朝の空気はひんやりとしている。澄んだ大気が遠くまでの視界を約束してくれるため、偵察にはもってこいだ。学園の建物はわずか小高い丘の上に位置し、北の尖塔からは市街地とその先に広がるラノラダ平原を一望することができる。本来ならば豊かに緑ひろがるその場所は、小さなゴマ粒を不規則にまいたようなまだら模様に見えた。
グラン・ラングを発すると、塔周辺の大気が二重に屈曲する。とたん、はるか彼方にあるはずの景色が、まるで手を伸ばせば届くかのように近づく。ゴマ粒と見えたものは、大勢の人間だった。いや、正確には人の形をした何か、と表現するべきか。
ぼくの隣に立つ体技科メンター(頭ひとつほど、ぼくより上背がある)が、重苦しい沈黙を不謹慎さで破ろうとでもいうかのように、ヒューッと口笛を吹いた。この状況を楽しんでいるのか、あるいは現実を正確に把握できていないのか。
しかし、その態度に批判を投げる資格はぼくにもない。眼下の光景に、何の現実感も感じることができないでいる。永世中立のペルガナ市国が、いま言葉も通じぬ異形の軍勢に取り囲まれているだなんて!
「もう少し、連中に近づけることはできるか」
外壁に乗せた片足から身を乗り出すようにして、体技科長が言った。ぼくは黙ってうなづく。その大きな背中のゆるぎなさが、この場における唯一の現実だった。
グラン・ラングをつぶやくと、周囲から絞り込むようにして視界はさらに拡大してゆく。学科長会議に上げられた報告書どおりの容貌が、ペルガナ市国を目指すという一点をのぞいては、まったく無秩序に集まっている。恐れていた通り、あの怪人にそっくりだ。個体差はあるはずだが、少なくとも外見からそれを見分けることはできない。まったく特異な外見が数百、数千、数万と複製されるうち、観察する側にとって没個性の様相を呈するという膨大さだ。
「市民たちの避難は?」
体技科長は流民から目を離さないまま、同行した行政庁の職員に尋ねる。
「順次すすめていますが、港湾に至る道をすべて押さえられておりまして。いくつかの友好都市へ打診しまして、特に健康に困難のあるものを優先して、ウチが所有している数隻を往復させているところです。しかしながら、全市民の避難まではとてもとても」
鼻眼鏡の痩せた男は、顔の前で大げさに手を振ってみせた。
「幸いなことに、海上の封鎖は見られません。まだ、ぐらいの意味ですが。もっとも、その必要を認めなかったのかもしれませんけどね」
「陸路は?」
軽口をいなすように、体技科長が短く尋ねる。
「包囲の薄い箇所もあるにはありますが、それでも流民からは数レウガと離れていませんからね。交渉が難しい以上、行政庁としても最悪を想定しておく必要がある。体技科あたりが護衛についてくれれば話は別でしょうが、肝心の市の防備がお留守になってしまう。どちらも到底、負えるリスクではありませんな」
腕組みをしたまま、体技科長が低くうなる。まさに八方ふさがりというわけだ。
「ユウド」
突然名前を呼ばれて、内心どきりとする。さっと両手を後ろに組み、動揺を隠す。
「状況は予断を許しませんね」
続いてかけられた言葉は、ぼくをさらにまごつかせるものだった。
「ウチの科があいつらとやりあって、勝てると思うか」
個人的に意見を求められるとは予想外だ。ボスの不在に、遠眼鏡がわりで呼ばれたのだと思っていたし、何よりぼくは学科長会議の末席を占めるメンターのひとりに過ぎない。
しかし、ぼくの小さなプライドが客観的な自己認識よりも低かったわけではない。グラン・ラングをつぶやきながらわずかに眼を細めると、たちまち視界を構成する明暗が反転した。付与に関わる、ぼくにしかできないスペシャルだ。
流民たちの内に浮かぶ“魂”の色調は、まるで血のように黒々とした赤で染められている。
