猫を起こさないように
日: <span>2019年10月27日</span>
日: 2019年10月27日

ジョーカー


ジョーカー


正直、ヒース・レジャーのジョーカーを究極と考えているので、見る気はなかったんです。ダークナイト・ライジング(ライジズ)の感想でも言いましたけど、児童虐待とか幼少期のトラウマから、長じて社会に復讐するみたいなのって、ありきたりじゃないですか。行動原理の理解できなさ、まさにジョークによって社会を混乱に陥れる存在としての悪の誕生を、実社会を生きる一個の人間からどうやって描くんだって話ですよ。でもね、スチルのホアキン・フェニックスの表情がデ・ニーロとかニコルソンの怪演を彷彿とさせたところと、彼がなんとリバー・フェニックスの弟だってことを知って、MOD導入失敗のヒマにあかせて期待ゼロで見に行ったわけですよ。そしたら、照明が消えるまでは半笑いだったアニメ絵のゴスロリ美少女が、130分後には皺の一本一本まで丹念に描かれた劇画調の中年男性に変貌して、滂沱の涙を流したスタンディング・オベーションを送っていたわけですよ。関西の片田舎の映画館だから、周囲は迷惑そうにその中年男性を見てましたがね。ロバート・デ・ニーロを主人公と対峙する司会者役に配していることからもわかるように、本作が現代版タクシー・ドライバーを意識して作られていることは、確定的に明らかでしょう(キング・オブ・コメディ? 未見です)。DCコミックのジョーカーという大看板を隠れ蓑にして監督が本当に描こうとしているのは、いま現在、進行しているのに、だれからも不可視である危機への警鐘であり、純粋な社会批判なのです。それを証拠に、本作はゴッサムシティを舞台にしなくても、バットマンに至る前日譚の要素を抜いても、充分にストーリーが成立するし、単館上映から口コミで劇場数が増えていくような類の、極めてマイナーな作りになっているわけです。ジョーカーというキャラクターは、それ抜きに描かれた場合あまりに現代社会の有り様と政治に対する露骨な批判と捉えられてしまうため、監督の意図するところの隠れ蓑として使われたという感じさえ受けます。さもなければ表現することをゆるされないような、本邦に生活していては想像できないような、息苦しいポリティカル・コレクトネスのムードが米国にあるのではないかと想像するのです。有名作品のリメイクさえ、主人公がブラック・パーソンに置き換えられる昨今、かの国においてストレート・ホワイト・アンド・プアは、いずれの社会・政治・文化状況からも顧みられない存在なのだろうということをひしひしと感じさせられます。そして素晴らしいのは、今回のジョーカーは自身では何も決断しないという点です。テレビに出演するまで、いや、拳銃をデ・ニーロに向ける直前まで、彼は衆人環視の中での自死(なんという甘美な妄想!)だけを願っていたのですから! ただ周囲の状況に流されていく中で、あらゆるテンションが高まった先の結節点となり、社会擾乱のアイコンとして白痴のまま、彼は押し上げられるのです。これはまさに、時代の要請が民衆に英雄を選ばせるプロセスと同じであり、社会という意志なき意志による否応な選択を見事に表現しています。メディアやSNSによる無責任な伝播ーーその瞬間を埋めるためだけに偽りの狂騒を煽り、翌日には消えてしまうような激情で偽りの情報を拡散するーーが、ついに究極の悪を世に顕現させるというのは、じつに示唆に富んでいると言えるでしょう。昨今のデモを予見するかのような、マスクをかぶっての暴動とか、脚本段階では意図しなかった現実とのリンクの仕方(エヴァンゲリオン!)も名作の条件を満たしています。しかし何より、この脚本を説得力のあるものとして成立させているのは、他ならぬ役者の力でありましょう。ホアキン・フェニックスの身体のしぼり方は、マシニストのときのクリスチャン・ベールを思わせ(バットマンつながりだ!)、たたずまいのみで台詞以上の多くを見る者に伝えます。脚本的には、生放送中にジョーカーから3人の殺人をうちあけられた司会者が即座にそれを事実として信じたり、冷静に考えるとおかしな部分もいくつかあるのですが、細かい瑕疵をすべてホアキン・フェニックスの演技が説得力に変えていくのです。あの場面では、反逆者としてのデ・ニーロが権威者としてのデ・ニーロを射殺するみたいなメタな読み方もできて楽しいし、さまざまな視点を許容するのは良い作品の条件と言えましょう。アンチ・ヒーローの肯定と受け取られないよう、最後に精神病患者の妄想だったのではないかという解釈を(わざと)コミカルに用意したり、本作の訴える尖ったメッセージへの非難をなんとかかわそうという作り手の苦心がうかがえます。万引き家族もそうでしたが、弱者の犯罪行為に対して観客の感情を同情や共感へ誘導することで、現在の社会体制やマツリゴトが間違っていると気づかせる手法は、為政者にとって操作しようがない(なぜかテリーに映らないトーキョーのウォーター・ディザスター!)という点で非常に厄介でしょう。どんなに能力を欠いた凡庸な人であったとしても、どんなに病弱で生産に寄与しない人であったとしても、それぞれ「ハッピー」に生活を送ることのできる場所を与えるのが人々の集合体の本来であり、「ハッピー」でない人をどこまで我慢させることができるかが教育の正体(少なくとも本邦の)と言えます。
しかしながら、個々の我慢は一時的なマージンに過ぎません。この映画のラストのような暴発に至らせない「我慢のさせ方」のさじ加減がマツリゴトの本質的な妙技であり、暴発がマツリゴトを動かす状況が続くことはやがて社会の革命へとたどりつくでしょう。我々がいま、その端緒にいないことを祈ります。……って、高天原勃津矢が言ってました!

