猫を起こさないように
月: <span>2019年5月</span>
月: 2019年5月

万引き家族


万引き家族


少女保護特区の最終話にも書いたが、個としてのヒトは神であり、神をヒトに抑制するのが家族や共同体である。そして異なる家族や共同体から離れたヒトたちを抑制するのが法である。家族や共同体の内側は本質的に法の埒外であり、さらに蛇足ながら現代の問題の多くは法が直接に神を裁くことから生まれているように思う。さて、本作のテーマは「誰も知らない」のそれを延伸ないし踏襲したものであるように感じる。前作のラストが血によらない新たな家族の誕生を予感させたのに対して、本作のラストは血のつながらない家族の解体であり、テーマの後退を感じた向きもあろう。話はそれるが、今回の子役たちが「誰も知らない」の子役たちとクリソツであり、ペド方面での監督のブレなさを実感した。そうそう、テーマの話だった。本作では老婆の死と逮捕後の展開において、「当事者に対する部外者のクソリプ」「お父さん、お母さんとは最後まで呼ばせない」「私たちじゃダメなの(親にはなれない)」「おじさんにもどるよ(父親をやめる)」など、物語的なカタルシスを徹底的に排除していく。しかしこれは、クソリプの部外者から犯罪行為の肯定と受け取られる要素を慎重に、注意深く排除したゆえである。そして、最後のカットで犯罪者に教えられた数え歌を歌いながらビー玉を拾い上げる少女の視線の先に、誘拐犯であり窃盗犯であり殺人犯である者たちが彼女を迎えに来る現実を、視聴する誰もが幸福な結末として幻視させられてしまうという点に、監督の意図が粛々と完璧に積み上げられていく怖さがある。観客たちの、弱き者たちの犯罪を肯定するその視点をもって初めて、この映画は完成するのだ。深い感情移入の後に、何も知らない連中の安全圏からするクソリプを浴びることで、見るもの全員を犯罪の当事者に共感させるという没入の深度は、監督の過去作のどれをも超える高みに達している。ただひとつ瑕疵を指摘するとすれば、ジェイ・ケー・リフレの下りであろう。松岡某演じる売春婦の膝枕を涙で濡らす吃音のキモオタとの交流は、かつてネットに存在した「善良な一市民」と名乗るテキストサイト運営者(よもや我々を捨て、実名でテレビ出演などしておるまいな?)が好んで使ったところの「レイプファンタジー」そのままと言える。逮捕後の展開において松岡某だけ扱いが雑なことも相まって、監督の趣味でこのシーンを撮ってる感が強く、本作からはひどく浮いた感じを受けてしまう。オーッ! ミーもマイセルフのブサメンをマイフィストでワンパンしてからオーバー・トゥエニィのジェイ・ケーもどきとタダマン、エー・ケー・エー、フリー・エフ・ユー・シー・ケーしたいヨー!

アリータ


アリータ


CGと世界観の表現はA級、シナリオと構成はB級。描きたい場面優先でつないでるもんだから、登場人物の行動原理がグチャグチャで、原作を読んでいないといったいだれがどういうキャラクターなのかさっぱりわからない。おまけに続編ありきのブツ切りエンディングで、一本の映画としての満足度も高くない。銃夢って、B級SFっぽい始まりから、少年漫画の王道を経て、「臓器のみならず脳さえ置換可能なら、意識と魂はどこに宿るのか?」という深い哲学へと至る、たった9巻に凝縮されたその「駆け上り感」が本質だと考えているので、個人的に本作はいいところなしであった。あとネットの顔文字が表すように、東洋は顔の上半分、西洋は顔の下半分が表情を読み解く上での主要素である。目を誇張したCGは東洋へ寄せていると言えるが、原作ファンとしてはアンジェリーナ・ジョリーばりのタラコ唇をCGにて移植して欲しかったところである。

ローマ


ローマ


一言で申せば、「この世界の片隅に・イン・メキシコ」。監督が過ごした幼少期を忠実に再現する前半の1時間はもうタルくてタルくて(タルコフスキーぽくてタルコフスキーぽくて、の略)、特に親戚の農場に出かけて山火事になるあたりはひどい睡魔におそわれた。しかし後半の一時間、市井の一市民が生活よりも大きな流れに翻弄される様子には、大いに心を動かされた。ネタバレになるが、「子を失ったのに、悲しむのではなくホッしている自分」に気がついて涙を流す場面には、久しぶりに強く文学を感じた。なに、ありがちな展開じゃないですか、だと? このブクブク肥満の、ヘラヘラ笑いの享楽乞食めが! 貴様らのような情報と地獄に飽食した、いわば性病持ちの年増処女どころではない、知恵もなく教育も与えられない若い有色の端女が、本来ならばたどりつかないはずの感情を、否応に体験させられたことが文学なのだろうが!

