猫を起こさないように
年: <span>2021年</span>
年: 2021年

漫画「ブルーピリオド」感想(10巻まで)

 ありそうでなかった、美大受験漫画。しかも、大阪芸術大学や武蔵野美術大学みたいなシリツとちゃいまっせ、泣く子も黙るコクリツ様の東京藝術大学や! タイトルだけ見て、なぜか音楽漫画とカン違い(たぶん、ブルージャイアントのせい)してて、最近まで手に取っていませんでした。既存画家の贋作ディーラーを取り上げたりとか、作品ではなく芸大での学生生活を描いたりとか、最終回でハチミツを塗ったパンでクローバーを挟んだものを食わせたり(ネオンジェネシスばりの強引な伏線回収で、何より不味そう。犬の小便かかってそう)とかに「逃げて」ないんです。ガチで正面から、美大受験の作品制作にフォーカスしてるんです。なぜこのテーマがこれまで実現しなかったかと言えば、音楽漫画なら読者の経験におんぶだっこで、「この漫画、ページから音楽が聞こえる!」とかなんとか適当なことを言ってもらえますが、他ならぬ絵で実作品を描いて説得力ーー「たしかにこれは、東京藝大に現役合格する油絵だ!」ーーを持たせなくてはならず、いっさいのごまかしがきかないからでしょう。これまでの同系統の作品が、絵そのものは見せなかったり台詞だけで処理したりして、かわし手を使って読者の評価を避けてきた要素へ、正面から画力で組みに行っているのには「ブラヴォ!」の一言です。

 そして、描かれている物語がまた素晴らしい。「複数の人生の全長版が別々の場所に存在していて、それらのどこを切り取って並べれば書き手の伝えたいメッセージがいちばん伝わるか」という手法で作られており、美術に魅入られた人々が抱える本物の葛藤や人生の航跡にグイグイと引き込まれます。あと、女性の書き手に多いと思いますが、作者がキャラクターたちへ「適度に」優しいのも、物語にポジティブな印象を与えています。本作の主人公も闇堕ちみたいな方向へ進む分岐がいくつもあるんですけど、さりげなく作者が介助していって、彼にとって正しい人生のレールへと戻してくれる。この「愛」の量が作品の質を決めると思っていて(この語尾、大キライ)、これが増えすぎて「溺愛」になると、死ぬべきキャラが死ぬべき瞬間に死ねず、物語の停滞を招いてしまう。後期のグイン・サーガとベルセルクがまさにそうでしたね。イシドロがコルカスみたいになったり、シールケがキャスカみたいになったりするかもという読み手の緊張感は絶無でした(もしかすると、ブルーピリオドは現代劇で生き死にの問題にならないので、このくびきから逃れているのかもしれません)。

 シンエヴァ(またなの!)のストーリーテリングは本作の真逆で、「描きたい場面」と「言わせたい台詞」のために、キャラの自我をミートチョップでバラバラにしてから縫い合わせてて、死体を操演線であやつる死霊魔術みたいなものでした。ケンスケから釣竿を渡そうと声をかけられて、シンジがちょっと間をおいてから「そんなのできないよ」みたいな台詞を言う場面がありましたけど、ぜんぜん芝居がつながってるように聞こえなくて、初見のときになんだか異様な感じを覚えたんですよね。自我のミートチョップの例えから、声優の台詞を別撮りにするのは、素材として切り貼りの容易な音声データを作るためなんだといま気づきました。声優どうしでかけあいとかさせると、台詞と台詞に関係性が生じて芝居を分離できないから、コラージュの死霊術師にとって使い勝手が悪くなっちゃう。監督にとって最後のアニメ制作が、まさにネクロマンシーの秘術となってしまったことは、いつまでもいつまでも残念です。

 話をブルーピリオドに戻します。いま大学生編の文化祭のところを読んでますけど、学生生活の描写はあくまで箸休めで、ガチの作品作りとその苦悩にまた戻ってきてほしい。群像劇で長編化せず、主人公の苦悩へだけフォーカスしたまま、多くとも20巻くらいで終わってほしい。教授会が定刻通りに始まったことはなく(音楽学部は定刻10分前には全員そろうらしい)、卒業生の半数以上が就職せず行方不明になるという、一般人が畏敬の念を抱き、妄想をたくましくする東京藝大の魔性を見せてほしい。また勝手なことを放言しましたが、「これが終わるまでは生きる」リストへ、ひさしぶりに新たな作品が加わったことは事実です。でも、才能ある友人の悩みには、「もう大学生なんだから、家を出て下宿しろよ。それで解決する問題だろ」って、オジサン少し思っちゃうな。

雑文「あるライターへの公開処……書簡」

 なんかアニメ雑誌のライターみたいなアカウントにエア言及されてるっぽいツイートを見つけてしまう。「青年の自虐芸で売っていたテキストサイトの管理人がもういい年齢だろうのに昔と同じノリで活動してて痛々しい。人生ってなんだろうって思う」みたいな内容で、あれ、もしかしてコイツ、オレのこと言ってない? どう読み返しても周囲を見回しても、該当者が自分ひとりしかいない気がするなー。その一連のツイート、「その点、みじめになる前に自分から消えた本田透(なつかしい!)はえらかった」みたいに締めくくってあって、なんかすごいモヤモヤするっていうか、端的に言ってムカついた。まあ、せっかくの機会だし、まだ見ぬ別人物の可能性もゼロではないので、こっちもエアっぽくダラダラ所感を述べることとしましょう。

 「90%以上の時間、別の自我を演じて社会生活している」って話を以前しましたけど、ふだんの私は眉目秀麗品行方正明朗会計であり、世間様の求めに100%かなう、どこに出しても恥ずかしくない「昭和中期のコスプレ」のようなカタブツなのです。小鳥猊下から出てくる言葉の群れは、出す場所は無いが出さずにはいられない衝動とでも言いましょうか、古い例えで申し訳ないのですが、現役の判事が書いていたとウワサの「家畜人ヤプー」と同じ性質のものなのです。つまり、私のツイッターに記述されているのは、加工される前の「ナマの衝動」であり、現実には一滴も漏らされない廃液と言えるでしょう。少し話はそれますが、理系のバリキャリっぽい女性が10年以上にわたって「しっこ」とか「うんこ」みたいな発言しかしないーーときどき高度な数学の話をサラッとツイートしてドキッとさせられるーーアカウントがあるんですけど、その人物が現実で抱えているであろう責任の大きさや実社会での功績などを想像すると、ちょっと胃が痛くなる感じがあります。まあ、長い話を短く言えば、「ネットで固いこと言うヤツほど、現実がユルめでちゃんとできてないんじゃねえの?」ってことです。ツイートの中身がアホみたいなアカウントほど、中の人はリアル沼正三で、高い内圧を抜く目的でツイッターやってる感じがするんですよね。

 まあ、私はそこまでの域ではありませんけれど、小鳥猊下としてツイートするときにいつもイメージしてるのは、オタクの沼正三が書く「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」(あるいは「貧乏サヴァラン」)でしょうか。これ、晩年の森茉莉によるエッセイ集で、ときどき読み返すんですけど、いつもメチャクチャに絶望してるかメチャクチャに怒ってて、全編にわたってハチャメチャに面白い。「爬虫類みたいなタモリがテレビの画面に出てくるとゾーッとしてチャンネルを変えちゃう」みたいなことが平気で書いてあって、初めて読んだとき「ここまで正直に感じたことを書いていいんだ!」と目からウロコが落ちたのを覚えています。いまちょっとパラパラと読み返してて気づきましたけど、ほうぼうに話が飛ぶところとか、文体も内容も完全に影響下ですね。前にも言ったような気がするけど、ギャグ漫画家でデビューした人(唐突に話が飛んだ!)って、かなり高い確率で後期作品がド真面目のシリアスになる傾向があって、両親が体現する「常識」なるものへの反発から始まったはずの創作活動が、ままその重力圏を突破できず引き返してしまうのは、世間に顔向けできる内容で他ならぬ「両親に認められたい」という欲求が芽生えるからだと思うんですよね。

 ようやく話が冒頭に戻りますが、このライターもはぐれ者のはみだし者として、ローンウルフの自己定義から始まった稼業を「真面目にコツコツ、世間に頭を下げて、イヤなことも厭わず」続けて生き残っていくうち、マジョリティ側に自意識を融合させていったのだろうと想像するのです。私に言わせれば、そんな場所にたどりつくくらいなら最初から公務員か銀行員でもやってろって話ですが、「いい加減で、がんばらず、まっとうでない」ように見えるヤツに対してどこか非難めいた視点を持ってて、長年にわたって自分がさらされ続けてきた両親からのそれと半ば同化しているように見えます。たぶん、本人も自覚してないと思うんですけど、「いつまでフラフラと浮き草家業をやっとるつもりだ! とっとと身を固めて親を安心させようと思わんのか、バカモン!」みたいな昭和のステテコ雷オヤジの叱責を内在化させてて、反発したけれど否定はできないでいる、その絶対の律法へ従わないふるまいへ、当該のツイート群は個人的な不快感を表明しているように感じられました。「オレはこんなにも我慢(シンエヴァへの悪口とか?)して真面目にやってるのに、コイツはいつまでもいつまでも匿名で好き勝手な放言ばっかりしやがって! もっと正しく人生をやれ! 人生ってのはな、もっと真剣なもんなんだよ!(そうかあ?)」という無意識のやっかみと声にならない説教が、面識もない相手をロウ・ライフ(アット・リースト・ロウワー・ザン・ミー)へとカテゴライズしようとする心の動きになったのではないでしょうか。知らんけど。

 私なんかは、我慢せずに言いたいこと言えばいいのにとか思ってしまうわけですが、ここまで書いてきてピンときたんですけど、もしかするとこのライターは何かの拍子に「:呪」を読んでしまい、語られている内容が気に食わない、あるいはうらやましいーー立場上、作品に文句をつけるわけにはいかないーーから、どうしようもなく人格攻撃的なエアリプへと転じたのではないでしょうか(そうとでも考えなければ、からまれる理由がない)。だとすれば、これほど悲しいことはありません。つくづく、シンエヴァというのは罪な作品ですね。ファンの間に分断をしか生まず、人間関係をギスギスさせ、おおっぴらに意見を交換することさえ、ついには公式に封じられてしまったのですから! シン・ゴジラが監督の正のポテンシャルを最大限に発揮した傑作とするなら、シンエヴァは監督の負のポテンシャルを最大限に発揮した駄作で、この2作品はまさに究極の陰陽をなしてますね。結論として導かれたのは、「ぜんぶ、シンエヴァのせい」。おあとがよろしいようで。

雑文「マシリト&ウラケン対談」感想

 雑文「ベルセルク未完に寄せて」

 先のツイート群でちょろっと紹介したマシリトとウラケンの対談ですけど、ベルセルクのファンを自認するなら読んでおいた方がいいですよ。これ、ウラケンから対談を申し入れたんですけど、「大好きな『北斗の拳』を手がけた名物編集者から話を聞きたい」「新しい代表取締役から『ベルセルク』がどう処遇されるか探りたい」「だれも意見をしなくなった自作品の客観的な評価が知りたい」の3つの欲望がないまぜになった、玄妙極まる空気感が行間からビンビン伝わってくるのです。社長とチョクで面識を持つことで、懐に入りこむ意図もあったと思うんですけど、マシリトは白泉社の大看板としての商品価値を微塵も忖度せず、漫画作品としてのベルセルクをド正面から唐竹割でまっぷたつに切り捨て、「とっとと終わらせて、次の作品を書くべき」とまで言い放つのが痛快きわまりない。数少ないホンモノの「深海魚」であるマシリトの凄みと、蝕という一発芸だけで30年におよぶ連載を無批判に許してもらっていることをどこか後ろめたく思う「殿様(PDF)」の怯懦が対比され、思わず口元がほころんでしまうバツグンの読み味なのです。これを読んだあと、もしかするとベルセルクが絵画作品から漫画作品へと回帰するのではないかと一瞬だけ期待しましたが、まあ気のせいでしたねー。

 きのう紹介したマシリトとの対談を読み返したんだけど、まー強烈ですね。「なんで蝕なんか描いたの?」「漫画家として寿命が伸びると思ったので」「僕と出会っていれば(蝕を描かなければ)もっと寿命が伸びたのに!」ってやりとり、すごくないですか? つまり商品価値は認めるものの、漫画家として「お前はもう死んでいる」と正面から宣告してるようなもんじゃないですか! 白泉社の会長になってからのインタビューでも、キャスカ復活のことをふられて、「読んでないし、興味ない。ベルセルクは蝕で終わってるから」みたいなそっけない返答をしてて、ウラケンとの対談がオブラートに包んだ会話(あれで!)だったことがわかります。カイチョー、自社の商品でっせ! あんさん、どこまで自分に正直だんねん!

