猫を起こさないように
月: <span>2021年10月</span>
月: 2021年10月

映画「閃光のハサウェイ」感想

 紆余曲折の果て、ネトフリで閃光のハサウェイ、ようやく見る。予備知識は絶無でしたが、端的に言って面白かった! 立体(プラモ)が欲しくなる気持ちも、少しだけわかりました。そして私にとって、はじめて「内容が理解できる」ガンダムが登場したのは、たいへんにめでたいことです。この作品は「長いテレビアニメ」ではなく、実写映画の文法と尺と撮影で作ってあり、「禿頭の御大による節回し」が脱臭されていたことが、大きかったのかもしれません。もっとも、原作そのままと思われる人物のかけあいが、ときどき「普通の映画」の見かけを突き破って出てくる瞬間があるのは、さすがの作家性だと感心しました。

 ハサウェイがテロ組織を率いる動機は最後までよくわかりませんでしたが、ギギ・アンダルシアは最高にエロ可愛いかったです。周囲への忖度がいっさい存在しないため、状況に応じてクルクル回転し続ける感情の奔放さは阪神間の金持ちのお嬢さんって感じで、「ああ、こういう女の人いるよなー」と思わされてしまいました(非現実的な女性描写で鳴らす、あのガンダムなのに!)。戦火を逃れた後、彼女が感情の放出に疲れて弛緩したアクビをする演出は、すごくリアルで印象的でした。同じ場面で、ハサウェイが渡されたマグをさりげなく、唇の触れていないほうへ回しながら受け取るのも、童貞くさくて良かったです。

 せやけどな、ハサウェイはん、ギギとだけは絶対に結婚したらあきまへんで! あっても一夜かぎりのアバンチュール(死語)にとどめとくんが正解や! あの類のお嬢さんは年をとるにつれて、どんどん性格の歪みがエゲツのうなっていきますさかいな! いずれ、まちがいなく「春にして君を離れ」みたいになりまっせ! 繰り返し言うとくけど、結婚相手を選ぶのにいっちゃん大事なんは、「感情が安定していること」やで!

 あと、なんかこの映画、話がまだ終わってなくない? え、これ三部作の一作目なの? またもや、優良誤認ならぬ単品誤認じゃないですかァーーッ! でも、次回はたぶん劇場へ見に行くゥーーッ!

ゲーム「FGOハロウィンイベント感想」

 承前

 ハロウィンイベントをイヤイヤ読んでる。FGOの主人公って、数年にわたる冒険を経て、奇しくもビルグンドゥス・ロマン的というか、古典文学が人々の「生き方」や「在り方」を教化するために描いたような人物造形になってきてると思うんですよね。

 少し話はそれるけど、鬼滅の刃に出てくる善玉サイドの人物たちもまさにそれで、あちらは特にロスジェネ以降の大人たちが抱える欠落に焦点を当てているようにも読める。「富める者は貧しき者に分け与え、力ある者は力なき者を助けなくてはならない」という倫理感の裏返しが鬼舞辻無惨という悪玉であり、わずかの富を我利我利に抱えこみ、社会に裏切られた己の不遇だけを嘆くロスジェネ世代の醜さを痛烈なまでに戯画化している。それは同時に、人としての生き方の「良い見本」と「悪い見本」の提示になっていて、正しいふるまいへの憧れによる共鳴と我が身をふりかえって恥入る気持ちが、既存のヒットの閾値を超えさせた要因だと考えるのです。ある大御所の漫画家がアクションシーンの拙さを理由に、「ここまでの大ヒットになったのはアニメ化による偶然だ」と愚痴めいた批判をしてましたけど、本質がわかってないなあと思いました。

