猫を起こさないように
日: <span>2019年11月7日</span>
日: 2019年11月7日

ゲーム「FGO第2部第4章」感想

 fgo第2部4章、私の観測範囲では無音に近い。nWoの更新もそうだが、あまりに完成度が高いものは、ときに圧倒的な沈黙を招くことがある。忘れた頃にやってくるこのハイクオリティの本編こそが、ゲーム部分では惰性のエー・ピー消化と化したエフジーオーを続ける唯一と言っていい理由だ。

 今回は登場するすべての人物に血肉が通っており、歴史上の有名軍師におたくのガワをかけてネットスラングをしゃべらせるだけの、中身の無い昆虫みたいな突貫工事のキャラ立てとは天と地ほどの違いである。もしかすると、「不自然なほどすべてのキャラが書き手から平等に愛されている感」に瑕疵を感じる向きもあろうが、私は諸手を上げての全肯定である。

 この4章、第2部の他と比べてあまりにレベルが違いすぎて、例えるなら「100m走で9秒台をマークしたと思ったら、優勝者のタイムは2秒だった」ぐらいの感じさえある。この違いがわからない君には、特段エフジーオーをプレイする理由はなかろう。確かに手クセっぽいところはあるし、「強大な敵への対処は、いつも屁理屈を屁理屈で上書きするトンチ合戦と化す」や「ただの人間でも体術や拳法を極めれば、魔獣や英霊をも凌駕できる」といった「あー、ハイハイ、またコレね」と言いたくなる展開を食傷とみなす向きもあるかもしれない。でも、好き! 好き! 大好き! これらの要素はいわば贔屓の定食屋を贔屓にする理由、焼きすぎる魚のコゲや、少しだけ辛すぎる漬物と同じ性質のものだからだ。

 緻密なストーリー構成を、過不足の無い文章と挑戦的な修辞表現が編み上げていく。終盤の展開に至っては、二転三転、四転五転と、読み手の予想をハイペースに裏切り続ける。しかしその裏切りは、確かな技術に支えられているがゆえに、裏切らんを目的とした凡百の物語とは異なった快楽を与えてくれる。そして、ブラヴォと言うべきだろう、彼の物語に通底する人間賛歌の美しい音階が確かに響いている、聞こえてくる。

 われわれ凡人が凡人のまま世界の救済に寄与できること、凡人が世界の残酷さに切り取ったわずかな時間の積み重なりが、時に愛されただれかに人類を存続させる究極の仕事をさせるということ。歴史に名を刻む英雄はひとりでは立たず、永久に名も知られぬ無数の人々がその背中を支えているのだ。基礎研究とノーベル賞は悪い例えだが、それは私たちの世界の実相を喝破していると言えるだろう。

 以前も述べた気がするが、惜しむらくはこの高い普遍性が、スマホアプリで体験するフィクションという新奇性ゆえに、彼のメッセージを受け取るべき本邦の多くの人間には不可視だという事実である。私が思い描くある種の人々は、その外殻だけで拒絶をするし、仮に目を通すに至ったところで、この物語を理解するための多すぎる前提に阻まれて、内包する高い普遍性には到達できないに違いない。

 「不出来を罪と断ずる神の輪廻」--このモチーフだけを見ても、書き手が現代という病理に対して、正面から真摯に向きあおうとしていることがわかる。第2部4章の前には、諸君の言う「虚無期間」が2週間ほどあった。イベントの実装を年単位で計画する人気スマホゲーにはあるまじき、不自然の空白である。これは、なぜだろうか。もしかすると6月1日を境として、第2部4章の公開を遅らせることを決める何かの衝撃が書き手にあり、そこから急遽、相当量の加筆や書き直しが行われたのではないかと推測する。

 ある種の人々にとっては荒唐無稽の、現実から最もかけ離れたジャンルであるにも関わらず、第2部4章は確かに時代と照射しあっており、「いま書かれなければならない」という衝動と切迫性を強く感じる。これは裏を返せば「いま読まれなければならない」という意志でもあり、この傲慢さに至ることのできる数少ないクリエイターを私は愛する。

 「世界の悲惨を前にして、芸術は無力か」という古い問いを思い出す。引きこもりが、空を見上げたっていい--彼の物語は、いつも優しさに満ちている。あらゆる一隅を照らすその暖かなまなざしが、もしかすると世界に知られない場所で、ほんとうにだれかを救ったかもしれない。

