猫を起こさないように
日: <span>2020年12月6日</span>
日: 2020年12月6日

雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

質問:小鳥猊下の鬼滅の刃総括談話はまだですか

回答:ほんとに出してほしいの? まったくインターネットは沈黙の美とはほど遠い場所ですね。しぶしぶ懐から美しい言葉をチラ見せするけど、乞うた以上は責任をもって拡散しなさいよ。キミたちはもっと私をチヤホヤしていいと思う。

 ツイッターでは作者と作品は切り離して鑑賞すべきって意見が多いように思うけど、私はジャンルとかじゃなくて作者を追いかけてしまうタイプの読み手なのね。”Behold the man”、まさに「その人」が表現しているものを時系列にロードローラー(ネットミームに読解を邪魔されないで!)でならしていくように味わいたいわけ。作者の人格は、「ダダ漏れ」から「かそけく匂う」までの振り幅はあるけど、”必ず”作品に現れるというのが、私の意見なの。鬼滅の刃もそういう読み方をしてしまっていて、男性作家だったら一生をそこにとらわれてしまうような巨大な重力場から軽々と飛び去ることができたのは、女性の書き手ならではだと思う。このかろやかさを目の当たりにすると、二十年も同じ作品を連載し続けるのは、それこそ無惨様の所業で「生き汚い」なと思わされてしまう。これを言うと反発ありそうだけど、女性が人の営為にコミットしようとするとき、男性とくらべてかなり厳しいタイムリミットが設定されているので、鬼滅という物語を語り終えた女性が、次に命の鎖の先端へ己の写し身である輪っかを付け加えたいと願うことは、個人的にすごく得心するというか、すとんと胸に落ちる感じがする。この後も鬼滅のアニメ化は続いていくだろうし、今回ほどの大ヒットにはならないと思うけど、映画版の制作も続いていくことと思います。あらゆる出版社がコンタクトを試みるだろうし、ゴシップ誌は作者の現在を探ろうとするだろうし、遠い親戚によるカネの無心は絶えないかもしれません。様々なノイズによる苦労は多いと思いますが、漫画から離れた作者の人生が静かで満ち足りたものになることを心から願います。たぶんこの人は、鬼滅の刃を描いたことを自分の子どもたちにはすすんで言わないような気がするんですよね。

 数年後、どこかの地方都市でひとりの主婦が、息子の同級生の名前が数年前に流行した漫画のキャラクターに似ている(そのものではなく、似ている)ことに気づき、もしかしてあの優しそうな奥さんもファンだったのかしら、なんて思う。そして実のところ、息子の同級生の母親が作者その人だったなんて考えると、とても楽しい気分になります。

 さらに十数年後、だれもが鬼滅の刃をはるか昔に流行った作品として忘れてしまった頃、ある月刊誌の読み切りに、よく似た絵柄の漫画がひっそりと掲載される。ペンネームはちがうが、ごく一部のファンが気づく。でも、だれもそのことをネットに書きこんだりはしない。読み終わったあと、ただ暖かな気持ちで、こう思うのだーーああ、子育てが終わったのかな。あなたの消息を知れてうれしい、あなたがこの空の下のどこかで生きていてくれてうれしいーーと。

雑文「twitter批判と創造性について」

 通りすがりに”Hi, there!”くらいの感じで「いいね」してやってんのに、だれも挨拶をかえさないどころか目さえ合わせない。まったくここは礼儀のなっていないインターネットですね。私がヤング・エグゼクティブをつとめている現実社会では考えられないことですよ。挨拶は相手に自分をモノ化させないことで犯罪をふせぐって教わらなかったんですか! これ以上は凄惨な事件になりますよ!