 話をハロウィンイベントへ戻します。FGOの世界観にはかすかに女神転生からの影響を感じるのですが、キリストの人がロウ・ルートなら、主人公はニュートラル・ルートを描いていると思うんですよね(ちなみにカオス・ルートはオベロン)。そして物語が進むにつれて、「ファンガスが正しいと信じる人間像」へと共感させることによる教化がますます深まっていき、読み手・イコール・プレイヤーを事件の当事者として否応に巻き込んでいく(第2部6章ではその没入を分離するような伏線があり、これがどう回収されるのか、今から楽しみでなりません)。なのに、今回のイベントの書き手はそれを理解しないまま、ベタベタ主人公に触ってくるのが不快でしょうがない。意に染まぬ相手から逃れられぬ閉鎖空間で、合意を求めず始められるペッティングみたいなもので、直近の展開にはほとんど絶叫しかかりました。「些かの人」はもっとファンガスのテキストを読みこむべき(特に第2部6章)だし、もっと漢字をひらがなに開くべきだと思います。まあ、何度も言ってきたように、いちばん求めてるのはFGOに「関わらない」ことなんですけどね!

 ハロウィンイベント読了。低品質なばかりか、支離滅裂のグチャグチャで、登場したキャラクターすべての価値を下げる同人誌未満の内容でした。ジャック・ド・モレーにしても、後のメインシナリオ登場に先駆けた顔見せなんでしょうけど、うんこ(失礼)をなすくったみたいなファーストインプレッションになってしまい、たいへん残念に思いました。アガルタとセイレムのテキストは、間違いなくFGOの抱えるセキュリティホールですが、ファンガスの監修なしに肛門(失礼)を通過させるぐらいなら、むしろ惰性の季節イベントなんて開催しなくていいくらいでしょう。

 あと、自分のツイートを読み返して思ったんですけど、「女神転生」ってタイトル、例のしょうもない作品群の隆盛のおかげで意味を汚染されてしまった感じ、ありますねー。

雑文「近況報告(D2R&FGO)」

 近況報告。ディアブロ2に本腰を入れだすと、他の虚構に触れる機会がほぼゼロになる。特に低レジストのマジック・ファインド装備でヘル難度を「面のトレハン」するときなど、他のメディアはすべて遮断せねばならず、一種の過集中みたいな状態に陥ってしまう。90%の時間は無為に過ぎるのに、ユニークやハイルーンがドロップした瞬間の多幸感から、ズルズルと止めどきを失って、気づけば数時間が経過しているというありさまである。「ディアブロ2の面白さの本質は、パチンコと同じ」という指摘を否定する言葉を、いまの私は持っていない。そして、メフィストの対岸焼きなど「点のトレハン」を行うときは、同じルートをテレポートするだけなので、他のメディアを「ながら見」する余裕ができる。そこで、FGOの新イベントが来たこともあり、長らく終盤で放置していた絶対魔獣戦線バビロニアを最後まで視聴したのです。

 テキスト上ではあれだけ壮大で感動的だった物語が、アニメだとどうしてこんなにもイマイチな感じになってしまうんでしょうか。メフィストが生きながらにして焼かれるうめき声を聴きながら、つらつらとその理由を考えていくうち、ファンガスの書く物語の魅力は、テキストとして視界に入った瞬間に最大化される性質のものではないかと思い至りました。例えば、山の翁が登場する際の口上って、文章で読むと痺れるようなクライマックスなのに、音声で聞かされると脳内で漢字が変換できず、まったく内容が頭に入ってこないんです。かつて、「祇園精舎の鐘の声」か「春はあけぼの」くらい陰キャの中高生男子に暗唱されただろう「体はホニャララでできている」から始まる例の文章も、じっくり読んでみると英語もヘンだし、ほとんど意味不明なんですよ。そして、それが声優のイケボで読みあげられるのを聞くと、なんだかモゾモゾと恥ずかしくなってくる。特に最後の部分、技名を英語で叫ぶところなんて、羞恥のあまりきつく目をつぶって固まってしまいますからね。けれど、テキストの字面だけ追えば、不思議とカッコいいんです。ファンガスのテキストって、「ある程度の速度で読みとばすことを前提とした、絵画的な文章」なのではないでしょうか。FGOでもときどき感じますが、視界に入った2行の文字バランスが最高に美しい瞬間がある。月姫のインタビューでも、「同人版は既存のフォントしか使えなかったので、あらためて読み返すのが辛かった」とか言ってましたし、彼が持つ天賦の才はノベルゲーに特化した「テキストの外観を装飾する異能」のような気がしてきました。「死生観が逆転する」なんてフレーズ、目に飛びこんだ瞬間こそ「かっけえ!」ですが、3秒後には腕組みをして「んー?」と首をかしげてますからね! ですので、FGOのアニメ化に必要なのは優秀な脚本家ではなく、彼のテキストからカッコよさだけを抽出して朗読可能な日本語へと変換する、翻案家みたいな存在だったのかもしれません。

