朝の空気はひんやりとしている。澄んだ大気が遠くまでの視界を約束してくれるため、偵察にはもってこいだ。学園の建物はわずか小高い丘の上に位置し、北の尖塔からは市街地とその先に広がるラノラダ平原を一望することができる。本来ならば豊かに緑ひろがるその場所は、小さなゴマ粒を不規則にまいたようなまだら模様に見えた。
グラン・ラングを発すると、塔周辺の大気が二重に屈曲する。とたん、はるか彼方にあるはずの景色が、まるで手を伸ばせば届くかのように近づく。ゴマ粒と見えたものは、大勢の人間だった。いや、正確には人の形をした何か、と表現するべきか。
ぼくの隣に立つ体技科メンター(頭ひとつほど、ぼくより上背がある)が、重苦しい沈黙を不謹慎さで破ろうとでもいうかのように、ヒューッと口笛を吹いた。この状況を楽しんでいるのか、あるいは現実を正確に把握できていないのか。
しかし、その態度に批判を投げる資格はぼくにもない。眼下の光景に、何の現実感も感じることができないでいる。永世中立のペルガナ市国が、いま言葉も通じぬ異形の軍勢に取り囲まれているだなんて!
「もう少し、連中に近づけることはできるか」
外壁に乗せた片足から身を乗り出すようにして、体技科長が言った。ぼくは黙ってうなづく。その大きな背中のゆるぎなさが、この場における唯一の現実だった。
グラン・ラングをつぶやくと、周囲から絞り込むようにして視界はさらに拡大してゆく。学科長会議に上げられた報告書どおりの容貌が、ペルガナ市国を目指すという一点をのぞいては、まったく無秩序に集まっている。恐れていた通り、あの怪人にそっくりだ。個体差はあるはずだが、少なくとも外見からそれを見分けることはできない。まったく特異な外見が数百、数千、数万と複製されるうち、観察する側にとって没個性の様相を呈するという膨大さだ。
「市民たちの避難は?」
体技科長は流民から目を離さないまま、同行した行政庁の職員に尋ねる。
「順次すすめていますが、港湾に至る道をすべて押さえられておりまして。いくつかの友好都市へ打診しまして、特に健康に困難のあるものを優先して、ウチが所有している数隻を往復させているところです。しかしながら、全市民の避難まではとてもとても」
鼻眼鏡の痩せた男は、顔の前で大げさに手を振ってみせた。
「幸いなことに、海上の封鎖は見られません。まだ、ぐらいの意味ですが。もっとも、その必要を認めなかったのかもしれませんけどね」
「陸路は?」
軽口をいなすように、体技科長が短く尋ねる。
「包囲の薄い箇所もあるにはありますが、それでも流民からは数レウガと離れていませんからね。交渉が難しい以上、行政庁としても最悪を想定しておく必要がある。体技科あたりが護衛についてくれれば話は別でしょうが、肝心の市の防備がお留守になってしまう。どちらも到底、負えるリスクではありませんな」
腕組みをしたまま、体技科長が低くうなる。まさに八方ふさがりというわけだ。
「ユウド」
突然名前を呼ばれて、内心どきりとする。さっと両手を後ろに組み、動揺を隠す。
「状況は予断を許しませんね」
続いてかけられた言葉は、ぼくをさらにまごつかせるものだった。
「ウチの科があいつらとやりあって、勝てると思うか」
個人的に意見を求められるとは予想外だ。ボスの不在に、遠眼鏡がわりで呼ばれたのだと思っていたし、何よりぼくは学科長会議の末席を占めるメンターのひとりに過ぎない。
しかし、ぼくの小さなプライドが客観的な自己認識よりも低かったわけではない。グラン・ラングをつぶやきながらわずかに眼を細めると、たちまち視界を構成する明暗が反転した。付与に関わる、ぼくにしかできないスペシャルだ。
流民たちの内に浮かぶ“魂”の色調は、まるで血のように黒々とした赤で染められている。
この景色をだれかと共有することができないのは残念だ。ぼくとスウが旧棟で対峙した怪人と同じく、その色調は外的な付与の存在を示唆している。もしあれが人ならば、だが。
ぼくはゆっくりと息を吸いこんで、止めた。体技科長が必要としている情報のみを、正確に伝えなければならない。
「身体的な面だけで考えれば、流民の個々が持つ能力は市国の成人男性の、そうですね、少なくとも倍近くにはなるかと。体技科のメンターが全力でかかれば、おそらく打ち倒すことは可能でしょう。ただ――」
「やつらは万、体技科は数百。一人一殺じゃ、数で負けるってか。会戦はありえねえな」
背筋が冷えるような、おそろしく直截的な物言いだ。ぼくは軽く咳払いをする。声がかすれそうに思えたからだ。
「ええ、おっしゃる通りです。市街戦も避けるべきでしょうね。市民の避難もかんばしくないようだし、何より守る範囲が広すぎる。学園に立てこもれば、もしかすると何日かは持ちこたえられるかもしれませんが」
「案外いろいろと考えてやがんだな、おまえは」
体技科長が腕組みをといて、振り返った。
「でもよォ、まずは戦闘が回避できないもんなのか、確かめに行かねえか――おれといっしょによ」
「は?」
思わず、間抜けな声を出してしまう。
「通訳が必要だってんだよ」
そこには凶悪な笑顔が浮かんでいた。
いちど決めれば、体技科長は電光石火だ。その行動には、毛一筋ほどの迷いもない。
「すいません、親爺さん。こんなことになっちまって」
保健部のベッドには、全身を包帯に巻かれた青年が横たわっている。ふだんならば講義をサボるため、仮病のプロテジェが寝ているような、学園の平和を象徴する場所のはずだ。
「なに言ってやがんだ。謝るのはこっちのほうだぜ」
ところどころに血がにじんだ包帯は、しかし、野戦病院にいるかの如き非現実感をぼくに与えた。
「おめえが死んでたら、おいら、てめえを死ぬまでぶん殴ってたところだ」
「それはずいぶん長くかかりそうな自殺ですね」
青年が痛む傷をかばうようにして小さく微笑み、体技科長は豪放に笑う。
体技科のメンターたちが持つ絆は独特のものだ。お互いの命までもが、自然にその担保に入っている。信頼は言葉で確認するべきものではなく、胸襟をさらけだすことをためらう脆弱な自意識もなければ、心を開くことで得る不利益もない。
ふたりを前にして、なんとなく居場所を失ったような気持ちになる。ぼくには到底、築くことのできない人間関係だからかもしれない。
「それでよ――」
笑い声が止み、体技科長は神妙な表情になった。
「何か見つけてきただろうな」
とたん青年の顔がひきしまり、空気は張りつめたものをたたえる。
体技科の上下関係は絶対だ。そこに理屈はない。命令を下す者の能力と責任が完全に反映される厳格なシステム。その頂点に座るのが、体技科長だ。
「口述の報告書が会議にあがってるはずですが、みんな同じ顔をしてまさ。背格好もほとんど変わらねえで、ひとりの人間が何人もいるみたいな、ずいぶん薄気味のわりい眺めでした」
「こっちから仕掛けたのかい」