 んで、自分のためにイヤイヤ「いいね」つけてるーー強気な言葉とは裏腹に、都度の消毒で少女の指先は赤くただれ、ところどころ裂けた皮膚の下に赤い肉がのぞいているーーと、否応にフォロワーの多いアカウントを観察することになるわけですよ。24時間中18時間くらい断続的に1ツイートへ収まるニュースや世間への感想を述べていて、わたしもフォロワーを増やすためにはそういった発言をしなければならないのかと思った次第。では、試みに社会的な1ツイートを。バズったら、いいおにく買おう。

 建立1300年の法隆寺の前に、創業10年未満の立ち食いステーキ屋の出店がいきなり許可され、あげく半年も経たず下品な看板を残してつぶれ、それがいつまでも放置されて景観を乱し続けるのが、奈良県の観光行政の本質。

 あれですよね、1000リツートを1越えるごとにツイッター社から1ドルもらえるんですよね? みんなそれで生計たててるんですよね? だから毎日あれだけ時事にからめたツイートをしてるんですよね? あたし、信じてるから!

 本邦の抱える問題とは、新しい事象に対して即座に新しい言葉が発明され、一瞬で社会の隅々まで行きわたり、それこそ老若男女、社長から乞食、教授から中卒まで、その言葉を使い、その言葉で思考するようになることである。浸透の過程に何の疑義もなく、発明された言葉が後からの批判で覆ることもない。少し話はズレるが、もはや国民的スポーツの座から陥落して久しい野球のニュースがスポーツコーナーで大きな割合を占める理由もこれに近い。使い古された定型(「Aの頑張りに応えるため、気持ちでBしたとC」構文)だけでニュース文が書けるので、その利便性が世の実情とは乖離して存在し続ける理由だ。最近のニュース文にはひどいものが多いので、この種のライティングこそAIで自動化すべき分野だろうと思う。閑話休題。そんな1984年的な「言語に思考させられている状況」への抵抗として、nWoでは固有名詞や類型的な言い回しを避ける表現を長く心がけてきた。それもこれも、いまは亡き栗本御大が「小説に新聞の見出しみたいな表現を使ってんじゃねーよ! 言葉は使われれば使われるほど摩耗して意味を減じていくんだよ! 小説ってのは新たに言葉を創造していく作業なんだよ!」みたいな内容を小説道場で吠えていたことへ、持ち前の素直さで従った結果である。冷静に考えれば、モーツァルトがぽつぽつ楽譜を埋めるばかりの新人作曲家へするアドバイスみたいなムチャぶりではある。おかげで二十年が経過した今、もう何も書くことがなくなってしまった。かつて、本当に独創的なテキストを書いていたサイト運営者がいたのだが、彼の消息を追ってみると、ただのゲーム実況者になっていた。あまりに独創的すぎたので、どこかの時点で言葉のオリジナリティが枯渇してしまったのだろうと推測する。だが、枯渇しても表現への欲求が消えるわけではない。「生きながら萌えゲーに葬られ」から一節を引用する。

 「何かを批判したり批評したりする態度だけをとり続けることを選択すれば、永遠の生命を生きることが出来ると思っていた。新聞というメディアが現実に依拠することで永遠を存続できるように、誰かの作り出した何かに依拠し続ければ、自分は存在を長らえることができるだろうと考えていた。」

 つまるところ、ゲームや映画への感想も、ニュースへの言及も、他者の言動への批判も、人間社会に寄生する血吸い虫の所業と変わるところはなく、そう考えるともう何もかもの意味を失って唇はこわばり、少しも口を開くことができなくなってしまう。私が本当に聞きたいのは、この諦念から話すことを止めただれかの声であり、圧倒的なオリジナルを放擲し、他者の創造物に乗せて話を続けることに決めただれかの本心なのだ。永遠も半ばを過ぎて、何も語ることがない空っぽの心を抱えて生きている。みんなどうやってこの気持ちをしのいでいるのだろう。

 なにッ! エフジーオーの2部第5.5章が明日開幕と申すか! 題材からして1.5部第3章の書き手と推測する。(ヨダレを手の甲でぬぐいながら)こいつァ、楽しめそうだぜ……空っぽの心に他人の創作物からエネルギーを吸い上げて、自分語りを垂れ流す社会的無責任さをな……!!