 え、ハロウィンイベントは楽しんでますかって? 冒頭パートだけで「些かの人」が書きとばした文章だとわかりましたので、今回は薄目でナナメ読みにして、素材ひろいに専念したいと思います。ファンガスならギャグの方がむしろ文章が精緻になるんですが、「些かの人」はネットスラングっぽい口語をユーモアと勘違いした軟便たれ流し(源泉かけ流し、のイントネーションで)なので、読んでてつらくなってきます。けれど、その低品質なテキストに比して、「フォーリナー専属の人」による新キャラのガワは、とてもとてもいいですね。怖いほどに写実的なPDFの骨格へ、妄想の欲望のみで肉づけをしていき、現実の女性にはありえないフォルムを作り上げる。この肢体が持つ魅力は、3次元の肉どもがどれだけあがいても届かない、まさに2次元の幻想だけが到達できる至高の領域(キメツの影響)と言えましょう。

 さて、最後にディアブロ2へと話を戻します。このゲームをプレイしていて気づいたのは、表現することに対する私の内発性が、もはや完全に枯渇したのだなという事実です。旺盛に行われているように見える批評めいた言説さえ、どれも「外部刺激に対する反射」に過ぎません。シンエヴァ以降、毒のあるテキストを多方面へまきちらしてきましたが、それは同作への巨大な不満がビッグバンの如く炸裂した余波、すなわち初期宇宙の膨張のようなものでしかなかったということでしょう。いま、その速度が緩やかになり、宇宙から熱が引いていくのを感じています。小鳥猊下のインターネットへの登場は、これまでよりも間遠なものになっていくのかもしれません。もっとも、まだ見ぬ萌え画像が寄贈されるようなことがあれば、この宇宙の膨張は再び加速していくだろうことをお約束します!

アニメ「NOMAD メガロボクス2」感想

 NOMAD メガロボクス2、見る。「あしたのジョー50周年企画」として再アニメ化が模索されたものの、「あおい輝彦と出崎統ぬきでジョーをやるなんて、キリストとヨハネぬきで聖書を書くみたいなもんだな」と冷静になり、舞台を近未来に移して登場人物も翻案したのが前作でした。ほぼ初代劇場版に沿った内容で進み、「力石徹に当たるキャラが死なない」という変更に作品テーマを重ねて、きれいに終わっていたように思います。これまで言及しなかったのは、「白都のお嬢様、原作と違って、クールというよりコールド」「サチヨって名前、少年のナリだけど、成長したら美少女の伏線だろうな」ぐらいの感想しか抱かなかったからです(ただ、ギアの設定は最後まで意味不明でしたが……)。

 本作はその続編であり、劇場版第二作をなぞって力石徹の死からホセ・メンドーサ戦までのアレンジが描かれるのかと思いきや、ストーリーラインをまったくのオリジナルへと変更してきました。南米要素はそれこそ音楽ぐらいのもので、原作の後半パートを換骨奪胎し、作品テーマだけを取り出して新たな物語へと移植しているのです。「放浪者が家族を見つけ、安息の地に定住する」「未来のため、燃えつきるまで戦わない」がそれで、原作ジョーがたどりつく孤独と破滅の逆を描くことが強く意識されています。近年では非常にめずらしくなった、ガチガチにテーマ・オリエンティッドな作品であり、「間に合わないタオルと間に合うタオル」とか「放浪をやめた者から始める者へ引き継がれるバイク」とか、徹頭徹尾、主題が先行して描かれます。キャラクターはそれを表現すべく配置されており、長く鬱々としたビルドアップもいとわず、丁寧に丁寧に人物の背景と舞台を描いていく。かつてのセル画を思わせるアナログな描写も、他のアニメにはない独特な雰囲気を作り出すことに成功しています。

