猫を起こさないように
日: <span>2020年5月17日</span>
日: 2020年5月17日

雑文「深夜ラジオ、あるいは対話について」

 最近では、インタネトーやらツッタイーに出座するたびに、リッチ・ホワイトがゲーティッド・コミュニティに引きこもる気分を生々しく想像できるような有様である。王ならば貧しき者たちへのノブレス・オブリージュも生じようが、富める者たちには元よりそんな義務はない(小さくてやわらかい社の元プレジデントぐらいにリッチを突きつめればーー金のバスタブでするロマネコンティ風呂みたいなイメージーー話は別だろうが)。差別とは、いまや無視とか装われた無関心に形を変えているのだ。もちろん、キング・ルンペンの愛称で親しまれている青い血の私も、萌え画像の一枚すらよこさない君たちの生や苦しみには、何一つ関心がない。

 え、キングじゃなくてエンペラーでしょ、だって? なに、昨年の今頃にインペリアル・サクセッションの茶番劇をやってませんでしたか? ハハハ、記憶違いじゃないの? 俺は今も昔も、ナラ・プリフェクチャー在住のしがないローカル・ガバナーさ……何より、スローターにフィリサイドにアースクエイクにタイフーンにフラッドにプレイグにエピデミックにコンテイジョンにデプレッションに、俺の治世がこんなに悲惨なわけがない(ツンデレ制服女子が腕組みしながら)!

 おっと、意図的なビーンボールと受け取られかねないので、話題を変えよう。今日わざわざゲーティッド・コミュニティから出座ましましたのは、ラジオ番組での芸人の失言と説教が話題になっていると知り、大学生くらいまではよくラジオを聞いていたことを思い出したからだ。当時はネットもスマホも存在せず、ファミコンの電源アダプターも母親に隠されているため、特に深夜は文字通り、ラジオを聞くくらいしかやることがなかった。内面旅行のレディオ・ライブラリーから多くの名作を知ったし、ジュン・ハマムラからはライト・ウイングドな映画鑑賞法を学んだ。もちろん、一晩中・日本も受験期にはよく聞いた。エレクトリック・グルーブのことは長く芸人コンビだと思っていた。ピンポンがコケインの顔を「歪んでる」とディスり、生放送中にコケインがスタジオから出ていった回(台本だったのかな……)とか、なーんちゃんたりしちゃったりなんかしちゃったりしてーa.k.a.広川太一郎が生出演してくれて、本人が帰ったあとに「なんで、出てくれたんだろう?」とピンポンとコケインで不思議がってる回とか、昨日のことみたいに思い出すことができる。あ、なんかリレー・ドラマみたいなのにハガキだしたの思い出した、採用されなかったけど。ラジオを聞かなくなって久しいけど、ポストカード・クラフツマンには劣等感というか、尊敬みたいな感情、いまだにあるなー。そういえば、ノーザン・トゥルースとバンブー・ジャスティスの超能力・ヤングマンズ・アソシエーションは今どうなってるの? おっと、閑話休題。

 で、諸君が話題にしている例の放送を聞いた。一晩中・日本を聞くのは、じつに二十数年ぶりのことだ。そして改めて、他のメディアにはない凄みを感じることができた。行われたのは、対話だ。より正確に言うなら、対話への試みである。私たちの生活において、対話が行われることは極めてまれだ。共感の雰囲気を醸成し、気まずさを薄めるために、空間を音で満たす会話ばかりが横行している。ひとつの意味を共有しようと試み、いったん意味が共有されれば、それが成される前と同じ立ち位置にあることはできない、その行為を対話と呼ぶ。己の人生をふりかえっても、対話だったと思えるコミュニケーションは数えるほどしかない。対話と思われるものの多くは、真剣な外面だけを装い、己を固持することをあらかじめ決めた、いわば音の振動を伴った時間の空費に過ぎない。今回、生放送で行われたのが本当に対話だったのかどうかは、究極的には対話を行った当事者たちにしかわからない。それは教育と同じで、十数年を経てから「あれは対話だった」とひっそり気づく性質のものだ。少し前に、人類が滅んだ後の街で家々の部屋をすべて見て回りたいという、私の抱える異常な欲望を話したことがあると思う。今回の経験は、それに近い。透明人間として、壊れかけた夫婦の寝室に居合わせる。加工も記録もない、ドキュメンタリーには満たない何か。テレビでもなく、ネットでもない、ラジオだからこそすくうことのできた水面の泡。これが、対話だったことを心から願う。

