結局のところ、ぼくの確信がどこから来ているかと言えば、最初のくちづけしかなかった。だから、ぼくにしか知りえない情報をとりのぞいてみれば、相当度にうさんくさい筋立てに聞こえるはずだ。それを証拠に、組んだ両手に顎を乗せ、目を閉じたまま熟考する様子の学園長は、もはや対話での適切な間を越えた沈黙を続けている。
どうにも居心地が悪くなり、ぼくは室内へと視線を泳がせる。家具にせよ、調度品にせよ、空間の取り方にせよ、ひとりの人間の居住のみを考えれば過度な余剰(おかしな表現だけど)が、そこここに詰めこまれていた。ある個人の所有する余剰が権威を形成するのは、人の世のならいと言える。だとすれば、『学園長は国王』の揶揄も、あながち的を外したものではないのかもしれない。
ときおり、背後から聞こえるかすかな擦れ音は、部屋づきの速記官のものか。つまり、ここでの会話はすべて公開を前提に採録されているってことだ。
しかし、学園と市国を救う方法を他に思いつかない。やがて学園長がゆっくりと顔を上げ、ぼくはその視線を無理矢理につかまえる。真摯さを演出するんだ。ハッタリだってかまやしない。
「この案件が学園にとって極めて重要な意味を持つことはわかりました。よく話してくれました。至急に、学科長会議のための予備審議に挙げたいと思います」
しかし、ぼくに与えられた穏やかな声色は、学科を飛び越えた個人による突然の陳情への、お決まりの定型句なのかどうかをはからせはしなかった。これは役者がちがうな。他に方法は無いと思いさだめてここへ来たはずなのに、簡単に気持ちが萎えるあたり、やはりどこかでぼくは他人や組織を信用していないのだろうなと思う。
「貴重なお時間を割いていただいて、ありがとうございました」
ともあれ、話の信憑性を薄れさせる有効な方法は多くを語ることだ。ぼくは短く礼を述べると、たちまちにきびすを返す。部屋の片隅に置かれた小さな机に、ひとりの女性が背中を丸めて座っているのが見えた。入室するときには気づかなかった。若いような年老いたような、ふしぎな容姿だ。鼻眼鏡の下からちらりと、こちらを値踏みするような視線を投げてくる。彼女が知る、多くの陳情団や追従者たちと比べられているのかもしれない。ぼくは形の無い何かがまとわりついてくるのを振り払うように、歳月が薄黒く光沢させた扉を少し乱暴に押し開けた。
背後に重い音が響くと、安堵が心を満たすのがわかった。少し遅れてその正体に気がついて、気持ちが沈む。
ぼくは臆病だ。ひとりでは何ひとつ決断できない。ともすれば、責任を投げだすための相手を探している自分に気がつく。体技科長のことを信頼していないわけじゃない。彼にすべてうちあける選択肢もあったはずだ。だがぼくは、最高責任者へ直接に陳情することを選んだ。学科の違いが、率直な相談を妨げたのかもしれない。
いや、ちがうな。また学科の違いなんていう都合のいい言い訳を用意している。そしてそれすら、メンター・スリッドの論法から剽窃した概念に過ぎない。ぼくは自分への言い訳ひとつさえ、自分の言葉では満足にできないのか。
深刻な自己嫌悪に胃のあたりを圧迫されながら、足早に学園長室を離れようとすると、
「まさか置いていく気じゃないだろうな」
不機嫌そうなスウの声が後ろから響いた。しまった、ついてきてもらっていたのをすっかり忘れてた。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていたんだ」
「どうせまた、出口のない悩みごとだろう。そういう顔をしている」
妙に聡いところが、ときどき本当に憎らしくなる。このプロテジェに、知って見ないふりという配慮はないのだ。
「学園は包囲されている。海路での逃亡に充分な船舶の数はなく、学園の放棄が前提だ。体技科長とスウ・プロテジェが対人で遅れをとることはないだろう。しかし、各個撃破は局地的な状況を打開するだけ、流民たちが数を頼みの同時侵攻に訴えた場合、そのすべてを防ぐことは不可能。つまり、学園の防衛には否応なく、学際的な結束を構築する必要がある。そして、メンター・ユウドの考案する要撃作戦には、マアナの持つ力が不可欠だ」
