猫を起こさないように
廣井王子(4)
廣井王子(4)

廣井王子(4)

 米国のスラムを思わせる街並み。稲光。カメラの端を巨大なドブネズミが走り去る。カメラは雑居ビルの階段を上昇してゆく。いくつかの踊り場を過ぎ、“ワイドプリンス・プロダクション”の表札がかかった扉の前で停止する。室内には本や雑誌、書類などの紙類が散乱しており、床が見えないほどである。脳卒中を疑わせる重低音のいびき。ソファの上に、文庫本を顔に乗せた中年男が寝そべっている。やがて、廊下から慌ただしい物音。
 「(デブとチビ、二人の男が息を切らせて駆けこんでくる)廣井さん! 廣井さんはいますか!」
 「(いびきが止まり、廣井と呼ばれた男の顔から文庫本がずり落ちる)ンだよ、うるせえなあ。明け方まで仕事して、ようやく寝かかったってとこなのによ」
 「(デブ、ぶるぶると肩を震わせながら)なに、悠長なこと言ってるんですか! 大事件になってますよ! こ、これは、これは本当のことですか!(手に持ったスポーツ新聞の束を廣井の足元へ叩きつける)」
 「ああン? (スポーツ新聞の一つを手にとりながら)最近は老眼が進んじまって、細かい字が見にくくっていけねえよ」
 「(デブ、荒々しくテレビのリモコンを取り上げ、震える手でボタンを押す)……あの超人気アイドルグループ、悪罵四六時中(略称:AKB46)のリーダーである顎門罪科(あぎとざいか)さんの自宅マンションから、昨日の早朝、中年の男が出てくるのが目撃されました! こちらがその、衝撃のスクープ映像です! (残念な造作の女がジャージ姿の廣井をドアの隙間から見送る写真が映し出される)この冴えない男、名前を廣井王子と言いまして、この冬、罪科さんが主役を演じる予定のミュージカルの演出を任されているとか。一部では枕営業の噂も?(デブ、テレビを切る)」
 「(チビ、青ざめた顔で)アンタは、アンタは、やっちゃいけないことをしちまったんだ!(激昂して廣井に殴りかかろうとする)」
 「(デブ、チビを後ろから羽交い締めにして)やめろ! まだそうと決まったわけじゃない! まずは廣井さんの話を聞くんだ!」
 「(心底めんどくさそうに)チッ、童貞どもが浮き足立ちやがって。なんで俺がお前らに話をすると思うんだよ。てめえんとこの両親は、昨日セックスしたかどうか朝食の席で尋ねたら、朗らかに教えてくれたのか? とんでもねえ家庭だな!(馬鹿笑いする)」
 「(チビ、デブを振りほどこうと身をよじりながら涙ぐんで)ぼ、ぼくの罪科ちゃんに指一本でも触れててみろ! 社長だからってただじゃおかないぞ!」
 「(両手をかかげて大仰に)おお、怖い。もちろん、指なんて触れてませんよ」
 「(チビとデブ、明らかな安堵に表情を緩めて)ほ、ほんとうだな」「ほ、ほんとうですか」
 「(真剣な苦悩の表情で)この国のメディアの未成熟ぶりには目を覆うものがあるね。男女が一晩同じ部屋にいたら、必ずセックスをするはずだなんて、無理にでもゴシップを、つまりは自分たちの飯のタネを作らんがためだけの、下衆の勘ぐりにもほどがある。まったく、『下男の目には英雄なし』の金言は、真理であるということを実感したよ。もちろん、指で触るなんて、(突如立ち上がり、邪悪に顔を歪めて)そんな童貞くさいことするわけねえだろ! 俺のポケットモンスターが風邪であんまり寒がるもんだからよ、罪科ちゃんのいちばん深くてあったけえ部分に頭からずっぽりと潜り込ませてやったのよ! こんな具合にな!(近年逝去した黒人整形ダンサーを想起させる動きで腰を前後に動かす)」
 「(チビ、顔の筋肉が消失したような虚脱の表情を浮かべ、その場に崩れ落ちる。デブ、呆然と)そ、そんな……」
 「だがよ、童貞ども、安心しな。俺も遊び人の端くれだ、とうの昔にパイプは切断済みよ! 年食った非処女ちゃんの人生を背負う可能性は、まだお前たち一般人男性どもの上へ残されてんだからな!(馬鹿笑いする)」