「斥候として、陣容と指揮系統だけを把握できればと考えまして。気づかれるほど近づいたはずはないんですが、どう言えばいいのか……」
青年の視線が何かを思い出すように遠くへ向けられる。
「一瞬にして囲まれてました。いったん間近で見ちまうと、気配を消すことに長けた連中でもない。気象条件も良好で、見晴らしはあった。馬鹿な言い草に聞こえるでしょうが、何もいなかったところに突然現れたという感じでさ」
「誰がおめえを選んだと思ってんだ。おめえが見たなら、間違いはねえだろうよ」
重々しく、体技科長が言葉をかぶせる。
「じゃあ、その包囲を突破したおめえの奮迅ぶりを聞かせてもらおうじゃねえか」
青年の頬が目に見えるほど紅潮する。高ぶる感情をおさえようとしてか、もしくは悔しさのあまりか、報告を続ける声はわずかにふるえていた。
「見かけによらず、ずいぶんと素早い連中でして、交渉のいとまもあらばこそ、問答無用とばかり、とびかかってきやがった。全員が革製のよろいにマントをはおって、徽章は認められず。獲物はどれも短刀ばかり。こっちも伊達に鍛えちゃいませんで、二人までは先に拳でやりました。煤みてえに蒸発して消えちまうのは、親爺さんに言われてた通りで。まっとうな人間とやってんじゃないとわかって、驚いた」
この人は、いったいどこまでを知っているんだ。ぼくは体技科長の大きな背中をまじまじと見つめた。
「ふつう、同士討ちを嫌って密集を避けるもんでしょ。なのにやつらときたら、次から次へとおかまいなしだ。烏合の衆って感じで、指揮系統があるようには見えなかった。背中に斬りつけてきた三人目以降はものすごい乱戦になっちまって、そっからは数えてません」
「相手が何人なら、触らせずにやれた?」
抜き身の刃物のような明瞭さ、過不足の無い凄みにぼくはぞっとする。
口を曲げて眉を寄せ、青年がおし黙る。これから口にすることが、体技科長にとって極めて重要な情報になることがわかっているのだろう。
「あの、おれならば、です。おれの鍛え方が半端なことは、親爺さんにもわかってるはずで」
「余計な口はいいぜ。おめえのことでおいらにわかってないことがあるかよ。正確に言え。おめえの次の言葉で、作戦が決まる」
体技科長の周囲に一瞬、熱気のような圧が膨れあがるのを感じたのは、はたしてぼくの気のせいだったか。
重傷に身を横たえていたはずの青年が突如、はじかれたように上体を起こす。
「同時ならば三人、続けてならば十人ですッ!」
大声で一息に吐き出すと同時に、再びベッドへ崩れ落ちる。どうやら失神したらしい。
駆けよってくる保健部の看護人に「さわがせたな」とだけ言いおくと、体技科長はのっそりと病室を出てゆく。ぼくはあわてて後を追いかけた。
「知るべきことはすべてそろったな。おめえもそう思ってるだろ、ユウド」
「どうするんですか、これから」
ぼくは、問いかけに含まれた言外の意図に気づかないふりをする。
「さっき言ったじゃねえか。通訳が必要だってよ」
凶悪な笑顔。
笑顔の由来とは、動物が牙を剥く行為の名残りなのだという。だとすれば、この瞬間の体技科長の表情ほど、その本質に迫るものはなかった。
「喧嘩する相手のツラをおがみにいくのさ。もしできるなら、その場で全員ぶちのめして帰ってくる」
この人は本気だ。しかし、独断専行もいいところだ。
「学科長会議にかけなくていいんでしょうか」
「おめえさんからそういう不意打ちを喰らうとは思わなかったぜ」
おそろしく太い指で、がりがりと頭をかく。
「だいぶ毒されてんじゃねえのか、ご友人に」
いったい誰のことだろう。
「みんな死んじまってからじゃ、遅いんだぜ。生き残ってからゆっくり、責任の所在を明らかにする会議をしようや」
みんな死ぬだって? 考えてもみなかった。
死への夢想は平穏の中でときに蠱惑的だけれど、その死はいつだって己にだけ訪れる種類の終焉だ。ぼくと体技科長たちの世代でおそらく共有されない感覚とは、死に対するものにちがいない。ぼくは個の内側に死を思い、体技科長は個の外側に死を思う。
「ちょっくら出かけるとしようか。昼メシまでに戻れりゃいいんだがな」
沈黙は、どうやら肯定と受けとられたようだ。大きな背中がずんずんと廊下を遠のいていく。その足取りにはやはり、何も迷いもない。
ぼくはと言えば、この提案に対しての思考を停止していた。やる。やらない。どちらにも決められない。いちばん強いのは、この件から降りてしまいたいという気持ち。なのに、ぼくの足は体技科長の後を追いかけていた。当事者意識の欠落した当事者は、ただ惰性により他人が動く方向へ流されてゆく。
しかし、表面上はきっとそんなふうに見えなかったはずだ。ぼくにとって、自分がまるでふつうの人間であるかのようにふるまうことは、ほとんど習い性のようになっていた。それに何より、体技科長の世界観には、必要な決断を先送りにする人間像はふくまれないだろうから。
「安心しな。おめえに荒事を期待しちゃいねえよ。ただ――」
勘違いをしたまま、肩越しに体技科長は続ける。
「おいら、興奮するとわりと周りが見えなくなっちまうタチでよ。おまけに、眼は前にふたつしかついてねえときてる。だれか、おめえさんに護衛が必要だな」
その言葉が終わるか終わらないかのうち、廊下の先ではかったようにスウが待ちかまえていた。
腰には刀をはいている。実際、屈強な体技科の面々に拉致された貧弱なメンターを心配して、ついてきていたのかもしれない。
「その役目、私が買おう。極限の場面で学科の違いがマイナスに働かないとも限らないからな」
体技科長は楽しそうに目を細める。
「ウデは問題ねえ。条件はひとつ。理事に話を通さんことだ」
「状況は逼迫し、組織では遅すぎる。尋ねられるまでもない」
ふたりの達人にはさまれた大気は、じっさいに密度と温度を変じるようでさえある。
どちらもおそらく、この世界に対する己の物理的な影響力を疑ってはいない。この拳が、この刃が、相手を打ち砕かないかもしれないなんて、虚弱な空想はどこにも入る余地がないだろう。
ぼくは違う。研究者としての武器である言葉さえ、それが通じないかもしれないことにいつもおびえている。グラン・ラングを選んだのだって、現代において通じないことの揶揄に使われる、死んだ言語だからではなかったか。
なんにもわかっちゃいないのに、なぜぼくなんだ!
ふってわいたこの仕事を投げ出す相手を探そうとして、愕然とする。こと施術という観点に立てば、ぼくが実質上の言語学科ナンバー2なのだ。
誰もが研究へと重きを置きすぎ、あまりに困難な実用を避けてきた結果とは言えよう。けれど、ボスに比べればぼくのグラン・ラング運用能力は、子どものお遊び程度にすぎないのだ。
このぎりぎりの局面に至って、言語学科の人材層の薄さを改めて実感させられるとは。今回の失敗は、そのままペルガナ市国の破滅へつながるかもしれないというのに!
