猫を起こさないように
年: <span>2006年</span>
年: 2006年

小鳥猊下・リハビリテーション

 変則的な夏期休暇に縦縞のステテコ一丁で乳首から生えた、率直に形容して“陰毛”しか当てはまる語彙を人類は持たない毛を引きつねじりつして過ごす、平和の負の部分をビジュアル的に余すところなく体現したあの気だるい午後、赤と青のまだらタイツ男が帰還する例の活劇を見に出かけた。非常に繊細で隅々まで配慮されたシナリオに、タイツ男の抱える深い葛藤を改めて痛感させられる結果となった。断定せぬ曖昧な姿勢と、状況の限定による本質の回避が活劇全体の基調となり、見る者は否応なくタイツ男の苦悩をそのまま彼が体現する某国家の苦悩へと読み替える見方を強要されてゆく。某国家であることは確かながら、具体的にどこなのかを特定させない違和感に満ちた街並みに、この活劇があの二つのビルの倒壊する前なのか後なのかさえ、はっきりと言うことができない。懐かしい敵役の「ローマ帝国は道、大英帝国は船、アメリカは核爆弾……」という長口上は、三段階目の論理飛躍にひやりとした瞬間、最後の台詞の尺を短縮することでやんわりと収束する。致命的な部分に踏み込めないのだ。タイツ男は迫り来る大小の厄災を次から次へ食い止めるのみで、例えその元凶が手の届く範囲にいようとも、先制攻撃を行うことを禁じられている。悪漢たちがどんなに殴り蹴ろうとも、決してタイツ男は自ら拳をふりあげることはしない。あまりにも明快な暗示。かつての声高なポリシー、”American way”は”Put it in a right direction.”と控えめに換言され、劇中の少年との関係はすべてほのめかしに終始し、一語すら“その事実”が明示されることはない。契約の国の言葉はいかにささいな内容であれ、我々が思う以上に誓約し束縛するからか。いや、まだ弱い。結婚を前提とせぬ男女の婚姻に対する宗教的嫌悪に配慮しているのだ。なんというデリケートさだろう! そして、「紛争やテロが各地で頻発するこの時代に、たった一個のスーパーパワーの存在が意味を持つことができるのか?」という必然の問いには、物語上の技巧を駆使して限定付きの回答がかろうじて与えられる。タイツ男が体現するものに想像を及ばせれば、回答は「意味がある」以外にあり得ないのは自明である。その“正答”を肯定するために「誰一人として死なせない」、「ただし、彼の能力にできる範囲で」という大前提の下に、すべての災害は意図的にプログラムされる。押し寄せる高波、地の奥底から響く鳴動、しかしそれは観客の心拍数を高めるための小道具に過ぎない。我々はすでに現実に数多くの破滅を見てきてしまっている。我々が見てきたようには、大地は裂けもしなければ盛り上がりもせず、ビルは倒壊にほど遠い地点で窓ガラスを控えめに割るのみである。タイツ男は落下する看板を受けとめ、ただ一箇所から迫り来る炎を吹き消す。それだけで決定的な破局は尻すぼみに収束する。回答が与えられる。タイツ男は世界に必要だと。無論、良心的な観客からの喝采は得られない。しかし、今作における最大の回避はそこではない。「現在この世界で、いったい誰と戦うのか?」という当然の帰結に対するものである。タイツ男は体現し、象徴している。だからこそ彼は、円月刀の刺突を大胸筋でねじ曲げて、大量のプルトニウムを地下貯蔵するモスクを岩盤ごと宇宙空間に放り投げてしまうことは、暗黙の要請から許されないのだ。彼の敵が“旧作から引き継がれたSF的設定”となったのも、シナリオを吟味し尽くした上の結果ではなく、徹底的に選択肢を奪われた末の残骸であるに過ぎない。自らが体現するものの中身から、戦う相手を指名することの許されぬ永遠のチャンピオンは虚構の中でのみ安心してピンチを味わい、その全能のパワーを行使することができる。もし万が一、次回作が制作されるとするなら、私の興味の焦点は一つしかない。
 「いったい、この世界で誰を“敵”と名指しするのか?」

 余談だが、某監督の息子が制作した某戦記も見た。婉曲表現を許して欲しいが、私はピュアウォーター某のナニもアレしたいほどの原理主義者なので、自分語りだけにとどまることのできる外殻のみを書く。この活劇の中で発生する感情はすべて言葉によってトリガーされている。心の一番深い部分の動きが、行為や体験によってでなく、言葉によって引き起こされている。私もそうだ。そこに共感した。より正確に言えば、同じ病の患者が持つ憐れみ、負の連帯を感じたのだ。「重要な場面が人物の台詞だけで展開する」、「言葉じゃなくて主人公の行動で説得力を持たせて欲しい」。たぶん、それは私たちの中には無い。

お久しぶり!

ほんの一ヶ月半ほど更新しなかったら、見事なほどマイミクという名付けの他人たちがここを訪れなくなった。現金なものである。慇懃無礼という言葉がこれほど辞書的な定義そのままにぴったりと当てはまる行為も他にあるまい。たまに迷いこむ新規の来訪者には、狂人が下半身を露出して繁みから飛び出すが如く必ず踏み返しをするが、今のは下の毛の「ブッシュ」と奇襲の「アンブッシュ」で韻を踏んだ高度なギャグだが、誰ひとり私に話しかけようとすらしない。これだけ娯楽のあふれる中でnWoにのみ執着を与え続けるのも逆に奇妙と言えるかもしれないな、などと発言することで久しぶりの日記更新におずおずと薄ら笑顔でやってきた諸君の罪悪感をのぞいてやろうという気持ちは、残念ながら毛頭無い。先ほどのブッシュつながりからこの毛頭は陰毛の先端部と解釈するのが妥当と思われるが、私は相対化された愛情などいらないのだ。最近、全く虚仮にされることが多い。この場所の存在意義をそのまま否定するような土足で一方的に上がり込んで声かけすら無い不躾なやり方、契約の不履行に対する異議申し立てにほんの事務的な返答すら無い軽視に満ちたやり方、通り過ぎる者の一時的な関心だけを引きながらいないもののように扱われる、まるで私は見せ物小屋の檻の中の奇形のようだ。実のところ次回更新も完成しているが、アップロードする気になれないのは、際限の無い底なし沼へ投棄することへの空しさが何より大きい。苦しみの無い場所で安閑と読む物語は、例えその物語がどのようなものであれ、ハッピーエンドにしかなりえないのではないかという気が、最近はする。インターネットに耽溺できる君や私は、生き物として全く不幸どころではない。どれだけ不幸を描いても、ここではすべてが幸福のうちに受け止められる。現在の私の気持ちを端的に言うとするなら、「あまりに反応が無いので強く後頭部から殴ったら、その場に倒れ伏して動かなくなってしまった」誰かを見るときの青ざめた感じである。決して刃物で刺したつもりはなかったということだけ、最後に付け加えておく。

いよいよ一日の来訪者が100を切った。これが50を切れば私は長年(といっても七年程度だが)胸に秘めていたことを実行に移したい。もっとも、それが引き起こす結果はおそらく君の人生を少しも揺るがすようではないだろうと確信できるのだが。