 でもまあ、ほとんどのファンが薄々は感じていたことですよね。いま「惜しまれて去るレジェンド」みたいな空気ありますけど、私を含めて13巻までを思春期に体験した者たちの思い出補正が強くて、漫画としての客観的な評価はマシリトが正しいのかもしれません。

 ベルセルク20巻くらいまで読んでる家人にウラケンの訃報を伝えたら、第一声が「だれ? 俳優?」でした。漫画家であることと同作の未完を伝えたら、「え、まだ終わってなかったん?」でした。うーん、温度差。小鳥猊下です。

 訃報に寄せたみなさんの嘆きとか読んでるんですけど、「死ぬまでに頭の中にあるものを描ききれるかわからない」という作者の言葉を真に受けてる人がけっこう多いのに驚きます。あれ、映画監督が最高傑作はどれか聞かれて、「次の作品だ」と答えるのと同じリップサービスだと思いますよ。あと、グイン・サーガ方式で別の書き手に続きをゆだねる案も見かけましたけど、カイチョーが許さないんじゃないかなあ。

 「ベルセルクは20年前に終わっています。どうしてもファンタジー作品を掲載したいというなら、次のベルセルクを探すか育てるかしてください。41巻は欠番になっている話を巻末に収録して、最終巻として発売します。私からは以上」くらいの感じでシンパの編集者たちを封殺してそう。知らんけど。

 「もっと言うと、背景はいらないです」。ここ20年のベルセルク全否定! チ、チビシーッ! 小鳥猊下であるッ!

 あのインタビュー再読してて感じたんですけど、自分よりも辛辣なことを言ってくれる人がいると、自分が言わなくてもよくなるっていうか、それこそちょっと擁護側にまわったりしていい人ぶれるっていうか、すごく気持ちが楽になりますね! 私の「:呪」も、そんな感じで広まったのだろうことが、なんとなくわかりました。

雑文「ベルセルク未完に寄せて」

 訃報にふれた第一声は、「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」でした(関西弁だったけど)。私にとってのベルセルクは、スペースシャトル(様の宇宙船)だったかなー。ノロノロつたない導入部からグングン作画力と演出力が加速し、「蝕」と重なったそのピークの爆発力で重力をふりきって成層圏まで一気に垂直上昇、「ロストチルドレン」で機体が平行に戻ったあとは衛星軌道に乗って、遠くでゆっくりと時間をかけて同じところをグルグル回っている、そんなイメージです。

 ドクター・マシリトが作者との対談で、「僕が担当なら蝕のシーンはぜったいに描かせない。若いうちにあれを描いてしまったら、作家として終わる」みたいなことを語ってて、本当に慧眼だったなーと改めて思わされました。ドラクエで例えると、レベル50ぐらいまでの到達とラスボスの打倒をバランスのいいテンポと長さで語るのが、良い少年漫画の基本系だと思うんですよね。昔の作品ならダイの大冒険あたり、最近の作品なら鬼滅の刃がそれに当たるでしょう。ベルセルクって、過去編というかなり早い段階で「蝕」を出してしまい、つまり一足飛びにレベル99へ到達してしまい、運営5年目のアプリゲーぐらいの煮詰まり方から現代編を語らなければならなくなってしまった。これに対する作者の回答は、「物語の失速を、画面の密度を際限なく高めていくことで相殺する」であり、運営10年目のMMORPGみたいに「レベル上限をさわれないので、装備数値の小幅な更新で成長を演出する」のと同じ袋小路に入りこんだ感がありました。少年漫画の歴史は長くないーー老舗のジャンプさえ50年ほどーーがゆえに、これまで顕在化してこなかった「連載の長期化と作者の寿命」という問題が、主に高齢化する読者側の不安として近年は浮上してきており、今回はそれが現実のものとなってしまいました。

 いち時代を築く作品というのは、作者がそれを受け止めるだけの充分な研鑽と才能の器を持っていることを大前提としながら、やはり「選ばれて与えられ、語ることを許される」特別な物語だと思うのです。それを語ることは古代のシャーマンがする神おろしのトランスであり、生命を燃やして歌い踊ることで日常を越えた何かの存在を、我々凡夫にもわかるよう伝えてくれるのです。そして同時に、神の依り代となった者は神が身内を満たしているうちに、与えられた物語を語り終える義務があるとも思うのです。長すぎる物語の語り手が、この義務を果たしたケースを私は寡聞にして聞いたことがありません。道半ばに生命を燃やし尽くして倒れるか、もう身内の神は失せているのに、神が共にあるふりをして踊っているかのどちらかしかない。古い世代の例えで言うなら、ベルセルクはまずデビルマンとしていったん短く苛烈に終わるべきだったのに、どの時点からかバイオレンスジャックへと語り方が移行してしまった(脇道であるギガントマキアの世界も、連載が続けばおそらく枝葉として統合されていったと思います)。

 少し話がそれますけど、こないだチェンソーマンをぜんぶ読んだんです。まー、これがものすごい速度の漫画でした。本当ならだれもついていけないような速さなのに、読者側の漫画リテラシーというか、フィクション受容能力が昔に比べて格段に上がっているので、作品側が読み手の読解へじかに融合してくるような形で行間を補完させて、わずか11巻という短さであの規模の話を強引に語り切る終わり方をしていて、少年漫画の文化的成熟を前提にした全く新しい作品が出てきたなと思いました。これだけ短いのに、チェンソーマンがハンバーガー屋に客で来るギャグみたいな小噺も混ぜてあって、従来の文脈から登場したのではない、異質の凄みを感じました。「速すぎて短すぎるのにちょうどいい長さ」って、ほんと良い少年漫画の定義を真正面からブッ壊すようなイレギュラーだと思います。

 え、紆余曲折あったけど、ちゃんと物語を終わらせたシンエヴァはえらいですね、だって? バカ、シンエヴァなんかをベルセルクといっしょにするなよ! たしかに狂戦士の甲冑はあからさまにエヴァ初号機のイメージをパクッてたけど、あれはテレビ版19話までの影響で、新劇はぜんぜん関係ないだろ! 完結まで25年もあったけど実働は5年ぐらいのものだろうし、神おろしの巫女が見事に舞台を務めて去ったあとの神社で、境内を掃いていただけの下男のオッサンが脱ぎ捨てられた巫女服をひろって身に着けて、キショク悪いアンコウ踊りをクネクネ踊っていただけだろ! だれかのレビューを読んでからしか作品の評価ができない貧相な感性を振り回すの、もういい加減にしろよ!

 まあでも、初老をこえたら前触れなく死ぬことはふつうにありますね。最近、私が(nWoなりに)頻繁にツイートをしているのは、現世からカネをかすめとるために90%以上の時間、自我を消滅させて生きているため、私の内側にある何が外で起きても変わらない本質をどこかへ残しておきたいという欲求がさせているのでしょう。そしてその欲求は、「ある日、突然に死ぬ」ということが思春期の甘い妄想ではなく、中年の生々しい現実として実感されてきたからです。頭の中にしかない、「こういう文章で感情を表現しておきたい」というモヤモヤしたものが吐き出されないまま死んだら、地縛霊にでもなりそうな気さえします。

 いまの夢は半世紀ほど経って、テキストサイトムラの住人たちがことごとく死に絶えてから、最後のひとりとして小鳥猊下の権威を高めるためだけに、あることないこと語りまくってやることです。アンタたち、せいぜい長生きしなさいよ! アタシより先に死んだりなんかしたら、アンタたちの悪口をふきまくってやるんだから!(アスカ? いいえ、ダイワスカーレットです。なぜかアスカは、私の中からいなくなってしまったので……)

質問:「ば、馬鹿ッ! 本当に死ぬヤツがあるかッ!」ここ、どんな関西弁だったんですか?
回答:「アホか、なに死んどんねん!」です。関西弁、あったかいナリ……。

 雑文「マシリト&ウラケン対談」感想

アニメ「無職転生」感想

 (ウマ娘の)イベントとレースをすべてスキップして育成を周回する傍らで、アマプラの「無職転生」をぜんぶ見る。評判どおりアニメの出来がいいし、長めに尺を使ったストーリーの転がし方がいいし、何より丁寧にファンタジー世界として舞台を描写しているのがいい。ただ、これらの要素が良いだけに、「転生」って要素いるの?と思ってしまった。現代人の自我でツッコミながらじゃないと受容できないほどハイファンタジーが廃れてしまったのか、はたまた「前世の主人公」と同じ立場の人物を視聴者に想定しているのか、どっちなんだろう。後者だとすれば、すでに現実では手遅れになった自分をファンタジー世界内で心身ともに「育て直している」という視点が否応に入ってきてしまう。そうなると、正しい生育史と社会状況さえあれば自分はうまくやれたというファンタジー、つまり「環境で魂はたわまない」というファンタジーが二重に入ってきて、すごく成長譚としての受け止め方を濁らせる感じがある。実は原作がこの点に意識的で、続くシリーズで「転生」という設定が話の根幹に関わってきて、何らかの形で正しく解消されるなら何も言うことはありませんけど。

 ツイッターで好評を見かけたから視聴しましたけど、タイトルは完全に内容と乖離していますよね。魅力的なファンタジー作品なのに、転生にまつわる要素がリーチすべき層への参入障壁になってる気がします。あと「性の問題を正面から扱ってる!」みたいな評も見ましたが、「そうかあ?」って感じです。

 テキトーにしゃべりますけど、日本のファンタジーはドラクエ由来で一人称、西洋のファンタジーは歴史由来で三人称だからじゃないですかね。ハイファンタジーにはNHK大河ドラマ的な視聴の仕方が求められるのに受け手にその準備が無いか、そもそも想定される観客には届いてないっていう。