ほとんど上の空のまま、ほどなくしてぼくは馬上の人となった。
といっても、馬術の心得があったわけではない。振り落とされないようスウの腰に手を回しているだけである。しかし、充分な凹凸があり、その心配だけはなさそうだ。
「余計なことを考えていると、振り落とされるぞ」
おっと。読心術でもこころえているかのように、スウが肩越しに湿った視線を投げてくる。
学園の敷地の外れにある厩舎を出発し、子どもたちの歓声を得て市街地を駆け抜け、潮騒を左手に聞きながら街道を北上する。刃一枚さえ通さないほど精緻に組まれた石畳の街道だが、敷設の労を担ったのは市国民ではなく、やはり古代人である。
やがて体技科長は無言のまま、街道を外れるように馬首を右へとかえした。スウがそれに続く。
ラノラダ平原には敷き詰めたように草はらが広がっており、ところどころに遺跡とおぼしき巨石が地上へと顔をのぞかせている。それらは文字通り氷山の一角であり、見た目の無機質な感じと裏腹の豊穣さ(研究者にとっては、だけど)を地下に眠らせているのである。
なぜ、古代人は地上へではなく地下へと広がっていったのだろうか。正統・異端を含めて学説はいくつもあるが、観点としてはだいたい次の二つに集約される。
かつては地上にも地下と同じ規模で建造物があったのだが、歳月と風雨にさらされて消滅してしまったという説。それから、ぼくたちと古代人との間には生物学的に見て、器質的に大きな隔たりがあったのだという説。
これは学説以前の個人的な意見だけど、古代人は自然に対して深い畏敬の念をいだいていたのではないかとぼくは考えている。つまり、人の営みが自然の営みの妨げにならないようにしたのではないか。現代には再現不可能な、強力極まるレガシーを多く産み出してきた古代人だ。それは相当にありそうなことに思える。
「おい、もうこんなとこまで来てやがるぜ」
おそらく現実を忘れるためのぼくの思索は、体技科長の低いつぶやきによって破られた。
半島の中央部は地形に起伏が少ないため、天候次第でかなりの見通しがきく。はるか遠くに陽炎の如くゆらめくと見えたものは、無数の人影だった。おいおい、予想よりもかなり速いぞ。
「いつでも抜けるようにしときな。近づくぜ」
スウに言葉を投げるや、体技科長は何の逡巡もなく異形の群れへと突っ込んでゆく。スウは匕首を切りながら軽く腰を浮かせ、片手で馬を御して後へと続く。
ぼくはと言えば、一気に緊迫する状況へ何の準備もできず、心臓が打つ早鐘を他人事のように感じていた。うろたえたまま、グラン・ラングに置き換えるべき交渉の内容を思い浮かべようとし――
できるわけがない。そもそも、グラン・ラングが通じるかどうかさえわからない。それ以前に、人の形をしているから人と同じ心や知性を持っているという期待すら、あまりに楽観的に過ぎる。
この未知に対するすべては、むなしい予断だ。
そう考えると、肝がすわった。己の中心へ軸足をすえて世界の余剰だけを感知するときの、天秤のような自我がたちまちぼくを満たす。
耳を聾していた鼓動が止んだ。煩悶も葛藤もすべてが消え、もっとも中立な空っぽの状態が降りてくる。あとは、外界の反応がぼくの行動を正しく規定するだろう。
迫りくる二騎を包むように怪人たちは左右へ音も無く分かれ、体技科長が手綱を引きつつ大音声で呼ばわる頃には、包囲は楕円形に完成していた。
「おめえたちの目的はなんだ! 返答次第じゃ、この場で全員ぶちのめすぜ!」
できるだけ正確に音素をつむごうとして、ボスの言葉がすぐ耳元によみがえる。
「悪くはない。悪くはないが、きれいにやろうとしすぎだな。ただ、おまえのすべてを残らず向こうに預けてくるんだ。こわがらなくても、必ずおまえは受け止められる。グラン・ラングはただの言葉じゃない。グラン・ラングは、世界そのものなんだから」
いつかの記憶が、あらかじめ仕組まれたトリガーであったかのように、電撃の如くぼくの眉間を貫いた。一瞬のうちに、これまで積み上げてきたすべての知識と経験は、このひとときを頂点としたあるべき位置へと再配置される。スウの背中を視界にすえながら、同時にぼくはぼくを俯瞰していた。
――世界は思ったほど、人間のことが嫌いってわけじゃない。
言葉にすれば、ひどく単純な悟り。しかしそれは、ぼくにとって大いなるブレイク・スルーの瞬間だった。
さあ、心を研ぎ澄ませ。
人間存在を肯定する、この世界の根幹を感じるんだ。
空わたる風のように。
たなびく雲のように。
ぼくが発したグラン・ラングの残滓は、わずかの反響となって虚空に消える。
流民たちに訪れた変化は劇的なものだった。ほとんど同じ外見を持ちながらバラバラだった動きが統一され、ひとつの固体をそれぞれが完全に写しとったようになる。
馬から跳びおりた体技科長が、前傾姿勢に構える。
スウは音も無く抜刀し、背中あわせに馬首を返す。
ふたりを制するように、取り囲む流民たちは寸分たがわぬ動きでいっせいに右手をあげた。そして、何かの儀式を思わせるゆったりとした抑揚で、グラン・ラングを唱和しはじめる。
「『我々は“世界の中心に蝟集する者”である。我々がお前たちから奪いたいものは何も無い。だが、我々が中心へ還ることを妨げるならば、お前たちは奪われるものを持つことになる』」
音素の入り組んだ複雑な内容だったが、ぼくは苦も無くその内容を理解できた。意味が直接、頭へ入ってくる感覚は、ぼくたちの言葉に置き換えるのがもどかしいほどだった。
「驚いた。さっぱり意味がわからねえ」
「通訳は正確です」
グラン・ラングに関して、こんな反論をする自負心があるとは思わなかった。
「おめえさんを疑ってるわけじゃねえよ。おいらがバカなだけだ。質問を変えるぜ」
抑制のきいた胴間声。ヘンな表現だが、体技科長の個性をそのまま表現している気もする。
「おめえたちは俺たちにどうしてほしいんだ! 食糧か、住処か! ただ喧嘩を売りにきたっていうなら、買うのはいまンとこ、ここにいる三人だけだ!」
おいおい、聞いてないよ。でも、伝える内容を取捨選択する権利がぼくにあるわけじゃない。投じられた小石が水面に波紋を生じるように、ぼくの発したグラン・ラングの小さな音素は巨大なうねりとして、八方からの反響となって返ってきた。
「『我々が求めるのは、世界の中心を取り巻く青き生命の排除である。我々が求めるのは、中心の空白を赤き生命で満たすことである』」
体技科長はうなりながら頭をがりがりとかきまわす。
「こいつらはものすごく頭がいいか悪いかのどっちかだな。気がおかしくなりそうだぜ」
スウが肩越しにぼくをちらりと見る。言いたいことはすぐにわかった。
「青き生命とは私たちのことを、赤き生命とは流民たちのことを指していると推測されます。おそらく――」
ぼくは努めて感情を抑えながら、言った。
「彼らの言う“世界の中心”とは、いま学園に存在している何かということでしょうね」
「おい、それはつまり学園をあけわたせってことか? やっぱりこいつら、喧嘩を売りに来てんじゃねえか!」
体技科長が流民たちの言う“世界の中心”の正体について察しているのかどうかは、わからなかった。
「ユウド、いったい手を引く気はねえのか、こいつらに――」
言いかけて、体技科長は口をつぐむ。気がつけば、流民たちにあった統一の感じは消滅していた。
一方的に目的さえ伝えれば、あとに残すのは拒絶というわけか。手に手に短刀をかまえ、じりじりと包囲をせばめてくるその様は、もはや元のような烏合の衆である。
即座に襲いかかってくるかと思ったが、ふたりの達人が発する無形の磁場に気圧されてか、遠巻きに威嚇するばかりで近づいてこようとしない。
「しっかり腰につかまっててくれ」
スウが有無を言わせぬ調子で言う。
「この数はちょっとまずいね」
旧棟での遭遇戦が流民イコール怪人の固体能力をそのまま表していたのだとすれば、複数で来られた場合、少なくともスウとぼくにとっては分が悪い。
「心配するな」
ぴったりと触れあった身体が意志を伝播したかのように、スウがぼくの疑念に返答をした。ときどきこういうことがあるのは、腐れ縁が長くなりすぎたせいかもしれないな。
「あのときは調子が悪かっただけだ」
