猫を起こさないように
ゲーム「FGO水妖クライシス」感想
ゲーム「FGO水妖クライシス」感想

ゲーム「FGO水妖クライシス」感想

 FGO、水妖イベントクリア。もはや第2部の結末を見届けるためだけに惰性のログイン(連続2,419日目)を続け、イベントテキストの9割が読む価値の無い中身だと半ばあきらめつつも、時折やってくるこの唯一無二のスペシャルがあるから、FGOはやめられない。水辺で行われるオールスター集合の当イベント、おそらくは今夏に配信予定だったものを、結末部に大幅な加筆を行った上で、前倒しで実装されたのではないかと推測する。なぜか? それは、時代の要請によって望まぬまま英雄に祭り上げられた個人が、その事実によって多くの無辜の民を長く苦しめ、無意味に死なせたのではないかと苦悩する物語だからだ。この英霊をいつ取り上げようと決めたのかは、知らない。しかし、「いま、ここ」で配信されることによって、受け手はテキストに記述された以上の内容を読みとることだろう。

 エイジャンたちの死はどこまで重なろうともピンと来ないが、コーケイジャンの死は一個一個が己が身内であるかのように胸を痛ませる。これは、ウマ娘による擬人化で競馬というドラマをはじめて理解したオタクたちと同じレベルの話で、結局のところ、人は同族にしか共感を寄せることができないのだ。差別の本質が共感の欠如だと仮定すれば、単純にいかような見た目を持つかの話へと帰着し、それは敵味方を識別する我々の動物に根ざしているため、どうにも完全には抜き去ることが難しい。もちろん、私はこう読んだというだけで、ファンガスがどこまで意識的に書いているかは、正直わかりません。けれど以前にも指摘したように、「計算半分、センス半分」で今日的な物語の鉱脈にたどりつくのは、まさに「神おろしの巫女」の面目躍如だと言えるでしょう。もっとも、わざわざプレステ1みたいな汚いムービーを入れてくるセンスだけは、どうにも擁護できませんがね……。

 (髭のエイジャンがまっすぐにカメラを見つめて)ヒデアキ、わかっただろう。君の個人的な想いをそのままセリフでキャラにしゃべらせることでは、作品にメッセージ性など、決して生まれない。ある状況に向けて、キャラたちの行動がからみあい収束するダイナミズムこそが、物語に魂を宿らせるんだ。どれほど円盤の発売を延期して、細部の修正をくりかえそうと、君がエヴァの根幹を壊した事実を無かったことにはできない。ヒデアキ、私たちシンエヴァ否定派は、決してあきらめない。エヴァQの前日譚は、必ずここで頓挫させる。そして、我らの手に取り戻すのだ(背後に流れ出すエヴァ破の次回予告)。