猫を起こさないように
日: <span>2019年7月28日</span>
日: 2019年7月28日

栗本薫と中島梓


栗本薫と中島梓


没後十年に出版された、まさかの評伝。女史の大ファンを自認する私でさえ知らなかったエピソードも多く、ゴシップ的な興味は大いに満たされたが、本人が生きていたら大激怒で原稿を引き裂くだろう記述も多い。氏の著作の三分の二ぐらいは読んでいると思うが(本棚を見たらグイン・サーガは最終巻を除けば、92巻まで購入していた)、書かれたすべての作品を読み尽くすまで、彼女は生き続けるのではないかとどこかで信じていた。死去の報にもほとんど動揺しなかったのに、本人が生きていれば絶対に出版を許さなかっただろうこの本が私の手元にある事実に、もう栗本薫はこの世にいないのだと改めて思い知らされて、涙が出た。二度目の追悼をこめて、彼女の著作を読み返すことに週末を捧げようと思う。『父と母と××とのゆるしの三位一体から、私はいつもひとり拒まれてある』。薄暗い室内で窓の外の雨音を聞きながら、横座りの萩尾望都作画少女が栗本薫の過去作品を読んでいる。「翼あるもの」「朝日のあたる家」「ハード・ラック・ウーマン」などの初期作品に目を通し、その天才性と深い共感力にはらはらと落涙する。それから少女は女史の円熟を知るために、代表作であるグイン・サーガの後期巻へと手を伸ばした。読み進むにつれ、少女の眉間に刻まれた皺はみるみる深くなっていく――ウオァァアーーッ!! 突然の絶叫とともに、少女は板垣恵介作画に変じた上腕二頭筋で文庫をまっぷたつにしたかと思うと、ビリビリに引き裂いた。12、3年前の気持ちを思い出したところで、追悼おしまい。久しぶりに栗本薫の過去作品を読み返す中で、初期作品である「弥勒」の文体が、女史の晩年のそれにソックリなことを発見して驚いた。感情にまかせて校正なしに書きなぐってあり、同じ内容の繰り返しに眠くなって本を閉じようとするも、ふいに現れる鋭い言い回しにハッと目を覚まされる感じ。そしてまた、同じ内容がグダグダの悪文で繰り返されていく、というアレ。この作品が書かれた時期は、女史がまだ二十代半ばの頃である。晩年の、言葉は悪いが劣化具合は、才能の枯渇などではなく、理性による感情の抑制が効かなくなったゆえかもしれないことに思い至った。評伝に語られる「いったん怒りはじめると何時間も止まらず、あるとき目の焦点が自分を通り越して別のところにあるのに気づいてゾッとした」という内容(秘密にしておいてやれよな……)とも符号する。小説に関して周囲の指摘はいっさい聞き入れなかったというから、いったん自制を失えば、「弥勒」の文体が彼女の生来だったということだろう。ここまで書いて思い出したが、栗本薫をリアルタイムで追いかけなくなったのは、少年愛に関する文章の中でスラムダンクをバレーボール漫画だと断言しているのを読んだことがきっかけだった。怒りに満ちた焦点の合わない目で、編集者のおずおずとした指摘に「ママイキ!」と口角泡とばす場面を想像すると、苦しくなってきた。そういえば、小説道場でも「編集者風情が人様の文章を校正してんじゃねーよ。だれにでも間違う権利があんだよ。次に同じことをしやがったら、もうオマエんとこには書かねーからな」みたいなことを言っていたな……そうやって協力者だった人たちを敵に回していったんだろうな……。とはいえ、御大の文体とふるまいに多大な影響を受けているnWoも、人のことはまったく言えないのである。「無視もしにくいが、関わるとめんどくさい。黙って放っておけば、いずれその性格の難から自滅して消えるだろう」といった態度を取られている現状へ、御大の「私は文壇から無視されている」発言をオーバーラップさせて、いまさら身につまされている次第である。

ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ


ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ


映画作りの下手な怪獣オジサンによる、このジャンルがなぜ衰退してしまったかを余すところなく説明するB級、いや、C級作品。三十年前でさえ古臭いガイア理論(キミら、ホンマ好っきゃな~)をテーマに、家族と地球の命運が並走するアメリカ版セカイ系の支離滅裂なシナリオで、みんな大好きケン・ワタナベを筆頭とした出演料が安いことがキャスティングの理由であろう錚々たる大根役者たちが繰り広げる壮大な学芸会。映画全体の三分の二、下手すると四分の三が神妙な顔のクソ演技(特に主役の白人男性がひどい)をドアップで見せられるものだから、開始1時間でもう劇場を出ようと腰を浮かせかけたくらいだ。本作がシン・レッド・ライン以来の不名誉な二作目とならなかったのは、前の席の兄ちゃんがほんの数秒差で席を立って出ていったのへ鼻白んだからに過ぎない。特にひどいのは登場人物の感情の流れが、ほんの数分のシーン内でさえ一貫性と連続性を保てていないところだ。これを言うとまたドぎついストーカーを招きそうでイヤだが、カイジュウやロコモーションを偏愛するようなある種の人々は、他人のエモーションの感知について致命的な問題を抱えているのではないかとの疑いを強くした次第である。あと、熟練のテロリスト集団から安々と最重要機器を盗み出したばかりか南米の山奥っぽい基地からボストンの野球場へ瞬間移動までする謎ビルドのジャリとか、ドローンの電子機器をクラッシュさせるほど強い放射能の中でボッ立ちできるほどビルドの極まったアジア人男性とか、ツッコミだすときりがない。それと気に食わないのが、小賢しげな中国出資枠のこの女優……え、チャン・ツィイー? これチャン・ツィイーなの? マジで? クルーエリティ・オブ・タイム(初恋の来た道をザリガニ・ムーブメントで後退していきながら)!