One more final

 二階から数時間ほど聞こえてきていたかすかなうめき声が途絶える。
 テレビを消してソファから立ち上がると、洗面所に向かった。
 ぼくは手を洗うのが好きだ。清潔な泡に汚れが溶けてゆくのを見ると、その当たり前の正しさにいつだって胸がつまるような思いになる。
 流れ出る水に両手をこすりあわせながら、なぜかずっと昔に読んだ漫画の一場面が浮かんだ。
 自分の両手に血がこびりついている幻影から逃れられず、真夜中にひとり手を洗い続けるボクサーの話。なぜその男は両手を洗い続けていたのだったか。
 理由を思い出す前に、ぼくの両手はすっかりきれいになった。
 窓から差し込む陽光に手のひらを透かしてみる。
 昔、祖母がぼくの手をとって、苦労の無いきれいな手だと言ったことがあった。
 ゆっくりと両手に顔を近づけてみるが、ただ石鹸の香りがするばかりだった。
 久しぶりに玄関の扉を開いて、外に出る。
 目映いばかりの陽光に、ぼくは一瞬世界の上下が無くなったような錯覚を覚える。
 しかし目が慣れてしまえば、微睡むような昼間の住宅街が広がっているばかりだった。
 門扉に身体をあずけ、誰かが通り過ぎるのを待つ。
 しばらくして、よく太った婦人が痩せた犬を散歩させて来るのが見えた。ぼくはとびきり大きな声で婦人に挨拶をする。
 婦人は驚いたような、奇妙なものを見るような空白の後、作り笑顔で会釈をする。ぼくの噂はきっと界隈に知れわたっているに違いない。
 足早に通り過ぎようとするところへ、さらに他愛のない話題を投げかけて引きとめる。
 居心地の悪そうな表情をして早くこの場を離れたがっていることがわかったが、ぼくはことさらにもったいつけて話を長引かせた。
 ぼくの話が途切れるのに、ほっとした様子で立ち去る後ろ姿を見送りながら、あの婦人はこれから何度も今日の会話を誰かに吹聴することになるに違いないと思った。繰り返すうちに勘所をつかみ、彼女の話術が次第に長けてゆく様を想像すると、自然と微笑みがこぼれる。
 ここ数日分の新聞や広告を取り出そうと、中身に押されて蓋の浮いた郵便受けを開けた。
 足元に政党の広報誌や町内誌が散らばる。かがみこんで、そこに白い封筒がまじっているのに気がつく。
 切手は貼られておらず、表書きにぼくの名前だけが書かれている。動悸が速まるのを感じながら、封を切る。
 古風にも青いインクで手書きされた二枚の便箋が入っていた。
 「私の作り出してきたものが所属する文化は、精神の死を前提としていない。だが、肉体は死ぬ。君の苦しみの正体はそこにある。だから、死を選ぶことは間違いではない。死を生涯の前提としない文化に所属する以上、いつどこで精神を終えるかを選択することは、全く個人の決断によっている。肉体の死と精神の死が乖離している以上、生物としての終焉を君自身に追いつかせることは、醜悪な結末を見ることになるだろう。我々では、肉体的な死を許容する精神の在り方を完成させることができないからだ。少なくとも私には方法を見つけ出すことができなかった。君ならできると思うわけでもない。しかし、可能性は常に残されている。決断を下す前に、君はまず考えるべきだ。
  私は、私以外の思考がこの世に存在することをただ許せなかった」
 差出人の名前はどこにも書いていなかった。
 懺悔の聴聞僧の条件は、告白の相手と最も遠くにいること、そしてうなずきをしか知らないこと。
 ぼくは泣き笑いのように顔を歪めるが、それは手紙に書かれている文字を滲ませるには至らなかった。
 便箋を丸めて、庭の灌木へ向けて投げる。それは湿った日陰の土の上に落ちた。
 「――」
 家の中へ戻ろうとして、名前を呼ばれるのを聞いたように思った。
 振り返っても誰もいない。
 しかし、今度は確かに聞こえた。
 段差に足をとられて片方のサンダルがぬげたが、ぼくは構わず通りへ飛び出した。
 辺りを見回しても、真昼の住宅街に人気はない。
 「――」
 また。
 ぼくは声のする方へ身体を向ける。
 はたして、そこにあるのはぼくの家だった。
 玄関の扉が、内側からゆっくりと開いていく――
 姿を現したのは、母だった。
 こみあげる恍惚に耐えるように瞳は潤み、頬は薄く紅潮している。その姿は若々しく、ただ輝くばかりに美しかった。
 脳の裏側に刺さるかすかな違和感。
 絵の具のような質感で塗られた彼女の肌はまるで――ではないか。
 瞬間、目の前を光の粒子の群れがよぎった。ぼくはよろめくように数歩後退する。
 砂嵐のようなそのノイズがやがて視界から消えると、後頭部にあった棘のような違和感は完全に消失した。
 長くぼくの頭蓋を占め、人生そのものと同義になっていた綿のような苦痛は無くなっていた。
 全身が脱力するようにゆるみ、これまで経験したことのない多幸感に圧倒され、目頭が熱くなる。
 グラマラスな姿態を蠱惑的に揺らしながら、母がぼくに歩み寄ってくるのが見えた。
 そのとき、水面に急浮上するダイバーのような唐突さで、なぜか”現実感”という単語がぼくの認識を乱した。
 しかしそれは刹那のうちに消え、心は元のように凪いだ水面を取り戻す。
 これ以上ないほど優しい仕草で、母がぼくの肩に手を回す。その指先から全身に温もりが広がって、胸の内は喜びに満ちる。美しい母と仲良く寄り添うぼくの姿を、誰かに見て欲しかった。いまや何の言葉も必要なくぼくは認められ、愛されていた。
 ずっと何を勘違いしていたんだろう。まるで青い鳥の逸話のようだ。待ち望んでいた幸福は、ぼくが気がつかなかっただけですぐそばにあったのだ。
 明日からは何をしよう。ああ、明日が待ち遠しい! 明日のことを考えるだけで胸がわくわくする。この感覚こそが、自由な人間の喜びなのだ。
 そうだ。子どもの頃、毎夜布団に入る前はいつもこんな喜びに満ちていた。ずいぶんと長い間、ぼくは人としての喜びを忘れていた。しかし、これから時間はたくさんある。これまでの不幸を取り返す時間はいくらでもある。
 最愛の人に肩を抱かれて期待と希望に胸をおどらせながら、ぼくは背後に扉の閉まる音を聞いたのだった。  <了>

反省して、曰く

前回は酔っぱらってお見苦しいところを見せてしまった。反省している。正直、放置されてばかりで辛いのだ。誰かが「攻撃されている」と感じるような文章ばかり書かなければいいのだろうが、誰も攻撃されていると感じないような文章など書きたくない。私は孤独を選ぼう。

さて、高天原の最終話その2を更新した。これで一応の完結と思って頂きたい。物語の語り手にだけ限って言えば、今回の更新はハッピーエンドと読むこともできよう。結局はおたく的なやり方を肯定するしか、この世界でハッピーになる手段は無いのではないかと思う。もちろんこれは現在の気分なので、今後の永続的な結論では当然無い。諸君のご意見をお待ちするところである。充分に今回の苦労に見合うだけの感想が得られたと感じた段階で、予告通り「少女保護特区」に着手したい。これもあとは書くだけというところに来ているが、実際のところそのための時間をどう捻出するかが焦点となろう。諸君からの積極的な助力を期待する。なんとなれば、私のホームページは諸君の愛によって成立しているからである。本気だ。

お気づきのことと思うが、高天原勃津矢と上田保春のシリーズは相補的に読むことが出来る。お試し頂きたい。

酔っぱらって曰く

 シュレッダーの「クズを捨てて下さい」という指示に、「どこにもクズなんていないッ!」と絶叫して落涙するほど不安定な私だが、高天原勃津矢を更新した。勘違いされる向きも多かろうので、あえて言うべきではないことを言う。私は今回の一連の更新でエロゲーを攻撃しているわけでは、決してない。私が抱き続けてきたホームページ運営への虚しさをそのまま記述しては芸が無いので、みなさんがより食いつきやすい題材へその感情を仮託しているだけのことである。エロゲー業界に恨みがあるわけではなく、実際「シナリオを書いてみませんか」とメールをくれた君もいたくらいなので、むしろ彼らからの破格の評価に感謝したいくらいの気持ちなのだ。もっとも、「構想を膨らませて下さい」との指示を最後に、その君からの音信は4年ほど途絶えているのだが!

 さて、高天原勃津矢ですが、これで終わりじゃないぞよ。もうちょっとだけ続くんじゃ。なんとなれば私はこの物語の中にまだ”幸福”を描いていないからである。我利我利亡者の諸君に、次の更新の一部を提示することで、予告とかえたい。
 ”明日からは何をしよう。ああ、明日が待ち遠しい! 明日のことを考えるだけで胸がわくわくする。この感覚こそが、自由な人間の喜びなのだ”
 ショーシャンクの字幕をパクッたみたいだって? バカヤロウ、インスパイアと言いなおせ!

美少女への黙祷(2)

