猫を起こさないように
日: <span>2020年11月22日</span>
日: 2020年11月22日

アニメ「波よ聞いてくれ」感想

 「苦悩と憎悪は個別的だが、救済は普遍に回収されるしかない」ってのは昔から思ってる。

 ヴィンランド・サガが好きで(アニメはアレでしたね)、単行本で追いかける派だから今どうなってるか知らないんだけど、ネットで見かけた主人公の顔がプラネテスの「愛することはやめられない」の顔になってて、またぞろ先行きに不安が募っている。苦悩と憎悪を魅力的に描いておきながら、救済の段階で感情が宗教に類似した何かで漂白されたみたいになるのって、世代の問題なのでしょうか。「生きながら萌えゲーに葬られ」を再読して、そんなことを考えました。ちなみに「高天原勃津矢」は普遍的な苦悩からの個別的な救済になってて、裏返しの関係になってると思います(まあ、ロスジェネくらいのスパンの普遍に過ぎませんが)。

 ぜんぜん関係ないけど、アニメ化がアレでひとつ思い出しました。家人が「波よ聞いてくれ」のファンなんですけど、アニメ版の1話を見終わった後の感想が「自分がこんな話を好きだったなんて、すごく恥ずかしくなった」でした。それを聞いて、漫画芸術の持つ優位性のひとつとして「不条理の飲みこませ方」って、じつはすごく大きいんじゃないかなと感じさせられました。アニメ化によって漫画から抜け落ちる要素って、なんなんでしょうね。

 @unknown 時間感覚が発信者に合わせられる感じがして、好ましくないことも少なくありません。漫画は自分の配分で読めますが、アニメは解釈と反応を強制(矯正)させられる感があります。良い効果のこともあるにはあるんですが

 ご指摘は慧眼で、本質的に「ヘンな話」を成立させていたのは、読み手の人生による補完だったと思います。アニメ版はおのれの言動を奇矯だと自覚していないおたくを見るような痛々しい感じが全編に横溢しており、アニメ制作者はどうすればあの原作をこう解釈できるのか、おたくは己がおたくであることを自認できないからおたくなのか、などと考えました。また、「音楽漫画の実写化問題」と同じ根を持つような気もします。アニメ演技でない、本職のラジオパーソナリティを当てれば、ある程度は解消したのかもしれません(宮崎駿みたいなこと言ってる)。絵もあんなペカペカ明るい感じじゃなくて、もっと原作に寄せた陰影があれば……視聴中、瞳の影の付け方が昆布みたいでヘンだな、とずっと思ってました。

ゲーム「ラスト・オブ・アス2」感想

 FF11のプレイを止めて時間が空いたので、ようやくラスト・オブ・アス2に着手したと思ったら、数時間後にはアンチャーテッド4をプレイしていた。何を言ってるのかわからねーと(以下、例のネットミームと画像)。また、グラフィックが現実とまごうばかりに精細になったためか、それとの比較から横長のスクリーンに制約された視野角の狭さが気になりだした。具体的には縦方向に高さが足りず、視野が欠損しているような違和感を覚える。賛否両論のストーリーについては、かなり早い段階で重大なネタバレを踏んでしまっていた。しかしながら前作のエンディングから十分に想像できる範疇であり、エヌ・ティ・アールを何より恐れるピー・ディー・エフとってはむしろピーニスが遠ざかっていく安堵さえあった。そんな清廉潔白の士を何よりいきどおらせたのは、プレイアブル・エリーの年齢が13歳から19歳へと6歳も改悪されていたことで、キャラクターの尊厳を踏みにじるこの変更は本当にゆるしがたく、受け入れられない。

 (癇癪で口の端から泡をぶくぶくさせながら)19歳のエリーなんかで、プレイしたくないッ! 13歳だったエリーたんをボクに返せよッ!

 そんな純粋な義憤からラスアス2を離れてアンチャーテッドへ移行したのだが、このシリーズの大ファンなのに4はなぜか途中で止めてて、なんでかなー、こんなに面白いのになーって2時間ほどプレイしてたら、探索パートで腸がぐるぐると蠕動しはじめた。イヤな予感にコントローラーを置くいとまもあらばこそ、視界に閃輝暗点が生じると視野がみるみる欠けていく。そして気がつけば、ひどい偏頭痛で床にブッ倒れている自分を発見したのだった。そうだ、なぜか4のカメラワークと非常に相性が悪くて、プレイすると高い確率で偏頭痛が誘発されるので、泣く泣くクリアを断念していたのだったーー

 (吐瀉物にまみれながら)そんなわけで、「サックス博士の片頭痛大全」、消極的な理由からオススメです!