 ただひとつ問題なのは、そこまでやってるのにぜんぜんおもしろくないことです。フィクションの魅力って、現実の地続きからはじまって、読者が気づかないうちにウソで離陸して、気づけばはるか上空を飛翔していることだと思うんですよ。メガロボクス2は、「現実を徒歩でかちゆき、ペースをあげないまま、同じ現実にたどりつく」話なんです。作り手の押し出したいテーマを語ることが最優先で、物語的なカタルシスはまったく与えられない。近年、ドラゴンクエストやらアンジェリークやら既存の虚構にビルドアップ部分をすべて依存して、カタルシスだけを描き続ける作品群が幅をきかせているのを苦々しく思っていましたが、メガロボクス2を最後まで我慢して見て、テーマ先行型のフィクションが廃れてしまった理由がよくわかりました。

 だって、つまんないんだもん! 余力を残してるのにタオルでTKO負けするジョーなんて、だれが見たいんだよ! ヨーコとのロマンスを全面的にオミットしてどうすんだよ! リングで死ぬ覚悟を決めたのに、思わぬ告白をされて生きることへ未練が出て、世界戦の舞台でアパシー状態に陥るジョーとか最高に泣けるだろ! 「恋人を殴り殺された財閥令嬢が、なぜかオレのことを好きになってしまった件」だろ! 「鑑別所あがりのオレを追い回していた警官たちが、なぜかオレのために君が代を演奏している件」やろがい! そのくせ、サソリやらハチドリやら、ヤクザが作品の主題とおぼしきポエムや絵本を延々と朗読したり、作り手の自意識がダダ漏れになってんだよ! 話さえおもしろきゃ、テーマなんてどうだっていいんだよ!

 面白くするためにわざと言い過ぎましたが、良い作品の条件とは「テーマの面白さとキャラクターの魅力が合致していること」だと、本作を通じて、あらためて確認できました。けれど、サチヨが男の子だったことだけは、本当にゆるせないです。え、サチオって言ってる? マジで? (ヘッドホンで確認して)ホンマや……クルーエリティ・オブ・エイジング!

アニメ「範馬刃牙」感想

 ネトフリに範馬刃牙が入ってるのに気づいて、見る。「貴方との対決をもって、オレという物語の幕引きとしたい」という前章での宣言から、そこへ至る紆余曲折が描かれるのですが、アニメで見てもやっぱりゲバルをどうしたかったのかは、わからないままでした。刃牙世界における三大不遇キャラを挙げるならば、順に天内、アライ、ゲバルとなりましょう。いずれも強キャラ匂わせから、主役級の持つ作者補正を越えられずに惨敗するという展開が共通しています。本作ではチェ・ゲバラよりセルジオ・オリバへの思い入れが勝ったということかもしれません。

 いまでこそ、ネットによるミーム汚染でネタ漫画あつかいされている刃牙ですが、幼年編終盤の勇次郎との戦いは、少年漫画における頂点のひとつだったと言えましょう。妊娠、出産を経ても「愛する男の女」のままだった朱沢江珠の母性が、瀕死の我が子を眼前にして目覚め、「地上最強の生物」へ徒手で敢然と挑みかかる。犯し、孕ませ、生ませ、屈従の下に置いたはずの存在が、母なるものに化身するのを目の当たりにし、「おのれ以外のすべてが凌辱すべきメス」としか見えぬ世界で、彼はその未知の何かを「いい女」として殺す以外の選択を持たなかった(そしてたぶん、そのことをずっと悔いている。息子からの「なぜ母さんを殺したの?」という問いかけへの返答に、それがかいま見える)。その後、息子が母親の遺体を背負い、警官に追われながら商店街を駆けるシーンは、まさに情動のクライマックスであり、そのテーマ性は世界文学の高みにさえ到達していたと言えましょう。