アイスボーン


アイスボーン


アイスボーン、とりあえずエンディングまでクリア。ここまでの感想だが、本作のハンターはとにかく強すぎる。攻撃操作を右レバーで行なっていた時分からの大剣使いとして言わせてもらえば、「抜刀納刀による機動力」「真溜めによる爆発力」「クラッチによる対空迎撃」に加え、限定的だが気絶攻撃まで追加され、全方位的に隙が無さすぎてモンスターが気の毒になるくらいだ。無印のときに見つけた海外の感想「このゲームはリアルな動物虐待だ」が笑えないぐらいのタコ殴りっぷりである。おかげさまで、これまでのところコントローラーはひとつも破壊されていない。個人的には、アルコールを入れながらプレイできる、このくらいのユルさがちょうどいい。今後はきっと、王とか極とかが追加され、ストレスフルな環境へと変じていくのだろうが、いまは弱い敵相手のミー・ストロング、達人ゴッコを楽しみたいと思う。あと、無印からずいぶん経っているのですっかり忘れていたが、このシリーズ、シナリオというか文芸がとにかくひどい。ゲーム部分の完成度の高さに比してあまりに拙劣なので、ライターが社長の親戚みたいな強いコネの存在を疑うばかりである。特にイビルジョーをもじって腐される例の嬢の人物造形は、二択で間違ったほうを選び続けたような悲惨さに達している。食いしん坊で好奇心旺盛、天真爛漫でおっちょこちょい、抜けてるように見えるけど本当はしっかり者、若さを重視せず年上の女性にもきちんと敬意を払うーー老若男女、だれからも好かれるキャラを目指した結果、好印象を与えようという意図が交通渋滞を起こしており、全方位的に嫌われる歪なキメラと化してしまっている。調べると女性ライターであり、「男ってみんな、よく食べる頭カラッポの若い娘が好きよね。でも、この子は本当は賢くって芯があって、年配の職業夫人をキチンと敬えるのよ。あと、育ちがいいから達筆なの」みたいな昭和感あふれる、ねっとりとしたワイン片手の解説が聴こえてきそうだ(幻聴です)。ゲームはアートである前にプロダクトなのだから、個人の感性によるライティングに預けず、ピクサーみたいに複数のライターによる合議制にした方がいいんじゃないかなあと思った。どれとは言わないけど、最近の劇場アニメにもそれを強く感じます。閑話休題。本作のゲーム部分とシナリオ部分のアンバランスさを現実の何かに例えるなら、「プレイメイトのボディに昆虫の知能を備えたトロフィーワイフ」だと言えるだろう。同時代の雄・エフジーオーは正にこの真逆の欠点を苦しんでおり、世界のままならなさの縮図を見る気分にさせられる。