軽口や負けおしみでは困る。ぼくの不安を和らげようとしているのなら、立場が逆だ。言いつのろうとするぼくに、
「そういう日もあるんだ」
なるほど。察しのよさだけで数々の危地を切り抜けてきた老獪なメンターは、ここで黙った。
ぼくたちの力量を推し量るためか、包囲の輪の中へ流民のひとり(この表現が正確かどうかはわからない)が歩み出た。個々として見れば、やはりあのときの感じとそっくりだ。
じっと動かぬ体技科長に対し、円を描くように間合いをはかる。
一瞬ののち、風を巻いて怪人が襲いくる。常人の動きではない。凄まじい速さだ。
体技科長は身体を開きながら、急所をねらう短刀からかろうじて身をかわす。交錯の際に打ち出された拳は遅く――
むなしく空を切った。
傍目には無傷の両者が位置を入れ替えただけだが、怪人の表情は獲物を得た喜悦、あるいは何かの優越に変容しているように見えた。
「あぶねえ、あぶねえ。あやうく殺っちまうところだった」
ぼそりとつぶやき、拳を手のひらに打ちつける。びりびりと大気が震え、体技科長を中心とした同心円状に草がなびいた。取り囲む流民たちが、わずかに退く。
「ユウド、ひとつ確認しときてえ。この交渉は決裂したよな?」
言うまでもない。ぼくはうけあった。
「間違いありませんね。彼らに和平交渉の素地はないようです」
その言葉を聞いて、体技科長は莞爾と微笑んだ。それは、この緊迫した場面に似つかわしくないほど、ある種の純粋な喜びに満ちていた。
まばたきをひとつすると、魔法のように目の前の怪人が姿を消した。体技科長が突き出した右拳の周囲に、煤のような黒い煙が舞っている。
空中にある短刀と衣服が地面に触れるか触れないかの瞬間――
包囲の一部が黒く爆発した。
それは、体技科長の吶喊だった。まったく見えなかった。
「馬引け!」
スウが片手で二頭の手綱をとり、包囲の薄くなった箇所をさらに斬り崩しながら外へと飛びだす。体技科長は襲いくる怪人をその巨躯からは想像もつかない身軽な跳躍でかわす。続けざまに空中で頭部を蹴りつけると、反動を利用して馬上へと還った。
「おい、逃げるぜ!」
したたかに腹を蹴られた二頭の馬が、死にものぐるいで駆けだす。
人の足が追いつけるはずはない。しかし、追ってくるのは厳密な意味での人ではなかった。なぜなら、全力の馬と並走できる人がいるはずはないからだ。
「手綱をまかせる。にぎってるだけでいい」
言うや、ぼくをまたぎこしてスウが馬上に直立する。
「上を見るなよ」
遅かった。白じゃない。
明らかな殺意を発する異形の群れに囲まれて、馬たちは興奮の極みにあった。この激しい揺れに倒れないなんて、尋常なバランス感覚じゃない。スウは一切を意に介さず、ゆっくりと刀を下段に構えた。
併走する怪人たちがわずかに上体を沈ませるのが見えた。来る。
跳躍ではない、飛翔。肉厚の短刀が閃く。
十の影がスウを目がけて急速に降下する。
風を孕んだマントは猛禽の翼を思わせる。
白い光輝が虹の軌跡を描き、時間と空間が共に動きを止める。
厳粛な静寂の中、猛禽たちは宙空に静止する。
鍔鳴りが響くと、輪郭を喪失した十の影は同時に黒く蒸発した。
背中に柔らかなものを感じる。スウが背後からぼくの手綱を取ったのだった。
振り返れば、追いすがる怪人たちが速度を落とすのが見えた。
「大したウデだ」
体技科長の楽しげな賞賛に、スウはすまし顔で返答する。
「少なくとも、与しやすくはない印象を与えられたはずだ」
「ちげえねえ。言語学科と体技科は本交渉において一定の成果をもって帰還せり、だ」
ふたりの会話を聞きながら、ぼくの思考は別のところへと漂っていた。
常人ならぬ身体能力を有した言葉も通じぬ怪人たちによって、学園の包囲はまさに完成しつつある。もちろんこのふたりなら、何が相手だろうが必ずねじふせてしまうだろう。けれど、同時に万を相手にできるわけじゃない。体技科長は、戦闘を不可避なものととらえている。行動を見れば、それは明らかだ。
でも、キブはどうなる? ぼくのプロテジェたちは? 臆病なぼくには、戦えない人たちのことばかりが気にかかる。
そして、心に浮かんだのはひとりの少女の姿。
「マアナは?」
「シシュのところだ。いま学園では、あそこがいちばん安全だろうからな」
賢明なスウは、体技科長の前でそれ以上を言うことを避けた。しかし、考えていることはぼくと同じだったに違いない。
ひとりのサクリファイスによって、残った人々が救われるとしたら――
答えは出なかった。
月: 2011年5月
アンストッパブル
アンストッパブル
デンゼル・ワシントンが主演の時点で、米国の低所得者慰撫が目的の映画であることは確定的に明らか。機械と人間、資本家と労働者、若者と老人、恥ずかしいほど塗り重ねられる対立の構図へさらに並行する家族の問題。あらゆるテーマが列車の暴走を食い止めることへ収束し、二時間が経過する頃にはすべてびっくりするほどきれいさっぱり解決する。きっと労働者階級の憤懣による蜂起をくじくため、老人の資本家どもが「やはりグリフィス四重奏団の音は世界一だねえ」とか言いながら(マスターキートンからの知識)、後ろ手に縛られたデンゼル・ワシントンのビキニパンツへ百ドル札とかいっぱい突っ込んで作らせたに違いないよ! こんなのがすごい面白いなんて、く、くやしい……ビクンビクン!
アポロ13
アポロ13
劇場で見た際にも感動したのだけれど、それは話のスケール感とSFっぽさに対する漠然とした中身に過ぎなかった。今回あらためて視聴する機会を持ち、普段はまとまらない組織がひとつの大目標や危機の共有を通じて結束してゆくダイナミズムに心うたれたのである。そして、十五年という歳月がもたらしたものに感慨を覚えたのだった。君と私が何よりの生き証人だと思うが、個として切り離された場合の人類がまったくどうしようもないふるまいをする生き物であることを否定はできまい。だがもしかすると総体としてならば、我々は何か大きな命題を成し遂げ、ある種の崇高さに至れるのではないかという淡い錯覚――それは希望の別名である――をこの映画は与えてくれる。もっとも、本邦においてはここ半世紀というものずっと、結束へと向かう熱の高まりはすべて、民族レベルの防衛機制が自動的かつ徹底的に無意識を検閲し、シラケへと上書きされてしまう状態が続いているのだが! 紙と鉛筆で軌道計算をするところと、苛立たしく投影機を脇へやって黒板にチョークで書きつけるところが、すごく好き。
MMGF!(IZAHN)
インターミッション
その石はずっとひとりぼっちだった。
意思の介在をさえ疑わせる整った円錐形が、ゆっくりと回転しながら漆黒を漂流する。
周囲の莫大な空間に比して、あまりに小さく寄る辺無く見えた。
その石はいくつもの生命の傍らを通り抜け、気の遠くなるような長い時間を旅してきた。
そして同じくらい気の遠くなる長い時間を旅して、石さえも形を保てぬあの輝きへと身を投げ、終焉へ没するはずであった。
はるか見下ろす彼方に無数の生命がうごめくのを眺めながら、他人の幸福を祈るときのぬくもりだけを内側に残して、いつものように旅人として去っていくはずであった。
しかし――
楽しげな楽曲や町のさんざめきがいつもより優しく聞こえたように。
人恋しさが人嫌いをほんの少しだけ上回ってしまったときのように。
ふらふらと、ほんのわずかだけ道程をたがえたその石は、あっというまに、暖かな星の抱擁にからめとられてしまっていた。
人ならば、軽率が招いた早すぎる結末に自棄の安逸を感じただろうが、それは石に過ぎなかった。
そして見た。
夜の底に規則正しく響く軍靴の足音と、窓から目だけをのぞかせて破滅を眺める子どもとを。
これまで、どれほど同じ光景を目にし、ただ傍らを通り過ぎたことだろう。
人ならば、あらゆる知性が避けえぬ矛盾に悲しみさえ感じただろうが、それは石に過ぎなかった。
永遠にまじわるはずのなかったふたつが、ひとつの気まぐれによって出会う。
もしその気まぐれに理由があるとするならば――
やはり、ひとりで永遠を行くのは、さびしかったからなのかもしれない。
MMGF!(4)