 よっしゃ、ちょっとトーン変えるから、ワン・ボディの人はこっからは読まん方がええで! 少し驚かされたのは、シンギュラリティ(婉曲的な表現)の方々が話し手の論旨そのものに深く賛同しているのにも関わらず、マリッジに関する言及にことごとくネガティブな反応をしているところだった。それこそ、バーティカリー・チャレンジド(政治的に正しい表現)やシン・ヘア(流行におもねった表現)にコンプレックスを抱いている方々が、それらをダイレクトに表現した罵倒(チビやハゲ)を聞いたときの反応に近く、認知の歪みさえ感じられるレベルなのだ。私が感じたのは例えるなら、階段教室で穏やかに講義をしていた大学教授が突然に背後の黒板をこぶしでなぐりつけた後、何ごともなかったようにまた穏やかに話し始める場に立ち会った学生の感じるだろう恐怖であり、もっと簡単に言えば「え、そこまで気にするようなものなの?」という驚きである。少子高齢化の進む現代社会において、もはやあらゆる場面でこの話題はタブーとなる時期に達しているのだと感じ、今後の言動について貴重な気づきを得ることができた。ツッタイー・ユザーなる本邦のノイジー・マイノリティの中の、さらにノイジアーなマイノリティの意見である可能性は高いが、用心に越したことはない。やれやれ、すべてをインターネットに包囲され、もはや現実の方が引きこもるべきゲーティッド・コミュニティみたいじゃないか!

 あの、何かの否定は何かの肯定にはならないですよ。

 先ほどの連続ツイートの結果、フォロワー2名減る。例えば、あるノーベル賞作家の人生観を永久に書きかえる「個人的な体験」が水頭症の嬰児であったように、彼にとってのそれは結婚だった。そして、別の誰かにとって、結婚は人生観の変更には至らない。なぜその当り前さへ理解が及ばないのかを苦しむと同時に、それこそが認知の歪みなのだろうとも思う。

 やめ、やめ! 先ほど、幾度目のことだろう、シン・ゴジラを通して視聴した。この傑作に改めて深く感動すると同時に、まさかシン・エヴァはもう間に合わないから大丈夫だと思うけど、シン・ウルトラマンがコビッドの影響を受けて作り直されないことを切に願った。

アニメ「エヴァ破再視聴、あるいは旧エヴァ19話礼賛」

 なんかYoutubeで序破Qが無料公開されていると聞きおよび、久しぶりにロスの自宅に備えた7.1chサラウンドのシアター(忘れてた)でアンプの埃をはらって、10年ぶり(10年ぶり!)に破を大画面で見た。オリジナルの8話から19話を再構築しながら、同時に旧劇場版のモチーフをあちこちに散りばめて、本当に新しいエヴァの新たな行く末へ、期待しか持てない仕上がりだったことを再発見し、悔しさのあまり涙が出てきた。2010年の段階で、都市を襲う津波がすでにビジュアル化されていたり、海洋研究所で大災害を生き残った者がいなくなった者を悼むやりとりがあったり、2011年の出来事をあらかじめ予見したかのような先回りのアンサーさえ描かれいる。今回あらためて、Qでの方針転換が本当に余計で必要のない、作品の自走性と共時性を裏切った、ただただ世の悲惨をエンターテイメント化する類の冒涜だったとの気持ちを強くさせられた次第である。

