猫を起こさないように
月: <span>2026年4月</span>
月: 2026年4月

ゲーム「エンドフィールド・春の暁、訪れし時」感想

 エンドフィールド、2度目の大型アップデートであるバージョン1.2をクリア。無自覚系主人公ならぬ無記憶系主人公を、プレイヤー以外はみんな知っている彼/彼女の過去の活躍から無下限(じぢゅちゅ語)に甘やかし、あってしかるべき記憶の回復によるタネあかしがいっこうにない状況にイライラしていたのですが、今回のメインストーリーを通じて、敵の幹部であるアルダシルと管理人ーー呼ばれるたびに「めぞん一刻」が脳裏をよぎる弊害を持つ二人称ーーの関係性は、エヴァ新劇におけるカヲル君とシンジさんのそれになぞらえたものーー片ひざで石像に座る目くばせ演出まで!ーーではないかと気づき、エンドフィールドが「シンに不満を持ち、破からの作りなおし」を志向する作品なのではないかと、大きく期待を高めた次第です。手をかざすだけで石の形をしたエネルギーを放出できる、作中でいっさい説明がない管理人の謎パワーと、スーパーサイヤ人と化したゾアン師による武陵城の防衛戦におけるムービーは、島・半島・大陸から上梓された近年のゲーム群において、”当代一”とでもたたえるべき超絶クオリティに達しております。なにより良かったのは地下の裂け目をめぐる後日譚で、少年兵が子ども時代をとりもどすーーシティハンターの主人公の幼少期を想起ーーロッシのサイドストーリーにも感じたことながら、端正な3Dモデルがかかえる欠点であるところの、人間の役者に比しての「感情表現のとぼしさ」をホヨバとは別のかたちで補おうとしているのです。

 原神スターレイルが過剰なまでのテキスト量や手書き風アニメーションや、俗に言う”漫符”によって感情の演出を行ってきたのに対して、エンドフィールドでは瞳の動きや唇の歪みや会話の間や画面の構図を駆使して、「会話がなされていないときに、人物の気持ちや隠された真意が交錯する」ような演出がつけられている。つまり、3Dモデルの欠点を乗りこえて、人間の役者を使った実写の手法で物語の演出を試みているのです。一例をあげるならば、今回の実質的な主人公であるゾアン師には、左手で耳元の髪をかきあげるクセがあるのですが、一連の事件が解決したあと、右手で髪をかきあげる場面があります。これは、思考するときの視線の向きやスーパーマリオブラザーズのスクロール方向の説明にも使われる「人間にとって左は過去を、右は未来を意味する」を適用していると考えられ、彼女がようやく過去の呪縛から解放されたことを、テキストにたよらず表現しているのです。この手法には、うっかり会話をスキップすると言外の演技までとばされて再視聴できないなど不便はあり、まだまだ試行錯誤の途中だろうとは思いますが、ゾアン・ファンイの過去を語るストーリーを見て、「初恋が来た道」や、このテキストを読む全員が知らないだろうオムニバス・ドラマ「それでも生きる子供たちへ」に収録されていたジョン・ウーの短編を思いだしました。金持ちの子どもと貧乏人の子どもの人生が、人形を通じて一瞬だけ交錯し、母親に娘との心中を思いとどまらせるという内容なのですが、機会があればぜひ見てみてほしいと思います。

 閑話休題。ゾアン師のたどる「期待の新人として社内のプロジェクトチームに招かれ、時が経つにつれてチームの中核となり、気づけば初期メンバーは死去か定年でだれもいなくなり、プロジェクトの意義も会社への忠誠心もゆらぐ中で、いまはいない仲間に向けて『わたしが、必ずやりとげてみせます』と涙の誓いをたてる」という道ゆきは、あまりにも”勤め人の一生”すぎて、アルコールが入っていたこともあって、感情面での強いシンクロが発生してしまい、嗚咽をともなう号泣にいたったほどです。エッキスのみなさんは、あらゆる組織のマネジメント層を攻撃しますけど、彼ら/彼女らはべつにいつ辞めたってかまわないし、そうしたところで、すでに生活には困らないくらいの資産はあるわけですよ。「個人を越えた、外的状況に対する責任」は、たしかに存在していて、それを軽視してツバを吐きかける態度には正直、特大の疑問符をつけざるをえません(そんなにだいじな個人の内面や自由意志って、あるんですか?)。ゾアン師の誇り高い生き方を否定する近年の風潮に異をとなえるべく、大きめの課金で彼女とモチーフ武器を引き、どちらもレベル90にするという抗議活動をひとり電脳空間(古ッ!)にて行なったことを、ここに報告しておきます。あと、あまりにも今回の工業がわからなすぎーーどうひっくりかえしても、電力供給が足りなくなるーーて、休日の3時間を完全に空費して発狂しそうになり、他人の努力の結晶であるところの図面を丸パクりして、今期の目標を達成したことを、ここに懺悔します(正しいマネジメント層の態度)。