アニメ「ダイの大冒険」感想

 ダイの大冒険、世代なので遅ればせにアマプラで第1話見る。大事MANブラザーズバンドを彷彿とさせる語呂あわせクソ・リリックのオープニングに心をくじかれ、開始30秒で視聴を止めようかと思ったが、なんとか本編へたどりつく。感想としては、かつてのファンだったオッサン・オバハンがリアルタイムでエス・エヌ・エスをやりながら同窓会的に見る方法以外では、楽しめない作品になっています。わざとかもしれませんけど、台詞運びや場面の切り替えやアクションのテンポ感がすごくスローリーで、昭和生まれには懐かしいのかもしれませんが、ウェブ動画に慣れた最近の子どもたちは生理的にじれったくて見ていられないでしょう。青少年向けアニメなのに、ターゲットはオッサン・オバハンという歪さに、制作側も感覚のアップデートされていないオッサン・オバハンなんだろうなという暗澹たる気持ちにさせられました。本作は毎年のように新作が発売されるドラクエ全盛期に連載を開始し、ドラクエの販促という鬼子的出自をふりきってはるかな高みへと飛翔したからこそ、当時の少年少女たちに長く記憶される名作となったのだと思います。個人的には、ダイの大冒険あたりから「たたかう」「じゅもん」だけだったドラクエ世界に「とくぎ」として「なんとかスラッシュ」などの剣技が逆輸入され、転職システムの変更と相まって最終的に全てのキャラが没個性なカンストへゴールするゲームへと変じて、やや魅力を減じてしまったと感じています。

 閑話休題。本作は当時の文化と社会の状況こみで体験してこその作品だと思うので、若い世代から新規のファンを取りこむのは(テンポの件も相まって)厳しいのではないでしょうか。以前にも言いましたが、猫型ロボットとかゴム人間とかポケット内の怪物などの長寿作品群は、いまやオッサン・オバハンがおのれの少年時代に体験した感動を後からやってきた小さい人々へ、同時代性抜きに押しつける側面が強くなりすぎています。文学はいちど誰かに語られれば語りなおす必要のないテーマが描かれ、ジュブナイルは同じテーマを新たな世代が何度も語りなおす性質の作品群だと指摘したことがあります。この意味で、少し前の妖怪ウォッチとか、最近の鬼滅の刃は正しくジュブナイルですし、特に後者は子どもが子どもを、少年が少年を失う前に語り終えられたという事実から、彼らにとって大切な心の場所に長く留まり続けることでしょう。

 さて、ドラクエ派生作品の話をしてもオッサン・オバハンにしか通じませんので、最後に鬼滅の刃について話を移して終わります。鬼滅の刃の特徴って、少女漫画的な「詩情」だと思うんですよね。特に女性の中で理想化された、肉から離れた男性の詩情を感じます(女性の描き方は肉そのもので非常に生々しいのに)。その一方でアクション漫画としては、キャラと背景と技のエフェクトが同じ調子で描いてあって、大ゴマを1枚絵としてじっくり眺めないと何が起こっているかわかりづらく、読むのに時間がかかる。その弱点の理想的な補完がアニメ化によって行われ、物語の持つポテンシャルが最大化されたことで、一個の作品として完成することができたのだと思います。覚えておきたいのは、この作品は大人を楽しませる力を持っていますが、本質的にはいまを生きる子どもたちのものであり、テリーやエス・エヌ・エスで騒ぎ立てるオッサン・オバハンのものではないということです。今あふれているように見えるこの作品に向けた言説は、私のものも含めて、すべてオッサン・オバハンのウエメセ感想に過ぎません。未だ一語たりとも、子どもたちの心以外のどこにも、この作品の本当の感想は書かれていないのです(言語によって矮小化される前の世界理解に彼らはいるからです)。これから十年をかけて、いまの少年少女たちがどう鬼滅の刃を受け止めたかが明らかになってくるでしょう。私は、それを見るのを楽しみにしています。