学園の辺縁、ちょうど市街地の反対側に位置するドミトリは、世界各地からの留学生の受け入れを主たる目的として設立されたという。いまでは身寄りの無い子どもの世話なども行っており、ペルガナ市国の福祉面に大きく貢献している。ドミトリ所属のプロテジェたちは年齢を縦割りにしたいくつかのグループに分けられ、学習から生活に至るまで年長者が年少者の指導を行う、自主自律を促すシステムが取られている。これこそ、たったひとりの寮長で多くのプロテジェたちを管理できる所以と学外へは広報されているが、実際のところ、現実に不可避な人と人との摩擦を抜きにして発案されたその理想を無理やり実行させてきたのは、歴代寮長による、文字通り、字義通りの力技であった。
ドミトリ設立の趣意は、門扉の脇に苔むし、打ち捨てられた石碑にこう刻まれている。
『世ニ名ダヽル学園ノ智慧ヲ伝播シ、国家ト民族ノ垣根ヲ越エタ学祭的発展ノ礎ヲ創ルタメ、更ニハ、世代ヲ越エタ人類ノ共感ヲ涵養スルタメ、ヤガテ我ガ子ラノ輝ク叡智ガ現存スル全テノ偏見ト無知ヲ世カラ取リ除ク日ヲ祈念センガタメ、ココニ未ダ愚カサヲ止メエヌ我ラガ、人ノ善キ意志ノ集結トシテ未来ヘ遺スモノデアル』
まったくいつ読んでも、恥ずかしいほど大仰で高邁な内容だ。でも、たぶん、ドミトリの設立者たちは、この言葉を心の底から信じていたと思う。物事が始まるときには必ず存在する、何かに浮かされたような熱気を感じ取ることができるから。善意と希望で世界は必ず良くなると信じる者たちにしか持ちえない、最初に創るものたちの熱気、初源の熱気だ。
1を100にできる人たちはたくさんいる。でも、0を1にできる人は世界にそれほど多いわけじゃない。ほとんどのドミトリ組が気にも留めないこの小さな石碑の前に、グラン・ラングの研究へ人生を捧げようと決めた初心を忘れそうになったとき、ぼくは立ち止まる。ともすれば、最初にあった豊かさと熱気の残滓を、ただ享受するだけに陥ってしまう我が身を戒めるためだ。
ぼくはたぶん、何も信じていない。けれど、信じていないものがただ己の安定のためだけに最初の1を狭めることはあってはならないとも思う。
ふと、ボスの言葉が心に浮かぶ。
「おまえはさ、自分が早く結論を得て安心したいから、逆にグラン・ラングのほうを狭めてるんだよ。破綻しろよ。もっともっと、破綻するんだ」
全身が粟だって、体の芯が熱くなる。ときどき、意味もわからず聞いたきりになっていた言葉が、過去からぼくを追いかけてきて、ぼくをつかまえることがある。ボスがいてくれれば、きっといまの状況にも的確なアドバイスをくれただろう。
しかし、それはせんのない願望だ。ぼくは軽く頭をふると、石碑に背を向けた。
ドミトリの入り口すぐに受付を兼ねた宿直室として、寮長のささやかなプライベート空間が設けられている。一風変わった伝統に彩られた部屋で、じっさいに見たことが無い者への説明は、ちょっと難しい。
床には一種の枯れた草を格子状に編みこんだ長方形の板が数枚、パズルのようにはめられている。石や木の床と違って、わずかに押し返してくるような感触だ。椅子の無い丸テーブルが部屋の中央に置いてある他は、用途のわからぬ質素な家具(?)が数点のみで、さしこむ陽光にもほこりさえ見えない清潔さである。
何より、ここは匂いがいい。屋内なのに、ちょうど草原に寝そべっているときみたいな感じだ。異なる文化も、人にやさしいなら受け入れやすい。まあ、ぼくの知っている寮長は二人だけだから、もしかすると文化や伝統とかに寄らない、もっとドメスティックな何かである可能性を否定はできないけど。
テーブルを挟んで、小柄な少女がおし黙ったまま、持ち手の無いコップをのぞきこんでいる。これも変わった趣向だ。熱いものを飲むときはどうするのかな。
紺の生地を白い前かけがおおい、両肩には羽のような飾り。機能性とデザインが同居した清潔感のあるお仕着せだ。以前はお仕着せのデザインになんて気づきもしなかったが、ぼくの鈍感さというよりはむしろ、その言動において異様な存在感を見せつけた以前の寮長が悪いのだと思う。
少女は奇妙なことに、どう言えばいいのか、曲げた両脚の上に臀部を乗せた格好で固まっている。もしかすると、ぶしつけな問いかけに対する不平を表現するための示威行為かもしれないし、もっとビザールな文化的行動なのかもしれない。予測不可能性は、最も人を不安にさせる要素だと言うけれど、ぼくの不安感には一種の恐怖さえ伴っていた。なぜって、この少女は、以前の寮長の血を分けた娘なのだから。
沈黙によるプレッシャーが恐怖を肉体的なものに変えるほど長くなりかけたとき、
「『よかろう、我が血はこの地を守る。その代わりに、この地は我が血を守れ』」
芝居がかった調子で唐突に、少女は声高く郎じた。予想外の方向で緊張を外されたせいで、よっぽどおかしな顔をしたんだろう、ぼくを見てくすりと笑う。
「すいません、どうお話したものかわからなくて。我が家に代々、口伝されてきたお話ですわ。ぜんぶ、覚えてますの。絵本がわりに、何度も聞かされましたから。守り人を欲した大地の懇願に、当主が応えたのだそうです。その盟約は、グラン・ラングの力で末代の血にまで刻まれていると聞きました」
待て待て待て。これはすごい話だぞ。魂への付与(エンチャント)が時代を超えて維持(アップキープ)されているという実例じゃないか。すぐ近くに、ぼくの研究を飛躍的に進める可能性の原石が埋まっていただなんて! つくづく、フィールドワークの重要性を痛感させられる。ここ何日かで折られに折られ、すっかり低くなったぼくの鼻は、ここにまた、その高度を低くすることを余儀なくされたのであった。
「ずっとただのお話だと思っていました。わたしも、ここに来るまでは本当の意味で信じていたわけじゃなかった。でも、いまは違いますわ。この身体が、血に刻まれた盟約を思いだしましたから」
ぼくの視線をつかまえた少女の大きな瞳には、気圧されるほどの確信が満ちている。その清廉な汚れの無さに、不純さを見抜かれたと感じるとき、男ならば誰でも感じるだろうあの、一種のやましさがぼくを動揺させた。
しかしながら、いついかなる局面においても、内心の動揺を完璧に秘し隠してしまわなければメンターという生業はつとまらないのであった。研究者としての本性を男の本性に覆いかぶせると、ぼくはまっすぐにその瞳を見つめかえす。
「グラン・ラングは世界を記述する言語だとぼくは考えてきました。しかし、多くの研究者がそれはレトリックに過ぎず、古代人のレガシーに干渉するだけの限定的な効能のみを注視しています。いまのお話は、大きな自信になりました。今回の件が落ち着いたら、改めてお時間をいただけませんか」
不躾な申し出に、おそらく困惑のせいだろう、少女の頬が色味を帯びる。軽く持ち上げた人差し指に、うろたえて視線を泳がせる仕草が、なんだか年相応で、ひどくかわいらしく見えた。
「あの、わたし、メンター・ユウドのお役に立てるか、わかりません。ただわたしは、そうであることを知っているだけで、専門的なことは何も……」
あることを知る。それは究極の理解だ。専門的な知識だけは売るほど持ってるくせに、グラン・ラングがそんな使い方をされていたことをぼくは実感できない。短くはない学究生活をさらっと完全否定される言葉に、ぼくの鼻は今度こそ完全に消滅した。
古代人の伝承によるならば、人知の存在する以前から、グラン・ラングはあらかじめ世界に組みこまれていたのだという。それは人間の認識が世界を規定する前から、海や山や空がすでに名前や人格を備えていたということで、なんだか楽しい気持ちになる。
しかもそれが、万物を理解するための方便ではない、つまり説話や民話の類ではないというのだ。寮長の話が示しているのは、かつて世界そのものと対話が可能な誰かがいたということだから。しかし、耳をすませど、ぼくには何も聞こえてこない。貧しき我が身をかえりみて、なんだか悲しい気持ちになる。
「話を戻しますが、先のドミトリ襲撃を退けることができたのは、やはりその盟約が理由であると?」
二人がかりでようやく斬り伏せた怪人が、一人の少女に素手で打ち倒されるのを、ぼくとスウは間近で見てしまっていた。