アニメ「違国日記」感想

 ディアブロ2に深くハマりだすと、映像のながら見が非常な勢いで進捗する。そんなわけで、アマプラでアニメ版の「違国日記」を通して見る。実写版は未見で、全話の視聴が終わるまでにドロップしたハイルーンはSURのみだった(微妙)。ひと昔前の少女漫画ーー吉田秋生の初期作群を想起ーーを彷彿とさせる非常に繊細なストーリーで、まだ何者でもない10代の自分が見たならば、大いに影響を受けて忘れられない作品になった可能性はある。だが、他ならぬおのれの短くはない人生そのものが、作品世界への没入を阻害する要因として働いたことは、認めざるをえない。そもそもの大前提である「交通遺児をフィクションの主人公とする」時点で、個人的な許容のハードルは高くハネあがってしまった(同じく交通遺児を主人公とする「若おかみは小学生!」はスッと受け入れられたので、キャラデザに由来するリアリティの高低が理由かもしれない)。「事実婚の父は我が子に無関心で、母は心の奥底ではわたしを愛していなかったのではないか?」という極大の疑念を皮きりに、プロレス技でたとえるなら、”問いっぱなしジャーマン”とでも言うべき、正しい答えのない個人と社会の話ーー独身女性の性欲問題などーーが、うっすらとだけ「作者の考える正解」をにおわせながら、矢継ぎばやにどんどん投げこまれてくる。たとえば、男女の双方から好感を持たれる魅力的な中年オヤジが、その理由をたずねられたところ、「”通りすがりの女性に口笛を吹く”たぐいの、有害なマスキュリニティを下りたから」みたいな返答をするのだが、そもそもそれに乗ったことのない男性たちの存在が、作者の視界から消えている(ブサメンのチー牛どもは、オスではないと考えているのかもしれない)。

 なによりドン引きしたのは、医学部入試の男子優遇に教室で激怒し、学校を休むようになったエキセントリック女子ーーそもそも、現実の高校生はこんな反応をしないーーが、交通遺児の主人公に「人生おわったと思った?」と無神経にも問いかけるシーンで、「医学部入試で女子が冷遇されること」と「交通事故で両親を亡くしたこと」はまったくの非対称であり、絶望的につりあっていないことへの認識が欠落しているのだ。これをつりあっていると考えるのは、他ならぬ作者の自意識で、淡い演出の下から突然、それがドぎつい臭気となってたちのぼる瞬間がなんどかあり、登場人物たちの痛みへ共感したい気持ちはあるのに、つど強制的にキックアウトされてしまう。最後に残った関心として、どのように物語を閉じるのかと思えば、かかえている問題ごと青春の鬱屈や蹉跌を吹きとばすのに、軽音楽部のライブを持ちだしてきたのは、「リンダリンダリンダ」からの借り物としか思えなかった。さらに、エンドロール後に流れる「10年後の2人」にいたっては、読後感を汚す蛇足としか見えないのである。以前にも別作品への感想で述べたと思うが、「20歳を越えた人間なんて、どんな複雑な過去をかかえていようと、もうひとりでやっていくしかない」のだし、高校生の彼女が苦しみや葛藤ごと、永久に消されてしまったような感覚を味わった。