ゲーム「激闘!エオルゼア(FF14奮戦記)」

 エオルゼアで不健康に麻雀しかしていない自キャラを不憫に思い、薄目で少しだけメインストーリーを進めてみる。面白くないこともないが、親を間接的に殺した相手にサービスを受けている居心地の悪さが常につきまとう。FF14のための実験と称してFF11にアイテムレベルを導入した狼藉は、試みに足の悪い老人の秘孔を突いて殺しかけるレベルだったし、FF11のデザインを剽窃した種族や敵キャラを目にすれば、愛する人の生皮を剥いでかぶった猟奇殺人者を想起してしまう。ふりかえれば、FFシリーズの中で12と14だけが他の作品たちと地続きになっていないように思う。前者は想像力のオリジナリティ、後者は想像力のプレイジャリズムによってそれぞれ特異な存在となっているのだ。ともあれ、若干の紆余曲折を経て、再び私のエオルゼアは雀荘サイズへと戻ったのであった。HAPPY END!

 なに、今日はプレステ5の発売日だったというのか! もはや私は次世代ゲーム機(死語)に対して、ドライブがてら近所の電気屋を10軒ほど回るぐらいの関心しか示せない。でも途中、「本日はフリーでの販売はありません」という貼り紙を見かけ、キショクマンメン・ステイトで「オーッ、オフコースお金は払いマスネー! ハウマッチ・シュッド・アイ・ペイ?」っつったら、「ハア?」って顔してミーに恥をかかせた店員は殺します。誤解が無いように付け加えますと、有機物が無機物に変じる瞬間へ責任を持つという意味で「殺す」と言いました。って、その一連のムーブ、かなりプレステ5に執着ありますやん! 関西弁をやめると言ったそばから流暢なネイティブ発音が出て申し訳ないが、たとえ買えたところで遊びたいソフトが一本もない。ってそれ、ただのすっぱいブドウですやん! 数週間の加療を要する言語障害で申し訳ないが、プレステ5専売であるFF16が発売されたらプレイしてやらないこともない(えらそう)。

 FF14にも感じたことだが、この制作者はとにかくネーミングのセンスがひどい。ヴァリスゼアって名詞を見た瞬間、のけぞりながら「だっせー!」と叫び、叫んだ余勢をかって思わず後方宙返りしてしまうほどダサい。「よし、英語で悪徳を示すヴァイスを使ってヴァイスゼア……は直接的すぎるな。い行で考えてみるか。い、き、し、ち、に……ヴァリス、これだ! なぜかわからないが夢幻の戦士みたいなイメージもあるし、ファイファンの世界観にぴったりじゃないか! (己をかき抱きながら)おお、我がエオルゼアの表裏となる背徳の地、其方の名はヴァリスゼア……!!」とかなんとか言いながらモニターの前で失禁してそうだ。おいコラ、地名ってのはてめえの自意識から出てくるもんじゃねーんだよ、多くの人たちが暮らす歴史から出てくるもんなんだよ! なに、シリコンバレーのネーミング方式にならいました、だと? バカモノ、あれはもともとサンタクララバレーだろうが! この西洋かぶれのキラキラネーム野郎め、蛇落地悪谷さんを見習いやがれ! FF11の制作者が「三日三晩考えて、ヴァナディールという単語がひらめいたときは、これで勝ったと思いました」っていうような確かなものづくりの感覚が、なぜ組織文化として根付いてねーんだよ! 意識高い系の自称カリスマばっか軟便みたいに輩出しやがって、ぶちころがすぞ! 思わず激してしまい申し訳なかったが、これは結局のところクリエイティブの真の上澄みは個人の才能からしか発せず、組織に接ぎ木できないことの証左かも知れぬ。

 関心を得るためだけにまた意図的に鬼滅方向へ脱線していきたいが、あのさー、鬼滅の刃のユニークさは固有名詞の発想にもあると思うんだよね。パッと見、キャラの特徴を中二病的感性でムリヤリ漢字に押し込めただけで、鬼舞辻無惨とか最初は「なんじゃそりゃ」って思ったけど、ケンケンフクヨーするうちスルメみたいに味が出てくる。これはやはり、作者の人格に強く紐づいた言語センスとしか言いようがないと思うゼア。ちなみに、私のオススメのゼアはボブ・ディランの伝記的映画「アイム・ノット・ゼア」である。諸君のオススメのゼアもぜひ教えて欲しいゼア。