 「(デブとチビ、巨大な蛾が登場する怪獣映画の双子のように手をとりあって)ひどい、ひどすぎる! あーん、あんあん、罪科ちゃん、罪科ちゃぁん!」
 「(ゆっくりとソファに腰を下ろして煙草に火をつける)……まあ、最初はほんとに舞台の稽古をつけてやるくらいの話だったんだぜ。ついつい興が乗っちまってさ。おまえにゃ色気が足りねえって、気がつきゃ下半身と下半身のぶつかり稽古よ。(スポーツ新聞を取り上げて目を細める)まあ、この報道ぶりじゃ、二番はねえかな」
 「(チビ、もはや話を聞いているふうもなくすすり泣いて)うう、罪科ちゃん、ぼくの罪科ちゃんが汚されてしまった……」
 「(デブ、チビの背中をさすりながら)馬鹿、こんなときこそファンの俺たちがしっかりしなくてどうするんだ。一番辛いのは、(涙に声をつまらせて)罪科ちゃんなんだぞ」
 「(呆れたように)いま、お前らの様子を見るまで実感なかったけど、悪罵四六時中ってのは、やっぱすげえ商売だな! ゲームがらみで長いこと声優業界に関わってきたから、わかってたつもりだったけどよ、おたくどもの心根を冷徹に分析した、見事なシステムだわ。まず、この不況下で最も活発な消費活動を行うのは、独身のおたくだってこと。次に、おたくは美人の非処女より、多少ブスでも処女が好きだってこと。芸能界なんて場末で美人を探すのは骨が折れるが、ブスならいくらでも虫みてえに集まってくるしな。そして、木を隠すなら森、ブスを隠すならブスの集団ってわけだ。くっそ、考えれば考えるほどに完璧じゃねえか! どうして声優転がしでおたく様どもからカネを巻き上げるのが得意だった俺が、これに気づけなかったかな……」
 「(チビ、真っ赤に泣き腫らした目で)ぼ、ぼくは、それでも罪科ちゃんを愛し続けます! 今までも! これからも!」
 「(デブ、涙声で)うん、うん。それでこそ罪科ちゃんのファンだ」
 「(呆れ顔で二人のやりとりを眺めて)まあ、よっぽど気をつけてやらないと、おたくの自意識に立てられた砂上の楼閣だ、簡単に土台ごと崩れちまうがな。たぶんプロデューサーの野郎、恋愛禁止ぐらいのことしかメンバーに言ってなかったんだろうさ。メンバー全員に最初ッから、ちゃんとこのシステムの成り立ちを詳しく説明しとくべきだったな。強すぎるおたくの猜疑心にかかりゃ、すぐに他のメンバーにも非処女の疑惑は飛び火するだろうよ。まさに蟻の一穴ってわけだ。もっとも、その一穴は罪科の処女膜に開いてんだがな!(馬鹿笑いする)」
 「(チビ、勢いよく立ち上がって)よ、呼び捨てにするな! ぼくの罪科ちゃんを呼び捨てにするなよ!」
 「おっ、元気あんじゃん。(ニヤニヤ笑って卑猥に腰を振りながら)まずはそのふざけた処女幻想をぶちこわすぅ~」
 「(チビ、膝から床に崩れ落ちて)ううっ、財科ちゃん、こんなヒヒ親爺に汚されたって、ぼくは君のことを愛し続けるよ……」
 「(肩をすくめて)おまえさァ、そろそろ冷静になって、誰に給料もらってるか思い出したほうがいいんじゃねえの? 安心しろよ、あんな女のこと、すぐに忘れるさ。芸能界にゃ、他にもたァくさん、若い処女がごろごろしてるからな。女アイドルの仕事ってさ、忘れられることも込みだからよ。まあ、長くて一週間ってところかな」
 「(チビ、膝の上でぶるぶるとこぶしを震わせて)侮辱するな! ぼくの純粋な恋心を侮辱するなよ!」
 「(背もたれに両腕を投げ出し、天井を向いて)女ってのは、つくづく大変だよなあ。若い処女もすぐに非処女になってさあ、じきに若くもなくなってさ、子どもができたらカアチャンになってさあ、容色も衰えていってさ、しまいにゃ、生理までアガッちまう。人生にたどるべき明確なステージがあって、まあ、肉体の変化が先行するせいだけどよ、同時に心もメタモルフォーゼさせないといけなくてさ、失敗すると羽根が伸びきらない蝶々みたいな奇形か、さもなきゃ怪物になっちまう。その点、男ってのは楽でいいよなあ。セックスしたって、たとえ子どもができたって、死ぬまで少年漫画読んでりゃいいんだからさあ。(目を伏せ、小声で)まあ、ガキでもいれば、それが長すぎる人生の時計ぐらいにゃ、なるんだろうがよ」