この景色をだれかと共有することができないのは残念だ。ぼくとスウが旧棟で対峙した怪人と同じく、その色調は外的な付与の存在を示唆している。もしあれが人ならば、だが。
ぼくはゆっくりと息を吸いこんで、止めた。体技科長が必要としている情報のみを、正確に伝えなければならない。
「身体的な面だけで考えれば、流民の個々が持つ能力は市国の成人男性の、そうですね、少なくとも倍近くにはなるかと。体技科のメンターが全力でかかれば、おそらく打ち倒すことは可能でしょう。ただ――」
「やつらは万、体技科は数百。一人一殺じゃ、数で負けるってか。会戦はありえねえな」
背筋が冷えるような、おそろしく直截的な物言いだ。ぼくは軽く咳払いをする。声がかすれそうに思えたからだ。
「ええ、おっしゃる通りです。市街戦も避けるべきでしょうね。市民の避難もかんばしくないようだし、何より守る範囲が広すぎる。学園に立てこもれば、もしかすると何日かは持ちこたえられるかもしれませんが」
「案外いろいろと考えてやがんだな、おまえは」
体技科長が腕組みをといて、振り返った。
「でもよォ、まずは戦闘が回避できないもんなのか、確かめに行かねえか――おれといっしょによ」
「は?」
思わず、間抜けな声を出してしまう。
「通訳が必要だってんだよ」
そこには凶悪な笑顔が浮かんでいた。
いちど決めれば、体技科長は電光石火だ。その行動には、毛一筋ほどの迷いもない。
「すいません、親爺さん。こんなことになっちまって」
保健部のベッドには、全身を包帯に巻かれた青年が横たわっている。ふだんならば講義をサボるため、仮病のプロテジェが寝ているような、学園の平和を象徴する場所のはずだ。
「なに言ってやがんだ。謝るのはこっちのほうだぜ」
ところどころに血がにじんだ包帯は、しかし、野戦病院にいるかの如き非現実感をぼくに与えた。
「おめえが死んでたら、おいら、てめえを死ぬまでぶん殴ってたところだ」
「それはずいぶん長くかかりそうな自殺ですね」
青年が痛む傷をかばうようにして小さく微笑み、体技科長は豪放に笑う。
体技科のメンターたちが持つ絆は独特のものだ。お互いの命までもが、自然にその担保に入っている。信頼は言葉で確認するべきものではなく、胸襟をさらけだすことをためらう脆弱な自意識もなければ、心を開くことで得る不利益もない。
ふたりを前にして、なんとなく居場所を失ったような気持ちになる。ぼくには到底、築くことのできない人間関係だからかもしれない。
「それでよ――」
笑い声が止み、体技科長は神妙な表情になった。
「何か見つけてきただろうな」
とたん青年の顔がひきしまり、空気は張りつめたものをたたえる。
体技科の上下関係は絶対だ。そこに理屈はない。命令を下す者の能力と責任が完全に反映される厳格なシステム。その頂点に座るのが、体技科長だ。
「口述の報告書が会議にあがってるはずですが、みんな同じ顔をしてまさ。背格好もほとんど変わらねえで、ひとりの人間が何人もいるみたいな、ずいぶん薄気味のわりい眺めでした」
「こっちから仕掛けたのかい」
「斥候として、陣容と指揮系統だけを把握できればと考えまして。気づかれるほど近づいたはずはないんですが、どう言えばいいのか……」
青年の視線が何かを思い出すように遠くへ向けられる。
「一瞬にして囲まれてました。いったん間近で見ちまうと、気配を消すことに長けた連中でもない。気象条件も良好で、見晴らしはあった。馬鹿な言い草に聞こえるでしょうが、何もいなかったところに突然現れたという感じでさ」
「誰がおめえを選んだと思ってんだ。おめえが見たなら、間違いはねえだろうよ」
重々しく、体技科長が言葉をかぶせる。
「じゃあ、その包囲を突破したおめえの奮迅ぶりを聞かせてもらおうじゃねえか」