天気の子


天気の子


期待していたみなさん、すいません。すごく楽しめました。いつもは面白さを気持ち悪さが上回るのに、今回は気持ち悪さが面白さを上回らなかったことが理由だと思う。例えるなら、クサヤや鮒ずしやブルーチーズやシュールストレミングに比する臭みがなくなったので、ようやく味や食感に言及できるようになったという感じだ。ツイッターで散見される「90年代エロゲーのトゥルーエンド」なる評は的確に本質を言い当てていて、カントクの出自にも合致する慧眼だと思った。じっさい、本作のストーリーはまさにエロゲーのリアリティラインで描かれていて、その不整合を一般文芸と同じ視点で評するのも野暮であり、わざわざツッコむ気にはなれない。そんなことより、ラストシーンでは名前を呼ぶだけでなく、ついに男女が手を握りあう状態へと至っており、次作ではハグ、次々作ではキス、次々々作ではペッティング、次々々々作ではセックスと、ようやくチェリーボーイ卒業へのロードマップが見通せたのは喜ばしいことだ。あと前作と違って、小学生女子の描き方があまり気持ち悪くないのは、同級生の男子を登場させて大人からの視点を薄めたのと、何よりカントクの娘が小学生になったというのが大きいと思う。しかしアナタ、小学生の娘ですよ! 結婚して家庭を持ち、四十も半ばを過ぎて、子どもが小学生になってなお、こんな金木犀スメルの漂うストーリーを描き続けることができるというのは、ある意味すさまじいことですよ! 尊敬ーーには値しないまでも、保護するべき貴重な感性(DT力)ですよ! 本作のインタビューに目を通したら、「ヒロインを救うために東京を水没させるなんてことして、みんなボクのこと、ひどいと思いますよね?」とか思春期の少年みたいな世迷い言を吐いている。インタビュアーをはじめ、その場に居合わせた方々は、作り笑顔の下に「オマエが二百億かせいでなきゃ、すぐにでもこの場を離れるんだがな」という本音を秘し隠して仕事に当たられたこととご同情申し上げますが、オイ、そこかよ! 拳銃の扱い(チンポのメタファー?)とか、もっと他に気を使って脚本へ落とし込まなきゃいけないことがたくさんあっただろうがよ! いいんだよ、東京やセカイのひとつやふたつ滅んだって、ただのフィクションなんだから! エバー・キューから悪い影響を受けてんじゃねえよ! つい興奮してツッコむ気にはなれないはずのストーリーにツッコんでしまったが、私が心配するのは、本作も大入りロングランとなり、当然としてまた周囲の大人たちに次回作を求められたときのことだ。前作のキャラを登場させてまで、わざわざ舞台のつながりを明示したマジメなカントクのことだ。「水没した東京(不可逆な! 可塑性のない! エバー・キュー!)でぼくたちはいかに生きるのか(吉野源三郎! 宮崎駿!)」というセンで東京三部作みたいにトリロジーの完結編を考えようとする可能性が極めて高い。だが、その方向はカントクの器を越えた隘路だと、僭越ながらご指摘差し上げたい。なに、「シン・エヴァが公開されてから、結論をパクればいいじゃん。あと、絵の構図とか(笑)」とでも考えているんじゃないですか、だと! きさま、シンカイさんがそんな不真面目な人間であるはずが……(振り上げた拳をおろし、目をそらす)。ともあれ、皆が不幸にならないエス・シー・ディーズ(持続可能な創作目標)だけは、おずおずと提示しておきたい。カントクは「脚本はエロゲーからの借り物、構図と画面作りはエヴァからの借り物、背景美術だけが少しオリジナル」という自らの特性を受け入れ、以後は全国各地の主要都市へ舞台を移してのボーイ・ミーツ・ガールだけを描き続けるのが最良の一手であろう。本作の脚本をひな形として、あとはキャラの固有名詞を変えたぐらいの変更で(一般客はだれも気づかない)、各地の主要都市を緻密な背景美術で描いていくーーカントクの気晴らしに、ときどきは火山の噴火とかで街を壊滅させてもいいーーことで、聖地巡礼などで地方行政や観光事業と結託する。それがカントクにとっても観客にとっても出資者にとってもハッピーで持続可能な、三方一両得の展開であることは間違いないと断言しよう。もしカントクが「あの、東京だけがボクにとって特別な街なのであって……」などと童貞スメルのする思春期的な寝言をぬかしだしたら、周囲の大人たちはきっちりとチョウパンいれてから説得してください。あと、粉雪の舞う中でセミが電柱にとまっているカット見たけど、あれさあ、わかってるぜ、nWoの更新への目くばせだろ? いやあ、オレもいよいよネット界隈において「好きだと名前を言ってはいけないあの人」と化してきたようだな、照れるぜ、ハハハ(テロップ「※個人の妄想です」)!

