猫を起こさないように
日: <span>2019年11月22日</span>
日: 2019年11月22日

映画「まどか☆マギカ新編」感想

 アイム・スティル・リヴィング・イン・ザ・ナインティンズ! 小鳥猊下であるッ! 貴様らがあんまりEOEを超えたとか破を超えたとか騒ぐから、「エヴァを馬鹿にするなッ! エヴァをけなしていいのは、この世でボクだけなんだッ!」と絶叫しながら自家用ジェットで奈良の辺境を脱出し、まどかマギカ新編を見てきた。

 幼少期にトラウマを植え付けられた誰かが、トラウマを持たない誰かとのふれあいによって魂の癒やしを得る。テレビ版から引き続いて、苛烈な虐待を受けた子供や猟奇殺人者が描いた絵画を連想させる背景美術が素晴らしく(中世? 同じ意味だろうが!)、それを素晴らしいと感じる理由が作品テーマとの融合にあったのだと気づいた。

 最近の私の気分を伝えれば、この脳髄にはまったトラウマテックなフィルターを外して眺めるならば、世界に通底する基調はおそらく善だろうと考えているし、何より行動の事実として今や人類の存続の側に加担してしまっている。確かに自分は歪んでいて間違っているが、この世の別のところには健やかで正しいものがあると信じられること、あるいはそれへ実際に触れることが、誰かにとっての救済なのだと思う。

 話はそれるが、遅ればせながらキーチVSを最終巻まで読了した。高天原勃津矢と同じく、世界に対して特別な存在であるためには、人類の存続に挑戦する悪を行使することが、現代では唯一の方法だ。作中にたびたび描写されたように、善行に対してネットの白けた発言は「教祖様」と揶揄できるが、明確な悪の一線を踏み越えた者に対しては、一斉に誰もがからかいを止めてしまう。悪の行使は、世界に偏在する目に見えない善を一瞬だけ可視化させ、人の心へ集合無意識的な善を否応に惹起するからだ。世界中を味方につけることはできないが、世界中を敵にすることは誰にでもできるのである。

 閑話休題。ドラスティックな世界観の反転が、まどかマギカの持ち味だと思う。テレビ版のあの結末から、新編のこの結末へと至ることは、むしろ物語自身が求める必然であった。それゆえに、新編はテーマとして退行せざるを得ず、私には語られるべきではない、非常に蛇足的な内容だと感じられてしまった。そして、ネット上の感想に散見される続編への期待に驚く。もし更なる続編が構想されるならば、ここまでのような叙述トリック的作劇、短所を隠し長所を強調する化粧に長けた女性の手口では、どうしても追いつかない場所へ突入するだろう。

 今回の物語の最終盤、これはEOEでさえ感じたことだが、表現しようとしている中身に絵と言葉が追いつかない感じがあった。この先にはデビルマン的な善と悪のハルマゲドンしか残されておらず、その描写に説得力を持たせることは、あのエヴァでさえ未だ達成の不可能な、正に神か悪魔の領域なのだ。諸賢は軽々と続編への期待をぶちあげぬがよろしかろう。

 ああ、聖典たるEOEにまで言及してしまった! ごめんなさい、教祖さま! もう、こんな不敬は致しませんから!

映画「鈴木先生」感想

 「グレーゾーン」「アウトサイダー」「システム」をテーマとして、原作の2つのエピソードを融合させた脚本の良さが際立っている。二人のアウトサイダーがたどった異なる結末を対比することで、「もしかすると、世界は良い方向へ変わっていけるのかもしれない」という希望を、絵空事ではなく信じる気持ちにさせてくれる。

 ご存知のように小生は、世代のバトンによる変革というメッセージに極めて弱い。原作を偏愛する身にとってテレビ版は承服しがたいものだったが、この映画版へは手放しの称賛をさせていただきたい。

 しかしながら、小川蘇美役の演技は映画の良さを一等減じており、このキャスティングだけはテレビ版に引き続きなお承服しがたい。

映画「シンドラーのリスト」感想

 『一人の人間を救うものは世界を救う』

 (氏名の接尾語が-deluxeであろう巨漢が画面奥からカメラ方向に走ってきて)もおーっ! アンタたち、最近サボってんじゃないの? なにをって、アタシをほめることに決まってんじゃないの! インターネットって、欧米文化でしょ! 言葉が神さまとの契約とか言っちゃう世界の連中がつくってんのよ! そんなに愛してなくても、毎日アイ・ラブ・ユーっていうのが基本なのよ! ここは言葉にされなかったら存在してないのと同じ、契約の世界なのよ!