青年の頬が目に見えるほど紅潮する。高ぶる感情をおさえようとしてか、もしくは悔しさのあまりか、報告を続ける声はわずかにふるえていた。
「見かけによらず、ずいぶんと素早い連中でして、交渉のいとまもあらばこそ、問答無用とばかり、とびかかってきやがった。全員が革製のよろいにマントをはおって、徽章は認められず。獲物はどれも短刀ばかり。こっちも伊達に鍛えちゃいませんで、二人までは先に拳でやりました。煤みてえに蒸発して消えちまうのは、親爺さんに言われてた通りで。まっとうな人間とやってんじゃないとわかって、驚いた」
この人は、いったいどこまでを知っているんだ。ぼくは体技科長の大きな背中をまじまじと見つめた。
「ふつう、同士討ちを嫌って密集を避けるもんでしょ。なのにやつらときたら、次から次へとおかまいなしだ。烏合の衆って感じで、指揮系統があるようには見えなかった。背中に斬りつけてきた三人目以降はものすごい乱戦になっちまって、そっからは数えてません」
「相手が何人なら、触らせずにやれた?」
抜き身の刃物のような明瞭さ、過不足の無い凄みにぼくはぞっとする。
口を曲げて眉を寄せ、青年がおし黙る。これから口にすることが、体技科長にとって極めて重要な情報になることがわかっているのだろう。
「あの、おれならば、です。おれの鍛え方が半端なことは、親爺さんにもわかってるはずで」
「余計な口はいいぜ。おめえのことでおいらにわかってないことがあるかよ。正確に言え。おめえの次の言葉で、作戦が決まる」
体技科長の周囲に一瞬、熱気のような圧が膨れあがるのを感じたのは、はたしてぼくの気のせいだったか。
重傷に身を横たえていたはずの青年が突如、はじかれたように上体を起こす。
「同時ならば三人、続けてならば十人ですッ!」
大声で一息に吐き出すと同時に、再びベッドへ崩れ落ちる。どうやら失神したらしい。
駆けよってくる保健部の看護人に「さわがせたな」とだけ言いおくと、体技科長はのっそりと病室を出てゆく。ぼくはあわてて後を追いかけた。
「知るべきことはすべてそろったな。おめえもそう思ってるだろ、ユウド」
「どうするんですか、これから」
ぼくは、問いかけに含まれた言外の意図に気づかないふりをする。
「さっき言ったじゃねえか。通訳が必要だってよ」
凶悪な笑顔。
笑顔の由来とは、動物が牙を剥く行為の名残りなのだという。だとすれば、この瞬間の体技科長の表情ほど、その本質に迫るものはなかった。
「喧嘩する相手のツラをおがみにいくのさ。もしできるなら、その場で全員ぶちのめして帰ってくる」
この人は本気だ。しかし、独断専行もいいところだ。
「学科長会議にかけなくていいんでしょうか」
「おめえさんからそういう不意打ちを喰らうとは思わなかったぜ」
おそろしく太い指で、がりがりと頭をかく。
「だいぶ毒されてんじゃねえのか、ご友人に」
いったい誰のことだろう。
「みんな死んじまってからじゃ、遅いんだぜ。生き残ってからゆっくり、責任の所在を明らかにする会議をしようや」
みんな死ぬだって? 考えてもみなかった。
死への夢想は平穏の中でときに蠱惑的だけれど、その死はいつだって己にだけ訪れる種類の終焉だ。ぼくと体技科長たちの世代でおそらく共有されない感覚とは、死に対するものにちがいない。ぼくは個の内側に死を思い、体技科長は個の外側に死を思う。
「ちょっくら出かけるとしようか。昼メシまでに戻れりゃいいんだがな」
沈黙は、どうやら肯定と受けとられたようだ。大きな背中がずんずんと廊下を遠のいていく。その足取りにはやはり、何も迷いもない。
ぼくはと言えば、この提案に対しての思考を停止していた。やる。やらない。どちらにも決められない。いちばん強いのは、この件から降りてしまいたいという気持ち。なのに、ぼくの足は体技科長の後を追いかけていた。当事者意識の欠落した当事者は、ただ惰性により他人が動く方向へ流されてゆく。