スウが片目をつぶってぼくを見る。学際的な、という表現がずいぶんと皮肉っぽい。
「どれも何度も確認したことだ。これ以外に方法はない。ユウドが負い目を感じることは何もない」
いちいちどれもごもっともだ。だが、本当にすべての可能性は検証されただろうか。流民たちとの戦闘が不可避であるという前提が、そもそも間違ってはいないか。もしかしてうちのボスなら、もっと突拍子もなく、それでいながらすべてを円満に解決する方法を思いつくのではないか。
何よりいちばんの不安要素は、今回の経緯と作戦が、ぼくの深いところにある、ぼくが嫌っている性分とぴったり合致しているところだ。己の心の問題のみで学園の命運を左右しようとしているのではないかという疑惑。
他人を信頼するといえば聞こえはいいが、要するに自己不信が深刻なのだ。
組織を信頼するといえば聞こえはいいが、要するに責任を分散したいのだ。
安堵を感じたのは、学科長会議に至るしばらくの先行きがこの手を離れて、ぼくのコントロールを越えたから。
たとえこれでダメだったとしても、ぼくが決めたことじゃないし、ぼくのせいじゃない。
それは頭の内側から響いてきて、耳をふさいだって聞こえてくる。
「まったく、やっかいなことだ。普段は無為が身上のくせに、いざとなるとひとりですべてを抱えこんで、指揮官か王様のようにぜんぶ差配したがるのだからな」
スウが肩をすくめて、わざとらしく両手を上へ向けた。
その仕草に含まれた優しさを見て、ぼくは少しだけ気が楽になる。誰かの関心は、頑なさや思いこみを溶かしてくれる。
プロテジェたちはみんな、いつだってこんな駄目メンターにも優しいんだよな。彼らはぼくがきっと間違わないことを、たとえ間違ったとしても、それは良い意志のゆえだということを信じてくれている。
そう考えると、揺れていた心が定まる。彼らの信頼に対する責任だけは果たそう。ぼくにできるのは、決して手を離さないようにすること。それはぼくの最低限で、同時にぼくのすべてだ。
「内省は人生の基本だからね。水面の少し下を行くのがぼくの流儀さ」
「まったく」
軽口に、スウが目元を緩める。
「さあ、次の一手だ。学科長会議の招集までに、もう少しやっておくことがある」
「ふむ。他学科への根回しかな」
腕を組んだまま、わずかに首をかしげる仕草が愛らしい。ぼくのことならなんでもお見通しといったていの少女が見立てを誤るのは、なんだか気分がいい。
「見識が浅いね、スウ・プロテジェ。シシュだよ」
「シシュ?」
「行こうか。そろそろ集まってるはずだ」
太い眉を怪訝に寄せるスウを尻目に、ぼくはドミトリの方へと歩きだす。
しばらくは、このささやかな優越を楽しもうと思いながら。
最初は誰もが半信半疑の様子だった。突きだされた拳の速度は、明らかに手加減されたものだったから。庭掃除用のほうきの柄が、その手首へ交差するようにするどく打ちつけられる。次の瞬間、体技科のむくつけき大男は小柄な少女の足元に背中から落ちていた。
二人目は本気だった。しかし、結果は変わらない。腕組みをした体技科長が不満げに鼻息を吹くと、居並ぶ体技科の面々にサッと緊張が走った。
寮長――シシュは涼しい顔でスカートのすそを払う。
「せっかく掃除しましたのに、またほこりが舞ってしまいましたわ」
前髪の一房を指でよじりながら、微妙にズレた発言をする。周囲の空気が一変したのを意に介したふうもない。
「あの、みなさん、お一人ずつでよろしいんですの? それだと時間がかかりますわ。わたくしも、炊事に洗濯、まだきょうの仕事をたくさん残しておりますし」
のんびりとした声音。たぶん本人にそのつもりはなかったと思う。けど、無意識の挑発は体技科に火をつけた。
シシュを挟みこむように対峙した二人が同時に挑みかかる。
その燃えあがりは、しかし瞬く間に鎮火された。
拳が空を打ち、二つの身体が交錯するように地面へ崩れる。ほうきの先端と右の足刀がそれぞれの水月と喉をきれいに直撃していたのだ。回避と攻撃が一体となっている。お見事。
「なめるなッ!」
彼我の実力差は明白だった。けれど、若いメンターたちは無理にも己を鼓舞し、必死の形相で次々と眼前の少女に挑みかかる。