 ”甲虫の牢獄”の発売日から二週間後のあの日、ぼくは電気街の量販店にいた。
 高天原の家を出た後、ぼくは転々と路上生活を続けていた。もちろん、本当の路上生活者のようにというわけではない。ぼくにそんな覚悟があるわけはなかった。コンビニで食料を買い、公園のベンチで荷物を枕に眠る。常に自分が薄汚れているように感じたあの頃とは正反対に、ぼくは自分の清潔さをいやというほど思い知らされた。砂埃にまみれたベンチに身を横たえるのに躊躇し、手の甲を這う蟻に悲鳴を上げて飛び起き、深夜の高架下で酒盛りをする黒いぼろ布たちが優しくぼくを手招きするのに全身が泡立つような嫌悪を感じて逃げ去る。
 理屈はない、ぼくが上等だと思うわけでもない。ぼくの中で感情の選択は常に自動的に行われ、いつだってぼくは意志を持たないかのように、ただそれに身体を従わせるしかなかった。公衆トイレの個室にこもり、水道水に湿したハンカチで身体の汚れをぬぐう。ぼくが関わりたかった現実とはこれのことではないと思いながら。
 雨戸を閉め切り、ブラインドを下ろし、モニターの明滅だけが光源の牢獄で、ぼくは自分からそうしているなんて気持ちはまるでなくて、いつも誰かがぼくを閉じこめているのだと感じてきた。そして、ずっと現実と関わりたいと思い続けてきたはずだった。現実とは観念のことであり、最大公約数の側の観念に同化できさえすれば、その事実はぼくを救うはずだった。誰に教えてもらうまでもなく、解答はわかっていた。
 個人の観念ではない現実が存在するのか。きっとぼくはあのとき、それを高天原の中に見たのだ。しかし、彼はぼくを去った。それを考えると、なぜか涙がこぼれる。高天原との生活を失ったぼくに、もう戻る以外の方法は残されていない。それはわかっていた。みんなが、両親がぼくを馬鹿のように扱うのとは別に、いつだって何でもわかっていた。ただ、行動できなかっただけ。
 ぼくは戻ることをいつまでも先延ばしにしていたかった。なぜってあの牢獄に戻れば、高天原がぼくを迎えに来たいと気持ちを変えても、ぼくを見つけることができないではないか。しかし、そのはかない希望は日々に薄れた。黒いぼろ布たちの手招きに含まれる優しさと、その理由に壊された。
 ぼくの足が電気街の量販店へと向かったのは、高天原の作品をこの目で見ることで彼と過ごした日々が決して虚空に消えたのではなく、何かに結晶するための時間だったのだということを確認したかったからだと思う。
 子どもの頃に読んだ漫画の一ページ、激流が飛翔するような、視覚化された時間の恐怖。
 ぼくに人生を積み上げることはできない。なぜなら、それはあらかじめ過不足なく与えられている。ぼくにできるのは、与えられた人生が秒刻みにほどけてゆく取り返しのつかなさに身悶えること。その取り返しのつかなさにわずかの抵抗を示すために、高天原は時間を作品へと結晶させるのだろう。彼にシナリオを書くことを強制され、ぼくには彼がなぜエロゲーを作り続けるのか理解できたように思えた。最初に出会ったときよりも、彼に近づけたように感じた。この一年間は決して無駄ではなかった。それを確信したくて、ぼくは電気街の量販店へと向かったのだ。例え、曳かれていく子牛が見上げる青空ほどの気休めに過ぎないとしても、あのときのぼくにはその行為が必要だったのだろう。
 案内板に従い、人の密集するエレベーターをなんとなく避ける気持ちになって、階段をつかって三階へ上がる。
 目の前に広がったのは、ひとつの階全体が美少女たちに占拠されている光景だった。
 一枚一枚を取りだしてみると非常に鮮やかで奇抜だが、全体として眺めると逆に没個性的に見えてしまうポスター群で周囲の壁面は埋められていた。ポスターに描かれている美少女たちは、ぼくに向けて穏やかに微笑みかけていた。なぜか元山宵子のことを思い出す。ぼくはあわてて頭の中に浮かんだその映像を振り払った。
 最初、何年ぶりかの人混みに感じた窒息か過呼吸のような胸苦しさは、次第に薄れた。やがてほとんど安逸さえ感じている自分に気づく。その場を往来する人々は、まるでお互いがいないかのように振る舞っていたことが理由だろう。いつもならば誰かがぼくの横を通り過ぎたあとに背後から向けられる意識の破片のようなもの――ぼくのあずかり知らぬ場所で決定され、ごわごわした肌触りでぼくを規定するあの見えない拘束を全く感じないですんだ。ここにいるのは、ぼくと同じ種類の人間ばかりだからなのかもしれない。ひとかたまりになって声高に話し合う一団からさえ、高天原の家で感じたような予期せぬ混沌を孕んではおらず、同一の個人を拡大した複数に過ぎなかった。
 フロアーの中央には、切り出した石塊としてひとつひとつのパッケージを積み上げたピラミッドがそびえていた。しばらくその周囲をぐるぐると回った後で、ぼくは”甲虫の牢獄”を見つけることができた。ゲームの本数と置かれている場所から、ぼくは高天原へ寄せられる暗黙の評価が理解できたような気がした。高天原の家でパッケージの見本を見せられたことはあったが、こうして外で目にするのは奇妙な感覚だった。あるはずのない物が、あるはずのない場所に存在するという違和感が原因だったのだろう。ぼくの中でそれは、あの家の風景や雰囲気と分かちがたく結びついていた。
 ぼくに覚悟を決めさせるのに充分なほど感慨が染み渡るのを待ってから、”甲虫の牢獄”を元の場所へと戻す。目的はすでに果たされており、すぐに立ち去っていいはずだった。結果的に、ぼくの好奇心がぼくをそこへ致命的なほど長く留めてしまったことになる。ぼくは、誰が高天原のエロゲーを購入するのか知りたいと思ったのだ。彼と出会ったことすらない他人が、彼によって結晶化させられた時間に接触し、そしてその事実で高天原を祝福する。ぼくは切実に、その瞬間を見たいと思った。周囲を取り囲む同族たちとのぼくを分けるものがあるとすれば、それは曲がりなりにも高天原と時間を共有したという自負――彼に手を引かれて、世界の真実へとつながる数少ないの道のうちの一つをたどり、その奥にあるものを垣間見たという自負だった。
 あまりにも多くの人間が”甲虫の牢獄”の前をただ通り過ぎてゆく。このピラミッドの裡で、高天原のエロゲーは唯一輝きを放つキーストーンのようにぼくの目には映った。パッケージを一瞥しただけで立ち去る者、何の確認もしないまま無造作にいくつもの箱を積み上げてレジに向かう者、周囲の様子を気にしながらうろうろと歩き回りためらいを露わにする者――ぼくと同様の視力を持つ人間は存外に少ないようだった。しかし、売場に立ちつくす長い無為の時間は、ぼくを失望させなかった。それはむしろ、ぼくの自負と選別の意識をいっそう強める役割を果たしていたように思う。
 やがて、歳月にくすんだ青いリュックサックを背負い、ほとんど黒ずくめの上下に度の強い眼鏡をかけた男が、”甲虫の牢獄”を手に取った。パッケージの絵を眺め、裏面のゲーム内容説明を読むことを幾度か繰り返すと、その男はレジへと向かった。ぼくは緊張と落胆が入り交じったような気持ちで、気づかれないようにその後ろを追いかける。
 男は無言のまま、無造作にパッケージをカウンターへ置く。それを取り上げた店員は、客の顔を見ないまま無表情でレジを打ち、機械的な声音で金額を告げながら購入特典のポスターを商品の入ったビニル袋に挿入した。男は自分が購入しようとしているものに全く興味を残していないといったふうに、何か別のものを探すような仕草で店員の動作から視線を逸らせた。
 ぼくと目が合う。男の顔が何かの感情に歪む。
 かけている眼鏡が外れ、ほとんど床と水平に滑空してゆく。
 次第にその表情は、随意筋が作り出せる範囲を越えた歪みを見せはじめる。
 頬に押し上げられるようにして、男の左の眼球がせり出してきて、ついには眼窩からまるで漫画のように外れて飛び出してゆく。
 いっしょに引っぱり出された視神経が見え、与えられた力学的動きに従って飛び去ろうとする眼球を一瞬間、空中に静止させる。
 さきほど押し上げられてきていた男の頬の皮膚が、このときその張力の限界を迎えて布のように裂ける。
 赤い血の飛沫がわずかに空中へ散る。
 男の身体が後方へ、まるで走り幅跳びの跳躍を逆回しにしたような動きで飛ばされていく。
 同時に、空中で完全な静止状態にあった眼球は、ついに視神経の束縛から解き放たれる。
 それは黒目の部分の移動でゆっくりと回転していることを示しながら、レジ正面の商品棚に並べられた雑誌に描かれている美少女にぶつかり、その胸の谷間を汚した。
 この一連の様子を、ぼくはまるでビデオのコマ送りのように認識する。
 脳の中心で何かが炸裂した。
 そう感じた瞬間、重力は消失し、ぼくの両足は床から浮き上がる。
 天井と床を幾度か交互に見たと思うと、背中に強い衝撃を受ける。
 静止する視界。物理法則は取り戻され、ぼくは地球へと墜落する。
 肺から空気がすべて絞り出され、吸い込もうとする努力を背中の痛みが妨げる。
 混乱した意識の中で身体の前面に触れているのが床なのか壁なのか、全くわからない。
 その滑らかな平面を両手で押し返そうとするが、わずかの力を込めることもかなわない。
 そこですべてが暗転し、ぼくは自失した。
 鼓膜をやられていたのかもしれない。
 ぼくが再び目を覚ましたのは周囲の騒動というよりも、耐え難い熱気が理由だった。
 うつぶせから身を返して息をすると、灼けるような熱さが流れ込んできてむせかえる。天井は黒い羽虫のような動きで満ちている。背中の痛みに耐えながら上半身を起こすと、そこには果たしてゆらめく真っ赤な柱がそびえていた。その柱はうねるように天井へ向けて上ってゆき、その頂点で黒い羽虫を吐き出し続けている。
 まばたきを二回した後、それが炎であることがわかった。エロゲーを積み上げた、あのピラミッドが炎上しているのだった。
 炎は天井をなめ、床を這って、みるみる壁面へとのりうつってゆく。
 壁面のポスターに描かれた美少女たちの顔は、笑顔から泣き笑いへ、泣き笑いから黒いあばたを生じ、そして最後に嫉妬の赤い炎を吹いて、別のポスターの美少女へと浸食してゆく。
 熱気に宙を舞う、美少女の裸体、愉悦の表情。肉と人格を汚されるために作り出された究極の奴隷である彼女たちが、自らの存在の消滅に対して見せる、心からの快楽の乱舞。
 ぼくは両足に力を込めて、歩けることを確認する。
 炎の柱の中に未だ燃え残り、哀願の表情を浮かべる美少女キャラたちは、自分たちが本当は何をされているのか、死ぬに及んでなお気づくことのできない無数の白痴だ。心を剥奪された彼女たちには、自分を憐れむことすら許されてはいない。
 なぜか高天原の言葉が思い浮かんだ。この世で最も重い罪は、赤ん坊の信頼を裏切ることだと。ぼくは彼女たちを見ないようにしながら、この地獄から逃げ出すための出口を探した。
 非常口へと続く床には白痴の性を、赤ん坊の生を買春するためにやってきた無数の人買いたちの肉の残骸が累々と続いていた。名状しがたい感情に促され、ぼくはそれらを意識的に踏みつけ、蹴散らしながら進む。煙に咳き込み、涙と鼻水を流して、ぼくは「死ね! みんな死ね!」と絶叫した。これまでのようではなく、心と言葉は完全に一致していた。祖父の死と全く違う死を、ぼくは彼らの上に望んだ。その言葉によって世界の全員が本当に死に絶えたとしても、全く後悔を感じなかったはずだ。
 足下に抵抗を感じたと思った次の瞬間、足ばらいを喰わされた格好で、ぼくは肉の中へ頭から倒れ込んだ。べっとりと顔についた液体を手のひらでぬぐいとる。立ち上がろうとしてかなわず、背後へ目をやると、顔の左半分が真っ黒く焼けただれた太ったおたくが、ぼくの足をつかんでいた。そのおたくは残された右半分の顔で、泣き笑いのような温情を乞う表情を浮かべていた。
 ぼくの人生の中で視界がくらむような、他人に対する本当の怒りを感じたのはこのときが初めてだった。つかまれていない方の足を振り上げると、小太りの男の顔面の右半分を力任せに蹴りつけた。おたくは、ひゅう、と呼吸音ともつかないような細い悲鳴を上げた。その悲鳴に怒りをあおりたてられて、ぼくは何度も何度も繰り返しおたくの顔面を蹴りつける。だが、そのおたくは、万力のような決死の力でつかんだ足を離そうとしない。
 ぼくはもう完全に我を失った怒りで、その手首を蹴りつけた。渾身の力を込めた三度目の蹴りで、木の枝が折れるような感触が伝わる。そのおたくはたまらず手首を押さえてもんどりうって、ぼくは解放された。
 そこに至ってまだ、ぼくの中の怒りは燃えさかっていた。Tシャツとジーンズの間から、白い腹がのぞいている。ぼくは全体重を込めた踵で、その白い腹を踏みつけた。そのおたくの口から、鮮血と胃の内容物が入り混じった液体が、瞬間おどろくほど高く噴射する。両目を見開き、両手両足を真上に伸ばしてぶるぶると痙攣し、そして、ぐったりと四肢を投げ出した。
 ぼくは動かなくなったおたくを見て獣のように絶叫しながら、非常口へと突進する。
 誰かを殺してしまったかもしれないことを恐れたわけではない。相手の生死は気にならなかった。その肉が生命を伴っていようがいまいが、この炎の平等さはその内側にすべてを消滅させるだろう。自分の中に生まれた初めての激情が急速に冷えてゆくのが実感されたから、絶叫したのだ。右手を大きく伸ばし、遠のいていくその感覚を実際につかまえることができると信じているかのように、ぼくは追いかけた。
 人の死さえ、ぼくに影響を与えないのか! 人を殺してさえ、この心は何も無かったように復元するのか! ぼくはこの世界の中で、自分の死以外のすべてを全く重要だと感じていないのか!
 ぼくは叫びながら涙を流した。底の知れない人の孤独へ絶望して泣いたのだと思っていたが、その絶望はすぐに自分自身への愛情とあのおたくへの疑う余地のない嫌悪感に上書きされた。自分の生を求めて階段を駆け下りるうち、ぼくが関わった一人のおたくの死は、多くのおたくの死を道連れにして、完全にぼくの内側で無化された。
 店の入り口にはすでに消防車が到着しており、多くの野次馬たちが集まっている。
 衣服に火のついたまま転がりでてきたぼくを、消防隊員が手に持った布で抱きかかえるようにして包みこむ。布の下に限定された視界に、ビルの壁面から巨大な美少女が見下ろしているのが見えた。
 無防備な微笑みで、頬を染めた恍惚で。特別な誰かへしか見せるはずのない無上の信頼の表情を、尊厳を、愛情を、すべての人間の前へさらしているのだ。彼女はどんな醜いおたくたちをも、心の底から信頼して、愛しているのだ。
 ぼくは絶叫した。それはまるで気の違ったような叫びだった。
 拘束がゆるむ。これまでぼくの人生を長く強く抱きしめていた力が、このときゆるんだのだ。
 ぼくは赤ん坊のように身をよじって消防隊員の手の内から逃げ出すと、サッと遠巻きになる野次馬たちの間を両手を振り回して絶叫しながら走り抜けた。
 眼前に見下ろす巨大な美少女の慈愛の微笑みをただ避けるように、ぼくは野路裏の闇へと遁走した。