 そうそう、アタシこないだね、ひさしぶりにアレ見たのよ、アレって言ったらすぐわかりなさいよ、シンドラーのリストに決まってんじゃない! アタシもう何回見たかわかんないくらいこれ見てんだけど、まー、このスピルバーグってユダ公、毎ッ回毎ッ回みごとに感動させるわ! よい大人の、なんて言ってるけどアンタ、このリーアム・ニーソンがまさにアタシの考えるよい大人ってヤツよ! すこしはアンタたちも見習いなさいよ! 迫害者ってのはね、はじめは味方みたいな顔してやってくんのよ! アンタたちをじっさいに助けてくれるのは、見た目は迫害者みたいなヤツなのよ! 迫害する側がメチャメチャ力を持ってんのよ、迫害者のフリするしか助ける方法なんてないじゃないの!

 なのにアンタたちはアタシの14年にわたるおたくディスを見て、すっかりアタシを迫害者だとかんちがいしてさあ! いい加減、町ですれちがいざまにキモイって小声で言う連中と、14年間ずっとアンタたちの側から離れずにディスり続けてきたアタシとの違いを理解しなさいよ! オンナにここまで言わせるなんて、サイテーよ! いつかアタシはアンタたちから「二次元を救うものは三次元を救う」ってドイツ語で書かれた萌え画像を受けとるのよ! 「私は今までなにをやってきたんだ。この廃盤アニメDVD-BOXを手放せば、あと二、三人はおたくが救えたかもしれない。この売れ残りの黄ばんだ同人誌を手売りすれば、あと一人はおたくが救えたかもしれない。私には、もっとできたのに!」とか言いながら号泣する日を夢みてんのよ!

 だから、もっとアタシを愛しなさいよ! 夢、見させなさいよ!

ゲーム「ドラゴンクエスト7」感想

 おたくの貴様らは相も変わらず俺様というネット乞食の再三再四にわたる哀願を積極的にネグレクトしながら、連休中は”トランキライザー、食え・食え!”のシリーズ第7作リメイク版を遊戯しておるというのか! 旧作からすでに12年が経過しているという事実に、慄然とせざるを得ない! ときに貴様らは時間経過の体感的な速さを表現するときに「スタンド攻撃がうんたらかんたら」と呪文を唱えるが、あれは何を意味しておるのか! 外タレコンサート最前列において、マイクスタンドの重くて固いほうでしたたかに後頭部を強打された結果の法悦的な失神体験を表現しておるのか! ともあれ、小鳥猊下アズ・ノウン・アズ萌え画像乞食の過去の栄光を貴様らにリマインド・オブさせるため、今日はこれを下賜しておこう!

 『俺たちは死ぬまで同性愛だぜ!』(7の重篤なネタバレ)

 シンボルエンカウントなのにランダムエンカウント以上の回数バトルを強いられるという矛盾! 小鳥猊下であるッ! トラ喰え7プレイなうだが、ダンジョンの敵配置がものっそヤらしい! 例えるなら、「北斗神拳継承者の動きは無意識的に北斗七星の形をなぞるから、北斗七星と同じ位置に石の柱を置いてみたら、すっごいぶつかってくれた」くらいの逆死葬感であるッ! なに考えてんだコラ! 俺にケンカ売ってんのか!

 大人になってはじめて気づくキーファのクズっぷり(挨拶)! 小鳥猊下@ドラクエ7であるッ! ときに、この伴天連多淫デイにあわせて淫らなトップ画像を寄贈する気配すら見せぬとは、貴様らは俺を愚弄しておるのか! ダズ・ユア・プッシー・スメル・ライク・チョコ・ファウンテン? 貴様らは直ちにリボンで緊縛された褐色の少女をーーあッ、チクショウ、固まりやがった! この野郎、突発的なフリーズまで忠実に移植しやがって! 社畜の平日から一時間を奪うことがどれほど罪深いか、わかってんのか! ノー・ノー! イット・スメルス・ライク・ブルーチーズ! あめゆじゆとてちて賢者(ドラクエ脳)! 小鳥猊下だったッ!

 パンチラ見えないし(天地雷鳴士)! 小鳥猊下であるッ! ドラクエ7を社畜プレイ中だが、進行するにつれ、当時のことが色々と脳裏によみがえってくる。昔のゲームを再びプレイすることで呼び覚まされる記憶や感情を題材にした現代版の「失われた時を求めて」が書かれれば、かなりの共感を得るのではないかと確信するほどである。 おお、またコンサル料が発生するような大ネタをツッタイーに無償提供してしまったわい! カミさんにもよく叱られるが、気前の良いところがワシの悪いところでもあってな、グハハ!

