エクソダス
ある虐げられた集団が国家規模の勢力に対抗しようと考えれば、狂信によるテロルを選択するしかない。そして、あらゆる権威が少数のテロルから始まるとするならば、現代世界での騒擾はやがて新たな神話と化すのか。ともあれ、この出エジプト記、神の使徒は幻覚で、マンナは降ってこず、十戒を火文字ではなく手ずから彫刻してみせる。リアリティに寄せることで逆説的に聖書の記述を真実として補強しようとするのは狡猾だな、と思った。
年: 2015年
ゴジラ
ゴジラ
また、ケトゥ族の別の若いギークにしてやられたなあ。 本邦では若さ以外に取り柄のないゲリチンジェット噴射a.k.a.ションベンジャリタレによって完膚なきまでにファイナルウォーズされてしまったシリーズが、深いレスペクトとともに異国の地で復活する。なぜいまさら死に体ゴジラの新作企画が通ったのか、その理由がわかった。核へのメッセージを孕ませるのにうってつけの本作を、あの事故にも関わらず無視しておきながら、ハリウッド様が巨大資本で宣伝してくれたからそれに乗っからせてもらおうっていう、臭気ただよう厚顔無恥に心の底から寒気がする。しかも事情を知りながら、嬉々として監督を引き受ける者さえいるのだから、やりきれない。外的状況に対するアンテナの低い感度と、昔からのファンというアーパーギャル的脳天フェイラーと、夏休みの宿題みたいな現状から逃げることが動機を構成するほとんどだと断言してもいい。しかも、ハリウッドより低予算だからみたいなエクスキューズを早くも口にしているようだ。我々の体験が新しいゴジラの本質をいかに変えるかを外の人々は読みとりたいと思っているに違いないのに、バジェットの差が生む絵面ばかりを気にしている様子はおたくの所作そのもので、情けなくなってくる。おのれが依拠する土地に刻まれた傷跡に何らの痛痒も感じていないからに違いなく、某エヴァQのあの皮相的な仕上がりも、だとすれば納得できる。あのねキミ、カネカネ言うけどね、破のときインタビューで「皆さんのおかげで生まれて初めて潤沢な資金を得た」とか答えといてからに、結局ピアノのCG作るのにごっついカネつこてましたやん。こんどは巨大トカゲのウンコの形した、純金の延べ棒でもつくるんでっか。とにかく、いまこの国でゴジラを作ることの意味に対する鈍い感性と、たぶん無邪気さにゾッとさせられるばかりだ。だいぶ話がそれたが、エメリッヒじゃないほうの新しいケトゥ族が撮影した神トカゲ、最高です! 日本の文化考証が相変わらずアレなのは、被災した方々の感情を傷つけないためですよね、わかります!
ヤマト2199劇場版
ヤマト2199劇場版
監督はきっと誠実な人物なのだろうな、と思う。ドギツイ権利者たちの妄言を聞き流して我慢強く折衝を重ね、ドギツイ愛好家たちの煮詰まった脳内映像からする罵倒に耐え、ついぞ途中で投げ出すということをしなかった。演出の方法にしても伏線の張り方にしても、どこか観客の知性を信頼している感じがある。ここでこの絵を見せて、この台詞を聞かせれば、こう理解するだろうと計算してあり、観客はどれひとつとして見落とさないはずだと信じている。この意味で、是枝監督と近い方法論で映画を作ってるように見える。だ実写と違って、端正な演出意図を補完する俳優の肉の実在感がないため、盛り上がるべき場面でもひっかかりなくスルスルと流れていってしまう。全体的に淡い風味で、老舗の板前に「親爺、味が薄いよ」と言っても、「そうですか」としか返ってこない感じ。これ対して、観客を心から馬鹿にしているどこぞの監督が作ったものは、濃厚豚骨ラーメンを罵倒されながら屋台ですする感じで、しかもこの親爺、「それくらいじゃ味が足りねえだろう」とか言いながら食べるそばから柄杓でラードをつぎ足してくる。その態度にはムカつくが、ラーメンは舌が痺れるようなうまさだ。