雑文「人気作品に学ぶ『ループ』と『転生』の正体について」
雑文「ファミコン世代と『ループ』『転生』の病理について」

雑文「初期のウィザードリィについて」

 数年に一度、むしょうにウィザードリィがプレイしたくなることがあって、ざっと調べてみたんですけど、このシリーズって完全に廃れちゃったんですねえ。Steamでさえ、コズミックフォージ以降しか販売していない。まあ、スペック的な制約がゲームの枠組みを作っていたという性質があり、新規層の流入が期待できないので先細るしかないというのはわかりますが、ここまでとは思っていませんでした。

 同シリーズでいちばん繰り返しプレイしたのはファミコン版の2(攻略に善悪の2パーティ必要なヤツ)で、キャンプの音楽を聞くと社宅で過ごす日曜の午後に漂っていた空気が、いまでも胸中によみがえってきます。いちばん好きなのはゲームボーイ版の外伝2で、出色の仕上がりのイマジネーションズ・ガイドブックなる攻略本が世界観を補強していて、幾度も読み返しながらプレイしたことを思い出しました。リメイクされないかなーと思い続けて、はや30年(30年!)近くが経過しましたが、その日はどうやら訪れそうにありません。

ゲーム「2021年の艦これ」雑文集

アニメ「艦これ1話」感想
ゲーム「艦これ2014夏イベント」感想
ゲーム「艦これ2019夏イベント」感想
ゲーム「艦これ2019秋イベント」感想
雑文「或るおたくの症例(艦これ2020年秋イベント実録)」

 艦これ、アルコールを入れつつ日課の演習消化へ取りかかろうとして、警戒陣の追加に新たなイベントが始まったことを知る。一瞬で酔いは醒め、肌がヒリついた。いま「世界で最もプレイしたくないゲームは何か」と尋ねられれば、答えは間違いなく「艦これ」だろう。そんなにイヤなら、やめればいいのにって? ハハッ、ラブリーなアドバイスをありがとう。「FF11は人生」になぞらえるなら、「艦これは刑期」なのさ。

 潰しても潰しても、ゴキブリみたいに次から次へと出現するゲージにゲンナリする。あのさあ、中規模イベントの「中規模」って、どういう意味で使ってんの? 何度も何度も出撃させられて、キンキン声の砲撃戦を見せられるイライラったらないんだけど、どうせ内部的には接敵の瞬間に戦闘結果が出てるんでしょ? 艦これイベントへの苛立ちの大部分って、チンチロで例えるなら「シゴロが出るまでサイコロを振り続けろ」みたいな回数の試行を求められるのに、過程の90%が見ているだけで介入できないところに起因してると思う。「3倍速」「オート進軍」「戦闘スキップ」の機能が実装されれば、イベント海域のストレスは(私にとって)大幅に軽減することでしょう。

 よしッ、第3海域のボスゲージ破壊ッ! いやー、乙かれ(笑)さまでした! これであと三ヶ月は艦これに触らなくていいと思うと、清々しい気持ちで目頭が熱くなってきますね! 他のすべては最悪ですが、この解放感だけはいつも最高です! もちろん、攻略の過程で新規ドロップ艦が手に入るなんて望外の幸運にはめぐまれていませんが、潜水艦と駆逐艦は戦力的にもう飽和状態で必要ないし、理由はわかんないんですけど「マキナミ」って艦名がすごい不快感を呼び起こすので、私のイベント攻略はこれにて終了です!

 ……え、まだ後段作戦あるの? もう2海域ほど追加されるって? あのさあ、もういちど聞くけど、「中規模」ってどういう意味で使ってんの? 1海域あたり3〜4ゲージあるのを5海域って、イベント毎にどんどん規模が肥大していってんだけど、とりあえず「大規模」の定義を教えといてくれる? 今後のつきあい方を考えさせてもらいますので!

 あと突然の近況報告ですけど、半年ぶりくらいにマウスとキーボードを新調することになりました。(イヤそうに)もしかして、また艦これですか? (悲しそうに)そう、また艦これです。イー・フォーの第4(第4!)ゲージ破壊、昼間に敵旗艦を大破まで追い込んでの夜戦突入、さらに第二艦隊は無傷で、「これはもらった!」と息まいていたらカットインまでぜんぶカスダメ、装甲破壊ギミックも解除してんのに、残りHP2が削りきれずガシャン。はい、ここでいまは懐かしい、あのキーボード・クラッシャーの動画を思い浮かべて下さい。我にかえったら、なぜかマウスとキーボードが反応しなくなっていました。ヘヘ……ちくしょオォ……どうしてオレって奴あよオォ……ちくしょオォ……(魔物のパイオツに顔をうずめながら)。

 ゲージ、ギミック、ゲージ、ギミック、ギミック、ギミック、ゲージ、ギミック……ウオアアァァァーーッ! 小鳥猊下であるッ!

 艦これ春イベ(春なの?)、乙乙乙乙乙にてクリア。「神はサイコロをふらない」って言葉がありますけど、艦これのイベント海域って、サイコロをふりまくる神がへべれけでチンチロをションベンさせまくってるような印象です。今度こそ、本当にこの苦役から解放され……え、E5のドロップ艦って、宗谷なの? 巻波はなんか音の響きがイヤなので(理由はわからない)無視したけど、「南極のタロとジロ」を音読して号泣する大人へ「え、なにコイツ? なんで泣いてんの? 怖ッ!」と白けた視線を向けていた子どもとしては、宗谷を引かずばなるまい。リキ、行くぞ(老齢の犬が億劫そうにまぶたを上げる)!

 うん? 艦これのイベントやってないんですかって? 最近、私の死因は艦これ由来の脳出血か大動脈解離ではないかと半ば本気で恐れているため、できるだけ意識に上せないよう、言語化せぬようにプレイしており、菩提樹の下で魔羅にウザがらみされながら結跏趺坐を崩さぬ釈尊の修行みたいになっている。現在、E3-4のゲージ破壊に着手しており、体感で9割以上となる夜戦マスでの大破撤退に、悟りの完成は近い。乙難度にも関わらず、使用したバケツは1,000近く、消費した燃料は150,000を優に越えており、小規模とは名ばかりの、過去最低のイベントだと断言することに何のためらいもございません。

 艦これ夏イベ、友軍を待たずに乙乙丙にてクリア(友軍を待っていたら、どこかの血管が破れて死ぬと思ったので)。以前、モンハンワールドだったかの感想で「レベル50で激闘、レベル99で楽勝だったのが、いまやレベル99がゼロ地点でそこから高い技量を求められる」って書いたけど、今回のイベントもまさにそんな感じですね。「前回までの甲難易度クリア報酬やランカー装備を漏れなく所持し、艦娘はケッコンしてできるだけ高いレベルにして、装備改修とステータス改修を上限に近づけておく」が攻略の前提にされてるので、総体としての難易度が甲に引っ張られる形でずっと上がり続けてるんですよね。いよいよサービス終了に向けて、カジュアル・プレイヤーを振り落としにかかっているのではないかと疑うほどです。今回、はじめて丙に落としてクリアしましたけど、体感的にはそれでも前回の乙ぐらいの難易度はあったような気がします。FF14にも感じたことですが、「レベル99で最強装備」が攻略の前提であるゲームが増えてきたのは、まともなレベルデザインをできる人材がそのノウハウをどこにも残さず、業界から姿を消してしまったからなのでしょうか。昔のゲームは「下手でも時間をかければ報われる」ように作られていましたけど、最近のゲームは「時間をかけても報われるとは限らない」ものばかりで、人生の残り時間が気になる世代にとって、怖くて新しく始められないものばかりになってきています。「じゅぢちゅ廻戦は面白そうだけど、若い作家の長編はもう怖くてさわれない」という話を以前しましたが、「作者が死んで、もう続きが見れない」なら、まだ気持ちの整理をつけようがありますが、「自分が死んで、もう続きが見れない」なんてことになれば、怨霊として化けて出るしかありません。オタク趣味が市民権を得た結果、息ぬきの娯楽や気軽なエンタメに過ぎなかったものが、あまりに人生の時間や労力を多く要求する方向に進んでいる気がします。「鬼滅の刃」や「チェンソーマン」の素晴らしさは、この観点からも説明できると思いました。

ゲーム「2021年のFGO」雑文集

ゲーム「2020年のFGO」雑文集

 鬼一(キーチ)VS

 FGO、カレンというのは過去作の人気キャラのようですね。冒頭部分のシナリオがファンガス直筆なので、もちろん引かせていただいております。ギャグ時空でのファンガスの文章はおそろしく精緻で、ほとんど凝視しながらゆっくり読み進めますが、一文字たりとも改変の余地がありません。感嘆のため息が出ます。いまは失われた、薄いナイフの刃さえ通さない、古代の石垣積みの技術のようです。FGOのガチャ、少なくともここ半年は課金していませんが、新規の星5はすべて持っています。法具レベルにこだわりがない(1で充分)のと、サービス開始当初からプレイしており、最近のガチャは復刻が優勢で新キャラの投入が間遠なので、配布された石とか呼符だけで引いてしまいます。おや、「引けて」ではなく「引いて」と表現したことが気にかかりましたか。FGOのガチャは漫然と引くのではなく、意志を持って引くのです。詳しくは、この記事をご覧ください。これ以上の戦略は社外秘となりますので、萌え画像を寄贈いただいた方にのみ、特別にお伝えしております。寄贈先はこちら(geikakotori@gmail.com)。

 油断すると手がエヴァに関する文章を書き始めてしまうため、気持ちをもぎはなすようにエフジーオーのイベントをやってる。テキスト部分のボリュームこそ少ないものの、各キャラの特徴をブレずに芯でとらえた、ファンガスの手による正しいギャグ時空で、最後にはちょっとシリアスからの、ホロリとさせる落とし方もうまい。フランケンシュタインとかピグマリオンとか、「人形が魂を得る」というモチーフーーつまりは、支配的な親と隷属する子どもーーに昔から弱いこともありますが、ありていに言ってとても感動しました。しかしながら、クリア後の裏面が丸々100階も用意されてるのには、サービスのつもりかもしれませんが、正直ゲンナリです。所持サーバントの数が多いほど有利になるのは古参への目くばせでしょうけど、実装されたキャラは90%近く持っていて、NP100礼装も3枚そろってて、120円玉も躊躇なく連コインできる富豪の私でさえ、こんなにもプレイするのがダルい。いい加減サブスク方式でいいから、宝具スキップさせてよ、もう! このイベント、新しく入ってきた人はどんなふうに感じてるでしょうね。ウマ娘やりてーなー、とか愚痴りながらテキトーに編成して宝具ボタンを3回押す作業を延々と繰り返すのって、まさに「コンコルド効果」の最たるものですよねー。

 FGOの例のSLG、AIのアホさをマップの形状でカバーしたりして、だいぶ中身がこなれてきたんですけど、歯ごたえが高まれば高まるほど、べつに私はこのゲームをプレイしたいわけじゃないなー、報酬のために消化するのがただただめんどくさいなー、という気持ちになってきました。小鳥猊下です。

