朝日のあたる家
虫の知らせか、最近なんとなく読み返していた。あの頃に感じた気持ちは、未だぼくを裏切らなかった。もちろん、3巻までの話をしているよ。
月: 2009年5月
訃報に接して
ぼくにとって太宰治のような、一時期の熱狂がそのまま羞恥ゆえの憎しみに転じ、紐で縛って押入れの奥に放りこんでしまう類の作家だった。放りこむ先が廃品回収や古本屋ではないところが複雑なのだ。創造を生業にする誰かに対する最大の賛辞は、「早く死んで欲しい」だとする文章を読んだことがある。大いに首肯したものだ。己が七転八倒しながら生み出した何かを軽々と飛び越えられる、あるいは己にしかわからない深いところで死ぬほど打ちのめされる、そんな経験をもうさせられなくて済むからだ。欝と加齢とアルコールで短期記憶と長期記憶の連絡が麻痺しているので、きっとすぐにすべて曖昧になってしまうに違いない。だから、いまの気持ちを書きとめておく。
ぼくは、ショックを受け、悲しみ、そして安堵した。
マンデラの名もなき看守
マンデラの名もなき看守
ネルソン・マンデラが初めて映画化を許諾したというふれこみに、ドキドキしながら視聴を開始したのであるが、結論を申すならば小生の彼への評価が下がった。無論、元・名誉白人で政治嫌いの一おたくが極東で何を感じ何を放言しようとも、南アの英雄にとっていかなる痛痒もないことは言うまでもない。あと、シーン末尾の切り方がヘンだなあ、と思った。
小鳥猊下自由連想のようす
生存報告として、合意を伴わない公での性交や出産を伴わない生命の経膣などを主眼としたゲームが毛を伴う唐の国家で問題視されている件について、自由連想法的にお届けしようかな。時間がありません。推敲はありません。申し訳ありません。
合意を伴わない公での性交という欲望は、人類が知恵を手に入れる前に持っていた、メスをおさえてすぐにしないと逃げられて、逃げられるとオスもメスも遺伝子残せないっていう、動物の古い慣習的な欲望なので、いつまでも顔を出してぬぐいさるのが難しいんだろうなあ。出産を伴わない生命の経膣という欲望は近代が男性に要求した新しい義務に対する反動なんだろうなあ。しんどいもんなあ、一瞬で果たせない責任や義務って、すごくしんどいよなあ。昨日と一週間前と一年前と十年前に連続性があるって前提、すごくしんどいよなあ。たくさんの承認を得てしまうと人類の存続が難しくなったり、滅亡にまで続くような個人の欲求っていくつかあって、反社会的とか禁忌とか名前をつけられるんだろうけど、反社会的とか禁忌とかの類があとからあとからカテゴリを追加され続けて、それで大本の理由が薄まってしまって、忘れられてしまって、なんでこんなやっちゃいけないことばかりなだろう、しんどいよなあってとこへインターネットがやってきて、反社会と禁忌を大量生産する既存メディアを旧弊だってあげつらって、うっかりうまくいって反動的に承認形成装置として機能してしまって、あらゆる欲望が許容される巨大なるつぼになってしまって、何言ってんだよ、本当はぜんぶだいじょうぶだろ?みたいな。絶妙のタイミングだったよなあ。でもさあ、人類が存続してきたからこそ、その連続の先にある今日の文化を楽しめるのであって、楽しんでいる以上は人類の存続を消極的にでも求めるべきじゃないのかなあ。現在の最突端からは少しだけ遅れて何か言うことを生業にする人が複雑にして、複雑にしたから当人をいれて何人かにしか届かなくなってて、そんな届かない啓蒙より届く陰茎をさわるほうが気持ちいいになってるので、人間を1人作るのに人間が2人必要だから、2人が2人を作れば人類は存続し、2人が1人を作れば人類は半減し、2人が0人を作れば人類は滅亡するという単純さへ回帰するべきなんじゃないかなあ。でもこの理屈で言えば、0人を作り、人類から楽しみを搾取し、死を選択する予定がない誰かというのは、人間なるものに対する最悪の背信行為を行っているということになるなあ。こいつ、連想のくせに俺を追い詰めて死にたくさせるなあ。あと、某福音アニメで「使徒は知恵を身につけはじめています」「残された時間はあとわずか、ということか」だったかの台詞が最近、妙にひっかかってて、何でだろうって考えてて、あれは自分がクズであることに気づいている親が小さい子どもから、子どもの知恵の無さを利用する形でクズであることを隠していて、そうして子どもが成長していろいろ分別がつきだして、もしかしてうちの親ってクズなんじゃないの?と気づきはじめていることを見て親が恐れている場面を想像させるからかなあ。子どもをあれしてしまう親って、そんな恐怖に耐えられなくなってするのかしら。どうなのかしら。また冒頭に戻るけど、表現の自由ってみんな言うけど、もう表現は圧倒的に自由で、そのおかげをこうむって手で配布するより大勢に猥褻まみれ不道徳まみれのnWoを見てもらってるんだけど、表現の自由って聞くとカネもらわずにやってると、うんこを金銭売買する自由を守ってよって聞こえるなあ。ステーキは売っていいけど、うんこは売っちゃいけないよなあ。口から入ったステーキが内臓を通ってうんこへ変わるどの過程までを売っていいのかってことなのかしらん。いや、これってむしろ、ただのひがみだよなあ。
とりあえず、日々こんなうわごとのような妄想に包まれながら、怠惰な性根の許す限りの懸命さで生きてます。
イントゥ・ザ・ワイルド
イントゥ・ザ・ワイルド
世の中の真理は実のところ簡単な標語のようなものだが、そこへ血肉の実感を通わせるためには死に近い場所をくぐりぬける必要がある。この映画には頭でっかちな我々が、現代をたいらげるための皮肉な処方箋が描かれているのだ。つまり、「家族を大切にしよう」。