しかし、表面上はきっとそんなふうに見えなかったはずだ。ぼくにとって、自分がまるでふつうの人間であるかのようにふるまうことは、ほとんど習い性のようになっていた。それに何より、体技科長の世界観には、必要な決断を先送りにする人間像はふくまれないだろうから。
「安心しな。おめえに荒事を期待しちゃいねえよ。ただ――」
勘違いをしたまま、肩越しに体技科長は続ける。
「おいら、興奮するとわりと周りが見えなくなっちまうタチでよ。おまけに、眼は前にふたつしかついてねえときてる。だれか、おめえさんに護衛が必要だな」
その言葉が終わるか終わらないかのうち、廊下の先ではかったようにスウが待ちかまえていた。
腰には刀をはいている。実際、屈強な体技科の面々に拉致された貧弱なメンターを心配して、ついてきていたのかもしれない。
「その役目、私が買おう。極限の場面で学科の違いがマイナスに働かないとも限らないからな」
体技科長は楽しそうに目を細める。
「ウデは問題ねえ。条件はひとつ。理事に話を通さんことだ」
「状況は逼迫し、組織では遅すぎる。尋ねられるまでもない」
ふたりの達人にはさまれた大気は、じっさいに密度と温度を変じるようでさえある。
どちらもおそらく、この世界に対する己の物理的な影響力を疑ってはいない。この拳が、この刃が、相手を打ち砕かないかもしれないなんて、虚弱な空想はどこにも入る余地がないだろう。
ぼくは違う。研究者としての武器である言葉さえ、それが通じないかもしれないことにいつもおびえている。グラン・ラングを選んだのだって、現代において通じないことの揶揄に使われる、死んだ言語だからではなかったか。
なんにもわかっちゃいないのに、なぜぼくなんだ!
ふってわいたこの仕事を投げ出す相手を探そうとして、愕然とする。こと施術という観点に立てば、ぼくが実質上の言語学科ナンバー2なのだ。
誰もが研究へと重きを置きすぎ、あまりに困難な実用を避けてきた結果とは言えよう。けれど、ボスに比べればぼくのグラン・ラング運用能力は、子どものお遊び程度にすぎないのだ。
このぎりぎりの局面に至って、言語学科の人材層の薄さを改めて実感させられるとは。今回の失敗は、そのままペルガナ市国の破滅へつながるかもしれないというのに!
ほとんど上の空のまま、ほどなくしてぼくは馬上の人となった。
といっても、馬術の心得があったわけではない。振り落とされないようスウの腰に手を回しているだけである。しかし、充分な凹凸があり、その心配だけはなさそうだ。
「余計なことを考えていると、振り落とされるぞ」
おっと。読心術でもこころえているかのように、スウが肩越しに湿った視線を投げてくる。
学園の敷地の外れにある厩舎を出発し、子どもたちの歓声を得て市街地を駆け抜け、潮騒を左手に聞きながら街道を北上する。刃一枚さえ通さないほど精緻に組まれた石畳の街道だが、敷設の労を担ったのは市国民ではなく、やはり古代人である。
やがて体技科長は無言のまま、街道を外れるように馬首を右へとかえした。スウがそれに続く。
ラノラダ平原には敷き詰めたように草はらが広がっており、ところどころに遺跡とおぼしき巨石が地上へと顔をのぞかせている。それらは文字通り氷山の一角であり、見た目の無機質な感じと裏腹の豊穣さ(研究者にとっては、だけど)を地下に眠らせているのである。
なぜ、古代人は地上へではなく地下へと広がっていったのだろうか。正統・異端を含めて学説はいくつもあるが、観点としてはだいたい次の二つに集約される。