 さて、ここからはただのおたく語りとなる。くぐもった早口で本当にキモいので、注意してほしい。終盤のアスカ退場以降の展開について、テレビ版の19話があまりに完璧すぎるため、カネと労力はより以上にかけられているだろうにも関わらず、ゼルエル戦のパートがゴテゴテと厚塗りされた(特にコネメガネ周辺)緊張感のないものにしか見えなくなっている。劇場公開版では本部への使徒侵入後のシーン全般に赤いフィルターがかけられていたのをご記憶だろうか。第19話の構成・構図・カット割りのテンポがハイパーすぎて新作で上書きすることができず、コピーで流用するしかないのを、演出で異なったふうに見せようとあがく試みがすべて空回りしているのだ。後のぶんだー(笑)艦長の台詞にしても「メインシャフトが丸見えだわ」はテレビ版の録音の方がはるかに鬼気迫る感じだったし、「5番射出急いで」の下りも緊迫感を大きく損なう改変ーーロックを解除してから、初号機がキックでボタンを押すーーが行われており、見るたび生理的な違和感でイラッとする。電源が切れる直前のシーンも原作のゲス顔(劇場公開版はゲス顔のままだった)から、観客にアピールするためのヒロイックな表情に差し替えられており、人類の存亡をひとりで背負ったあの場面におけるシンジさんの必死さを大きく減じているように思う。あらゆる手段でテレビ版の19話を越えようともがくも、完璧すぎる内容にことごとくはねかえされ、苦肉の策で行った修正や追加演出ーーシンジさんの「でもそんなのかんけえねえ」、コネメガネの「もったえー(え、何? オマエ滑舌わりいな)」ーーが見事にスベッているのは、もはや気の毒でさえある。新劇場版しか知らない君には、ぜひテレビ版の19話だけでも見てほしい。

 あと、劇場公開版はBGMが台詞や効果音を圧倒するぐらいもっとギンギンに鳴っていて、DVD版の音量バランスにガックリして、アンプを調整することで再現できないか一晩中、延々と設定を詰めていたことも思い出した。あの頃は、本当に次への期待にあふれていて、楽しかったなー。本当に、楽しかった……

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

映画「トイストーリー4」感想

 上映時間が100分なんだけど、エンドロールが10分弱として、80分くらいまではとても楽しく見ていたのね。新しいキャラクターたちも魅力的だし、このシリーズでなくてはならない新しいアイデアもある。なので、昔からのファンに向けた、かつてのアイドルたちによるカムバック公演、一夜限りのお祭りムービーだと思ってたわけ、80分くらいまでは。それが最後の最後で唐突に、作品の根幹に関わるデリケートな部分へ、デ銭の野郎がベロで湿らせた毛むくじゃらの指を突っ込んで、愛撫を始めたわけよ。そしてキラキラしてたアイドルたちが別人みたいに豹変して、舞台上でアンアン悶えだしたのを見せられる気持ち、わかる? スター・ウォーズ8といい、いまのデ銭からは「挿入すれば俺のもの」みたいな、薄汚い男根的商業主義をしか感じない。ああ、怒りにかられて同じレベルに堕してしまった。汚された心を浄化するために、前作を見たときに書いた感想を引用しておく。

 『本当に大切なものだから、だれかが汚さないうちに終わらせる。子どもの目には夢の国、大人の胸には死の気配。どこも壊していないのに、ほら、もう何の足し引きもできなくなった。己が代換品であることを知りながら、なお生きなければならないあなたへ送る、数少ない本物のマイルストーン。』

ゲーム「ファイナルファンタジー7リメイク」感想

 もともと手をつける予定はなかったのを、なんというか社会情勢に促される形で、気まぐれにダウンロード購入した。ご存じのようにファイナルファンタジー・シリーズにはいくつかの派閥があり、「6までしか認めない派(9と11も許容する分派あり)」「7以降しか認めない派」「10が最高傑作である派」の3種類へ、「エフエフ派」「ファイファン派」の2種類を絡めると、大きく6つに分けられる。私はと言えば、「6までしか認めないエフエフ派」に属しているので、リアルタイムでプレイした7には苦々しい思い出しかない。だが、頻繁に助詞を省略する独特の台詞回しにイラッとさせられながらも、10時間ほどプレイしてEARISUと邂逅を果たした現在の感想は、自分でも驚くほど好意的である。13ばりの一本道RPGにも関わらず、プレイフィールはアンチャーテッド・シリーズを彷彿とさせるシネマティック・プレイアブル・ムービーなのである。しかしながら、かつては中二病的フレイバーに過ぎなかった反乱分子設定が、PS4の高精細グラフィックで都市生活を描きこんだ結果、主人公なのに社会を擾乱させる極悪非道のテロリストとしか思えなくなっているのは、本作における最大の皮肉であろう。けれど、いま十代である誰かにとっては、かつてイスラム国の若い兵士へと向けられたハリウッド風味のプロモーション映像のように、その感性に「刺さる」中身なのかもしれないと想像するのだ。そして二十年前、400万人のKURAUDOの一人だった身としては、己の来し方を振り返ると同時に、子や孫の代にまた新たなKURAUDOを生むのかと想像して、ゾッとする気分にもさせられるのである。ともあれ、PS4の高精細グラフィックでTIFUAの衣装を描きこんだ結果、幼馴染なのに青少年の勃起と中高年の半勃ちを誘発させる淫乱無比の痴女としか思えなくなっているのは、本作における最大の魅力であろう。