無理もない。彼らの背後には体技科長が腕組みをして控えているのだから。
どちらに地面へ転がされる方が幸せかは、尋ねられるまでもない。
どれだけ相手が増えようと――いや、人数が増えていることがまさに理由なのだろう、シシュの俊敏さと技のキレは天井しらずに向上してゆくようだ。もはや目で追うのも難しいほどの動きで男たちを翻弄している。
「ユウド」
ぼくの横で体技科長がうなり声をあげた。
「俺は自分の目が信じられねえ」
見れば、倍ほどに膨れ上がった二の腕には、幾筋もの浮き上がった血管がよじれていた。
や、まずい。これはやる気だ。グラン・ラングによる盟約と極限まで鍛えた身体、ぶつかればどっちが残るのか、運動など薬にもしたくない虚弱な研究の徒として野次馬的な興味は残るけど、いまはまずい。
「この世界は、目に見える以上のもので出来ているということですよ」
ぼくは背中に冷や汗をかきながら、冷静にふるまおうと努める。
「グラン・ラングによる古い盟約が、あの少女に流れる古い血脈を通じて、この土地を守らせているのです。おそらくドミトリの敷地内限定でしょうが、彼女が倒されることはありません」
「守れば最強ってワケか。攻めダルマの俺にしてみりゃ、どっちが上か試してみたくてうずうずするぜ」
悔しそうに拳を手のひらへ打ちつける。間近でつんざく破裂音に、耳が痛くなる。
「おめえの言いたいことはわかってるぜ。大きな喧嘩を前に、一番強いコマどうしが潰しあうなってんだろ」
「冷静な判断、痛みいります」
後ろに組んだ両手は、もう汗でじっとりだ。
「ひでえ野郎だ。だんだんやり口がてめえのボスに似てきやがるぜ」
良識派をもって任じるぼくにとって、あの類の奇人変人といっしょにされるのはかなり心外だ。けど、的を射ている。性格は度外視するとして、土壇場に追いつめられたときにぼくの行動規範となるのは、ボスだったらどうふるまうだろうかということだから。
「だって、仕方ないですよ」
こういうときはたぶん――
ぼくはできるだけ穏やかに見えるよう、にっこりと笑って、
「百聞は一見にしかず。見なければ信じなかったでしょう、きっと」
「くあぁッ、憎らしい口を聞きやがるぜ。なんでもお見通しってワケかよ」
体技科長はがりがりと思いきり頭をかき回す。いつも思うけど、じつに頑丈な頭だ。
「けどよ、小僧ッ子ぐらいに見透かされて、てめえんとこの若え連中をひっくりかえされて、メンツつぶされて、恥ィかかされて――」
制止する暇もあらばこそ、部下を心配する言葉とは裏腹に、累々と折り重なるメンターたちをほとんど蹴散らすようにして、体技科長はずんずんと進んでゆく。
「ただで気が済むと思ってんのかよ!」
ちょうどシシュを見下ろす格好だ。筋肉で肥大した上体はわずかに前傾していて、向きあう二人のシルエットは、まるでクマに襲われる子どもみたいに見える。
ぼくはもう、体技科長をうまく懐柔できると一瞬でも考えた己の浅はかさに青ざめていたが、シシュにひるんだ様子はまったくない。
「あの、学科長に手をだしたりしたら、わたしクビになってしまいますわ」
すでに十数人のメンターを殴り倒しているにしては、やっぱりズレた発言だ。さらに、体技科長を殴り倒せる気でいるらしい。
「かわいい顔して、おもしれえことを言うじゃねえか」
その言葉に体技科長は破顔一笑するが、こめかみには十文字に血管が浮き上がっていた。
「大丈夫だ。言語学科のメンターとプロテジェが証人になる。ここでは何も起こらなかった、ってな」
シシュの手首ほどもある親指で、ぼくたちを指した。
「いいのか。少々まずいことになってるぞ」
スウがすぐそばで耳打ちする。
「だ、だいじょうぶ、すべてアンダーコントロールさ」
返答する声は上ずっていた。さきほどまでの自信はどこへやら、スウがぼくに向ける視線はいまや疑惑でいっぱいだ。
「安心しな。おんな子どもに手をあげる趣味はねえ。おい、ユウド!」
「はいッ!」
ぼくは思わず直立不動の姿勢を取る。
「覚えとけ! おいらの信条は『見ることは信じること』じゃねえ! 『味わうことは信じること』だ!」