「はい、そうだと思います。あのとき、全身を高揚が包んで、細胞の一つひとつが忘れていた何かを思い出す感じがしました。信じていただけないかもしれませんけど、わたし、これまでだれかを殴ったことなんてありません」
「信じますよ」
ぼくはあのとき、寮長の魂が白いまでに青く光輝するのを見た。間違いなく、ぼくの行う付与を数百倍、数千倍に拡大した現象が発生していたのだ。エネルギーの供給源は、おそらく大地そのもの。あふれる光の奔流は、ドミトリ全体を覆わんばかりだった。
「すべて、確信に変わりました。この地を守るために戦う限り、何を相手にまわそうとも――」
ぼくは、ほとんど威厳に満ちたとさえ言えるその声音にハッとさせられる。
「我が血が敗北することはありません」
いま話をしているのは、寮長ではない。少女の中にある血脈そのものだ。その背後には、眼前の少女を最突端とする長い長い時間の連なりがある。
不浄のものを寄せつけぬ凛とした微笑みに、研究者としての本性に男の本性がたちまち覆いかぶさり、ぼくは思わず視線を宙空へとさまよわせた。
「家事全般におよぶ有能さに加え、容姿の端麗は言うに及ばず、我らの寮長が実は不敗でもあっただなんて聞いたら、プロテジェたちはどんな顔をするだろうね」
やれやれ。やましさをごまかすために軽口を選ぶあたり、ぼくも成熟しない男だよな。
「メンター・ユウド」
曲げた両足の上に臀部を載せた姿勢から上半身を前傾にした寮長が、真剣なまなざしでぼくを見つめてくる。
「ひとつ、お願いがいあるのですが」
もしやこれは、求愛を意味する文化的行動なのだろうか。
いやいや、現実への予期にまで軽薄さが混じりはじめるのは、相当にうろたえてるぞ、ぼくは。きっと、寮長とその血族が負う業に対して、ぼくが配慮や敬意に欠けた発言をしたことへ、不快を感じたに違いない。
すぐに心からの謝罪を表明しなくてはならない。頭はいくら下げても、誰に下げても減らないというのが、ぼくの信条だ。
「寮長、というのはやめていただけないでしょうか」
「ごめん、さっきの発言は軽率だった。撤回するよ」
二人の発言は同時だった。おや。なんかズレてるな。テーブルの表面すれすれにまで勢いよく額を近づけてから、気づく。
「そ、そんなに深刻に受けとめられると、困ってしまいます。どうぞお直りください」
顔を上げると、寮長はもぞもぞと身体をくねらせて、困惑の態だ。曲げた脚部に乗せた臀部が重しになって(問題発言だ)、上半身だけをうねらせているのが面白くて、ぼくは思わず吹き出しそうになる。
「ずっと、違和感がございましたの」
わずかに染まった頬へ手のひらを当てながら、上目づかいにこちらを見る。己の魅力に気づかぬ乙女の発する無意識の媚びには、一種、抗しがたい魔力がある。
「メンターにご意見さしあげるのも無礼かと思いましたし、寮長としての職責を軽く考えていると思われるもイヤで、いままで黙っていましたけど、きょうはいい機会ですので、言わせていただきます」
ときどき忘れてしまうけど、この娘はぼくよりもずっと若いのだ。ほとんどプロテジェの続きみたいな気分で研究を続けてきたせいか、年齢の上下といった感覚が希薄なのだろう。学究生活にフラットな見かけは大切だけど、年かさの配慮までおしなべてフラットにふるまうのは、成熟を拒否するあまり、責任を放棄していることに他ならない。
奇矯な言動が研究の成果で相殺されるには、うちのボスくらい突き抜けないと無理だろうなあ。聞き慣れた哄笑がすぐ耳元で響いた気がして、ぼくはぶるっと身をふるわせた。
個人的に痛いところをつかれ、改めて姿勢を正して座り直す。
「メンターとしてプロテジェたちを指導する立場ではありますが、同時にぼくはドミトリの住人でもあります。寮長の申し出には最大限の敬意を払う用意があります。どうぞ、遠慮なくおっしゃってください」
慇懃な物言いが、小馬鹿にしているようには聞こえなかったか心配になる。
寮長は背筋を伸ばすと、おかしなくらい両肘を張った。
白くて細い首筋。
喉がかすかに上下する。
つばを飲みこんだのか。
わずかな逡巡の後、身を乗りだし決然と言ったのは――
「寮長ではなく、シシュ、と呼びすてにしてください。そうすれば、ずっと気が楽になりますわ」
一瞬、虚をつかれたようになり、まじまじと見つめかえしてしまう。
「わたし、いま、たぶん、おかしなこと、言ってますね?」
真顔のまま聞きかえす寮長。今度こそ耐えられなくなって、ぼくは声をあげて笑ってしまった。
「いや、そんなことはないよ」
「ああ、よかった!」
とたん、笑みくずれる。彼女がここに来て半年、初めて年相応の表情を見た気がする。
与えられた仕事への責任感と、受け継がれてきた盟約への自負心。そしてたぶん、プロテジェに混じっていつまでもドミトリに居座るおかしなメンターへの配慮がすべてまぜこぜになって、ぼくの見る寮長の雰囲気を作りだしていたのかもしれない。
そりゃあ、逆の立場だったら緊張するよな。もっと積極的に、こっちがほぐしてやるべきだったのに。きょう庭先の寮長をつかまえたのだって、結局のところ、学園を取り巻く異変について何か情報を引き出せないかと考えたからだ。いつだって我がことばかりの己に嫌気がさす。
「じゃあ、あらためて」
言いながら、右手をさしだす。
「よろしく、シシュ」
目を丸くした寮長は、少しためらってから、おずおずと両手で(文化的行動?)にぎりかえしてきた。その魂から青い光がこぼれるのが見え、ほんの軽く触れているようなのに、ぼくの骨はめりめりときしんだ。おお。これが、盟約の力ってやつか。寮長の前では、二度と軽口を叩くまい。
「なにかとふつつかな点も多いかと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします」
いつにない動揺ぶりで、おかしな口上を述べたてる。いや、これが本当の彼女なのかもしれないな。緊張していたのか、小さな手のひらは汗でわずかに湿っていた。
メンター・ユウドよ、おまえの気のつかなさこそ永遠に呪われてあれ、だ。
空を見あげると、太陽はだいぶ高い位置にあった。思わぬ長居をしてしまった。そろそろ、午後の講義の準備をするべきだろうな。人類の未来を変革するだろう大研究も、日々の生業という一歩から始まるのだ。たぶん。
「おーい、そろそろいくよー」
ドミトリの前庭にある芝生で、横座りのスウとあぐらをかいたマアナが仲良く何ごとかに興じている。ママゴトかな? でも、スウが花をならべ、マアナが花弁を食いちぎって、茎だけ元へもどされる一連の作業が、家庭生活のどの場面を象徴しているのかは怖くて聞けないな。
「ああ、終わったんですか?」
かざした手をひさしにして、スウが見上げてくる。
「むしろ新しく始まったというべきだろうね」
シシュとの一件からか、なんだかやましい気持ちになってごまかしてしまう。別に、スウはモニター以上のなんでもないんだから、ごまかすことなんてないんだけど。
ぼくの内心を知ってか知らずか、スウはかすかに首をかしげて微笑むばかりだ。祖母のところから戻ってしばらくは、いつもこんなふうに元気がない。余計な詮索が生業のぼくだけれど、誰かの個人的な内面はその限りじゃない。
スウの祖母は、ペルガナ学園の評議員である。簡単に言えば、長時間の会議に参加する忍耐は試されないが、学園の運営には口を出せるという立場だ。
学園の黎明期、それは何世代もさかのぼる遠い昔のことになる。当時、七つの素封家が巨額の出資を行い、設立の基盤を作ったのだそうだ。うち二つはすでに血筋が絶えているが、残りの五つは数百年の時を越えてなお健在である。そして、ときどき学園の現状が気にいらず、クチバシをつっこんでくるというわけだ。この外部圧力に対する某メンターの抵抗と闘争については、長い上に相当疲れる話なので、いまは割愛したい。
「マアナは、どうしますか」
「そうだね。どうしようか」
悩める保護者の傍らで、齧歯類の如く頬を膨らませ、口いっぱいにつめこんだ花を咀嚼するのに必死のマアナ。やれやれ。いま噛みつく心配だけはないな。