美少女への黙祷(1)

 それは言わば、おたくたちの火葬だった。
 生きながら炎に焼かれ、地面を転げ回るおたくたち。
 やがて、おたくたちに向けて放水が始まった。放水をする者の表情に人を助ける崇高さはなくて、ただ隠しがたい嫌悪がうかがえる。それは火を消すというより、彼らを自分たちの方へ近づけないためのようにも見えた。
 炎が消え、路上にくぐもったうめき声だけが残される。人々はただ遠巻きに見つめるだけで、あるいはお互いの顔を見合わすだけで、誰も近づこうとはしない。
 焼けこげた衣類の残骸をひきずりながら、おたくたちの一人がよろめきながら立ち上がった。炎に焼かれながらも手放さなかったエロゲーの美少女が描かれたビニル製の手さげ袋は、熱で変形してしまっている。美少女の巨大な瞳は溶けて黒い眼窩となり、その頭蓋は異様なデッサンを更に大きく誇張するように歪み、口元に貼りつくその微笑は戯画的なまでに変形し、周りを囲む者たちを嘲弄している。
 赤黒くただれた皮膚をつらせて、哀願にも見える表情で、そのおたくは一歩を踏み出す。
 画面の外から、女性が悲鳴を上げるのが聞こえた。
 無理もない。普段は秘し隠している、人間とは違う悪魔的な本質をそのおたくは白日の下にさらしているのだから。
 何をもっておたくを定義するのか?
 それは内側から発した、自己定義の問いなのだ。
 おたくを定義しようと試みる者は、すべておたくなのである。
 その異常な精神性は、おたくたちの外観をあなたたちとは違うものにしていて、あなたは見ればすぐにそれとわかる。あなたがおたくを見ておたくとわからないならば、あなたがおたくなのだ。牛は牛であることに疑問を感じ、苦悩しているのかもしれないが、人間から見れば、彼らは牛だというに過ぎない。言葉は一切必要ない。
 取り巻く人々の群れから、一本のペットボトルがよろめき歩くおたくに向かって投げつけられる。よけることもできず、それをまともに顔面に受けたおたくはもんどりうって倒れこみ、動かなくなる。
 あの事件の直後、ネットをかけめぐったホームビデオによるこの映像は多くの議論を巻き起こしたが、それはぼくに言わせればおたく同士の言葉の交換と、形を変えた自己擁護に過ぎなかった。
 高天原を紹介する司会者の声とそれに対するコメンテーターたちの反応に、わずかに軽蔑の調子が含まれているような気がしてならない。ブラウン管に浮かぶ高天原の姿はいつもの絶対性から遠く、ひどく薄っぺらに見え、周囲を取り巻く負の感情に浸食させないだけの圧力を感じなかった。
 「今日ここに呼ばれた理由はよくわかっています。欠席裁判を行わないため、あるいは安価の国選弁護人として、私はここに座らされているのでしょう」
 加えて、高天原の話す言葉がスピーカーを通じることであまりに客観的に聞こえすぎてしまったので、ぼくは不安になってテレビを取り囲む男たちの表情を横目でちらりと確認した。彼らはいつもと同じような熱を帯びた視線で高天原を見ている。だとすれば、すべてはぼくの感じ方の問題であるのだろう。
 昨日と今日は同じ日なのに、ぼくだけがいつも安定しない。あの日々の繰り返しのうちに、ぼくは自分の感じ方を世界へのものさしとして利用するのを放棄した。ぼくの中を満たす曖昧さは、現実を包むことはできても、測ることはできない。
 だから、高天原はきっといつものように完全なのだ。
 昨日、プログラム上の不具合がのぞかれ、高天原のエロゲー”甲虫の牢獄”は完成した。
 ぼくの書いたシナリオはアイデアはそのままに、高天原の手よって大幅に改稿された。それでもぼくは満足だった。ぼくがずっと感じてきたことが、高天原の手によって完全な形に昇華されたのだから。ぼくは自分自身が高められたような気さえしていたのだ。
 高天原は全員を呼び集めると、いつものように話し始めた。
 「この一年間、私のわがままを受け入れる形での共同生活に耐えてくれて、本当に感謝している。君たちに家族のような関係を持ってもらうことが、私のねらいだった。それはきっと、直接的な形ではないかもしれないが、このゲームの持つ雰囲気になんらかの影響を与えているはずだ。実は、君たちのうちのひとりでもいやだと言えば、私はこの制作形態を断念するつもりだった。それもこれも、君たちが金銭上の契約関係を越えた何かを私に感じてくれたからだろうと、嬉しく思っている」
 高天原は、”甲虫の牢獄”のプログラムが入った円盤を眼前へ掲げた。
 「これからこのデータは小型ハードディスクへと無数にコピーされ、日本全国へと発送されることだろう。しかし、これは象徴にすぎない。私の革命は、この中には無い」
 拍手がまばらに起こった。かすかなざわめきが続く。ぼくの後ろに立っていた男たちが、小型ハードディスクを配布メディアに使うことについての疑義を小声で囁きあっているのが聞こえた。高天原の発言に対し、誰かが直接ではないにせよ疑いを露わにする。それは異常なことのようにぼくには感じられた。そこにいた誰もが高天原の意図をはかりかねていたのだ。
 高天原は部屋の隅にひっそりと控えていた小太りの男に円盤を手渡した。はげ上がった頭頂部に手をやりながら、男は部屋を出てゆく。本質的にrebellionが不可能である苛立ち。彼はあの言葉で何を意味していたのだろう。
 「最後に、君たちに言っておきたいことがある」
 ざわめきは消え、しんとした静寂が落ちた。
 それはおそらく期待、だったのだろう。いよいよ、高天原はぼくたちに最後の言葉を言う。その言葉によって、ぼくたちの生は新たな段階へと革命されるのに違いない。
 しかし、高天原は軽く下唇を噛んだまま、何かをためらっているように見えた。
 不自然な沈黙の後にようやく発された言葉は、ぼくたちを失望させるに足るものだった。
 「一週間以内に、ここを出ていって欲しい。この家の賃貸の契約が今月末で切れることになっている。それから、これまでの製作期間中と同じように、今後もこのゲームの制作に関わったことは口外しないようにしてくれると助かる。強制はできないが、少なくとも発売から一ヶ月、つまり」
 誰もが困惑していた。高天原がまるで対等に、ぼくたちをどこへも誘導しないようにしゃべっているからだ。ぼくは自分の動悸が早まるのがわかった。
 「このゲームの正当な評価が下されるまで、じっと見守って欲しいということだ。革命前夜の密告で、すべてが水泡に帰した例は、歴史上いくらでもあるからね」
 高天原らしい警句に、ようやく安堵の笑い声が上がり、軽口が飛ぶ。
 「発売日までの間、私は自ら広報活動に出ようと思っている。作品が私の手を離れて世に出る最後の瞬間、私は自分の能力への強い信頼に関わらず、この世で一番気の弱い人間になってしまうんだよ」
 何人かが協力させてほしいと申し出たが、高天原は片手をあげて笑顔でそれを制した。
 それから、奇妙にきっぱりとした調子で、こう告げた。
 「私と君たちは、今日ここでお別れだ」
 その晩遅く、ぼくは寝つけずに起き出した。台所で水を飲んでいると、かすかに誰かの話し声が聞こえた気がした。
 土間をのぞき込むと、ボストンバッグをかたわらに腰掛ける高天原の姿があった。話している相手は、どうやら元山宵子らしい。高天原が厚みのある封筒を元山宵子に手渡しながら、何ごとか言う。ぼくのいる位置から、その内容は聞こえない。交わされた契約はわからない。元山宵子は、小さくうなずいたように見えた。高天原はバッグを手にすると、玄関から音もなく出ていった。
 その場に立ちつくして、高天原の後ろ姿をいつまでも見送るようだった元山宵子は、やがてゆっくりと振り向いた。開け放たれた引き戸から土間へと差し込む月明かりを映して、元山宵子の両目はまるで意志疎通の不可能な動物のように輝いている。そこに立っているのが本人であることを疑う要素は全く無かったにも関わらず、ぼくの感情はそれが元山宵子ではないと告げていた。それがこちらへと歩いてくる。
 ぼくはあわてて身を翻すと、皆が寝ている部屋へと駆け戻り、寝床に潜り込んだ。
 二人はいったい、何を話していたのだろう。
 あふれだす下衆な想像を振り払うと、ぼくは頭まで深々と布団をかぶり、眠った。
 そして、夢を見た。その夢を見るのは、実に一年ぶりだった。
 細長い岬を多くの人間たちが一列になって、粛々と歩いてゆく。
 その左右は崖になっていて、底は見えない。
 周囲を白いもやが取り巻いていて、見通しはほとんどない。
 列を乱す者はいない。列を乱せば、墜落するしかないからだ。
 進むにつれて、足下はどんどん狭くなってゆく。
 ときどき、谷底へと落ちてゆくものがいる。
 黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
 しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
 次第に、周囲を取り巻いていた白いもやが晴れてゆく。
 岬は先細りの果てに、ついにその先端へと収束している。
 もうその先に道はない。
 ひとり、またひとり、岬の先端から落ちてゆく。
 黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
 しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
 やがて、ぼくは自分がその緩慢な行進の最突端にいることを知る。
 ぼくは大きく後ろを振り返り――
 そこで目が覚めた。全身が寝汗に濡れていた。
 午前中に運送業者がやってきて、すべての機材を引き上げていった。トラックを見送ってまばらに室内へと戻ると、そこには早くも空漠とした雰囲気が広がっていた。
 午後になると、元山宵子がいつものように制服姿で現れた。ワゴンを運転してきたのはあの男ではなく、知らない誰かだった。高天原さんにそうじを頼まれて、と彼女は皆に言ったが、一向に何かする様子もなく、相変わらず縁側で両足をぶらぶらさせていた。いくつか高天原の動向について質問があったが、彼女は曖昧な返事をするのみだった。ぼくは気づかれないようその横顔をちらりとうかがうが、それは昨晩のようではない、ぼくの知っている元山宵子だった。
 日も傾き始めた頃、彼女は大きく伸びをすると、そのまま後ろ向きにのけぞるような格好で柱時計を見た。
 黒い髪の先端が流れて畳に触れる。制服の下に長く伸びた細い肢体と、白い喉。
 ぼくはあわてて目をそらした。
