猫を起こさないように
月: <span>2006年2月</span>
月: 2006年2月

甲虫の牢獄(6)

 「強い依存心を持った人間はひとりでいるときにしか、本当の自分自身であることはできない」
 静寂を破るように、夜の倉庫街に街灯を背にした高天原が言った。
 ぼくは眺めていたつま先から、はじかれるように顔を上げる。
 高天原は街灯の作り出す光の輪から外れるようにして立っていたので、その表情をうかがうことはできなかった。
 いまの言葉は、ぼくに向けられていたものだったのだろうか。なぜか心臓が早鐘を打つ。
 「気にしなくていい。君の仕事には満足している。私の言葉は批評と同時に、常に独白を含んでいるからね。君がいま驚いたように、私自身もいつも自分の発した言葉に驚いている。偶然に紡ぎだしたはずの言葉が多くの真実を含んでしまうことに、驚くんだ。私はね、新聞の素人俳壇の欄を読むのが好きだ。私を嫌っていたはずの人々が、ふとした偶然で私と同じ真実に到達しているのを見られるから。言葉だけは、誰の上にも平等なんだろう。言葉が外からやってくるとすれば、私や君のような人間に才能や、知性は存在しないということになる。どうもがっかりするね」
 高天原がふっと笑ったような気がした。
 「ただ、必ず添えてある偉い先生の講評は御免だ。解釈すると神秘を無くして陳腐になる。解釈しないと誰も理解できない。つまるところ知性は、人と人との伝達を主な目的として進化したんだろう。もどかしいところだ」
 高天原の話は結論から始まり、その結論を言葉で崩してゆく。
 ぼくは誘惑されまいとそんなふうに分析をするが、いつもむなしい。プロ競技者の修練や技術を観客席で理解したところで、その人物に互したり打ち負かしたりすることに対しては、何ひとつ関係が無いのと同じだ。
 高天原が腕時計に目を落とす。そして、もう幾度目だろう、遠くの暗がりに視線をやる。
 何を待っているのだろう。なぜここへついて来なければならなかったのか、ぼくは全く知らされていない。
 「……まだ時間があるようだ。少し私自身のことを話そうか。君も、少しは君の人生を狂わせた人間のこと知っておいたほうがいいかもしれない」
 高天原は冗談のように言った。
 だが、ぼくが人生に正しいと言うことができた瞬間など、ありはしなかった。けれど高天原といるとき、ぼくは人生が正しいと感じることができる。
 ぼくのそんな思いには気づかないふうで、高天原は淡々とした調子で話し始めた。
 「十年前、私は雇われのシナリオ書きだった。ちょうどいまの君のような感じかもしれないな。自分が”選ばれている”という自負は常にあった。なんといっても、私の知性は二人分だったからね。けれど、それが妄想なのか真実なのかを見分けるための現実的な要素は、まだどこにもなかった。ただひたすらに鬱屈していた。わずかの仕事が自分の小さな居場所を生み、生み出されたその小さな居場所が、時間の経過とともにその形のまま安定してゆくことに、鬱屈していたんだろうと思う」
 ぼくは、うろたえた。全身に熱い汗が吹き、冷えた。なぜ自分がうろたえているのか、わからなかった。高天原と二人きりで、彼の個人的な話を聞くことにうろたえたのだろうか。
 いや、違う。高天原の口にした鬱屈が、ぼくが受け止めることを拒絶してきた鬱屈と同じだったからだ。
 「当時、その鬱屈をはらすために最も熱中した遊びは、同業の知人を彼らの両親や養育者と和解させることだった。……こういう業界に飛び込むことを肯定的に考えてくれる親はまあ、ひいき目にみて多くはないだろう。断絶なのか、離反なのか、とにかく自分の生育に関わった人間との葛藤を抱えている例は、少なくはなかった」
 顔に血が上ってゆくのがわかる。
 高天原はきっとぼくに当てつけようとしているのではない。ぼくの人生が別の場所で、別の誰かによって、ほとんどその趣向を変えずに繰り返されていたとしても、それは全く不思議ではない。ぼくは自分の苦悩の凡庸さを理解しているつもりだ。
 けれど、ぼくの顔は真っ赤に染まった。恥ずかしさだったのか、自尊心ゆえだったのか、ともかく周囲の暗さから、高天原には気づかれていないのが救いだった。
 「何が最初のきっかけだったのかは忘れた。少し抽象的な言い方かもしれないが、私は彼らが発している臭みをかぎ取ることができた。いろいろな家族の形があった。私がそこへ出向いたこともあったし、言葉だけで用が足りる場合もあった。一番簡単だったのは両親か養育者がすでに他界している、もしくは最初からいないか、いないも同然の知人を”癒す”ときだったよ」
 高天原は曲げた人差し指を唇に当てて低く笑い声を立てながら、”癒す”という言葉をことさらに粘るように発音した。
 「私が理解したのは、心の中にしか無い情報は、簡単に上書きすることができるということ、そして人間の記憶はそういう情報だけで組み立てられているということだった。彼らの抱えている憎悪には、例え表面上そう見えたとしても、間違いなく裏返しの部分に、これまでの関係において起こったことをねじまげてまでの理想化を狂うように求める、わななく愛情があった。私がやったのは、斜面の手前にあるボールに軽く触れることだけだった。彼らは数年来、十数年来の憎悪を翻心してむせるような、ほとんど赤面するような愛情のプールへと次々に飛び込んでいった。乾ききった心に生じた無数の亀裂をとろけるような愛の蜜が湿してふさいでゆくさまを、癒しのドラマを、誰もが心から演じていた。その三文芝居のような崇高でなさに、私の鬱屈は深まるばかりだったよ」
 高天原は肩をすくめてみせる。
 「発信に向かおうと受信であろうと、この業界に関わりを持つ者は一分の例外もなく、養育者との情動面での関係性を欠落した者であろうと私は考えていた。軽蔑や思い上がりからの決めつけと思うかもしれない。だが、私ほどの深刻さをもって自身の生業がその果てに何を生みだしてゆくのかを知ろうとした人間がいないことだけは断言できる。私は、自分自身の仕事を肯定したかったのかもしれない。しかし結果は話した通り、私の推論を裏付けるものばかりだった。この業界を取り巻くものは作り出すことであろうと消費することであろうと、全く個人的な愛情と理解の代償行為に過ぎないということを私は確認することができた……あのときの自分の心理について、いまになってときどき考えることがある」
 高天原はそこで黙った。
 静寂の中、遠くから聞こえるのは、波音かもしれない。だとすれば、海が近いのだろうか。ぼくは高天原の車にただ乗せられてきただけで、ここがどこなのかもわからない。高天原がぼくをどこに運ぶのか、ぼくにはずっとわからないでいる。
 少し考えるような間をおいて、高天原は続けた。