もし酔客が一言でも味に文句をつけようものなら、親爺自身がカウンターを飛び越えての場外乱闘になり、そのあと一週間は店を閉めてしまう。閑話休題。ストーリーは新スタートレックの前後編を思わせ、ホテルでの芝居とか、星巡る箱舟のデザインとか、すごくそれっぽい。ただ、スタートレックと決定的に違うのは、女性クルーの扱いであろう。旧作の様々な矛盾に解決をつけていった新ヤマトだが、ボディラインを強調するピッチリスーツにだけは、ついぞ「この方が勃起の傾斜角が鋭かったから」以上の説明をつけなかった。この世界では、モデル体型を維持できなくなった四十路の女性は、全員宇宙葬形式で退艦させられるに違いない。もし続編があるとすれば、無意識の媚びをふりまく未通女ばかりでなく、新スタートレックのガイナンみたいな魅力あるオバハンクルーに登場して欲しい。その些細なできごとは、結果として本邦のアニメの天井を押し上げる役目を担う……かもしれない。
アニー
アニー
原作に思い入れがないどころか見たことさえないのに、一般女性の「日々に疲れた時のサプリ(某ネット通販感想より抜粋)」を一般おたくが視聴してしまって、なんかごめんなさい。きっと、一般女性がドギツイ抜きゲーをついうっかりプレイしてしまったら(どんな状況だ!)、こんな気持ちになるんだろうなと反省させられました。なので、内容にはいっさい触れません。私に言えるのは、ジェイミー・フォックスが全体的に手を抜いて流した演技をしているなということと、やっぱりキャメロン・ディアスは卑猥で下品な役柄がピッタリの最高のアバズレ女優だなということです。(しかし、最近のキルスティン・ダンストには油断が生じているのか? だとしたら、キャメロン・ディアスに追い抜かれるのは時間の問題だぞ)
グランド・ブダペスト・ホテル
グランド・ブダペスト・ホテル
センスと外殻だけがある、きれいな昆虫のような、メリーゴーラウンドのような作品。誰が言ってたか、「すべての映画はアニメになる」を地で行く、ポスプロまみれの怪作でもある。画面の色合いから構図までのすべてが監督の意図に支配されており、時間軸の違いをアスペクト比で表現したり、映画芸術の枠組みに対してもやりたい放題である。また、凡百の創作ならトラウマ感情のゆらぎがどうしても作品へにじみでてしまうものだ。しかし、この監督はそういう雑味を徹底して自作品から排除していて、それゆえのドライな手触りに憧れる。どんな人物がすごく興味あるけど、絶対に会いたくはない。
西遊
西遊
確かに、ロード・オブ・ザ・リングに匹敵するスケールの物語をアジアから探すとしたら、西遊記しかないだろう。相変わらずドラゴンボールやらエヴァンゲリオンやら、日本のおたく文化の精髄を換骨奪胎するのが歯噛みするほど上手く、近作の定番パターンではありながら、凡人が超人へと化身する瞬間の描き方も充分に感動的だ。以前も指摘したけど、おたく文化を一等地低いものと見なし続ける本邦のメインカルチャーとやらからの蔑視のせいで、我々はパシフィック・リムを作られ、ゴジラを作られ、今度は西遊を作られてしまった。同じ内容の繰り返しになるからより詳しく聞きたい向きはカンフーハッスル当たりの評を見返して欲しいが、もうそろそろカネを動かせるという一点だけに頼った根拠の無い優越感は捨てて、君たちは真摯に無から有を作り出す才能へ向き合うべきだと思う。ゼロには何億をかけても、ゼロのままなのだから。
ドライビング・ミス・デイジー
ドライビング・ミス・デイジー
「日の名残り」と同じ系統の、ある人物にフォーカスして時代を追うことで、語りすぎず、淡い社会風刺を匂わせる作品……のはずが、インセスターZことモーガン・フリーマンの胸焼け演技によって爽やかな読後感はぶち壊されている。さすがだぜ!
