猫を起こさないように
ドラ江さん
ドラ江さん

ドラ江さん

 「なぁ、のび太」
 「なんだい、ドラ江さん」
 「ドリキャス楽しいか」
 「うん、楽しいよ。現実には不向きなぼくの内向的な性格でもドリームネットでたくさんともだちができるんだ」
 「さよか。それはよかったの」
 「どうしたの? 今日のドラ江さんなんだかおかしいよ」
 「(打ちっ放しのコンクリート壁で煙草をもみ消しながら)だったらもう、ワシはいらへんな」
 「なに言い出すんだよ、急に。やっぱり今日のドラ江さんおかしいよ」
 「のび太。ワシは真剣や。だからおまえも真剣に話を聞いてくれ。ワシは今日、この家を出ていこうと思う」
 「いやだな、何を…またいつもの冗談なんだろ。今日のは少しもおもしろくないよ。ドラ…そんな」
 「ごめんな」
 「なんでだよ、そうか、ドリキャスが気にくわなかったんだ。やめるよ、もうやらない。ドラ江さんがそうしろっていうならもう二度とやらないよ。五時間も並んで手に入れたけど、ドラ江さんが捨てろって言うならそうする。だから」
 「違うんや。ドリキャスはきっかけにすぎへん。ドリキャスの、ゲームとは思えんほどの美しい画面を見ていたらワシの中にあった、ずっと長いこと知っていて無視し続けてきた固いしこりが、急にはっきりと意識されだしたんや」
 「ドラ江さん、やめてよ。そんなふうに話すのはやめてよ。まるで、まるでこれでぼくたちは終わりって言ってるみたいじゃないか」
 「のび太。今日までワシはいろいろおまえに決めうってきたけどな、あれ、全部嘘や」
 「そんなこと言わないでよ! ぼくにとって一瞬前まで何のゆらぎもないほど確かな場所だった現実が、みるみる拡散していくよ。そんなこと言うなんてひどいよ。ぼくはこれからこんな不安な気持ちでどうやって生きていったらいいっていうんだよ!」
 「のび太、何かを切り捨てて得る安定というのは、それは嘘や。現実をこうと見定めてしまって心に安定をもたらすのは簡単なことや」
 「ひどいよ、そんなふうに言ったらぼくが一番困るのを知っていて、ぼくが一番どうしようもなくなってしまうのを知っていて。ひどいよ。ドラ江さんは、ほんとうは、ぼくのことなんか全然愛していなかったんだ!」
 「違う、違うんや、のび太。ワシは今ほんとうの愛情で、初めての心からの愛情でおまえに語りかけてる。ええか、のび太、聖書にこういう一節がある。『主よ、あなたはかれらを愛するあまりもっともかれらを愛さない者のようにふるまってしまった』。わかるやろうか。キリストは愛という行為が人間の生得的な自由を損なってしまうものであることを知っていたんや。かれの力があれば巨大なカリスマとなって人々を率いていくことは簡単やったはずや。でもかれはそれをせんかった。なぜかわかるか。かれは本当に人々を愛していたから、そうすることでかれらの安定とひきかえに、かれらの真に貴重な自由を奪ってしまいたくなかったんや。だからかれの愛のかたちは言葉少なにただ微笑むことやったんや。聖書というのは本当におそろしい書物やと思う。ここには人間の真実のすべてがある…ワシはおまえのことを愛してやっているつもりでいつも逆へ逆へと動いとったんかもしれんな」
 「わからないよ、ドラ江さん。ドラ江さんの言うことがわからないよ…わかってなんかやるもんか!」
 「今はわかってくれんでもええ。いつかおまえにも今日の出来事が感情で理解できるようになる日がくるやろう。最後に、ワシにひとつだけ決めうたせてくれ。これを言うのはワシがまだおまえを本当に愛していない証拠なのかもしれん。でもワシはあえて言おうと思う…おまえが笑い、泣き、腹を立て、劣っていると感じ、優れていると思いこみ、そして誰かを殺したいほど憎むその瞬間でさえも、のび太、おまえの感じる感情は正しいのやで。この世界に生まれ落ちたというその事実だけで、おまえの存在は正しいのやで」
 「やだ…ドラ江さん、待って…あ。ドラ江さん、ドラ江さん、ドラ江さん…うわあぁぁぁぁぁ」
 「さようなら、のび太」
 ドラ江さんの丸い球形のひっかかりのついた赤い尻尾がぼくのすぐ目の前をふわりと通り過ぎていった。ぼくはそれをつかまえてドラ江さんを引き留めることも、ずっとぼくのものにしておくこともできたんだ。でもぼくはそれをしなかった。なぜって、ぼくはそのときになってはじめて、ドラ江さんがどんなにぼくのそばで寂しかったのか、そして、ぼくがどんなにドラ江さんを愛していたかに気がついてしまったから。

つづく