 え、この不確かな時代と四つ相撲で格闘する書き手を教えてくれませんか、やっぱ芥川賞候補者たちですかね、だと? キミね、バカも休み休みおっしゃい。そんなの、fgo第2部4章と、ランス10を読みなさいよ。

 あと、nWoも読みなさいよ。

映画「シンエヴァ」特報2.5感想

 特報2.5見る。いや、目に入ってしまう。ハーッ(深いため息)、あのさあ、最後のふりがな付きテロップ、あれなんなん? ほうほう、小学生の新規層を獲得するため? ハハハハ、そっかー、なるほどなー、気づかなかったわー……(突如激昂し、掌で机を一撃する)まともな親がこんな異常で不健全な作品を子どもに見せるわけねえだろ! ユアストーリーのほうがまだ心の傷が浅くて済むわ!

 さんざんQの文句言ってきて、これだけは触れるまいとずっと我慢してボカしてきたけど、もう本当にアッタマきたから言わせてもらう! 聞きたくないヤツは耳ふさいどけ! オマエさあ、震災で未来が絶たれた絶望をリアルに表現するために、二人の間に子どもができなかったことをエヴァQの演出に織りこんだだろ? それだけはよ、人としてやっちゃいけなかったんじゃねえか? 眼窩から血の涙を流す妻の顔を無言で眺めるゲンドウとか、血と肉に爆散する肥えた妊婦体型のリリスとか、リリスから出てきた使徒(イコール胎児)の首をはねたりとかさあ! テメエにとって大切なだれかの尊厳を踏みにじってまで、たいそうな「ご気分」とやらをフィルムに「定着」させる大義なんて存在するはずがあるかよ!

 オイ、結婚してから数年間子どもを授からなかった女性が正月にダンナの実家へ帰省した際、箸袋の「××子」という名前から「子」だけ消されていたみたいな嫁イジメの話を思い出しちまったじゃねーか、けったくそわりい! Qをはじめて見たとき、このイジメの話をはじめて聞いたときと同じくらいゾッとして、もっとも秘すべき夫婦のできごとさえ満天下へ無邪気に(そう、表情だけは深刻に、無邪気に)晒し上げられるなんて、クリエイターのヨメにだけはなるまいと固く誓ったわ!

 あのさあ、アンタ、シン・エヴァをよ、家族と被災者を生贄に捧げてまで完成させた、あの倫理無視・道徳遺棄の大失敗作、エヴァQの続きとして作ることにもう決めたんだろ? そんなら、小学生に向けたひらがな付きテロップなんて一切いらねえし、腹を据えて覚悟を決めろよ! 自らの恥部をさらけだし、家族の恥部をさらけだし、震災から9年が経過したいまの「気分」に正面から向き合えよ! 旧エヴァみたいな、そういう人肉の量り売りみたいな、アングラ単館上映フィルムの作り方をするって、決めたんだろうがよ! それが、子ども向けの冒険活劇漫画映画だァ? いまさらクソみてーな逃げ口上をうって、日和ってんじゃねえよ! 本当に商売抜きでいまを生きる子どもたちの困難さに向きあいたいなら、そのためだけの完全新作を立ち上げればいいじゃねーか!

 そういや、旧劇場版の最後に見たくもねえラブ・アンド・ポップのCMをブチこんできやがったことをいまさら思い出したぜ! 何がシン・ウルトラマンだよ! すでに腰が引けてんじゃねーかよ! またエヴァをプロダクトとして完結させることから逃げるのかよ! いい加減そろそろ大人になって、世間を知りニャさいッ! 今回の冒頭10分公開以降、お得意の広告手法でSNSの反応をリサーチしたら、もうエヴァの現状がどんなもんか、よーくわかったろうがよ! かつて旗振りの急先鋒だった高学歴の知識人や著名人は軒並み沈黙(笑)を守り、出てくる意見は冷めた批判や無関心ばかりで、期待感を示している少数はパチンコから合流した(コード・トリプルセブン!)低学歴・低所得のヤンキーばかり! Qのせいで序破からの客は全員いなくなって、もうどこにも新規なんて増えてねーんだよ! 閑散とした会場には旧エヴァが好きだったから、この作品の最期を看取ろうという層しかもはや残ってねーんだよ! 昔みたいには声もでないヨボヨボのロックスターの、ジジイの腰振りを見にきてるジジイばかりなんだよ! その点で言やあ、シンカイさんのほうがまだ誠実に作品に向き合ってるじゃねえかよ! アンタが適当にしゃべらせた破のシンジ君の「セカイがどうなったっていい」発言に対して、映画丸々一本つかってアンサーしてきたじゃねえかよ! しかもすでに百億かせいで、エヴァ・リブートよりはるかに売れてんだよ!

