猫を起こさないように
過ぎし日々の思い出
過ぎし日々の思い出

過ぎし日々の思い出

 電車がターミナル駅に到着するときにやる「この電車はこれまでです」というアナウンスに、「しまった、ワナかッ!」と叫び、すばらしい大腿筋のバネとクロスした丸太のような両腕でもって窓をぶち破って(このぶち破られる窓が婦女子のいったいどの部分を暗喩しているのか読者諸賢にはすでにおわかりですよね?)ホームに飛び降り、二三回転して速やかに立ち上がりファイティングポーズをとるも、周囲を取り巻く人垣からの不審げな視線に気づいて逆ギレし、「見てんじゃねえよ」とあごを突き出してすごみながらのしのし退場なさることもしばしばな、日々主線の異様に太い劇画タッチの私なんですが、ふゥム、どうなんだろうね、若槻くん(ト、あごをなでる)。
 さて、高身長・高学歴・高収入に加えて婦女子のあらゆる膜に訴えかけるともっぱらの評判な涼やかな顔面を有している資本主義社会の完全な勝利者であるところの、知性の真に高いものがよくそうであるように気むずかしげに眉根を寄せはすにかまえて、日常の些末事にはめったに心を動揺させることのない私の実存なんですが、今日は心から嬉しかったんです。誰かが言いました。「認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分じゃありません」 要するにそういうことなんですね。私という実存は多分に流動的で、次の瞬間には全く違う場所に位相を移しているんだろうけれども、明日には下品な言葉を書くんだろうけれども、少なくとも今日は言いたい。
  こんな私に、ありがとう。