 「つまり私は、もっと深くから汲むべきだと思っていたんだろう。個という名前の世界の果てを越えた瞬間に接続するあの場所から汲み上げたものだけが、発信するに足るものだとずっと考えていた。それが傲慢であることは、いまは多少わかる。歳を重ねるにつれて、そこへ接続できる機会も少なくなってしまったからね。だが当時は、自分の魂の表層にだけある傷口をかきむしり、そこから飛び散ったかさぶたの滓をかき集めて、体液をそのつなぎにして差し出すようなやり口に、嫌悪感を抱いていた。それは、もしかすると自己嫌悪に近いものだったのかも知れないにせよ――」
 波音は聞こえなくなった。街灯にむらがる虫の羽音が奇妙に意識されはじめたからかもしれない。人間の意識は複数の事象を同時にとらえることはできない。現実の一部へ意識的にフックをかけることでしか、濁流のようなこの場所で自分へ意識をつなぎとめることはできない。人間は、元より世界を本当の形では理解できないように作られている。
 しかし、高天原ならば。高天原なら、もしかすると――
 「さて、面白いのはこの先なんだ。私の介入する和解の儀式を終えると、彼らはほとんど例外なく書けなくなった。それは感動と滑稽が等分に入り混じった、人生の本質のような不思議な有りさまだった。自分が全く普遍性の薄い個人的な絶望からしか汲んでこなかったことを知り、両親や養育者との対決姿勢にだけ人生の基準があった彼らが、書けなくなった自分を至極あっさりと赦して、そしてこの業界から去っていくんだ。原因となった私に涙を流して、礼まで述べて! 個人的な絶望や癒しなどで、世界をわずらわせてはならない。ましてやそれで口を糊しようなど、全くの本末転倒じゃないか」
 高天原は街灯がアスファルトの上に作り出す光の輪の中に、まるでそこがスポットライトの中心ででもあるかのように踏み出した。
 暗闇に沈んでいた彼の姿があらわになる。
 サングラスをはめていない両目が、ぼくをのぞきこむ。色素の薄い瞳。
 高天原がぼくを見るとき、彼の目がいつもぼくを吸い寄せる。喜怒哀楽ではない万もの表情を、高天原は目だけで作り出す。このときも高天原は喜怒哀楽のどれでもない表情を浮かべて、ぼくをまっすぐに見た。
 「君がそういう種類の人間じゃないことを信じているよ」
 高天原に出会ってから初めて――疑念と表現すると明確にすぎるだろう、得体の知れないおののきのようなものがぼくの全身を突き上げた。
 それはつまり、言葉にすればこういうことだったのだろう。『高天原は、いったいぼくに何を求めているのか?』
 ぼくの恐れに気づかぬ様子で、高天原は言う。
 「覚えておいてくれ。私たちが相手にするおたくは、心の奥底から廃屋の雨漏りのように染み出してくる何か異常な想念に人生の最初の段階をとらわれていて、それが個性や才能であるかのように錯覚している連中だ。踏みにじられた尊厳の補償を求めるあまり、真っ先に放棄するべき人間性への侮辱の周囲をぐるぐると回り続けている。おたくは本質的に自殺と他殺を内側に抱えている。その衝動を自分と他人にとって物理的危害では無いものに昇華させる過程こそが、個性や才能と呼ばれるものだ。おたくとは自身の抱える内的衝動を、意識的には昇華できない人々のことだ。おたくたちは養育者に打たれた鞭の分、自分を打つか他人を打つかする。この打つ打たれるという二つの行為は正反対どころではなく、むしろ同じものだ。つまり母親にペニスを突っ込みたいと思うからそれを書き、父親にペニスを突っ込まれたいと思うからそれを書く倒錯が、おたくの正体だと言える。私がおたくを軽蔑するのはその倫理的な低劣さは全く関係がなくて、彼らが何ひとつとして自分の持ち物を昇華する過程を踏んでいないことに起因している」
 パチッという音とともに、焼けこげた羽虫がゆっくり墜落してゆくのが見える。街灯の光が明るいからといって、不用意に近づきすぎたのだ。
 「自分より弱い人間を刃物で刺す行為と、猥褻を書く行為は酷似しているように思う。ペニスを挿入するのとナイフを突き刺す行為の間に、実のところ違いはないんだ。最終的にどちらを選択するかは、現実への期待値がどこまで高いかが分水嶺になるのだろう。時代、という範疇を口にするとあまりに大がかりで、むしろ真摯な回答から逃げているような気さえするが、内在する病裡と病裡の現象化がひねった輪のように回転しているのが私には見える。私たちの足下を同じ濁った水が浸している。ある者は自らの才能で私たちを捨ててここから飛び去り、ある者は父親か母親の性器を詳細に記述し、ある者は少女か両親を殺す。水の浸っていない小高いところにいる者たちはほんの少数だし、その小高い場所でさえ、もうじき水は浸してゆくだろう。世界理解という至上目的は、知性による手段の増加によって際限なく複雑化してゆき、堆積してゆく知性そのものによって私たちの手の届かぬ地中へとうずめられてしまった。もはや人は本来の目的を喪失した無用物の知性では繋がることはかなわず、ただ病裡によってのみ一様化している。喉元へ水位が高まってゆくのを誰も避けようがなく、そしてそれを押しとどめる力もこの手にはない。ただ私が言えるのは――」
 高天原の薄い唇の間から、真っ白な呼気が押し出されている。
 ぼくは急に周囲の気温が下がったような気がして、コートの襟を寄せる。
 ひどく寒い。
 短く息を吸い込むと、高天原は小さくつぶやいた。
 「癒されたり赦されたりするくらいなら、死んだほうがマシだ」
 ぼくが聞いたと思った言葉は、遠くの暗がりから染み出すように現れたトラックの走行音にかき消された。車は高天原とぼくの横を通り過ぎてから減速し、街灯を避けるように数十メートル先の暗がりに停車した。後ろの荷台から何か大きなものが投げおろされ、続いて乾いた金属音がした。
 高天原が駆け出すと同時に、トラックは再び速度を上げて走り去った。
 ぼくが追いつくと、高天原は暗闇を見つめて立ちつくしていた。
 ポケットから懐中電灯を取り出して、ぼくは高天原の見つめる暗闇を照らした。
 はたしてそこには、木箱と先端の曲がった金属の棒のようなものが転がされていた。
 高天原は金属の棒を拾い上げ、木箱の蓋に打たれた釘を黙々と取り去ってゆく。
 雄弁の後には恐ろしく長く思える沈黙が降りた。
 やがて高天原は棒を放り投げると、顎を持ち上げてぼくに促す。ぼくはほとんど脅えながら、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。
 中には大量のおがくずが詰められおり、その隙間から粘土のような質感をした物体がいくつものぞいていた。
 ぼくは途方に暮れて、振り返る。変わらず、高天原はそこに立っている。
 しかし、表情こそ崩さないが、その目は内心の押さえ切れぬ激情に輝いていた。
 高天原はおがくずに手を埋めると塊のひとつを取りだして、言った。
 「見ろ。これが人類の絶望の産物の一つであり、そしていまの我々の希望の依り代だ」