 元山宵子はよつんばいにテレビまでいざってゆくと、スイッチを引いた。つまらなさそうにガチャガチャとチャンネルを回し、ある番組で手を止める。
 「これって、もしかして高天原さんじゃないかしら」
 元山宵子の声に、気の抜けたようにぼんやりとそれぞれのことをしていた男たちが、ぞろぞろとテレビの前へ集まった。
 そしてぼくたちはいま、高天原を見ている。
 「私はちょうど、みなさんの日常に不穏な影として再び現れはじめたにも関わらず、みなさんが生理的な拒絶以上の理解をできない人々とみなさんとの中間地点に立っているという自覚があります。どちらの、こういってよろしければ文化も理解し、それをある程度までなら通訳することもできる。ただ、私はいずれの利害にも与していないという点から、どちらにとっても積極的な外交官とは言えないかもしれませんが! さて、みなさんが好んで使われるあの呼称で呼んでしまうと、その単語の持つ負のイメージが私の説明を、あるいは私の説明へのみなさんの理解を歪めてしまう恐れがあります。ここでは、彼ら、とだけ呼ぶことにしましょう。みなさんは、できるだけ、彼らへの偏見を捨ててお聞きいただければと思います。私は、彼らとの関わりを考えずに、この時代を生きることの危険性をみなさんに理解していただきたいのです」
 カメラが引いた際に映し出された他のコメンテーターたちが、明らかに鼻白んだ様子を見せている。きっと彼らが期待していた言葉とは遠いのだろう。再び高天原へと映像が寄る寸前、司会者の男が助けを求めるような視線をスタジオへ向けるのが見えた。
 「彼らが求めているものを一言で表すとするなら、”自己憐憫を注入するための虚無の器”と言えるでしょう。彼らには思想も信条もありません。ほんの些細な日常での決断に、それを決定することが自分の人生へ深甚な影響を与えるのではないかと恐れて、巨大な課題と挑戦を感じて、彼らは判断を停止してしまう。選ばなかったものへの後悔に耐えきれず、永遠を立ち往生しているのです。彼らに唯一あるのは、意外に響くかも知れませんが、感情そのものです。彼らはその無感動の様相とは裏腹に、荒波のような内面の葛藤に常に揺さぶられています。全身の激しい痙攣が昂じて、それが周囲には全くの硬直にしか映らなくなっている、と言えばおわかりいただけるでしょうか。コマの回転が静止を生み出すようなものです。ですが、その感情は日常で私たちに選択を促す、物事に対する好悪の段階には達していません。好悪に基づく選択は思想の発端ですが、彼らの内側に他者へと向かう感情は存在しないのです。自己憐憫を中心にして、それを囲む衛星のごとく喜怒哀楽が旋回している。彼らの精神生活は人間のベースにある動物的衝動と言うよりも、外部刺激に向けての昆虫的反射の連続で成立しています。彼らの興味は自分以外には向かず、それゆえ外的な反応はすべて心を伴わない反射の段階に留まるのです。根本的に、みなさんとはその心の構造が異なっているのだと考えて下さい。外見の無感動さと、その応答の無機質さ、あるいはみなさんの仲間を装おうとしながら好悪を持たないゆえにいつも失敗する、あの奇妙奇怪な演劇的応答から推測できる以上の内面の差異が、みなさんと彼らの間に存在すると言っていいでしょう。昆虫的な反射と申しましたが、昆虫と違いますのは、これが問題をやっかいにしているのですが、人には境界があります。自分と他人を区別する境界です。皮膚や肉体のことではありません。我々の精神のことです。昆虫や動物の持つ個の境界というのは、例えば腹具合であるとか、発情期などの時期であるとかに影響を受けて伸縮する。ときに消えたりさえする。しかし、人間の持つ精神の枠組みは、決して消滅しません。この枠組みの強固さは我々の自己同一性への希求を保証しますが、同時にあらゆる感情の澱を逃がさないという意味合いも含んでしまうことになる」
 高天原は淡々と話し続ける。その調子はあまりにも淀みがなく、誰も口を挟むことができない。彼の言葉は正しいからというよりは、ただ単純に他者を必要としていないので誰も後から言葉を加えることができないのではないかと、ぼくは思う。
 「枠を破壊する、破壊しないまでも穴を空けて中身を抜き取る、それは一般の人間には極めて難しいことです。なぜなら自己同一性の否定と死への怖れ、両者は全く同じものだからです。つまり、いったん歪んだものを湛えてしまったなら、二度と美しく変わることはできないのです。不可逆ですから、どういう原因がその歪みを招いたのかを推測するのは無意味でしょう。みなさんが好悪に発する欲望を溜めているその枠組みの中に、彼らはそれぞれの所与条件に対応する反射を溜めこんでいる。昆虫的指光性でもって、尊大な自己憐憫を注入できる対象を求め続けている。彼らが執着できるのは、自己憐憫の投影を許してくれるものだけなのです。意志を剥奪されたゲームの美少女であるとか、社会的自我の形成途上にある少女などが彼らにとっての器となり得る。その意味で、私が私の生業として彼らに提供しているものは、闇夜に明滅する街灯のようなものでしかないのかもしれません」
 室内は薄暗くなり始めていたが、誰も灯りをつけようとはしなかった。
 「もしかすると」
 腕組みをしたまま画面から目を離さず、プログラム担当の男がつぶやいた。
 「高天原さんは、俺たちを裏切ったのかもしれない」
 沈黙が降りた。その場にいる誰ひとりとして、その言葉に反応を示さなかった。しかし、それはその言葉を聞いていないというのではなく、全く反対の沈黙だった。その言葉は、あまりに皆の不安に答え、あまりに皆の腑に落ちてしまった。
 ぼくは、こんな光景を一度見たことがある。
 細く長く続いた呼気の後、掛け布団が上下することをやめる。眼前に冷えていく祖父の身体を前に、集まった親族は誰ひとりとして言葉を発さない。死んだ、と言うことができない。現実は言葉と離れた場所にあるはずなのに、言葉が現実をそこへ規定してしまうような、しんと静まった畏れを全員が共有していた。世界には、誰もがそれぞれの属する場所を越えて否応なく和してしまう特異点が存在する。
 ぼくたちはそのとき、たぶんそこにいた。
 ブラウン管の中で高天原勃津矢の演説は続いている。
 「心を使わず、すべての事象にただ昆虫的反射でもって応答する。少し前の時代までは、そんなことは全くの不可能事だったでしょう。つまり、彼らにも多少の同情の余地はあるのです。けれどそれは、どんな大量殺人者であっても必ず弁護人はつくという意味合いでの同情でしかありません。心の傷、トラウマなどという観点から見れば、すべての人間はそれこそ何らかの理由から同情に値してしまうものなのですから。私が言うのは、みなさんを取り巻いているこの現実が、彼らにとっては心という名前の聖性を踏まえない行動ですべて足りてしまうという意味なのです。聖性という言葉を使いましたが、よりわかりやすく表現するならば、自分という存在が重要で無くなる瞬間を持てるかどうか、ということです。彼らにとって、そんな瞬間は絵空事のようにあり得ないのです」
 高天原は言いながら、ゆっくりと右手を持ち上げると、自分の胸に当てた。
 カメラがぐっと寄り、その姿が画面に大うつしになる。サングラスに照明が映りこんで、高天原の表情を読み取ることはできなかった。その顔は、無機質なデスマスクのようにも見えた。
 室内の誰も、まだ一言も発することができないままでいる。みんな一縷の希望を捨てきれないでいるのだ。
 しかし希望というのは、常に絶望への準備動作に過ぎない。
 「誤解を恐れずに表現するならば、彼らはことごとく、圧倒的な何かに平伏する必要があるのです。暴力的に、無惨に、原型を止めぬほどに、引き裂かれる必要があるのです。彼らはもう、そんなところまで来てしまっている。彼らはみんな、不可逆なまでに破壊されたいと願っているのです。メディアに踊る陰惨な事件を見て、人間のまねごとで眉をひそめながら、その実うまくやりとげたその犯人と、もしかするとその被害者にさえ嫉妬を感じて、隣人の有り様を横目でチラとうかがいながら、自身の悪魔的な思考を悟られまいと声高な批判へ同じ調子でもって彼らは唱和しているだけなのです。自分が本当に死ぬのかどうかすら確かめることのできないほど孤絶した彼らは、もう飽き飽きしている尊大な自己憐憫と不滅性への確信の限界を見たがっているのです。カミソリの刃を手首に埋める深夜の少女たちのように勇敢ではない彼らは、湖の水面に立つ”波紋”のような現実からの穏やかな干渉へ昆虫的な反射を繰り返しながら、ほとんど新聞的言説でしかない人間の尊重という茶番を、完膚なきまでに蹂躙されたいと願っているのです……」
 スタジオがざわめき始め、司会者のとってつけたようなコメントの後、画面はCMへと転じた。
 気づかぬうちに、口蓋に張りついてしまった舌を引き剥がす。
 高天原は、いったい何のことをしゃべっているのだろう? それは少なくとも、ぼくたちが作り上げた作品のことではない気がした。ぼくはテレビから視線を外すと、周囲を見回した。
 「元山さんがいない」
 沈黙を破った最初の言葉は、ぼくによるものだった。それは誰の絶望をも救わない、個人的な違和感の確認に過ぎなかった。誰もぼくの発言に答えようとはしない。その空虚さは、もう高天原はいないのだと強く感じさせるに充分なものだった。
 元山宵子は、ぼくたちが高天原の演説へ釘付けになっているうちに、いつのまにかいなくなってしまっていた。
 次の日になっても、彼女は帰ってこなかった。もう高天原との契約は終わったのだから、それは当たり前のことだった。ただ、最初に帰ってこなくなったのが、元山宵子だったというだけだ。
 日が経つにつれ、ひとり、またひとりと出ていった。律儀にみなへ挨拶をする者もいれば、朝起きるといなくなっている者もいた。お互いに何の関係も無いぼくたちをつなぎあわせていたのは、高天原という絶対的な家長だったのだ。テレビ番組はひとつのきっかけに過ぎなかった。高天原がいよいよこの家に戻ってくることはないらしいと、残った者たちも気づき始めていた。
 ぼくはと言えば、元山宵子がいなくなった日に高天原が二度と戻ってこないことを確信したにも関わらず、なんとなくぐずぐずしていた。高天原がずっとぼくの人生の面倒をみてくれるような、甘い錯覚が最初にあったせいだろう。だがそれ以上に、ひとつの大きな不安がぼくをとどめていた。
 それは、言葉にすればこういうことだった。
 あの場所に戻ったらもう二度と、出てこられなくなるのではないか。
 そしてその果てに、今度こそ、殺してしまうのではないか。