 FF7R、ウォール・マーケットに到着してから、ずっと笑ってる。夜の街とその住人たちが本当に生き生きと描かれていて、現場に顔を見せないことで有名な某ディレクターが、出社せずにどこで時間を過ごしていたかが余すところなく理解できた。DQ9発売時に、ホーリー遊児のキャバクラ通いをネタにしたパロディを書いたことがあったけど、それを完全に地で行く仕上がりなのだ。かつてはKURAUDOさんとの距離がゼロだったのが、年齢と社会経験(夜の)を重ねたせいだろう、少し離れた立ち位置から元祖・中二病とも言える彼のキャラクターを意図的に茶化しにかかっていて、3000ギルの手揉みとか真顔でマテリアをもてあそぶシーンとか、本当に腹筋がつるほど笑った。室外機が日本メーカー製じゃないのという指摘とか、リアリティの作り方が完全に現代の都市生活に依拠していて、ミッドガル脱出以降を描く続編はエヴァQみたいになっちゃうんじゃないかと心配するぐらいだ。けれど、どんなに鼻もちならない人間でも、時の流れの中で成長ーーとは言わないまでも必ず変化していくことに、笑いながら涙を流している次第である。

 いまハニー・ビーのステージで踊ってるけど、あたおか極まっており、酩酊と爆笑にコントロール不能で、ぴえんぱおん。最後、ポリティカル・コレクトネスをクリアしてるっぽい雰囲気すら漂っており、もうこれはKURAUDOの女装しか勝たん。

 FF7R、ウォール・マーケット以降、尻下がりに悪くなっていくなー。このディレクターには持ち味を生かして、夜の繁華街を舞台にしたホストかヤクザが主人公の作品を手がけーーってそれ、「龍が如く」やないかーい!

 FF7Rクリア。いろいろ文句も言ったけど、もう一度オリジナルをプレイしたくなってDL購入するほどには、よくできていました。でも、旧作の経験者からすれば、作品テーマについては、わざわざ続きを作って語るのがヤボなほど畳んじゃったし、最後のミッドガル外でのライティング(lighting、念為)に一抹の不安を感じたので、たとえリメイク2が制作されなくても、特に文句はないかなあ。でも、ラストバトル周辺ではウォール・マーケットと同じくらい、ずっと笑ってました。なんて言うんでしょう、作り手側の力こぶが見えるとでも表現しましょうか。マトリックス3で言うならスミスとのバトル、スターウォーズ3で言うならムスタファーでのバトル、北斗の拳で言うなら第3の羅将ハンとのバトル、とにかく「見る人にすごいと思ってもらう戦いにしなくちゃいけない」という気負いが満々で、一周回って笑えてしまうのです。あと、最後にネタバレしとくけど、もし次回作が制作されると仮定して、KURAUDOは最初からKURASU・FAASUTOのSORUJYAAだったし、SEFIROSUは仲間に加わるし、EARISUは死なないでしょう。それと、ゴールド・ソーサーはラスベガスへの取材旅行を元にしてーー軽く十億は溶かすと思うーー、ウォール・マーケットばりに魅力的な夜の街として描写されることを、インターネットに二十年生息するフィーラー(笑)が予言しておきましょう。

 FF7R、クリア後にAP稼ぎで16章を周回してるんだけど、バレットの「搾取の象徴でぬくぬくと生活している奴らに、真の恐怖を味あわせてやりてえ」って台詞、ヤバすぎるな……もしかして、中東地域にファンと販路を確保するための戦略なの? こんなん、ガチのテロリストやん。