心機一転、がんばるよ!

「萌えということはそれ自体のオートマティズムがあるんだ。つまり、萌えとはじめに言い切っちゃうと、人間の体の動きというのは機械に変わっていくんだ。僕はそれをいつも感じるのは、たとえば、引き合いに出して悪いけれども、このあいだ某エロゲーをプレイしたんだ。作品の名前は言わないでおこう。僕は、初めの部分は感心したんですよね。ところが、ある部分からシナリオが離陸しちゃうんです、飛行場から。飛行場から離陸しちゃうと、あと機械の動きなんですよ。飛行場で油を入れて機械が動き出すでしょう、そこまではすごいんですよ。ところが、プロペラでも、ジェット機でもいいが、動き出したら、あと機械ですからね、ピューッとどこまでも高く上がるんです。だけどそれはシナリオじゃないんですよ。武器を持った小柄な少女がある日突然我が家に居候を始める。その少女が次第に主人公へ惚れる、ここまではいいんだ。しかし、登場した過去の恋人との間に、一度もセックスは無かったなんてことになっている。これはもうオートマティズム以外のなにものでもない」
「僕もオートマティックということはやっぱり、短い萌えで終わっちゃうと思うんだな」
「短い萌えで終わっちゃう。あれがこわいんだな」
「あれをやると、せっかく最初もっていった迷路が、空中上の一点から一点へ行く間の我慢ということになっちゃう」
「そうなんだ。セックスさせておくべきなんだ」
「それは例は別としてもね」
「そうするとどんなことを書いても、どんなショッキングなことを書いても、もうだめなんですね」
「それはだめだ。それはだから、ショッキングじゃないわけだ。オートマティックだったらショッキングじゃないですよね。あなたはそういう状況に異を唱えようとしてきたんだし、それを支持する層だって少なくなかったはずだと思うけど」
「でもね、つまり、否定するということに対する喝采というのは、僕は全部嫌いになったんだよ。つまり、ある人間がインターネット上で発言する、それはブログや掲示板が一番うまく証明しているが、巨大掲示板の2ちゃんねるかな、あそこで、板がいくつかあって、その中に書き込んで、政府攻撃とか、いろんな攻撃をやっているわけだ。それをみんな、のんびり見ているわけだよ。あらゆるラジカルな書き込みをするが、しかしそれはすぐみんな忘れちゃう。書き込んだものも、書き込んだことで安心している。そういうものを見ていると僕は、ことばというものが消費されていくものすごさみたいなものを、このごろ痛切に感じるな。自分のホームページもやっぱり、あれがビニール袋みたいに捨てられていくんだという感じがとってもするな」