甲虫の牢獄(7)

 影が長くなり、振り返った室内の空気は茜色に染まっている。ここに来るまで空気に色があるなんて、知りもしなかった。
 高天原が卓袱台の上で丹念にぼくのノートを繰っている。ぼくは怖いような気がして、彼がそうするのを見ないよう縁側に腰掛けて外を眺めていた。庭に自生する植物の葉に、蝉の幼虫がうごめいている。
 ふと視線をあげた先に、灰色のワゴン車が停車するのが見えた。小太りの男が頭頂部に手をやりながら、わずかに跳ねるような足取りで道を下ってくる。彼はいつものように土間へと入っては行かずに、そのまま縁側へ歩み寄ってくると、ぼくの隣に座った。こういう際にかける言葉を知らず、ぼくは目を見ないまま首をわずかに上下させて会釈の真似事をした。
 小太りの男は肩越しに振り返って高天原の姿を確認すると、胸元から煙草を取りだして火をつけた。この家の中で、煙草を吸う唯一の人物だった。
 「どこまで彼を理解してここにいるのかは、知らない」
 細く煙を吹き出しながら、小太りの男は呟いた。それはほとんど独白に近いようなトーンだったので、ぼくは相づちをうったものかどうか逡巡する。
 「高天原の動機とは、自らが存在するために生まれいづることを許されなかった者への贖罪であり――」
 しかし、ぼくの迷いなどお構いなしに言葉は続けられた。
 「普遍へと至る唯一無二の方策であるはずの自らの絶望が、彼の所属するジャンルの馬鹿げた包括性、あるいは倫理無視の内側に一切の過不足無く受け止められてしまうという苛立ちである。つまり、本質的にrebellionが不可能であるという苛立ち」
 吸い差しを庭に向けてはじくと、ぼくの返答を待たないまま小太りの男は立ち上がり、土間へと消えていった。
 ぼくはその背中を見送ると、再び室内を振り返る。
 室内の空気と同じ色に染まる高天原の横顔。このまま彼が読み終わらなければいい。
 しかし、やがて最後のページに到達した高天原はノートを閉じ、顔を上げた。ぼくは言われたわけでもないのに彼の前へと歩いていき、正座をする。
 高天原はサングラスを外して、ぼくの目を正面から見た。
 それはまるで、ここにいるぼくではなくて、これまでぼくが通り過ぎてきた人生のすべての瞬間をすべて眺めているようだった。いままで、誰もぼくをそんなふうに見たことはなかった。ぼくの上に訪れる誰かの関心は、路傍の石への興味に過ぎなかった。誰からも省みられないようにふるまうことこそが、ぼくの自己定義だった。
 高天原は、しばらくそうやってぼくを見つめてから、ふっとため息をついた。
 永遠に思える沈黙の後で切り出された言葉は、ぼくをすっかり動転させるに充分なものだった。
 「君を連れてきたのは、失敗だったかもしれない」
 みぞおちに重たい塊が生まれた。墜落するような感覚が膝を走った。
 高天原を失望させてしまった、と思った。何を選ぶこともできなかったぼくは、期待させなければ失望させることもないだろうと考えてきた。そんな無意識の防衛が、高天原の期待を裏切ってしまったのか。
 高天原は、ほとんど悲しそうにさえ見えた。
 「君を見ていると、決心がにぶる。人は誰かを前にしてしまうと、憎しみだけを続けることはできないんだろう。どんなに憎んでいても、いつかは愛が誕生して、誕生した愛は永遠に続いていく。人の中には再生する力がある。例えば大切な人を傷つけ殺す悪鬼への憎しみさえ、いつか愛に変わっていってしまうのではないかと私は恐れてきた。私の生を決定しているのは、そんな破格の愛情なのではないか。私はずっと、誰も赦したくないと思っているのに。私は私のために、君をそっとしておいた方がよかったのかもしれない」
 ぼくは本当に心からの誠実さで、高天原の求めるものに応えようとした。
 だが、それはかなわなかった。喉元に痛みが溜まるのを感じる。
 「君の書いたこのシナリオに、私はひどく感銘を受けている。予想以上のものだ」
 言葉の意味が浸透するための空白。
 関節をつなぎとめている何かが一度に消失するような脱力。
 このときぼくは、高天原が伝えようとしているものの中身を理解しようともせずに、自分の勘違いが覆されたことにただ安堵を感じていた。
 「君の世界は、とてもきれいだ。それは君だけの中で、一切が完結している。永遠の保留のきれいさだ。私は割り切れないものをどれだけ忘却せず、黒か白かの厳格なパターンに当てはめもせず心に保持することができるかが、世界をはかるものさしになると思ってきたが、それは私が現実を常に確定させたい人間だったからなんだろう。何ひとつとして確定したもののない君のこの話を読んで、私は自分をはじめて外側から客観的に眺めることができた。不思議なことだ。……君の書く”波紋”という考え方、実は私にはとてもよくわかる」
 高天原は、ぼくがノートに書いた言葉を口にした。
 水面に広がる波紋は弱い力だが、水面に浮かぶものたちは例外なくその影響の下にある。ぼくに日常を反復させる、目に見えないあの力のことだ。
 「この世界全体を支配している何かは確かにあって、それは神と呼ぶほどには意志がなく、私たちを圧倒はしない。自由意志というのは、思考のための方便だとずっと思ってきた。私たちの生は、あらかじめ何かに規定されてしまっているのだから。”波紋”という言葉は、心を澄まさなければ感じないですむほどのその弱い違和感を指すのに、とてもしっくりくる。ただ思うのは――」
 高天原は、ぼくの目をのぞきこんだ。
 「君は実のところ完全に充足していて、何を足し引きする必要もないんだろう。君は幼児のように無垢で、乙女のように処女で、そして天使のように拒絶している。私はこのきれいなものを壊してまで、自分の仕事をするべきなんだろうか」
 高天原はそこまで言うと、少し黙った。
 その言葉の意味するところはわからなかった。ぼくは、きっとぼくのシナリオがまずいので手を入れるべきかどうか迷っているのだろう、と考えた。高天原は、ぼくに何かを伝えようとしていたのに。
 「私は多少なりとも、君の世代に責任を感じていたつもりだった。歴史上の偉人と同じレベルの微細に至る感受性と思考回路を与えられ、私たちの内省の無いそろばん勘定に異常な性癖を開拓され、この世で一番貴重な魂を持った人買いの仲間たちが、永遠に向けて立ち往生をしている様子に、だよ」
 言いながら、高天原の目の底に怒りのようなものが浮かぶ。
 「君が”汚れた世界”と表現している場所は、本当は少しも汚れてなどはいない。君たちが、あまりに清潔すぎるだけなんだ。食肉目的の無菌室の豚のように、世界という残酷さの前に一方的な被害者として饗される運命なんだよ、君たちは!」
 高天原が卓袱台を手のひらで一撃する。ぼくは突然の激情にふるえあがった。
 だが、見たと思った高天原の怒りは、次の瞬間には消えてしまっていた。
 指でまぶたを押さえながら、高天原が言う。
 「……すまない。憎まなければ、私は動けなくなってしまうような気がする」
 ぼくは意味もわからないまま、あなたが謝る必要はない、といったふうなことをもごもごと答えた。
 「私が荷担しなければ、まだ何かが違ったのかもしれないと思い続けてきた。たくさんの人間を最上の技巧で、本人たちがそれと気がつかないままに不倶にしてきた。二度と復帰のかなわない場所へ陥れてきた。この世で一番重い罪、情状酌量の余地がない罪は、赤ん坊を殺すことだと思う。未来を殺すから、という意味ではないよ。赤ん坊たちの中にある、世界に対する無条件の、無上の信頼を裏切るからだ。私がやってきた仕事は、たぶん同じことだった。でもそれは、私があえて目を向けなかったところで、こんな小さなきれいものに結実していた」
 高天原は、庭に目をやった。
 「果たして、君たちは変わることができるんだろうか。心を枉げられて、君たちはなお生きてゆくことを選択するだろうか。君たちの世界はきれいだ。閉じているからこそ、君たちの世界はきれいだ。しかしそれが無理矢理に外へと開かざるを得なくなったとき、君たちの世界はまだきれいでいられるだろうか。私はもしかしたら、それが知りたいだけなのかもしれない」
 高天原の声は、ほとんどつぶやきのようだった。
 「私はこの世で最も卑劣な人間だ。私はいつだって、無邪気な扇動者どころではなかった。私は自分の意図が誰かの人格の上へどういう結果を結ぶか常に正確に把握していていながら、自分を制約することは一切無かった。私の罪は誰よりも重い。だから、誰からの同情の余地も、理解の余地もないようにすべてを運ばなくてはならない」
 サングラスをはめると、高天原はゆっくりと立ち上がる。
 「私はもう一度、憎むことから始めよう」