漫画「鬼滅の刃」感想

 いまさら、オウガ・デストロイング・ブレイドを読む。端的に言って、とてもおもしろかった。ひさしぶりに現実を忘れてフィクションに浸ることができたし、何よりいまを生きる子どもたちがこの作品を支持しているという事実に、胸を熱くさせられた。好ましいのは、人気の出た作品が長く連載を継続するために、設定や感情の隘路へと入り込んでいくのに対して、本作は乾いた筆致のまま、わずか二十巻ばかりの地点ーー昔人の感覚だと、これでもまだ長いがーーで物語をたたみにかかっているところだ。ジュブナイル作品は、子どもがその属性を失う前に語り終えられることで、その時代にしか心に刻むことのできない何かを永遠に彼らへ残すことができる。ネコ型ロボットや海賊ゴム人間やポケット内の怪物は、かつて子どもだった誰かが、己にとって重要だった感傷を後から来た小さな存在へ押し売りする装置と化してしまっており、言い過ぎを許してもらえるならば、ときに子どもへと害を及ぼしてさえいるように思う。

 さて、現代日本において最も重要な作品の一つであるFGOのテーマが「善と超克」であるのに対して、本作のそれは「利他と継承」だと指摘できるだろう(「快活なユーモア精神」も両者に共通している点だ)。善については、何度か話をしてきたと思う。この世界の半分は善で成り立っており、そうでないもの(悪とは言わない)と、常にほんのわずかの差異で過半の境界を拮抗している。そして、善は基本的に観測できない。新旧問わぬあらゆるメディアという間接的な秤では、微小な善の放出を測定することができない。十年、二十年と生活や空間を共にしてきた誰かが、ふとした瞬間に漏らす吐息のような形でしか、善を見ることはできないのだ。その、2つの主観が科学のような客観に転じるほんのわずかな一瞬にだけ、私たちは善なるが確かに実在することを信じられる。FGOで描かれる善は、この意味での善だ。宇宙の多くを占めながら極めて観測の困難な、存在を予想されたあの昏い物質のように、善は見えねど善はある。ファンガスを読むと、繰り返しの日常の中に消えていくその感覚が鮮やかによみがえる。そして利他もまた、善と同じ性質を持っている。特に、ネット上に蔓延する利他のような何かは、すべて偽りと考えていい。なぜなら、自己愛は言葉にできるが、利他は行為そのものでしか表せないからだ。そうそう、自己愛と言えば、「弱くて可哀そうな自分をいたわれ」と叫ぶ鬼の、見開きによる回想はすごかったね! 我が身をふりかえって身につまされたし、何より凡百の長期連載作家なら、あれだけで十週くらいは引き伸ばしそうだーーおっと、話がそれた。

 オウガ・デストロイング・ブレイドがこれほどの人気を博しているのは、キャラ立ちやアクションの魅力だけでなく、意識的にか無意識的にかは知らない、全編にわたって通底する「利他と継承」というテーマに子どもたちが共鳴しているからだと思う。老人は言わずもがな、「大人」を喪失したこの世界で、行動の規範を求める子どもたちが虚構のキャラのふるまいから、それを学べるのだとしたらーーもしかすると未来は思ったより悪くない方向へ進むことができるのかもしれない。

 ともあれ、クロコダイルか、その名前、確かに覚えたぜ! へへッ、ファンガスといい、とんでもないヤツらと同じ時代に生まれちまったもんだ……(十年前の黄ばんだ同人誌ーー善と継承がテーマーーを握りしめながら)

  現代日本における基礎教養とやらであるところの「ゴム人間」について無料公開を聞きつけて、幾度目の挑戦だろう、第一話からのマラソンを開始した。そして、これまた幾度目の中絶だろう、またも嘘P団解散後のバトルあたりで読むのをやめてしまった。あと、現代日本における常識とやらであるところの「王国」読破チャレンジにしても、コココの人が死ぬぐらいでいつも挫折してしまう。両者に共通するのは何かと問われれば、キャラの魅力とまでは言わない、主人公の強さに説得力を欠いている点である。すなわち、被ダメ/与ダメに関してシステム(=作者)の補正が強すぎて、フェアなバトルになっていないのだ。その点、話題のオウガ・デストロイング・ブレイドは、ゲーム的な想像力でバトルを組み立てていることもあってか、非常にフェアな攻防だと感じることができる。なぜ突然、こんなことを話しているかと問われたら、FF7Rの裏で某ミニの天外魔境2を少しずつ進めており、改めてシナリオの進行とほとんど一体化したゲームバランスの妙に、ひどく感心させられているからである。でも「人肉」や「オカマ」はOKで、「キンタマ」がNGなのは意味がわからないなあ、と思った。