若おかみは小学生


若おかみは小学生


清く正しい、健全なる青少年育成アニメ。児童文学を原作としており、作者が女性ということもあって、等身大の小学生女子に対する適切な距離感を保った描写が、たいへんに好ましい。近年、男性の作り手による作品に登場する小学生女子は、意識的なのか無意識的なのかはわからない、非常に性的に描かれるようになってしまっており、この一点だけでも大きな評価に値すると思う。さらに、男性の作り手による作品に登場する少年少女は、作者の自己投影が鼻につくほど強いため、本作の主人公に対する距離感ーー「両親の視点から見る娘」という描写は、近年のアニメ群においては非常に新鮮に映る。おい、誠! 同じ神楽をあつかってんのに見事に伏線を回収し、清々しい(きよきよしい)読後感に至っているのがなんでわかったか? 現実に傷ついた子どもの癒やしと成長を心から願い、十数年先の将来を見越して教育することの意味を信じるだれかは、当の小学生に自分の体液を販売することへ言及させたりしねーんだよ! この作品を見れば、いかにおまえの感性が歪んでいて、気持ち悪いか恥じいる気持ちになっただろうがよ! おい、吾朗! まずそうな食事シーンでペラッペラのキャラに必ず「いただきます」を言わせるような教育的しかけがいかに中身のない、浅はかなものかわかったか? おまえは家庭をかえりみない父親と逆の理想像、おまえの願望を描いてみせただけのことで、現実にネグレクトされた子どもの心へは少しも寄りそわなかったんだよ! この作品を見れば、いかにおまえの動機が歪んでいて、何の共感も得られないかわかっただろうがよ! 閑話休題。あえて気になる点を挙げるとするなら、原作ではさらりと描写されるに留まっていた(海外赴任中の両親、と同じくらいの感じだった)交通遺児である主人公という設定がテーマに昇格し、物語全体がそこへ向けてかなりエッジをかけられていることだろう。これがあるために、名作であることを頭で理解しながら、ネット上で無責任にする”拡散”は別として、現実に面識のあるだれかには、非常に薦めにくくなってしまっている。過去、現実に兄を亡くした知人へそれと知らず「息子の部屋」を薦めてしまった経験があり、その方は好意的に受け止めてくれたものの、かなり冷や汗をかいた。なんとなれば、現実での不幸とは個別的でネットのようには声高に喧伝されないものだし、実際に交通事故で身内を失っただれかがこの作品を見て、交通事故は作劇のためのギミックであり、自らの不幸を弄ばれていると受け取ったとして、その感覚は正当であり、否定できないものだ。個人的には、虚構の人物に過ぎない主人公を、それでも現実と同じ切実さで救ってやりたいという制作側の強い気持ちーーたぶん、愛と呼ばれるものーーを感じることができた。そうは言いながら、やはりアウトとセーフの際どいラインにボールが投げられていることは間違いない。しかし、それが本作を夏休みのいち児童アニメであることを越えて、より普遍性を持った作品へと昇華させていることもまた、事実なのだ。くだくだと私的に悩ましい部分を述べたが、この繰り言が本作の送る力強いメッセージの価値を減ずるには至らないことを強調しておきたい。私たちが許したいかどうか、実際に私たちが許せるかどうかに関わらず、私たちはただ許すことをもってしか、現代の問題の多くを解決に導くことはできないのである。最後に蛇足ながら、本作にもし瑕疵というものを指摘するなら、初のアニメ化に高校球児のような全力投球をしてしまったことで、あまりにも原作シリーズから今回の映画へと、メッセージをこめるための要素をきれいに抽出しすぎたことかもしれない。本作で初めてシリーズに触れた視聴者に対して、この一作で満足を与えすぎてしまい、原作を手に取らせるには至らないような気がするのだ。よし、どうやら私は真面目なツイートをし過ぎてしまったようだな! 次までにはなんとか時間を見つけて「天気の子」を視聴し、諸君が期待するところの下品な大罵倒大会をお見せすることを約束するぜ!