 とばっちりだけど、FGOも宝具スキップが無いという点だけで、一定数の客を失ってしまっている気がします。ウマ娘のスキル発動で「1日1回だけフルで見せて、残りは短縮表示する」みたいな設定があるんだけど、これを見習うといいんじゃないでしょうか。

 FGO第2部6章、ひさしぶりに星5を引けなかったが、ダビンチちゃん、おじいちゃん、キャスドラゴンちゃんはすでに弊カルデアへの招聘を済ませている。つまり、今回のハイペリオン的な巡礼の旅へ参加するメンツに過不足は無く、序盤の現在で、神造兵器「ユキチ・フクザワ」を投入すべき理由は皆無だ。それどころか、すごい勢いで宝具が回転しまくるため、120円玉の連コインさえまったく必要ないぐらいである。しかしながら、半年にわたってシンエヴァへの呪詛を吐きちらしている裏で、ファンガスがかような物語をコツコツと紡いでいたかと思うと、己の不明を恥じ入ることしきりである。ていねいに文字数を費やして、あるキャラクターとその背景をビルドアップしながら、たった1行で殺す。そのするどい切れ味には、なまくらな物語への自分語りでひん曲がった背筋が、すっくと伸びる思いです。

 FGO第2部6章、ときどきマテリアルに戻って再読したりしながら、一文一文を読み落とさないよう解釈しつつ、ゆっくりと進めてる。ファンガスの語る設定のみがこの世界における真実であり、その意味で他の書き手とは一文に込められた情報量がまったく異なるからだ。そして、第1部7章にも感じたことですが、本当に彼はFC・SFC時代のRPG的な組み立てが好きですね。まだ序盤ですが「妖精たちとゼロから始めるアーサー王伝説」といった切り口で、どのような終局へと突き進んでいくのか、大いに興味をかきたてられます。処女作に厚みを持たせるために用意された、作品内に直接は登場しない世界設定集ってあるじゃないですか。例えば初期のランスシリーズがまさにそれで、あちらは30年かけて設定のほぼすべてを作品内で回収しました(余談ながら、回収しなかったのが「スレイヤーズ!」で、回収できなかったのが「ベルセルク」)。型月世界っていうんですか? wikiを眺めると、コアなファンだけが知っている世界設定が無数にあって、でもファン自身も肝心の書き手が一人しかおらず、しかも超遅筆なこともあいまって、どれも回収されることなく終わるんだろうなーって、薄々どこかで感じてたと思うんです。それが、FGOのすさまじいヒットーーコアなファンのものという枠組みを越えて、無印Fateを「長いなー」と感じながら、王様の話だけクリアしたぐらいの人物にもリーチしたーーで状況が大きく変わった。書き手が目に見える巨大なカネによって評価を実感し、物語をつむぐスピードを急加速させたのです。noteに数百円くらいを課金されただけでうれしくなって何か書こうと思うくらいですから、百億円など売り上げようものなら、「この物語を紡ぐことは、時代が私に要請する使命だ」ぐらいに考えても不思議はありません。

 さらにFGOの大ヒットがプラスに働いたのは物語スケールの転換で、それまで書き手がどこかで囚われ、無意識の枷としていた「ある地方都市での伝奇譚」というくびきから、完全に解き放たれた点だと指摘できるでしょう。日常的な生活の舞台では披歴のしようも無かった設定を、人類史にまたがるFGOの物語スケールなら回収することができる。第1部6章、7章、終章と物語を進めるうちに、書き手がそこへ確信を深めたのだと推測します。第2部4章、5章後半(前半はクソクソのクソ)、そして公開された6章と、どんどん世界の謎の深奥へと接近していく手触りがあります。「星の内海」とか、字面を眺めているだけでもワクワクする。

 ただひとつ残念なのは、「スマホで読む世界文学」として胸を張って推奨できるFGOも、アニメ化されるとなぜかパッとしなくなってしまうところです。どれも恥ずかしくて、人に薦められないものになっちゃう。直近の第1部6章映画化の興収も、ファンの感じているこの空気を裏付ける感じで推移しているように見えます。これは、RPGでいうところの序盤から中盤を丁寧に描写したいファンガスの資質ーーそれが終盤の爆発的カタルシスにつながるーーを、前編・後編という長さに落としこんだ結果、映画としては間のびしてしまったからだろうと思います。ファンガスのシナリオを刈りこんで、映像作品として再構成し直す手腕を持つ人物が必要なのでしょう。ともあれ、第3部に懐疑的な私は、「罪と罰」の雑誌連載をリアルタイムで追うことのできた読者の気持ちで、残りページの方が少なくなった物語を惜しむように読み進めている次第です。

 FGO第2部6章、6月実装分までクリア。前後編に分割するというから、FF6でいうところの世界崩壊のようなマップが激変するイベントが区切りになるのだろうと勝手に想像していました。「モルガンは中ボスに過ぎず、ラスボスの顔見せで引き」みたいに、演出のための前後編だと期待していたのです。そしたら、なんとも中途半端なところでストーリーがブツ切りにされていて、単純にテキスト・ライティングか演出の実装が間に合っていないだけのことが露呈しました。ファンガスの筆ならいくらでも待つので、こういうしょうもないところの印象で作品の価値を下げない方がいいですよ。誤解のないよう言っておくと、ストーリー自体はさすがの面白さでした。

 アヴァロン・ル・フェ、聖杯の入手までクリア。現段階の感想としては、「はァ? 重課金ユーザーを虚仮にすんのも、ええ加減にしとけよ。情動オナニーの絶頂を寸止めされんの、すげえイラつくわ」。

 ひと晩たってアルコールも抜け、冷静になったのでFGO追記。第6章全体の感想はエピローグまで終わってからにしますが、「カルデアの存在が人類史における剪定事象」という結論に向けて物語が進んでいる気がします。「FGOの冒険はすべて無かったことになる」のが、サービス終了と同時に描かれれば、この上なく美しいエンディングとなるでしょう。全盛期より売り上げを落としたとは言いながら、複数の会社の存立にまで食い込んだ巨大IPを、クリエイターの一存で終わらせることができるのかという難題は残ります。しかし、ファンガスは書き手として、「美しさに抗えない人」だと思うのです。彼が一貫して描いてきたのは、「いちど失われたものは取り戻せず、残された美しい思い出こそが人の崇高さの証である」というメッセージです。はたしてFGOは、「大きな喪失感とともに、ユーザーの記憶にだけ残り続ける気高い物語」として終わることができるのでしょうか。

 FGO第2部6章、演出かライティングの実装が間に合っていないか、ファンガスがエゴサで阿鼻叫喚の感想を読み漁りたいか、いずれかの理由から再びおあずけを食らっているため、溜まりに溜まった「幕間の物語」をイヤイヤ読んでる。体感で98%以上がハズレのテキストで、自分が頭の悪いジャリ向けの集金アプリにいれあげていることを改めて突きつけられ、暗澹たる気持ちになってくる。そして、見かけは渋面のまま心を弛緩させていたら、カイニスの幕間がファンガスの筆で書かれていて、涙腺にクリティカルヒットした。これがあるから、すべての「幕間の物語」にとりあえず目を通さないわけにはいかないのです。おそらくFGOユーザーのうちの少なくない数が、「あとで読むから」と言い訳しながら、報酬やスキル強化のためだけに幕間を全スキップしてると思うんですよ。そうして、アプリ外で行われる可処分時間の戦争から、あとで読まれることは決してない。カイニスの挿話とかが多くの目に触れず消えていくのはあまりに切ないので、ファンガスが書いた幕間だけ金枠とかつけて明示してはいかがでしょうか。星1と星5しか入ってないテキストガチャを延々と引かされるの、いい加減しんどいです。

 FGO第2部6章読了。古くからのFateファンは「来い、キャスター!」にウレションしてるんでしょうねー。詳しい感想は、また後日。それにしても、「成長や到達に、意思や信念が伴うことへの疑念」って、無印Fateとは真逆のテーマになってて、これは奇しくもファンガス自身が英霊(筆一本で百億を叩き出す、テキスト界のスーパースター!)と化した事実に呼応していると感じました。そして、「物語を現実の下に置き、現実の高所から物語を批評して、語り終えた物語は忘れられる」という恨み節は、シンエヴァへ向けられたものでしょう。あんなアンチ・フィクションが、「忘れられずに残る」ことが許せないに違いありません。知らんけど。

 第2部6章、気になった細かい点を2つ。モルガンとパーヴァン・シーにまつわる顛末がまったく無かったのには、少し拍子抜けしました。ケルヌンノスの神核が剥き出しになったところで、その挿話がネットリ始まると思って身構えていたのに! まあ、パーヴァン・シー自体がどこまで行っても「自傷行為をやめられない十代の少女」を拡大したキャラでしかなく、この母娘のすれ違いを新たな厄災として詳細に描写する意義が、いまのファンガス(アラフィフくらい?)には、もはや感じられなかったのかもしれません。期待の超大型人非人・ベリルに関して、マシュの過去(と純潔)を汚さないため、持ち味のモンスター感が大幅に抑制されてしまったのには、残念の一言です。彼の退場に漏れた声は、「え、それだけ?」でした。ここはまあ、二次創作で盛大に補完されることを期待しましょう。

 FGO第2部6章の感想、もっとくわしく聞きたい?
 よかろう、続けたまえ。当方に、拝聴の準備あり。60%
 まだクリアしてないんで、しばらく待って下さい。6.7%
 シンエヴァへのディスりが聞けるなら、あるいは。33.3%

 アンケート結果を見ると、まだクリアしていない方がおられるようなので、今晩まで待つことにします。5時間が秒で消える戴冠式なので、安心ですね。

 そうそう、こないだFGO6周年でレベル上限が120になったじゃないですか。「よーし、6年連続ログインしている重課金者のたしなみとして、パーフェクトキャラを作っちゃうぞー」などと息まいて、さっそく1体レベル102にして星5種火を20個つっこんだら、経験値ゲージが数ミリしか動かないの。これってつまり、新設された星5種火周回を数百回単位でやらないと最大レベルにはできないってことなのね。まあ、今回の成長要素追加って、対人要素があるわけでもないし、運営からのサービスの側面が強いと思うんですけど、正直なえました。戦術や敗北の要素が絶無の種火周回って、虚無そのものの作業じゃないですか。せめてこのタイミングで宝具スキップをあわせて導入してくれていれば、印象も違ったように思います。などと愚痴りながらも、じつは1キャラだけレベル120に到達してるんですよねー。唐突にFF11の近況報告をしておくと、3キャラ目が仕上がってきたので、ラスボスよりも強いカニと魚で延々とジョブポ稼ぎをやっています。1キャラ目と2キャラ目のウェポンスキルで連携つくって、3キャラ目でマジックバーストを2回いれる作業でけっこう忙しいんですけど、慣れてくるとTP待ちで手と脳がヒマになる時間が数秒あるんですよね。この隙間にFGOの星5種火周回を入れると、ピッタリとハマりました。休みの日も業務が頭に浮かぶタイプの社畜なのですが、完全に思考を消した作業マシンと化すことで、ひさしぶりにノーストレスの時間を過ごすことができました。ジョブポ500くらいのキャラがカンストするのとレベル120到達が同時くらいでしたので、まさに「いにしえのMMORPG」と同水準のタイム・コンシューミングな延命方法だと言えましょう。FF11に関わったスタッフがFGO関係者にいるみたいな話をどこかで目にしたことがありますので、今回の仕様もむべなるかなといったところでしょうか。第2部の終わりで所持サーヴァントごと新アプリへと移行させるとき(風説の流布)には、宝具スキップを含めて感性をアップデートしてほしいものです。

 ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO夏イベ、かつてのテキストサイトを思わせる悪ノリ文章がたいへんに面白く、まさしく年に一度のお祭りって感じで大いに楽しんでいる。しかしながら、このイベントの真の目的はダビンチさんを配布することにこそあるのだと指摘しておこう。え、アヴァロン・ル・フェが終わったのに、ダ・ヴィンチ表記に戻さないんですかって? バカヤロウ! 俺が彼女に向ける視線は、いわば矢吹丈を見つめる鑑別所のモブ、妖精国のマイクさんのそれと完全に同化してしまってんだよ! あれだけ何度も意味深にピックアップしてきたのに、いまだにライダビンチさんを引けていない甲斐性なしのボンクラどもへ業を煮やしたファンガスが、ただあとから奪うためだけに水着ダビンチさんをてめえらに下賜くださってるんだよ(この文、傍点付き)! 第2部7章でダビンチさんが「いなくなる」ことは、これまでの伏線から考えれば、ほぼ確定の事項であると言えるだろう。「盛夏の滅び」は、本邦に生を受けた者たちの心性に深く刻まれていて、それはもはや無意識の願望と近いところにある。軽躁的なテキストの裏にひそむ寂滅を感得しながら読むことで、今回のイベントはあとになってから重層的な意味をもって、我々の胸へとよみがえるだろうことを予言しておく。

 FGO夏イベ、メチャクチャ面白いなー。これまでさんざんヘイトを集めてきたFGO随一の嫌われキャラであるコロンブスを、開き直ってヘイト方向へと突き抜けさせることで逆に笑わせたり、ファンの反応をキッチリ織り込んで話を作ってきてる。黒髭のメタっぽい発言やギャグもすごいノリノリで書いてあるし、リアルタイムで追いかけないと本当の意味では体感できない面白さで、いままさにいっしょに物語を紡いでいる感じがすごくするなー。個人的に大ッ嫌いだったマンぐり返しとメンヘラ自傷女を魅力的なキャラに描きなおしているし、まさにノムラならぬファンガス再生工場と言えましょう(清少納言が生き生きと活躍していることと、「だぞぅ!」語尾が確認できたので、メインの筆は彼で間違いない)。ピックアップ2、はやく来ないかなー。

 FGO夏イベ、オールクリア(たぶん)。一糸乱れぬギャグ時空からの、完璧な遺言でした。彼女はこの記憶があれば、贋作として生きた己の短い生を肯定できるでしょう。蛇足ながら指摘しておくと、ダビンチさんの宝具演出から推測して、初期プロットは多くの恐竜たちと出会うドラえもんの長編映画(プラス、ポケモン)のようなものだったのではないでしょうか。それが、「ダビンチさんの作った精巧なロボット恐竜」という設定に置き換わってしまった。これまた邪推ですが、アガルタかセイレムが預かったプロットで途中まで書き進めてて、監修を繰り返すうちにその中身をファンガスが許せなくなり、最後にはぜんぶ捨ててーー「ええい、カッカソーヨーもいいとこじゃねえか! よこせ、オレがぜんぶ書く!」ーーイチから書き直したのではないでしょうか。だとすれば、夏イベにしては短め(内容はパーフェクト)なのもうなずけるところです。絶対に外してはならないカンどころを外さないのが、FGOの持つ最大の美点であり、ダビンチさんの最後の冒険は、間違いなくその体現でした。これは裏を返せば、キャラクターへの共感であり、敬意であり、愛なのです。シンエヴァが持たなかったすべてを、いまのFGOは備えています。赤い砂浜で静かに眠っていたのを、薄汚いカネもうけのためだけに引きずりだされて、あげくまたゴミのように捨てられてしまったあの少年のことが、どこまでも、どこまでも、どこまでも不憫でなりません。

 あと、大陸版で中華系のキャラが削除されまくってる話ですが、遺憾の意を示したり強く抗議するのではなく、ギャグにせよシリアスにせよ、虚構内でのネタや風刺へと昇華してほしいと願っています。それこそが、我々の現実と並走しながら物語を紡ぐFGOの、いやファンガスの真骨頂ではないでしょうか。

 ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 FGOのぐだぐだイベント、メイン部分をクリア。おそらく、邪馬台国と同じ「漫画でわかる」の人によるシナリオで、漫画家としての特性が為せる技だと推測しますが、伏線の構成が巧みだし、章またぎのヒキがうまいし、短いテキストでズバッと印象的な場面を作っている。だれ一人として死にキャラを出さず、各人の大義も葛藤も説得力を持って描かれていて、正直なところ強い感動を覚えました。高い更新頻度を求められるスマホアプリに埋め草のギャグ担当で呼ばれていたのが、登板を重ねるごとに少しずつ周囲からの信頼を得ていくうち、次第に開発リソースを多く割いてもらえるようになり、とうとう本イベントで大輪の花を咲かせた感じがします。過去の実績や友人補正から、天下の百億円アプリで無条件に優遇してもらっているにも関わらず、それを意気に感じるどころか、ずっと裏切り続けてきたセイレムやアガルタとは、非常に対照的だと思いました。もしかすると戦国と幕末という制約はあるのかもしれませんが、私の中でファンガスの次に信頼できる書き手になったことをお伝えしておきます。

 FGOのレイド・イベントに「スカスカわんわん1ターンキル」で参加中。分量こそ少ないものの、直近のテキストが尻あがりに良くなっていったので、この年末のお祭りへ参加する気持ちになったからです(まあ、昨日までは仕事上がりにはレイドが終わっていましたが……)。人類悪の討伐が終わるまではインターネットにいますので、一日遅れのクリプレ萌え画像などを寄贈するとよいでしょう。

 FGOのツングースカ読了。単体のシナリオとしては悪くないけど、3年を引っ張った敵役との決着としては物足りないというのが正直なところです。テキストにしても、セイバーウォーズ2終盤のような駆け足感が常にあり、コヤンスカヤを仕留める場面さえ描写が薄くて、イマイチ盛り上がりに欠けました。太公望って、型月世界では歴史のある有名キャラなのかもしれませんけど、FGOから入った身にとってはポッと出の新キャラに過ぎず、カルデアとビーストとの因縁を取り扱う人物としては不適切だと思うんですよ。期待の新人・太公望のデビュー戦に、噛ませ犬でコヤンスカヤを使ったみたいなバランスの悪さを感じました。例えるなら、刑事コロンボだと思って調査パートを見てきたのに、謎解きパートで古畑任三郎が出てきて事件を解決しちゃったようなもんですよ、これ。

 あと、「どうでもいいと思ってるから、キッチリした仕事ができる」というのは、よくわかる感覚だと思いました。それと、もうだれかが同じツイートをしてるでしょうけど、ニキチッチのデカチッチがエロチッチだなーと思いました。

 

アニメ「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」感想

 最近は、FF11のオトモにタイムラインで名前を見かけたアニメを流してる。きょうは、アンバスやさと艦これイベント海域とウマ娘を並行してプレイしながら、女子高生をひろってからヒゲをそる(タイトル間違ってない?)アニメを見たんですけど、(激情にブルブル震えながら)こ、こいつはすごいですよ! オジサン、ひさしぶりにコウフンしちゃったナ! たしかに表面だけを追えば、作画と演出がいちいち性的な上、男主人公の言動がことごとく気持ち悪く、女上司のする説教は井之頭五郎みたい(「女子高生っていうのはね、なんていうか特別なんだ。ひとり静かで豊かで……」)だし、かつて善良な市民が定義した通りの、まさに完全無欠なレイプファンタジーです。

 しかし、この作品はもっと理解の抽象度を高めて、近代オタクにとっての神話として読まれるべきでしょう。障害を抱えた者が特別な存在と崇められ、人間社会から隔絶されたシャーマンとなり、彼/彼女が没薬の夢に神々を幻視した末の世界理解、その口伝が原初の神話だったと言えましょう。そして現代におけるシャーマンとは、ブラック企業の社畜童貞男性であり、彼はストロングゼロという名の没薬を使って純粋な社会との隔絶(会社と自宅の往復)から語るうち、意図せず神話の類型を削り出してしまったのです。すなわち、年上の処女と年下の非処女との三角関係、マクロスに端を発したオタクの神話体系が、オレンジロードを経由してからいったん忘却の彼方へ消えたのち、ハーレクインロマンスの対角線上に位置する男性側の欲望の物語として、この令和の御代に再び語られているという事実に、深い感動を覚えました。このアニメは、世界各地の創世神話に類似点が見出されるように、強いアルコールによる深夜のトリップで男性オタクたちの無意識にまで潜航した結果、願望の雛型を再び現代へよみがえらせた物語であると指摘できるでしょう。

 まー、酔っぱらいながら半ば本気、半ば冗談でしゃべってますが、この作品、FGOで言うところの願望機に欲望がマンマンに注がれた状態で、ほんとリアル聖杯みたいなもんですよ。オジサンもう、なりなりてなりあまれるところがギンギンになっちゃったナ! キミのなりなりてなりあわぬところをさしふさぎたいヨ、ナンチャッテ!

カウンセリング「シンエヴァ・ファイナル呪詛」(2021/5/11~2022/8/22)

承前:カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~5.8)」

2021年5月11日

 noteで絶賛公開中のFF11雑記「ヴァナ・ディールの癒し」ですが、お気づきのことでしょう、あの名著「ターンエーの癒し」からタイトルをいただいています。適当にしゃべりますけど、エヴァ新劇は監督が新訳Zガンダムを見たことがきっかけでスタートした企画らしいので、もしかするとシンエヴァの展開はターンエーガンダムの影響下にあったんじゃないでしょうか。ハウス名作劇場を思わせるロボット物とは水油の牧歌的な前半と、ガンダムの旧作がまとめて「黒歴史」として語られる後半を思い出して、なんとなくそう感じました。