かつては地上にも地下と同じ規模で建造物があったのだが、歳月と風雨にさらされて消滅してしまったという説。それから、ぼくたちと古代人との間には生物学的に見て、器質的に大きな隔たりがあったのだという説。
これは学説以前の個人的な意見だけど、古代人は自然に対して深い畏敬の念をいだいていたのではないかとぼくは考えている。つまり、人の営みが自然の営みの妨げにならないようにしたのではないか。現代には再現不可能な、強力極まるレガシーを多く産み出してきた古代人だ。それは相当にありそうなことに思える。
「おい、もうこんなとこまで来てやがるぜ」
おそらく現実を忘れるためのぼくの思索は、体技科長の低いつぶやきによって破られた。
半島の中央部は地形に起伏が少ないため、天候次第でかなりの見通しがきく。はるか遠くに陽炎の如くゆらめくと見えたものは、無数の人影だった。おいおい、予想よりもかなり速いぞ。
「いつでも抜けるようにしときな。近づくぜ」
スウに言葉を投げるや、体技科長は何の逡巡もなく異形の群れへと突っ込んでゆく。スウは匕首を切りながら軽く腰を浮かせ、片手で馬を御して後へと続く。
ぼくはと言えば、一気に緊迫する状況へ何の準備もできず、心臓が打つ早鐘を他人事のように感じていた。うろたえたまま、グラン・ラングに置き換えるべき交渉の内容を思い浮かべようとし――
できるわけがない。そもそも、グラン・ラングが通じるかどうかさえわからない。それ以前に、人の形をしているから人と同じ心や知性を持っているという期待すら、あまりに楽観的に過ぎる。
この未知に対するすべては、むなしい予断だ。
そう考えると、肝がすわった。己の中心へ軸足をすえて世界の余剰だけを感知するときの、天秤のような自我がたちまちぼくを満たす。
耳を聾していた鼓動が止んだ。煩悶も葛藤もすべてが消え、もっとも中立な空っぽの状態が降りてくる。あとは、外界の反応がぼくの行動を正しく規定するだろう。
迫りくる二騎を包むように怪人たちは左右へ音も無く分かれ、体技科長が手綱を引きつつ大音声で呼ばわる頃には、包囲は楕円形に完成していた。
「おめえたちの目的はなんだ! 返答次第じゃ、この場で全員ぶちのめすぜ!」
できるだけ正確に音素をつむごうとして、ボスの言葉がすぐ耳元によみがえる。
「悪くはない。悪くはないが、きれいにやろうとしすぎだな。ただ、おまえのすべてを残らず向こうに預けてくるんだ。こわがらなくても、必ずおまえは受け止められる。グラン・ラングはただの言葉じゃない。グラン・ラングは、世界そのものなんだから」
いつかの記憶が、あらかじめ仕組まれたトリガーであったかのように、電撃の如くぼくの眉間を貫いた。一瞬のうちに、これまで積み上げてきたすべての知識と経験は、このひとときを頂点としたあるべき位置へと再配置される。スウの背中を視界にすえながら、同時にぼくはぼくを俯瞰していた。
――世界は思ったほど、人間のことが嫌いってわけじゃない。
言葉にすれば、ひどく単純な悟り。しかしそれは、ぼくにとって大いなるブレイク・スルーの瞬間だった。
さあ、心を研ぎ澄ませ。
人間存在を肯定する、この世界の根幹を感じるんだ。
空わたる風のように。
たなびく雲のように。
ぼくが発したグラン・ラングの残滓は、わずかの反響となって虚空に消える。
流民たちに訪れた変化は劇的なものだった。ほとんど同じ外見を持ちながらバラバラだった動きが統一され、ひとつの固体をそれぞれが完全に写しとったようになる。
馬から跳びおりた体技科長が、前傾姿勢に構える。
スウは音も無く抜刀し、背中あわせに馬首を返す。
ふたりを制するように、取り囲む流民たちは寸分たがわぬ動きでいっせいに右手をあげた。そして、何かの儀式を思わせるゆったりとした抑揚で、グラン・ラングを唱和しはじめる。