うわあ、おもいきり根に持たれてるよ。身の丈に合わない、借り物の言葉は使うもんじゃない。
「おい、おじょうちゃん。いまここで思いッきりおいらを殴れ」
言うや、体技科長は両手を大きく広げた。好きな場所を打たせるつもりだ。
不安そうにぼくのほうを見るシシュ。その様子は、ぼくが自分のことをひどいやつだと思わせるのには、充分に可憐だった。
でも、体技科長を納得させる方法を他に思いつかない。ぼくは口をへの字に結ぶと、お仕着せの少女へとうなづきかけた。
大きくひとつ息を吐くと、シシュは意を決したように腰を低く構える。
永遠に思えるような、完全な静止。
シシュの上半身が回転し、消えた。
がぁん。
槌が岩を打つような鈍い音。かすかに地面が揺れるような錯覚。
まばたきのうちに、少女の細腕が体技科長の側頭部を打ちぬいていた。
長い静寂。
やがて体技科長は無言のままシシュに背を向けると、ぼくの方へとゆっくり戻ってくる。
「ユウド」
背筋の寒くなるような、壮絶な表情だ。
「俺は信じたぜ」
にやりと笑うと、体技科長はそのまま大きく道をそれて、地響きとともに大地へと横だおしに倒れこんだのだった。
歳月に薄くなった皮膚は頭蓋へはりつき、たるんだまぶたは垂れさがったまま開かない。まばたきせずに充分長い時間を眺めれば、かろうじて胸元が上下しているのがわかるだろう。両手を腹部で組み合わせ、わずかにうつむいた姿勢のまま微動だにしない史学科長は、古代の葬儀に使われた埋葬品だと知らぬ者に伝えても、何の疑問もかえってこなさそうな有様である。
「言われんでもわかってるて。まあ、心配せんとき。このキブねえさんに根回しは不要や。調査資料の改竄、遺跡の私的占有、発掘品の横流し、いつだってユウドの求めてる最善を満たしてやろうと、手ぐすねひいて待ちかまえてるんやさかいに」
不穏当なその発言は、史学科長がそばにいることを全く意に介していない。だいじょうぶかよ、この学科。ぼくの心配をよそに、キブはがははと豪快に笑うと、ぼくの背中をひどくどやしつけた。
「表現の仕方はすごく気になるけど、まあ、頼りにはしてるよ」
咳きこみながら答える。
「私からもお願いします。メンター・ユウドを助けてあげてください」
わりこんできたスウが、両手をそろえて見本のようなおじぎをした。
「おう、ぜんぶウチにまかせとき。大船に乗ったつもりでおってや」
なれなれしくぼくの肩に手を回すと、ウインクしながら親指を立ててみせるキブ。
窓の外に目をやれば、すでに周囲は薄暗くなっている。やれやれ、足を棒にした根回しの一日が、ようやく終わりそうだ。
「とりあえず、今日は遅いからもう帰ったほうがいいよ。ぼくはこれからまだメンター・キブと話があるから」
眉が少し下がったのは、不満の現れかもしれない。刀をはいていないときのスウは、実に素直でわかりやすい。けれど、積極的に意義を申し立てようとしないのは、余計な詮索するべきではないとわきまえているからだろう。刀をはいているときとは大違いだ。
「わかりました。でも、遅くならないうちにもどってくださいね。マアナも待ってると思いますから」
廊下を遠ざかっていくスウの後ろ姿をあからさまな作り笑いで見送ると、キブは肩越しにまわした腕でぼくの首をぐいぐいと締めあげながら、部屋の片隅へとひっぱっていく。豊かな胸元に顔面を圧迫され、窒息寸前だ。
「苦しいったら。いっそ学科長会議の前に、楽にしてくれるつもりなら話は別だけど」
「なんやなんや、あの娘、この大事なときにもどってしまっとるで」
そのことか。ぼくは締められていた喉を押さえながら返事をする。
「しばらくは、荒事の必要がないからね」
「会議が終わるのを相手さんが待ってくれるとは思われへんけどな。うちの若いのに、いまからドミトリへ刃物さしいれさそか。実はな、こないだええアルマを見つけたんや」
どこの山師かって口調だ。学科長が眠り姫(爺?)なのをいいことに、どんどんガラが悪くなるな。
「スウにとって刀は、人格交代の強力な誘導因子にすぎないんだよ。刀を持ったまま入れかわったことだってあるしね」
「まあ、刃物を握ると人が変わるなんて、そもそもが冗談みたいな話やけどな」