私はここで、誰と話をしてきたんだろう

「僕はいつも思うのは、自分がほんとに恥ずかしいことだと思うのは、自分はおたくの文化を否定してきた。否定することでホームページを更新して、アクセス数をもらってnWoしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな」
「いや、それだけは言っちゃいけないよ。あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう」
「でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうこと言わなかった」
「それはやっぱり、強気でいってもらわないと……」
「そうかな。おれはいままでそういうこと言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ」
「いやだろうけど、それは我慢していかないと……」
「それじゃ、我慢しないでだよ、たとえば、おたく文化を肯定して、二次元の少女に射精することは非常に素晴らしいことだ、これなら誰に対しても恥ずかしくない、と言えるかな」
「言えないでしょう、それは」
「言えないでしょう。そうすると、われわれだって射精も否定もどっちもいけないじゃないの。どうするのよ……」
「だから最後まで強気をもつということよ」
「強気をもつということは、もうホームページを更新することじゃないだろう、そうすれば。テキストサイトじゃそれは解決できる問題じゃない」
「だって、テキストサイトだって、あの長いもの更新するのに、強気でなければ更新できないよ」
「しかし僕は、それはテキストサイトで解決できない問題だと気づいたんだ。まあ頭は遅いけど」
「もちろんテキストサイトでは解決できないよね。それは、いまの問題とちょっとちがうんじゃないかな」
「でもね、僕、耐えられないのは、たとえば僕が一回の更新をする。それにアクセスしてくれる人がいる。カウンターが一回まわる。そうするとカウンター一回分はどういうアクセスなのかと思うんだよね。それはある一つのおたく社会の中に、引きこもりでもなんでも生きている、そして類型的な萌え礼賛に不満ももっている。しかし少女、子どももかわいい、そしてなんかこれで、そのうちにネットゲームでもしていたらなんかいいことがあるかと思っている。そういう男が僕のホームページにアクセスするわけね。そこでカウンターを一回まわすんだ。かなりの時間の浪費だ。彼のどの部分がカウンターをまわすかと思うんだ。そうすると、僕は、彼の一番鋭い良心の部分が僕の更新を読んでいるなんていう己惚れは全然ないよ。絶対ないよ。彼はやっぱり、なんかこのおたく社会や時代に対する不満の中から、まあ逃げ道というか、自虐というか、なんか追う気持ちがあって、ふらっとアマゾンでエロ漫画でも注文するように更新を読むだろう。そして彼は、三十分か四十分か、彼がアクセスしたものを喜ぶだろう。それは僕らだってサービスするんだから、サービスするだけのものは読むわね。その中からカウンターの一回転をもらうんだ。そうすると僕はいったい何のために更新しているんだ。この人たちからカウンター一回転もらうということは、やっぱりこの人たちをつまり生かしておくためだろう。そしてその人たちはそれがなかったら生きていかれないかというと、なくても生きられることは確かだろう。その瞬間に、おれはやっぱりいやになっちゃうんだな、ほんとうに。なにをやっているんだ、おれは、ということね」

誰もここにはいないかのよう……

物語の方法論は大分して、2つしかない。「普遍的な題材を普遍的に描く」か「個人的な題材を普遍的に描く」かのどちらかである。キルビル2について。日本版のみの副題、”the love story”。どんな作品でも恋愛ものとして宣伝すれば客は入るという配給会社の作品への冒涜的なやり口に、賢明な諸氏はもうずっと辟易し続けてきていると思うが、ことこの作品に関しては全く違和感 がない。KILL IS LOVE。KILL BILLは、LOVE BILLなのだ。愛は個別的であるがゆえに、つまりどの愛もどの愛と似ていないがゆえに、殺してまでそうしなければならぬ、最も極端にある「異常な愛」を描くことで、逆説的に「普遍的な愛」を描くことにこの作品は成功している。汗をかき、泥にまみれて、愛する者を殺し、トイレの床に転がり鼻水を流しながら”thank you”という主人公に、私は映画と人間性の正道を見る。あの”thank you”が心に少しもひっかかりを与えなかったなら、自分の感性が「汗くさくないこと」が主眼の”スタイリッシュ”な作品群に踏み荒らされておかしくなってきていることを真剣に疑った方がいい。早々に軌道修正しないと二度と戻ってこれなくなる。キルビル2は、個人的な題材(B級なるものへの愛)を普遍性にまで高めた傑作である。
 キャシャーンについて。戦争と平和という普遍的なテーマを置こうとして、それが全く個人的動機に過ぎないことを全編に渡って露呈している。つまりこの映画のテーマとは、PV出身の監督が初めて映画を撮るに当たっての”作られた”テーマ性であり、初めての映画に気負うあまり、現代の世界が置かれている状況を取りいれよう安直に考え(それがカッコイイ態度だ、と思ったのかもしれない)、自身の素質を省みない全く皮相的に止まるテーマの繰り込みを行った結果である。人造人間誕生の設定が原作の「自身から進んで」から「父親に無理矢理」へ変更されてしまっているところから、この推測がある程度の的を射ていることが理解されよう。この変更点は同時に「キャシャーンがやらねば誰がやる」というあの決め台詞に込められた熱と意味性を完全に削ぎ落としてしまっており(街角にある”世界人類が平和でありますように”といった世迷い言ではなく、争いが本質的に不可避であることを自覚し、そこへの自分の態度を明確にしており、素晴らしい台詞だ)、「原作をよくわかっている」など という賞賛は全く当てはまるどころではないことが、表層的な装飾群に惑わされない少しでも真摯さを持つ視聴者なら、瞬時に理解できるだろう。おそらく無自覚的にではあろうが、監督は個人的な動機で原作をさえ、弄んだのである。作品の持つテーマとは、自身が世界と対面するときに何に固執しているかという点であり、ここが重要なのだが、”恣意的に選択できるものではない”。「戦争と平和」という巨大なテーマ(人類の持つ究極の命題の1つだ!)を扱うに、この監督の初期衝動は「初めての映画で頑張らなくっちゃ! イラク戦争で世界は大変だし、よぅし、戦争を批判しちゃえ!」程度の可愛らしくも絶望的に浅薄なものであり、あまりに脳天気すぎる。「飢えた子どもの前で文学は1枚のパンよりも有効なのか」という古い問いかけを持ち出すまでもなく、この映画は戦火に焼かれる子どもの前で明らかに有効ではない。そして、この映画は(真摯な)原作ファンの前でも明らかに有効ではない。それゆえに、この映画は完全に失敗している。更に言うなら、普段ほとんど邦画を見ない人間がこの映画の大量テレビCMとテーマソングにひかれて入館し、今後二度と邦画は見ないことを決心しながら出ていくというのは、充分にありそうな話だ。日本映画凋落の戦犯の1人とならないことを切に願う。キャシャーンは、普遍的題材を個人的欲望の充実に落とした駄作である。この世に物語が成立する条件は、つまるところ2種類しかない。「真実のように見える嘘」を描くか、「嘘のように見える真実」を描くか。キルビル2は後者であり、キャシャーンはどちらでもない、「真実のように見せたいまがい物」である。つまり、キャシャーンは物語の段階にすら達していない”フィルムに熱転写された何か”に過ぎない。

