なんと、グリッドマン・ユニバース見る。いやいや、最初はそんな気まったくなくて、存在すら知らなかったんですよ。それを、カズ・シマモトがシン・仮面ライダーにどんな感想を抱いたのか気になって、彼のツイッター・アカウントへ日参するうち、いわゆる「単純接触効果」で次第に本作への関心が高まってしまったのです。テレビ版のグリッドマンは通して見ていて、極私的に呼称しているところの「エヴァンゲリオン・アンサーズ」のうちの1作品として好印象を持っています。エヴァ旧劇が実写を使って「現実に帰ってお前の人生をやれ」と呼びかけたのに対して、手法こそトレースしながらも「アニメも私の人生と現実の一部だ」と真逆のメッセージを最終話で表明したのは、新鮮な驚きでした。
この映画版においても、感情を表に出しすぎない現代の若者の軽妙かつドライなコミュニケーションとか、これだけ多くのキャラを出演させながら不自然なやりとりがなくスッキリと流れる脚本とか、だれかの中にある「こうあってほしかったエヴァ」の中身をより洗練された形で見せられた気がしました。テレビ版では最後の最後で「ベッドから起き上がるリアル・新城アカネ」をチラ見せするにとどまったのに対して、本作ではかなりガッツリと実写パートで彼女を写すんですけど、「少し古い世代の男オタクが抱く女オタク像」とでも言いましょうか、「いまどき、こんな陰気な感じでアニメを逃げ場として消費する女子っている?」と疑問を感じるくらいでした。アニメパートのパキッとした明るさに比べると、実写パートの画面は全体的にかなり陰鬱なトーンで、ここだけ庵野秀明が撮影したみたいになっていることも、その印象の一因となっているかもしれません。
そうそう、みなさんが話題にしているシン・仮面ライダーのドキュメンタリーですが、ご多分に漏れぬ野次馬根性から私も見ました! 感じた中身としては、シンエヴァ・ドキュメンタリーのときにさんざんやったツッコミとほぼ同じなので割愛しますけど、正体不明のこだわりとリソースの蕩尽が1ミリも本編の面白さにつながっていないことは、大問題でしょうね。あのタイプの独裁的なパーソナリティが許容されているのは、本邦における忖度の過剰さを土壌としている気がします。主役の子がずっとプルプルふるえていた理由といいますか、ふるえるに至る感情の源泉の正体はわかりましたので、その点だけは見てよかったです。
話をグリッドマン・ユニバースへと戻しますと、90分が経過するくらいまではずっと好意的な印象だったのに、30分を残すばかりのところでその肯定的な気分に大きな変化が訪れます。トランスフォーマーみたいなゴツい段ボール・フォルムをしたロボットが、奇抜なアングルーー右奥から左前方に向けて長物がせりだす、半ばネットミームと化したあの構図を代表とするーーで画面いっぱいにみっしりと戦う、俗に言うところの「勇者シリーズ」ってあったじゃないですか。私は昔から、まったくあの「熱血アレ系アニメーション」の観客ではなかったことを改めて思いだしました(テレビ版もこんなでしたっけ?)。ド派手な見かけの戦闘に、大音量で効果音やら主題歌やらが流れて情動をアオッてくるのに、私の心はビックリするほど完全にフラットなままなのです。それに反して、周りの観客は「これを見るためにやってきた!」と座席から身を乗り出さんばかりの熱狂ぶりで、いつまでも終わらない戦闘を前にしてなんだか肩身が狭くなり、その場にいることが申し訳ない気持ちにさせられました。
図々しくも私の主観をお伝えさせていただければ、「大勢の撮り鉄たちのド真ん中へカメラ無しで放置され、レアな車両が通過するたびにザワめきとシャッター音が響く中、完全に無表情で棒立ちのままのパンピー」とでもなるでしょうか。屋上屋を架すを承知でさらに例えるなら、「青春ラブストーリーと思って見ていたら突然、筋肉質でテカテカのトルコ人が現れて油相撲をオッぱじめ、唖然としているうちにまた何ごともなかったかのように青春ラブストーリーへと戻った」のを見せられている気分です。すいません、エヴァ成分の含有率や現実と虚構の解釈を含めて、「戦闘以外は割とフォー・ミー」だったので、茶化したい気分でこれを書いているのではないことは、ファンのみなさまに重ねてお伝えしておきます。
それにしても、シン・仮面ライダー公開以降、無言を貫いているカズ・シマモトは本当に大丈夫なんでしょうか? 仮面ライダー50周年記念での公式発表を、ツイッターというツンボ桟敷で聞かされたときのショックの様子と、撮影された作品の結果として異様な仕上がり具合から考えても、現在の彼の精神状態が心配で心配でしょうがありません。