2021年5月12日

 ごめん、またシンエヴァの話になるけど、NHKの例のドキュメンタリーで気になっている監督の言葉があって、それは屋上でインタビュアーにポツリと漏らした「アニメを作るの苦手なんですよね」というものです。何を聞かれても「言わない」「教えない」人ですけど、それは自分の根本的な薄っぺらさを隠そうとする無意識の動きで、言葉として発されたものには劇中の人物の台詞を含めて、ギョッとするほど素直な加工されていないものが多いと感じています。「アニメを作るのが苦手」というのも、韜晦や照れ隠しではなく、その時点での正直な気分を吐露しているように聞こえました。おそらくシン・ゴジラの制作を通じて、これまでずっと抱えてきた棘のような違和感をはっきりと意識してしまったのでしょう。そして実写に寄せた「手法」だけを追求した結果、シンエヴァの肝心の「中身」がゲロを吐いた床を雑巾で掃除するのをキメキメのアングルで撮影するだけの要介護作品になったことは許せませんが、「アニメが苦手」なことを自覚した雰囲気だけは確実に伝わってきました。監督が現在とりくんでいる題材は「他所様の作品で」「ストーリーが決まっていて」「実写である」ことを考えれば、アニメ制作の何を苦手と言っているかが見えてきます。この中でも特に、実在の人間とモノに向けてカメラを回すことがもたらすワンダー、全く予期していなかった、しかし頭の中にあるものよりベターな素材が上がってくる興奮、過去のどこにもない、確実にオリジナルと呼べるものを進行形で作っている実感は、非常に蠱惑的だったのだろうと想像するのです(でも、シンエヴァのアフレコはほとんど別撮りだったみたいだし、人と人との芝居で生じる化学反応は嫌ってたのかな)。つまり、己の本質を「コピー人間」と自虐する人物の内側に芽生えた「オリジナルへの希求」がシン・ゴジラからシンエヴァ、そしてその後に来る作品たちに底流する見えざるテーマになっているのではないでしょうか。監督は、ハプニングの生じにくい自家撞着の極みであるアニメ制作で、完成品を見てもすべて過去のどの作品が出典なのか自分にはわかってしまうことを「閉塞感」と表現していたのかもしれません。逆に「オタクの王様」はすべての元ネタがわかることへ強い喜びを感じていて、これがクリエイターと批評家を分ける決定的な差なのだろうなと思いました。おそらく監督にとって実写とは「リソースを伴わない無限個(に思える)の試行」を許してくれる遊び場であり、アニメ制作の「つどリソースを消費する有限個の試行」に戻ったとき、ひどい窮屈さを感じたのではないでしょうか。それが第三村を含めた前半部の奇矯な手法を生み出してしまい、基本的に自分のカネ(パチンコ)を使っているのと、ジブリの鈴木翁のようなプロデューサーがいないため、だれも費用対効果を言えないまま、無尽蔵の浪費が放置(9ヶ月かけた制作物を「頑張りが足りない」の一言でご破産にする)された。そして、その試みはカネだけでなく時間をも空費してしまい、「神殺し(イコール実写の手法)がもたらした神様のいないDパート」、すなわち独裁者による制作マネジメントの大失敗を、あの偉大なるエヴァのメタフィクショナルな結論として、永久にフィルムへ熱転写するはめになってしまった。

 また何を勝手な憶測を繰り広げているのかと呆れておられるのでしょうが、大切な人を凄惨なやり方で殺された遺族が、「目には目を」の復讐ではない、法に則った手続きを踏もうとするならば、これは必ず通る被告の心理と動機を理解しようとする許しへのプロセスに他なりません。エヴァを壊された事実は消えませんが、どうにかそれを受け止めることができないか苦闘しているのです。いつまでも終わらない私のシンエヴァへ向けたテキストは、平穏な人生に突如として訪れた極大の不幸への受認へ向けた日々の軌跡なのだととらえ、いま少し暖かい目で見守っていただければ幸いです。

2021年5月13日

 それにしても、シンエヴァの前半もアホみたいな農村で時間を使うくらいなら、これくらい性的な願望充足モノとして、シンジと女性陣の四角関係だか五角関係だかを描くでよかったんじゃないですかね。後半は後半で、月にいる実体の無い神様をカヲル君に受肉(悪魔将軍!)させて、シンジが泣きながら初号機でブッ倒すとかでも、あんなクソミソのラストを見せられるよりは、ぜんぜんマシな気分で帰れたと思います。

 著名な漫画家が「中学生ぶりに『男の戦い』を見たら、記憶よりもすごかった」とツイートしてるのが流れてきてて、おそらくシンエヴァへの失望を遠回しに表明していると思うんですけど、美化されがちな、しかも作り手の記憶よりもすごいって、すごくないですか(貧困なる語彙力)。2度目の完結から25年をふりかえれば、エヴァって「男の戦い」がすべてでしたね。多くのファンが期待していたのは、シンジが初号機で人類を救う「男の戦い」を再び戦うことだったと思います。

質問:違ったら申し訳ないですが、自家撞着を一般的な意味(自己矛盾)とは別の用法で使ってませんか。

回答:フッ、そこに気づくとはさすがアオイね。たしかに、この文章では「自家撞着」を「自家中毒」の意味で使ってるわ。アタシが「王道」って言葉を使うとすぐに「御用だ誤用だ!」とスッとんでくるトッツァンがいるんだけど、それと同じでnWo語というか、栗本薫語なのよ。「自家中毒」より「自家撞着」のほうが言葉として摩耗してないし、何より響きがカッコいいじゃない? だから、「ハプニングの生じにくい」という形容で補助して、文脈でなんとなく「自家中毒」の意味で読ませるという高度なテクを使ったまでのことで、けっして誤用なんかじゃないのよ? なによ、その目は! ほんとなんだから! あら、アナタのサムネイル、どこか見覚えがあるわね? まさか、まえにアタシのことを老害よばわりしたりしてないわよね?

2021年5月15日

 例の声明に「すわ、成就か!」と色めきたつも、海外のドぎつい「ラースと、その彼女」(婉曲表現)たちが副監督のひとりにネチネチからんでいただけで、ガックリする(まあでも、はやめに読んどいたほうがいいよ)。海外のエヴァファンって、本当にキャラの話しかしませんね(Be careful, 
@evansjellylion! They are watching you!)。

 んで、炎上したインタビューに興味が出てきて、アマゾンでサクッと掲載誌を購入しようとしたら、早くも転売価格になってて倍ぐらいの値がついてんの。「ほんと、アマゾンは使いにくくなったなー」なんてひとりごち(笑)ながら、近所の本屋……は軒並み潰れたので、幹線道路沿いの大型書店へと愛車の軽トラを疾駆(sick)させるのであった。そしたらフツーに売ってて、「やはり転売ヤーは滅ぼすべき人類悪」などとひとりごち(笑)ながらレジに持ってこうとすんだけど、その、表紙の絵がすごくアレなんです。ボデーの曲線を際立たせるピッチリスーツを着た3人が、女の子座りでこっち見て微笑んでるっていう、フーゾクの呼びこみみたいなイラストなんです。おまけにレジが女性店員だったものだから、表紙を胸元へ隠すように店内をウロウロしながら、「ここはスポーツ誌と経済誌でサンドイッチして購入するべきか? いやいや、それ、転売価格で買ったほうが安くなるやつですやん!」などと自問自答による逡巡を繰り返すハメになったのです(思春期かよ!)。最後には、「えい!」と叫んでそのフーゾク誌を裏向けにレジへと叩きつけてやりましたが、マスクをしていなければ動揺を隠しきれた自信はありません。「ありがとうございましたー」の声を背に受けながら、マスクの下に上気した頬で、「実店舗での購入にはこのはずかしめがあるの、20年くらい忘れてたなー」と、なつかしくも情けない気持ちになりました。

 さて、長すぎる前置きでしたが、件の炎上インタビューに目を通したところ、アスカとケンスケの関係を老夫婦として演出をつけたという話でしかなく、「ラースと、その彼女」たちは本当にめんどくさいなーと思いました。しかしこれは、いっさいコミュニケーションしようとしない監督の意図を副監督が勝手に想像しただけの話で、海外ファンのひとり相撲と言えましょう。もっと深刻なのは、監督がMIYAMOOの演技につけたぶつかり稽古、ブンダー直下でケンスケにカメラを向けられる場面を「ラブシーン」のように演じてほしいという発言です。はい、言質いただきました、これで監督が例の裏ビデオを見ていたことが確定しました。アスカファン(LAS)のみなさん、安心してください。これは劇中のキャラクター同士に向けた演出意図ではありません。リアリティで別の男に想い人を奪われてしまった古傷に指をつっこむことで、エヌ・ティ・アール的ライブ感をフィルムへ熱転写しようとしたのでしょう。いやー、シンエヴァを私小説にしたことは絶対に許さないけど、己の人生に生じたあらゆる感情を克明にフィルムへと刻みこもうとする執念は、ホントすごいわ。

 他の関係者のインタビューを読んでも、「まぶたの線の位置」を1ミリだか1センチだか修正させたり、それが作品のクオリティを高めるはずだと信じる偏執狂(編集狂?)的な介入の足跡を、そこここに見ることができます。どのインタビュイーも必ず監督のことに言及してて、まさにエンペラーとでも形容しましょうか、現場での影響力の大きさをうかがわせました。エヴァだからできた贅沢な作り方ーー「他の作品だったら10本は作れるデザイン量ですよ」ーーみたいな表現も散見され、「100の制作物を出させてから1だけを採用し、その1に自分のハンコを押す」やり方が徹底的に貫かれていることがわかります。シン・ゴジラの全記録全集で盟友のひとりが「本当にすごいし真似できないとは思うけど、同時にああなったらおしまいだなとも思う」みたいな発言をしていたことを思い出しました。つまり、己の主観による判断が絶対であり、それは裏を返せば、対立する別の主観は間違っているということになります。「両雄ならび立たず」の言葉通り、同じ力量を持ちながら常に意見をねじふせられた結果、だれかとの「友情にヒビが入って」しまったことは、想像に難くありません。

 そして、かつてはシナリオについてもこの手法(他人の100から1を拝借)が取られていたのに、エヴァQ以降ーーまだ3作しかありませんがーーは「自分で100を作って、ぜんぶ使う(書き直しはある)」ようになってしまいました。突然の路線変更から、シナリオをすべてひとりで書かなくてはならなくなった結果、エヴァQが大失敗に終わったことは記憶に新しい(さほど新しくもない)ですが、そのリベンジをシン・ゴジラで果たしてしまったのは、エヴァにとっては大問題でした。この作品が多方面からの激賞を集めてしまったせいで、おじいさんは「ホッとして」しまい、自分に脚本の才能があると勘違いしてしまったのです(うーん、「大きなカブ」は副読本として最適ですね! ゴツゴツしたカブもするする飲みこめちゃう)。「個々人の感情に焦点を当てない、綿密な現実の取材に元づく群像劇」が見事に監督の特性にハマッたことがシン・ゴジラ成功の理由であり、「人間ドラマに興味がなく、素(ス)の語彙選択がおかしい」という欠点は手つかずで放置されました。なので、「依拠する現実が存在せず、各キャラの感情に焦点が必要である」物語をもういちど語らねばならなくなったとき、再び盛大に破綻してしまったのです。つまり、シン・ゴジラの成功が「エヴァQは失敗ではなかった」という依怙地なまでの思い込みを補強したことで、オプションとして存在していたはずのエヴァQ世界の放棄に踏み切ることができないまま、2時間を迷走したあげく、最後に完成だけを目途とした自己模倣へと逃げこんでいくことになるのです。それは「この結末しかない」という強い意志による決定ではなく、時間に追われてどうしようもなくなってEOEを引っ張り出したようにしか見えず、エヴァという稀代のSF作品にとって最悪の選択がなされてしまったと、公開以来ずっと思っています。初回を視聴したときの加工の無い感情は、「もうそれ、20年前にやったじゃん! 同じことやるためにわざわざリブートして、15年近くも時間かけたの!」でしたもの!

