猫を起こさないように
ドラ江さん
ドラ江さん

ドラ江さん

 「元気だして、のび太さん」
 「うん」
 「ドラ江さんもちょっとナーバスになってるだけよ」
 「うん」
 「誰も自分以外の人間のことなんてわからないわ。でもそれでもいつのまにか現実は修復してもとのようにうまくいくものよ」
 「うん。ごめん、いろいろ。それじゃ」

 「帰ったか?」
 「ええ」
 「ほんまにあいつはしゃあないやつやな」
 「私も、最近のドラ江さんはちょっとおかしいと思う」
 「なんや、しづか、おまえまでそんなこと言いよるんか」
 「だって! 以前のドラ江さんは誰かといるときに、そんな遠くを見るようなかなしい目はしなかったわ」
 「しづか、それ以上考えるんやない。ブルース・リーもこう言うてる。『考えるんじゃない、感じるんだ』。おまえはおまえの男を誘ういやらしいこの部分でただ今は感じたらええんや」
 「ああ、ドラ江さんの野口英世という単語をなぜか想起させる青白い手が、わたしの身体を這いまわっているわ。という事実を冷静に判断することもできないほど実はかれのする愛撫に悶えているわたしという小学生の実存なのね。あ、やめないで」
 「さて、しづか。ちゃんと勉強をせなご褒美はあげられん。今日は国語の時間や。さぁ、これを声に出して読んでみい。『満腔の期待』」
 「やだ、そんなの! ぜったいいや!」
 「そうか。ならワシももうこれ以上おまえのここをいろってやらへんだけのことや」
 「ひどい」
 「不出来な生徒にやるにはあたりまえの罰やと思うがな、ワシは」
 「…ま…うのきたい」
 「は? なんやて? 全然聞こえへんで。いつものようにかみ殺される寸前のメス犬のような淫乱な声をあげてみい」
 「まんこうのきたい、まんこうのきたい、まんこうのきたいぃぃぃ」
 「そうや。それや。それがおまえなんや。広辞苑にはこう書いてある、『期待に大きく胸を膨らますようす』」
 「ねえ、言ったわよぉ」
 「(苦痛に満ちた表情で)ほんまにおまえはどうしようもないみだらな小学生やで」

 「ねえ」
 「なんや」
 「煙草って、おいしいの?」
 「煙を吸い込むときな」
 「うん」
 「最初のほんの数百万分の一秒くらいの瞬間なんやけどな、眠りこむ寸前のような、救いそのもののような安楽さを感じるんや。そのあとはまずいだけや。刹那的な快楽と長い長い慢性的な自殺、それが本質やな」
 「…」
 「…」
 「ねえ」
 「うん」
 「ドラ江さんはそうやっていろいろな現実を言葉にできるから、いろいろなことがわかってしまったように錯覚するのよ。言葉は発した瞬間にほんとうの現実とはどこか致命的にずれてしまっているわ。言葉は現実を入れ子細工のように永遠に細かく階層化していくだけよ。それを発した当人にとってさえ、どんな救いにもつながらないと思うの。ただ拡大していく感受性が現実をつらくするだけだわ」
 「子どもにはわからへん」
 「わたし、子どもじゃないわ」
 「ああ、そうやな」