 なに、天気の子の終盤で雷が落ちたトラックの挙動がおかしくないですか、どんな物理法則で前輪が浮いたんですか、あと落雷から爆発までしばらく間があるのもよくわからないです、だと? バカモノ! あれはシンカイさんが旧エヴァ劇場版でネルフ職員の「南の、ハブステーションです」という台詞の直後に、トラックの正面から砲弾が二発撃ち込まれ、時間差で爆発したシーンのカッコよさにウレションし、オマージュし、トレースしたからに決まっておろうが! シンカイ・ワールドの物理法則はエヴァンゲリオン・ワールドに準拠し、さらにエヴァンゲリオン・ワールドの物理法則は、トクサツ・ワールドの物理法則に従う! つまりシンカイ・ワールドの背景美術がハイパー・リアルなのにところどころ物理法則がおかしいのは、エヴァ好きが昂じすぎて結果として、トクサツ・ワールドから動きを孫引きしてしまっているからだ! ピアノの一音ごとに背景が切り替わる演出は旧エヴァ劇場版の実写パートから引っ張ってきていたり、女子のパイオツのサイズに関したビロウ(尾籠)・トークと思春期ポエム以外は、シンカイ・サンにとって映画はぜんぶエヴァンゲリオンなんだよ!

 怒りすぎて何を言っているか自分でもわからなくなってきたが、シン・エヴァではもうこれ以上、矛盾した情報を小出しに撒いて、視聴者を混乱させることでバズらせる(バズってない)宣伝手法を使うのをやめてくれ! 何があっても来年6月までは生き延びて、必ず初日に見に行くから、品よくおとなしくしていてくれ! シン・ゴジラのときに興行はバクチと言っていたが、エヴァの大看板に対して小手先の広報は必要ないどころか、むしろ邪魔になってると言わせてくれ!

 頼む、どんなキッタネー最期を迎えても、必ず看取るって約束するから!

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

映画「シンエヴァ」冒頭10分感想

 シン・エヴァの冒頭公開を見て、自分でも驚くほどにガックリきている今の心情をここに残しておきたい。

 エヴァ新劇場版、序と破までは明快にエンタメ活劇路線だったし、カントクと作品の間に適切な距離感があった。新しく会社を立ち上げ、エヴァという大看板を意識的に利用して、アニメ製作の社会的位置をきちんと確立することを主眼に動いているように見えた。タイアップを含めたマネタイズをきっちり行い、スタッフにはスキルに応じた金銭的還元を怠らず、公開後は全記録全集でいかに創造したかの舞台裏を後から来た人たちが理解できるよう丁寧に残して、持続可能な文化プラットフォームとして日本のアニメを未来へ繋げていこうという確かな意志が感じられた。個人的には、カントクの公人としての性格が前面に押し出されている感じがしたわけ。登場する大人たちも旧作よりはずっと成長していて、それぞれが次世代への責任を果たそうと動いていたし、作品の内外にわたるそういった成熟のおかげで、見ていて大きな安心感があった。

 それが、Qでガラッと変わってしまった。序破のエンタメ活劇から純文私小説路線に切り替わり、カントクと作品の距離がゼロになって、旧作のように彼の情動がモロに前面へ押し出されるようになった。サードインパクト後の世界設定が嘘くさく空回りしているのに、「男と女」「セックス」「石女」などのモチーフだけが妙にリアルで生々しくて、両者のバランスが非常に悪いがゆえに、ひたすら不安感だけを掻き立てる作品となってしまった。意識的かどうかはわからないが、Qではカントクの私人としての性格が前面に押し出されている。

 公開後、自信をもって送り出した作品に対する批判的な受け止められ方にカントクは苛立っているように見えたし、Qについてだけ全記録全集が発売されていないことはこの推測を裏付ける。Qにおける大きな変節は、東日本大震災に影響された(御大が被災地にカントクを連れていきさえしなければ! 彼は眼前に広がる光景に「衝撃を受けなければならない」し、自分はそれに「作品をもって応えなければならない」と真面目に考えたのだと想像する)ゆえだと私は確信している。