「『我々は“世界の中心に蝟集する者”である。我々がお前たちから奪いたいものは何も無い。だが、我々が中心へ還ることを妨げるならば、お前たちは奪われるものを持つことになる』」
音素の入り組んだ複雑な内容だったが、ぼくは苦も無くその内容を理解できた。意味が直接、頭へ入ってくる感覚は、ぼくたちの言葉に置き換えるのがもどかしいほどだった。
「驚いた。さっぱり意味がわからねえ」
「通訳は正確です」
グラン・ラングに関して、こんな反論をする自負心があるとは思わなかった。
「おめえさんを疑ってるわけじゃねえよ。おいらがバカなだけだ。質問を変えるぜ」
抑制のきいた胴間声。ヘンな表現だが、体技科長の個性をそのまま表現している気もする。
「おめえたちは俺たちにどうしてほしいんだ! 食糧か、住処か! ただ喧嘩を売りにきたっていうなら、買うのはいまンとこ、ここにいる三人だけだ!」
おいおい、聞いてないよ。でも、伝える内容を取捨選択する権利がぼくにあるわけじゃない。投じられた小石が水面に波紋を生じるように、ぼくの発したグラン・ラングの小さな音素は巨大なうねりとして、八方からの反響となって返ってきた。
「『我々が求めるのは、世界の中心を取り巻く青き生命の排除である。我々が求めるのは、中心の空白を赤き生命で満たすことである』」
体技科長はうなりながら頭をがりがりとかきまわす。
「こいつらはものすごく頭がいいか悪いかのどっちかだな。気がおかしくなりそうだぜ」
スウが肩越しにぼくをちらりと見る。言いたいことはすぐにわかった。
「青き生命とは私たちのことを、赤き生命とは流民たちのことを指していると推測されます。おそらく――」
ぼくは努めて感情を抑えながら、言った。
「彼らの言う“世界の中心”とは、いま学園に存在している何かということでしょうね」
「おい、それはつまり学園をあけわたせってことか? やっぱりこいつら、喧嘩を売りに来てんじゃねえか!」
体技科長が流民たちの言う“世界の中心”の正体について察しているのかどうかは、わからなかった。
「ユウド、いったい手を引く気はねえのか、こいつらに――」
言いかけて、体技科長は口をつぐむ。気がつけば、流民たちにあった統一の感じは消滅していた。
一方的に目的さえ伝えれば、あとに残すのは拒絶というわけか。手に手に短刀をかまえ、じりじりと包囲をせばめてくるその様は、もはや元のような烏合の衆である。
即座に襲いかかってくるかと思ったが、ふたりの達人が発する無形の磁場に気圧されてか、遠巻きに威嚇するばかりで近づいてこようとしない。
「しっかり腰につかまっててくれ」
スウが有無を言わせぬ調子で言う。
「この数はちょっとまずいね」
旧棟での遭遇戦が流民イコール怪人の固体能力をそのまま表していたのだとすれば、複数で来られた場合、少なくともスウとぼくにとっては分が悪い。
「心配するな」
ぴったりと触れあった身体が意志を伝播したかのように、スウがぼくの疑念に返答をした。ときどきこういうことがあるのは、腐れ縁が長くなりすぎたせいかもしれないな。
「あのときは調子が悪かっただけだ」
軽口や負けおしみでは困る。ぼくの不安を和らげようとしているのなら、立場が逆だ。言いつのろうとするぼくに、
「そういう日もあるんだ」
なるほど。察しのよさだけで数々の危地を切り抜けてきた老獪なメンターは、ここで黙った。
ぼくたちの力量を推し量るためか、包囲の輪の中へ流民のひとり(この表現が正確かどうかはわからない)が歩み出た。個々として見れば、やはりあのときの感じとそっくりだ。
じっと動かぬ体技科長に対し、円を描くように間合いをはかる。
一瞬ののち、風を巻いて怪人が襲いくる。常人の動きではない。凄まじい速さだ。
体技科長は身体を開きながら、急所をねらう短刀からかろうじて身をかわす。交錯の際に打ち出された拳は遅く――