以前、ホームページの掲示板で書いた文章である。Googleのキャッシュから発見した。何故か今日再録しなければならないという気持ちになった。諸君が高天原の続きを求めているのは重々承知だが、今週は手を入れる時間が持てなかった。もうしばらく待たれたい。来週中には更新するつもりだが、これは更なる感想や萌え画像の到着を否定するものではない。ときに諸君は異性に自分の特殊性向を面罵されるのは好きだろうか。私は好きである。頭の中にある言葉のままに私を罵倒してくれる女性がいないものかと思う。一言で切り捨てるのではなく、それこそ延々と、わずかの反論も不可能なほどの執拗さと精密さで罵られたい。

甲虫の牢獄(5)

 日々はここに来る前にぼくが想像していたような劇的さではなく、淡々と過ぎていった。生活のスケジュールは高天原によって管理されており、徹夜で作業をしたことなどはほとんど無かった。
 朝は六時に起床して、鶏の駆け回る前庭でラジオ体操を行う。ラジオ体操が終わる頃には、元山宵子が小太りの男の運転するワゴン車に乗せられて、自宅で作ってきたのだろうか、大量のおにぎりとみそ汁の大鍋を朝食として運んでくる。ぼくは全神経を集中して元山宵子のにぎったおにぎりを味わい、彼女の風味を探し出そうとするが、いつも失敗する。朝食が終わるか終わらないかのうちに、元山宵子はまたワゴン車で下界へと送られてゆく。
 七時半過ぎごろから仕事が始まり、正午まで続く。
 昼食には朝のおにぎりの残りに加え、塩漬けや煮付けが用意されることが多かった。この塩漬けや煮付けは大量に作られた大皿から何日もかけて全員で消化してゆくのだが、最初に感じた抵抗感は一週間ほどで消えた。
 午後には昼寝の時間が一時間あり、みな思い思いの場所で横になって、高天原のセットした目覚ましが大音量で鳴り響くまで眠る。
 夕方に、元山宵子が再び姿を見せる。制服の上にエプロンをつけて、小太りの男を助手に夕飯の支度をする。だいたい七時頃から夕飯が始まり、食事を終えた者から高天原が薪で焚いた風呂へ順番に入る。
 風呂の後には簡単なミーティングがあり、仕事の進行状況と問題点を高天原にそれぞれが報告する。全員の報告が終わる頃には片づけを済ませた元山宵子が土間から座敷に顔を見せ、「お疲れさまでした」というお決まりの言葉を残して帰宅する。
 ミーティング後は基本的に何をしていても構わないが、仕事を継続する者もいた。足を制限された山奥の一軒家に、受信される放送局の少ないテレビ一台では、他にすることは無かったからとも言える。直接チャンネルを回す古いタイプのテレビで、ここに来た当日にはゲーム機を接続するジャックが無いと悲鳴が上がったものだった。
 十時を過ぎた頃には誰からともなく立ち上がって布団を引き始め、高天原が布団に入っている皆を見まわし、「それではまた明日」と言って電灯のひもを引く。十一時を迎えないうちに部屋の灯りは消える。
 おおむね、毎日はこんなふうに過ぎていった。ぼくたちの集まっている目的を考えなければ、ほとんど健全と言ってよかっただろう。
 ぼくに与えられた仕事は、一人の少年が一人の少女と恋に落ちる場面をシナリオとして書くことだった。
 「君自身がその少年だと思って、その少年に自分自身のこれまでの人生を投影するつもりで、正直に書くんだ。もしまずいところがあれば、あとで私が修正しよう。上手にやるのではなくて、正直に書くんだ。少女の容姿や設定は君のシナリオが完成してから、すべて逆算でデザインする。私が求めているのは君が自分自身に正直であること、そして君の理想の少女を理想そのままに美しく書くこと、それだけだ」
 高天原は最初にそう言ったきり、ぼくを完全に放っておいた。
 ここにやってきた最初の数週間、ぼくは一切何もしていなかったといっていい。ミーティングのときも、高天原はぼくにだけは仕事の進行状況を聞かなかった。モニターの上に日々完成していく精緻な絵を横目にして、ぼくは真っ白なノートの前にただ呆然と座っていた。周囲にはさぞかし馬鹿のように映っていたに違いない。
 八月に入ると、元山宵子は朝やってきてから、夜まで帰らないことが多くなった。
 しかし食事を作る以外は何をするわけでもなく、ときどき本を読んでいることもあったようだが、縁側で前庭を眺めながら足をぶらぶらさせていることがほとんどだった。細いうなじに陽光が照り返して白く輝いているのを見るのが、ぼくは好きだった。
 一度だけ、どんな仕事をしてるんですか、と元山宵子がノートをのぞきこんできたことがあった。そのときのぼくは大慌てでノートを閉じると、何も言えずただぎこちない微笑みを返すことしかできなかった。元山宵子は一瞬、目の奥にふしぎなかぎろいを見せたが、一言謝ると元のように縁側に腰を下ろした。
 集まった人間たちは、あまり私的なことは話さなかった。高天原がそれとなく、これまでのことについて話すのを禁じていたせいもある。暑いとか寒いとかうまいとかまずいとか、その場限りに終わる感情以外の話題は、必然的に仕事に関することばかりになった。プログラムやそれに類する専門的な話は全く理解できなかったので、ぼくはいつもなんとなく蚊帳の外に置かれているような気になったものだった。高天原を除くならば、ぼくが思い出せる言葉でのやりとりというのはとても少ない。だから、その場面はとてもよく覚えている。
