猫を起こさないように
或阿保の一生
或阿保の一生

或阿保の一生

 私とかれは特に親しい間柄というわけではありませんでした。その交際の頻度やかれ自身がどう思っていたかにかかわらず、かれは私にとって腹蔵なく話せる種類の人間ではなかったのです。かれはその、つまり、ある種のマニアでした。様々のものを収集し、それがつもっていくことに精神的な満足を抱いているようでした。私はかれの持つとある品物に興味を持っており、それがかれとの交際を続けさせる唯一の要因でもあったわけなのですが、それらのすばらしさにかかわらずかれという人間は私に少しの魅力も感じさせ無かったのです。むしろ私はかれといるときにしばしば不快さを感じていたことを認めなくてはならないでしょう。かれの収集癖は自分自身の人間的魅力の無さへの意識的か無意識的かの認識から生まれた、かろうじての防衛策であったと言えるかも知れません。自分の存在を成熟したものとして確立できなかった人間はしばしばこういった馬鹿げた性癖を手に入れているものです。それはむろん代替物に過ぎないのですが、かれらにありがちな周囲との折衝の無さからでしょうが、今まで失敗せずに機能してきたのでまったく正しいものだと思いこんでしまっているのです。
 その日、じつに一ヶ月ぶりに――私には仕事があり、かれには無いからです。生活基盤の違いは人間関係に如実に影響を与えるものです――かれの私が密かに呼ぶところの”ねぐら”へ訪ねました。築何十年経とうかという、薄汚れた湿っぽいアパートメントの二階の一番奥の部屋がかれの住処です。郵便受けには大量のチラシがつっこまれており、外にまではみだしています。私はいつものように粘つくドアノブにハンカチをあてると、深呼吸をひとつしてからゆっくりと扉を押し開き、中へと入りました。かれが外出することは年に何度もなく、私以外の訪問者は宗教勧誘員くらいで――セールスマンはこの界隈にはよりつかないのです――私のこのような不躾な訪問はほとんど暗黙の了解となっていました。
 「おい、いるかい」
 私は答えの明らかな質問をわざと口にしました。私とかれの複雑な関係は、それ以下のよそよそしさもそれ以上の親しさも私に許さなかったからです。床にはその、つまり、ある種のマニアックな雑誌や私には意味を持たない様々の物体が積み上げられていました。それらの中で日本経済新聞だけが私にとって認識可能なものでしたが、かれがこの新聞を購読しているのはゲーム業界の今後の動向を知るためなんだそうです。日々親からの仕送りで生活する、大学は9年目に放校され、現在いかなる職にもついていないかれが、どうしてゲーム業界の動向を知らねばならないのかは私にはわかりません。一度かれに尋ねたことがありますが、「まぁ、君、ディレッタントの宿命というやつだよ」などとはぐらかされました(かれはこの手の自分は何でも知っていると見せかけようとするやり方がたいへん好きなのです。そんなときのかれはいつもニワトリのような顔になります)。奥に進むにつれ視界は奇妙な白い薄もやにさえぎられ、バックミュージックは階調を下げておどろおどろしさを増します。この白いもやの正体について私は一度かれに尋ねたことがありますが、「まぁ、君、ブレードランナーみたいだろ」などとニワトリのような顔ではぐらかされました。私はおそらく何かの動物の死体が発酵して吹き出すガスではないかと推測していますが、真相を確かめる気はもちろんありません。
 「おい、いないのかい」
 玄関奥の四畳半がかれの部屋です。ビデオデッキが縦向きに十台以上積み上げられ、壁には地肌が見えないほどポスターが貼られています。ポスターにはほとんど奇形といってもいいほどにデフォルメされた女性の姿が描かれています。記号として人間をとらえる芸術としてのそれらの完成度の高さを否定するつもりはありませんが、かれはその、つまり、恐ろしいことに、これらの簡略化された人間のパーツの組み合わせに、あろうことか、欲情を感じるらしいのです! 私はそれを信仰者がする重大な告白のようにかれがうち明けたときのことを思いだし、軽いめまいを感じて目をそらしました。窓は分厚いカーテンに遮られ、昼間だというのに少しの光も入ってきません。暗闇のただ中に数台のモニターがぼうっと光を発しています。そこに写っているのは……私はモニターを見ないようにし、なお呼ばわりました。
 「おい、僕だよ。いないのかい」
 うめき声が足下から聞こえました。私はかれの醜怪な顔面を踏みつけにしていたのです。帰りにコンビニで換えの靴下を購入せねばと苦々しく思いながら私はかれを助け起こしました。かれは驚くことに、泣いていました。感情を、真に自分が感じている感情を他人に知られることを恐怖して、いついかなる瞬間にも、まばたきの一つでさえも軽躁的な演技でやり、現実から身をかわして生きているかれがその醜い顔をさらにゆがめて、誰からも同情を与えられることのない奇怪な様子でさめざめと泣いているのです。私は何かが壊れようとしているのかもしれないと感じました。かれは突然手に持っていたゲームのコントローラーをビデオラックに投げつけました。危うい均衡で本来の収容量以上を納めていたラックから大量のビデオが床に雪崩落ちました。
 「もうこんなのはたくさんだ。こんな地獄のような個人主義はたくさんだ。誰か俺を巻き込んでくれ。俺はつながりたいんだ。俺は世界との関係を回復したい。誰でもいい、誰か偏見に満ちた思想で、全体主義的な有無を言わせない圧倒的なやり方で俺の存在が社会の一部を構成する部品に過ぎないことを教えてくれ。俺をあのマスゲームに埋没させてくれ。俺の脆弱な現実をこっぱみじんにうち砕いてくれ。自我が際限なく肥大していくんだ、俺が世界の中で唯一無二の実在であるという妄想的な確信にまったく疑問を感じない瞬間が日々増えていくんだ。もう、いやなんだよ、こんな嘘に囲まれて、ネット上で虚構の美少女たちを論評している自分が、やつらが、たまらなくいやなんだ! 誰か助けておくれよ…誰か…やめる、こんなことはもうやめるから…お願いだ…」
 これは革命でしょうか。もしかれの発した今の言葉がかれの現実とまったく一つになることがあるとしたら、それは革命の達成でしょう。ですが私は知っています。こんな演劇のような、一時的な感情の高ぶりによる革命は決して続かないことを。瞬間的な演劇空間の成立による革命の意識は日常を裏切っています。けれど私はあえてそれをかれに告げようとはしませんでした。私はかれの友人ではないからです。私は代わりに崩れたビデオの山を指さし、言いました。
 「それでは君にはあれはもう必要なくなってしまったわけだ。決心がにぶるとよくない、私があれらをもらっていってもかまわないだろうか」
 かれは泣きながら言いました。ああ、持っていってくれ、今すぐ持っていってくれ。私はかれの言葉が終わるのを待たずに手持ちの鞄にビデオをつめるとそそくさとその場を後にしました。二度と訪れることのないだろうかれの部屋を出ていったのです。久しく経験しなかった激しい感情の動きに疲れたかれはぐっすりと夢を見ない眠りを眠り、やがて目を覚まして自分の行動を身悶えするほどに後悔するでしょう。ですがその過失を埋め合わせる機会は永遠に来ないのです。なぜならかれは私の住所も、電話番号も、名前さえも知らないのですから!
 それからの私はと言えば、かれと私をつなぐ唯一の絆であった、今や私の所有物となったあのビデオ群を毎日存分に楽しんでいるんですよ。童女たちのあられもない乱痴気騒ぎをね。ひっひっひ。