思いつきを否定されたのが気にくわないのか、キブはふんと鼻をならす。
「アンタんとこのプロテジェやろ。なんぞ思い当たるフシがあるんちゃうか。ころころ理由もなしに変わったら困るがな」
理由、か。もちろん推論はある。精霊憑き、みたいな話も民間にはあるけれど、ぼくはその類の説明には懐疑的だ。理知に照らせば、人格の解離とは精神的な苦痛に対する解決を徹底的に無力化されたとき、その逃避として生じる一種の防衛反応だ。つまりスウの苦悩が、スウの理由というわけだ。そして、受け持ちのプロテジェに関するプロファイルは、担当のメンターへすべて開示されている。
でも、たとえ腐れ縁の、気安いキブとは言え、つまるところ推理ゲームの結論に過ぎない、個人の精神史に言及することははばかられた。ぼくはわざと、質問の本質をずらした返答をする。
「スウとはけっこう長いつきあいになるけど、一定の期間を観察すると偏りは平均化されて、二つの人格は等分に表象することがわかってる。どうも、二つの人格の間に主従は無いらしい。状況が特定の人格を必要としているときに、誘導因子が閾値を越えると交代が起こる、ってとこかな」
わからないふりで、クリティカルな事実からわざと半歩遠ざかる。研究者の態度としては最悪の部類だな、これは。
「さすが言語学科、ややこしい言い方でけむにまくのは学園一やな」
どうやらキブは、ぼくの韜晦には気がつかなかったようだ。
「特定の人格が必要なときって、なら本人はある程度、交代に自覚的ってことかいな」
「うーん、連続したひとつとして記憶が保持されているようなフシもあるけど、意識的に交代してるわけじゃないよ。でも、お互いの存在を薄々知ってはいると思う。いまは然るべき事態へ向けて、片方を温存しておく必要があると判断してのことじゃないかな」
キブがうなった。
「その話、なんかおかしないか。判断って、判断してるのは誰やねん」
「さあ? 実のところあんまりわかってないのさ。心の問題は専門外だからね」
ぼくは肩をすくめてみせた。
「言葉遊びは言語学科のおハコやさかいな。その点、史学科は考証第一や。厳密にできとるやろ」
「数秘学科には負けるけどね」
キブは露骨に顔をしかめた。
「なあ、こんな準備でだいじょうぶなんか? ぜったい平穏無事には終わらへんで。ほんまに勝算があってのことやろな? アンタの案も、学科長会議で潰されたらすべてしまいや」
「だから、こうしてお願いに回ってるんじゃないか。採決の結果ってのは、議場に入る前に勝ちとっておくものさ」
「アンタな、どうも最近、政治的になってきたんとちゃうか。政治的になるのは研究をあきらめた証拠やゆうで」
キブは皮肉っぽく口の端をゆがめると、ぼくの鼻先に指をつきつけてくる。
突如、その背後に陽炎のごとくゆらめいたのは――
「おまえら、またなんぞ、二人でよからぬ隠しごとしとるんちゃうやろな!」
「ぎゃあ!」
絶叫とともにキブがぼくに抱きついてきた。すごい圧迫感だ。苦しい。
陽炎の正体は、なんと史学科長だった。長い学究生活の果て、無機物と有機物の境界を喪失したスリーピング・オールド、クラウチング・シニアーが、いま午睡と午睡の間断の状態(恍惚?)に突入したのだ。怒りによるものか、はたまた老人性の何かによるものか、局所的な地震を疑わせるほど小刻みにプルプルと揺れ続けている。だいじょうぶか、この人。ここ十年くらいの間、ずっと死にそうだ。
「あわわ、いつごろから起きてはりましたんやわやろか」
先ほどまで見せていた学科の内実をほしいままにする専横ぶりはどこへやら、滝のごとく汗をふきだして、キブは生まれたての小鹿のようにガクガクと膝をふるわせている。
「ワシくらいになると、意識を覚醒させたまま眠るなんてのは、それこそ朝飯前の睡眠、昼飯後の午睡、おやすみ前の仮眠やな」
結局どこまでも寝るのかよ。そして一日二食かよ。睡眠学習としての効率はすごそうだ。
「だからな」
わずかにまぶたが持ちあがると、濡れ濡れとした黒目が爬虫類の鱗のように光を反射させた。
「おのれンとこのメンターが裏でどんな悪さしとるかも、すべてお見通しっちゅうわけや」
とたん、キブはへたへたと床に座りこんでしまう。