スリービルボード(ズ)


スリービルボード(ズ)


なんだろう、高評価をつける方々は全員、映画の中身というよりは自分の解釈に感動しているように見えてしょうがない。私の印象を言えば、「理に落ちたデビッド・リンチ」かな。現実世界の問題を、登場人物の造形とストーリー展開に仮託して比喩的に読ませるという点で同じ作家性を感じるんだけど、この作品は妙に理屈っぽい。脚本の都合でキャラクターが動かされていると強く感じるし、監督が戯曲作家であることも原因だろう、あらゆる出来事があまりに連鎖的に、悪く言えばご都合主義的に、順序よく発生していく。「混沌・暴力」から「秩序・対話」への移行を描きたいんだろうけど、作り手がそういうメッセージを送りたい気分が前提にあり、不自然に物語が組み立てられる。この映画の他者評を知りたいと思えども、「アダルトもチルドレンも、ティッツも」で有名な例の人物が取り上げたスピリチュアル映画評に妨げられ、一般大衆の感じ方へアクセスすることができない。どれほど有名だろうと、フォロワー数が多かろうと、にんげんだもの、間違えることはある。エス・エヌ・エスの弊害は、「有名人の誤謬による、真理への不到達」なのだ。

ボヘミアン・ラプソディ


ボヘミアン・ラプソディ


フレディ・マーキュリーの神格化による、クイーンのしたたかな再ブランド化戦略。もちろん黒幕は御大ブライアン・メイであり、その事実は当初クレジットされていたサシャ・バロン・コーエンを「災難」とまで表現して降板させたことからも明らかだ。諸君もご存知の通り、ボラットでの怪演に魅了されてからこちら、小生はサシャ・バロン・コーエンの大ファンであるからして、フレディを「セックス・ドラッグ・アンド・ロックンロール」、つまり奇矯なヤク漬け同性愛者としての側面に焦点を当てたいとする彼の演技プランを見てみたい気持ちは強かった。しかしながら結果として、おそらく実像に近い「マジでセックス好きの精力旺盛なホモ」ではなく、「自傷にも似た代償行為としての愛を繰り返す、繊細な芸術家」としてフレディを再構築したことは、現在の世代を超えた大ヒットの状況を見るにつけ、やはり慧眼であったと言わざるを得ない。他の誰かがやったら大ヒンシュクだろうが、仕掛け人は御大ブライアン・メイ本人である。御大があの優しい目で「ぼくの知っているフレディは、こういう人だったよ」と言うなら、それをそのまま受け入れるしかない。個人的な洋楽の体験を言えば、クイーンはビートルズとマイケル・ジャクソンの狭間ですっぽりと抜け落ちてしまっていたバンドだった。もちろんベスト盤の曲くらいは聞いたことがあるし、ライブ・エイドの映像もかすかに記憶にある。しかし当時は、少女漫画界隈での黄色い悲鳴か、フレディの容姿をコメディ的に扱う芸能かに二極化しており、どうしてもイロモノ感がつきまとっていた。ちょうどクロマティ高校の同名キャラを思い浮かべていただくと、近い印象を抱いていただけるだろう。今回、「きれいなフレディ」を見たことでその呪いが解かれ、純粋に楽曲を再評価する気持ちになれたことは、最大の収穫であった。曲や映像もまた売れているようだし、これすなわち、御大ブライアン・メイの粘り勝ちと言えよう。ロジャー・テイラー? グリースを塗った車のマフラーとでもファックしてろ!