 タイムラインにて「FF14はストーリーが良い」とのツイートを見かけ、「ほんとにござるかぁ?」などと疑いつつも、ときどき雀荘から出てメインシナリオをぼつぼつ進めていたが、テレポで移動してはフラグを立てるだけのおつかいが続くばかりで、いっこうに面白くならない。たまにさしはさまれるオートリーダーのダンジョンも、前衛なので近いカメラに山盛りのエフェクトで何が起こっているのかわからないまま終わる。ここ一週間での進展はと言えば、麻雀で卓を囲むときに”LIGHT PARTY”と表示されるのどういう意味かなー、光のパーティって意味かなー、とか思ってたら、”FULL PARTY”に対する”LIGHT”なのがようやくわかったぐらいだ。

 そんで今日、帝国軍(笑)のアルテマウェポンを倒すのを目的としたラスダンと思しき場所へ突入することになったわけ。けっこうな頻度で音声つきのイベントシーンが始まるんだけど、なぜかスキップできないの。奇矯な語彙のヘンな文章をいい声で朗読されるのに精神的ダメージを受けつつも、フルパーティのエフェクトまみれでむりくり進行していくわけ。敵方の最重要人物たちがわざわざ手の届く範囲へ親切にも姿を現してーー現実のボスは決して姿を現さないまま、ダメージかどうかもわからない遠隔攻撃をこっそり重ねてきてて、気づいたときには削り殺されてるーーくれて、よくそれで重要な役職につけたなとびっくりするような精神病とまごうごたくばっか並べてくんだけど、結局ぜんぶ暴力で解決するのはJRPGの悪い部分を濃縮しててすごい笑える。あと、なぐりたおされたボスが「それだけの力があるのに、なぜ俺の考えがわからない」とかアホ言ってくんだけど、黒人のヘビー級チャンピオンにアジア人の独裁国家元首が「すごいボクシングが強いくせに、なぜ共産主義思想を理解できないんですかあ!」とか言うみたいな滑稽さだなあ、と思った。

 じつは裏でプロメアっていう劇場アニメーーポップな色調で線が少なく動きが激しいグレンラガンみたいなヤツーーをアマプラで流しながらプレイしてたんだけどーーどっちもガワは新しいのに語られる内容は昭和みたいな野暮ったさで、両作品から音声を伴って流れてくる負の相乗効果により、ひさしぶりにいい年をしておたくを止められないことを恥じいる例の鬱々とした気分にさせられました。

 そうこうするうちにエンドロールが始まって、なんか各国首脳(笑)の演説が始まるんだけど、どれも小学校の校長が児童に語るみたいな中身なのね。ゲンナリしてそれを聞きながら、声優とかアナウンサーとか話業の人をあらためて尊敬する気持ちになりました。どんなにつたなく破綻したスクリプトでも、成立しているように演じてみせるんだから! 結局、FF14のストーリーの良さはわからないままでした、すいません。

 オススメされたストーリーを読むためにFF14のプレイを続けているが、どうもすべてのストーリーが縦方向へリニアーにつながっていて、FF11とは異なり順にすべてのシナリオを消化していかないとエキスパンションにはたどりつかないらしく、くだらないおつかいをテレポで消化するのが苦痛でしょうがない。戦闘システムも理解できてきて、最後にはレベル99のキャラでスキルの時間管理をしながら正しい順でボタンを上手に押す作業になることがぼんやりと見えてきた。まあ、モンハンワールドの極ベヒーモス戦コラボでなんとなくわかってたけど、突きつめていくとFF11とはまったく方向性の違うアクションゲーになっていき、RPGをプレイしたい気分には合わないなーと思っていた矢先でした、その事件が起こったのは。

