猫を起こさないように
永遠の命を疑えないものだけが、自らの始末を躊躇しない
永遠の命を疑えないものだけが、自らの始末を躊躇しない

永遠の命を疑えないものだけが、自らの始末を躊躇しない

 事実に盲目であろうとする姿勢――より正確には養育者への憎悪に起因する混乱と不安が本来の対象を違えて照射されるとき、その転移を余人が芸術と名付ける実例は歴史上、枚挙に暇がない。音楽のみを真の芸術とするあの言説は、作曲家の傲慢ではなく、誰もが多かれ少なかれ持つこの地上の穢れの影響を受けにくいからである。
 文学や絵画を構成する負の感情は、本来の原因とは別のところに成立するため、どこまで追及しようとも解けないという一点において、しかし不可解の深みを得る。そして通底する不全の基調は、誰もが味わったことがあるゆえに共有可能な体験となり、理解できないにもかかわらず一種の普遍性を持つという逆説的な結果を生むのである。
 この仕組みを理解したとき、私はまず文字が読めなくなった。生きるものの書く文字は、あらかじめすべて汚されている。
 我々は背に負った憎悪の根源に気づかぬまま、不全の解決を探し求める虚しい放浪を止められない。それは青い鳥以上の皮肉であり、地獄である。ただ、首を回しさえすれば、答えはそこにあるというのに。解答を探し求めるその過程こそが人生だという言葉は、真実から逃避した欺瞞である。根源を直視し、その先を見たからこそ私は言うのだ。
 おい、知っているか。命の大半を占めた執着が消えた向こう側に何があるのかを。そこには上下も左右もない白い空間がある。自分の輪郭だけが唯一の、莫大な白い広がりがある。私はいまにも狂いそうだ。それを証拠に、この告解は私の心にさざ波ひとつ起こさない。