言いましょうか、古い例えで申し訳ないのですが、現役の判事が書いていたとウワサの「家畜人ヤプー」と同じ性質のものなのです。つまり、私のツイッターに記述されているのは、加工される前の「ナマの衝動」であり、現実には一滴も漏らされない廃液と言えるでしょう。少し話はそれますが、理系のバリキャリっぽい女性が10年以上にわたって「しっこ」とか「うんこ」みたいな発言しかしないーーときどき高度な数学の話をサラッとツイートしてドキッとさせられるーーアカウントがあるんですけど、その人物が現実で抱えているであろう責任の大きさや実社会での功績などを想像すると、ちょっと胃が痛くなる感じがあります。まあ、長い話を短く言えば、「ネットで固いこと言うヤツほど、現実がユルめでちゃんとできてないんじゃねえの?」ってことです。ツイートの中身がアホみたいなアカウントほど、中の人はリアル沼正三で、高い内圧を抜く目的でツイッターやってる感じがするんですよね。

 まあ、私はそこまでの域ではありませんけれど、小鳥猊下としてツイートするときにいつもイメージしてるのは、オタクの沼正三が書く「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」(あるいは「貧乏サヴァラン」)でしょうか。これ、晩年の森茉莉によるエッセイ集で、ときどき読み返すんですけど、いつもメチャクチャに絶望してるかメチャクチャに怒ってて、全編にわたってハチャメチャに面白い。「爬虫類みたいなタモリがテレビの画面に出てくるとゾーッとしてチャンネルを変えちゃう」みたいなことが平気で書いてあって、初めて読んだとき「ここまで正直に感じたことを書いていいんだ!」と目からウロコが落ちたのを覚えています。いまちょっとパラパラと読み返してて気づきましたけど、ほうぼうに話が飛ぶところとか、文体も内容も完全に影響下ですね。前にも言ったような気がするけど、ギャグ漫画家でデビューした人(唐突に話が飛んだ!)って、かなり高い確率で後期作品がド真面目のシリアスになる傾向があって、両親が体現する「常識」なるものへの反発から始まったはずの創作活動が、ままその重力圏を突破できず引き返してしまうのは、世間に顔向けできる内容で他ならぬ「両親に認められたい」という欲求が芽生えるからだと思うんですよね。

 ようやく話が冒頭に戻りますが、このライターもはぐれ者のはみだし者として、ローンウルフの自己定義から始まった稼業を「真面目にコツコツ、世間に頭を下げて、イヤなことも厭わず」続けて生き残っていくうち、マジョリティ側に自意識を融合させていったのだろうと想像するのです。私に言わせれば、そんな場所にたどりつくくらいなら最初から公務員か銀行員でもやってろって話ですが、「いい加減で、がんばらず、まっとうでない」ように見えるヤツに対してどこか非難めいた視点を持ってて、長年にわたって自分がさらされ続けてきた両親からのそれと半ば同化しているように見えます。たぶん、本人も自覚してないと思うんですけど、「いつまでフラフラと浮き草家業をやっとるつもりだ! とっとと身を固めて親を安心させようと思わんのか、バカモン!」みたいな昭和のステテコ雷オヤジの叱責を内在化させてて、反発したけれど否定はできないでいる、その絶対の律法へ従わないふるまいへ、当該のツイート群は個人的な不快感を表明しているように感じられました。「オレはこんなにも我慢(シンエヴァへの悪口とか?)して真面目にやってるのに、コイツはいつまでもいつまでも匿名で好き勝手な放言ばっかりしやがって! もっと正しく人生をやれ! 人生ってのはな、もっと真剣なもんなんだよ!(そうかあ?)」という無意識のやっかみと声にならない説教が、面識もない相手をロウ・ライフ(アット・リースト・ロウワー・ザン・ミー)へとカテゴライズしようとする心の動きになったのではないでしょうか。知らんけど。

 私なんかは、我慢せずに言いたいこと言えばいいのにとか思ってしまうわけですが、ここまで書いてきてピンときたんですけど、もしかするとこのライターは何かの拍子に「:呪」を読んでしまい、語られている内容が気に食わない、あるいはうらやましいーー立場上、作品に文句をつけるわけにはいかないーーから、どうしようもなく人格攻撃的なエアリプへと転じたのではないでしょうか(そうとでも考えなければ、からまれる理由がない)。だとすれば、これほど悲しいことはありません。つくづく、シンエヴァというのは罪な作品ですね。ファンの間に分断をしか生まず、人間関係をギスギスさせ、おおっぴらに意見を交換することさえ、ついには公式に封じられてしまったのですから! シン・ゴジラが監督の正のポテンシャルを最大限に発揮した傑作とするなら、シンエヴァは監督の負のポテンシャルを最大限に発揮した駄作で、この2作品はまさに究極の陰陽をなしてますね。結論として導かれたのは、「ぜんぶ、シンエヴァのせい」。おあとがよろしいようで。