 もしかすると、シン・ゴジラの大成功によってその呪いは解かれたのではないかと、どこかで期待していたのだ。しかし、公開された10分余の冒頭は、あえて言う、失敗作だったQの続きとなっていて、魅力のない新キャラと舞台設定を画面密度と情報量(空疎な造語が主な)で無理矢理に押し切ろう、マイナスから物量でメーターを振り切ることで前作ごとプラスに転換しようとあがいているとの印象をしか受けなかった。正直、序破の段階では「迫りくる滅亡を前に、小異を捨てて大同へ団結する人類」みたいな展開を期待していたのだ。今度こそ自らが生み出したセカイ系を打ち破り、相容れない他者と協調しながら世界の存続を目指す--シン・ゴジラでは、それができていたのに! そもそも、協調すべき他者としての人類はQ世界では死に果ててしまっており、もうどこにもいないのだった。

 「科学技術ではギリギリ届かない空隙を、人の知恵と努力で補って勝つ」という、かろうじて我々の現実の枠内に収まる(ように思えた)制約から来ていたエヴァの醍醐味は、重力制御なんてもの(古代人のオーバーテクノロジー!)が出てきた時点で、作品世界のルールの底が破れて、雲散霧消してしまった。依拠する現実を失い、次元跳躍、時間遡行、死者蘇生、何が出てきてもおかしくないこの状況は、自由を突き詰めた先の狂気に達していて、シン・エヴァの何を楽しめばいいのか私にはわからなくなってしまった(少し気持ちが動いたのは、パリの街が復元したところと、USBの裏表を間違えたところだった)。

 じゃあ、公開されたら見ないのかと聞かれれば、初日のできるだけ早い回に見に行くだろう。内容に関わらず、三回は見るだろう。若い諸君からの「イヤなら見なきゃいいじゃん(笑)」の軽口が聞こえるようだが、二十年以上(二十年以上!)を人生と並走した作品の完結編である。二十年以上を連れ添うDV夫について「別れればいいじゃん(笑)」のご忠告に従ったとして、DV夫と過ごした二十年が人生から消えることはないし、平穏な日常に現れた彼はヨリを戻そうと、また昼間から超絶技巧のセックスで迫ってくるのだ。

 あと、エヴァQと最後のジェダイは、連作なのに張られた伏線には特に意味が無いことを示し、シリーズの持つ暗黙のお約束(不可欠な)を壊した点で、非常に似通った性質を持つ作品だな、と思った。どちらも「別にそれをやること自体は否定しないけど、わざわざ固定ファンのついたシリーズでやらなくてもいいんじゃねえの? あれか、新作だとそのアイデアじゃ客がつかないからか」という気分にさせられる。ライアン・ジョンソンはポッと出のお調子者だからまだ許せた(許せない)が、カントクはエヴァの創始者その人なのだからいっそう罪が深い。

 それと、素朴な疑問なんだけど、どんどん敵役でエヴァもどき人造使徒(あるいは使徒もどき人造エヴァ)が出てくるけど、あれ、誰が作ってるの? ネルフってもうおじさんとおじいさんの二人しかいない組織(副司令が黒幕の電源プラグを手ずから抜きに行かなければならないほどの人手不足)なのに、ねえ、誰が作ってるの?

 え、AVANT2あるの? マジで? これはやはり、破の続きバージョンも用意されて……(以下、ループ)

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

ゲーム「ランス10」感想

 男の子ならだれでも、ドラクエやエフエフ(ファイファン派は死ね)やメガテンに影響を受けて、びっしりと俺設定の世界観を書きこんだ大学ノートを実家の押入れに眠らせているものだ。そして大人になってから読み返して悶絶し、セロテープの跡やらで全体的に黄色く汚れたそれを夜中にコンロで焼却するものなのだ。

 ちなみに、知り合いの場末の皇族がファミコン版キャプテン翼2に大ハマりし、びっしりとオリキャラとその必殺技を書き込んだノートを手元に用意している。表紙にはキャプつばのロゴを雑誌(ファミコン通信)から切り抜いたものがベタベタと貼り付けてあり、その下になぜか英語で「イントゥ・ザ・ワールド!」と書かれている。1ページ目を開けば狼に育てられたという設定の双子、アマラくんとカマラくんのステータスが鉛筆の汚い字で書かれており、必殺シュートの名前はウルフ……エンッ(鼻血を吹きながら後頭部方向に倒れる)!