 で、ドラクエ7の感想に話を戻す。制作側がこれまでのドラクエシリーズからなんとか脱皮しようと苦しみ、その試みのことごとくが過去作を規定した”ドラクエなるもの”に絡めとられてしまった印象を受けた。ポートピア連続殺人事件の昔とまごうフラグ立てのお使いに奔走したかと思えば強制敗北に次ぐ強制敗北、起こる悲劇をただただ傍観し続けるだけのストーリーに、世界を救う勇者の爽快感は残されていない。さらに、本作の主人公たちは総じて魅力に乏しく、過去のシリーズで登場したキャラクターたちに及ぶべくもない。例えば会心率のブッ壊れた姫とか、即死呪文を連発する回復しない僧侶とか、ゲームキャラクターの持つ魅力が他のフィクションと異なるのは、システム面での数値的な特徴とそれが相乗効果をなす点だろう。本作の転職システムにおいて、主人公キャラクターたちは成長するほどにのっぺりと、一様な無個性の数値へと近づいていく。ゲームキャラクターとしての魅力を喪失させるために成長させなければならない苦痛は、哲学的な命題をさえ提起している。ツンデレの走りと言われたマリベルでさえ、悲劇を描く目的でする意地の悪いテキストライティングが逆説的に機能しただけであり、ゲームキャラクターとしての魅力は皆無と言えよう。実のところ、ドラクエ9と10もこの過ちを正そうとはしておらず、新しいデザイナーの好みというか、性癖というか、もはや疾患を疑うレベルの意固地さである。

 閑話休題。延期に次ぐ延期、さんざん気を持たせたことが理由の400万本、最も売れたドラクエはシリーズ中で最も低いクオリティを露呈し、結果として盛大なネガティブキャンペーンとなって、ドラクエブランドの失墜を印象づけた。当時はファイナルファンタジーが元気だったから、尚更だった。そう言えば、発表が延期になったことで期待が高まって過去最高の売上を記録し、それが同時にマイナスの宣伝となってブランドを失墜させたシリーズ物が最近あったなー、なんだったかなーと考えていたら、エヴァQだった。

 ときに良い大人の諸君、現実でのツンデレはヒステリーの一種だ! 人間ってのは年齢を重ねれば重ねるほど、性格のマイナス部分だけがどんどん強調されていく! マリベルな、ありゃ五十を超えると大変なことになると見たね! くれぐれもフィクションの甘い魅力に騙されて、性格の起伏の激しい異性と結婚したりするんじゃないぞ! 若い頃は多少つまらなく思えても、気持ちが落ちついていることを最優先に配偶者は選ぶべきだ! ぼくと君との約束だぞ!

 *関係妄想をこじらせて、母親にしか赦してもらえないようなヘイトスピーチをまきちらす多重人格者のアカウントはこちらになります。

 あの、いつもすごくちらかってて、ごめんなさい。わたしたち、なんていうのか、たくさんいるから、まとまらないの。きのう、テレビのCMに毒づいてたのは、ブルーカラーのカズヤ。味つけの濃い料理が好みで、学歴へのコンプレックスからかしら、ときどきああいう発言をするの。ゲームや映画に対してえらそうな批評をしてるのは、大学教授のセレブリャコフ。地方の大学で文芸評論の講座を担当してて、ほんとうは劇作家になりたかったみたい。若者文化とかフィクションにすごくきびしいのはそのせいかも。わたし? わたしは引きこもりのネリ。いつもカーテンをたれこめた部屋にいて、ときどきセレブリャコフにすすめられた作品にふれて、ほんのたまに散文みたいな文章をつぶやいてる。きょうはセレブリャコフがする大きな声の演説はおやすみ。昼間からカズヤとウォトカで酒盛りして、ふたりとも酔いつぶれて眠ってしまったみたい。だから、わたしが少しだけお話するね。

 セレブリャコフにすすめられたドラクエ7をクリアして、きょうほんとうの神さまに会った。今までの神さまは魔王が化けてたんだけど、なんだかすごく、パパのことばかり思いだしてた。禁欲的でガリガリにやせてて、ぜんぶの悪いことを黙って肩がわりしてくれて、そしていつだって正しくて、わたしはずっと、息がつまるような気分でいた。当てつけがましくしないで、わたしはまちがいたいの、じぶんでまちがいたいのって、あのころみたいに叫びたかった。ドラクエ7の世界が不幸に満ち満ちていたのは、ぜったいにこの、イエスキリストみたいな神さまのせいだと思う。