グリッドマン


グリッドマン


グリッドマン最終回見る。おそらく、この解決編から逆算して構成されたストーリーであるがゆえに、少ない話数にも関わらず、一切の迷いを廃した力強いメッセージを発信することができたのだろう。むしろ中盤のエピソード群を冗漫に感じるほどで、二時間の劇場版にすればさらにスッキリとまとまるように思えるぐらいだ。演出面では特撮への偏愛に根ざした旧エヴァの手法をなぞりながら、旧エヴァではカントク(Cunt-Q)がインタビューなどで場外乱闘的にしか提示できなかった「現実へ帰れ」という悪態を極めてスマートに扱っており、もうシン・エヴァの制作が必要ないぐらい、テーマとしてきれいにオチをつけてしまった。何より感動的なのが、この解決を否定的なトーンでは描かない部分で、あらゆる虚構は人間の精神にとっての「フィクサービーム」だとする肯定的メッセージは、アニメというジャンルとそのファンたちを称揚してさえいる。旧エヴァの観客罵倒とは大違いの清々しさだが、これはかつて虐げられる側、圧倒的マイノリティであったおたく文化が、いまや権威の側、メインカルチャーとなりつつある状況へ多分に助けられていることは指摘しておきたい。まったく、「生きながら萌えゲーに葬られ」を書いた頃とは、隔世の感がある。

アストロボット


アストロボット


半年ぶりに起動したPSVRでの官能体験の後、ほとばしりをぬぐいながら久しぶりにVRストアを眺めるうち、本タイトルへたどりついた。「オイオイ、今さらアストロロボ・ササの続編かよ(笑)」などとヘラヘラ笑いながら、中年の三段腹に置いたPSコントローラーからダウンロードしたら、30分後には居住まいを正したVRゴーグル姿のゴスロリ少女がそこに座っていた。あのさ、ゲームジャンルの更新っていうのはさ、他ならない体験の更新だと思うのよね。例えばスーパーマリオブラザーズは真のエポックメイキングだったけど、続編の2も3もワールドも、体験の部分では初代をまったく更新していないわけ。なに、USAは新しかったじゃないですか、だと? バカモノ! あれは夢工場ドキドキパニックだろうが! 同じシリーズで言えばスーパーマリオ64は、時のオカリナとともに以後の3Dゲームの標準器となるような、ゲーム体験を拡張する大更新だった。以後のサンシャインもギャラクシーもギャラクシー2もオデッセイも、シリーズを追うにつれてグラフィックは向上しギミックこそ増えたにせよ、ゲーム性のコアは64からの20年間(20年間!)少しも更新されていない。すれっからしのオールドファンであるところの小生も、マリオシリーズ、サンシャイン以降はプレイこそすれ、ひとつもクリアに至っていない(64はそれこそ数えきれないほど周回したというのに!)。オデッセイに至っては、開始10分ほどですべてわかった気分になってコントローラーを置いてしまった(つくづくハイコストな娯楽だ)。新奇さを嫌悪する市井の一市民ならば、水戸黄門や寅次郎のような同工異曲の繰り返しに怠惰な安らぎを覚えるのだろうが、極めて知性の高いリタイアを目前にした一皇族(おっと、身バレはカンベンにござるよ!)にとっては制作サイドが食っていくための、摩耗したクリエイティブとしか思えないのである。そして、このアストロボットである! ゲームの見かけを追えば64以降のマリオシリーズの忠実なフォロワーだと指摘できるだろう(特にサンシャインを強く感じる)。しかし本作は、ゲームが3Dに舞台を移したその瞬間から障害であり続け、プレイフィールに影響を与え続けたカメラワーク・イコール・視点の問題をVR空間に取り込んで融合し、新たなゲーム性にまで昇華した。これは正に、スーパーマリオ64から20年ぶりに行われる、3D空間でのゲーム体験の更新なのだ。いずれスミソニアン博物館に収められることを市井の一皇族が請け合うところのアストロボット、ゲーム好きを名乗る貴様ならばハードからすべてそろえて後悔のないマストバイであることを断言しようではないか! あとさあ、キャスリン・ビグロー監督じゃないほうのコケオドカシがゲーム史にどんな文脈を残すってえの? イーストちゃんさあ、雰囲気とかファッションだけでゲーム語ってんでしょ? 後々ふりかえって確実にメルクマールとされるだろうこういう作品をこそ、キチンと適時に見出して評価するのが本当のゲーム批評だし、ゲーム文化を称揚する土台になっていくんじゃないの?