 作品タイトルにも表れているように、「交通事故で両親を亡くした少女」や「不定型発達の独身小説家」のような人口の少ない国に住んでいる者にも、大勢の住む国との優劣はなく、”違って”いるだけというメッセージは、ある種の人々に対する無意識の攻撃になりうることは、声を大にして伝えておきたい。この繊細なナイーヴさは、ときに「五体満足で、異性を愛し、妻子/夫子を持ち、定職があり、車と持ち家があり、健康上の問題はない」ような外殻を持つ人物を、大上段から打擲する無敵の殴り棒として機能し、「おまえの苦しみは、私たちよりもはるかに劣っていて、いっさいケアなんて必要ない! いや、そもそもおまえは苦しくなんかないのだ!」と耳元で叫ばれながら、馬乗りになぐられている気分にさせられる。純然たる事実として、わたしは半世紀ちかくずっと苦しいし、だれにも届かないテキストを書きつづけることをやめられないのも、ずっとその苦しさが消えないからだ。またぞろ議論のかまびすしい”就職氷河期世代”なんてラベリングはまっぴらごめんだし、なにより人の苦しみに種類や貴賤をあたえてほしくはない。なんとなれば、人間はだれもが固有の地獄を生きており、ファンガスの名言になぞらえるならば、「人間はみんな、苦しんでいるんだよ」とでもなるだろう。もちろん、このようなマイナーきわまる感想を引きだした「違国日記」はまったく悪くなく、他ならぬ小鳥猊下の人生そのものが悪いのである。終わる。

映画「フォール・ガイ」感想

 生粋の顔フェチである小生は、プロジェクト・ヘイル・メアリーを見てからというもの、ライアン・ゴスリングのご尊フェイスがまぶたの裏にチラついてしょうがないので、衝動的にネトフリでフォール・ガイを再生してしまった。マトリックスで幕を上げたVFX全盛時代が長く続いたあと、AIによる動画生成が急激に台頭してきている現在、生身によるスタントはまさに旧石器時代のシロモノで、この映画のように「スタントマンを主役にしたスタント映画」ぐらい場外のメタにふらないと、だれも劇場に足を運ばないし、そもそも若い世代には絵ヅラがカッたるくて、見ていられないだろうと推察する。「直下の爆発で空中に舞いあげられた車体が、なんども回転しながら地面に激突」したり、「高所での格闘アクションののち、顔面のドアップから地面にむかって小さくなりながら落下」したり、「背後の爆風にあおられて、両手をぐるぐる回しながら観客方向に主人公がジャンプ」したりするのをスローモーションで見ることに興奮するのは、もはや「初体験の相手がアンネ状態だったため、事後から経血に興奮をおぼえるようになった」の文脈における”興奮”と同じ種類の特殊性癖なのである(私がそうだと言っているわけではない)。

 フォール・ガイがどういう映画かと問われれば、海外では検索候補に”burst into laughter”と表示され、国内でのそれは「つまらない」が第一候補になるたぐいの、いわゆる「モンティ・パイソン系」の作品だと答えることができよう。本邦のホニャララ・グランプリ的な漫才とは真逆の位置にある笑いになっており、「執拗な繰り返し」「会話の奇妙な間」「一瞬のアブノーマル」をすべて真顔の演技で行うことが特徴で、「笑いの洋の東西」という観点から思考を深めれば、博論の一本も書けるレベルの文化的な含意をはらんでいるのである。ご存知のとおり、小鳥猊下はサシャ・バロン・コーエンを偏愛し、ディクテーターに爆笑できる逸材であるからして、前半の1時間はキッチリとチューニングをあわせて、この荒唐無稽なコメディを大いに楽しんだのだった。しかしながら、後半は複数のライターによる合議制のシナリオ会議でもはじまったのかと疑うほど、冒頭のフリーフォールにまでさかのぼって生真面目に伏線の回収をはじめだし、スタントそのものを物語の解決へと接続させて、こじんまりと優等生的に終わってしまった。おそらく極少だろう、最後まで優生的なモンティ・パイソンをつらぬいてほしかった人物には大いに不満を残したが、ライアン・ゴスリングの名前につられて劇場に来るていどの客層(オマエが言うな!)には、これで正解なのだろうと思う。

 だが、スタッフロールにあわせて「本編スタントの裏側およびNG集」が流れだしたとたん、プロジェクトA2のエンディングが脳内に併走して再生されはじめ、我が胸と目頭は自然と熱くなったのであった。斜陽産業であるところのスタントマンにあかつきの光をあてるフォール・ガイ、ジャッキー・チェンが建物の屋上から商店のせりだしルーフを突き破って落下するのに興奮をおぼえた異常性癖者の貴様らへ、nWoが自信をもって、ここにオススメするものである!