「わ、悪さやなんて、そんなん、ちがいます。ウチはぜんぶ、史学科の発展と学園の繁栄を思てのことで」
「アホちゃうか。それこそ言われんでもわかっとるわ。もし我が我がでいろいろ画策しとるゆうんやったら、ワシが黙って見逃すはずがあるかいな。ときどき調子にのりすぎるとこが、アンタの欠点やわな」
史学科長は、親がいたずらな子どもにするように、キブの頭を平手で軽くはたいた。
とたん目を潤ませ、鼻をすすりだすキブ。
「どないしたんや。そんな強くたたいてへんやろ」
「あの、安心したら、ちょっと漏れてしまいまして」
キブが頭をかきながら、顔を赤くする。
「なんや、ええ年して。ほれ、さっさと行っといで」
史学科長は露骨に顔をしかめ、犬にでもするようにしっしと手をふった。
二人のやりとりは、なんだかとても通いあった師弟という感じだ。自分とボスとの関係を思いだして、ぼくは少しうらやましくなる。
「ワシはその間にちょっと、この言語学科のメンターと話すことがあるさかいにな」
部屋から出るとき、キブは片目をつぶって合掌し(ごめんか、ご愁傷さまかのどっちかだ)、ぼくは完全なるアウェーに敵の首魁とふたり残されたのだった。まさかとって食う気ではないだろうが、史学科長が人を食べないという証拠はいまのところぼくの元へ集まっていない。
「さて――」
ふりかえったその両目は黒々としており、老木のうろにも似た深い空洞を思わせた。
そこから発される無形の圧力に、ぼくは思わず半歩下がりそうになる。だが、かろうじて踏みとどまった。
ぼくの言動は、今度の原案に対する信任の是非と直結しているのだ。会議の重要な構成員である学科長の前で、自信の無さを悟られてはならない。
「若いメンターの中には学科の違いが、話をややこしくすると思てるモンもいるみたいやな。けどな、それはとんだ的外れや。もともとの生まれも違う、何が好きかも違う、何がゆるせんかも違う、違って当然やないか。けどな、それを越えて、ワシらはひとつの大きな目的のために学園に集まっとんのや」
「おっしゃる意味がよくわかりません」
いつもの習い性が、ぼくをとぼけさせた。この人が、いったいぼくに何を求めているのかわからなかったからだ。
「まあ、無理にわかれとは言わんわ。けど、ワシらみたいに年をとってくると、もう他に行く場所なんかあらへん。学園を守りたいゆうても、なんや後ろ向きに聞こえてまうのは、しゃあないわな。ワシがアンタに聞きたいのはな、たったひとつだけや」
考えこむように、史学科長はしばらく目を閉じた。
「ペルガナ学園を愛してるか?」
予想もしなかった質問。そんなこと、これまで考えたこともなかった。
「わかりません」
なのに、すぐさま言葉が口をついた。何の意図も、かけひきもない返答だった。史学科長は引き出したかったのは、これか。ならば、ぼくは胸のうちを隠さずに話すべきだ。
「わかりませんが、恩義を感じています。ぼくはここに来て、初めて帰る場所を見つけました」
なま白い手を握り返した、赤銅色の力強さを思い出す。
「ぼくが学園を離れるとすれば、それはぼくが死ぬときか、学園がこの地上から消滅するときだけでしょう」
史学科長の顔に刻まれた皺が深まる。どうやら、笑っているらしい。ぼくはと言えば、自分の答えた内容に嘘が含まれていないことに、驚いていた。
「ワシもあと二十年はがんばるつもりやが、さすがに永遠に生きることはできへんからな」
皺枯れた手のひらが、そっとぼくの肩に置かれる。
「これだけは覚えといてくれ。メンター・ユウド、ワシはおまえの味方や」
それはひどく軽いと同時に、ひどく重かった。
重なりあった枝葉の隙間から月光がさして、風が吹くたびに違う陰影を見せる。大きくさしのばされた枝には、誰もいない。
木の根元には、膝を抱えたマアナがひとり座りこんでいた。表情は虚ろで、まるで抜けがらのような印象を受ける。ぼくはいま、少女にかける言葉を持っている。グラン・ラングだ。
――君が、”世界の中心”なのか。
マアナが顔を上げる。その表情はひどく大人びて、別人のように見えた。
――良かった。始まる前に伝えないのは、公正ではない。
――君は、マアナじゃないな?