十四日して、曰く

あれから二週間、私の周囲は完全に無音である。諸君の心境を想像するのは難くない。諸君の私への愛情が、沈黙を選ばせるしかないほど深いということを私は理解する。もし下手に声をかけて、苛烈極まる罵倒が返ってきたら、私を嫌ったり、拒絶したりすることを選ぶしかないと諸君は考えているのだろう。好きな人を好きでい続けるために、校舎の影からのぞき見て告白しないことを選ぶわけだ。馬鹿。そんな処女か童貞のような繊細さで、本当の意味で人を愛したりできるものか。例えば敬愛するロックスターのライブで、彼の観客席ダイブに骨折したとして、彼を告訴しようと思うだろうか。ギプスのはまった片手を振り振り、いかに彼がアナーキーでバイオレンスであったかを語り、その一端に触れえたことをむしろ誇りに思うはずだ。例えば敬愛するラップ歌手のライブで、彼の流麗な観客罵倒フリーラップの対象にされたとして、そのとき受けた精神的外傷を理由に彼を告訴しようと思うだろうか。心の傷によるチックに頬を痙攣させながら、彼がいかにレイシストでレイピストであったかを語り、その一端に触れえたことをむしろ誇りに思うはずだ。私の求める愛とは、全人格的な許容である。社会的な場に全人格をさらけだすことは難しい。しかし、nWoには拙かろうと醜かろうと、私のすべてが記述されている。その事実に諸君は戦慄し、アンプから引き抜かれたエレキギターの殴打に頬骨を破壊される歓喜に身を震わせるべきだ。以上。

甲虫の牢獄(6)