 あと、このフーゾク誌にはスタッフだけでなく声優のインタビューも多く収録されているのですが、もっとも話を聞きたいマリ、冬月、ゲンドウ、カヲルの分は掲載されていませんでした。でもなぜかキャラ紹介だけは用意してあって、トビラのしらこい(関西弁で「白々しい」の意)アオリ文もふくめて、「情報統制きいてんなー」という感想を持ちました。

2021年5月16日

 あ、ども。ピンク色のロボットから海岸近くの海に膝を抱えて飛び込んで、浅瀬なのにメッチャ潜行してから浮上して、長髪を獅子舞みたいスローモーションでバッと水切り(足の立つ深さじゃん!)する女の、ビールのCMみたいな光景がトラウマになってるところの、小鳥猊下です。

 シンエヴァ視聴後、私が深く後悔していて、心から謝りたいと思っているのは、テレビ版と旧劇に関わったかつてのスタッフたちに対する自分の態度です。これまで折に触れて、かつてのスタッフたちが「あの設定は私が作った」とか「あの台詞は私が書いた」とか発言してるのを見かけるたび、「ハア? エヴァの骨格を作ったのは監督だろ? 小指の先の肉付けみたいな話で、ブランドの威光にタダ乗りする後出しジャンケンしてんじゃねえよ!」などとモニターの前で、まさに狂信者としか形容できない反応をしていたことを告白します。しかしながら、シンエヴァを経て、「小指の先の肉付け」をしていたのは監督のほうだったことが、痛いほどにわかりました。

 昔、どこだったかは忘れましたけど、監督が「ラブ&ポップ」映画化の許諾をもらいに行ったときの様子を村上龍がインタビューで語っているのを読んだことがあって、「ふつう、作品使用の許可をもらいに来る人は、どれだけ思い入れがあるかを滔々と語るんだけど、そういうのがまったく無かった。ロケはこんなふうに考えていて、ハンディカムを使うので費用はこうでとか、淡々と撮影の話しかしない」みたいな内容だったと記憶しています(このインタビュー、旧劇の直後なので20年くらい前のものだと思うんですけど、どこかに収録されてませんかね?)。当時これを読んで、愚かな私は「すげえ、カッケえ!」などと感動してましたけど、シンエヴァを見終えた現在から振り返れば、この頃から監督の本質は1ミリも変わっていないことがわかります。村上龍はその態度に感心して、できあがった作品を気に入ったようでしたが、興味関心のある「手法」の実現こそが優先されるべき第一で、表現される「中身」は常に二の次なのです。「思い入れは?」「ない!」「伝えたいことは?」「ない!」人が、ひとりで脚本を書いたらアカンのとちゃいますか? なぜ、元ファンの若手スタッフたちや旧エヴァを作った功労者たちに、せめてストーリーだけでも任せなかったのか、それが悔やまれてなりません。

 ともあれ、私が好きだったエヴァンゲリオンは、今回スタッフロールに名前の無い、貴方たちが作り上げたものだったのです。これまでの軽視と非礼に対して、謝罪させていただきます。本当に、申し訳ありませんでした。そして、エヴァという素晴らしいSFを生んでくれたことに、あらためて感謝いたします。

2021年5月23日

 シンエヴァ、例の声明が出てからネットの動向を観察してる。わざと固有名詞を出した強い言葉で罵倒ツイートを連発して中2病的にイキッてみたり、公開時に人物攻撃や批判の記事を書いたきり忘れてたのに言論封殺されていないことを示すために単発のマイナス言及をしたり、ささやかな抵抗を示している方々もいるにはいるようです。けれど大勢は「こら、もうさわらんほうがええな。さわらぬカミにたたりなしや」という感じであり、最初からシンエヴァという作品自体が存在しなかったようにふるまっています(これがもっとも「賢い」やり方でしょう)。そして私はと言えば、当該のツリーに並んだ「信じられない」「ひどいです」「がんばって」「負けないで」「応援してます」等の言葉の群れを半ば呆然と眺めながら、胸中にわきあがるオーウェルのごときディストピア感ーー狂っているのは自分の頭ではないかーーにさいなまれつつ、現在の「清潔なインターネット」において例の声明が殺虫剤か殺鼠剤を噴霧するような劇的効果を発揮したことを、ジワジワと実感させられているところです。好きだった作品のひどい完結編ばかりでなく、意に染まぬ反応をするファンをやっかいなハエかネズミのように追いはらい、「だれも触れない」という意味でのケガレをまとわされた末の実存的消滅を眼前に見せられて、いまや私の心の一部は永久に停止したようになっています。この苦しみはもうだれとも共有されないのだ、いや、初めからこの気持ちはどこにも存在しなかったのだと感じるとき、脳の血流が弱まって視界を暗い闇が覆ったようになります。そして、心も死ぬことがあるのだなと無感動に受け止める自分を、別の自我が離人症のように斜め上から見下ろしているのです。たぶん、客観的に己の状態を分析すれば、「深く傷ついている」と言えるのかもしれません。こんなにもひどい仕打ちが人生に起こることがあるなんて、想像もしていませんでした。

 ……などと、深い孤立感から鬱っぽくなっていたところ、「はてブ!コメント全レス祭り」にはてなの長老みたいな人物から「最高でした!」 と投げ銭されてるのを発見しました。とたん、鬱気は吹きとんでテンションはアゲアゲになり、ジュリアナ東京のお立ち台でタワシを見せながら扇子を振るアーパー女子のマインドセットへと強制的に切り替わりました。オレはアーティファクト「純粋少女」を召喚、攻撃表示でターン終了するゼ! いやー、もう感謝の一言しかありません。フォロワー3ケタのアカウントなんて、公式のサービスからもガン無視ーー悪いなゲイ太、このスペースは600人用なんだーーされてるネット泡沫で、いくらキメキメのツイートを連発してるように見えようとも、座敷牢の壁に向かって正座してブツブツつぶやいている以上の実感なんて得られませんからね! もっと小鳥猊下をフォローして、愛を表明して、課金していいのよ! ウマ娘と違って見返りのある、生きたカネの使い途だからね! もちろん萌え画像の寄贈も、オジサン大歓迎しちゃうナ!

 あと、村長以外にも実名アカウントぽい方から「:呪」に課金があったことにいまさら気づきました(集金まわりのユー・アイがわかりにくいのは、裏の意図を感じさせて最悪ですね)。添付されたメッセージの内容は「初見の時に同じ思いで見てました。ありがとうございます」というもので、気になってその人のアカウントを見に行ったら、「シン・エヴァンゲリオン、良かったよ」みたいなタイトルの短い記事が置いてあって、いろいろ察しました。あと、おキレイな同調圧力に満ちた本邦のインターネットはマジでクソだな、と思いました。

2021年6月6日

 FF11で3アカウント目の星唄を機嫌よく進めていたのに、ツイッターのトレンドに「シンジ」とあり、イヤな気分でクリックする。そしたら案の定、「6月6日は碇シンジの誕生日です。おめでとう!」みたいなツイートが並んでて、ゾッとしました。あのね、監督はキャラの誕生日を考えるのが面倒で、声優の誕生日をそのままアニメ誌に投げただけですよ。それがいつのまにか公式みたいな扱いになってしまったわけで、どのキャラがいつ生まれたかなんて、あのひと興味ないと思いますよ。もっとも、全キャラの命日が3月8日なことだけは公式に確定してしまいましたがね! 命日つながりで話をすると、第三村の墓参りのシーンを見て気づいたんですけど、あれぜんぶ土葬してますね。墓の形状もそうですし、文明の崩壊した世界で「遺体を骨になるまで焼く」なんて余剰に使える燃料はないでしょうから。え、あの世界では死んだらLCLになるんじゃないかって? そのへんの設定は(核心なのに)もうグチャグチャで、監督に聞いても答えは返ってこないと思いますよ。シンエヴァ、自称・現代アートの専門家が京都の千年家の大黒柱にノコギリ入れて外壁にペンキ塗ってベニヤ板で建て増しして、ついには家屋全体を傾けて住めなくしたようなもんですからね。そんなふうに、ドリフのコントで最後に倒壊するセットみたいにすべてのエヴァンゲリオンへさようならしたはずなのに、コラボ商品やキャラグッズ(しかも、破までの設定)の販売だけはますます盛んで、もう嫌悪感しかありません。公式ストアで「貴方にとってシンエヴァを漢字一文字で表すと?」みたいな企画やってますけど、アカウント持ってる人は「呪」って送っといて下さい。1位を取れたら痛快ですね! もっとも、公開後の広報の手口はほとんどノースコリアかビッグブラザーなので、確実に握りつぶされるでしょうけど! あと、ロボット2台と奥さんと昔の想い人が右上から出現するカットばかりの見にくい中盤の戦闘シーンですけど、落下の臨場感をリアルに表現させるために社費で若手スタッフをスカイダイビングへ行かせたそうですよ! Qでは数千万円かけてピアノの内部構造をCG化したり、死に金を使うことにかけては、まったく日本一ですね! 我々ロスジェネのドカチンがツメに火をともして貢いできたカネを、いったいなんだと思ってるんでしょうね! チクショウ、せっかくいい気分でしばらくはエヴァを忘れて過ごせていたのに、チクショウ!

2021年6月8日

 シンエヴァの広報、本当になりふり構わなくなってきましたね。旧劇のときはファンから何を聞かれても「もう終わった作品だから」とそっけなくつっぱねていたのが、今回は嫌がるファンの足下に「行かないで!」とすがりつく感じで、みっともないったらありゃしない。「きれいなジャイアン」なるネットミームがありますが、今回の顛末を例えるなら「きたないエヴァンゲリオン」ですね。たぶん、最後のアニメ作品で興収100億を達成したいという思いがムクムクと頭をもたげてきて、生来のパラノイド気質によりその執着から逃れられなくなってるんでしょう。作品への評価が割れてるものだから、数字で己の決断の正しさ立証しようと躍起になってて、まさに「ブザマね」の一言です。新たな特典の前日譚マンガにしても、本来ならふつうに携わるべきキャラデザの人はノータッチで、この人物との友情が壊れてしまったことを、改めて満天下に知らしめる結果となっています。あと、本編のカットを追加だか変更だかするとか言ってますけど、ミリ単位の画角の修正とかエフェクトの追加ばかりで、何が変わったかは絶対に気づけないでしょう。エヴァQの3.333をわざわざIMAXで見た私が言うんだから、間違いありません。そしてバージョン表記ですけど、「3.01+1.0」でも「3.01+1.01」でもなく「3.0+1.01」なの、きっとだれも理由を説明できないと思いますよ。Qの変節から、確実に存在した最初の定義は壊れてしまっているでしょうから! それにしても、同一の公開期間中なのに新バージョンを堂々と宣言してるけど、明らかに古いのを見た人が不利益を被る変更なわけじゃない? これ、なんか民法とか商取引法とかに抵触しないの? こんなボッタクリ商法が今後もまかり通ると困るから、法律に詳しいフォロワーはキチンと問題提起しといて!