 ことほど左様に、ピコピコa.k.a.ファミリーコンピュータは罪深い。ランスシリーズのはじまりは、ドラクエに影響を受けたそんな大学ノートの殴り書きと、自分のモテ体質に自覚的なアドル・クリスティンが悪意でヒロインをコマしまくったら面白かろうぐらいの、居酒屋のワイ談から始まったのに違いない。それがどうだ。30年近い時を経て、このシリーズ最新作は情動のタイムマシンとしてプレイ中ずっと、名成り功遂げた、普段はエロゲーの存在がこの世にあることを知らないようなツラで生きている、感情の磨耗したオッサンを感動の涙で泣かせ続けている。すべての社会性のヨロイを剥がれ、まるでピュアな中高生に戻ったかのように、翌日の仕事を斟酌しない徹夜でのプレイを文字通り泣きながら強いられ続けているのだ。

 ちなみに、泣きのツボを最も強く押されたのは、魔界と人間界の間にある砦の、副隊長の話である。諸君のうちにもいるだろう、先細りの業界の撤退戦で責任を預けられただれか。「貧乏くじだ」とボヤきながらも、責務を投げ出さない彼の姿に己を重ねた向きも多かろう。

 かくの如く、膨大なシナリオ群が走馬灯もかくやと、過去の情動の追体験を促し続ける。そして、ふと気づく。こんなも気高い感動を呼び起こしているのが、決して日の当たる場所へと出ることのないエロゲーなのだという、目眩のするような事実に。ファミコンへのアーリーアダプターたちの少なくない数が、その鋭敏な嗅覚と先見性から、いまや高い社会的地位を持ち、世に幾ばくかの影響力を有する人物になっているに違いない(そうでない者は犯罪者になってほんのいっとき耳目を集めたか、世間の無視の中で孤独に死んだ)。そしていま生き残った彼らは、私と同じようにランス10をプレイしながら、日常では周囲の誰ともこの叫び出したいような感動を共有できないことに、そして自分があまりに遠くに来てしまったことに、ほとんど絶望と近似値の深い感慨を得ているはずなのだ。

 ブスは足蹴にして唾を吐きかけ、美人はすぐさま押し倒してレイプ、そして彼は世界の王に選ばれて、ついには人類を救済する――こんな異常者の(そしてすべての男性が持つ)妄想を心の底から楽しんでいることを、妻が、娘が(息子はオーケ)、隣人が、同僚が、部下が知ったなら、どのような迫害の末の社会的抹殺が待ちかまえていることだろう!

 だが、それでも私は、どんな文学賞さえメじゃない、どんな権威ある承認をもらった作品よりも、この物語が大好きなのだと声を大にして言いたい! パラリンピアンがオリンピアンをガチの真っ向勝負で凌駕してしまった不認定の記録、非公式の歴史、それがランス10なのだ! 現在、スマホゲー業界を席巻しているエフジーオーも元はと言えばエロゲー出身で、更に言えばおそらく中高生の大学ノートから始まった何かである。しかしあちらは早々とエロを切り離し、切り離して本体に影響の無い、良性の腫瘍くらいのエロだったわけだが、より洗練された何かに形を変えてしまった。

 もしソシャゲ化されたら俺様がエフジーオー以上に課金するだろうランスシリーズは、本体と悪性腫瘍が完全に癒着してしまっており、切除は本体の死につながる。つまり、エロゲーというジャンルにおいてしか、成立し得ない物語なのである。エフジーオーを鞘に収まった刀剣と例えるならば、ランス10は破傷風必至の赤錆を浮かべた釘バットである。刀剣ならば美術品としての価値もあろう、剣術の流派もできよう、しかし、釘バットは怒れる若いヤンキーの手を離れてしまえば、どこにもたどりつかない。ただ対象となった一人を傷つけ、いつまでも消えない傷痕を残し、死ぬまでの時間を長く苦しませるだけである。私もたぶん、最初は釘バットでよかった。しかしnWoもその番外編であるMMGF!も、釘バットを完遂できず途上に中絶を遂げた。それはたぶん、いつか刀剣に憧れてしまったからだ。30年もの長い時間を経たにも関わらず、釘バットであることを完遂したランス最終作に、心からの拍手と敬礼を送りたい。