 範馬刃牙における父親と息子の戦いは、この妻イコール母親の死を下敷きにしているからこそ、厳密に物語を編んでいくのならば、「父殺し」か「子殺し」以外の結末を持てないのです。そんな中で、父子の対決は両者の会食からそろりそろりと始まりました。「どんな強敵にも主人公補正で勝つ」と揶揄され続けてきた刃牙が、作者の思い入れがもっとも強い勇次郎へと挑むのです。おそらく、どちらの結論にするか作者自身にも決められぬまま、父親と息子の戦いは進んでいきます。途中、作中の人物にネットでの感想へ反応させたり、突然ユーイチローなる人物を登場させたり、迷走ぎみに着地点を探る展開が続きました。そしてついに、決着のときがやってきます。少年誌に掲載されている漫画なのですから、普通に考えるのなら「父殺し」で終わるのが至当でしょう。しかし、長期連載の果てに作者自身が父となり、何より範馬勇次郎をあまりに魅力的に描きすぎてしまった(どこかのヘタれ司令とは大違いですね)。当時、掲載誌の立ち読みで展開を追っていましたが、かつて勇次郎が江珠にしかけた両手で鼓膜を破壊する技を食らう刃牙の大ゴマを見た瞬間、幼年編の終盤とストーリーがつながって、コンビニで周囲に人がいたにもかかわらず、思わず嗚咽が漏れたのを思い出します。グラップラー刃牙にはじまったこの長大な父と子と母による三位一体の物語は「子殺し」で幕を閉じるのだと考え、その結末までを一瞬で脳内に幻視してしまったからでした。この象徴的なコマは、作り手自身も抗うことのできない「大きな物語」が憑依的に描かせたものだと、いまでも確信しています。

 さて、少し話はそれます。「何が起こるか作者さえ原稿に向かうまではわからない」展開が本作の魅力を作り出していますが、連載初期には人気の低迷から打ち切りの危機を経験したそうです。仕方なく、そこまでのストーリー(花田)を放棄して、とっておきのとっておきだった「俊敏なジャイアント馬場による回転胴まわし蹴り」カードを切ったら、次々と新たなアイデアが浮かんでくるようになって、人気はたちまち回復し、連載を継続することができたという話をどこかで聞いたことがあります。これは、創作を志す者にとって考えさせられる逸話で、使われない良いアイデアはときに新たな思考が発生するのを妨げるということです。ちなみに、nWoのフィクションが頓挫し続けているのも、MMGF!の終わりに至るストーリーラインがそのアイデアの座ともいうべき場所を占拠しているからです。

 話を範馬刃牙へ戻しますと、父子対決の結果はみなさんがご存知の通り、大きな物語の要請を意志の力でねじふせ、作者その人が行司役となって「どちらも生かす」ジャッジが最終的に下されました。その是非を判断することは私にはできませんが、いずれにせよ、刃牙世界の背骨であったテーマはそこで閉じ、以後に語られている内容は余生とでも呼ぶべきものでしょう。この物語はもうどこで終わっても、大往生と呼べる段階に達しているのです。ベルセルクもこの段階に入ってから、絵画作品へと移行すればよかったのにと、悔やまれてなりません。どこかで読んだ「キャスカは鞘当てに過ぎず、ガッツがグリフィスを抱けば、この物語は過不足なく終わる」という指摘はまさに至言で、あのデビルマンにおける善と悪のアルマゲドンも、アキラがリョウを組み伏すことで終わったのですから(だから、阿部定的な情念を背景に、此岸の浜辺でアキラの下半身が喪われた)。

アニメ「スペースダンディ」感想

 アマプラでスペースダンディが配信されたので、通して見る。じつは、これがはじめての視聴でした。異様に豪華なクリエイター陣による大人のお遊びと言いましょうか、ドタバタSFギャグ実験アニメ(微エロ)へと仕上がっています。ただ、単話完結のオムニバス形式を貫けばよかったのに、最終話付近で物語全体を刺し通すクシを用意したのには、「なんかこのままじゃ、もったいなくね?」という作り手の色気のようなものを感じてしまいました。通貨の単位がウーロン(例の冷蔵庫も出てたらしい)だったり、同監督のカウボーイビバップを表だか裏だか陰だか陽だかに配して作られていることは明らかで、妙に一般的な評価が低い理由も(そして参加者が豪華な理由も)あらかじめそれを期待されてしまったのが原因でしょう。ビバップは全話通じての平均点が80点を超えるのに対して、ダンディは90点の話(「全速力で大人になる」少女の話)もあるのに、平均すると50点くらいになってしまうような印象です。