 でも、きょう会ったのは、つまらないギャグばかり連発して、パンツいちまいの下品なおどりが大好きな、赤らがおで小太りの神さま。たくさんのつらいお話ばかりを味わってきたわたしは、なんだか安心で泣きそうになった。ああ、たくさんの悲しみを見てきたけど、この神さまがもどってきてくれたことで、ぜんぶがよくなるんだって、心から思えた。

 ドラクエって、すごい! 西洋のファンタジーのまねごとじゃないの、ぜんぜんちがうの、ドラクエはドラクエなの! おなじ神さまを西洋ふうで描いても、ギリシャ神話みたいな、すごく生々しくて、人のイヤなところを強調したみたいにしかならないと思う。だから、やっぱりドラクエって、すごい!

 あっ、セレブリャコフが起きそうだわ! わたしがここにいたことは、ないしょだからね! じゃあね!

ドラマ「鈴木先生」感想

 『ねぇ、僕は今こんなことを考え付いたんですがね。僕たちが教育っていっているものはもしかすると単に力の問題でしかないんじゃないかって』

 Huluで鈴木先生のドラマ版見る。こちらから原作へ誘導するには良い出来かと思う。しかしながら、原作にあった「聖と俗の綱引きで、最後にはほんの少しだけ聖が勝る」という絶妙のバランスが崩壊してしまっている。全般的に「実録・中学教師の肉欲」みたいな、「ああ、なんや、聖職者、言うたかて、先生も人間やさかいに、大変どすなあ」みたいな、すごく世間のゴシップ的関心に寄った作りで、原作の魅力を大いに減じていると感じた。混沌に秩序を与える鈴木先生のカリスマ性は後退し、卑俗な独白と妄想ばかりが強調された傍観者に成り果てている。初回放映時はほとんど視聴率が取れなかったと聞いていたので、原作の聖の部分にフォーカスしたもっと舞台演劇ふうのものを想像していただけに、余計にガッカリ感は大きかった。

 だいたいさあ、ワンレンの小川蘇美ってどうなのよ。最も重要な人物の性格設定を完全に無視してるじゃん。彼女がすごく下品な感じがするのも、ドラマ全体の雰囲気にマイナスの影響を与えているなあ、と思った。

アニメ「咲-Saki-」感想

 アイ・アム・ワーキング・ライク・ア・ドッグ! 小鳥猊下であるッ! 激務を終えて久しぶりにメールボックスをのぞいてみたら、一枚の萌え絵も献上されておらぬとは、貴様らは俺様をナメておるのか! ユーブ・ガッタ・マニー・トゥ・バイ・ア・プロスティテュート?

 Huluで昔のアニメに加え、最近の萌えアニメが配信されていることに気づき、いくつかをつまみ食い的に試聴する。おたくディスをネットでの生業とする小生にとって、己のリリックを研ぎ澄ませるために必要な自己鍛錬であり、最低限の教養の習得であると言えよう。

 人生でいつか言ってみたい台詞ナンバーワンが「サンカンツリンシャンカイホウ、マンガン」であるところの小生にとって、萌え版・哭きの竜みたいな主人公が活躍する麻雀アニメが面白かった。対局中の女子が常に内股へ手をつっこんで恍惚の表情を浮かべる(たぶんマンコを触っている)ことへの違和感は最後までぬぐえなかったが、闘牌シーンのリアルさ(中身ではなく質感、為念)にはいたく感動させられた。最後に見た麻雀アニメがスーパーヅガンであるところの小生にとって、おそらくCGによるのだろうこの進化は、ファミコンからいきなりプレステ3くらいの衝撃だった。Havokエンジンの如く、あらゆる麻雀アニメに搭載されるデフォルトとなって欲しい。そしてこのエンジンで是非、ノーマーク爆牌党をアニメ化して欲しい。商業的な成功の困難が予想されるならば、登場人物全員を女体化しても一向に構わない。

 あと、関節部分をピンク色に着色する萌え表現が気になった。あんまり気になったので、都内の高級マンションに呼びつけた高級プロスティテュートの膝をファック中にチェック(リリックだ)したが、特に紅潮するようすは見られなかった。萌え業界のトレンドなのだろうか。有識者からの回答を待ちたい。