 ランスシリーズの制作者も人生の晩年に差しかかる頃なのだと思う。だから、誠実に続編への未練をすべて断ち切って、物語を終わらせた。某潜入ゲームのようにプロダクトとしての醜悪をさらすことを好まず、作者が死ねば続きもありえない、つまりアートとして作品を完結させたのだ。若い君にプレイしてくれ、とは言わない。ただ、ほんの半世紀ほどをしか生き延びなかった、その半世紀を共に生きなかった者には決してわからない感情が確かにあったのだという事実をただ、君に知っていて欲しい。

 スレイヤーズ!が世界の謎を解明しなかった恨みは以前にどこかで述べた気がするが、少なくとも完結はした。バスタード!とベルセルクとガラスの仮面と王家の紋章とグインサーガと日本ファルコムは、ランスシリーズの爪の垢でも煎じて飲めばいいと思った。おい! 特におまえ、グインサーガ! あとがきで主人公の子供たちによるグイン後伝とかぬかしてたくせに、本編も完成させずに死にやがって! ランス10の2部を見習えってんだ! おかげでカメロンはあっさり死ぬわ、アルド・ナリスは復活するわでたいへんなんだからな!

 あと盛大なネタバレだが、第二部において孫子の代のセックスを「描かない」と決めたことへある種の共感を覚えたのは、最後に伝えておきたい。倫理観と表現すると強すぎるこの上品な忌避感は、まっとうな大人のそれに違いなく、シリーズと共に年齢を重ねた制作側と遊び手側の成熟を称えている気がした。

 いつでも世界を破壊できる力を持ちながら、一人の女性に向けた恋慕だけが、その衝動を抑えるよすがとなる。彼の苦しみと葛藤はいかばかりだったろう。そして、15年越しに初めて伝えられた「好きだ」という想いを、私たちは30年越しで目にする。ここまでやらなければ、すれっからしのおたくどもは、愛を信じることができない。

「ああ、世界丸ごと好きになるといい」 「なんで?」 「良いことがあるから」

忘備録「Fallout3が大好きな話」

 フォールアウト3が大好きだって話、したことあったっけ? 無人島に3つだけゲームを持ち込んでいいぞって言われたら、「女神転生II(FC版)」「Diablo2」「Fallout3」(英語表記のほうがしっくりくるな)を挙げるぐらい好き。

 どれだけ金持ちになっても、どれだけ社会的地位が上がっても、死ぬまで決して達成されないだろう夢が、私にはある。それは、「人類が滅びた後の街を一人きりで散策する」ことだ。TDL(トーキョー・ディズニー・ランド)には露ほどの興味もないが、TWL(トーキョー・ウエイスト・ランド)が実在すれば間違いなく年パスを買うに違いない。

 世界中の国々を旅行した人でも、自分の住む小さな町の、すべての家々を、すべての部屋を、くまなく見たことはないだろう。たぶん、ファミコン版の女神転生IIに植えつけられた、この人には言えない欲求ーー経緯はどうあれ、人類をできるだけ長く継続させる側にベットして、日々を過ごす身にとってはーーを大人になってはじめて、わずかにでも満たしてくれたのが、Fallout3だった。ニューベガスでもなく、その続編でもなく、Fallout3だけが私にとって特別なのだ。なぜここまでこのゲームに強く引かれるのか、ずっと言語化できないでいた。

 つい最近、SteamのセールでFallout4が2,000円強(FGOのガチャ1回分にも満たない!)で売られており、PS4版を途中で投げ出していたこともあって、色々MODをつっこんでプレイを始めた。二十時間ほど遊んですっかり疲弊している自分に気がつき、なぜPS4版をプレイしなくなったかを思い出した。

 Fallout4の、何が私を疲れさせたのか。異様に密度の高いロケーション、次から次へと起こるクエスト、拠点の構築と防衛に資源の確保と管理、そして何より、出会う人出会う人、だれもが世界の再生と人間の復興を希望していることーーそれらが私を疲れさせたのだ。グラフィックやアクション性、物量の部分では前作をはるかに上回っているが、Fallout4はあまりにもあらゆる瞬間をゲームとして遊ばせようとしすぎ、「滅びた世界の散策」という要素が背景に追いやられてしまっている。

