アマプラでスペースダンディが配信されたので、通して見る。じつは、これがはじめての視聴でした。異様に豪華なクリエイター陣による大人のお遊びと言いましょうか、ドタバタSFギャグ実験アニメ(微エロ)へと仕上がっています。ただ、単話完結のオムニバス形式を貫けばよかったのに、最終話付近で物語全体を刺し通すクシを用意したのには、「なんかこのままじゃ、もったいなくね?」という作り手の色気のようなものを感じてしまいました。通貨の単位がウーロン(例の冷蔵庫も出てたらしい)だったり、同監督のカウボーイビバップを表だか裏だか陰だか陽だかに配して作られていることは明らかで、妙に一般的な評価が低い理由も(そして参加者が豪華な理由も)あらかじめそれを期待されてしまったのが原因でしょう。ビバップは全話通じての平均点が80点を超えるのに対して、ダンディは90点の話(「全速力で大人になる」少女の話)もあるのに、平均すると50点くらいになってしまうような印象です。
んで、カウボーイビバップのほうもテレビ版と劇場版を通して、ひさしぶりに見直したんです。アルファキャッチと風水少女の話は若干トーンが浮いているような気がしましたが、まー、つくづくパーフェクトな構成ですねー。DVDボックス(過去の記録媒体を模した装丁のヤツ)を持ってる程度にはファンですが、これまでほとんど同作に言及したことはなかったような気がします。これはつまり、言葉で後から何を付け加える必要もないほど完璧なシリーズだということでしょう。ビバップは「エヴァ以降」の作品で、それこそ雨後のタケノコのごとく乱立したオリジナルアニメ群が、思春期のジャリどもの抱く一過性の葛藤をウジウジ描いていたのに対して、「こういうのが大人なんだぜ」「こういうのがカッコいいんだぜ」というメッセージをワルい音楽とともに軽妙洒脱に表現していて、突出して新しく見えたのを覚えています。シリアスとコメディ、メインストーリーとサブシナリオが絶妙のさじ加減で配置されていて、終盤は「ブレインスクラッチ」での虚構への耽溺に向けたメタ的な批判ーーこれから語る内容への照れかくしーーから、最高にクサいフィクション(褒めてます)である最終2話へと怒涛のようになだれこんでいく。ビバップクルーたちの離散から、スパイクの「あしたのジョー」エンドへの流れは、今でも涙なしには見られない、この上なく美しい終わり方だと思います。
これを受けての劇場版は、最終回以前の時間軸で作られていて、4人の関係性、主人公の生き方、そして「人生とは、一夜の夢である」ことを改めて補強しており、テレビ版から一貫したテーマが引き継がれていました。映画としての評価はあまり高くないようですが、アニメでは数少ないイスラム圏の描写を含めて、個人的には大好きな作品です。まあ、テレビ版での「100万回生きたねこ」や、劇場版での「胡蝶の夢」など、あまりに作品テーマの提示と引用がド直球すぎるきらいはありますが、まったくテーマを持たない作品(もう名前は出さない)に比べれば、はるかにマシでありましょう。当時さんざん言われたことに、「次のルパン三世をねらえる作品」という評価があり、じっさい、このキャラと世界観で延々と話を続けることはできたと思います。そこを、「いや、ビバップは食い足りないくらいでちょうどいいんだ」とうそぶいて、続編や前日譚にいっさい手を出さなかったのも、海外までを含めた作品の神格化へ大いに寄与していると思います。「レッドドラゴンの内幕」とか「ジュリアを巡る三角関係」とかを詳しく語ってしまうと、陳腐にしかならないのは目に見えていますから。
あと、ついでに実写版の情報を探ってみたんですけど、ライティングが妙にペカペカ(セル画を意識してる?)した、海外オタクたちによる名場面コスプレ集みたいなスチルが次々と出てきて、暗澹たる気持ちにさせられました。キアヌはいったいこの10年、路上で何をしとったんや……アホな配給会社に権利を取られてしまいよってからに……。
最後にダンディへ話を戻しますと、ビバップのそれを裏返しにした「オッサンって、パイオツとヒップが大好きで、パッと見はエロくてダサくてカッコ悪いけど、じつは優しくて若者にはないユーモアがあるんだよ!」というメッセージが含まれてるような気がして、ちょっとカッコ悪いなーと思いました。
(禿頭和装の大男が大喝して)未来に送るのは、女と子供だけでよい! 貴様も漢なら、過去に死ねい!
あと、ぜんぜん話は変わるけど、ビバップ最終話でフェイがスパイクへの気持ちを表すために空砲を3発撃つシーンがあるけど、あの演出ってもしかしてシティ・オブ・ゴッドが下敷きにあったのかなー。