けど、件の怪人がまた現れないとの保証はどこにもない。まあ、ドミトリにいれば確実に安全なことがわかったのは収穫だったけど、いつまでも部屋に閉じこめておくわけにもいかないしな。少しずつ、浮世の生活に慣らしてやる必要がある。もう、薔薇水晶の中へは戻れないんだから。もしかすると、自分の子どもを持つってのは、こんな感じなのかもしれない。
「よし、いっしょに連れていこう。年少組となら、ちょうど仲良くできるかもしれない。スウ・プロテジェには、講義の前にレジュメを複製する仕事をお願いできるかな。その間は、ぼくが面倒を見るから」
「はい、メンター・ユウド。わかりました」
柔らかな口調だった。むしろ弱々しい、と表現するべきか。言葉を受けとめるというより、言葉に流されるという感じで、奇妙なぐらいに意志を感じさせない。これも、スウが祖母の元を訪れたあとにいつも感じる変化だ。
何かあったの? そう聞いてやればとも思う。しかし、メンターにとってプロテジェとの関係は一時的なものだ。それは、常に自覚しておく必要がある。ぼくのような一部の横着者をのぞいて、いつかここを離れていく存在だ。自虐的に言うならば、ぼくが従事するのは無限にわきあがる夢と希望が、自分だけを取り残して去ってゆくのを見守る仕事である。
過去に一度、痛い目を見た。当時のぼくは、プロテジェ全員の苦しみを救済してやれると信じていたのだ。なんという傲慢だったのだろう。言葉にされなければ、いつか消えてしまう気持ちはある。グラン・ラングの研究者がそこに気づかなかったのだから、笑わせる。掘り起こして、言葉にさせて、途方に暮れる。結果、ひとりのプロテジェがこの手からすり抜けていった。
ぼくが得た教訓は、ひとりが本当に救えるのは人生でひとりだけ、ということ。それは相手にすべてを求める人間の、悲しい法則だ。もうあれを繰り返したくはない。いや、あるいは単にぼくがもう若くはなく、痛みを乗りこえる熱気が失われたというだけのことか。
ふと気がつけば、マアナが水晶のように無機質なまなざしで、ぼくを見あげていた。表情を失ったその顔は、まるで作り物のように恐ろしく端正だ。瞳の赤い虹彩が無限へと誘うようにゆらめく。ぼくの背中へ畏れにも似たおののきがはしる。
しかし、その決定的な異物感は、マアナの笑顔とともに消滅した。むきだしにした歯には、花弁がいっぱいにつまっている。
やれやれ。猫のように身をよじって逃げようとするのを後ろからつかまえて、抱きあげる。
「さあ、友だちのところへ連れていってあげるよ」
マアナは新棟へと向かう道すがらをひとしきり暴れたあと、やがて観念したのか両手足をだらんと伸ばして身体をあずけてきた。重い。
スウはと言えば、なんだかふわふわした足取りで後ろからついてくる。ぼくの肩にアゴを乗せたマアナは、スウの反応を得ようとして百面相ごっこを始めたようだ。平和といえば、これほど平和な見かけもないだろうけど。
だが、平穏極まる日常をどよもす暗雲は、突如として立ち込めるのが世の常である。機甲学科のメンターを進行方向に発見したぼくは、やおらスウの手をつかむと回れ右し、学園創設者の銅像のひとつへ身を隠す。
学科大移動からこちら、機甲学科のメンターたちは、なぜかぼくの姿を見かけると鼻息を荒らげて走ってくるようになった。かさかさと足元へ転がってきた紙くずを広げれば、凶悪な面相の誰かの似顔絵と、生死不問の文字、機甲学科長のサインが書かれている。ぼくは即座に元通り紙を丸めると、後ろへ放り投げた。
機甲学科が豹変を遂げた理由は、目下のところ全くの不明である。しかし、用心するに越したことはない。
「見つけたでえ」
「わあっ!」
背後から声をかけられ、ぼくはとびあがった。取り落としたマアナが尻餅をつき、剣呑な表情でうなり声(おそらくグラン・ラングの)を上げる。
潅木の陰から染み出すように姿を現したのは、キブだった。
もはや隠しようのない大騒ぎに覚悟を決めて振り返るが、機甲学科のメンターはすでにいずこかへ姿を消した後だった。胸をなで下ろすと同時に、キブへの怒りがわく。
「おどかすなよ!」
「いまのあわてぶりを見ると、確認するまでもなく事の真偽は明らかやな」
腕組みをしながら、したり顔だ。
「なんのことだよ」
ぼくは憮然と尋ねる。
「先の学科大移動で、機甲学科の備品が重大な損壊を被ったらしいな。よくよく聞けば、言語学科の某メンターが裏で暗躍してたそうやないか」
「ああ、何かと思えばそんなことか」
ぼくは瞬間、自分でもわかるぐらい無表情になった。
「君は親友だから、正直に言うよ。じつは偶然、何と言えばいいか、そう、自然現象。自然現象が機甲学科の備品を破壊する場面に居あわせたんだ。本当にあれは、不幸な事故だったよ」
「グラン・ラングの暴走、と聞いとるで」
ぼくは不自然なほどさわやかな笑顔をつくって、キブの両肩をつかむ。
「いいかい、だれが吹きこんだか知らないが、それはまったくの素人考えだね。グラン・ラングは平等かつ公正な言語だ。だれが発したとしても、同じ音素ならば同じ結果をしかもたらさない。つまり、発話する者の意図を越えて、気まぐれに暴走したりはしない。まさか、あの瞬間にあの場所で、局所的な竜巻が発生するなんて、だれにも予想できないよ」
そう、グラン・ラングは決して暴走しない。言いながら、抱えていた疑惑がぼく自身の言葉によって裏づけられてしまったのを知る。ならばなぜあのとき、グラン・ラングは暴走したのか。
キブはぼくの手をつかんで、もぎはなした。
「ええい、これで貸りは返したということやな」
「言っている意味はよくわからないが了解した」
うなり声をあげるマアナと、その歯頚から花弁を一枚一枚とりのぞいてやっているスウの傍らで、ぼくとキブは固い握手をかわした。
気がつけば、もはや太陽は頭上に輝いている。午後の講義まで、もうそれほど時間は残っていない。
「じゃあ、お互いの知る案件については、一切の他言無用ということで」
マアナの手を引いたスウの手を、水鳥の親子のごとく、ぼくが引いて歩きだそうとする。
「待て待て、どこ行くねん」
「どこって、講義に決まってるじゃないか」
「伝わってへんのかいな。ついさっき、緊急の学科長会議が招集されたで」
思わず、深いため息が出た。
「ごめん、他のプロテジェたちに休講の連絡をお願いできるかな」
「わかりました」
弱々しい返答が気になるけど、いまはしょうがない。微笑んだまま立ち尽くすスウと、無邪気に手を振るマアナに見送られながら、ぼくはキブとともに、議場へと重い足取りの我が身を曳いてゆくのだった。
ぼくが来ないとわかったとき、年少組のシャイが見せるだろう、がっかりした表情が一瞬、頭に浮かんだ。
なんだかずいぶん長いあいだ、プロテジェたちの顔を見ていない気がするな。
「講義の途中だった」
腕組みをしたまま、苦々しげにスリッドがつぶやく。あとから入ってきたので、いつもの席ではなく、ぼくの隣に座ったのである。
ぼくは両手で顔を隠しながら、うめくような生返事をした。機甲学科のメンターが、はすかいから凶悪な目でこちらをにらんでいるのが気になって仕方なかったからだ。
きっと、スリッドが常の如く会議を紛糾させるのを事前に抑止しようと努めてのことだろう。そうに違いない。そうであって欲しい。
「我々は研究機関であると同時に、教育機関だ。正規のものをしのぐばかりの回数で突然に招集される臨時の会議は、プロテジェたちの不利益につながる。もしこれが学園の運営上、本当に必要なものだと仮定すれば、年度当初に計画された学科長会議の数が妥当でないということだ」
「そうかもしれないね」
ぼくはあいまいに語尾をにごす。スリッドの意見には同意できる部分もないことはない。でも、その論旨の明晰さにぼくはなぜか違和感を持つ。それを的確に表現する言葉がいつも見つからない。もしかすると、己の優柔不断さを言外に指弾されている気持ちになるからかもしれない。苦手意識を持つべきではないと思うけど、スリッドといるときの自己嫌悪の感じはなんとも言いようがない。
「もっとも、私は議長団の議事進行にある致命的な欠陥を無くしさえすれば、大幅に会議の数は減らせると考えているのだが」
二段構えの言論トラップだったか。あやうく一段目で全面的な賛意を示すところだった。