 「(デブ、たまりかねたふうに)いったい廣井さんは何が言いたいんですか!」
 「(チビ、加勢して)そうだそうだ! 何が言いたいんだ!」
 「(目を細めてチビを見て)おまえ、愛するって言ったけどさ、愛するってのは、女が歩むそのすべての階梯をいっしょに寄り添うってことだよ。若くて処女の罪科ちゃんが好きだったおまえが、処女でもなく、若くもなくなった彼女の何を愛せるんだ? 少年漫画を読む以外のことをしたくなくて、現実から俺の事務所に逃げこんできたおまえがさあ? なあ、もう一度言ってみろよ、罪科ちゃんを愛していますってさ」
 「(チビ、嗚咽とともに床に顔を伏せる。デブ、チビの背中をさすりながら)ど、どうして廣井さんはミュージカルの演出なんか引き受けたんですか。柘榴vs.禅(ざくろたいぜん)からこっち、ゲーム制作に関わろうともしない。お言葉ですがそんなミュージカル、演出のことなんか何もわかりゃしないおたくたちが、悪罵四六時中のメンバーを観に来るだけの、半年も経たないうちにすべて消えてしまう泡沫じゃないですか。貴方の才能はゲーム制作でこそ、最大に輝くはずなのに、それをどうして……」
 「(目を細めて)そして、舞台にかかわらなきゃ、顎門罪科の処女を散らされることもなかったと言いたいわけだ」
 「そ、それは……」
 「はは、おまえら本当に純粋だな。なんで俺とヤるまで顎門罪科が処女だったって前提なわけ? 非処女だったよ、当たり前じゃねえか(床に突っ伏したチビの嗚咽がいっそうに高まる)。で、なんだっけ? 俺がゲーム作らずに舞台演出やってる理由か? 簡単だよ。才能がある者は公の場で認められたいと思う。俺には才能がある。そして、ゲームは公の場じゃない。どれだけギャルゲー作ったって、世間は俺を尊敬してくれねえのよ。五十がらみのオッサンが、ゲーム作るときにだけその才能が輝くって、どういう罰ゲームだ、こりゃ? ……俺のカアチャン、九十近くってさ、すげえ田舎に住んでんだよ。メディアといや、テレビとラジオと新聞でさ、やめろって言ってんのに、まだ俺に仕送りしてくんだよ。ゲーム制作で名を上げて、もうカネにゃ何の不自由もない五十がらみのオッサンにさ。俺ってさ、こんなに成功してるのに、この世にいないも同然なの。ゲーム作ってんのが、心底恥ずかしいの。それが俺の理由(窓の外へ視線をそらす)」
 「(デブ、その横顔を見つめて)廣井さん……」
 「(事務所の電話が鳴る。顔を見合わせる三人。廣井、顎でデブに促す。おそるおそる受話器を取り上げるデブ)はい、ワイドプリンス・プロダクションでございます。え、廣井ですか? (廣井に視線を向ける。廣井、無言で首を振る)少々お待ちください。いま廣井にかわりますので(子機を差し出す)」
 「(三白眼で睨んで)テメエ、社長をマスゴミどもへ売ろうってのかよ」
 「(微笑んで)お母さんからですよ」
 「(毒気の抜けた表情で子機をひったくり、部屋の隅へ行く)あ、カアチャン、ひさしぶり。ゴメン、ずっと電話できなくて。あ、テレビ見た。え、取材来たの? ごめん、なんか騒がせちゃって。言ったろ、おれ、有名人だって。カアチャン、ぜんぜん信じてくれねえんだもん。仕送りいらねえって言ってんのに……ほんと、ゴメン。うん、俺はだいじょうぶだから。うん、うん。近いうちに顔出すよ。うん、じゃ、切るね(子機の切ボタンを押す。無言)」
 「(デブとチビ、二人で)廣井さん……」
 「(振り向かないまま袖で顔をぬぐって)あー、なんかすっきりしたわー。お前ら、ごめん! たったいま、事務所たたむことに決めた。ごめんな、なんかずっと、つまんねえことにつきあわせちまって」
 雑居ビルの外。ロングコートにサングラスの女がビルを見上げている。やがて意を決したように一歩を踏み出し、階段を登ってゆく。引いてゆくカメラ。米国のスラムを思わせる街並みに、雲間から射し込む一条の陽光。