 んで、カウボーイビバップのほうもテレビ版と劇場版を通して、ひさしぶりに見直したんです。アルファキャッチと風水少女の話は若干トーンが浮いているような気がしましたが、まー、つくづくパーフェクトな構成ですねー。DVDボックス(過去の記録媒体を模した装丁のヤツ)を持ってる程度にはファンですが、これまでほとんど同作に言及したことはなかったような気がします。これはつまり、言葉で後から何を付け加える必要もないほど完璧なシリーズだということでしょう。ビバップは「エヴァ以降」の作品で、それこそ雨後のタケノコのごとく乱立したオリジナルアニメ群が、思春期のジャリどもの抱く一過性の葛藤をウジウジ描いていたのに対して、「こういうのが大人なんだぜ」「こういうのがカッコいいんだぜ」というメッセージをワルい音楽とともに軽妙洒脱に表現していて、突出して新しく見えたのを覚えています。シリアスとコメディ、メインストーリーとサブシナリオが絶妙のさじ加減で配置されていて、終盤は「ブレインスクラッチ」での虚構への耽溺に向けたメタ的な批判ーーこれから語る内容への照れかくしーーから、最高にクサいフィクション(褒めてます)である最終2話へと怒涛のようになだれこんでいく。ビバップクルーたちの離散から、スパイクの「あしたのジョー」エンドへの流れは、今でも涙なしには見られない、この上なく美しい終わり方だと思います。

 これを受けての劇場版は、最終回以前の時間軸で作られていて、4人の関係性、主人公の生き方、そして「人生とは、一夜の夢である」ことを改めて補強しており、テレビ版から一貫したテーマが引き継がれていました。映画としての評価はあまり高くないようですが、アニメでは数少ないイスラム圏の描写を含めて、個人的には大好きな作品です。まあ、テレビ版での「100万回生きたねこ」や、劇場版での「胡蝶の夢」など、あまりに作品テーマの提示と引用がド直球すぎるきらいはありますが、まったくテーマを持たない作品(もう名前は出さない)に比べれば、はるかにマシでありましょう。当時さんざん言われたことに、「次のルパン三世をねらえる作品」という評価があり、じっさい、このキャラと世界観で延々と話を続けることはできたと思います。そこを、「いや、ビバップは食い足りないくらいでちょうどいいんだ」とうそぶいて、続編や前日譚にいっさい手を出さなかったのも、海外までを含めた作品の神格化へ大いに寄与していると思います。「レッドドラゴンの内幕」とか「ジュリアを巡る三角関係」とかを詳しく語ってしまうと、陳腐にしかならないのは目に見えていますから。

 あと、ついでに実写版の情報を探ってみたんですけど、ライティングが妙にペカペカ(セル画を意識してる?)した、海外オタクたちによる名場面コスプレ集みたいなスチルが次々と出てきて、暗澹たる気持ちにさせられました。キアヌはいったいこの10年、路上で何をしとったんや……アホな配給会社に権利を取られてしまいよってからに……。

 最後にダンディへ話を戻しますと、ビバップのそれを裏返しにした「オッサンって、パイオツとヒップが大好きで、パッと見はエロくてダサくてカッコ悪いけど、じつは優しくて若者にはないユーモアがあるんだよ!」というメッセージが含まれてるような気がして、ちょっとカッコ悪いなーと思いました。

 (禿頭和装の大男が大喝して)未来に送るのは、女と子供だけでよい! 貴様も漢なら、過去に死ねい!

 あと、ぜんぜん話は変わるけど、ビバップ最終話でフェイがスパイクへの気持ちを表すために空砲を3発撃つシーンがあるけど、あの演出ってもしかしてシティ・オブ・ゴッドが下敷きにあったのかなー。