 それは、元山宵子のいる午後だった。
 プログラム担当の男が突然、奇声を上げながら後ろに向けてひっくり返った。
 仕事に煮詰まってのことだったのかもしれない。男は大の字に寝ころんだまま、誰へともなく言った。
 「俺、文明の進化って言うのは、容量を減らしてゆくようなものだと思ってるんだ」
 仕事上のトラブルにひっかけていたのだろうか、唐突な内容だった。縁側に座って足をぶらぶさせながら、庭を眺めていた元山宵子が振り返る。
 「逆じゃないんですか。世の中の複雑さはどんどん増えてゆくように思えますけど」
 「ところが俺によるとそうじゃないんだな」男は仰向けからぐるりと身をかえすと、元山宵子に向き直った。
 「俺が言っているのは、人間のことさ。こうやって話している言葉だって、省略できるものはどんどん省略して容量を減らしてるだろう。人間の言葉なんてのは、本当はたいそうなものじゃなくて、圧縮と解凍の連続でできているマシン語のバリエーションみたいなものに過ぎない。ただ、最も正確にしゃべったとして周囲に正しく命令が伝わるとは限らない、ヘボ言語だがね」
 元山宵子は黙って聞いていたが、ただ眉を少し寄せるだけの表情でいったい何を言っているのかわからないと伝えていた。彼女の感情はときどきほとんど言葉にされないにも関わらず、驚くほど周囲に伝わることがあった。元山宵子はきっと、それを意識して使い分けていたと思う。
 男はいらいらとした調子で続ける。
 「圧縮するためには、余分な情報は真っ先に削る必要があるだろう。俺が言うのは、そういう意味さ。科学技術の発展によって、車とか飛行機とか、まず世界の広がりが圧縮されたんだ。いまは人間そのものが圧縮されてきてる最中なんだよ。例えばエロゲーの世界なら、俺なんてまず真っ先に削られてしまうだろう。俺が主人公だったことは一度も無いし、ゲーム内のカメラが向けられる瞬間も無いだろうからな。スポーツゲームの観客席のようにのっぺりとした、背景を持たない一枚の書き割りなのさ。他人なんてすべて自分にとっては書き割りみたいなもんだし、このやり方が全く正しいことを認めざるを得ないね」
 自嘲気味に男は乾いた笑いをあげた。
 「俺たちをいつも白けさせて正気に戻らせちまう現実の雑音は、エロゲーでは全部無いのと同じように圧縮されて、ただ感動や欲情や俺たちが必要としているものだけが残る。俺がこの仕事に止まり続けているのも、たぶんそれが理由なんだ。エロゲーは俺たちが過ごしやすいように、現実の旨みだけを取りだして誇張して、必要の無い部分はすべて圧縮してくれる。エロゲーで体験できる生の密度に比べれば、現実なんてオンラインゲームみたくクソ薄っぺらだよ。ひとつの解答を見つけるのに数メガバイトくらいのシナリオじゃなくて、何年もヒントすら無いままにさまよわなくちゃいけないなんて、神様っていうのはきっと相当のヘボクリエイターなんだと思うよ。俺はエロゲーを作ることで、この世界が実はクソゲーだということに気づいてしまっている連中に、やつらが体験したいと思っている正しいプロポーションに成形された世界を見せてやってるんだ。神様のしわ寄せ分を俺たちがせっせとアイロンがけしてるってわけさ。それとも裁断かな。だとすれば、科学技術が次に求めるべきなのは時間を圧縮する手段だよ。SFみたいに旅行する必要は無いんだ、ただ圧縮できさえすればいい。クライマックスからクライマックスへ、現実においてエロゲーのイベントのように意味のある濃度を持った瞬間だけを体験して、残りをすべてスキップできる装置さ」
 そこまで聞いて、元山宵子がわずかに息を吐いた。
 「そんなふうに圧縮や省略を繰り返せば、残るのは生まれることと死ぬことだけなんじゃないですか。私は少なくともゲームのプレイヤーとしては現実を生きていません。無数の取捨選択の中で私だけの意志を提示するために、この世はこんなにも膨大に作られているんだと思います」
 男は口元に嘲りを浮かべ、ひらひらと宙空に手を泳がせながら言った。
 「楽な小遣いかせぎをしている高校生ぐらいには、わからんよ」
 その言葉に、元山宵子が跳ねるように立ち上がった。夏の陽光が大きく影を作ったせいだろうか、小柄な彼女が室内からは一瞬倍ほどにも大きく見えた。
 逆光に輝く両目だけが強調され、燃える火のような瞋恚が瞳の底に渦巻いているのがわかる。
 思わず、といった感じで男が起きあがり、居住まいを正す。ばつの悪そうに頭を掻きながら、「悪かったよ、煮詰まってたんだ」とつぶやいた。
 「死に直面すれば、生を再生できるかもしれない」
 ふすまを隔てた隣の部屋に、籐椅子の上でじっと眠っているようだった高天原が口を開く。
 「省略の果てに人生のすべてを体験すれば、そしてそのとき君がまだ生きていれば、もう一度同じ人生を体験しなおすしかない。その人生はきっと以前と同じだろうが、それを体験する君自身は元の君とは違っているだろう。生の反対は死じゃないんだ。生の反対は、再生なんだよ」
 この言葉を高天原の言う本当の意味で理解したのは、ずいぶんと後になってからのことだった。
 振り返ると、元山宵子はいつも通りの小柄な制服の少女だった。
 彼女は縁側に日干ししてあったエプロンを身につけると、夕飯の準備をするために土間へと降りていった。