 「強い依存心を持った人間はひとりでいるときにしか、本当の自分自身であることはできない」
 静寂を破るように、夜の倉庫街に街灯を背にした高天原が言った。
 ぼくは眺めていたつま先から、はじかれるように顔を上げる。
 高天原は街灯の作り出す光の輪から外れるようにして立っていたので、その表情をうかがうことはできなかった。
 いまの言葉は、ぼくに向けられていたものだったのだろうか。なぜか心臓が早鐘を打つ。
 「気にしなくていい。君の仕事には満足している。私の言葉は批評と同時に、常に独白を含んでいるからね。君がいま驚いたように、私自身もいつも自分の発した言葉に驚いている。偶然に紡ぎだしたはずの言葉が多くの真実を含んでしまうことに、驚くんだ。私はね、新聞の素人俳壇の欄を読むのが好きだ。私を嫌っていたはずの人々が、ふとした偶然で私と同じ真実に到達しているのを見られるから。言葉だけは、誰の上にも平等なんだろう。言葉が外からやってくるとすれば、私や君のような人間に才能や、知性は存在しないということになる。どうもがっかりするね」
 高天原がふっと笑ったような気がした。
 「ただ、必ず添えてある偉い先生の講評は御免だ。解釈すると神秘を無くして陳腐になる。解釈しないと誰も理解できない。つまるところ知性は、人と人との伝達を主な目的として進化したんだろう。もどかしいところだ」
 高天原の話は結論から始まり、その結論を言葉で崩してゆく。
 ぼくは誘惑されまいとそんなふうに分析をするが、いつもむなしい。プロ競技者の修練や技術を観客席で理解したところで、その人物に互したり打ち負かしたりすることに対しては、何ひとつ関係が無いのと同じだ。
 高天原が腕時計に目を落とす。そして、もう幾度目だろう、遠くの暗がりに視線をやる。
 何を待っているのだろう。なぜここへついて来なければならなかったのか、ぼくは全く知らされていない。
 「……まだ時間があるようだ。少し私自身のことを話そうか。君も、少しは君の人生を狂わせた人間のこと知っておいたほうがいいかもしれない」
 高天原は冗談のように言った。
 だが、ぼくが人生に正しいと言うことができた瞬間など、ありはしなかった。けれど高天原といるとき、ぼくは人生が正しいと感じることができる。
 ぼくのそんな思いには気づかないふうで、高天原は淡々とした調子で話し始めた。
 「十年前、私は雇われのシナリオ書きだった。ちょうどいまの君のような感じかもしれないな。自分が”選ばれている”という自負は常にあった。なんといっても、私の知性は二人分だったからね。けれど、それが妄想なのか真実なのかを見分けるための現実的な要素は、まだどこにもなかった。ただひたすらに鬱屈していた。わずかの仕事が自分の小さな居場所を生み、生み出されたその小さな居場所が、時間の経過とともにその形のまま安定してゆくことに、鬱屈していたんだろうと思う」
 ぼくは、うろたえた。全身に熱い汗が吹き、冷えた。なぜ自分がうろたえているのか、わからなかった。高天原と二人きりで、彼の個人的な話を聞くことにうろたえたのだろうか。
 いや、違う。高天原の口にした鬱屈が、ぼくが受け止めることを拒絶してきた鬱屈と同じだったからだ。
 「当時、その鬱屈をはらすために最も熱中した遊びは、同業の知人を彼らの両親や養育者と和解させることだった。……こういう業界に飛び込むことを肯定的に考えてくれる親はまあ、ひいき目にみて多くはないだろう。断絶なのか、離反なのか、とにかく自分の生育に関わった人間との葛藤を抱えている例は、少なくはなかった」
 顔に血が上ってゆくのがわかる。
 高天原はきっとぼくに当てつけようとしているのではない。ぼくの人生が別の場所で、別の誰かによって、ほとんどその趣向を変えずに繰り返されていたとしても、それは全く不思議ではない。ぼくは自分の苦悩の凡庸さを理解しているつもりだ。
 けれど、ぼくの顔は真っ赤に染まった。恥ずかしさだったのか、自尊心ゆえだったのか、ともかく周囲の暗さから、高天原には気づかれていないのが救いだった。
 「何が最初のきっかけだったのかは忘れた。少し抽象的な言い方かもしれないが、私は彼らが発している臭みをかぎ取ることができた。いろいろな家族の形があった。私がそこへ出向いたこともあったし、言葉だけで用が足りる場合もあった。一番簡単だったのは両親か養育者がすでに他界している、もしくは最初からいないか、いないも同然の知人を”癒す”ときだったよ」
 高天原は曲げた人差し指を唇に当てて低く笑い声を立てながら、”癒す”という言葉をことさらに粘るように発音した。
 「私が理解したのは、心の中にしか無い情報は、簡単に上書きすることができるということ、そして人間の記憶はそういう情報だけで組み立てられているということだった。彼らの抱えている憎悪には、例え表面上そう見えたとしても、間違いなく裏返しの部分に、これまでの関係において起こったことをねじまげてまでの理想化を狂うように求める、わななく愛情があった。私がやったのは、斜面の手前にあるボールに軽く触れることだけだった。彼らは数年来、十数年来の憎悪を翻心してむせるような、ほとんど赤面するような愛情のプールへと次々に飛び込んでいった。乾ききった心に生じた無数の亀裂をとろけるような愛の蜜が湿してふさいでゆくさまを、癒しのドラマを、誰もが心から演じていた。その三文芝居のような崇高でなさに、私の鬱屈は深まるばかりだったよ」
 高天原は肩をすくめてみせる。
 「発信に向かおうと受信であろうと、この業界に関わりを持つ者は一分の例外もなく、養育者との情動面での関係性を欠落した者であろうと私は考えていた。軽蔑や思い上がりからの決めつけと思うかもしれない。だが、私ほどの深刻さをもって自身の生業がその果てに何を生みだしてゆくのかを知ろうとした人間がいないことだけは断言できる。私は、自分自身の仕事を肯定したかったのかもしれない。しかし結果は話した通り、私の推論を裏付けるものばかりだった。この業界を取り巻くものは作り出すことであろうと消費することであろうと、全く個人的な愛情と理解の代償行為に過ぎないということを私は確認することができた……あのときの自分の心理について、いまになってときどき考えることがある」
 高天原はそこで黙った。
 静寂の中、遠くから聞こえるのは、波音かもしれない。だとすれば、海が近いのだろうか。ぼくは高天原の車にただ乗せられてきただけで、ここがどこなのかもわからない。高天原がぼくをどこに運ぶのか、ぼくにはずっとわからないでいる。
 少し考えるような間をおいて、高天原は続けた。
 「つまり私は、もっと深くから汲むべきだと思っていたんだろう。個という名前の世界の果てを越えた瞬間に接続するあの場所から汲み上げたものだけが、発信するに足るものだとずっと考えていた。それが傲慢であることは、いまは多少わかる。歳を重ねるにつれて、そこへ接続できる機会も少なくなってしまったからね。だが当時は、自分の魂の表層にだけある傷口をかきむしり、そこから飛び散ったかさぶたの滓をかき集めて、体液をそのつなぎにして差し出すようなやり口に、嫌悪感を抱いていた。それは、もしかすると自己嫌悪に近いものだったのかも知れないにせよ――」
 波音は聞こえなくなった。街灯にむらがる虫の羽音が奇妙に意識されはじめたからかもしれない。人間の意識は複数の事象を同時にとらえることはできない。現実の一部へ意識的にフックをかけることでしか、濁流のようなこの場所で自分へ意識をつなぎとめることはできない。人間は、元より世界を本当の形では理解できないように作られている。
 しかし、高天原ならば。高天原なら、もしかすると――
 「さて、面白いのはこの先なんだ。私の介入する和解の儀式を終えると、彼らはほとんど例外なく書けなくなった。それは感動と滑稽が等分に入り混じった、人生の本質のような不思議な有りさまだった。自分が全く普遍性の薄い個人的な絶望からしか汲んでこなかったことを知り、両親や養育者との対決姿勢にだけ人生の基準があった彼らが、書けなくなった自分を至極あっさりと赦して、そしてこの業界から去っていくんだ。原因となった私に涙を流して、礼まで述べて! 個人的な絶望や癒しなどで、世界をわずらわせてはならない。ましてやそれで口を糊しようなど、全くの本末転倒じゃないか」
 高天原は街灯がアスファルトの上に作り出す光の輪の中に、まるでそこがスポットライトの中心ででもあるかのように踏み出した。
 暗闇に沈んでいた彼の姿があらわになる。
 サングラスをはめていない両目が、ぼくをのぞきこむ。色素の薄い瞳。
 高天原がぼくを見るとき、彼の目がいつもぼくを吸い寄せる。喜怒哀楽ではない万もの表情を、高天原は目だけで作り出す。このときも高天原は喜怒哀楽のどれでもない表情を浮かべて、ぼくをまっすぐに見た。
 「君がそういう種類の人間じゃないことを信じているよ」
 高天原に出会ってから初めて――疑念と表現すると明確にすぎるだろう、得体の知れないおののきのようなものがぼくの全身を突き上げた。
 それはつまり、言葉にすればこういうことだったのだろう。『高天原は、いったいぼくに何を求めているのか?』
 ぼくの恐れに気づかぬ様子で、高天原は言う。
 「覚えておいてくれ。私たちが相手にするおたくは、心の奥底から廃屋の雨漏りのように染み出してくる何か異常な想念に人生の最初の段階をとらわれていて、それが個性や才能であるかのように錯覚している連中だ。踏みにじられた尊厳の補償を求めるあまり、真っ先に放棄するべき人間性への侮辱の周囲をぐるぐると回り続けている。おたくは本質的に自殺と他殺を内側に抱えている。その衝動を自分と他人にとって物理的危害では無いものに昇華させる過程こそが、個性や才能と呼ばれるものだ。おたくとは自身の抱える内的衝動を、意識的には昇華できない人々のことだ。おたくたちは養育者に打たれた鞭の分、自分を打つか他人を打つかする。この打つ打たれるという二つの行為は正反対どころではなく、むしろ同じものだ。つまり母親にペニスを突っ込みたいと思うからそれを書き、父親にペニスを突っ込まれたいと思うからそれを書く倒錯が、おたくの正体だと言える。私がおたくを軽蔑するのはその倫理的な低劣さは全く関係がなくて、彼らが何ひとつとして自分の持ち物を昇華する過程を踏んでいないことに起因している」
 パチッという音とともに、焼けこげた羽虫がゆっくり墜落してゆくのが見える。街灯の光が明るいからといって、不用意に近づきすぎたのだ。
 「自分より弱い人間を刃物で刺す行為と、猥褻を書く行為は酷似しているように思う。ペニスを挿入するのとナイフを突き刺す行為の間に、実のところ違いはないんだ。最終的にどちらを選択するかは、現実への期待値がどこまで高いかが分水嶺になるのだろう。時代、という範疇を口にするとあまりに大がかりで、むしろ真摯な回答から逃げているような気さえするが、内在する病裡と病裡の現象化がひねった輪のように回転しているのが私には見える。私たちの足下を同じ濁った水が浸している。ある者は自らの才能で私たちを捨ててここから飛び去り、ある者は父親か母親の性器を詳細に記述し、ある者は少女か両親を殺す。水の浸っていない小高いところにいる者たちはほんの少数だし、その小高い場所でさえ、もうじき水は浸してゆくだろう。世界理解という至上目的は、知性による手段の増加によって際限なく複雑化してゆき、堆積してゆく知性そのものによって私たちの手の届かぬ地中へとうずめられてしまった。もはや人は本来の目的を喪失した無用物の知性では繋がることはかなわず、ただ病裡によってのみ一様化している。喉元へ水位が高まってゆくのを誰も避けようがなく、そしてそれを押しとどめる力もこの手にはない。ただ私が言えるのは――」
 高天原の薄い唇の間から、真っ白な呼気が押し出されている。
 ぼくは急に周囲の気温が下がったような気がして、コートの襟を寄せる。
 ひどく寒い。
 短く息を吸い込むと、高天原は小さくつぶやいた。
 「癒されたり赦されたりするくらいなら、死んだほうがマシだ」
 ぼくが聞いたと思った言葉は、遠くの暗がりから染み出すように現れたトラックの走行音にかき消された。車は高天原とぼくの横を通り過ぎてから減速し、街灯を避けるように数十メートル先の暗がりに停車した。後ろの荷台から何か大きなものが投げおろされ、続いて乾いた金属音がした。
 高天原が駆け出すと同時に、トラックは再び速度を上げて走り去った。
 ぼくが追いつくと、高天原は暗闇を見つめて立ちつくしていた。
 ポケットから懐中電灯を取り出して、ぼくは高天原の見つめる暗闇を照らした。
 はたしてそこには、木箱と先端の曲がった金属の棒のようなものが転がされていた。
 高天原は金属の棒を拾い上げ、木箱の蓋に打たれた釘を黙々と取り去ってゆく。
 雄弁の後には恐ろしく長く思える沈黙が降りた。
 やがて高天原は棒を放り投げると、顎を持ち上げてぼくに促す。ぼくはほとんど脅えながら、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。
 中には大量のおがくずが詰められおり、その隙間から粘土のような質感をした物体がいくつものぞいていた。
 ぼくは途方に暮れて、振り返る。変わらず、高天原はそこに立っている。
 しかし、表情こそ崩さないが、その目は内心の押さえ切れぬ激情に輝いていた。
 高天原はおがくずに手を埋めると塊のひとつを取りだして、言った。
 「見ろ。これが人類の絶望の産物の一つであり、そしていまの我々の希望の依り代だ」