ゼルダの伝説スカイウォードソード
すべての事象へ主体として積極的に関わり続けることで得られる濃密なゲーム内体験。シリーズを通じて、基本的にはただひとつ用意された正解を観察と道具の組み合わせで解決していくだけなのだが、それがこんなにも楽しい。しかし同時に脳裏をよぎるのは、はたして現在、この体験をどのくらいの人々が肯定的なものとしてとらえることができるのかという疑問である。ゲーム業界では2Dから3Dへの移行で一度大きなプレイヤーのふるい落としが行われた。また、昨今の携帯ゲー流行りはゲーム性の濃淡以前に2D回帰の側面が強いと考えている。ファミコンに原体験を持ち、3D移行の淘汰も乗り越えた30がらみの男以外の誰がこのゲームを手放しで喜んでいるのだろう。前作からすでに五年が経過した。たとえば小学校高学年で前作をプレイした新規層がいたとして、携帯電話を買い与えられ、据え置きゲームを卒業していておかしくない年齢だ。世界にふたつとない至高の工芸品を前にして、私に去来する感慨はこうだ。『おれたちは滅びていくのかもしれない』
月: 2011年11月
ミスターノーバディ
ミスターノーバディ
量子力学の観測問題を主題として可能性”未来”の”追”体験が、他ならぬ映画を視聴する我々の観測によってひとりの女性への思慕へと収斂するという構成は見事である。ネット上で感想をざっと確認したところ、不死世界での最後の死者という設定が生かされていないとの指摘が散見されたが、とんだモンモウ教徒どもである。不死者は時間を喪失しているがゆえに世界の観測者足りえず、最後の死者が息を引き取った瞬間に観測の主観を失った宇宙はビッグクランチへと時間を反転させる。全世界の見せ物だったはずの老人が、実のところ全世界を”見て”いたのである。人生の有限性には全宇宙的な命題が与えられているというこの結末は死を再定義すると同時に、逆説的な生命賛歌へと昇華されているのだ。せめてこれら2点を理解できなければ、この映画を視聴する意味はない。長々と講釈を述べたが、実のところ小生にとってSF作品としての評価は「ブレードランナー」や「ガタカ」を上回るものではなかった。SF的世界観の映像化が見たいのに、物語の大半が複数女性とのイチャラブ描写に費やされる。オチにはすごく感心したけど、そこに至る道程が長すぎたという印象。