映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」感想

 おもにエッキスで話題のプロジェクト・ヘイル・メアリーをIMAXで見る。以下は、原作を2周読み、物語の展開と科学的ギミックの詳細について、ほぼすべておぼえている人物による感想です。小説が記憶喪失の一人称による段階的な情報開示と科学知識への興奮でストーリーを駆動したのに対して、この映画は洋楽の懐メロをふくむ多彩なBGMと宇宙空間の映像美をナラティブに変えて進行していきます。舞台は基本的に宇宙船という単一の密室ですが、原作にはなかった全天型のプロジェクターを導入したり、音波生物の主観カメラをビジュアルで見せたり、一人称の独白による状況説明は地球へのビデオレターのていをとるなど、小説を映画として成立させるためのさまざまな工夫があちこちに見られます(ロッキーが使うドーム型の歩行器って、原作にありましたっけ?)。さらに、ふだんSF映画を見ないような観客のためにBGMは、かなり意図的な「いま何が起きていて、どう感じるべきか?」を誘導する情動のガイドになっていて、すこしうっとおしいなと思う瞬間はありました。しかしながら、小型ロケットで試料を地球へと送りだすさいに、ビートルズの”Two of Us”が流れだしたときにはブワッと涙があふれましたから、単に好みの問題なのかもしれません。

 また、センス・オブ・ワンダーを喚起する科学的ギミックの数々は、短いセリフや映像であっさり処理されていきますので、原作を読んでいないと意味のわからない部分が多くあるのではないかと心配になります。ざっと思いつくだけで、固体のキセノンが通常の地球環境ではありえないとか、宇宙放射線の影響でロッキー側のクルーが全滅したとか、相対性理論を知らないので余分の燃料を積んでいたとか、タウメーバがキセノナイトの分子構造をすりぬけたとか、初見の一般人(ノット・SFマニアの意)に作中の描き方でちゃんと伝わるのかには、はなはだ疑問が残りました。小説ではロッキーにとっての「食事と排泄」が、かなりデリケートな”種の問題”として描写されていたのに、映画では一瞬のギャグシーンとしてサッと流されてしまいますし、超重力惑星であるエリドに地球の宇宙船がどう着陸したか、あるいはしなかったかについても、既存の科学知識に照らして説明できないせいなのか、残念なことにオミットされています(これは小説でも、そう)。その一方で、一人称をつらぬいたがゆえに原作ではえがくことのできなかった”エリドの反対側”の結末をわずかばかりながら見られたのーーキセノナイト製の分身を地球へと帰還させるのには、グッときたーーには、かなり溜飲の下がる感じはありました。小さく重箱のスミをつついておけば、問題が解決したことを「赤背景から黒色の染みが消滅する十数秒」にあずけるのはあっさりしすぎていて、いささか大冒険のカタルシスを減じているようには思います。

 映像化されたプロジェクト・ヘイル・メアリーを見て、あらためて気づいたのは、いちどは70億人の同胞を見すてた者が、たったひとりの異星人のために、おのが生命を投げうつ決断をしたということで、私的な”良い物語”の条件である「始まりと終わりで、主人公がまったく別の場所に立つ」を、本作は物心ともにはたしていると言えるでしょう。こういった深い感慨をいだくのと同時に、昨今の世界情勢をかんがみるにつけ、たとえ地球滅亡の危機にさらされたとして、国家の枠組みを超えた人類の共闘は決して実現しないだろうという諦観もあります。作者のアンディ・ウィアーが続編の執筆を確約したとのことですが、本作のエンディングから時系列を延伸するのではなく、この世紀の名作が語り足りていない部分を「SIDEストラット」によって補完してくれることを望みます。