キブは何の関係もない、といったすまし顔で宙を見つめている。しかし、内心はぼくとスリッドとのやりとりに興味津々なのだ。ときどき小鼻がわずかにふくらむのを見れば、何を考えているかはあきらかである。
やがて、学園長とブラウン・ハットの長官を先頭にして、ぞろぞろと首脳陣が入室してくる。スリッドが背を伸ばし、わずかに身を乗りだすのがわかった。臨戦態勢、ってわけだ。学園長が口火を切る。
「突然の召集にとまどわれた方も多いでしょう。ご批判はのちほど承ります」
スリッドの方へ視線を走らせながら、両手をあげる。機先を制せられ、鼻白む気配が隣から伝わってきた。学園長の言葉は、いつも絶妙な間合いでもって、すりぬけるようにして届く。どれほどの激論や騒然とした場であっても、その発言が聞き落とされることはない。
「まずは行政庁からの報告をお願いします」
「えー、それでは」
うながされた長官は、一枚の書面を片手に、眼鏡のつるに中指をあてて立ちあがる。読みあげる直前に、ある人物と視線を交わす。体技科長がわずかにうなづくのを、ぼくは見逃さなかった。
「黒い森と市国をむすぶ中立緩衝地域に、大量の流民が発生しました。今朝の段階で体技科所属のメンターが確認した数は、およそ数千から一万。現在、ゆっくりと市国へ向けて南下しており、交渉をふくめた何らかの対応が必要かと思われます」
すかさず、スリッドが挙手する。
「流民とは、政治的な欺瞞に満ちた表現ではないか。我々に何を伝えることを忌避しての発言か、お答えいただきたい」
「現在のところ、充分な情報が得られていません。無論、紛争等による避難民の可能性を排除しませんが、各国の大使から届く伝令には時間差がありますので」
スリッドの発言に許可を得たと思ったのか、列席するメンターたちが次々と疑問を口にしはじめる。
「海上から侵入したんじゃないのか」
「まさか。それだけの人数が収容可能な船団を維持できるのは、国家規模の組織だぞ」
「まちがいなく街道を通ったはずだ。やぐらの連中は何をしていたんだ」
黒い森を迂回するように、半島の海岸線を沿って二本の街道が走る。やぐらとは、森の尽きるあたりに立てられた監視塔のことだ。
ブラウン・ハットの長官は、再び書面に目を落とした。
「定期の乗合馬車と荷馬車以外の通行は確認されていません」
「不審な通行者へ誰何を与える権利すらない仕事だ。居眠りでもして、見過ごしたんだろう。伝統の機能不全というやつだ」
険しい表情のスリッドが、吐き捨てるように言う。
しかし、一万近くの人間が通り過ぎるのに気づかないなんてことが、はたしてありえるだろうか。単なる見落としでないとすれば、考えられる可能性は二つ。昼なお暗く下生えの複雑に生い茂る魔物の巣、黒い森を踏破したか――
あるいは、黒い森と市国をむすぶ中間地点へ一万という人間が突然、虚空から出現したかである。
極めて空想的なこの考えを口にすることは、はばかられた。心のどこかで己の直感を信じていたにも関わらず、スリッドが醸成する理性の空気にぼくは発言を制止されたのだった。
「うちの若いのがひとり、帰ってこねえ」
腕組みをしたまま、体技科長が低くつぶやく。
「どうにもイヤな予感がする」
さざ波が凪いだ水面へと還るように、場が静まる。スリッドの見解はおくとして、体技科長は会議で長々と発言をするタイプではない。人は言葉の中にではなく行動の中にある、という格言を地のまま体現するメンターだ。ゆえに、その発言はいつも重い意味をもって皆に受けとめられる。
「体技科から要請する。市国民の避難に備え、船舶の徴発を検討いただきたい」
「その動議、支持するで」
老人性のなにかにぷるぷるとふるえる挙手は、なんと史学科長のものだ。干したように小さな顔へ刻まれた皺と垂れたまぶたは、その表情を読むことを極めて難しくしている。レジュメを読みあげる以外の声をはじめて聞いたぞ。目をまん丸くしたキブが、ぼくのほうを見る。どうやら、同じ感想らしい。
「行政庁の職員も、状況が明らかになるまで学園へ退避させたほうがええな。あの老朽化した文化遺産では、用心が悪すぎるわ」
「異議ありッ!」
スリッドが裂帛の気合いとともに手を挙げる。ほとんど剣術や格闘技のようだ。
「一時的にせよ、商家や漁夫から生活の具を取り上げ、かつ、暮らしと直結する行政の任を空席にせよという軽々の提案には耳を疑うばかりである。政策の決定にあって、まず主観的な憶測や怯懦に流されてはならぬことは、私ぐらいがご指導申しあげるまでもなかろう。流民とやらの正体を確認することがまず先決ではないか」
正論だ。しかし、学園長をはじめとする首脳陣が、知りえた情報をいますべてここに開示しているだろうか。学園の意志決定は事実上、学科長会議においてしか行われず、この会議はあまりに公正に誰へとも開かれすぎている。推測や憶測が排除され、言葉にできぬ経験則よりも客観的な事実が優先される。それは知的に極めて正しい場所のように思えるが――
「学園長はどうお考えなのか、我々にお聞かせいただきたい」
我々、という言葉で発言が無い者たちをすべて自分の側に引き入れ、彼と我という明確な対立軸を仮想する。それがスリッドの戦術だ。しかし、会議室では誰も死なない。勝利だけが強調され、敗北は無化される。
「こうして臨時の会議にお集まりいただいたことが、ご質問へのお答えになるかと思います」
やんわりと学園長がいなす。この白髭の老人は、いつも婉曲的な表現を駆使して言質を与えない。
スリッドが絶叫する。
「『学園長は国王』ですかッ!」
使い古された慣用句だ。ブラウン・ハットが政策を実行する段階での問題点や新たな施策のほとんどは、まず学園の政治学科に原案の作成が依頼される。学科長会議での可決をもって、その政策は行政官が運用する実体としてブラウン・ハットへ渡る。そして、学科長会議の決裁権は学園長が持つ。
つまり、学科長会議が学園長の諮問機関という位置づけである以上、理論上は学園長がペルガナ市国のすべてを独裁的に差配することが可能なのだ。現実は迅速な決定からはほど遠いのだが、戒めというより、意にそまぬ案件への攻撃としてよく用いられる表現だ。
「私の提案を、体技科と史学科からの動議に対する修正案として提示する。国王が決裁なさる前に、我々の民意を汲むべく採決をいただきたい」
困りはてた議長が、学園長とスリッドの顔を交互にながめる。体技科長は腕組みをしたまま、じっと動かない。
しばらく沈黙が続いたあと、学園長がゆっくりと口を開いた。
「メンター・スリッドの修正案を承認します。議事を進行してください」
ざわめきの中、紙片が配られる。メンターたちは肘でつつきあい、どちらに票を入れたものか低い声で話しあっている。スリッドは腕を組んだまま傲然と胸をそらし、周囲が彼に向けるさまざまなささやきを受け止めている。大したヤツだ。
紙片を受けとるとき、体技科長がぼくをじっと見つめているのがわかった。ぼくを非難するようなものが視線に込められている気がして、思わず目をそらしてしまう。
たぶん、体技科長とぼくの抱える疑念は、お互いにかなり近いものだ。しかし、提示された動議への賛意を示すためにぼくが言える言葉は、あまりにもこの議場では荒唐無稽に響いてしまうに違いない。
無限へとつながる少女と、神出鬼没の異形たち。
そして、学園へ向けて南下する正体不明の群れ。
わずか数票の差でスリッドの修正案が可決される。状況が明確になり次第、次の会議が招集される旨が告げられ、散会となった。
誰もスリッドを責められまい。そのときの彼は、論理的には完全に正しかったのだから。
体技科の若いメンターが重傷を負って帰還し、まるで時を追って増え続けたかのように、報告される流民の数は二万を越えた。
再び招集された学科長会議の資料において、流民たちの特徴は次のように記述された。
「赤い髪、青い眼、尖った耳、そして大きく造作された顔のパーツは、まるで人を戯画するようである。そして、個体間の見分けが困難なほど似かよっている。近隣の諸国で同一の特徴を持った人種を発見することはできない」
この会議で、スリッドの発言はなかった。
ペルガナ学園は、二日間を完全に空費したのである。