ゼノブレイドクロス
ゼノブレイドクロス
ブラッドボーンの直後だと、全般的にきつい。グラフィックの細部が粗くて気になるし、昭和のSFみたいな固有名詞のセンスと造形デザインには目眩を感じる。13歳という設定の女性キャラのモデリングがきつい。長年、二次元のみを見続けたおたくが、その精神の歪さを客観視できなくなっている感じがありありと伝わる容姿である。このキャラだけは一般人には絶対に見られたくないし、「おたく=ペドフィリア」の偏見を助長するので誰にも見せたくない。前世紀末のライトノベルを未だに地でいくキャラどうしのかけあいがきつい。視点の置きどころがない、構図のないカメラで撮影されたムービーでそれをやるため、なんというかひどくいたたまれなくなる。「斃す」とか「赦す」とか、常用漢字に親を殺された感もすごいきつい。でも、さすがにゲーム部分は面白いので、無理して我慢して作品世界へ没入しようとする。けれど、頻繁に挿入されるムービーにいちいち現実へと引き戻され、その決意をさんざんに砕かれる。いい年齢をして未だにゲームを止められない自分が恥ずかしくなり、さらにいい年齢をした大人がこれを作っているかと思うと暗澹たる気持ちにさせられる。「社長が訊く」で制作側の素顔をダブルミーニングで知ったゆえか、名状しがたい負の感情がとめどなく噴き上がり、本当に冗談ではなく死にたくなる。ぼくたちおたくは嫌われて当たり前だし、軽蔑されてもしょうがないんですも。なんだこれですも。
ベイマックス
ベイマックス
あ、あれっ。貴様らがマジンガーZだのグレンラガンだのに言及して褒めそやすから、すごいワクワクして視聴を開始したのに、なにこのガッカリ感。ちょうど大トロを食いにいったのに、アボカド巻きが出てきたみたい。きれいに伏線を回収するシナリオとか、物語中ただひとり喪失を経験したヒーローが復讐を放棄するメッセージとか、すべてが然るべき場所へとピッタリ収まる気持ち良さは、確かにある。でも、これはアートじゃなくてプロダクトなんだという感じにすごくさせられた。こういうのを見ると、エヴァQの側につきたい自分を発見して複雑な気分になる。エヴァQにベイマックスの工業製品感を与え、ベイマックスにエヴァQの歪みと情念を与えれば、両者ともちょうどいい塩梅になるのになあと思った。ともあれ、これだけ絶賛のみが聞こえてくるというのは、デザインとかアクションだけでフィクションを視聴をできる層が本邦にとくべつ多いのだろうな。たぶん、ロコモーションにいれあげる特定層と同じで、情感の部分が乏しいか欠落しているのかもしれない。
インターステラ―
インターステラ―
理論物理学の重鎮を科学考証に迎えた本作の実相は、SFというよりむしろコミュニケーションを主題に据えたファンタジーである。我々の意思疎通は、頼みにならない郵便屋が届ける、番地まで宛名の書かれていない手紙のようなものだ。いつ届くかわからないし、届いても開封されたかどうかわからない。その曖昧さは、親から子へ渡されるときの言葉の性質にもっともよく表れる。差出人はいつか開封されることを願って投函し、手紙が読まれたかどうかは受取人だけが知っている。そしてこの性質はまた、「いまここにいないもの」という意味での死者と対話を可能にしており、テロ後の、震災後の世界における我々のコミュニケーションの本質を喝破しているのだ。とは言いながら、インセプションやダークナイト・ライジングを自信満々で世に送り出してしまうノーラン監督だから、娘萌えが昂じた結果、偶然そういうメッセージ性を孕んでしまった可能性も否定はできない。そのすれ違いがあったとしてさえ、疑いのない傑作である。