 鬼滅、おっと、オウガ・デストロイング・ブレイドの最終回(と作者の性別?)が話題のようだが、この内容は読者やファンに向けられたものではなくて、作者自身がするキャラクターに対しての罪滅ぼしというか、過酷な結末を強いてしまったことへのねぎらいなのだと思う。一流の彫刻家や仏師が言う「素材の内側に元から存在しているものを削りだすだけ」「それが外へ出てくる手伝いをするだけ」といった感覚に似て、自分がどこか別の世界に存在するキャラの依り代となって、彼らの生き方を自動書記的に写し取るようにストーリーを紡ぐという語り手がいる(特に女性に多いように思うが、小説家なら中期までの栗本薫とか、漫画家なら高橋留美子とか)。この作者にはたぶん、虚構にすぎないはずのキャラクターたちが、現実の人間と同じ重さで実在しているように感じられているのだと思う(そして、その感覚が作品の魅力につながっている)。だからこそ、蛇足のそしりを受けてでも生命を賭して戦った彼らへ、最後に救いの安息を用意したかったのだ。別の書き手、例えばファンガスだったら死を死として、喪失は喪失のまま提示してーーそれでも、網膜を焼く生の輝きを残しながらーー終わっただろうが、これは優劣の話ではなく、資質の違いだとしか言いようがない。私は、この結末を肯定する。最後までおのれの子らを商品として差し出さず背後に守り切った、生むものの矜持に拍手を送りたい。

 正直なところ、これまでツッタイーではニュースをななめ読みするぐらいで、自分のツイートとそれに対する反応にしか興味は無かった。しかしながら、「いいね!」を解禁して他者のツイートをじっくり読んでみると、興味ぶかくないこともない。最近は、どいつもこいつもオウガ・デストロイング・ブレイドの人気にあやかって関心を得るため、興味もないのに言及しまくっているのがほほえましい。もちろんインタレスト・ルンペンである私もあやかりたいので、諸君のツッタイー仕草に従うこととしたい。

 以前、鬼滅の刃が子どもたちに人気を博しているのは、「利他と継承」というテーマへ向けた無意識の共振が理由だと指摘した。「大正浪漫」「不老不死」「吸血鬼」「太陽の克服」「剣術」「呼吸法」といった、少年漫画的に使い古された題材を用いながら、私が突出してユニークで魅力的なモチーフだと感じたのは、「善悪を超越した巨大な才能の存在」である(才能はある閾値を超えると善悪の分別を超越する)。じつを言えば、ツッタイーで月曜日に行われるネタバレでこのキャラを知ったことが、作品に触れてみようと思うきっかけであった。究極の生命体と多数の人間たちによる争いの構図が、一個の天才という集合へ要素として包括されており、彼は世界を鳥瞰する神の位置にいながら、自らの才をつまらぬものと断じ、おのれの人生を失敗だったと悔いている。才能とは、「なぜ他人にはこんな簡単なことができないのだろう」「こんな児戯に賞賛や報酬の生じることがむしろ申し訳ない」と思える何かのことで、作中の彼のふるまいは正にこれを裏書きしている。賛否両論の最終回も、「永遠の生命」と「究極の天才」だけが輪廻から外されていることを暗に示すためだと考えれば、諸君の解釈も変わってくるだろう。いまなぜか、かぐや姫の物語を見たときの感想に、「つがいを得て子を成したものが地上で輪廻の輪に乗り、そうでないものたちは月へと帰る」と書いたことを思い出した。

 ところで、ほんの二十年ばかりテキストサイトを続けるだけの簡単なことを、閉鎖したり商業デビューしたり生命を落としたり、なぜみんな実践できないのだろう。金銭が発生したことのない文筆はこの世に存在しないも同じで、結局、私はテキスト書きとしては失敗した。その深い悔恨を抱いて、生きている。