ブラックジャック劇場版
すべてがスーパーフラットな本邦において、才覚や能力で衆に秀でた誰かが己の上に立つことは、許しがたい恥辱である。つまり血筋や世襲という方法は、他者への嫉妬が深く根ざした文化の、消去法による選択なのだ。しかしながら、アニメや漫画という新しい創作にまでそれが適用されるとき、そこにはある種の滑稽さがにじまざるをえない。もしかすると、宮崎や手塚は遠くない未来、市川や尾上と同じように扱われるのかも知れぬ。だが、己の子でさえ己の個とは似つかない。遺伝子を残す代わりに作品を残すのが、作ることの本質ではなかったのか。私にとってのブラックジャックは出崎統しかないことを、改めてここに宣言しておく。
月: 2011年4月
デュー・デート
デュー・デート
「論理的である」というのは現代人にとっての陥穽だ。数式や定理ではないそれは、万人に通じるという前提を持たないにも関わらず、有効性を疑われない状態に置かれている。論理性とは、個人の解釈に世界を矮小化するための筋道に過ぎず、物語化された後の世界が第三者に対して常に意味を為すわけではない。究極的に論理と宗教とは同義であり、それゆえ人間が二人いれば、この世に新たな教義が顕現する可能性がある。その特殊性こそが、人と人との関係性として、人生へ新たな意味付けを行うのだ。小生はそろそろ、頼みにならない相棒しかいないこのインターネットから抜け出し、現実のファック野郎とトレイラーでアメリカを横断したい。
ベリード
ベリード
小生の少なくはない映画視聴歴において発見した法則に、「低予算映画はバッドエンド」が挙げられる。1つ目の仮説は、設定と脚本へ大きく依拠せざるを得ない宿命が、視聴者をあざむく方向へとそれらを複雑化させるからというもの。2つ目の仮説は、低予算しか与えられない監督が新人である可能性は高く、その若さが本邦で言うところの中二病に由来する後味の悪い幕引きを求めるからというもの。今作がいずれに該当したかはわからないが、高めに高めた息苦しさの後、多くの視聴者が求めるだろうカタルシスをあえて外した結末に、ひどく低予算映画を感じた。90分の閉塞が視聴者にもたらしている感情をなぜ利用しないんだろう。ミステリ的な脚本の収まりや現実への批判を含ませたい意図はわかる。でも、生理的解放感という単純さを嫌ったというだけの理由なら、もったいないなあ。
マチェーテ
マチェーテ
なぜ本邦では武力蜂起や革命が起きないかと申せば、やはり打倒すべき悪が明確ではないことが上げられましょう。本邦において悪の概念にもっとも近いのは、近視眼的な責任回避や生への倦怠から来る不作為に端を発した、善の不在なのです。じっさい近年、大局として求められる悪を積極的に行使するだれかはいませんでした。しかしながら、善の不在も長く続けば、それは悪へと変質する瞬間を持ちます。そのとき本邦に登場するマチェーテは、閾値を超えた連中の生き血に染まる、鉈(なた)という名前のセーラー服少女に間違いありません。彼女はあらゆる男性から理由なく好意を寄せられますが、行為に及ぼうとする者はすべて死にます。深夜アニメで制作された後、似ても似つかぬ新人アイドルで実写化され、封切り一ヶ月ほどでこのキャラクターには完全なる国民的忘却が与えられるでしょう。そして、その新人アイドルがアダルトビデオに出演するときに、ほんの少しだけ思い出されるでしょう。こうして、武力蜂起と革命の気概は若者の胸から、ごく小さな体積で莫大な吸収率を誇るサブカルという名のポリマーへことごとくに吸い取られ、結果、この世の悪は保持されるでしょう。諸君、これが文化の差と呼ばれるものだ。
ドラゴンエイジ・オリジンズ
ドラゴンエイジ・オリジンズ
ぼくは、例えばファイナルファンタジーが、ぼくとともに成長してくれなかったことをどこかで恨みに思ってきた。本邦のおたく産業は、いずれ誰もがそこから離れることを前提とした若さと未熟さを輪廻する文化であり、大人になったぼくはいつまでも離れられないことを恥じてうつむきながら、それを再確認し続けてきた。じっさい、おたくだったぼくはずっと、たぶんつい最近まで、三十歳から先は無いもののように感じていた。なぜって、ぼくのいる場所では、どこにもそれは描かれていなかったから。けれど、世界との処し方において、人の成長はどこまでも続いていくことをやがて知る。確かに、荒い作りのゲームだ。システムの根幹に気がついてしまえば、いずれ変わらぬ一本道RPGには違いない。キャラ造形にしたって、いずれ同じトラウマ劇じゃないかと言われれば、全くその通りだ。でも、どのキャラも人くさく歪んでるのに、そのくせ、その歪みを誰かのせいにしないほど成熟している。そう、すべての成熟が、ついにぼくをうつむかせなかった。争いや信仰や愛憎や生殺は終わることがなく、世界の破滅という大きな題目を前にしてさえ、誰もがじぶんの小さな安寧を捨てられるわけじゃない。「グレイ・ウォーデンはその無私により、あらゆる種族から人間の存亡をかけた信頼を付託される」。無私の奉仕だけが救済を可能にするという揺るぎない事実。己の生命よりも長く続く何かに寄与できることの尊さ。失われたと思っていたあの系譜が、こうあって欲しいと願ったあの物語が、異国の地で接木され、生き延びているのをぼくは見た。この若い文化さえ成熟できるということ、そして、誰かの成長に寄り添う物語を生んだということに、ぼくは深い感謝を捧げたい。