 ここに至り、私がFallout3の何に引かれ続けてきたのかが、わかった。Fallout4が明確にゲームであるのに対して、Fallout3は夢と記憶の物語なのだ。シェルターの扉が開き、はじめての陽光にホワイトアウトする視界から、広がる廃墟へと焦点が戻っていった瞬間の衝撃を忘れない。ああ、みんな知らないふりで嘘をついていたんだ、やっぱり世界はとうの昔に滅びていたんじゃないか、というあの深い”安堵”。

 そして、ロケーションがわずかに点在するばかりの広い世界を、ただひたすらに歩く。おのれの足を使う以外、移動手段は存在しない。あまりに多くの時間を一人きりで過ごすので、たまに出会うレイダーやミュータントにさえ安らぎを覚えるくらいだ。フィールドは瓦礫に寸断されていて、地下鉄がそれぞれをつなぐ。建物の内装は多くが似たりよったりで、長い旅の果てにたどりついた未知の場所で不思議な既視感を抱く。

 キャピタル・ウエイストランドでの体験すべてが、思い出せそうで思い出せない夢か、いつかあった遠い記憶のできごとのようだ。夢は映像を失ったあとも切なくもどかしい感情だけをうつつに残し、忘れることができなかった断片からコピー・アンド・ペーストで復元された記憶は、頭の中でいつまでもいびつな輝きを放ち続ける。Fallout3は、「己の死を終点とした未来に至るまで、一度も経験することのない過去の記憶」として、今でも私の中に輝き続けている。

 さて、ここまで書いてきれいに終わればいいのだが、私にとってインタッネトーはエッセイ置き場ではなく個人的な日記帳である。Fallout4、ゲーム内でさえ他人のために我が身を粉にして働き続ける勤勉な自分に嫌気がさしてきた頃、2つのMODを新たに導入した。

 1つ目は、各拠点の運営をいわばシムシティ(あるいはポピュラス)化するもの。都市計画と資源を与えれば、住人たちは勝手に町を築き、生産を行い、防衛まで自分でする。これにより、私は再び一個の放浪者として解放された。

 2つ目は、オーバーオールの金髪少女をコンパニオンとして追加するもの。愛らしい外見(setscale 0.9推奨)で、独立した骨格と動きを持っており、「え?」とか「ほっといて!」とか、作中のNPCから抽出したいくつかの台詞をしゃべるだけ。シナリオからは完全に離れた存在で、ロマンスもなし。周囲は彼女をいないもののように扱い、渡した武器を使ってもなぜか弾薬が減らない。

 小学生の時分、神戸の近くに住んでいた。港が近いせいか、外国人家庭の多い地域だった。学校がはけたあと、裏山に作った秘密基地で遊んでいると、しばしば金髪碧眼の子どもたちがやってきて、ときに小競り合いになった。あるとき、私たちの投げた石があたって、彼らの一人が額から血を吹いた。事後の顛末も含めて他のすべては曖昧なのに、その瞬間の、白い肌に流れた血の赤さだけを鮮烈に覚えている。

 もしかすると、目の前にいる愛らしいオーバーオールの少女は、知らず殺してしまったあのときの白人なのではないか。人造人間たちとの激しい銃撃戦のあとに周囲を見渡すと、薄暗い室内で廃材の隙間から差す陽光が、スツールに腰掛ける少女をしんと照らしている。やがてゆっくりと振り返りながら、少女は肩越しに焦点の合わない視線をよこす。瞳に浮かんでいるのは、怒りか悲しみか、あるいは私への恨みなのか。その姿に私は、存在するはずのない遠い記憶を幻視する。夏の陽射しに立ち尽くす、金髪の少女と、やせぎすの少年と。

 しかし、シムシティMODの無粋な発展報告ウィンドウが、否応に私を現実へと立ち返らせた。かぶりをふると、ケロッグの追跡行を再開する。曖昧な気配が変わらず、背中を追ってくるのを感じながら。彼女は、いつか私を殺したいのだろうか。

 Fallout4をFallout3化するMOD、a.k.a.「Charlotte -simple companion-」、謎の管弦楽団・ペドフィルの首席指揮者も認める太鼓判ですぞ!