 何の脈絡もないまま突然、死に化粧みたいなテクスチャの顔面でカタパルトみたいなパイオツをピンクのブラジャーで包んだオールウェイズ腹まるだしの痴女が焦点の無い目で「じゃあ、今日はエーテルの説明するね!」とか言いながら豪華なパワポみたいなの使って得意げにプレゼンをはじめんの。そしたら、疑問も葛藤もないペラッペラの死生観が失禁みたく垂れ流されるわけ。輪廻転生の孫引きのガイア理論のひ孫引きのヒゲの御大によるライフストリーム理論から玄孫引きして、おまけに何の内省も無いまま前頭葉だけで思考してるもんだから、「死んだらエーテルに回収されて、また生まれ変わるんだよ!」とかいう文字列がこれ以上でもこれ以下でもない100%の生命の解釈なのよ。つまり、FF14世界での生死にまつわる「観」じゃなくて「実相」がこれなの。この制作者にかかったら真言密教なんかも秒で理解されて、「つまりそれは現代的な価値観でアップデートするとこういうことですね」とか齢百歳の高僧に向かって前頭葉の要約を軟便みたく垂れ流し、己の軽薄と侮辱に気づきもせず同じ晩には夜の街にくりだして、その日にあったことすべてを忘れてそうだ。”Another Time, Another Place”、いま現在の地球ではないという意味での異世界(最近ではこの単語もペラくなってて、視界に入ると目をそむけちゃう)を創出するのにもっとも重要なのは、どういう死生観を持った人々が生活しているのかという想像力だと思うんです。当然、国や民族や住む場所によってそれは違ってくるでしょう。エオルゼアって、白人とインディアンがLEDライトの下で同じ死を死ぬ世界なんですよ。このエーテルに関する豪華なパワポによるプレゼンーー声つきの演技がまた得々としてやがんだーーを聞いて、こんなクソみたいなペカペカの死を迎える世界に、大切な自キャラを置いておけんわとなって(と、なって!)、鬼畜米英が目前に迫る防空壕の母親の気持ちで、衝動的にキャラデリしちゃいました!

 エヘヘ、ゲイカジョーク! 麻雀をする場所を失ったことだけが心残りなので、だれか無料で麻雀ができるアプリなんか教えてほしいナー?

雑文「ルンペン的生活者の手記」

 ノトーの運営がまたぞろルンペンの記事でフレイミングしておるようだが、「スマホでnWo!」は過去サイトと比べても相当に読みやすく、提供されているフォーマットには感謝しきりである。そして、通勤や出張の合間にどこへも届かなかった作品をノトー上で読み返すことは、うらさびしくも楽しい時間だ。

 さて、自己選択的ルンペンなる概念については、特にロスジェネ世代が過敏に反応しているように見受ける。それは戦場の如き歳月ーー才覚と努力だけでは、生き残るのに充分ではない苛烈な環境ーーを過ごした経験から、いま現在の立ち場がいかほどであろうと、我々全員の社会的自認が「特別に運の良かったルンペン」にとどまるからだろう。私は生き残った方のルンペンだが、私の額をねらって放たれたはずの弾丸が逸れ、周囲の同胞を殺し貫くのを何度も何度も見てきた。なぜ私が死ななかったかを説明するのに、自身の能力を挙げることだけは絶対にないと言える。つまり私が生き残った理由は、運が良かったか、神に選ばれているかのいずれかというわけだ。小鳥猊下なるを構成する卑屈と諦念と高慢と自己愛は、まさにこういった時代背景によって形作られてきたのである。ゆえに、ちんぽおめこを連呼する躁の汚濁と、少女保護特区の終幕のような鬱の清浄は、私の中でまったく矛盾しておらず、両者は常に行き来する場所なのである。

 先日、移動の合間を使って5年ぶりぐらいにMMGF!を読了した。巧拙はおくとして、書かれている中身のあまりの偽りのなさに涙がこぼれた。同時に、これを繰り返せば技術の向上は見込めるのだろうが、この内容でダメだったなら私が私である限りは、もう何をどうやっても仕方がないとも感じた。高慢と自己愛から転落したその卑屈と諦念は、アイドルとセックスワーカーの隣接にも似ており、現代的な病理の形象化がすなわちキング・ルンペン・小鳥猊下の正体なのだろう。

 いやー、ルンペンに言及した文章だけでなく、こんなルンペンが書いた文章まで分けへだてなく掲載してくれて、ありがとう! ひと昔前なら、駅や公園の便所壁に記述するしかなかったわけだから! 弥栄、弥栄、ノトー運営の未来に栄えあれ!