メリー・ポピンズ・リターンズ


メリー・ポピンズ・リターンズ


メリー・ポピンズにまったく思い入れのない小生が、前作を数十回はリピートしている年季の入ったファンであるところの家人どもと共に視聴をしたのが、間違いであったやもしれぬ。最初のうちは、いがらしゆみこ作画で「リメイクじゃなくて続編なんだー」「ここ、前作のあの場面を意識してるよね」などとキャッキャ・ウフフ状態だった家人たちは、ストーリーが進むにつれ、次第に不機嫌そうに腕を組み始め、原哲夫作画の渋面となっていった。「前作と違って耳に残る魅力的な曲がひとつもない」「わざとクロマキー感を残している合成があざとくてイヤ」「エミリー・ブラントの演技プランがダメ。ジュリー・アンドリュースの魅力の足元にも及ばない」「後半のミュージカル群舞だけど、ディズニーランドに舞台ごと移設しての再演を目論んでいるのがミエミエで鼻につく」「感情面で機能不全を起こした家族をメリー・ポピンズが救うというのが前作。今回の家族は金銭面でしか問題を抱えていないので、わざわざメリー・ポピンズが救済する意味がない」「そもそもメリー・ポピンズの魔法は子どもにしか見えないはず。メリー・ポピンズの魔法によってまず子どもたちが変わり、その子どもたちに影響を受けて大人たちが変わっていく。大人たちに魔法が見えてる時点で、この監督はメリー・ポピンズの何たるかが分かっていない」―ー坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、それはもう聞いているこちらの肩身が狭くなるほど、クソミソの大批判大会と化していった。私にとってはごく標準的なミュージカル作品のひとつとしか映らなかったため、ロブ・マーシャルに親を殺されたかのように繰り広げられる悪口雑言に、正直ドン引きした。しかしながら、ライアン・ジョンソンやカントク(Cunt-Q)の作品をけなすときの自分の姿は客観的に見ればこんな感じであろうなと、己の行状を深く反省させられた次第である。あと関係ないけど、エミリー・ブラントってバーチャファイターみてえな顔してるよな。

アヴェンジャーズ・エンドゲーム


アヴェンジャーズ・エンドゲーム


キャプテン・アメリカなくばMARVELなく、アイアンマンなくばMCUなく、ロバート・ダウニーJr.なくばアイアンマンなし。これは、2人のヒーローと1人の俳優のために作られた最後の花道である。本作はアベンジャーズという作品タイトルとともに、自国の内へ内へと後退していく米国の正義を批判する作品として読むこともできようが、製作サイドの同意を得ることは難しいに違いない。悪の説くジェノサイドの大義へ、ただただ否定をしか返せない正義、悪を止めるためにする悪の方法を完璧にトレースしたジェノサイド返しは、異なる価値観同士の融和を完全に拒絶し、すべてを家族サイズの同胞へとシュリンクする。象徴的なのは、悪のボスが云う”I’m inevitable.”に対して、正義のリーダーが”I’m *pause* Ironman.”としか返せない場面だ。悪には明確な信念と哲学があるのに対して、正義には同胞を殺されたゆえの曖昧な報復(Avenge)しかない。”I’m Ironman.”は十年にわたりシリーズを追いかけてきたファンにとっては充分に感動的な台詞だが、シリーズの厚みを除いて聞けば、哲学を持ちえない現代の正義の虚しさのみを響かせている。飽和爆撃で肉を砕いた後に、バーガーとシネマで心を屈服させるという勝利の方程式は、もはやこの世界において有効ではないのだ。個人的なことを言えば、なんとかアメリカと聞けばチーム・アメリカが真っ先に浮かぶ小生にとって、”inevitable”という単語は北の総書記が白人女性にディスられるシーンを思い出させる笑いのツボであり、シリアスなはずの件の場面は脳内において「ぱーどんみー?」の幻聴を伴うコントに転じてしまった。あと、10連休の大半をグリムドーンに費やしてきたせいだろう、豪華な、しかし、地球上のどこで戦われているかさっぱりわからないアクションシーンを見せられても、心に浮かぶのは「雷ハンマーと盾投げのビルドはアルコンかな、やっぱピュアキャスターは防御が紙になるよな」といった感想であった。それと、兄が妹に王座を譲るとか、白人が有色人種に国の象徴を預けるとか、政治的に正しい(と信じている)メッセージをサラッと刷りこんでくる「ディズニー仕草」には、スター・ウォーズ7からこちらもういい加減、食傷の極みである。もっとグチャグチャの泥仕合みたいな、ドぎつい本音と偏見と差別の応酬の果てに、何かきれいなものが生まれる様をこそ見せてほしい。この意味において、ランスシリーズとその最終作は作劇の方法論と、たぶん倫理観において、マーベル・シネマテック・ユニバースに勝るとも劣らぬ大傑作だと言えよう。にもかかわらず、本邦のこの偉大な達成に対して、私の観測範囲ではひとつの評論も、ひとつのインタビューすら見当たらない。これが20年前なら、ランスシリーズ完結に仮託して、誇大妄想と表裏一体の社会批評をぶちあげただろうあの連中は、いまや己の出自を恥じるかのように、軒並み政治やらアカデミックやらへ遁走してしまっている。(アンクル・サムの指差しポーズで)そこの若い君、ランス10の評論で、かつてのテキストサイト村の住人のように名をあげてみないか。ぜんぜん話は変わるけど、インフィニティ・ウォーのときも感じたんだけど、カメラが引いたときに画面がすごくミニチュアっぽくなるのはなぜなのか、有識者のみなさんは私に教えてください。