マリアンヌ


マリアンヌ


めずらしく、原題よりも邦題がしっくりくる映画。メロドラマチックな内容を、邦題の方がより的確に言い当てている。家族と国家を天秤に、どちらをより重いとするかで、まったく別の物語になる。オーウェル・ファンのわたしは後者が好みだが、まあ、そこはそれ。女スパイが最後の最後で書く情動失禁的な手紙が、映画全体の99%をつらぬいている緊張を極甘のウェットに塗りかえてしまったことは、とても残念に感じた。あと、あらゆる状況であまりに泣かなすぎる赤ん坊を不自然だなあ、と思った。インファントに鉄の演技指導はできないものなあ、ゼメキスもおじいちゃんになったからかなあ、と思った。

全身小説家


全身小説家


エクストリーム・ベヒーモスに連戦連敗を繰り返し、積んでおいたDVDを息抜きのつもりで再生したのが運の尽き。あまりにもエクストリームな毒にすっかりやられてしまった。乙女のように瞳を潤ませる老女にえづき、生々しい手術のシーンでたまらずトイレにかけこむ。弔問に来た埴谷雄高をバックに「悪霊となって全ての差別者に仇を為せ」みたいな、寂聴ちゃんの怨嗟にも似た弔文(でも、セックスはしてると思う)が流れる頃には、完全なグロッキー状態でぐったりとソファに身を預けていた。映像作品でこんなふうになるのは何年ぶりだろうか。被写体のクレイジーぶりもさることながら、監督が五年もの間、何の意図をもって、どのように撮影し、関係者からのあらゆるクチバシを退け、どれだけの時間をかけて、いかに編集したかを想像するだけで、心底ゾッとさせられる。それにしても、忌々しいのはエクストリーム・ベヒーモスである。俺様がスーパープレイをするときには味方がふがいなく、味方が頼もしいときには俺様がミスを連発するという悪循環の中、配信の最終日には久しぶりに酩酊状態を脱してプレイせねばならぬと決意するほど、追い詰められている。そう言えば最後にシラフでゲームをしたのも、モンスターハンターのフロンティアの、なんか雷を出す鳥だったな、などと愚痴も言い終わりましたので……、じゃあ。

デトロイト


デトロイト


ジョン・ボイエガが出演しない方のビカムヒューマン。話は突然変わるけど、思想信条に関係なく、文章に色気のある書き手が大好きで、栗本薫や内田樹、あと最近の東浩紀とか内容がなんであれ、とにかく無条件に読んじゃう。話はまた突然変わるけど、このデトロイト、最近では珍しい人文屋ホイホイのゲームなのね。シェンムーの頃の鈴木裕とか、エネミーゼロの頃の飯野賢治とか、ふだんあまりゲームをしない人文系の書き手が、技術の進歩に目眩しをくって、実状を越えて作り手を褒めそやしちゃうのを、ゲーマーたちが冷ややかに見てる点がそっくり。このデトロイト、ポートピア連続殺人事件の「ばしょ いどう」がものすごく豪華なアクションになり、「なにか しらべろ」が直感的でないレバー操作に置き換えられても、同ゲームのオチのようにエポックメイキングなアイデアはひとつもない。オープンシナリオを標榜しながら、狭い箱庭を製作者の想定通りの幅で動かされるだけで、YU-NOほども分岐しない。つまりは、アドベンチャーゲームというジャンルを何ひとつ更新していない。何やら最新の技術で現実の俳優の演技を表情ごとCGにしているらしいけれど、同じものを何度も見るゲーム性に新鮮さは持続せず、周回のモチベーションを刺激する発明には至っていない。なので、このくらいのストーリーならもう実際の俳優を使って、2時間の映画でサッと見せてよ、映画じゃ勝負できないからゲームというジャンルに逃げてんじゃないのと思ってしまう。話はまたまた突然変わるけど、「父として考える」以降の東浩紀は文章に色気があって、思想信条や内容がどうであれ、とにかく無条件に読んじゃうなあ。