甲虫の牢獄(4)

 「障害者――特に、知的障害者を身内に持った人間は」
 高天原が話し始めたとたん、その場所に漂う気配が、わずかに変化するのを感じた。ぼくは、屋根裏の物置へと続く収納式の階段に置かれたノートから顔を上げる。
 天井の低い和室。
 開け放たれた縁側。
 前庭をかけまわる鶏。
 風景をゆらがせる夏の日差し。
 卓袱台の上のノートパソコンで仕事をする者、昔ながらの低い鏡台の上で窮屈そうにペンを走らせる者、湿った畳に紙を広げて神経そうに何事か書き込んでいく者、そして、何をするでもなくただ縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせている者――そこには年齢も、外見も、ぼくたちを知らず分けるあの固有の雰囲気さえも同じくしない人々がいた。
 高天原が話し始めたとたん、ぼくを除けば誰ひとり作業をやめず、誰ひとり顔を上げるものさえいなかったにもかかわらず、皆が高天原の話を聞いていることがわかった。それはときに他愛の無い世間話だったり、いま行われている仕事の進行状況の確認だったりしたが、その内容の如何に関わらず、皆が高天原の言葉を確かに意味のある、更に言ってよければおそらく、重大なものとしてとらえていた。
 ここに集まった雑多な人間たちにもし共通点があるとすれば、まさに高天原へのそういう感情だったのだろうと思う。
 世間話であれ、仕事の話であれ、高天原の言葉の始まりは、いつも唐突だった。
 ぼくはその唐突さに虚を突かれ、そうするとあとは目眩のするような奔流に流されていくしかなくなってしまう。
 「人生に対して、より正確に言うなら知性に対して、真摯にならざるを得なくなる。つまり、ふたり分を負って知性に正対しているんだ。きっと両親が言ったわけではないんだろうが、妹の欠落は明らかに私の責任だった。妹の持ち物を私の強欲が余分に奪ってしまったことが、彼女の欠落の原因だったのだ。それが幼い私の現実理解だった。世界観と呼んでもかまわないほどに、私を支配していた感覚だった。私にとって、知性はいつだって深刻かつ重大で、私が何かを考えることは、私の罪状が告知されているのと同じ意味を持っていた。同時にそれを無価値な塵芥と断じて、踏みつけにしてしまいたい気持ちもあったが、宗教的な禁忌と同様に、私は理性を越えたところで呪縛されていて、それは思う端から常に他ならぬ私自身によって完全に否認された。私は中身の知れない祠を背中に立つ守り人のようなもので、実体が何であるかを少しも知らされていないにも関わらず、それの聖性を頑なに信じこんでいた。誰が強制するわけでもない、放埒と虚無の中間のような名状しがたいその感覚は、私の人生の最初の段階に濃く取り巻いている。そして私は、思考と心の核をそこに呪縛されて、一歩も動くことができなくなった。杭を見つめるつながれた牛にとって、長い時間の間に杭はきっと実在ではなくなってゆくんだろう。つながれた私は、じっと一つの想念に凝っていった。周囲はあまりに深刻すぎて、あるいは当の問題に対してあまりに回避的すぎた。こういう際、子どもにとってはひどく陽気に、というわけにはいかないらしい」
 高天原は自身の側頭部を指さした。
 そこには頭髪の生えていない、部分的な断裂のようなものがうっすらと長くあった。
 「私の場合は例外なく、自分の脳髄を取りだして、妹に喰わせることを考えた。哀れなほどに子どもだったんだろうね。苦しみはふたり分だったが、心はひとつしかない。知性の欠落した恐ろしい肉が日常の底にいて、いつも無邪気に私へ微笑みかけている。その圧倒的な実在感は当時の私にとって、何か崇高な象徴ですらあったと思う。私はそれを見るとき、いつも思った。牛のような、あるいは虫のような、悲鳴を上げることのできない存在こそが、世界で最も苦しんでいるのだろうと。私が想像したのは、莫大な空間につり下げられた細くて長い紐の結び目だった。心を持たないがゆえに、発狂という安息を取り上げられ、時空間に偶然発生した自我という名前の結び目を、永遠の客観性の中で凝視し続けるという苦しみ。そう、私が妹を観察して得た最大の恐怖は、心を持たないはずの彼女にも、自我は存在するのだという恐怖だった。悲鳴を上げることができなかったのは、私でもあり、妹でもあった。妹に私の脳髄を喰わせることがついにかなわなかったように、私が理解したのは、どんなに絶望的に願ったとしても、心を持たない者に、知性を伝えることはできない、ということだった」
 高天原は人差し指で、滑り落ちてきたサングラスの位置を直した。