むなしく空を切った。
傍目には無傷の両者が位置を入れ替えただけだが、怪人の表情は獲物を得た喜悦、あるいは何かの優越に変容しているように見えた。
「あぶねえ、あぶねえ。あやうく殺っちまうところだった」
ぼそりとつぶやき、拳を手のひらに打ちつける。びりびりと大気が震え、体技科長を中心とした同心円状に草がなびいた。取り囲む流民たちが、わずかに退く。
「ユウド、ひとつ確認しときてえ。この交渉は決裂したよな?」
言うまでもない。ぼくはうけあった。
「間違いありませんね。彼らに和平交渉の素地はないようです」
その言葉を聞いて、体技科長は莞爾と微笑んだ。それは、この緊迫した場面に似つかわしくないほど、ある種の純粋な喜びに満ちていた。
まばたきをひとつすると、魔法のように目の前の怪人が姿を消した。体技科長が突き出した右拳の周囲に、煤のような黒い煙が舞っている。
空中にある短刀と衣服が地面に触れるか触れないかの瞬間――
包囲の一部が黒く爆発した。
それは、体技科長の吶喊だった。まったく見えなかった。
「馬引け!」
スウが片手で二頭の手綱をとり、包囲の薄くなった箇所をさらに斬り崩しながら外へと飛びだす。体技科長は襲いくる怪人をその巨躯からは想像もつかない身軽な跳躍でかわす。続けざまに空中で頭部を蹴りつけると、反動を利用して馬上へと還った。
「おい、逃げるぜ!」
したたかに腹を蹴られた二頭の馬が、死にものぐるいで駆けだす。
人の足が追いつけるはずはない。しかし、追ってくるのは厳密な意味での人ではなかった。なぜなら、全力の馬と並走できる人がいるはずはないからだ。
「手綱をまかせる。にぎってるだけでいい」
言うや、ぼくをまたぎこしてスウが馬上に直立する。
「上を見るなよ」
遅かった。白じゃない。
明らかな殺意を発する異形の群れに囲まれて、馬たちは興奮の極みにあった。この激しい揺れに倒れないなんて、尋常なバランス感覚じゃない。スウは一切を意に介さず、ゆっくりと刀を下段に構えた。
併走する怪人たちがわずかに上体を沈ませるのが見えた。来る。
跳躍ではない、飛翔。肉厚の短刀が閃く。
十の影がスウを目がけて急速に降下する。
風を孕んだマントは猛禽の翼を思わせる。
白い光輝が虹の軌跡を描き、時間と空間が共に動きを止める。
厳粛な静寂の中、猛禽たちは宙空に静止する。
鍔鳴りが響くと、輪郭を喪失した十の影は同時に黒く蒸発した。
背中に柔らかなものを感じる。スウが背後からぼくの手綱を取ったのだった。
振り返れば、追いすがる怪人たちが速度を落とすのが見えた。
「大したウデだ」
体技科長の楽しげな賞賛に、スウはすまし顔で返答する。
「少なくとも、与しやすくはない印象を与えられたはずだ」
「ちげえねえ。言語学科と体技科は本交渉において一定の成果をもって帰還せり、だ」
ふたりの会話を聞きながら、ぼくの思考は別のところへと漂っていた。
常人ならぬ身体能力を有した言葉も通じぬ怪人たちによって、学園の包囲はまさに完成しつつある。もちろんこのふたりなら、何が相手だろうが必ずねじふせてしまうだろう。けれど、同時に万を相手にできるわけじゃない。体技科長は、戦闘を不可避なものととらえている。行動を見れば、それは明らかだ。
でも、キブはどうなる? ぼくのプロテジェたちは? 臆病なぼくには、戦えない人たちのことばかりが気にかかる。
そして、心に浮かんだのはひとりの少女の姿。
「マアナは?」
「シシュのところだ。いま学園では、あそこがいちばん安全だろうからな」
賢明なスウは、体技科長の前でそれ以上を言うことを避けた。しかし、考えていることはぼくと同じだったに違いない。
ひとりのサクリファイスによって、残った人々が救われるとしたら――
答えは出なかった。