2021年6月13日

 うん? シンエヴァの3.0+1.01は見ましたかって? まあ、その話はまた後日。短く言えば、1,800円で公式の薄い本を買った感じかな。

2021年6月14日

 エヴァQの初回を見た因縁の映画館で、シンエヴァ3.0+1.01を見る。狭いハコへ特典目当ての客がスシ詰めになっており、感染症への配慮は絶無でした。気づいた変更点は、第三村の描写がほんの少し厚くーー静止画の「仕事」追加とアスカの腰のグラインドなどーーなっていたのと、補完計画に入る直前がちょっとだけ丁寧ーートウジ、ケンスケのモノクロ・バストアップ挿入などーーになっていたくらいでしょうか。もっとも、第三村の住人をどうフォローしようが結局は消滅させられるし、補完計画にしても肥溜めに突き落とされるか、つま先から入って肩までつかるかの違いでしかありません。「1,500円相当の同人誌をタダで配ってるから、実質は無料上映」みたいな言い逃れのためについてきた薄い冊子にしても、海外のドぎついキャラ萌え勢(ラースと、その彼女)への目配せだけで、空白の14年間に何があったのかは少しも語られていませんでした。

 あと変更点ではないですが、ゲンドウの「子どもは私への罰だと考えていた」というセリフの直後に、明らかにこれまでとキャラデザの違う、少しふっくらした子どもシンジ(一瞬、だれかわからないくらい)が出てきて、初回の視聴から違和感はあったんですけど、ずっと言語化できずにスルーしていました。今回ふと思いあたってゾッと背筋が寒くなったのは、このふっくらシンジを安野モヨ子が描いている可能性に気づいたからです。だとすれば、「子ども(がいること)は私への罰だと考えていた」というセリフの意味が反転し、監督自身の独白として読み直されてしまいます。意図を告げずに絵だけ描かせたのだとしたら、まさに作品のために私生活のすべてを捧げる悪魔の所業で、奥さんへ向けたこれほど残酷な仕打ちはありません。

 また、「オタクの王様」が「マリ=安野モヨ子」であると指摘したことを、同社の広報が「間違った教科書」なる言葉で否定したと聞きました。すいません、もっとも大きい「風説の流布」の元凶を叩いたつもりでしょうけど、彼の話に関係なく、肯定派・否定派に関わらず、視聴した者の90%以上が独力でそのメッセージを受け取っているんですよ。見当違いもいいところです。あれだけシンエヴァを肯定的に語ってくれている人物を、たったひとつ意に染まぬ解釈があるだけで、自分で言うのでも命じるのでもなく、部下に忖度させて盤外で攻撃する。これこそが、業界内で不可触の「天皇」と化した監督の現在を余すところなく表しています。言うまでもないことですが、「だれかの感じること」に正しいも間違っているもありません。特定の個人にとって「都合の悪い」感情はあるかもしれませんが、それを否定しにかかるのは、全体主義国家の支配側の手口と何ら変わるところはありません。タイムラインに「倍速で映像作品を見る、オタクになりたい若者」みたいな記事が流れてきました。最近の若者たちは教条主義と言いますか、非常に素直に物事を吸収しますので、公式による特定の解釈の否定は、洗脳と同じレベルで危険だと感じます。そして、いまネットに広がっている「シンエヴァにまつわる不自由な言論空間」は、ファンではなく社長の方を見つめた不誠実な広報の結果であり、どこかで正式に糾弾されるべきだと思います。

2021年7月8日

 映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

2021年7月27日

 アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

2021年8月1日

 アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

2021年8月14日

 「31分後にカヲル死亡」「1時間21分後にアスカ補完」みたいな、クソどうでもい小ネタを仕込んできた監督ですが、シンエヴァの上映時間2時間37分が何かと問われれば、「日本のいちばん長い日」のそれと合わせたいだけでした。神経症で強引に表層だけ符号させるの、作品に何の価値も加えてませんからね!

質問:なるほどと思わせてくれる指摘も多々あるのに、結局エヴァにどうなってほしかったのか見えてこなかった。ガンダムになってほしかったの?違うでしょ?エヴァは私小説でいいんだよ
回答:いまさら「はてブ!」への追加コメント。いや、書いてること読めてます? まあ、脳内の結論へと向けて読解する態度から自由な人間なんて、この世にはいないのかもしれません。「人間を嫌いになる」という営為は底無しで、絶対零度の存在しないマイナス温度みたいなものですね。

質問:ガンダムと富野監督好きな立場からすると、あの独特すぎるセリフと観客を置きっ放しで進行するストーリーを富野監督以外の人がおそらく本人以上に本物っぽく創り上げてる事に喝采を送っている、というのもハサウェイの高評価の一因かと思います。原作小説が世に出て四半世紀以上、ガンオタの脳内にしかなかった物を納得のいく形で補完、補強するなんて!某作品と対照的なのか、それとも似ているのかはよく分かりませんがヒロインのエロさがガンダム史上最高なので100点です。
回答:なるほど、よくわかりました。禿頭の御大って言葉は辛辣ながら、基本的に他者への信頼があると思うんです。自分が生きる百年を越えた先に視点があって、次世代の幸福と人類の未来を、たぶん本気で考えてる。ご指摘の某作品の人物は、もはや己の作家人生をどうクローズするかにしか視点が無い。以前も書きましたが、2人の姿勢の違いが子どもの有る無しにしか帰着しないとすれば、現実に対するフィクションの明確な敗北だと思うのです。それにつけても萌え画像の欲しさよ。

質問:アマプラで劇場以来見たのですけど、「アスカ好きだった」の後マリ出してきて「姫、お達者で」って俗悪すぎやしませんかね?何これキモすぎる
回答:「オマエはシングルマザーとして、オーストラリアで生きてゆけ」という意味なんですかね。部分部分の不快を指摘することは無限にできますけど、「東日本大震災で新劇の前提が曲がった 」ところまで戻らないと根本的に解消されないと思いました。

2021年8月21日

 映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪

2021年9月21日

 雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

2021年11月25日

 ボンヤリとエゴサしていたら、アマゾンのシンエヴァ本レビューに『申し訳ないが小鳥猊下に感想を聞きたくなる「評論」』などと書かれているのを見つけ、のけぞる。あのさあ、そういうのいいから、本アカウントでフォローして、全発言をリツイートしてくれます?

 否定派の勝利条件である「全記録全集の発売阻止」を達成したばかりか、本丸である円盤リリースの遅延にさえ成功しており、これはもう敵方の無条件降伏を引き出したと言えよう。

2021年12月20日

 映画「マトリックス・リザレクションズ」感想

2022年1月18日

 スパイダーマンNWHの感想を読み返してて思ったんですけど、「アナキンを助けるべくオビワンがスターウォーズ1から4をループする話」って、面白くなりそうだから読んでみたいなあ。もしかして私が知らないだけで、海外のファンジンや公式のスピンオフとかですでに存在するんでしょうか。

 シンエヴァでは同じ世界を繰り返していることがゲンドウの独白で示唆されながら、肯定派と否定派のどちらも従来の「ループもの」としてとらえていないのは、「エヴァの搭乗が2周目のシンジ」ではなく、「エヴァの制作が2周目のヒデアキ」になってるからでしょうね。

2022年1月30日

 エヴァ旧劇について、赤い砂浜の話は何度もしてきたように思うが、他にもうひとつ、いつ思い出しても涙がにじむシーンがある。人類補完計画が進行するさなか、「甘き死よ、来れ」のイントロから歌詞へと入る直前、シンジが「ココにいてもいいの?」と問いかけるのに対して、「(無言)」のテロップが表示される展開がそれで、ここには決して逃れえない人なる孤独の本質が、骨と肉から皮膚をはぐようにして凝縮されている。恋人がいようが結婚しようが子どもができようが決して変質しない何か、互いに焦がれた末の心中にしてさえ、別々の死を同時に死ぬだけのことであり、このくだりは我々のだれもが一個の死をひとりで死ぬしかないことに、何度も気づかせてくれる。ヒリヒリするような剥き身の真理へと到達しながら、配偶者ごときでそこへ背を向けたシンエヴァのなまくらな退行を、どこまでも認めることができない。

 またぞろ、エヴァ旧劇のこれをなぜ思い出したかといえば、だれかの能力を自らのそれと錯誤する馴染みの妄想が、再び粉々に砕けたゆえである。この「(無言)」を繰り返しくりかえし忘却し続けることができるという一点の冷厳な事実のみにおいて、小鳥猊下なるは才覚どころではない理由において、未だに生き汚くインターネットから消えずにおられるのだったと、数年ぶりに思い出した。そしてまたすぐに、忘れてしまうのだろう。

2022年2月5日

 アニメ「地球外少年少女」感想

2022年2月17日

 ゲーム「ヘブン・バーンズ・レッド」感想

2022年3月8日

 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

2022年4月3日

質問:質問というかエヴァ一周忌に寄せた自分語りで恐縮なのですが、公開後すぐに「エヴァ呪」を公開して頂いて本当にありがとうございました。ネット上では旧作からのファンを含めて絶賛がほとんどで、「こいつらはちゃんと旧作見たのか? それともこっちの頭がおかしいのか?」と自問自答する中で偶然にも猊下のnoteに辿り着き、私の力では言語化できずに消化できないでいたあれやこれやが全て指摘されていて、どれほど精神的に助かったか分かりません。今は「呪」を笑いながら読めるほどには回復しました。どうもありがとうございました。
回答:見落としてました。確かに、公開後の一週間くらいは監督の労をねぎらう肯定的な感想ばかりで、作品の内容に触れたものはほとんど無かったように思います。「最終回の雰囲気」に流される程度のファンが多いことへガックリすると同時に、かつては亜インテリや批評家の卵による大卒高偏差値のサロンだったエヴァが、パチンコ参入から大量に発生した中卒低偏差値の遊技場と化していることを実感したのです。新劇が旧劇の「知恵の獲得に由来する孤独の発生」からは遠い場所で、ヤンキーどもへ仲間と家族の大切さを説く作品になったのは、もしかすると緻密な市場調査の結果だったのかもしれませんね! もちろん、皮肉で言ってるんですけどね! あと、ベジタリアンであることを理由に監督のストイックさを語る方々がいるようですけど、食生活で人格がはかれるというなら、彼が大酒飲みのアルコール耽溺者であることもちゃんと付け加えてくださいね! 机上に置いてある器へ犬のように顔を近づけて、直に日本酒をすするような品性のね!

2022年8月22日

『あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。』

ジブンら、清川親分の大往生にからめてシンエヴァを持ち上げようとすんの、死者に対する冒瀆やで。

質問:恐れながら、今日訃報に接し最初に浮かんだのが猊下のその一文でありました。過去にイスカリオテのマリアとか研究室で呼び合う教授と学生たちの風景を考えるとゾッとしますが、そんなものが結局答えとして残されたわけですから。
回答:いやー、この呼び名はねー、不死のオーバーロードである3人のゴルゴダ星人(ユイ、マリ、冬月)の間で「フッ……君は我々にとって裏切り者だが、人類にとっては救いの聖母というわけだ。彼らの宗教になぞらえて言うなら、さしずめ『イスカリオテのマリア』といったところか。ユイ君のようには不死を捨てず、人間を見守らんとするか」みたいな会話(サブイボ)が交わされてたと思うんですよねー。でも、恥をかきたくない星人であるカントクが、ファッション鬱の習い性で陳腐になりそうな箇所の情報をすべて伏せたせいで、意味不明な残骸だけが残っちゃってるんじゃないかなー。