少なくともいま、外見にみあう中身を伴ってはいないようだ。
――その返答は難しい。自我の定義から考えなくてはならない。だが、君たちがある魂を特定の時系列において同一のものと識別する精度で考えるなら、私はマアナではない。
マアナだったその少女は、微笑みのように頬の筋肉を痙攣させた。
――意思疎通の可能な相手を探していた。グラン・ラングの本質は、極めて精神的なものだ。最も親和性が高いと判断した個体が、この局面に至るまで著しく低い能力をしか示さなかったのは、誤算だった。
ぼくのことだな。悪かったな、グラン・ラングが下手なメンターで。
――君がマアナと名付けた部分は、名付けられたことで我々から分離された。名付けとは呪縛に他ならない。名付けにおいて峻別し、部分に峻別することで愛を可能にする。君たちにとって愛は有限であり、ゆえに個別的にならざるを得ない。それが君たちの限界でもある。
何を言っているのかさっぱりわからない。これはグラン・ラングの能力というより、ぼくが問答の抽象性を理解できていないのだ。なんか、より深く傷つくな。
――目的はいったい何だ。ぼくたちは争いを求めているわけではない。衝突を回避する方法はないのか。
確かに、これまでのぼくの能力は不充分だったかもしれない。でも、いまはこうやって話し合うことができる。言葉が通じるのなら、争いも回避できるはずじゃないか。
“それ”はしかし、ゆっくりと首を振った。
――一連の展開はすべてあらかじめ仕組まれた、いわば自動的なものだ。偶然はその見かけを装われている。流れを止めようと外的な介入を行うことは許される。しかし、流れが内的な自発性で止まることはない。
抽象的な受け答えでわざとはぐらかそうとしているのか。ぼくはいらいらと質問を重ねる。
――誰が仕組んだっていうんだ。
――わからない。
意外な返答。こいつが黒幕じゃないのか。
――推測するしかない。我々には認識できぬ、より高次の存在があるのかもしれない。君が最初グラン・ラングを表象としてしか理解できなかったように、この世界には我々もその表象をしか理解できていない何かがいる。だが少なくとも、我々の目的を伝えることはできる。君たちの手がかりとなればよいのだが。
――それは何だ。
――すべての意志は目的を持つ。君たちは存続であり、我々は死滅だ。君たちの咎は他者への愛を持つに至ったことだ。その意志の継続を妨げることが我々の目的である。そしてこれは、より大きな流れへの序章にすぎない。
ぼくはすっかり混乱していた。返答の唐突さもさることながら、愛を持つ者を滅ぼすというその考えが、全く理解できなかったからだ。
――誰かを愛して、何が悪いんだよ。
思わず、言っていた。我ながら、恥ずかしい質問だ。
――君たちは、愛と憎悪が相容れないと考える。君たちは、争いと平和が対極だと考える。しかし、それらは同一の苗床より萌芽するものだ。互いが互いとは切り離せない関係にある。だが、対立の見かけは存在しない解決を予期させ、君たちの苦悩と破壊を永続化するのだ。
――そんなこと、どうしようもないじゃないか!
ひどい言いがかりとしか思えず、ぼくは憤慨する。
“それ”は、哀れみのように顔をゆがませた。
――無理もない。己の在り方を肯定しなければ存続できない。しかし肯定はただ、己の本性を確認するに過ぎず、君たちの在り方が正統であるという証明にはつながらない。別の可能性は常に残されている。君たちが存続することが、より良い存在の発生を妨げているとしたら? 君たちが現在のあり方を放棄することで、より高い存在に合流できるとしたら?
ぼくはぼくが嫌いだ。だからきっと、どこかに破滅を求めるような性向があるのだろう。その言葉は、ある意味で心地よく響かないこともなかった。しかしそれは、破滅するのがぼくに限られた場合の話だ。ぼくは生きるべき多くの人たちを知っている。いま、その人々の代表として答えを求められているのだ。
さあ、毅然と胸をそらせ。
――哲学の問答としては興味深い。しかし、到底その歪な考えを受け入れることはできない。
――そうか。我々とて、公平を期すために知りうる情報を開示しているに過ぎない。決断は言葉ではなく、常に行動で示されるべきだ。
“それ”はなぜか、奇妙に得心した表情でうなずいた。
――君たちを取り巻く事象について、判断を下すのはやはり君たちだ。我々の移動は明後日の早朝を起点とすることに定めよう。なんとなれば、我々は一であるが、君たちは多であるからだ。存在に根ざす不安を利用するのは公平とは言えない。
もしかすると、会議のまとまらなさを揶揄されているのかもしれない。メンター・スリッドの険しい表情が一瞬、脳裏をよぎった。こいつらは、話しあう必要なんてないんだろうな。
――ハンデっていうわけか。案外、優しいんだな。
“それ”は静かに首をふる。
――圧殺が目的ではない。我々が求めるのは、公正の手へ委ねた審判だ。もう行かねば。知識はいずれにも平等に与えられねばならぬ。
まだだ。まだひとつ、答えを手に入れていない。
――最初の質問に返事をもらっていない。”世界の中心”とはマアナのことか。
――いかにも。この肉は二つの世界を橋渡しする門、すなわち黎明王女の発現。
答えになっているようで、さっぱりわからない。
――レイメイオウジョとは?