 「とても特殊な例外をのぞいては、知性は常に絶海の牢獄のように、切り離されている。例えばインターネットというメディアは、心をそこに置かないままに知性だけを伝播させようとする点で非常に象徴的だ。そこにいる人々は知性を階層的にではなく、並列的に判断しようとしている。リンクをたどるようにだ。階層的とは、人類の歴史の時系列と考えてもらってかまわない。つまり、ネットワーク上に自我を顕在化させたかれらは、心をそこに置かないがゆえに、何かの巨大な連続としては自身の存在を定義できないんだろうと思う。彼らは人類の歴史という流れから完全に切り離された、文字通り単独の個体なんだ。いのちの蓄積からではなく、たったひとりから始め、たったひとりで人類の数千年の知性を一から積み上げようともがいている。長い時間をかけてではなく、一瞬間に手に入れようといつも焦れている。それは苦しみどころではないだろう。彼らは自身の負う苦しみに気づかないがための、魂の芯を麻痺させる麻薬を欲している。我々の仕事は、つまり、それさ」
 高天原は窓の外へ顔を向けた。
 サングラスを外し、目を細める。
 「私は、この世界のすべてが砕け散り、終わりを迎えたとしても、きっと自分があそこへ戻ってゆくことを知っているんだ」
 ほとんど放心しているように、そう言った。
 高天原の話した内容を理解したとは、到底思えない。
 しかし、高天原の話した内容というよりも、彼の声の調子や彼がただそこに座っていることが、ぼくの現実認識を揺さぶった。
 人は知性そのものにではなく、知性を持った心がそこにあることに屈服するのだ。この感覚は理不尽だが、理不尽であるがゆえにあらがうことができない。ぼくはここに来るまで、それを知らなかった。ぼくの世界への関わりが、間接的なものだということに気づいてすらいなかったのだ。
 高天原が縁側の向こうに広がる空を見た。太陽は空の半ばをとうに過ぎている。
 「そろそろ、食事にしようか」
 皆が作業をやめ、身の回りを片づけ始める。元山宵子が無言のまま縁側から立ち上がり、土間へ降りていったかと思うと、大きな飯櫃を抱えて戻ってくる。呆然と座っているうちに、次々と食事の用意が運ばれて来、やがて卓の上は皿で埋め尽くされた。
 汁、焼き魚、お浸し、漬け物。
 卓の真ん中にあるいくつかの大きな鉢には、芋などの煮つけが盛り上げてある。
 筮竹のようにぎっしりと箸の詰まった箸立てから、皆が箸を抜いてゆく。
 横から、湯気の立つ白い飯の茶碗が手渡された。
 見ると、頭頂部のはげ上がった小太りの男が座っている。
 「いきわたったかな。それでは――」
 高天原の言葉に、場のざわめきが消えた。
 みな、これまでの来し方を振り返るかのように、思い思いの方向へ視線を向けている。じっと目を閉じる者もいる。
 すでに日は大きく傾き、外は薄暮の様相を呈していた。
 自身の羽根に首を埋めて眠る鶏。
 草葉の陰にチリチリと鳴る虫の声。
 そして、過ごした今日と同じ長さをした、長い静寂。
 「いただこうか」
 しかし、それは時間にしてみれば、ほんの数秒のことに過ぎなかった。
 場がざわめきを取り戻し、食事が始められる。
 ぼくは、不思議な感覚にとらわれたまま、白い飯の上に立つ湯気を眺めていた。
 横に座った小太りの男が、ちらりとこちらを見た。
 そして、低い声でこうつぶやいた。
 「君はきっと、長い間こういう食事をして来なかったんだな」
 何か他人の言葉の孫引きなんだろう、とぼくは考えた。
 ぼくは長い間こんな食事をしてこなかったんじゃない。これまでに一度もこんな食事をしたことは無かっただけだ。この男は、ぼくのことを何一つ理解しているわけではない。
 けれど、その言葉はひどく胸に落ちた。 それは、暗くなってゆく外の景色に比べて、この部屋の灯りがあまりに煌々と明るいせいかもしれなかった。
 懐かしさを感じるわけはなかった。なぜならぼくの人生のうちに、こんなことは一度だって、無かったのだから。
 ひとりで冷たいテーブルに座る子どもの映像と、冷えた飯の無機質なこわばった舌触りが一瞬脳裏をかすめた。
 男はもはや興味を失ったかのように、ひとり背中を丸めて、器用に焼き魚の身を骨からはがしている。
 ぼくは湯気の立つ茶碗を取り上げて、白い飯を口に運んだ。
 それは、不思議な感覚だった。
 知らず、頬を涙が伝い落ちた。

「あなた」がいるから、私もいる

(歌舞伎のような、しかし黒い隈取の男が腕を組んで、暗闇から浮かび上がってくる)やあ、諸君。とうとうここまでわたくしの話を聞いてしまいましたねえ。わたくしこと小鳥猊下がミクシィの門をくぐったとき「地獄」が待ちうけていたように「あなた」にも! ここまで小鳥猊下の物語をただの作り話として聞いてきた「あなた」にもこれからわざわいがふりかかるのです。「地獄」が待ちうけているのです。なぜならこれから待ちうける「地獄」はわたくし個人のドラマではありません。おたく全部がまきこまれてしまうのです。「あなた」も例外ではない、「あなた」も参加するのです。そして「あなた」は……(隈取男、暗闇にフェードアウトする)

以前に掲示板で行っていた更新のためのカウントを再開する。これまで全く私と連絡を持ったことの無い人物からの感想が無い限り、この先がアップロードされることはない。だが、どうか私を恨まないで欲しい。諸君もご存知のように私は完全に善良な愛すべき人材であり、責任の所在があるとすれば、それはすべてはただ見の観客の上なのだから……!!