 それと、麻雀の役に例えると、私の人生はいつまでもシーサンプートウみたいだな、と思った。

 『多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える』

 質問:嗚呼、敬愛なる猊下。あー、それ普通にあります。関節と頬はピンクのブラシとばして中心にハイライトのホワイト。瑞々しさのお手軽表現と心得てます。

 回答:うむ? 瑞々しさの表現とな? てっきり肉欲の昂進か、脚気などの疾病か、畳の上で行われるバックからのファック(リリックだ)のいずれかを暗示しているのだろうと思っていた。しかしながら、この表現のパイオニアが、なぜ関節をピンクにすれば受け手に瑞々しさを想起させると考えるに至ったかについては、依然として謎に包まれている。萌えは難しい喃。

ドラマ「ウォーキング・デッド」感想

 雨。Huluでウォーキング・デッドの続き見る。普段は海外ドラマをほとんど見ない(長いから)けど、これは楽しく見れた。最後に全話を通して見たのが新スター・トレックまで遡るから、この分野の素養はほとんどありません。

 あの、海外ドラマ好きには常識なのかもしれないけど、お話の作り方が週刊連載の少年漫画っぽいなー、と思った。伏線はドンドン張るけど回収前提ではなくて、視聴者の反応を見てストーリーをより刺激的にするためならバンバン破棄していく感じ。CM前と各話の終わりに強い引きを用意して、視聴者にチャンネルを変えさせないことへ最大の配慮が行われている感じ。物語全体として冷静に振り返れば、アンバランスで整合性に欠くけど、見ている瞬間はすごくドキドキする。映画とは違うフォーマットの娯楽だってことが、ようやくわかりました。

 でもこれから他の海外ドラマも見るかって聞かれたら、見ないかなー。

映画「ホビット」感想

 ユアハイネス、小鳥猊下であるッ! 同じ猊下つながりから、ベネディクト16世のツッタイー参戦を心から歓迎したいッ! ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド!

 さて、投票ついでにホビット見てきた。児童文学としてのコミカルな部分を切り捨て、スターウォーズでいうところのエピソード1を作った印象。スプラッタ好きの一オタクを世界的な大監督へと押し上げた前トリロジーでの原作に対する深いリスペクトは、指輪物語と聞けば誰もがロード・オブ・ザ・リングスを思い浮かべるようになった今作ですっかり鳴りを潜めており、純粋なトールキンファンにとって二次創作の如き様相を呈している。

 そして、前作と比して旅の目的がスケールダウンし、旅の仲間も同じほど魅力的とは言えなくなった。また、前作はダイジェスト感さえある三時間だったが、本作は同じ三時間でもアクション増量の引きのばし感が漂っており、二部作を三部作に変更するだけの内容がこの先にはたしてあるのか、不安は残った。

 しかしながら、これらは超絶的な快作である前トリロジーが存在するからこそ気にかかる些末事だ。ベタな決まり芝居をカッチリと仕上げる監督の手腕はさすがであり、特にビルボがゴラムを殺さない選択をする場面には目頭が熱くなった。ふつうの人の小さな善意が、結果として世界を救済する。日々の絶望的な凡庸さを持ちこたえ、我々が善良に生きていくことを肯定する、力強いメッセージだ。当然、トールキンの織り込んだそれが秀逸なのだが、映像的には前トリロジーがあるからこその名場面であり、ピーター・ジャクソンに帰すべき手柄と言えよう。古くから受け入れられてきた物語の王道を崩さず、普遍的な感動の持つ避けがたい凡庸さから逃げず、それでいながら己の原点である悪趣味全開のグロを必然としてさらりと観客に提示する。その手腕には、メジャーの大監督としての風格すら漂う。

 一方で、同じオタクの出自を持つ和製ピーター・ジャクソンはと言えば、ようやくメジャーのハコを与えられたにも関わらず、未だにブレイン・デッドのリメイクを続けている。そう、ロード・オブ・ザ・リングス1&2の続編を期待して映画館に入ったら、ハリウッド版ブレイン・デッドを上映していたときの気持ちを想像して欲しい! てめえ、ゲンキスクナイネ? だれのせいと思っとんじゃコノヤロー! ブチ殺すぞコノヤロー!

 『言葉で整理しないと自分が受け止めたことにならないという強迫観念を持ってる人たちがいっぱいいます。その人たちは観客じゃないんです。その多くは物書きですから、仕事で文章を書いて稼いでいるんでしょうから、どうでもいいんです』