――その本質を描写することは、果実の甘みを言葉に乗せるが如き難事である。しかし、果実の表皮がいかなる表象を形作るかの説明は可能だ。黎明王女とは、ある生命圏が己の実存の枠組みを超え、世界の殻を破ろうとするとき出現する結節――あるいは試金石というべきか。もっとも我々はそれが忘れられた本来の目的を果たすのを見たことはないのだが。中絶は多く、親鳥により妨げられる孵化さえ少なくない。また、その実相は常に空である。空なればこそ、無限を湛えることができる。
“それ”はなぜか、そこで言い澱んだ。ぼくはと言えば、この哲学問答に頭痛がしてきたところだ。
――いや、人の身には無限、と伝える方が正確だろう。
“それ”は睫毛を伏せ、はじめて戸惑いらしきものを露にする。
――最後にひとつ忠告する。必要な手札はすべて与えられていると知れ。中心の消滅が意味するのは辺縁の拡散でしかない。中心を失えば、事態の収束は不可能になるだろう。ゆめ、忘れぬように。黎明王女たちは、我ら双方にとっての希望なのだから。
その言葉は、ぼくにとっての救いだった。ひとりの少女へ向けた個人的な執着が、市国の人々を破滅に導くのではないかと疑い続けてきたのだから。
これで学科長会議へ向けた準備の、最後のピースがはまった。
礼を言おうとして、気づく。
いつのまにか圧倒的な存在の感じは雨散霧消し、気がつけば目の前には小さな少女がいた。いつもならば、ぼくの姿を見れば何の躊躇もなくとびこんでくるにちがいない。けれど、いまは胸元に両手をひき寄せ、泣きそうな表情で辺りを見回している。
抱きしめてやろうと近づくと、おびえたように後ずさった。
不連続な記憶に心ゆさぶられ。
大きな安らぎから切り離され。
神は少女へと堕落し、個として存在することの不確かさへ投じられた。
逃げようとするマアナを後ろからつかまえる。予想していた大暴れはなく、ただ身を硬くすることで拒絶の意志を示した。まるで、いま物心のついた子どもみたいに。
耳元へ、そっとグラン・ラングでささやく。
――だいじょうぶ。学園ぜんぶが敵に回ったって、ぼくは君のそばにいる。
どれほどの孤独と不安が、彼女をさいなんでいるのか。言葉は何も約束しない。だが、言わずにはおれなかった。
朧な月明かりの下、ぼくの涙の最初の一滴が、少女のむきだしになった白い肩へと落ちた。マアナの瞳が潤み、やがて火のついたように泣きだす。お互いの涙がお互いの呼び水になり、それからぼくらは二人でおいおいと泣いた。
そのとき、言葉が必要ないほど通じあうという錯覚、あるいは欺瞞へ、ぼくは溺れた。示されたひとつの世界観――他者を伴わない世界が、どこか深いところでひどく己を魅了する事実から、目を背けるために。
月: 2011年6月
ソーシャル・ネットワーク
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実在の天才の周辺を実名そのままに映画化したという一点において、デビッド・フィンチャーの力技を感じさせられる。しかしながら、いかせん未だ立志伝の途上にある人物だからして、企業的なブランディングを抜いて視聴することは極めて難しい。さらに、未だ立志伝の途上にある人物だからして、今日に至るまでのエピソードが少なすぎ、前半の密度感に比して後半の失速感がハンパ無い。高い評価の理由に首肯できるのは最初の一時間だけで、単体の映画作品として考えた場合の評価は低いものにならざるを得ない。また、エンディング間際でとってつけたザッカーバーグの「いい人」方向のキャラ立てには、本人からのプロパガンダの臭みを強く感じる。ただ、これだけ薄い中身を撮影と編集の技術で二時間に膨らませた監督の手腕には、素直に敬意を表したい。